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検索対象: 現代日本の文学 24 高見順集
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1. 現代日本の文学 24 高見順集

軍属の彼は軍人と違って時間や金や規律の点で自由であった。そして女が手足に黄色いタナカ ( 香料 ) を塗りつけ って女も口説き易かった。女をものにしてから、その両親ることを禁じた。肉にしまりのないそしてその肉も薄い熱 に話をつけ、引っ攫うように彼は女をラングーンに連れて帯の女が彼には不満であった。しかし彼はビルマ語を習 い、女は日本語を習った。 きた。 日本の妻は彼より背丈も高く肉付も豊かだった。そうい 事の次第ではラングーンに永住しようかと彼は考えた。 女の気持にほだされたところもあったが、日本でまごまごう女の好きな彼がどうして、こんな、豊かさの無い女に惹 かさ 酷熱の作用だろうか。汗が絶えずジリジ かれたのか、 するより、軍を笠に威張りちらして儲けられるのだから、 たくま リと出てくるところで、日本の妻の逞しい動きを思うと、 こっちで商売する方がよほどいいと思い出したのだ。 マヤ・ムシヴ たしかにうんざりした。心理的な圧迫は日本にいた時も常 「妻は無い」 いつわ に彼をおびやかしていた。 と偽っていた彼は、やがて、 「妻はある」 彼は東京行の電車に乗った。あの奇妙な想像はどういう と女に告白した。ムシヴの一言を素直に信じて疑わない 女が哀れに成ったからだが、日本に妻はいるのだと打ちあことなのだろうと彼は考えつづけていた。 けても、女はさして驚きの色を現わさなかった。それが却歩きなれないところへもってきて、疲れ切って、足が何 か地につかない感じで、ふわふわと空を行くみたいだ って彼に、 もた た。その感覚が彼に、彼が霊魂であるかのような錯覚を齎 「日本の妻とは離婚する」 と言わせた。そして、そう言ってから、彼はもともと妻らしたのだろうか。 南方から帰る時、彼は事実、霊魂の如く とは別れたいと思っていたのだと、これは自分に向って一一 = ロ空を行く、 空を飛んだのである。その時こそ彼は自分を霊魂と思って すはだ 女は素肌に、腰までしかない下着をつけ、それに薄物のいいのだった。 空を行く実感が最もはっきりと彼に来たのは、支那海の 上着を羽織るように着て、そして腰にはロンジーをまとっ たいわん ているだけだった。暑いから嫌だと言うが、彼は女にシュ上を飛行機が台湾の高雄へ向けて飛んでいる時だった。ラ ングーンを発った飛行機は・ハンコックに寄り、それからサ ズなどをつけさせた。土地では売ってなかったから、 シンガポールに業務連絡に行く友人に頼んで買ってきて貰イゴンへ行き、サイゴンから高雄へ向った。海の上には密 かえ

2. 現代日本の文学 24 高見順集

そう言うとすぐ、 「大家さんの塀に、変な女がい しようぜん 私は油屋の路地を悄然とうなだれて入った。一刻も早くる ! 帰らねばと思いながら、どうしても渋りがちになる足を、 実は私は、遅く成ったのをごまかすのにもってこいのい 叱責が待ちうけているわが家へと進めたのであるが、家のい材料があったと、それこそ大喜びで家に飛び込んだの 近くまで来ると、ぎよっとして私は足をとめた。 かさ 私の家の前にはその持ち主の家があったが、庭の木の繁蠅の糞の点々とついた電燈の笠に額をつけんばかりにし やもり りが蔽いかぶさっているその暗い塀にびたりと守宮のようて、まだ一心に夜なべ仕事をつづけていた母親は、うんう うなず に身体をつけた異様な女の姿が私の眼をおびやかしたのんと頷いて「ーーおかえり」と言った。その顔色をうかが いつつ、 だ。私の驚きとともに、向うもこっちに、きっと顔を振り 向かせ、暗くてよく分らぬながらその白い顔は私の恐れた「塀に、びたツとくつついて、なんだか変なんだけど : ・ : ・」 ような化け物じみた老婆のそれでなく、一一十歳前後の若さ母親の方はどうやら案じたほどのことはないと観察しつ と知れたが、同時に塀の向うから大の女主人とそのひとつ、しかしまだ安心ならぬとして、 ののし り息子との声高に罵り合っている声が聞えて来た。女だて「あの女、なにかしら ? 変な女のいること、お母さん、 ばんしやく らに晩酌をかかさないその女主人と親譲りのこれまた大酒知ってんの ? なら、い、 しけど、 あれ、なアに ? 」 げんか 飲みの息子との、庭に面した座敷でのロ喧嘩は、さして珍近所で見かけたことのない女であった。私はその女にそ はしいものではなく、狭い路地のこと故、言い合いとなるとう興味を持った訳ではなかったが、そうして母親の叱責が 私の家に筒抜けだったから、私も聞き慣れていたのだが、私に向けられるのをそらそうという魂胆であった。 こ塀の女のこともあってか今夜の怒声には、いつもと違った 母親は針の運びを休めず、 底ものが感じられ、塀に耳をつけた女の姿も、単なる物好き「子供がそんな、ーーー女のことなんかに気をかけるものじ 胸から自分に何のかかわりもない他家の親子喧嘩の声を盗みやありません」 こうかっ 籾聞きしているというのとは違った真剣なものが感じられ「はい ! 従順なこの声の奥の狡猾さ。 「さア、おばあちゃんにお床敷いて貰って、早くおやす 私はあたふたと家に駈けこみ、 くずいと 「ただいま。遅く成ってごめんなさい」 祖母は母親の横で屑糸をつないでいた。 おお つつぬ か おやゆず はえふん

3. 現代日本の文学 24 高見順集

たた ゃんとは言わなかった。 ) お願いだから、この人を外へ出ネ、お願い。女は篠原の背中を叩いた。その女の態度はた して。篠原はなんにも言えず顎に手をやっていたが、夫のとえば牛をいよいよ怒らせるために赤い布を振り立ててい まゆ まあ、あっちへ行っ 銀行員は眉ひとっ動かさず、依然として隅に身を固めてかるようなものであった。篠原は、 ト一′いす しこまっていた。そしてよく見るとその方に向けて籐椅子てと女を向うへ押しやる様にし、男の方を向いて静かに坐 が横倒しになっており、男の身辺にだけ紅茶のセットの破った。男はそういう篠原を見ると、同じ男性の立場から訴 えるといった悲痛な声で、 あなたは同じアパートにい 片が散乱し根をあらわした盆栽の松が土くれとまじってこ るから、この女の今の生活を御存じでしようが、別に不足 ろがっていたりしていて、彼女の方は綺麗さつばりしてい す るところから察すると、乱暴を働いたのは男でなく女であのない私との結婚生活を棄てて、この女はなぜ現在のよう ることが明らかになった。篠原は鼻をクフンと鳴らすと、 な穢らわしい生活にはいらなくてはならないのでしよう。 たれかれ ソッポを向いた男にちょっと首を下げて部屋を出て行こう なぜでしよう。今まで幾度も誰彼にとなく言いなれている ふくしよう としたが、その胸にパッと飛びついてきて、ネ、ネ、お願と見え、男の口調には芝居のせりふのような復誦的な清ら かえ からだ いと細い手で篠原の身体をゆすぶった。あの人、あたしをかさがあって、篠原はおかしいより却って気の毒な想い りらぎ 殺すっていうの、お願いだから外へ連れてって。篠原はそで、至って律義そうな相手の面をみつめた。眼と眼の間が すが う言って縋りつく女をじやけんに振り離すこともならず、せまっているのが彼の細面の顔から幾分気品を奪っている 下から見上げている女の眼を避ける風に横を向いた。する様だが、この様に怒りで歪んでない時の彼の顔は中流育ち と、男は初めて口を切った。あなたはなんですか。抑えたの上品さを湛え、そしてつつましやかな端麗さを持った好 怒りで語尾が震えていた。ーー僕はア。ハートにいるものでましい顔に違いないとみられた。彼女を現在世話している す。篠原は女の手をどけて、身体をかえした。僕はこの女五十男というのは、そのデッかい鼻からはじまって顔がで の亭主ですが、そう男が言いかけると、女は篠原の背後にぎたといっていいような、ぶざまな顔をし、その鼻も酒で あぶら ヒョイと隠れ、篠原を楯にして、首だけ横へ突き出し、ウ赤く焼けていて、いつもテカテカと脂を浮ばせていた。身 ソ、ウソよ、あんたはもう私と何の関係もない人よ。男は長よりも肩はばの方が大きいのではないかとさえ思われる したくちびる そう言われると、くやしそうに下唇をふるわせ、そしてそ いかつい身体をノッシノッシと上へ運んで行くのを、篠原 れを見せまいとして前歯で唇を噛むと、女をグッと睨みつは階段の下から見たことがあるが、全く闘牛の感じであっ た。醜いとかなんとか、そんな浅い所を絶したものであっ けた。ほら、あの眼、あの眼で私を殺そうというの、ネ、 たて 、れい すみ にら たた

4. 現代日本の文学 24 高見順集

いわば誰よりも強くまた軽率に、この「いたずら」を欲す方が騙されていたのかも分らない、そんなたちの、つまり る者であった。 いずれも男を騙したり、男に騙されたりした過去のある女 どういうことになるのだ。 ばかりで、 男に騙されたと泣き言を私に述べて行った 「血だーー その女性は、その、男に騙されたという点では、その女た などと言ってすましてはいられない。それは卑劣だ。もちと同じだったけれど、又その女たちのその女性と違うと っとも私の憎みたい卑劣だ。 ころは、私に決して自分から過去を語ったりはしなかった たらま ということだ。その違いが、私の忌わしい感情を忽ち消し いま、私は知ったのである。知らされたのである。 うんぬん 私は、新派悲劇云々の言葉を、ほかでもない、 この私自身去ったのであろうか。つまり、こうべらべらと男に騙され に言っていたのだ。それを、ああ、この私は、「人よ」な たと喋り散らす女は、うつかり関係すると、また私のこと どと書いている。「人よ」などと書いては、許し難い「うを他人にべらべら喋り散らしそうで危険だと用心したの そ」に成る。 ここに確実に滑りが見られる。 か。それもあろうが、一体この私という男は、決して自分 みすか てつけっ 私は、自ら悲痛がっているだけで、少しも自分を剔抉しから過去を語ろうとはせぬ、聞いてもニャニヤ笑って言わ てはいないではないか。 ない、そんないわばしたたかな女のそのしたたかなところ にしか惹かれなかったのだ ! もらろん が、話を戻して : ・ しかし、そのときは、そんな点も勿論あったではあろう 今度は俺が騙してやろうかと、その女性を見据えながらが、何よりも強い原因と考えられるものは、ひとりに成っ あんたん たときの私の言いようのない暗澹とした感情だった。その に心の中で言ったときは、実際に私は、むらむらと燃えあが ほのお かな こる情欲の焔を感じたのだったが、その女性が帰ってひとり なかには、その女性への哀しい同情も含まれていたが、そ のに成ると、もうその時の私は、その女性と同じ「うそ」のの女性を眼の前にしていたときは、その女性の切に求めて の言葉を、軽々しくそして多分に浮きうきとして言ったよう いた同情を惜しんでいて、その立ち去ったあとでしみじみ がな形に成っている自分を、そこに発見した。私は、それまと同情するとは、なんということか。しかも、この私が騙 らゆうしん わ で、そして今まで、幾度か女を騙したが ( ! ) 、私の騙しした女をさしおいて、何のかかわりもないその女性に衷心 また た幾人かの女は、 ( 私のーー男の勝手な言い分でなく、こから同情を寄せるとは、これ亦なんということか。ーー私 う言えると思うのだが ) 私の方で騙したつもりで案外私のの心の暗さはそういうところから生じたものだったか。

5. 現代日本の文学 24 高見順集

362 できなかったに相違ないと篠原は彼流に推断したのだ。足彼は、親指を女の眼の前に突き立てて、お楽しみだね、チ 並が遅れたのならまだしも、もはや取りかえしのつかない とでも言う所であったが、今朝はムツツリとして ことになっている自分を沢村は顧み、生涯どんなにあがい いた。篠原はこの女の部屋に泊ったことがあった。腰の上 ろっこっ あぎ ても自分はもう駄目だという絶望が彼を殺したのだと篠原の、ちょうど肋骨の末端あたりに大きな痣があり、生れる はたちまちビンと感じたのであった。そうに違いないと篠時に機械が当った跡よ、きっと、と説明した。子供の時は 原は思ったがそれを牧野晃夫などに明らかに言うとそんな ほんの小さい跡だったのに、大きくなるにつれ痣もだんだ もっ 卑しい推断は、篠原辰也、お前の卑しさを以て「黒馬」をん成長して、 いやだわと女は言った。女は子供のでき ゆえ からだ 汚すものだと言われるにちがいない。それがわかる故に、 ない発育不完全の身体であったが、年齢が一一十二になって たなやっ たた 余計、この汚い奴を牧野などの面前に叩きつけたい欲望をも気持は年齢にまで行ってない所があった。鼻が悪いせい 感ずるのであった。ーー・洗面所を出ようとした時、篠原か、ロをポカンとあけ、男のようないびきをかくので、篠 は、断髪をクシャクシャにした寝乱れたパジャマ姿の女に原は自分の部屋にコッソリ逃げかえった。それからあまり かたぎ 会った。この女性は堅気の銀行員とマトモの結婚生活を三寄りつかない様にしていたが、そういう彼を別段追うでも 年した後、彼女の言葉によれば、あれだってこれだっておなく、さりとて又避けるでもない、なんともおもってない 篠原は洗 んなじよ、そうじゃなくて、タッちゃん、今の方がのんき風で廊下で会えば冗談口を互に吐いていた。 ぜいたく まゆ に遊べて贅沢ができるからずっといいわ、 というわけ面所から駆け足で自分の部屋に帰り眉をしかめていたが、 めかけ つら で、今は妾になっていた。あれというのは結婚生活で、どその女を不道徳な不潔なものに感じてしかめ面をしていた こといって難の打ちょうもないチンマリした典型的サラリ わけではなかった。自殺した沢村を汚なさのなかに突き落 おだくまみ ーマンの家庭であったらしいが、彼女は自分から逃げ出ししたものの、やはり自殺するだけ、沢村の魂は汚濁に塗れ て、横浜で、某貿易商会をやっている五十がらみの男の妾てしまってはいないのに、こうした女の姿を見るにつけ、 になり、篠原と同じ階の部屋に住んでいた。 随分早い篠原は気づかねばならなかったからである。 おめざめね、ランデブー ? 女は桜色に塗った爪で、断髪このアパートにひとり住む女は例外なく妾であると言っ を乱暴に掻き廻しながら、鼻のつまった声でそう言った。 てよかった。妾でなければちょっと住めない高い部屋代で いつもなら、 ヘンと篠原は鼻であしらい、土曜日のあり、。ハトロンが昼の食事時間を利用して訪ねてくるのに 晩は横浜から来て泊って行くのがきまりなのを知っている好都合な場所であった。篠原は「ヴォーグ」の事務所兼住 だめ つめ

6. 現代日本の文学 24 高見順集

の頬に苦笑が漂い浴室の気配に耳をすます恰好に首を傾けのさきで唇をつつきながら、相手の顔をみつめた。赤ダコ た。浴室から歌がきこえてきた。それが途切れるといいおはまことに無心な顔付で、アイスクリームを少しずっ取っ なぞ 湯よと言った。はいらないかという謎のようであった。 ては、ロのなかに運んでいた。上品な食べ方というのでな ざぶとん が、友成はそうかいと答えて、立ち上ろうとせず、座布団く、貧しい子供がおいしいものを楽しみ惜しみつつ味わ あんばい を枕にして横になった。よし、俺もはいろうと言えるほどう、あの塩梅であって、匙を受ける瞬間の唇の開き工合は ちほう の二人の今までの交渉ではなかったからだ。一緒に映画をちょっと、痴呆的であった。彼女は福島在の僧家の娘で、 そうりよ 見に行ったり、食事をしたりしたことはあったが、今まで僧侶との縁談をきらって家出し、今は断髪洋装の姿で酒場 かおかたら とう , もちょ 友成は彼女の身体に手を触れたことはなかった。 の女給をしているが、その顔容振舞いには、・ どうせい 友成が学生時分、智恵子という女給と同棲するようになとハ】ちゃんだねと客に言われるところがあるのは、第三 ごと った事情、それから彼がドイツへ行ってマルタという女と節でしるした如くである。幾代かの血のつながりのなかに おり うかが 同棲するようになった事情、それらには共通した友成の受積りつもった安逸と悪徳の澱がそうした彼女のうちに窺わ 動性があった。それは女に愛せられると、はっきりは言えれるのであったが、僧侶の勘定高さも等しく彼女のなかに しようそう ないまでも、女にある焦躁を感じさせ、通常は男の方で導計ることができた。あの女はすこしコレもんだねと客がを こめかみ くべき決着へ女がかわって友成を引張って行かねばならぬの蟀谷のあたりに人差指をくるくると廻転させると、どう 心もちの羽目に女を陥らせる、そうした受動性である。 して、どうして、あの人、とってもガッチリ屋よと「メー そろ はんばく この日、友成は赤ダコと資生堂で落ちあい、郊外へでデル」の女たちはロを揃えて反駁してくる。アの字こと秋 もドライ・フしようかと言ったが、彼女をどこかに連れ込も子の、赤ダコがいかにチャッカリしているかの長々しい説 きうという魂胆ではなかった。いい わね、と彼女は言い、ア明の言葉は既に紹介ずみであった。しかし赤ダコは、ぼ たた 得イスクリームのさじで舌のさきを二つ三つ叩いたのち、 x うッとしているようであって、金銭に対する執着だけはす 忘 x 温泉へ行かないと言った。僕は名前をきいているが、まこぶるはげしいのであった。しがない女給生活がそうさせ 旧だ行ったことがない。 名前というのは、女と行くのに たのではなく、僧家のしみッたれた生活が幾代かの性格に うわさ 恰好だという噂の意味である。ーーー君は行ったことがあるおのずと滲みこんだものの血液的なつながりとして、そう 9 の ? しいわゆる場ちがいのカフェ 1 はしら あたしも名前だけきいているの、 いっぺん遊びなのであるらし、 に行ってみたいと思っていたの。友成はダンヒルのパイプず、「メーデル」のある場所は銀座裏の酒場というものを ほお おれ

7. 現代日本の文学 24 高見順集

「すしでも食べるか」 に椅子をひかせて、父親の左側に腰かけた。 あか にら 赧ら顔は愛情の笑みをたたえていた。 その腰かけ方は仲々難しいと私は睨んだ。正に腰をおろ だめ しり 「そんなの、駄目だよ」 そうとするとき、すッと尻の下に女給仕が椅子を進める。 「うなぎか」 その進め方は堂に入ったものだったが、その進め方にこっ 「洋食だよ。一番お、し、 、ところへ連れて行って ! 」ちの腰のおろし方を合わせるのは仲々難しいと見られた。 「うむ」 女給仕の方で客の腰のおろし方に合わせるのであって、客 ごらそう 「角間君に御馳走するんだから、つまんない一品料理じゃの方で合わせる必要は少しも無いのだったが、そんな坐ら いやだよ」 せ方をさせられるのが初めての私は、どうしてもこっちで 「よしよし」 合わせようとする方に心が動いてしまうのを、私の性分と そうして精養軒かどこかの一流どころの出張店に連れてしていかんともしがたいのであった。 きゅうくっ 行かれた。ひどくむずかしい顔をした、そのくせ窮屈な黒女給仕はをその父親の左側に坐らせると、その右側に らよう い服に蝶ネクタイというのが喜劇役者じみて見える中年の廻った。そのすきをねらうようにして私は自分で椅子をひ うやうや ポーイに恭しく迎えられて、私たちはあまり客のいな いての隣りに自分の席を取ろうとした。すると、 、しーんとした部屋のなかに足を進めた。場所負けして「こちらへいらっしゃい」 私はすっかり固くなっていた。 私をすっかり大人扱いした声で—の父親が、女給仕の立 は「ここにするか」 った右側に手を向けた。紅を塗ったような掌の赤さが私 の父親が立ちどまって、子の背に手を置くと、おしの眼を射った。 こきせの和服に白いエ。フロンをつけた女給仕が、まるでその 底椅子を他人に触らせまいとしているかのように、すッと歩私は恐縮してその方へ廻った。女給仕は既に椅子をひい 胸み寄って手早く椅子をひき、 て待っていた。そのときの私はまるで電気椅子に就かせら 力「どうそ・・・・ : 」 れる死刑囚のような表情だったのではないか。私はなんだ にこりともせずに言った。の父親も恐い顔をしたまか足がからまるみたいな感じで椅子の前に身体を運ぶのに ま、すすめられた椅子に就いた。そしてもすっかり大人努力を要した。椅子が尻の下に進められるということに私 おうよう に成った顔で、自分からは椅子に手を触れず女給仕に鷹揚はすっかりこだわっていた。 てのひら すで

8. 現代日本の文学 24 高見順集

「ぶりかえしが、すぐ来ますよ。今度来たら、さっきみた避けようとして、却ってその落下点に自分を近づけていた いなもんじゃありませんよ。ええ、そんなもんじゃありまあの出来事と、 あの何か私というものの運命を暗示す せんよ」 るような出来事と、それは似ていた。 おど あた 女主人に嚇かされて、私はあたふたと雨戸を取り出しに その飛球のように、宛かも・ハチンと弾かれたかのよう かかった。雨戸は玄関のでよかったから造作なかったが、 に、私は女主人から睨みつけられるとわが眼を、はっと空 盥となると、台所へ行かねばならぬ。すなわち家の中へ入に放った。すると、その私の眼は、実に異様な、い や恐ろ うかい って行くか、再び狭い路地を迂回して行くか、どっちかだしい いやこの世の終りを告げるかのような、いやアな赤 が、いっゆりかえしがあるか分らぬから、それも女主人の暗さに変っている太陽を、そこに見出して、 す ZJ 言によると最初の激震よりも更にひどいのがいっ襲ってく「あツ、あれ」と私は叫んだ。「あの凄い太陽」 につしよく るか知れぬとなると、どちらも危険であった。どうしよう それは日蝕のようにかすんだ太陽だったが、しかし朧ろ ただ とためらった私の耳に、 にかすみながら焼け爛れたどぎっさは寧ろ平常より勝って 「津浪なんか来やしないよ、こんなところまで : : : 」 いた。腐肉のような色は、刻々に太陽の生命がー・ー生命と それは隣家の長男 , ー、・・と言っても頭の禿げ上った映画批いう言葉を使えば、それが急速に衰減しつつあることを告 評家だった。私は彼の言葉に同感だった。津浪なぞ来ませげているとしか思えない。太陽の死ぬ時は、人間の絶減す あわ んようにという願望も手伝っての同感であったろうが、同る時である。その時が容赦なく迫りつつある。私は肌に粟 は感とともにちょっと気が咎めて背後を振り向くと、大家のの生ずるおもいだった。その耳に再び、 ほこり コ女主人の、明らかにそれは怒りの光りと思われる光った眼「あれは、埃のせいだな」 とその私の眼がぶつかった。女主人がその津浪襲来説を真隣家の長男は冷静な判断を下した。 の 底向から嘲笑した隣家の長男には怒りを向けず、耳を傾けた「おッそろしく埃が舞い上ったものだ」 にら あんど 胸だけの私を却って睨みつけるというのは不条理だったが、 私は、ああそうか、ああそうなのかと安堵の胸を撫でお うなす 女主人に睨みつけられる前から既に睨みつけられはせぬかろし、そうだ、それに違いないと又も同感の頷きをした と気が咎めていた私は、気が咎めて背後を振り返ったことが、またしかし、そうなると何か物足りないがっかりした れによって、女主人から却って睨みつけられるのを自ら招い感じだった。安心とともに変な不満を覚え、冷静な判断と ていたとも言えるのであろう。嘗っての日、飛球の命中をいうものにいっそ憤懣めいたものさえ唆られながら私は、 かえ まっ ムんまん はじ

9. 現代日本の文学 24 高見順集

が、その私にだってかかる犯罪者的要素は多分にひそんで私より三つも四つも齢上の者のように思えた。私が有馬ケ いたのである。それがどうにか犯罪者にならずにすんだの原の草の中で、お医者ごっこをしようと空想した相手とい おと は、何のお蔭であろうか、私を性的犯罪者に堕さすにおい うのは、私よりずっと齢下の小学生の女の子なのだった。 たものは、何か。それは理性であるか。それとも私の得意池のほとりで私の物色した女の子もそうだった。お医者さ ろけん の虚栄心のせいであるか。空想の実行が他人に露顕した際まごっこというような幼い遊びを思い描いた為にそれにふ はじさら さわしい小学生を選んだというのではない。初めから私の の恥晒しを恐れるところの虚栄心。 空想の女の子はそういうのだった。 、たな 甘美とまで行かないがそう汚くはない背景での「春今は無いが当時虎の門にあったその女学校は、私たちの 一中に一番近い女学校なのであった。山の手の生徒の多い の目ざめ」の回想をひとっ書こうというのが、有馬ヶ原の 思い出へと私の筆を移らせたのであったが、つづいて、思上品な女学校であった。桜田門で目黒へひき返しに成って いた小型の電車に、その女生徒たちは虎の門で乗る。その い出そのものが、甘美とまでは行かないがそう汚くはな そう「犯罪ー的でない、そう abnormal でない、そひとりに話しかけようとしたら逃げてしまったというので びばう ういうのを書きしるす順序かと思われる。しかしそれは、 ある。美貌がかねてグループの中で評判に成っている女生 この手記が次の年の記述に入るまで待たねばならぬ。多少徒だということも分った。 あ、ら とも甘美な思い出は、対象の少女を身辺に恵まれるまでは逃げられたが諦めないとその同級生は言った。その結果 もだ は私には恵まれなかったのである。対象の無い え、それ故はどうなったか私は知らない。いずれはそれこそたあいな いつだっ いものではあったろうが、とにかく私はその「勇気」に舌 この一種いやらしい逸脱を、やはり今のところは、書くほか を捲いた。私には思いもよらぬ「不良」行為であった。 は無い の しかしこの方が私より健康な「春の目ざめ」と言わね 底前章に書いた物理教室での坂部の話は、二学期に入って ばならぬ。 胸からのことであったが、その頃、坂部や岡下の嫌悪してい 一体私には私と齢の等しい女性がどうしても私より齢上 がたグループの中で、虎の門女学校 ( 女学院 ? ) の女生徒の としか見られなかった。更に私は美しい女性を一種の畏怖 名前を口にするものがあって、 なしには見られなかった。そして醜い女性には極度の嫌悪 「ーー逃げちまいやがんのさ」 ぞうお そういうのを聞いた時の私の驚嘆。私にはその同級生がを感じた。胸の悪くなるようなその嫌悪は憎悪に近いもの ゆえ

10. 現代日本の文学 24 高見順集

にこり むぎん 地上から舞い上ったおッそろしい埃で、つい今し方まではな苦しみで、無慙の焼死を遂げなくてはならないのだとも 、たな たちま からりと晴れ渡った青空だったのが汚い灰色に忽ち濁って言った。立っている足もとが、よりもよって。 ( クリと口を しまっているのをしばらく見上げていた。 あけるなんてことは、それこそ万が一のことではあろう 気がつくと、母親の姿が見えない。どこへ行ったのだろが、しかし、それが絶対にありえないとは誰もまた言えな う。そこへ、その母親が玄関から出てきて、あぶない家の いことなのだから、万一に備えて雨戸の上に乗っているに たんもの 中に入っていたのだと知らされた。反物のままのものや縫若くはない。そうすれば、たとえ足もとに地割れが生じて いさしのものを、いつばい胸許にかかえて、よろめくようも、その戸板が穴への転落をちゃんと防いでくれる。 に出てきた母親に、 私が雨戸へ駆け寄ったのは、火あぶりはたまらんという ・ 6 と 「家へ入っちゃ、あぶない」 恐怖も固よりあったが、大家の女主人の発案の雨戸の上 「でも、大切な預りものだから : : : 」 に、その言う通りに避難することによって、さきに私が心 母親は私の母親であるとともに、仕立屋でもあったならずもその感情を害した女主人の、今度は御気嫌を取り のだ。私はその時、いくら大切な預り物だからとて生命に結ぼうという気持もあった。だが、い ざ雨戸に足をかけよ は替えられないといった意味のことを言って、その行動をうとすると、 しっせき 責めたが、今日の私は仕立屋としての母親が自家のものは「これ、これ ! 」激しい叱責の声は意外にも女主人のだっ 放って置いて他人のものだけはいち早く取り出したその心 た。「立ったまんまで踏んだら、雨戸が割れてしまう」 情に頭を下げざるを得ないのである。 割れては役に立たぬという意味ではなく、修繕費がビン やがて「ぶりかえし」が来た。来たぞと私は地面に敷いと来ての大家としての叱責だった。こっちもビンとそれが た雨戸の方へ駆け寄った。 来たのは、あながち私のいわば得意のひがみ根性のせいで 万一足もとに地割れの穴があいてそれに落ち込むというはなく、相手が何しろ、しわいということでは、店子はじ と、地割れはまるで待ってましたといわんばかりに忽ち収め近隣にいつも蔭ロの種を撒いているその女家主だったか 縮して、さあもうそう成ると、身動きもできぬーーというらに他ならぬ。店子がよほど頼みに頼まないと、腐った樋 あまも 話を、宛かも嘗ってそれを目撃したことがあるかのよう だって屋根の雨漏りだって一向に修繕してくれない女家主 に、大家の女主人は語っていた。つづいて火事にでもなるだった。 と、身動きならぬ身体は、火あぶりの刑に処せられるよう「しやがんで、しやがんで : : : 。駄目駄目。裏に横木の渡 あた したてや だめ たなこ