島原半島の貧しい士族の家に生れて、南洋開発、日本民 族の発展という夢を持って、外地へおし渡って来た彼に 香港 は、彼のゆめみた理想が砂上の楼閣の如く消え去ったあと でも、何かの理想を持ち、観念に生きようとする夢が去ら ぜげん 十六人の密航婦をのせた石炭船が港々によりながら、ゆなか 0 た。彼は国際的女衒をしい仕事だと思うよりも、 からだ ホンコン るゆる船足を進めて行く目的地の香港には、虎松の親分のそういう貧しい女たちの身体をひさいで得た金を、故国に 勝沼貫太郎が、船の入るのを今か今かと待ちうけていた。送金させることによって、日本の国を富まし、貧しい親兄 勝沼の経営する旅館兼茶館兼日本人会事務所という肩書き弟をいくらかでも豊かにする国家への奉公であると見てい はだ の多い建物は支那街の一角にあって、四階造りの堂々たるた。日本人の女として外国人に肌をゆるすのは一つの罪悪 テソッンアそイカントン 外容を具えていた。上海から天津、厦門、広東、中南支のを犯している。それは天皇陛下に対しても、国家に対して 諸都市を渡り歩いて来た勝沼がようやく最初に上陸した香も、深くお詫び申上げなければすまない醜い行いだ。その 港に根城を得て、シンガポールへまで手をのばすようにな醜さ、はずかしさをつぐなうために彼女たちは国へ送金す しよくぎい ったのは日清戦争の終ったころからで、彼の成功は大半内る。そのことは彼女達の贖罪であると同時に自分のすすめ せんどう 、ようかっ 地からの売春婦の輸出の・フローカーとその旋者として、 てさせ得る一つの善行である。勝沼は煽動や脅喝としてで 内地を食い詰めた殺人、強盗、窃盗などの前科者を使った なく、そのことを信じこんでいるので、自分の手で、売春 ZJ くいん ことにあった。当時の法律で前科者とされ兇悪の極印をう婦に売る多くの女に肉体で交り、「お前はおれの家内だ。 たれたものの中には今日の常識で言えば、犯罪者と見なせ外国人とはいくら関係してもいいが、日本人と関係したら しやくりよう ない情状酌量の余地のあるものも多かった。 唯はおかんそ」と大真面目に説教した。彼の関係した女は 勝沼はこれに眼をつけて、彼らの適度なやくざ気質と大数百人にの・ほり、南洋諸島や、印度などの果てに売春婦と ゅうかい めんめん 胆さを利用して、密航婦を誘拐する密航師に仕立てたのでして暮らしながら、彼に当てた思慕の手紙を綿々と書き送 ある。しかも彼は、日本の貧しい娘たちを外国へ連れ出しって来たという。 * ごしんえい て外国人相手の売春婦にすることも、それを連れ出す密航勝沼はこういう生活をしながら、毎日御真影に礼拝し、 師に前科者を使ったことも、日本に対する忠誠だと信じて太陽の上る方を、故郷の日本ときめて、自己の南方開発の 疑わなかった。 理想の実現を神に祈念していた。勝沼のしていたことは矛 そな シャンハイ あっせん ただ みにく む
めかけ 「あんたの目的が、日本娘ば女郎にするこって、人の妾にあった。しかし三千円という思いきった高値の申出でに たらま ただ さするのを好まんわけはよっく解ったる : : : 唯こんのとこは、彼の愛国倫理は忽ち破れるもろさを持っていることも だんな ろはその楊ちゅう旦那な、私が取り立て切れんと弱って居争えない事実であった。勝沼が返事をする前に、とめがま った支那人の貸金を肩替りしてくれたりしとって、義理なず驚嘆に似た声を上げた。 ある・ま、。 をしここんところは、すげないこと言わんと私が顔「まあ三千円 ! 何て素晴らしい値段やろ。小母はん : あてはか しろきん ば立てっと下しゃい。そんかわりな身の代金の方は、女郎こんないいお話、旦那が何といわはっても私が計ってきっ に売る三倍な出すたい。よか女子があったら三千円出すとお世話しますさかい、どうぞ、他の人たちには話さんと おくれやすや」 「おお、何で話しまっすか。私や勝沼しゃん一本でこん話 コ一一千円 ! 」 とさすが勝沼もぎよっとした顔をした。女郎屋へ売る場まとめる腹でここまで出て来よったんじゃ。そげんに、お 合には、女の器量や年によっていくらかの開きはあるけれはんらの方でも、飛切りのよか玉、世話しつくれよらんと ども大体六百円から七八百円が相場で、その大部分を女の話にならん」 「ええ、ええ : ・・ : ようございますとも・ : ・ : 今夜のことにや 借金として、買い主に返す仕組みになっている。つまり、 旅券なしに海外へ密航した女たちは、海を渡って来る為に行きまへんが、明日の朝、皆、風呂に入れて、磨いてやっ 法外な高い税金を・フローカーに支払うわけで、勝沼の今住てからお眼にかけますわ。十五六人の中にはいつでも一人 んでいる立派な四階建ての石造家屋もこれらの日本娘を商や二人、大阪か東京で芸子に出しても評判になるやろう思 品とした取引きの代償として得られたわけである。言いかう器量の娘がありますよって : えれば勝沼は無智な、貧しい娘達を売り飛ばして、金を儲とめが急に言葉までていねいになって、一生懸命に話し あごひげそ からだこわ け、女達の中には売春の間に身体を毀して死んで行く悲惨ているのを、勝沼は頤鬚の剃りあとを撫でながら、苦笑し たど な運命を辿るものも多いのに、彼女たちは外国人に身体をてきいていたが、最後に、 売った罪を祖国に対して生涯詫びつづけねばならぬと教え「勝沼しゃんも承知とな : : : 」 とおッャ婆さんが念を押すようにいうと、うなずいて、 ている。この勝沼哲学から言えば、売られて行く日本娘が 「こやつがこぎゃん夢中になってはどうもなりまっせんた 売春婦にならず、一人の外国人の主人に仕えるような奉公 ・ : 大方、こん間から欲しがっとる翡翠のよか色の指輪 をすることは祖国を忘れがちになる点で感心出来ないのでい : わか ひすい
はず し、次に父親、さて両親にきいたあとで、 すれば一議なく清国側に理のある筈のことが、逆に戦争の 「子供は食べ残りでいいですか」 結果として清国は香港や南支の港を英国に譲ることによっ しばしば ときくことが屡々であった。エグモンドはそういう習慣て、やっと、命脈を保つことが出来た。仏印やインドネシ に慣れて、女を大切に扱うことを教養の一つと感じて来たヤに対するフランスやオランダの支配権、印度に於けるイ ホンコン どれい さら・ だけに、香港に来て見て、中国や日本の女が奴隷のようにギリスのそれの他に、阿片戦争以後、イギリスは更に清国 売買されたり、売春婦でなくとも、日常生活に於て、妻がの一部をもその租界とし得たのである。 ほとん うやうや へりくだ 夫に対して、殆ど主人に対するように敬々しく身をり、 エグモンドのような青年でも、香港を根拠にして、東洋 かしずくことに不当な怒りを感じることが度々あった。 に商売の足をのばしていれば、本国にいる時よりも遙かに 自分のイギリス人としてのエー 丿 1 ト意識を満足させること その癖エグモンドは苦力の人車に乗って、 こと 「ヘイスト ( 早く行け ) 」 が出来た。殊に彼の家系には軍功によって、ヴィクトリア と叱ったり、港湾近い町で、路上に坐って、豚の腸や肝時代に男爵を与えられた伯父があったりしたので、知事や の入ったどろどろの釜から黒い汁を売っている老人や、路軍人、外交官なども普通の商人よりも彼を優遇してくれ みにく 面にめんこを投げて遊んでいる汚ない子供達を醜く下等なた。言わば今度の密旨を帯びた旅行に彼が選ばれたことも そな いっこうむじゅん 人種であると思うことに一向矛盾を感じていないのであそういう役目を果し得る国民的忠誠と品位を彼が具えてい る。 ると信じられたためなのである。 エグモンドはこういう旅行の帰り道に、全く偶然とは言 要するにエグモンドのフェミニズムは美しい女にだけ向 ごうがん けられるもので、人道主義の甘さはイギリス人一般の傲岸えないめぐり合わせによって、この円らな眼の気象のしつ ようじ な矜持によって、重くおしひしがれていた。東印度商会をかりして見える日本娘を知ったことによろこびを感じてい 肌母体として百年この方理不尽な攻勢で東洋に植民地を拡張た。彼女の他のどんな女達がこの船底にあがいているかは して来たイギリスの智的海賊性は、ユニオンジャックの旗問題ではない。彼はおていを無事に香港まで見守ってやる の のひらめくところ、インド、中国の各地を侵略しぬいてい代償に他の十数人の売春婦の密航を見のがしてやる決心を 南 るのである。五十年前の阿片戦争は、イギリスが売った阿した。それに事務長をからかいながら既に腹できめていた わざわい びまん しん 片の禍が国中に瀰漫するのを怖れて、清国側で阿片を焼ことがあったが、おていを見たことで、その決心に春風の なび き捨てたのを契機にして起った。今日国際連盟にでも提訴吹き靡くようなやさしさが加わったことは事実であった。 あへん おそ たびたび つよ すで
と・も せげん ムもと って金をもうけている女衒じゃないか。理窟は言わねえ方から、麓の町にかけて、点々と灯っている燈火の輝きも、 ほの 仄かに・ほかされて眼の前に迫っているように見えながら、 かいいと思うのである。 「今度来る女は何人ぐらいです ? 」 船が荷揚げ波止場に着くにはまだ三十分ほどかかるだろう 直次郎は話をかえてきいた。 と船内のものは報らされていた。 「十四五人は割るまい」 ジョ 1 ジ・エグモンドはもうすっかり旅装を整えて、キ と勝沼は言った。 ャビンの中でおていと別れを惜しんでいた。 「シンガポールのおいの店にも一一三人よか玉とり置かんな エグモンドとおていの間にはこの十日間の航海の間に自 らん。そいの他に、・ハンコックとサイゴンとカルカッタか然な肉体の結びつきが愛情と一緒に育っていた。エグモン ら注文が来とるけんのオ」 ドは・ハーンズや虎松をいらいらさせるためには、初めの言 によご はんじよう 「繁盛なこったなあ、女護が島はいつでも満員か」 葉の通りおていに手を触れたくなかったが、二日三日と狭 うち 「繁盛せん時や男な皆死んだ時じゃ、あツはツはツは」 いキャビンの中で過している中に、おていの自分に対して 勝沼は豪傑笑いして立上った。 持っている素直な信頼と尊敬が、何にも替えがたくいとし あぶら ぎゅうな・ヘ みにくくま 「今晩な牛鍋か支那料理の脂こいやっ、腹一ばい食うとか いものに思われて来た。そうしておていのどこにも醜い隈 おなご ならんぞ。女揚げな沖仲仕の荷揚げの何層倍も腹な減る仕のかくされていない明るい処女の身体が自分に向かってお おと 事たい」 おらかにひらくのを見てからは、この女を売春婦に堕した 「人数は目立たないように四五人でいいが、あっしと意気くない、自分だけの女にして愛したい思いがつのってい の合うのを選っておくんなさいよ」 また 直次郎は言い終ると、貧乏ゆすりしながら、又二階へ上 エグモンドはおていを他の娘たちと一緒に一応勝沼貫太 って行った。 郎の家へ運ぶことには、文句を言えなかったが、数日中に 自分が引取りに行くまで、他の土地へ売ったり、客をとら 濃い霧の中で、プル ー・ドラゴン号は幾度も警笛を鳴らせたりしないことを・ハーンズと虎松に約東させた。 しながら、遅々として、香港の港へ近づいて来た。霧に邪「もし、あなた方がおていを売春婦にするか、よそへ隠せ 魔されて視界が限られるので、港の近くで思いがけない衝ば、私は、自分の名誉や財産を犠牲にしても、密航婦の秘 いただ、 つうちょう 突事故の起ることがある。香港島のヴィクトリア峯の頂密をイギリス官憲と日本領事館と両方に通牒しますよ」 からだ
からだ でならなかった。 いのは身体を売る女も買う男も同じであゑそうして売春 おていは庄作夫婦の家に一晩泊って、翌日今まで行ったはその相手が日本人同士であるのと外国人相手であるのと ど、よう ことのない近くの油田家の寺へ行き、住職に読経して貰っによって、恥ずかしいことに少しも変りのないのをおてい こつつば くわ たあとおきんの骨壺を、庄作の鍬で墓石の下に埋めて貰っは知っている。 た。これで今度の帰郷についての一つの課題をおていは終そうだからと言って、女はともあれ、男のたけって来る ていとう そうりよ ったように思った。庄作に渡した金が借金の抵当になる慾を僧侶のように禁慾しろといっても無理ではないか。お か、酒代になって消えてゆくかはおていにとってどうでもていは・ハンコックこ 冫いたころ、軍人や旅行者で、数ヶ月同 たど よかった。おきんの辿った運命は半分はおきんの性質によ性ばかりの中で生活して来た男達が、交尾期の獣のように るもので、同じような境遇に置かれても、全く違った生き方飢え乾いて、自分を求めて来るのに幾度も出あった。そう たくさん をする女は沢山ある。おきんはあのまま長崎の酒屋に奉公 いう時、彼らにとって性の満たされることは、砂漠でオア ゅ第ノか、 していても、別の誘拐者にそそのかされることもあったろシスを見つけたのと全く同じで、金で買ったおていの身体 うし、たとえ故郷に帰って百姓の妻になったところで、南を狂信者が帰依仏の前に搨跪するように拝んだり撫でさす しあわ 洋へ行ったより仕合せだったかどうかはわからない。それったりした。ぼとぼと熱い涙をおていの美しく張った乳房 したた はそうとして、おていは自分のすすめに従って・フル ー・ドラの上に滴らせた男もあった。初恋のエグモンド一人に自分 ゴンに乗りこんだきんに対して、従姉同士という以上の責の愛情を集中しているつもりでいても、おていは、四五年 きむすめ 任を感じていた。シンガポールへ行ってから消息を断った 間の売春生活の間に触れた何百人もの男を通して、生娘の のはきんの方で、おていがあのままにしつづけていたら、 ころにはゆめにも知らなかった男の肉体の、噴き上げる叫 うめ スマトラの田舎町の女郎屋で死んだことさえ、誰も知るもびや呻き、飢えや悲しみを余儀なく知りわけてしまった。 ちょうど のはなかったであろう。恰度、おきんが死んだ日に行き合おていの中には戸山ゆきが楊甫程一人を相手にしながら、 せて、自分の手で火葬にしたのも深い縁があったと言え観念的に男女の関係を批判する眼が育っているのとは別 はぐく る。娘をそれほど愛してもいないきんの父母に骨を見せ、 の、男に対する深い憐みの情が育まれているのは争えない 金を与え、墓の下に葬ったことで、おていはおぎんの一生事実であった。ゆきは売春婦をつくったのは社会の罪だと を自分の中にもう一度呑みこんだような気がした。 、、、女や労働者を解放するには社会革命の他に道はない 女が金で男の慾望を満たすことを卑しいというが、卑しと一言う。ゆきのように学問を身につけたのでないおていに きえ
しば あなが 底に常に燃えている獣温のような暖かさは、どんな教養や家主義の憲法も、強ち、勝沼以下の残酷さで国民を縛って 知識に装われていても、冷えきった心の人間から決して得いなかったとは言えない。当時の国民は国家の為には個人 られない血の流れをおていの中にも移し入れていた。 の自由や愛は犠牲にすべく教えられていたし、封建期の長 ただ 勝沼は自分のやって来た国際女衒の仕事を唯の金儲けだい圧迫から解放されたばかりの国民から見れば、国家は自 ぞん けで女達の生血を吸う鬼のような残酷なものとはゆめにも分達の存し、信頼して生きる支柱としてそれぐらいの税 そろばん 思っていなかった。彼の心には故郷の天草や島原あたりのを支払っても、算盤の立っ精神の基盤であったのだ。国家 くんしよう 貧しい農家や漁夫の娘が自分の故郷にいてもどんな悲しい は戦争で死んだ国民に、勲章や年金を与えてくれた。勝沼 だれ ろうし 一生を送るかがよく解っていた。貞操にしても、誰が彼女の娘子軍の成功者が南方で得たものは、勲章や年金の替り 達を守ってくれる者があったか。崎津港のように見ず知らに、ゴム山や椰子林や商店の権利であった。 ずの旅人に人妻も娘も、一夜妻の情を売って、恥ずかしい そういう原地の不動産でなくても、早くに売春婦生活の つら とも辛いとも思わぬ習慣さえあるではないか。 足を洗って、儲けた金を資本にして、日本との間を往来し たくさん 南方へ進出して行って、広い世界を見、外国人の肌に触て商売している女たちも沢山いた。おていもその内の一人 れながら、その売春によって得た金が故国の家に送られてであるが、中には、可成りまとまった金を持って故郷へ帰 うるお ろうば 来て親や兄弟の生活を潤すなら、一石二鳥の幸福ではない り、田地を十町歩も買い取って、女地主になっている老婆 もらろん かと勝沼は思っていた。勿論彼の手で売買された商品の半もあった。 分以上は、悲惨な状態で病死したり、原住民の部落へ逃げ彼女たちが故郷へ帰ってみて経験したことは一様に、日 ずる ゆくえ こんで行方知れずになったりしていたが、それは勝沼に従本人が狡く、誠意に欠けているということであった。若い ばらおびただ えばや鯔の夥しい産卵が何万分の一の生命を保つのと時故国を出て、南洋に長く暮らしていた彼女達には日本の 同じことで、失敗した女達の果てばかり見て、からゆきさ日常的な知識の欠けていることは勿論だし、それを補う教 かも んの運命を残酷なものに思う必要はないという主張であっ養の与えられていないことも、彼女達をよい鴨にしようと もっ た。デモクラシーを基本とする人権尊重から見れば以てのして待っている故郷の男たちにとっては便利であった。 ほか しか かいへい あるものは彼女達が字のよめないのを利用して、三重抵 外の暴論であるが、然しふり返って見れば、国民に皆兵の 義務を負わせ、一朝戦争が起れば、軍籍にないものも一様当に入っている田地を買わせたり、あるものは妻子のある だま に召集されて、戦地に送られる運命を持っていた明治の国のに、独身だと彼女達を騙して、金を巻き上げたりした。 わか かな おぎな
れいらよう 積極的におていを嫌う理由は、何もないことを、気が落ち彼らの冷嘲的な批評には、彼ら自身の欲求しているもの への異常な情熱がそのまま反射していた。彼らの中には、 ついたあとで、彼女達も認めていた。 「すまんことしてしもたですと、浜崎しゃんな何もおい達女郎屋の経営者であったり、石炭運びや英国人の下僕であ すみ に威張ったこともなし、親切に手芸は教えてくらしったに った過去をまっ黒な墨に塗りつぶして、現在持っている金 : どぎゃんしてあぎゃなことしたとか : : : 今となると、 や土地の力にものを言わせて、上流紳士に成り上ろうとす うずま われとわがしたことなわからんですたい」 る名誉慾が渦巻いていた。自分たちと似た境遇のおてい と吐息を吐く女達もあった。 が、自分達と似た慾望を持っことに、彼らは何の疑いも持 シンガポ 1 ルにいる邦人の間でのこの事件に対する批評たないのである。 はまちまちであった。概して、出稼ぎ上りの成功者たち邦字新聞の記者の中にもこれらの成功者達に似た見方を は、おていをよく言わなかった。 する者があった。現に彼らの中の一人は六井の倉庫にいる 「あの女は、つまり名誉慾が強すぎたんですよ。もとは女女たちのところへ内地に送る記事を取りに行きながら、お こうふん 郎上りでも、英国人の商人の細君になって、一応生活に困ていについて悪意のあるロ吻を洩らしているのがいた。奥 ころ ありがた らないで暮らせるんだから、その幸運を有難く思って、つ野という五十男のアルコ 1 ル中毒患者は、若い頃日本の操 くじ ふんじよう つましくしていればいいのに : ・ : ここでもう一つふん張っ觚界で成功しようとしていた夢を女関係の紛擾のために挫 シャンハイ て、素晴らしく立派な女性として、自分をシンガポール在かれて、上海からシンガポールまで流れて来た食いつめ者 住の日本人の間に目立たせようとしたんだね。売春婦の更であった。彼の内にある物質精神両面の不満は、あくの強 生に献身しているなどと言えば、甘ちょろい連中は、ころ い毒舌になって、他人の生活を傷つけていた。 りと参る : : : そこをねらって、名流婦人の仲間入りをしょ あの事件の起る少し前、奥野はおていに面会を求めて、 こんたん 肌うという魂胆だったのでしようが、女郎をしていた女ども売春婦救済事業についての抱負をききたいと申込んだが、 のなどというのは、言わば人生の裏道ばかり歩いて来た奴らおていはそういう応対に慣れないし、自分のひっそりやっ 南で、あの女のそういう虚栄心を見破ることは早かったんでていることを、新聞などに書かれるのは迷惑なので、ひた しようわい。結局、あの女の名誉慾を満足させる前にあいすら断わりつづけた。奥野はそのことで勝手におていを高 つらは、おていを自分らの手でやつつけたということでし慢な女だと決めて、売春婦たちの方へ働きかけたのであ る。 ような」 でかせ ほうふ
いっかはそういう日が来ます。国民の全部が社会に対してめて、立上ったようである。ゆきにそういう変化を与えた おさ もらろん つら 義務と責任とを平等に担って、自分達が主人として国を治相手が、勿論楊甫程でないことを勝沼は辛く見ぬいていた。 わか める日が : : : それは日本ばかりではありません、支那にも「ゆきしゃん、解り申した : : : あんたには恋人が出来たと たたか インドにもきっと来るでしよう。私はその日の為に闘って して、おいにどうせいと言いなはるんな」 行きます。中途で : : : 暗い険しい夜のつづく中に、私は暁勝沼の泣いているような顔に眼を返してゆきはゆっくり の光を待たずに殺されるかも知れない。でも私にはそれが首を振った。 にんもう くちのつ 本望なのです。勝沼さん、十六歳の時あなたの手でロ之津「今、何をして下さいというのではありません。ここ数年 の港から密航船に乗せられた戸山ゆきはおッャ婆さんといの間にはきっとこの土地にも、今から、そろそろ起りかけ からだ はいしよう う第二の女衒の手で、女の身体の機能だけは一人前以上にている廃娼の運動が日本人の間に盛んになるでしよう。今 はず 敏感に働きながら、女の底にあって燃え上る筈の火は不自でも、三菱や三井のような大資本の出先きの人間は、この 然に消されたまま、人形のように着飾らされて売られましシンガポ 1 ルで、同胞の女性が外国人に身体を売る商売が た。楊さんはそんな人形のような私にヨーロッパ風の知識公然と存在していることを日本の不名誉だと言っていま と教育を授けてくれたのです。私はあの人に身を委せて、す」 ゼいたく 贅沢という贅沢を味わい尽しながら、心の中に死んでいる「不名誉 ! 」 ものの冷たさにわれながら凍えて暮らしました。私の社会と勝沼は流石に怒った声を出した。 主義もそういう人間に対する冷酷な憎悪から発した新しい 「あいつら、体裁ばかり構うお上品な商人や役人どもは、 倫理の玩具だったのです : : : 」 そぎゃんこと言い居るんじゃ。女郎屋な無うて、南洋開発 そら ゆきはそこまでいうと、勝沼から眼を外して、緑の樹液が今のごと見ン事発展したか。そぎゃんこっ、ほざく奴ば だた 肌の滴るばかりに濃くつややかな樹の梢へ眼を向けた。勝沼らなおいは袋叩きにしてくるるわ」 のは放心した表情のまま、ゆきの何かに対して燃え上ってい 「そうよ。勝沼さん。私もあなたの意見に賛成です。でも るような情熱に溢れた顔を、恐る恐る見上げている。 南 あなたの愛する国家も、日本が英米独仏伊と肩を並べる世 確かに今日のゆきは、これまで見たどの時のゆきとも違界の一等国とやらになれば、同国人の売春婦を恥ずかしが れんら 行っていた。ゆき自身口にしているように、彼女の中に長いる廉恥心を人並み以上に持つようになるんです。それで私 つよ 間仮死状態になっていた美しく勁い猛獣が長い眠りから醒がお頼みして置きたいのは、もし何年か後にそういう事が にな けわ の
て生血を吸っていた悪党たい : : : 殺して女の恨みを晴らし しばらくして勝沼はしみじみ言った。 「あん人の理想じゃった万民が権利と義務ば持って共存共てやらにや腹が癒えんたい」 ほか 栄しち行く世界ちゅうは、思いの外遠くありよらんかも知と係の警官に眼を血走らせて、叫びつづけていたという。 かっ 戸山ゆきが曾て、勝沼に予言したように彼は遂に畳の上 れん。この間のロシャの革命はポルシェビイキの指導者に 兵隊がくつついて引き起したんじゃ。労働者と農民の天下では死ねない男であった。そうして彼を殺したのがやつば にするといいよる : : : まだこん先き、何年か見とらんことり売春婦で而も、公娼街の廃止されるのに恐怖して気が狂 にやどぎゃんなるか分らんばってん : : : しかしもっしこれった結果の殺人であったとは、何という皮肉なめぐり合わ が成功しよったら、世界の六分の一を占むる国全体が労働せであったろうか。 者の天下になりよるんじゃ。時代の変化ちゅうは恐ろしか もんじゃのオ」 魔女乱舞 勝沼のげつそり気ぬけしたような顔には、老年が隠しょ うなく滲み出していた。彼の闘志に満ちた人生は既に、汽車 の後方を望み見るように遠くうしろへ飛び去って行った。 おていにとって勝沼貫太郎の死は、思ったより遙かに強 い衝撃であった。戸山ゆきほどではなくても、若いころの また トリックにかかって そうして又、それから一月と経たぬ四月の下旬、勝沼貫おていはエグモンドの失踪後、勝沼の こうしよう 太郎自身も公娼廃止運動の大演説会の会場で、一人の娼婦シャム人のビライ・ハに身体を売られたことに許せない憎し 上りの女に横腹を短刀で突き刺され、出血多量で病院へ担みを感じていた。 それがシンガポールへ帰って来て、あらためて勝沼とっ ぎ込まれる前に呼吸を引きとった。 肌犯人は勝沼の店とは縁のないマレー街の女郎屋にいた中き合うようになってからは、こちらが年をとったせいもあ むじゅん まいどく うつ の年女で、かねて外国人の客から伝染された餤毒性の病気につて、だんだんに彼の矛盾に満ちた人間性の中に愛すべき こつけい 南苦しんでいたが、公娼が廃止になった後はどうして生計を純情がちんどん屋のような滑稽な仮装をつけて坐りこんで ることに気づいたのである。 立てて行こうかと思いまどっている中に、頭が狂って来てい この凶行に及んだのだという。 勝沼のしている仕事も、彼自身の風采や態度も、義理に あぶら 「勝沼は人買いのポスで、何千もの女を海外に売り飛ばしも上品とは言えない粗野な脂ぎったものであったが、彼の すで かっ しっそう からだ ムうさい はる
いろもうだじん が、一網打尽に捕えられたが、その網をくぐってシンガポ「こうして何年たっても、逢いたい逢いたい言うてくるん 1 ルまで亡命して来た一人を、ゆきは楊甫程の手を借りも、おいが暖かい心持っちよる男じゃっと、あ婢らの身体 て、インドへ逃がしてやったことがあった。その時には勝が知っちよるんじゃ」 沼は出先きの官憲から秘密に依頼されて、内情を調べたこ とその度に勝沼は感激して、彼一流の愛国的教訓を交え とがあったが、領事館への報告書には彼は不思議にもゆきた手紙を筆まめに書き送っていた。しかし、それらの女に たやす を売国奴として、プラックリストに載せるようなことを密対するのとは全く違う、容易く近よれない怖ろしさを交え 告しなかった。自分の抱いている愛国主義から言えば、ゆた愛情がゆきに対しては明らかに動いている。そうしてそ きは当然風上にも置けない売国奴で、場合によれば楊の留れをある時、一人で我慢していられないで、勝沼はおてい 守の間にでも、生命を断つような方法を講じる方が、日本にうち明けたことがあった。 のためであるとさえ思うことがあるのに、事実はそういう おていはそれをきくと声を上げて、腹の痛くなるほど笑 注意人物としてゆきを故国に知らせることさえしようとしった。 ないのである。 「何でおかしがるんじゃ。おいじゃって、女子に惚れるこ 「奇妙なことたい : ・ ・ : あぎゃん毒蛇のごたる女郎においは ともあって、何が悪か : : : 」 惚れちよるんじやろか」 と勝沼は怒った声でいったが、おていはまだ笑いやまな と勝沼は時々、甘酸つばい苦笑を、そろそろ白髪の交っ くらひげ て来たロ髭のあたりに溜めて考えこむことがある。それは 「だって、勝沼さん、あんたはガリガリの愛国主義者で、 ぜげん 女衒のような世渡りをして、千人に近い女と肉体で交って天皇陛下一点張りでしよう。それが選りに選って、社会主 来た勝沼にとって、まことに奇異な合点しかねる心の状態義で、女郎屋を廃止しなければならないと、いつも主張し 肌であった。勝沼は自分と身体で関係したあと、売春婦に売ているおゆきさんに惚れるなんて、敵同士の色恋みたいで のった女に対しても、男としての愛情を持っていると信じておかしいんですもの」 、た。そういう女たちで、遠くニ = ーギニアやマリアナ諸と言った。 南 どどいっ りくっ 島あたりからさえ、都々逸ともお筆先きともっかない怪し「そら、理窟はそぎゃなものじゃ。ばってん人間の心ちゅ りくっ い歌い文句の恋文が今でも勝沼のところへ届けられて来るうもんは理窟だけで動くもんでなか。よか例があんたじゃ のは事実であった。 って、ドイツとかオ 1 ストリ 1 とかに居って、南洋な来る たび ためし