せた。あたしね工。秋子は甘えるみたいな声で言った。おまで彼は突きつめていなかった。それは、彼がいわゆる恋 部屋かわろうと思うの、手伝ってくれない。秋子は机の上を恋するありさまでしかなく、秋子を得られる自信がどう に足を乗せ、靴下を脱ぎだした。小関は節穴の多い天井をもなかったせいもあろうが、妻は妻、恋は恋、そういう身 あした 仰ぎ見て、ええ、ええ、と言うと明日来て下さらない、お勝手が許される秋子だというエ合に、彼は秋子を無責任に ちそう しいえ ひるをご馳走するわ。 しいですよ。あたし、取り扱っていはしなかったか。救うなどというのは、以て ほか 独りでおひる食べるのつまんないからなの、 しいでしょの外で、他人に対して意気地のないものほど、自分には眼 シ う、それともせつかくの日曜を奥さんに悪いかしら、小関がない専横をほしいままにするものだ。 ズだけ さんの奥さんッて可愛い方なんでしよう。ーーそう言うの秋子はシロツ。フを溶したコップのひとつを小関の前に置 くちびる と、ロ笛を吹きながら流し場へ行き、それを追う小関の眼き、そのひとつを自分の唇に当てがい、なにか言いそうな ごと は、さようなんと言うか、言ってみれば脱兎の如き彼女を眼を、彼女の前でいらいらと手をもんでいる男の面に注い 獲得したい欲望に燃えていたのである。生れてはじめてのだがなにも言わないで、所在なげに肩の辺を掻いていたり 恋だと小関は考えた。今の自分には恋だけしか残されてなした。彼女の手が、シアトリカルと書かれたコールド・ク じゅうりん びん 、そんな風にも考えた。その秋子が篠原ごときに蹂躙さリームの特大瓶をつかみ、それをタオルにペノ 。トリとつけ れている。女をまたとなく不憫におもい、篠原をいくら憎ると、依然として小関に向けたままの顔を拭い始めた。ド けしよう んでも憎み切れないおもいであった。いつもひけ目だけし ーラン化粧のびかびかした下から、朝寝夜ふかしの女に特 あらわ か与えられない篠原から秋子を救い、とうとうきやつに打有な生色のない皮膚が露れて来、小関はそうして手を振る ちかって見せてやりたいという気持がその裏にあったのだ度にシミーズの下で、これは実に恰好のいいこんもりとし ちぶさ が、それは、小関ははっきり意識しているのではなかっ た乳房が揺れ動くのに、見まいとしてつい眼が行くのだっ 得た。更にまた、救うと小関の気持は考えているけれど秋子た。彼女は自分で自分に腹を立て、そして顔に当っている まゆげ 忘の心を篠原から万一、小関が奪うことができたとして、そみたいに額を横撫でに乱暴に撫でると、描いた両の眉毛が あざや 日 れは果して秋子を救うことになるかどうかは大層疑問であ見事に取れてなくなり、頬のほくろが鮮かに目立った。 故 った。一世一代の恋と言い、それはうそでもないであろう 篠原君は来ますか。 小関は遂に言ったという顔をし たいない が、では秋子を得た時、彼は彼の子をその胎内に持ってい ええ、時々。臀の横に出した小さい小指のたこ る妻の豊美を捨てて秋子といっしょになるだろうか。そこを秋子はつねりながら、却って話をそらせる風にした。 ひと ふびん たび こ 0 せんおう しり かえ ほお もっ
隠すような風にした。驚いて蓋をしめる貝に似ていて、秋った。それはやはり小関を照れさせ自分はあなたに頼まれ 子はおかしさの昇ってくる顔をソッポにむけ、ちょっとそたから手伝いにきたのだという体裁を明らかにしようとし ちらで待っててちょうだい、お支度するから、そしてスた。 ひとまず、引越しをすましたらどうです。ーー・そ リツ・ ( をばたばたいわせて便所の方へ走った。 しばらうねえ。彼女は物倦げな返事をして足を組んだ。その微か くして、向うの部屋から彼を呼ぶ声がした。行って見るな振動で、机の上の薇が赤い花弁をホトリと落した。 と、お支度とはなんのことか、寝床は敷きつばなしの乱れさて筆者は、小関と秋子をここで、そッと二人だけにし ふとん た部屋の有様で、蒲団を踏まずには部屋にはいれなかって置いてやりたいと思う。だと言って、二人の間に、小関 た。小関はマゴマゴし、それを面白がっているエ合の微笑の秘かに願っているような情景が果して展開されるかどう はなは まゆげ を投げている秋子の顔に、チャンと眉毛ができているとこかは筆者の甚だ疑問とする所だが、何分、ムチャな秋子の ことだから予断は許されない。 というと、この物語にあら ろを見ると、それがお支度の意味であったかもしれない。 あらし われた秋子の動きを今まで見守ってこられた親切な読者 昨夜の心の嵐は一晩のうちに、すっかり凪いだのか、しか ふく まぶためいりよう は、それは妙だと言うかもしれない。「悪い児」になって しその跡を膨れた瞼に明瞭に残していながら、嵐なそまる でありはしなかったというケロンとした顔付を秋子はしてやるんだと決心した秋子を語ったのは、つい前の節のこと いた。小関は昨夜はーーーと言おうとしたが、昨夜あんなにであるが、やがてその秋子が「悪い児」でなくなった次第 取り乱した女とは全く別人のような秋子を見ると、そうしは、第四節において紹介した。それは秋子が篠原に惚れて あいさっ た挨拶は言い出せるものではなかった。昨夜の自分を勝気しまったための逆戻りと見られ、そして秋子が篠原に捨て しゅうたい な彼女が醜態としている為のこの顔付だろうと彼は想像られそうな形勢になると、又ふたたび決心の逆戻りが行わ し、そのぬけぬけとしたところが彼には又魅力であった。れたのだ。ムチャだと筆者が言ったのは、そうした秋子の べ 得夢の中の彼女はしよせん彼がつくった、彼の手におえるもことである。生意気なけもののような女。酒場メーデルの 忘のであったが、実際の彼女はちょッとやそッとで手におえ朋輩赤ダコは「改造」読んでいるからっていばるない、な 拠る代物でない事がわかると、小関は執念ぶかいカみを覚えんでえという、思えば実に適切な言葉を吐いたが、いかに てき、夜具の上に胡坐をかいた。秋子は机に腰かけ、・ハツもそう言ってやりたくなるアの字。そうした高慢チキが均 トをす 0 た。ゅ 0 くり遊んで行ってね。そう言 0 て、小関斉のよく取れたビチビチとして小柄な肉体、愛くるしい顔 が彼女の転室の手伝いに来たのに別段礼を言おうとしなか立ちと結びついて男の眼に立てる颯爽とした壁を、篠原は ため ふた ひそ かす
いね、なんどといってはぐらかしたり、又は、女の心ッてたお客、あの人と約束でもしたんじゃないんですか、僕と ご存知 ? と即ち第一二節において紹介された例の口癖を出来ちゃ悪かったんじゃないかしら。秋子の沈黙を彼はそれ し、女ってものは惚れたら男の負け、惚れさせなきや駄を気にしてのことと誤解したのだが、よしてよ、あんな たらま 目よ、女の心ッてのは自分に惚れている男には惚れない の ! とそれは忽ち秋子の厳しい反対を受けた。冗談じゃ で、自分が : : : と、危く篠原に触れそうになっても、それないわ、あんなの ! あたしをなんだと思ってんでしょ う、カン・ハンになったら、おでんやヘ行こうと言うから、 でも、この様に切実に篠原の事が心にくる事はない。自分 ええ行きましようと言ったら、もうそれで万事オー・ケー に惚れてる男のなかで、な・せ、この小関だけがこの様に、 自分の眼を篠原の心に疑り深く注がせるようにするのだろのつもりでいるのよ、あたしも初め近所のおでんやヘ行く 小関さん、この頃あんた、篠原に会って ? 秋子かと思ってたら、待合へ行こうだって、いくら酔払ったか らッて、よくもヌケヌケ言えたもんね、いやだッても離さ は前を向いたまま、そういうと、鼻をクスンと鳴らした。 ないんですもの、あたしいっそのこと、その待合へ行って ここしばらく会いませんが。 そう、秋子は軽くう なずくと又もとの沈黙にはいって行った。篠原は一体、私やって、ヘンなことしたら横ッ面ビシャッとやって恥かか に惚れているのかしら、惚れてないといえば惚れてないよして帰ってやろうかと思ったの、巧いエ合に小関さんが来 うだし、惚れているといえば惚れているようだ。最初はてくれてよかったわ、いずれ大森あたりの連れこみへでも い、、、 0 っ ( 即ち篠原が秋子を得た最初の経緯は第四節で既に述べた引張ってくつもりだったんでしよう。そう言って秋子は唇 けいれん 通りだが。 ) ーーあたしも惚れてないかわりに篠原もあたしを。ヒリッと痙攣させた。折も折、彼女の頭には、篠原との に惚れてはいなかった。では今のあたしはーー・惚れている最初の一夜を送った不愉快な待合のことが想い出されてい といえば惚れているようだしーー惚れていないといわれれたのだが、それが大森だったことは忘れていた。大森あた べ りの : : : と言って、ああ、あれは大森だった。そう思う 得ば惚れてないようだ。 これは秋子と篠原と、同じよう よみがえ あざや 忘であってしかし、偬れてないという言葉が篠原の場合はさと、その夜の情景が鮮かに蘇って来、彼女は又もや小関 拠きで秋子の場合はあとだという、ちょ 0 と見ると表現の遊を無視した沈黙にはい 0 て行 0 た。自動車は芝公園の暗い 戯のような、この言葉の違いが言葉では表わし得ない深さ樹だちの中を疾走していた ふろ あの : : : と小関が、黙りこくった秋子その待合の風呂は、小さい西洋風の湯槽を人造石でしつ を持っていた。 の顔色をうかがうような眼つきで言った。さっき置いてきらえてあった。そこへ秋子が若干乱暴な足どりで足を運ぶ
す から数日後、どちらからどう持ち出したものか、桜木町行その顔、そしてその歩き振りから、ほほう拗ねていると思 あいきようあふ 2 の電車の一隅に篠原と秋子の顔が見られたのである。開いうに違いないが、笑うと非常に愛嬌が溢れ、その笑顔をも た窓に肘をやって風に断髪を嬲らせ眼を細めている秋子のってしては想像もっかないほど、彼女の素顔は冷淡をきわ しっと 顔には、甲斐性のない亭主のその癖嫉妬深い眼をまいて、 め、気の弱い小関などの眼には怒っているとさえ映ずる所 そんなら今隣りにいる男が好きかというと決してそんな感の、一種っツかかってくるような線をその素顔は見せてい 情の持てない つまりくさくさした日常から離れての一るのである。そしてその歩き振りも、乳房のほど良く張っ こうせん 日の行楽に利用するには、まあ適当した男、それと一緒にた胸を真すぐにそらせ、顔を昻然といった風にあげ、ハン こわ いる、恋人同士なんそと間違えちゃいやよ、といった風な ド・ハッグは小脇にかかえるのではなく、今にも落しそうに もちろん ものがあった。 と、推断している篠原の顔は、ではどして手にぶらさげ、その手も勿論あいている手を大胆に振 かっこう うだったか。まっすぐ前を向き、空をぐッとみつめているって歩く恰好は、いわゆるブリブリして拗ねているように ほお 眼は、その眼の奥に焼きついて離れようとせぬ秋子の頬の観察せられるが、それが彼女の普通の歩き方なのである。 まくろ ろうだん ぞう 愛らしい子、そいつを壟断している秋子の亭主に対する篠原がかってそれを指摘したら、内心に絶えず怒りを蔵し くちびる 嫉妬でギラギラしている様に見えた。ところが唇は ているせいであろうという、篠原などがよく使うような意 あご ロ角に肉が迫って隆起を見せている所など、顎下の豊かな味の答えに、どういう怒りかねそれはと篠原は冷笑的な調 ゆえじゃっかん 肉付と共にいかにも精力的な、それ故若干野卑な感じさえ子でわざと聞いた。秋子はフフと鼻を鳴らし、説明しなく ある、そうした感じに囲まれたこれまた精力的な分厚い唇たってわかるでしようといった顔をした。チェッ、深刻が ぞうお は、秋子に対する隠された憎悪で歪んでいるようにも見えるない。篠原は腮の中で舌打ちをし、過去に左翼的色彩が る。お前に惚れている弱みで利用されている様だが、しかあったなどというお前のロを誰がほんとにするものかとい し、見ていろ、お前みたいな奴はテンデ問題にしてはいなう顔をしたことがあった。ーーー・桜木町の駅前で篠原は南京 とびら いのだという所を見せてやるそ、そういう考えをその唇は街へと言い、自分で自動車の扉をあけて、はや片手をあ 示している様でもある。 げ、振り返って秋子をおーいと呼んだ。それを見た秋子は 桜木町に電車がつくと、篠原は降りようという意味で秋別段うなずきもせず、そして急ぎ足でもなければ又わざと いらべっ 子に一暼を投げ、そのままドンドン大股で先に行き、秋子ゆっくり歩いている風でもない普通の歩調で、まだ駅内を あるいていた。ーー。支那料理屋の二階で、彼はなんでも好 は余程あとからついて行った。秋子を良く知らない人は、 ひじ 力いしよう いちぐう なぶ おおまた
られないという所まで行ったみたいに感じられた。小関は通し、グングンと引張って行った。僕は失礼します、悪い わざと聞えない振りをし、彼女はオゼキサーンとふたたびですよ。ぐずつく小関を、秋子は、うるさいわね、黙って 叫んだ。それはちょうど、第一節にも書いた様な、彼がならっしゃいと押えた声で叱りつけ、小関は怒号する酔客の がく夢見ていた所の鼻にかかった甘ったれ声、そいつに寸恰好をその背中にはっきり感じながら、秋子のなすままに 分違わぬと聞き取られ、プルルと身体も震えたようであ今はまかせ、しかし、二三間行くと、今度は小関の足の方 ひっさら る。ゃあ ! 秋子さん。小関さん、どうしたの、こんな遅が早くなり、小さい秋子を引攫うみたいな有様に変った。 く。彼女はすぐと小関の傍に走り寄り、その肩に手をやら国民新聞前の電車通りまでこうしてフーフー言って来て、 んばかりであった。そう言うだろうとかねて幾度もロの中ああくたびれたと腕を離すと一一人の眼は自然と会い、どち ひぎたた で練習しておいた返事が、いざとなると、しかも余りにもらからともなく笑い出した。秋子はハンドバッグで膝を叩 にお 身近かに彼女を感じ、複雑なその匂いまでが彼の鼻を衝ききながら、どうにもたまらないといった笑い声を挙げた 上げる今となっては、その片言さえ頭にこない。もちろが、ちょうどそこへ自動車が車体を寄せて来るのを見る ん、彼女は彼の答など待たない風ですぐ言った。篠原、一と、 ( イヒールも軽やかに、ちょこちょこと走り寄った。 緒じゃないの ? 、ーー篠原 ? え、・ほ、・ほく独り。 小関は半分はまだ笑いがとまらない状態のなかで、本能的 あ、そう。そして彼女はニッと笑って見せ、笑った顔に蟇口を入れたポケットに手をあてたが、その時は、もう あご の顎を、眼は小関に注いだまま、生意気な風にぐっと引い秋子が慣れた手つきで扉をあけ、小関さんと言った。 たが、それを小関は と いやなオゼキサーン、あたしを待歓喜のあまり小関のロがきけないのは、それはいし じようぜっ ち伏せしてたの ? と言っているものと見、小関はなんとして、ふだんわり方饒舌な秋子が車に乗ると、ついさっき こうしよう なくそこらをぐるぐると歩き廻った。実は秋子は、篠原のの哄笑はどこへやら、すっかり黙りこくっているのはすこ 名を出し、その勝気から照れた、それは仕草なのである。 ぶる小関の気になった。秋子はその修練された敏感さで小 とびら おーい、まだかい。酔客が自動車の扉に手をかけ、地団駄関が自分に大変れてしまっていることを知っていて、そ かっ - 」う を踏むような恰好をした。秋子はまずひとっ独りうなずきれと同じ敏感さで篠原の心がはやとみに自分から去ろうと をすると、そこに立ったまま、あたし、お友達に会ったかしているのを、小関を側に置くとなぜかひしひしと感。せら ら、失礼しますわと言い相手の機先を制すべく、 ハイバイれてくるのだ。酒場で彼女に言い寄る男は種々といたけれ ちゅうちょ と右手を振った。そして、躊躇する小関の腕に小さい腕をど、彼女は彼女特有の小生意気な口調で、まあこわいみた じだんだ がまぐち かろ
おも いうのは、第三節に書いた雨の降る晩のことで、彼等は十かった。片想いと思えばこそ、お安くないぜとも言った 二時過ぎまで酒場メーデルにいたが、帰り際に階段の降りが、今はロもこわばって何も言えない。聞けば秋子は小関 ロで秋子はっと篠原の背後に来て、今夜くる ? と小声での朝夕出入する駅のひとつ手前の駅のそばにあるアパート 言った。今夜来て頂戴、ね ! と他の女なら熱ッぼく言うにいた。そこへ篠原は絶えず出はいりしているのだと知 べき所を秋子はさりげなく言う性質なのを、彼は知ってい り、どうしていままで会わなかったのだろうと言う小関の ゆが た。だから、橘への遠慮があったが彼はああと答えた。表顔は他の感情で歪んでいた。小関の家までの車代を篠原が で待ってて、すぐ行くから。ーーすぐ出られる ? え払って秋子と自動車をおりた時、秋子はお暇の節、お遊び え、もうお時間だからいいの、あたしの番もないし。このにおいでなさいと言った。そのお愛想を小関は大事に胸に 有様を小関は階段の中途に立ちどまったままニャニヤしたしまい込んで、それから三日後の日曜日に秋子のアパート めいてい 小関の奴め、 顔を振り上げて眺めていたが、これは酩酊した為の無神経へ例の贈り物を持って訪れて来たのだ。 のせいではなく、そうすることはきっと篠原をよろこばす内気そうに見えて仲々図々しいから : : : と篠原は言い、小 よど と彼は考えていたのだ。いい ところは案外他人に見せつけ関の名を出すのにちょっと言い淀んだ秋子の顔をうかがっ たいものだからと彼は彼流に考えていたので、気をきかした。クリームをそのまま押入の奥にしまい込んだ所を見て た橘が下で、小関君 ! 小関君 ! といくら呼んでも応じも、なにかあったと彼は思った。そして先に書いた彼の言 たた なかった。外へ出ると、小関は篠原の肩を叩いて、おやす葉があり、彼女はべーと言ったのである。 その日の夕方、小関が篠原のアパート を訪ねて来た。篠 くない・せと言ったが、相手は答えず、橘に今アの字が出て くるそうだから、みんなでおでんやヘでも行かないかと言原は、小関が秋子を訪れたことを口に出さず、小関もまた った。橘は明日の勤めがあるからとことわった。そして別篠原にそのことを言おうとしなかった。 得れて行く橘に、小関も一緒について行けばいいのにと篠原 忘は思ったが、小関は飲みつけぬ酒にすっかり酔払ったの もど 第五節 か、身体をク = ヤク = ヤと動かして酒場の前を行きっ戻り っしていた。そして小関と篠原と秋子と、三人一緒に自動 車にのることになったが、酒場で見るのとは打って変った 小関が篠原のアパート を訪ねたその夜、間もなく友成達 彼女の篠原への態度は、小関をすくなからず驚かしたらし雄の ( ドイツ生れの彼の妻マルタの形容によれば ) 上海苦 なが シャンハイター
まで ちゃッたあ。ーー・と結婚して彼の下宿へ行った最初の印今迄は顔をまっすぐ前にむけたまま独りごとでも言うみた ふう 象を、彼女はこう語った。彼女は両親をはやく失い、当時いな風だったのに、今は彼の顔をジッと見上げ、責め立て 新聞社に動めていた兄と一緒にいて、彼女は喫茶店へ出てる様な口調だった。ねーエ、あんた、見たことない ? 凄 いわよ、刀をグッと突込むと、そうね工、なんというか いたのである。ーーとはこの喫茶店で知合いになったの かなた 、周囲に眼をやって形容詞を探すうちに、彼方の噴水 であるが結婚といっても同棲みたいなものであった。この あこが 同棲は、いかにもあさはかな喫茶店少女の憧れーー・たとえに眼をとめ、ちょっと、ちょっと、あれ、まるであれな の、と彼の肘まで引張って、ちょうどあれみたいに血がプ 講談倶楽部三冊のかわりに万巻の書が積まれていようと、 ーツと吹き出てくるじゃないの、あたし、驚いたわ。そし わかりもしなければ又読もうともしなかったろうが、色と りどりのそうした書籍に取り囲まれての「芸術 , 的な生て生唾を呑み込む秋子に、ホントですかね工と篠原はとぼ ら・ら 活、緑色のカーテンには春光が麗らかに照り映え、窓下にけた。あら、あたしウソなんか言わないわと彼女は真剣で とりか′」 ところで、こういうエ合に、女がその過去を語 ある。 つるされた鳥籠ではカナリヤかなにかがチチと啼いてもい よう、あなたア、ちょっとお休みにならない、お仕事をあるのは男の気を惹く手段である如くに、筆者はかねて聞き 及んでいるのだが、秋子はそういうつもりで言っているの んまりおつめになると身体に毒よーー・ああ有難う、 ままいす ではないらしく、篠原も亦そういうつもりでは聞いていな は絵具で汚れたプルースの儘椅子に腰かけると、秋子はい いらしい。しかし二人の心が仲々近づいているらしい事は そいそとコーヒーをつぐ、こういった通俗小説のような 「芸術」的生活を夢みていたのにーー・その夢想がものの見見のがせない所である。ふだんの秋子であったなら、この こうり・よう 事に破れ、秋子はすぐとーーの荒涼たる下宿を飛び出し場合などは当然、ツンとしてソッポを向いてしまうところ てしま 0 たのである。でも、ずいぶんっきまとわれて困 0 であるのに、ねえ、ねえ、ウソだと思 0 てんの、ねえと彼 たわと、秋子は言 0 た。しまいには、お前と別れて俺は生女は篠原にこの話の真実を信じさせようとし、彼から確答 それからしば きていけないと言って、あたしの見ている前でおなかへ刀を得るまであくまで追及したのである。 らくして、どういう話の筋道を辿ってだか、篠原は前にも おなか ? 篠原が耳を寄せると、 を突き通したのよ。 秋子は自分の腹に人差指を突き立て、こわかったわ、あた言ったことを又言った。君はまだ子供なんだね。身体つき し。そして、篠原がなんだ、ばかばかしいとい 0 た風な顔も十七八にしか見えないけど、前の時には、秋子の子供ッ びたい ぽい媚態に誘われての愛情的な潤いがあったが、今度は幾 なので、秋子は、ねーエ、そんな所見たことある ? と、 なまつばの ひじ すご
た横になり、何時だいと言った。秋子は机の上の腕時計を 見て、ぶつきら棒に十一一時二十分と言った。そんなになる 第四節 のかね、まだ眠いなア、どうする起きる ? ーー秋子は答 えず、机に肘をつきぼんやりと半分閉じた方のガラス窓を しり わき とびらたた コッコッと扉を叩く音に篠原は眼を覚まし、隣りに寝て眺めていた。臀の両脇に足を出した、よく言う貝が舌を出 いる秋子を肘でつついた。第三節から一週間ほどたった或しているみたいな坐り方の秋子にチラと眼をやり、彼は寝 る朝である。うーん ? と寝呆けた声を出しこちらに顔をたまま手を延ばして・ ( ットを取り、おいマッチくれ。机の 物一 / 、・りもみ - 上のマッチを秋子はやはり黙って彼の枕許に投げた。どう 向けた秋子に篠原は怒ったような声で誰か来たと言った。 せんたく 秋子は髪をガリガリかきながら、いずれは洗濯屋か弁当屋したんだ、いやにむくれてるね。別にその答も期待しない だろうがうるさいなといった調子で、どなたアと言うと調子で、天井を眺めながら煙草をうまそうにのんだ。しば ちょっと開けて下さいというア。 ( ートの主人の声に不承不らくあって、ねーーと、秋子が彼に背中を向けたままの恰 、な・せ僕の女房ですッて言わないの ーズ一枚の寝たまま好で言った。ね 承、寝床から起き上った。そしてシミ かっこう 女房 ! 君は僕の女房じゃないものーー今はそうじゃ の恰好で扉の鍵をガチャリとはずすのを見て、篠原は布団 のなかにもぐり込んだ。扉を開ける音がし、しばらくしないにしろ、そのうち女房になるんだと言えばいいじゃな いの。ーー・未来の女房か、そう言えばそんなような歌があ て、別に変りはないようだねという声がし、ハテと篠原が 耳を立てると、そこに寝ている人はときかれた。筰原はあったなア、今はぬしさんの為にどうとかだけど、あたしゃ よして、ふざけ わてて起き上り、戸口に突き立った巡査とその背後のアパ未来のなんとかの女房コリヤコリヤ。 チェッ、俺だ ートの主人に向ってふたつお辞儀をし、いや、どうもと言るのは、あたし、本気で言ってるのよ。 え、この人って本気だよ、本気だからこそ未来の女房ナンテおかしく 僕はこの人の った。君はなにかね ? おそ じゃ、あたしは未来の女房じゃな って言えやしない。 をちょっと世話している者ですが、昨夜ここで晩くなった いってわけ ? よせ、未来の女房ナンテ田舎臭い言葉 ものですからーー時々泊るのかね ? 時々というわけ しばら じゃ、よすわ。そして暫く秋子は黙っていたが、 でもないですが、そう言って彼はついニャリとした。巡査 、ら こりや、おかし は彼の住所氏名をかぎ、え ? え ? と幾度か聞き直してあたし、嫌い、世話してるナンテ。 ふきげん 、嫌いも好きもないじゃないか犯すべからざる事実だも 書きとめ、不機嫌な顔で立ち去った。ああ驚いたと彼はま ふとん おれ
分、冷笑的なものがあった。だから彼女も露悪的な調子で言わないじゃないの。 ( z ーー・は秋子が初めて知った男で こう言った。そういえば、あたし、子供がちッともできな彼には妻子があり、そしてーーー・と結婚したのだが 避妊のあれしてるわけでもないのに。 ほほうと首の所を去ると、又、ーーとの関係が続いたと彼女はさきに てんぜん を小刻みに振った篠原は、秋子の恬然とした露骨さにやや語ったじーー・白状したのはそれだけだけど、まだまだ前 へ、えき かお 辟易した貌であったが、彼とても露悪的傾向にかけては普科のある顔だよ。篠原は秋子の怒ったのに内心あわてなが もちろん かいぎやく だめ だれ 通人は勿論、そうした傾きのきわめて強い彼の仲間の誰にら、諧謔でまぎらすつもりだったが駄目だった。 ーー前科 秋子の もひけを取らぬのであって、秋子はーー・彼女ももともとそナンテ人を馬鹿にしてるわね、まあくやしい ほお の傾きはあったが、篠原に誘導された所が多分にあった。頬にポロリと大粒の涙が伝わった。ーーー君、今のは冗談だ かっころ・ 篠原が友成の言によれば「世界の苦悩をひとりで背負ってよ、ごめん、ごめん。彼は秋子の手を取らんばかりの恰好 りんびよう いるみたいな顔付で、その淋病をみんなに触れ廻っている」で、駄目だよ、往来で泣いたりしちゃ、謝まる、ほらこの わざ 0 のは、他でもない、彼の露悪的な好みがさせる業で、むし通り あたしのこと女郎だナンテ : そう言うと、 ひそ おお そば ろ露悪にした彼の言動は、露悪好みの友人でさえ秘かに彼女はワーツと泣き出し、顔を手で蔽って傍の植込みの中 ひんしゆく ひとしく顰蹙しているところであった。その彼が露骨にかに駆けこんだ。彼はその後を追おうとして、周囲を見、や けては、秋子に負けているはずはなかった。妊娠しないのめた。みんなが見ている、ね、ほんとに謝まるから泣くの うわくちびる はーーと、上唇を左の方にあげる例の笑いを浮べて、 よしてくれ、そう言いながら、この女、俺に惚れてるそと くびぬぐ それは君が子供のせいじゃないさ、君があんまりいろ彼は腿の中で思い、香水のついた ( ンカチで頸を拭った。 いろな男と x したためだよ、ああそうともさ、女郎を見給自分をズベ公と思わしたくないんだ、ふふん。そしてポケ つめ たた ットからチェリーを出し、親指の爪の上でゆっくりと叩い べえ、その為に絶対に xx しないからね。秋子はキッとなっ 得て何かロ早に言ったが、折から一一人の横を砂煙をあげて走ていたが、植込みに隠れた彼女も亦、あの人あたしに惚れ 忘り去ったオ ート・ハイの爆音に消されてきこえず、でもそのてるんだわとつぶやき、ちょっと舌を出したい感じだっ 調表情から意味は汲めるので、だって、君は自分でのろけたた。前の男のことを妬いているのに違いない、そいで、あ いやみ しゃなしか、ーーーとかそれから いろいろ : : : 秋子のんな厭味を並べたんだ、まあ面白い。そしてケロリとした 汗の浮いた鼻の頭からさッと血の気がうせて、いろいろだ顔で出て行くと、チェリーをきざッたらしくくわえた男の ナンテ、まあひどい、あたし、ーーーと Z ーー・のことしか顔も、ほんとに謝まると言った、そんな顔ではないので、 0 や おれほ あや
て、ヘタへタとしやがみ込み眼をつぶったのである。しばろすと、廻れ右をした。そしてイチニ、イチニと心の中で らく、そうしていて、今は前のような熱つぼさを失った眼号令をかけながら再びメーデルの方へ四五歩進んだ時、店 で、なにげなくメーデルの方を見ると、既に店先のメーデの前の街路にパッと店内の光りが溢れ、その中へ乱酔した もっ たちま ルと欧文で書かれた看板は電気が消されていた。彼は衝か二人の男が縺れながら現われた。彼の足は忽ちすくんでし れたように立ち上り、すると二疋の犬は、知らぬ間に黙っまい、そして一人の男が店へ手をのばしたままで、なんだ わめ て歩み寄っていたものと見え、彼のすぐ足もとからへンなか喚きながら手を引張っている、その手のさきにいるの 叫びを挙げ彼も驚かされて、ヒェッと叫ぶ、犬はすっかりは、他ならぬ秋子だと気がつくと、彼はパッと身体を返 逃げて行った。そのヒェッをまるで合図にしたように、彼し、すぐ横町にのがれ、もう一目散に駆け去った。 そうろう も蹌踉と物陰から姿をあらわし、メ 1 デルの方へ歩んで行息切れがして、彼は立ちどまり、ゼーゼ 1 と咽喉を嗚ら った。近づくに従い、店のなかで酔払った客がなにやら叫しながら、この馬鹿め、 ハイと彼は自ら答え、身体を んでいる声が、今は全身が耳になってしまった彼を刺し、 シャンとさせた。そして眼をつぶってという感じで、再び AJ い、つ そのズキズキとくる痛みの如きものに背骨でも衝かれるみ来た道へ足を戻した。戻してみると、しまった ! たいに、いけない、もっとゆっくり、そう思いながら、そ感じに今更ながらどやされ、彼は再び駆け足に近い状態に の足はトットと早くなった。そううまくは、秋子は姿をあなったが、見ると、前の四辻に縺れている人影の、ひとっ らわさず、メーデルの前を彼はとうに行き過ぎ、従って足の小さいのは確かに秋子である。彼は腹に力を入れ、前後 もやや緩やかになった彼を、息詰る照れ臭さからそういう不覚に酩酊したみたいな風を装いつつ、そして装ってみる 場合の大概の彼のように、そのまま、心ならずも帰ってしと、それは装いでなく事実であるようなフラフラした頭を ぎまうことから辛うじてまぬがれさせたものは、彼がたしか感じて今度は臆せず近づいて行った。車に乗ろうと酔客は 得に聴いたと信じた、秋子が酔払った客の恐らくはからみつ 言い、そんな遠くへ行くなら、あたし帰ると秋子が拒んで いる、その秋子の声がはっきり聞きとれる距離まで、はや 忘く手をのがれながら言っているらしい、大丈夫、あとから 日 きっと行くから先へ行ってて : : : ねえ、駄目、という声で彼は近づき、彼は眼を道路に落したまま、もつれる足を無 故 あった。今、眼の前に山が崩れてきたとしてもエイ糞と彼理に出し、秋子が彼を呼びかけるのを今や遅しと待ち構え 5 は大手を拡げたろう、そんなャケクソな気持で、どうあっていた。あら、小関さんじゃない。幸い、秋子はすぐと小 めつほう ても秋子に会わねば、と彼は片足に力を入れェイと踏みお関を認めたのだが、小関にはその間が滅法長く、もう堪え ゆる ひろ 0 と だめ くそ