背をちゃんと背にして書いている時もあるのを見出して、 せねばならなかった。 更に驚いた。そしてその驚きは直ぐ軽侮へと変った。なる「妙な癖があるものだな」 ほど、 と先生は言った。「ーーが、この癖は直したがいいねー べンが新しいうちは普通にして書き古くなって 先が割れて使えなくなると逆さにして書くのだな、と、私そうだ、ほんとに癖かもしれないのだった。ケチな振舞 じやすい うなず がてん はひとりで頷き、その合点の間に、他人の秘事を突きとめとしたのはケチな私の邪推だったのかもしれない。 まくそえ たとぎの卑しい北叟笑みを混えるのであった。 先生の言葉に対して、彼は終始無言であった。彼も亦そ 「ケチな奴 ! 」 の先生をなめていたのか。それともその先生が彼のケチを 一本いくらでもない安いペンをそんなにまで倹約しなちゃんと見抜いていながらそれを単なる癖ということにし けいべっ て注意を与えたのかもしれない、そのいたわりに対して逆 くたってと、私は軽蔑したが、私の軽蔑はそのみみっちい 倹約振りよりも、かかる哀れな倹約を彼に強いている彼のにふくむところがあっての無言であったか。いずれにしろ しやにむに 貧乏ということに、遮一一無一一食い込むようにして向けられその無言は、その事件と直接何んの関係もないこの私を、 あいあわ ていたのだった。貧乏な私は貧乏な彼に同病相憐れむて いどういうのか、逆上に似た感情へと追い立てて行った。私 しか の同情を、或は親愛の情さえ寄せて然るべきところなのは、彼がもしたとえば蛙か何かだったら、横合いから出て たま 、よら′ぼう に、自分が貧乏である故に、貧乏を堪らなく恥としている行っていきなり踏んづけてやりたいといった兇暴な訳の分 あお が故に、彼の貧乏を軽蔑するという奇怪な心理を生んで いらない怒りを煽られた。これは誇張でも何でもないたしか た。そして彼の貧乏を軽蔑することは彼そのものを軽蔑すな記憶なのだが、野本の不合格に図太く快哉を叫び得なか あさま るというところまで走って行った。かくて更に憎しみに近ったらしい私というものと、これは矛盾する浅間しさであ い感情さえいっしか彼に対して抱いていた証拠には、先生ろうか。しかしその矛盾は私の内部に於いては仲良く存在 りゅういん がその「不思議さ」を発見し指摘したときはまことに溜飲していた。 のさがる想いだった。実は、私は私自身の手によってそれ あば らようしよう 貧乏を恥じた私は、路地の長屋の自分の家のみすぼらし を発き立て嘲笑したかったのに相違ないのだ。私にはル しその勇気が無く、一方貧乏な私の持っているような陋劣さをも恥じた。みすぼらしいわが家は、三の橋の電車の停 な勘の無い先生が「不思議ーをただ「不思議」として扱っ留場から二の橋に向けて行って最初の横町を入ったそのす ているのが不満であったが、勇気の無い私はそれでも満足ぐの左側にあった。横町の角の左側は、古めかしい油屋 やっ あるい かえる むじゅん かいさい
君の親切なることは敢て繰り返すの要なきも、昭和 x 年黒馬なき後で、それがひしひしと感ぜられ、消極的な与え クラノ られ方ではどうもみち足らず、黒馬の与えられ方に甘えた x 月、競馬倶楽部に転じたる後も友情の厚かりしことで、 ( 中略 ) 今年の正月、黒馬 其の一例を挙ぐれば友の死に際し時を移さず、遺族を慰めい気持に襲われてならぬ。 会葬せられたこと等々である。短日時の友誰か期く親むるから年賀状がきた。身体はますます健康になり、精神はま すます不健康になるとそれには書いてあり、彼が馬上豊か 人ありや。 さっさっ ふほう 君の訃報は夢想だもしなかった。通知を手にした余等にに打跨った英姿颯々のプロマイドであった。私も亦精神は こげらや は、かの焦茶服で、古・ほけた薄暗い裁判所の一室に法制史すこぶる不健康、身体も亦連夜の深酒ですっかり不健康で ひもと を繙いていた姿を想ったからである。 ( 筆者日く、少々意あった。私は近いうちに暇を見て、是非、空気清浄の競馬 おもむ むね 場へ清遊に赴きたい旨返信した。そして、それは遂にかな 味不明である。 ) 告別に列することの出来なかったことは返すがえすも遺えられなかった。 憾である。無常の風に誘われ白雲に乗じた君、今は語るに私の所へはいろんな方面から年賀状がくる。宣伝を怠っ てはならない映画・音楽等の水商売の方々のそれは写真入 術もなし。 いた りのがあり、私はついうつかりして黒馬の・フロマイド年賀 嗚呼、有為の士短命なりしを悼む。 を、その方の束に入れておいたところ、一悪友が家へ来た 行政裁判所友人一同」 顔をしかめて腰をおろした。こんなヘンな雰囲気のなか時、退屈紛れに彼はその年賀状を見た。ほほう、これは変 で、弔文を読まねばならなかった自分を憐れむ表情と見らった役者だ、どこの三枚目だい、と彼は黒馬の乗馬姿をつ うらなが くづくと打眺めて、そう言ったのである。私はそれを黒馬 れた。 次に篠原に移ろう。その間、五六人あったが、省略すに伝えようとおもっている内、黒馬は声のとどかない方へ 消え去ってしまった」 得る。 忘「友人というのは、ただ黙って向い合って坐っているだけ松下の言 調でも、自ずと心が温められる。こういう温度に、今日の様「昭和 x 年の春、友人がや 0 て来ての話に、彼が急性盲腸 に暗くうす寒い空の下では、私等は絶えず飢え渇えた状態炎で今帝大病院に入院したとのこと。びつくりして馳せつ 四に追いやられているのである。黒馬はそういう温度を能動けて見ると、もう麻酔されている。手術は順調に行き、そ の後の経過も日増し恢復して行ったが、その時の彼の苦し 的に積極的に私等に与えてくれる、得難い友人であった。 おの あえ あわ ムんいき またが からだ ん ~ いム・、
に与えただけでなく、心の深いところへ響いてくる異様たいとしていた私は、同級生のに向っては、そんなこと 1 な、一種鬼気に似たものを放っていたからに違いないと思は毛筋ほども洩らしはしなかった。あげのあるズ、ポンをは われるのである。 きながら、それでも、ちゃんとした家の子ではあるのだと 私たちは広い邸内の隅々まで歩ぎ廻った。草の生い繁っ いったような顔をの横に並べていると、 た奥には古い池があり、大小の蛙が驚いて池の中に飛び込「病気の名前 ? 」 また誰かが言った。 んだ。飛び石にはびっしりと苔が生えていて、ぬるぬると 気味悪く下駄がすべった。 「サポタージュ病か」 こうしよう 「おお、暗い、暗い」 ずる休みをした生徒はワッハッハと哄笑した。 サポタージュを日本語化した「サ、ポる」というような言 葉は固よりまだ無かった。今でこそそれは小学生も使う日 二学期に入ってどの位してからであったか。ある日、肋常語に成っているが、その頃、サポタージュというのは耳 新しい言葉であった。それは、その年におこった川崎造船 木の横で同級生のひとりが、 所の大争議で、サポタージュが新戦術として用いられ、セ 「どうして休んだんだいー たず ンセイションを捲きおこしたことから一般に流布されるに と前日学校を休んだ生徒に尋ねると、 至ったものだった。 「サ飛タージュだよ」 川崎造船所の争議は参加人員一万五千を数え、サ飛ター し、いくらか不良染みた ( というより不良を 鉄棒のうま、 ジ戦術に依って八時間労働制を獲得した。その大争議は 気取った ) その生徒は白い歯を見せて快さそうに言った。 大正六年頃から頓に増加した労働争議の波のいわばひとっ サポタージューーーー耳慣れない言葉であった。 おくびよう 「なアに、サポなんとかッて」と子爵の令息の同級生がの頂上ともいうべきものだった。後年、左翼連動に、臆病 側から声の響きまでが上品な感じの言葉を挾んだ。 な形ではありながらそれでも私なりの献身を示した、そう たいとう 子爵家は仙台坂の上にあった。その屋敷のなかには いう私としては、この労働運動の擡頭期に関して、ここで ただ 蟇ケ池と呼ばれている大きな池があり、それは幼時の私た簡単ながらその輪郭を書き記して置きたいと考える。但し ちにあの溝での魚取りの楽しみを与えてくれた池のひとっその頃の私が、擡頭する労働運動の波に対して全く無関心 ろうこう だったかもしれないのだが、陋巷すまいをひた隠しに隠しであったという事実は、これも書き足しておかねばならな がま すみずみ かえる とみ
146 。それはその場の思い が政治家に成るということではなかったのかと私は首を傾 から慎んだ点もあったが、更に つきでなく、私を中学校へ通わせるため夜なべ仕事をしてげた。 政治家になるなというの 苦労している母親のことを思うと、いつもそういうことが政治家になると殺される。 頭に浮ぶからだったが、そういう切実な気持からの思いつはそういう意味だった。 きであるだけに、それを口外すると、その言葉の裏の、他「政治家でなくたって殺される」と私は笑った。私は母親 人には知らせたくない自分の貧乏がばれそうなので、ひとの言葉に、子への愛情を汲まず、女心の浅墓さといったも のを見た。一一月前に「銀行王」のが大磯の別荘で暗殺さ つはその予感 ( ! ) から私はロをつぐんでいたのである。 一一十六日に議会は解散された。そして次の議会で普選案れた。私はそれを言ったのだ。 やみほうむ 「殺される位の偉い人になれば、大したものだ」 は闇に葬り去られた。 こうして内閣も、人民の権利を圧迫しつづけてきた従「いえいえ、どんなに偉くなろうと、殺されたりしたら、 来の官僚内閣と何ら変らない反動性を示すに至って、それなんにもなりやしない」 ようや まで「平民宰相ーとして人気を呼んでいた氏も、漸く「大丈夫ですよ。どうせ、そんな偉い人になれやしないか 「平民」の反感を買うように成った。 首相弾劾の声が高く成って行った。その声に浮かされ「忠雄は一体何に成るつもりだね」 「ーー政治家」 た一青年が、翌十年、東京駅で首相を襲った。 「政治家はおよしと言うのに」 前述の如くその氏の弟の家が私の母親の「おとくいさ「大丈夫ですよ」 ま」に当っていたから、その暗殺事件は私の一家に特別の「牢屋に入れられたり、刑事につきまとわれたり : : : お お、いや、いや。そしてさんのように成ると、殺される 衝撃を与えた。 し、 ほんとに政治家だけはおよし」 「ああ恐ろしい」 うんぬん 首相の弟の家へおくやみに行った母親は、帰ると私に言牢屋云々は、郷里で有名な明治の自由党の党員が藩閥政 府から手をかえ品をかえて迫害された事実を母親は見てい たからである。 「忠雄も政治家にだけは成るんじゃありませんよ」 ? 」母親が私にかけていた「出世」の夢は、私「政治家はいけません。お母さんが頼むから政治家に成る だんがい あさはか おおいそ
いかろうこう 思えば、私の住んでいたところの如何に陋巷であったかを大概の屋敷には、池がある。池には必らず金魚や鮒がい 明確に、 残酷なくらい明確に示すものは無い。 る。大雨があると池が溢れて、時には大きな鯉までが、喜 そんな臭い家のなかに、私の母親は日がな一日、坐りつびのすくない陋巷の私たちをまるでそうして喜ばせようと づけて安い賃仕事の裁総をしていた。幼い私と老いたそのするかのように、池から冓へと泳ぎ出てくるのだ。「きん 母 ( 私の祖母 ) を養うために ぎよやア、きんぎよ」と言って通りを流して歩く金魚屋 えんにら いろど かえるがなくから や、夏の縁日をいわば涼しい美しさで彩っていた金魚屋か かーえろ ら、そう容易に金魚を買えない陋巷の子供たちは、その代 メンコ遊びの子供たちは、そんなことを口々に言って、 り溝からただでしやくって取れる楽しみを与えられてい そろ うれ 散りはじめた。貧しくとも父母の揃ったそれそれの家へとナ こ。しかもその嬉しさは、買う嬉しさに遙かにまさるもの 帰って行った。 だった。夜来の雨のからりとあがった夏の朝などは、そう そう した子供等の嬉しさで上ずった声でみたされて、一層の爽 ばけっ 陋巷と、私は書いたが、これからして麻布の竹谷町をも快感を唆るのだった。大人までが四つ手を持ち出し、馬穴 って陋巷の町と解されては、私は私の過去の約三分の一にを鳴らして駈け出した。 しげき わたる時期を見守っていてくれたその町の名誉を傷つける駄菓子屋には、子供のロ欲を刺戟するもののほかに、メ 者と成るであろう。その頃、竹谷町及びその一帯は、一般ンコやとりもちなども売っていたが、その種類として、竹 かやじ いわゆる 的に言えば所謂山の手の屋敷町の部類に属していた。そしの輪に緑の蚊帳地を張って柄をつけたものが店頭に出して あた て屋敷と屋敷との間に、宛かも指の間の疥癬のように、見あった。竹の輪だけのものもあり、この方が安かった。こ 苦しい陋巷が発生していたのである。そうした事情は、それで溝のぼうふらを取って、同じ溝からしやくいあげた大 うした陋巷に住んでいた幼い者に、下町の、どこまでも余事な金魚を養うのである。その頃の溝には、どこでも、ぼ すところなく陋巻といった町に住んでいる者の恐らく知らうふらが泳いでいて、青い蚊帳地と赤いぼうふらとの色の ない楽しみを与えていた。たとえば、大雨のあとなど、自対比は美しく、、ほうふら取りはそれ自身ひとつの楽しさを めだかふな 分の家の前の溝でもって、金魚や目高や鮒などが、まるで成していた。蚊を防ぐ蚊帳の小切れがその蚊の幼虫をとら 夢のように取れて、 ああ、どんなに楽しかったことえる道具に成っているのも面白い。蚊帳地の張ってない竹 か。ああ、どんなに幼い私は出水を待っていたことか。 の輪だけのものは、糸ぼうふらを取るためのもので、冓の かいせん あふ はる
かんげき もしもしという声の幾分震えを帯びていたのは、家に変事答えられる間隙が与えられた。さあーー・彼は首をかしげ へんさん でもあったのかととっさ、不安に襲われたからであった。 た。和英辞書編纂の仕事は予定より大分と遅れたらしく、 つわり 今朝、出社する時、妻の豊美がひどい悪阻で苦しんでい 部長はみなにビッチをあげてくれと言い、自分は夜おそく た。もしもし、小関ですが。 ああ、小関君、僕だ。 まで居残りをしていた。もう病院へ通わなくなった小関 ーーえ ? 電話になれない小関はその太い声をすぐと判別も、この頃、一時間はきま 0 て居残りをし、それでも部長 し能わなかったが、それとわかると、とてつもない大声をよりさきに帰るのに仲々気がひけた。特に校正の沢山出た 挙げてしまった。ああ、松下君 , 小関は自分の声に今日は、一時間位の居残りでは片付きそうもなかった。さ 自分でび 0 くりして、背後の人々を振り返り、今度はまたあーー彼は顔をしかめると、ひけるのは五時なんだろう、 もと 大層小さい声になった。 これはどうも松下君。ちなみえ ? と耳許の受話器が言った。でも : : : と言ったのが聞 に、その電話は大抵の事務所などに見受けられる卓上式のえないのか、じゃ、五時半ではどう。そして小関の逡巡 ものではなく、扉のわきの柱に取りつけられたものであにかまわずに、さきに行っているからなるべく早く来てく る。慣れぬ証拠には送話口に鼻を押しつけんばかりの小関れ、と相手は言い、じや失敬と電話を切り、そのガチャリ が、えーーとか、うんーーーとか言うたびに柱にお辞儀をしという音を聞いてしまってからも、しばらく小関は受話器 ている。そのうしろに編集の机が並び、その一隅で、第一を耳から離さなかった。すると何もきこえない。その一二 節に出てぎた私立出の臨時雇、小関のどうも虫のすかない分ばかりが、不思議や彼の心に疼くような喜びを与えた、 あの同僚が、色の悪い顔に冷笑的な歪みをみせて、その小 松下の声がビンビン響いた時にはなかった喜びを。ビ こつけい 関の滑稽な有様をにやにやと眺めていた。 ンビンというのは、これは誇張ではなくーーー受話器を小関 べ松下長造の電話は、今夜、君と会いたいという用件であがあまり耳にくつつけ過ぎたせいも半ばあろうが、松下の しようだく まうじゃくじん 得 0 た。そして、会いたいと言 0 ただけで、もう小関の承諾あの若無人の大声は聴き手の鼓膜を痛くさせ、会話を明 りよう 忘を得てしまったかのように、どこで会おうと言った。さあ瞭にさせようとして却って不明瞭にさせたのである。小関 という小関の声と同時に、そうだ神楽坂の「ひさご」は受話器を極めてゆっくりと掛け、そのままの姿勢で電話 故 ひと がいいと、向うは独りできめ、独りでしゃべっていた。坂をみつめた彼の頬に会心の笑みといったものが浮んで をあがって右側の路地をどうこうと、松下は、「ひさご」 た。さも心残りでもあるかのような風情でそこを去ると、 という店の道順を伝え、何時がいい ? と、初めて小関の彼はすぐ机に戻らないで窓際に立った。すると、秋のもは なが じぎ 、わ ほお かえ
いのである。 ある。 「僕も、坂部君、芸術家に成る。きっと、芸術家に成って 読書欲とともに表現欲に私は駆られた。読書欲によみせる」 ってひきおこされた表現欲でもあったろう。「へんな原稿」私は泣きたいような気持で言うのだった。 の中で武者小路実篤が、 「一緒に芸術の道を歩もう。来年の三月で、学校は別々に 「こんなことを書いて何になるか」 なって、離れ離れになるけれど、同じ芸術の道を進もう」 私は生涯にわたる友情という甘美な空想にひたり、空想 「書かないで何になる」 の美しさにうっとりとするのであった。 「書いても始まらない」 点としての私が、点を中心として再び円を描こうとしは 「書かないでも始まらない」 と、書いているのが、私の心に刻まれていた。私は何かじめていたのである。だが私は再びそこで、ーー再び飛躍 しはじめた精神がまたもや罪の陥穽へと転落するのを見な 書かずにいられなくなり、それを坂部や岡下に示さずにい られなくなった。シュ ーマン ( インクのことで私が芸術にくてはならなかった。この私はまたぞろ盗みを働いたので ひか ついて自分から何か言うのを控えようと考えたのは丁度一ある。 年前のことで、今はもうそんな抑制はきかなかった。どんその年、初めてあの「コンサイス英和辞典」がーーあの すぐ どん際限なく書ける自分が一種の天才のごとくにさえ思え小型で便利な、そして内容も従来の辞書よりずっと勝れた さっそう るのであった。「と運命」の中の「天才は我々の生に火のが発行された。颯爽とした何か人気者の出現にも似た新 たらま コを燃やす人間です。我々の生に力を与えるものです。我々辞典の出現に、学生たちは忽ちその心を奪われ、我を争っ のの生に価値を与えるものです。我々に深い自覚を与えるもてそれを買いもとめた。一種の流行のような勢いであっ 底のです。また我々にまのあたり美を見せる人間です・ : : ・」た。 のうんぬん 私も買いたくて堪らなかったが、母親から貰いうる金の 胸云々に、私が力強い傍線をひいているところからすると、 も要ノみ - ら・ 籾たしかに自分が一種の天才のような妄想を抱いた如くであ小額なのに対して買わねばならぬものがあまりに多過ぎ るが、私はまた、酔ったように書くことによって、自分自た。受験勉強用の参考書として必要なものはどうしても買 行身の生に火を燃やし、自分自身の生に力を与え、自分自身わねばならぬとき、既に一年生の時に買って持っている英 の生に価値を与えようとしていたのだとも察せられるので和辞典のほかに、それがいくら旧式で不便な、いわば流行 かんせい
」布京に住んでいる人間の何ハーセントが遊覧バスを使う であろうか。その土地の住民は、町のある部分につい こ港ては、きめ細かに知っている。決まった住居を持たす、 たえす動いている人間がいるとしたら、その知識は、 立は底諸 の京土地の住民とはちがうにちがいないのである。内部か ら見るか、外部からのぞくか、そのちかいは、文学の 技法にも深い関係がある。 二泉岳寺 東京生れ、東京育ちのわたくしも、東京の名所で行 ったことのない場所がたくさんある。かねてから気に な「ていたが、わたくしは、赤穂義士の墓のある応 寺へ行ったことがなかった。この機会に、いわば序曲 キ右 として泉岳寺を訪れるのも悪くないと思った。秋のは , 一 ( 番じめとはいえ、残暑のきびしいある日の午後、わたく しは、はじめて泉岳寺の門前に立った。 各地の寺院や神社を訪れる時、わたくしは、そこに 犀毒見 「簒日 0 物 0 〔っ 備えてある案内一三ロのようなものかあれば、必す買うこ 面とにしている。泉岳寺の入口で、拝観料を払って「泉 しおり 橋岳寺参拝の栞」というのを買った時、ふと、東京離れ した気もちになった。本堂は戦災で焼けた後の再建で
214 ほどう すてぜりふ たのか、それともそのとき鋪道の人波の先に、新しい白線に舌打ちしたのだろうか。ともあれ、その捨科白によって の帽子を、ちらと見出したからか。は振りかえって、女私は私のうちから屈辱的な羨望を追い払うことができた。 くぎ の後姿を見送っていたが、私の眼は前方の一一本の白線に釘 ( なんだい、田舎ッペえ。一高に入ったというだけで天下 づけにされていた。そのくせ、その一高の新入生が間近にでも取ったみたいに威張るない。 ) く・り 迫ると、私はその帽子の細い白い一一本の線が眼の眩む白熱敵意をひたすら燃やしたが、それはこの私がその一高生 の光りをギラギラと放射してでもいるかのように、それかのように、いや、それ以上に威張りたかったのに、それが ら面を背けないではいられなかった。 でぎないということの為の敵意に他ならなかった。 いなか 「田舎ざむらいのお江戸上りか」 「は、お前 ーー酒飲むか」 こんがすり ごわごわの紺飛白の着物に、¯ 道の袴のような荒い縦縞「機関車ーの声に私は、鋪道に落していた眼をあげた。 のそれをつけた、いかにも地方の秀才といった感じの童顔「うん、すこしなら : ・ : ・」 のその一高生に、これまた聞えよがしに「機関車」がそう 明らかに虚勢を張った返事だった。 せんばう やるせ か 言ったが、遣瀬ない羨望と敵意で胸を掻きむしられていた「どこかで飲もう。今日は水曜だな」 私は、もしも「機関車」のその声に機先を制せられていな「うん」 かったら、この私も何かあらぬことを口走っていたかもし「銀座ビア・ホールは黒・ヒール・デーだ。黒ビール飲むか」 れない。 ビア・ホール入りなどが露見したら退校だ。「機関車」 もくれんが ほおげた かつば 木煉瓦の鋪道を歯の高い朴の下駄で濶歩して行く音が、 はビア・ホールなどへ出入しているのだろうか。 おご 実際は刻々に遠ざかって行くのに、私の受ける感覚では少「どこでもいい、奢れ」 しも低くも弱くもならずに、キンキンと私の頭に響く。た「そんなにお金無いんだよ」 まりかねて私は振りかえった。私だけ振りかえって、や「嘘つけ、いくら持ってるんだ」 「機関車 . は振りかえらない。そのことは私に、私が振り 映画を見る位の金しか持ってない私は、一一人のうしろに かえったのは敵意からではなく羨望からであるということこそこそと身をずらせた。そして私は銀座名物の柳が既に いちょう を教えた。 公孫樹の幼木に植え代えられているのに、ああそうかと気 「ちえツ、なんだい」 付かせられた。それほど私は銀座へずっと出ていなかっ 私は一高生に舌打ちしたのだろうか。それとも自分自身た。しかし、銀座の柳が、道路の改修工事に当って取り除 そむ はかま たてじま
高見順文学アルバム 太 庄 山 秋 者高見順が長編「故旧忘れ得べき」で文壇に 撮デビーしたのは昭和十年である。左翼運動 弾圧後のいわゆる「左翼くすれ」の苦悩やデカ 月 ダンを、胸の中のモダモダを吐き出すような じようぜっ 年独得な饒舌体を駆使して描いたこの長編は、 太宰治や外村繁らとともに創設されたばかり の第一回芥川賞の候補に選ばれ、受賞はしな こカたが、選考委員のひとりだった川端康成 屋の「『故旧忘れ得べき』は最もおもしろく読ん そ・フばう 立ロ 事 だ。あるいは『蒼氓』より高く買われ得べき 仕 であろう。今日のインテリの世態小説として の 原も、重要な地位を与えられるべきものだ」と 山いうような評価を与えられ、文壇の注視を集 めた ( この時の受賞作は石川達一二の「蒼氓」 根 本だった ) 。この年、続いて「起承転々」「私生児」 驪 評伝的解説 / 田切進