浅草から遠ざかっていること何日位であったろうか。私のうちに漸く浅草に対する一種の うっせき 郷愁的感情が欝積してきた。またぞろ浅草へ行きたくなった。それは初めは、なんとなく 浅草へ行きたいなアといつ、た漠然とした想いだったが、それがやがて、浅草へ行ってああも したい、 ( 「如何なる星の下に」 ) こうもしたいといった具体的な欲望へと進んで行った。 浅草寺観音堂境内から宝蔵門を眺む
私は浅草というものに対して涙を流したかったのだ。 ( 「如何なる星の下に」 ) 浅草・仲見世
すに第寰等を 女座ったことは確かである。 今となって、高見順とはじめて出会ったころ、そし の京 いたころのことを 夜東て、時々一しょに東京の中をぶらっ 思い出すと、戦争を目の前にして、手も足も出なくな 都荷 「稲っていき、やがてほんものの大戦争に巻き込まれてい る岩 った気もちが、今の公害進行中の気もちに似ているよ あ豊 うな気がしてくるのである。高見順は、そういう気も ちを代表するような作品を残している。 水だけについていえば、そのころ、隅田川の水は、 を清らかとはいえないにしても、まだ今のようなことは なかった。光化学スモッグなどといういやなものも知 らなかった。しかし、山の手生れの知識層予備軍にと って、さまざまな屈折の末に、身をおく場所を求めて、 おのすから、東京の下町に足が向いてもふしぎでない 荷ような暗い時代だった。 四浅草 わたくしにとって、浅草は、幼年期の思い出の土地 の一つである。祖母に連れられてよく行った浅草は、 なっかしい土地ではあるが、その後、深入りしたこと のない土地でもある。ただ浅草は、権力でおくめんも なく大衆の生活をすみすみまで支配しようとするよう く」 )
うわさ ビング・クロスビー アン・瓶ロ黒須兵衛と離れがたい仲になったという噂 が伝わってくる。浅草を愛する会の発会式の日に、倉 橋は大屋五郎から、家出していた鮎子が上海へ逃げて しまったことを聞かされる 作者はこうした物語を挿話的に繰り広げながら、お 好み焼き屋に出入りする踊り子や芸人たちを中心に、 ようやく戦局がきびしさをましていった暗い時代の、 しく。ところがそれを描 下積みの人々の哀歓を写して、 ポう いていく筆には、作者の心境がまつわりついていて、む 会を 方しろ浅草の風俗や浅草の人たちを描いたというより、 ナら也 雲作者自身の心象風景といった性格が強い。つまりこの 長編は浅草を描こうとしたのではなく、作者の眼に写 学 った浅草を通して、作者自身の当時の息づまるような、 道本物苦しい気持を表出しているのである。第九章のはじ 禛学 めに、ヴェルレーヌの「いかに、ああ、旅人よ、この ′えじ が大良 太青ざめし景色は、青ざめし汝みすからをうっすらん」 とい、つ詩句が引用されているところなどにも、そ、つし たこの長編の一面がはっきり示されている。 切端 昭和十四年に「如何なる星の下に」が連載されはし 年める前に、すでに石川達三は「生きている兵隊」「 ( 昭 ク史 3 和十三 ) を、丹羽文雄は「還らぬ中隊」 ( 昭和十三ー十 ス女 ゥースン モア日 四年 ) を発表していた。日比野士朗の「呉淞クリー 上一右問や上田広の「建設戦記」が発表されたのも昭和十四年 453
イ一一第。 上浅草国際通り ( 「如何なる星の下に」 ) 左まだ時間が早くて面白くないから「愡太郎」で 一バイやろうと角見は言った。 ( 「深淵」 ) 高見順がよくった浅草のお好焼「染太郎」 与耳鬪朝なり 染気半ア
右秘田余四郎と銀座のバ ーで寛ぐ ( 昭和三十三年三月 ) 順 左昭和三十三年五月、ソビエト作家同盟から招待された折、 モスクワで。右より阿部知二、青野季吉、順、堺誠郎 くつろ を↓ーノ門 この長編は昭和十四年から翌十五年へかけて「文芸」 に十二回にわたって連載され、さらに書き足して十五 年四月、新潮社から出版された。もともとは「文芸」 さしえ から連載を勧められ、三雲祥之助の挿絵をつかいたい といわれて、「それなら、浅草を書こう」と決めたもの だったらしい しばしば絵の方が先にできあがり、そ れにあわせて小説をあとから書くことが度々だったと いう。この作品は高見順が残した仕事の中でも最も傑 出したものなので、以下簡単に筋書きを紹介して解説 を加えておきたい。 物語は浅草のアハ ートに仕事部屋をもつ小説家倉橋 が、ある日あこがれていた劇場の可隣な踊り子小柳 雅子に楽屋で紹介され、知りあう。倉橋はまた行きっ けのお好み焼屋「惚太郎」で、店を手伝っている踊り 子あがりの嶺美佐子や、美佐子を思っているドサ貫を はじめ、落ちぶれてここに集まってくる雑多な「浅草 人種」とも知りあい親しくなってい やがて倉橋 はドサ貫から、倉橋に好意を寄せている美佐子と小柳 雅子との意外な関係を教えられる。美佐子の妹の踊り 子市川玲子は、夫の大屋五郎を、倉橋の別れた妻鮎子 に奪われ、それがもとで病気が進み死んだのだった。 しかも雅子は、美佐子の末の妹だった。近く慰問団に 加わって中国へ出発する雅子は、劇場のポードビリ れん 452
切り山椒の店先に立って、顔見知りらしいあんちゃん風の店番と話をしてい ( 「深温」 ) る T の背に良子は身体をぶつつけて行った。 浅草の酉の市 さんしよう
4 うのは、すいぶんあとまで残っていたが、それは子 ども相手の遊戯場で、木馬をモーターで回すだけであ った。オペラとか、すっと遅れて、カジノ・フォー ) ー などができたが、 その残党は今もいる。そういう盟業 は、おもによそものの客を集めていた。そして、舞台 の上、舞台の裏でかせいでいる人々のいの場所は、 公園の中ではなく、その周辺にあった、とわたくしは 了解している。 高見順の「如何なる星の下に」などを読み返すと、 その素朴さに驚く。しかし、その小説が出たころには、 うらや 浅草の人々と親しみ合っている主人公が、羨ましいよ うな気がしたものである。生活の乱れ、汚れとも見え る外見の中にある清純さ、運命に引きすり回される人 間の哀れさ、そういうものが、山の手のわれわれから 見ると、ふしぎな魅力であった。金もうけ一方の俗物 に対する軽べっと憎しみ、権力におごる人間への反抗、 それらが、無関係だったともいえまい。人を踏み台に して、高いところによじのほろうとする人間への警戒 に対して、下へ下へと落ちていく人間への同情。それ は、明らかに感傷であり、敗北主義であり、頽廃であ る わたくしは、浅草をそんな土地と考えること自体、 まちかいであったと思う。わたくしは上昇型の人間か、
あ、懐しいアセチリン燈の臭い。私にとって更に、九の日 か、戻ろか、極光の下をーや「にくいあん畜生はおしゃれ すえひろいなり の麻布十番の七面天の夜店も忘れられない。末広稲荷の縁な女子ーや「今度生れたら驢馬に乗っておいで」ーーそれ 日は何日だったか。ああ、失われた東京の夜の顔よ。 から「ダンスしましようか、カルタ切りましようか」や その頃の東京市内には、毎晩、どこかしらに必らず縁日「捕えて見ればその手から、小鳥は空へ飛んで行く」や かきがらちょう の夜店が立っていた。たとえば一日は、ーーー蠣殻町水天「くるしき恋よ、花うばら」や「このまま、別れて、それ みようじん こんびら あたご びしやもん 宮。神田明神。深川八幡。虎の門金比羅。愛宕下毘沙門。でよけりや」の「カルメンーの唄は、その頃はもうはやり 材木町出雲大社。深川、板橋の両不動。赤坂豊川稲荷。京つくした感じだった。 てつばうず この艶歌師の出る場所は、、 しつもきまっていた。地蔵様 橋鉄砲洲稲荷。飯田町世継稲荷。四谷新宿太宗寺不動。浅 はず 草田中町一ッ谷稲荷。芝三光町大久保毘沙門。日本橋銀町の有る通りからは離れた、夜店の殍んど切れかかった外 こうじ しかし、三の橋から行く私たちにとっては、逆に 妙見。二日の縁日は、ーー・、麹町三番町一一七不動。芝日影町れ、 いさらご 日比谷神社。伊皿子大円寺潮見地蔵。外神田松富町三社稲夜店のはじまる末端とも言うべきところに出ていた。私た 荷。本所四ッ目薬師。本所石原徳の山稲荷。浅草田町一丁ちは灯を慕う虫のように明るい本通りに早く出ようと心が そですり えこういん 目袖摺稲荷。日本橋久松町紋三郎稲荷。回向院一言観音。あせり、明りのとぼしいそこを、間もなく離れ去った。私 こまがた 浅草駒形町出世観音。 たちというのは「ビリケン」君に私に、それからもう一人 誰かいたのだが、今は誰だったか覚えが無い。「ビリケン」 えんかし たばこ は艷歌師がヴァイオリンを弾いて歌っている。 君は小声で「煙草のめのめ」の唄を歌い出した。 えら 学校の先生は豪いもんじゃそうな 煙草のめのめ、空まで煙せ、 豪いからなんでも教えるそうな どうせ、この世は癪のたね。 の 底 教えりや生徒は無邪気なもので 煙よ、煙よ、ただ煙、 の いっさいがっさい それもそうかと思うげな 胸 一切合切、みな煙。 カ アノンキだね この歌が舞台で歌われた芸術座の「カルメン」を彼はそ わ 暗い人だかりのうしろで「無邪気な生徒」の私たちはゲの母親と一緒に見に行ったと私たちに言った。カルメンに * そえだあぜんばう ラゲラ笑いながら、添田唖蝉坊のこのノンキ節を聞いてい扮した松井須磨子はその年の正月五日に島村抱月の跡を追 しかばね うた 「行こ た。白秋の作った有名な「生ける屍」の唄、 って自殺していた。写真で知っているだけで実際の麗姿を ひ ふん オーロラ しやく
高見 ) 頂文学紀行 浅草寺観き堂 浅草なら知っていると私は、 つい今言ったばかりだが、 ーを - くイん これは食はのたぐいになり そうだ。しかし、私のそう言 ったのは、京子にではなく 読者にだから、京子には、 「戈草のどこ : ほんと尋ねた ( 「都に夜のある如く」 )