4 関もまた だれもがニヒルなデカダンに陥っており、小 そこにひきこまれて いく。小関が酒場の女秋子の引越 しの手一ム、こ、 イしーしこうとしているところへ、旧友沢村の 自殺を知らせる通知が舞いこんだ。この非転向の旧友 を追悼する会の席上で、小関や篠原たちは「ロをあけ て胸のモダモダを吐き出すようなしいャケな歌声」 で「故旧忘れ得べき」の日本版「螢の光」を歌うのだ った、というところでこの小説は終わっている 作者はこうした「左翼くすれ」の知識青年の、 つかのタイプと、彼らのやけつばちな自嘲・自涜の生 活を、独得な饒舌体のねばっこ、 しかし十 ~ き牢一きし た手法によって鮮やかに描きだしたのだった。説 = ⅱ体 ということなら、すでに字野浩二や佐藤春夫、谷崎潤 一郎らにその試みがいくつもあって必ずしも高見順が 右福井県坂井郡三国町の生地近最初というわけではなかったが、高見の場合は地の文 くの東尋坊を訪ねた順 ( 昭和三十と会話を入れまぜ、時間を交錯させ、ところどころに 一年九月 ) 描写を折りこむ独創的なもので、習作時代にダダイズ ムや新感覚派の影響を受けた「故旧忘れ得べき」の作者 ふる 上来日のフォークナー氏とアメ は、ここで旧いリアリズムに反抗する前衛的な独自な リカ大使館にて ( 昭和三十一年夏 ) 方法を試みたのだった。 一見したところその滅茶苦茶 〈撮影者若松不二夫〉 にさえ見える文体と方法が、かえってこ、つした焜乱 錯乱をとらえるのによくマッチしている。ここに「故 乍者は「あ 旧忘れ得べき」の文学的な成功があった。イ 年 7 448
東京・山の手と下町 中島健蔵 高見順文学紀行 7 取材中の中島健蔵氏 ( 東京都港区白金台・覚林寺境内の「清正堂」前にて ) 一同世代人 はば同年代に生れた人間の間に かなりまで似た経験があるの は当然のことだが、細かく見てい くと、そうかんたんにも、 しし、刀、ね る。高見順とわたくしとの間には、 地理的な関係で、案外接点がない。 高見は、福井県坂井郡三国町で生 れた。わたくしの父は、福井県一二 方郡早瀬の出身である。高見は、 二歳の時、東京麻布に移住した。 わたくしも、幼時、物心がっきは しめたころから高見と同しく東京 麻布町に住んでいた。 高等学校の時、わたくしは松本 に行ったので、高見とはぐんと離 れるが、東大文学部では、少なくと も一か年ぐらいは、同時に学生と して籍を置いていたはすである。 その後しばらくは、距離が遠くな 1 昭和十年代にはいってから、
人たちによって開かれた時、その席に石田愛子が出席意をかため、五年間にわたるサラリ ーマン生活に終止 し、高見夫妻と握手をした。井上友一郎の小説「高見符を打った。 「文芸時評」で「文学界」賞を受賞し、 ーうし・うろう 順」には、高見だけでなく、井上たちまで驚き周章狼九月には最初の単行本「起承転々」が短編十作品を収 狽する様子が書かれている。この時、愛子を引っぱっ めて改造社から、翌十月には短編集「女体」が竹村書 てきたのは田村泰次郎と十返一 ( 肇 ) だったらしいが、 房から刊行された。 ひだ 愛子も悪びれすに起って祝辞を述べたという。 日華事変がはしまった昭和十二年七月、飛騨の白川 ところで「故旧忘れ得べき」の後半が発表された「人村に出かけ、庄川をめぐって展開された水力電気会社 民文庫」は、昭和十一年三月、「文学界」の小林秀雄やと木材会社の激烈な係争に取材した「流木」を書き、 林房雄の傾向にあきたりす思っていた武田麟太郎が、 「文芸」十月号に発表した。この小説は高見順のいわ オこの年の十 新たに高見のはか、「現実」と「日暦」の同人を中心ゆる「左翼もの」の最後の作品となっこ。 に旧作家同盟系の新進作家を結集して創刊した雑誌で 月、「人民文庫」のメンバー十五人は新宿の喫茶店大 ある。「日暦」に途中から参加した円地文子、田宮虎山で徳田秋声の研究会を開いたが、いきなり飛び込ん 彦、矢田津世子らも加わり、保田與重郎らの「日本浪できた刑事に全員が手錠をかけられ、淀喬署に逮捕さ 曼派」が「浪漫的詩精神」と民族主義を高唱したのにれるという事件がおこった。高見、新田、荒木、田宮、 対し、武田や高見たち「人民文庫」では「散文精神」 ヾー . 翌亠日 田村、立野信之、本庄陸男ら研究会のメンノ による批判的リアリズムを唱え、ファッシズム的な潮釈放されたが、このできごとがきっかけとなり、翌昭 流に対抗した。 和十三年一月号かぎりで「人民文庫」は廃刊された。 この年、高見は「故旧忘れ得べき」を「人民文庫」 この前後の経緯は戦後の長編「深淵」に詳しい に連載したはか、「文芸時評」を「文学界」に連載した 高見順の浅草での生活がはじまったのはこの頃から 「描写のうしろに寝ていられない」を発表するな である。住居者がはとんど芸人ばかりの五一郎アパ トに部屋を借りて、高見は六区を毎日プラブラはつつ ど目ざましい活躍がはしまり、五月から「国民新聞」 に最初の新聞連載小説「三色すみれ」 ( 後に「遙かなる き歩いた。間もなく傑作「如何なる星の下に」が、こ 朝」と改題 ) を書くことになって、筆一本ですすむ決こで書きはじめられた。 . せん 450
はそれを交響曲のように再構成することに成功し、一 つのモニュメントをつくり上げたのである。日本橋の メリャス問屋に生まれた兄弟二人の人生を描いた「激 て第一部が完成した。 流」も、「いやな感じ」に続い 昭和に生きた人間を自分のことの 「いやな感し」が ように感し、考えるよ、つになっていた高見順によって 書かれたとすると、「激流」には「私とともに生きた 人間」「もしかすると、私が生きたかったかも知れない 人生」が描かれようとしたのだが、死のため、この長 編は第二部が始まったところで未完のまま終わった。 詩画集「重量喪失」の草稿 ( 昭 いくたびもの病気に打ちかち、健康も気力も充実し 和四十二年八月、求龍堂刊 ) て、ようやく「いやな感し」や「激流」に高見順は芸 上日本文芸家協会、日本べン 術的な豊熟を示しはしめ、さらに「大いなる手の影」な クラブ、日本近代文学館の団体 どの新しい連作の構想も固まり、そして近代文学館の 葬 ( 昭和四十年八月十七日死去 ) 設立運動が始まったが、すでにこの時高見順は食道を 国 におかされ、回復の見込みのま「たくない病魔にと 当 3 らえられていたのだった。 坂 昭和三十八年十月四日の午後、わたしは高見さんに 県 井寺 呼びだされた。高見さんは笑いながら「どうもらし 福蔵 円 いので、明日入院するけれど、即日帰郷ということも 寺 の提あるからね」と言って、それから銀座で開かれる高見 菩 さんを送る壮行会 ( 正式には「お見舞い代りの会」 ) に 高町 4 463
大正末年頃の東京府立第一中 学校 ( 現都立日比谷高校 ) 上大正八年頃、府立一中同 級生による扇面への寄せ書 中真 年の 正の 大生 ( をーー支亠第優を ~ 要ーツ当三二 芸術的達成をみた」 ( 平野謙 ) とされるに至ったが、こ うしてようやく作家としての豊熟を示し、再び「高見 順の時代」を現出するところまできなから、昭和四十 年八月に階しくも癌のため没したのである 初期同人雑誌の時代から「激流」「いやな感じ」に至 るまで、いわば昭和文学の歴史を身をもって切り開い てきたのが、高見順の文学的生涯である。高見順は、昭 和という時代を象徴する作家だったといってもいいす にはならないたろ、つ 高見順は、明治四十年一月三十日 ( 戸籍では二月十八 日 ) 、福井県の三国町に生まれた。死の直前に平野謙に たところによると、実際は明治三十九年十二月の 生まれだったということで、それを高見自身がその頃 まで知らなかった、というのである。「わか胸の底のこ こには」のはじめのは、つで、 ~ 〔回見は「ムにける暗い 出生の翳について」次のように仕日いている。 「私の父親の cn ーは z ー家からー家へ入った養丘 なのだが、私の母親と会う少し前に家付の娘である その妻を失っていた。 母親が北陸の港町で会ったと きの父親はその県の知であった」
山知義の一幕もの「仕事行進曲」などを演出しこ。 ただ自己を オこ出ようなどという気はあまり」もたすに、 の劇団で高見は当時府立第一高女の生徒だった石田愛 「プロレタリア作家として鍛えるのに脇目もふらすに 子を知り、大学を卒業する直前の昭和五年一月、母の いた」 ( 同 ) と語っている数年間である。これらの作品 反対を押しきって結婚、はしめて母と離れて大森に住は公式的なプロレタリア文学の欠陥から抜け出ていな んだ。 いものか多い。その頃、 ト説は工場地卅市に住むこと 「大学を出る頃は小説ーーーと行かなくても売文で食によって生みだし得るものだと考えていた高見は、作 って行けるだろうといった大変虫のいい考えだ . った家同盟の方針に忠実にしたがい、実践運動にまではい か、どっこ そうは行かない。そこで市河 ( 三喜 ) って、金属労働組合の工場サークルを組織したりする 博十に泣きついて研究社の辞書編集部に入れて貰っようになっていた。 半日勤めで手当四十円の臨時雇いである。半日 しかし昭和六年九月に満州事変が始まってから日本 プロレタリ は小説の勉強ができ、好都合の勤めだとおもったが、の軍国主義は急速な勢で強化されていた。 その頃結婚したので四十円の生活費ではお話にならア文学運動に対する弾圧もしだいにきびしさを加えて ない。やむなく、ちゃんとした勤めをさがし、コロ いたが、昭和八年二月二十日、東京築地警察署に逮捕 ムビア・レコード会社に職を得られた〕 ( 「文学的自された小林多喜二がその日のうちに拷問によって虐殺 叙伝」 ) された。ちょうど小林と同じころ、高見も治安維持法違 この頃の高見は、「大左派」の後身である雑誌「十反の容疑で大森署に逮捕され、本庁から来た特高刑事 月」その後身の「時代文化」さらにその後身の「集団」から「お前も多喜二のようにしてやるぞ」とおどされ などに「序」「堤を行く救済婦人会」「の欲望」「檻のながら、拷問にあった。三か月の留置のあと、転向し 低級闘十」「がストニアの歌」「私生児」 ( 昭和十年の同して一年間の起訴留保処分となり、 釈放された。ところ 愛子が高見を捨てて出 題の小説とは別の作品 ) 「檄」「合法主義」「オ、ンヤ力」「反が留置場から帰るとまもなく、 」などの小を次々と圭日き、コロムビアに勤めな 本廾した。 からフロレタリア作家同盟の城南地区キャップとして このできごとで、高見が強いイ 断撃を受けたことは言 活躍していた。後になって、高見か「いわゆる文壇へ 、つまでもない しかしこの年の九月、新田潤、渋川驍、 おり
戦平和を目的とした「左翼文芸家総連合」と、ナップの 支持を表明している。「高見順」の。ヘン・ネームが使 われたのはこの時が最初だった高見は、新田と二人 で友人の家へ行く電車の中で、「新田は本名半田、気分 を新たにというので新田とつけた。私は本名高間。私は 平凡に、マミムメモの順で高見とした。次に名だが、共 通にジュンと付けよ、つと一言って、新田は閇、ムは頂と きまった」 ( 「文学的自叙伝」 ) と、そのいわれを語って いる。「高見順」という字は画が少なく、「まるで私の 身心のようにヒョロヒョロとして頼りない成 ~ じである のか不満になり、 気かっくと、『高見の見物の筒井順 慶』をつづめたみたいであるのが更に私を憂鬱にした。 ひょりみ 私の生活態度の日和見を自ら暴露しているようである てつかい ふてくさ のが一層憂鬱を濃くした。だが不貞腐れて、撤回しな かった』 ( 同 ) というのである , 執の メ , エルホリ・」「に 一高時代に築地小劇場にかよい ー ) 」内 8 れ乍ュ日ー 強い関心を示して、演劇論の翻訳をしたり、 入ム ド・ショーやカレル・チャベルの芝居にエキストラと めウ和 召の して出したりしたことのある ~ 〔回見は、 . 説や評ムⅧを の 年撮書きながら、昭和三年の春、自分が中心にな「て劇団 世ナと 1 」っ」 疾サ人 「制作座」をおこし、この年二回、帝国ホテルの演芸 1 ー 立ロ わ 場で公演をおこなった。座員は文化院、慶応、法政 の学生たちで、こちらでは高間芳雄の本名を使い / 料て 上 右 443
とら とらお 高見順がよく行った新橋駅近くのおでん屋「寅ちゃん」 ( 白い仕事着姿が主人寅男さん ) 「掌に小虫をのせあるかせるその急ぎ足をかなしむ人生に似ている病床で 高見順」と書かれた色紙が見える。
4 上昭和 22 年 2 月、デビュー当時の三条美 紀とともに で集中 編食の高見はここにダダイズムのコント「響かない警鐘」 浅庫昼 その他を発表し、翌大正十五年には深田久弥の後をう の文 跡倉て けて一高の文芸委員に推され、「校友会雑誌」に毎号 習作を発表しはしめた。「、ツ ・ト見 ~ 豕になろ、つと 頃月屋決心」したのは東大文学部英文科に進んだときで、ま 末 8 木 : 年年白 もなく半田祐一 ( 後の新田潤 ) らと同人雑誌「文芸交 一 c 和京錯」を創刊、ここにはト説「短篇集第一」「悲劇の第四 昭東型」のほか、表紙の装画やカットまで「高間芳雄」の : 上左部本名を使って高見が描いている。 この「文芸交錯」は昭和三年に当時東大内で出され ていた藤沢桓夫や武田麟太郎らの「辻馬車」など左翼 的な同人雑誌六誌と合同して「大学左派」に発展的解消 たこの雑誌 ( ー、 、こま当時のマルクス主義芸術理論の影 響の強い「植木屋と廃兵」などの小説のほか、「葉山嘉 樹論」「我国に於ける尖端芸術運動に関する一考察」な どの評論をも書き、批評家としてもすぐれた才能を示 している 同じ昭和三年に高見は壺井繁治、三好十郎、半田祐 一 ( 新田潤 ) らと左翼芸術家同盟を結成し、その直後に 全日本無産者芸術連盟 ( ナソプ ) が結成されると、壺井 や高見たち左翼芸術家同盟のメンバ ーもナップに加盟 し、高見はその機関誌「左翼芸術」創刊号に小説「秋か ら秋まで」のほか、「六号雑記」を書き、同年三月の反
出ていった。直前までまったく元気そのも . のだったの が埋葬」 ( 昭和三十八年 ) があり、さらに没後、未発表 で、わたしたちはとても信しるこどができなかった。 作品を主として編んだ「重量喪失」 ( 昭和四十二年 ) の 」い、つ その夜の会に出た誰もがやはり信しられない 五冊の詩集がある。これらに収められた高見の詩は、 風だった。しかし手術後はしだいに病状が進み、危険平明な散文脈の詩型に、おそろしいまでの自己凝集が に収められ 示されている。「死の淵より」は死と向かいあい、死 な状態がはしまった。詩集「死の淵より」 の呼び声を聞いて恐れ、おののき、もだえ、苦しみ、 た五十数編の詩は、以後約一年間の病床での作品であ り、そしてそれに耐え、闘った作者の絶唱である る。「群像」昭和三十九年八月号に発表された。 詩人としての高見順には、ほかに昭和一十五年の詩生 ~ の鞦で不屈な魂と、その死の淵での体験とが怖 しいまでに鮮やかに詩の型の中に結品していたため 集「樹木派」のあと、「高見順詩集」 ( 昭和三十四年 ) 、「わ 多くの人に衝撃をあたえたのだった。 る 「日本民族と日本文化とをあらためて見直し、そのエ す ネルギーを再評価したい。そして未来のために今その 講市 基礎をつくっておかなくてはならない」という高見順 で井 ーに の呼びかけで始まった日本近代文学館の建設運動は、 昭和四十年八月十六日、東京・駒場の建設予定地で起 会 工式を迎えるところまで進んでいた。七月初旬からし 1 日 ばしば危篤の状態に陥りながら、高見さんは静かに耐 念月 え、その都度危機をのり越え、死と闘い続けた。ついに 成年 その十六日まで奇跡的な生命力を持続し、翌十七日、 五十八歳の生を閉した。 文 ? ゞーネ言した撮影者以外に得た写真協力Ⅱ河ー 頂成 房新社、文藝舂秋、毎日新聞、堺誠一郎氏 見康 高端 写真の著作権については極力調査しました ふう 464