這入れるだろう」 指さして怒っている。その筈だ。川 瀬は、となりの床の間 ゃなぎごうり 「仕様がないなア」 に置いてあった柳行李の上に放尿したのである。さっき、 自分へのように川瀬は言って、 枯木に水のそそぐような音がしたのは、行李に当る尿の音 「じやア、そうするか」 だったのである。 まくら 職工は、川瀬が社員で、自分たちが職工だから馬鹿にし 私は今までどおり父と枕を並べた。足の方から、川瀬が 身体を差入れるというのである。 ての上のことだろう、と怒っている。他の職工たちも起 あや 瀬は畳に手をついて謝まっ 私は足を縮めていた。自分の足の汚れを川瀬に見られたき出し、騒然となったが、川 らどうしよう、と思った。そして川瀬は、私とひとっ床にた。 すてぜりふ 寝ることを、何と思うだろうか。 ちょっ、と強く舌打ちをして、捨科白のような言葉を吐 もちろん おさ あわ 私は勿論ただ心理的にだけ慌てたのに過ぎない。 川瀬きながらも職工は治まり、川瀬は頭をかいて出て来た。改 は、私と同じ寝床に寝たこの夜のことを、どう彼の心にとめて階下の便所へ行ってから部屋へもどって来た。父も隣 あや どめるだろうか、と何か綾なす空想だけを心に描いた。そりへ一言挨拶をしていた。 のくせ川瀬の肉体からは、肉体的な感じのひとつだって感父と川瀬は、声を出して笑いもならず、川瀬は、どう ふとん 、ようしゆく じはしなかったように思う。ただ川瀬の身体がひとっ蒲団も、などと、隣りへも恐縮の言葉が聞えるように言っ の中にあるという事実だけなのであった。その証拠に私はて、首をすくめた。私はふいに目覚めてのことなので、。ほ 間もなく寝入ってしまっていたから。 かんとし、川瀬の、酔いの醒めた顔をちらっと見た。川瀬 それから、どのくらい経っていただろう。ふと私は、男の失敗もさしておかしくはなく、ただ、隣りの部屋の、足 の大きな声で目を覚ました。目覚めた瞬間に、何か枯木にの踏み入れ場もないように床の敷きつめてあった風景から 水のそそぐような音を聞いた。 圧迫されるようなものを感じた。 男の怒声がはっきり聞えた。それは隣りの部屋なのであ翌朝は、職工たちが先へ出てしまうと、父と川瀬は昨夜 のことを言い合って笑った。 る。頭を上げると、隣りと境の襖が開いていた。 「えらい、失敗だった」 「どうした ? 」 父も身体を起した。覗くと、川瀬が隣りの部屋にぼかん「よく、あれで治まったよ」 「なアに、たいしたことアないもの」 と立っていた。木綿の青い蒲団の上に起き上った職工が、 からだ のぞ ふすま あいさっ
川瀬はそんなことは構わない性質らしい。今の雨で急に取 川瀬が、例のように私を子供扱いするような口をきぎ始 り込んだらしいお襁褓も部屋の中に放ってあった。 めると、私は背をしゃんと立てて、とり澄ました表情をし 然し、それは川瀬にはふさわしくない、と私は思ってい た。きっとこれは奥さんの故だろう。 雨はますます強くなっていた。 ししでしよう」 私はメリンスのお太鼓を斜めに川瀬の方に向けながら坐「お母さんがきて、、、 っていた。 「ええ」 「お風邪ですか」 川瀬は蒲団の中で向うむきになり、私の方は見ていなか と、私は言った。言いながら私は、やつばり自分が、全った。 然他人の男に言っているのではないことを感じた。 「どうしようかしら。なかなかやみそうにないけど、帰ろ うかしら」 「うん、ゆう・ヘから少し熱があってね」 こうし しト - ろ・じあ 私は立って、格子の障子を開けてみた。冷めたい、雨を すると私はわざとそれにはつづけて答えてやらなかっ含んだ風がさっと入ってくる。 「も少し、待っていたら」 「たいしたことアない。もうだいたいいいんだけど」 「だけど」 ひぎ 私はまだ黙っていた。 言いながら、私は、机の上にあった講談雑誌を膝にとっ 今度は川瀬も黙った。 て見始めた。 かも ムんいき 川瀬は床の中へ這入ってしまい そういう時のひそやかな雰囲気が、どういうものを醸し はず 出すかということを、私はもう自分の感覚で知っているわ 「そのへんに梨があった筈だ。むいてお上んなさい」 いいんですの」 けだった。 なお の 「今日は何か用事だったんですか」 それでも私は尚、そこにじっと坐っているのであった。 素「ええ、お友達のうちへちょっと、その家を出たら降られ妖しい期待、というようなものに私はとらわれ出してい た。対手が川瀬だ、ということが私を大胆にさせていた。 てしまって、でも川瀬さんがいらっしやるとは思わなかっ たわ」 川瀬がひとりだと知った時から、すでに私の心はもうそ 「びつくりしたような顔してたね」 のことだけに傾いていたものだったかも知れない。 しか たいこ あや こ 0 ムとん
えんりよ ろから入って行った。 と遠慮なく口を聞いていたことを怯るむようにおどおどし 「大丈夫 ? 手を引いてあげようか」 「ごめんなさい」 「あら、大丈夫」 そんな言葉も、大人のからかいだと普通に聞いて、 と、何ということなしに、山の見つからぬのは私の故で もあるかのように私はそう言った。 「でも、川瀬さんの足早いんですもの」 あやま 「ああそうか。そりや悪かったね。じやアもすこしゆっく「何を謝るの ? 」 り行こうね」 と、川瀬は、口元に微笑を浮べて私を見た。 山は、しーんとしていた。生物なのだけど、今は黙って私は、ほっとして、 いる、といったようなそういう静かさだった。しっとりし「だって、悪いから」 にお た湿気で山は匂うていた。松の多い樹木の茂みの上に空が と、川瀬を見上げるようにした。 あおす 蒼く透いていた。何鳥かけたたましく鳴いて渡っていた。 川瀬の身体は私のすぐそばにあったから、川瀬が私を見 「人がいそうもないね」 ている顔もすぐ真上にあった。 「ほんとうに」 川瀬は、視線を反らして、 私はいよいよ、川瀬と一一人っきりでいる感じが濃くな「少し、休んでゆこうか」 り、何だかおもしろい気がしてくるのだった。おもしろい 「ええ」 気持というのはその言葉どおりのもので、それよりほかに私は何故だかそう返事をするのに声が今までのように自 しばら 言い現しようのないものだった。暫く一一人は黙って山を歩由に出ないのだった。 こぎさ いていた。 川瀬は、小笹をかさかさと踏んで、山の路からわきへ入 娘「駄目だ、この山じやアないよ」 って行った。私はすぐうしろから蹤いて行った。川瀬が手 の 私のすぐ上でくるりと振り向いて立った川瀬は、私の顔をうしろへ廻して私の手をとった。大きな手であった。 にぎ 足 彼はその手を、いきなり、きゅうっと強く握った。私は 素を初めてみるような目をして見た。 目当ての山が見つからないので、彼は不機になったの本能的に手を引こうとしたが、彼は知らん顔でそのまま離 かんしやく さずに引いて行った。私は言葉に現わさぬ秘密の通わされ かと思った。男の人は誰でもすぐに癇嬪を起す。私は、 瀬もまたそういう男だということを忘れて今までずけずけるのを知って、手を引かれて歩きながら、うしろから川瀬 おとな からだ
あいさっ 「じゃ、どうぞ川瀬さん、おねがいいたします。桃代さん 母と川瀬の挨拶の間、私は外を見ていた。 気をつけてねー 「今日だとは知らなかった」 「さよなら、父さんによろしく」 と、川瀬は私の方を見た。 私はしとやかな娘のようにはにかんだ微笑で丁寧に頭を父は、私がいなくなると、やはり寂しがるにちがいな 下げた。 私は川瀬に顔を合せるのを気持の上でこだわっていたの 「川瀬さんはどちらへ」 で、いつまでも汽車の窓からホ】ムに立っている母を見て と、母が言う。 したが、間もなくそれも見えなくなった。 「私はちょいと神戸の本社まで」 川瀬もまた私から目を反らしていた。普通列車の東京ゅ 「じゃ、どうぞそこまででも御一緒に」 き三等車の中は、いずれもばっとしない乗客ばかりで気易 「ええ」 おもながほお し川瀬と私は斜めに向い合った座席にいた。私は窓ぎ と、彼は面長の頬に微笑ともっかぬ動きを浮べた。 たばこの 改札が始まって私たちはホームへ出た。ホームの外側はわ、川瀬は中よりの席。川瀬は煙草を喫み始めたが、私は おお 遠くうしろを山で囲まれながら畑が段々に上へつづいてい汽車の中の煙草の匂いは嫌いで、 ( ンカチでロを蔽うてい る。私の何度も来た山は左手の方に見えている。いっか雉た。荷物は川瀬が汽車に乗った時すぐ網棚へ載せてくれて 子の飛ぶのを見た山、そして中里と逢った山であり、父といた。 かんせい 二人で、夜の空に造船所のストライキの喚声を伝え聞いた汽車は走ってゆく。私たちはいつまでも口をきき合わな まったけが 山である。 。汽車はいずれ間もなく、あの松茸狩りの時に渡った川 の鉄橋を通過するにちがいない。 間もなくその山の方から汽車は走ってきた。 なんでも構わない。私はもう東京へゆく。私はそこで、 「じやア母さんさよならー 身を洗うように働くのだ。私はそんなことを考えて窓の外 「その荷物、持ってあげましよう」 を見つづけた。 と、川瀬は母の手から荷物のひとつを受けとった。 汽車はやがて一つ二つと駅を過ぎ、その川へ差しかかっ 幾人かの乗客といっしょに私たちは汽車へ乗り込んだ。 ちょうど 母は白い美しい歯を出して笑いながら、目には涙を浮べてた。私のいる窓は丁度川上の方が見える場所なので私は厭 でもそのあたりを見るわけである。もっとも私たちが川を にお あみだな やす
0 機会の陥穽というものは、思いがけないほどの強い力を「ありましたかね。どれでもいいから」 ふんいき 持っているものなのであろう。私は、目前の雰囲気の中「ええ」 らほう に、もっと、もっと、深入りしたい慾望をふつふっと感じ私は痴呆状態のように、。ほかんとなってしまい、さき程 ふる た。川瀬の奥さんが帰って来たら、ということは私の慄えのとり澄ましたものはもうどこかへ落としてしまっている る胸にもあったけれど、それに対する罪悪の意識などは何のだった。激しい緊張が対手に体を交わされて、未だ自分 にも働きはしなかった。 に戻れないのであった。 おのの 何かを待っている。その戦くような感覚だけになった。 「うちの奴も降り込められて帰れずにいるらしい」 じやめがさ 私はそういうものを全部、川瀬の前にさらけ出していた。 私は一本の蛇の目傘を出して土間へ降りていた。何を言 私は自分の、ごくつ、と唾をのみ込む音を聞いた。その音われても、ええ、ええ、と言った。 は川瀬にも聞えるであろう、と思った。聞えても構わな「気をつけて行きなさい」 と思うのだった。私の足の平はじっとりと汗ばんでい 「ええ」 た。 それでも外へ出る時は、「さよなら」と、言った。 私は当然川瀬もまた、そういう私を受け入れてくれるも雨はまだ激しく降っていた。雨は待ちかまえたように私 の足にかかって濡らした。 のと思っていた。 私は半びらきにした蛇の目傘に顔をかくして、うつむい 「桃代さん」 ほろ と、ふと、川瀬が私の名を呼んだ。 て歩いた。人力車が幌をおろして駈けていった。 ではず 「もう、嬢ちゃんもおかしいからね」 町を出外れ、入江の片側道にかかって、初めて私は、堪 しゅうち ムとん 彼は蒲団の中から顔を差し出して、 まらない羞恥を感じ出した。私は傘の中で顔をほてらせ 「雨はやみそうにないね。傘を持ってゆきなさい。裏の縁た。川瀬は私の姿体に溢れさせた感情を全部感じとったに ごろ とだな はず ちがいない。今頃は何とおもっているだろう。 側の戸棚に入っている筈だから、あんた出して下さい」 はつ、と私は立ち上っていた。まだ川瀬の言葉が終らぬ 川瀬は私を避けたのだ、ということは明らかに分った。 うちに。はつ、というのは気持のことではなくて動作のこ Ⅱ瀬は、やつばりいい人なのだ とである。私は機械人形のように立ち上っていた。そして と、私はふと思うのだった。私は初めて、川瀬を許すよ 川瀬に指さされるままに縁側の戸棚を開けていた。 うな気持ちになっていた。 かんせい やっ あム ほど
昼、もう少し酒を飲んだあと、散歩に出ようと私を連れ出 川瀬の奥さんに逢う、ということは、不思議に私には何 した父が、 ともなかった。 「川瀬のところへ行ってみるか」 川沿いの道を少しゆき右へ入ったごたごたした家の間 と、言い出した。 の、小さな一一階家の前で、父が立ちどまった。私は表札を 「川瀬のところには奥さんがきたんだよ」 見た。この家の主が川瀬なのだ、とそんなことを思った。 「そう」 川瀬との最初の一瞥の交り合う瞬間が、私には少し重荷に そで 私は、父の肩のあたりで答え、 なっていた。出来れば、父の袖を引っ張って、そこを通り 「赤ちゃんも」 抜けたい気がした。 「そうだろう」 「川瀬君」 「どこにいるの」 と、父は書生のように外から呼んだ。 「やつばり相生にいるよ。水月荘のうしろへんだ」 「はあい」 言いながら、もうそこへ行くように私たちは村の裏路と、長く引っ張る長崎なまりの女の返事が聞え、細長い おもなが を、藪谷の方へ歩いていった。私はもうその時、固く心を土間の上り口の障子が開いて、色の白い面長の女の顔がの 決めていた。 ぞいた。 二人の秘密、ね、分ったね、と言った川瀬の言葉を思い 「あら、佐多さんですか、どうぞお上り下さい」 出した。私に不服だったこの言葉が、今日突然、いい気味そして「うしろにいる私を見て、 だ、という風に思い出されたのである。今日は、川瀬だけ「あら、嬢ちゃんですか、大きいこと」 どうぞ、と言って、一一階の方へ首を上げて、 が秘密の重さを負えばいい。奥さんと赤ちゃんとの前に。 「あなたア、佐多さんのおいでましたよ」 娘私は知らない うつ の 「おお」 海は、山の影を映して、深い色に光っていた。私は父の 足 と、二階に聞えた。川瀬の声が。 素買ってくれた明るいえび茶色のショールを肩にかけてい 駈けおりるような足音で一一階から川瀬はおりてきて、 た。エルは私たちの前に尾を立てて小きざみに歩いてい 「おお、嬢ちゃんも一緒ー る。今日も馬車はのどかに笛を鳴らして通っていた。 私たちは橋を渡って相生の町へ入った。 と、別に私にではなく、自分にのように言っていたが、 と いちべっ
けんお せんりつ の顔のあたりを見た。彼は飽くまで知らん顔をしていた。覚的には嫌悪の戦慄が身内を走っていた。 こざさ 私は自分たちの小笹や落葉を踏む足音をこわい、と思 0 彼はもう、私に言葉などかけなか 0 た。 ( 以下四行削除 ) やがて川瀬は傾斜の少いところを選って腰をおろした・ どろ 私は川瀬から顔を反向けて立っていた。 川瀬は、私の着物の泥を払ってくれた。男の、荒々しい ムるま 「ここへお坐り」 振舞いの後に、男の、またこうした優しさのあることも始 と、川瀬が優しい声で言った。 めて知るのだった。 「ええ」 念を入れて結った髪も、念を入れて結んだ帯も悲しいば まだ、立ったままでいると、 かりだった。 「どうしたの。ね、ここへきなさい」 私は彼に背を向けて頭へ手を上げながら、まだ恐怖の去 それは、命令するようでもあり、頼むようでもあった。らぬ胸の慄えで、がくがくと歯が鳴るのだった。 私はそれに抗うことは出来なかった。そっと坐ると、彼「ちゃんとしなさい。人が変に思うといけない」 はまた 人が、変におもう ? がくせん 「こわいの ? 」 愕然と、その言葉を聞いた。 と、言った。ちらりと見ると、川瀬の目は、泣く一歩手ああ、私が悪いわけじやアない。 くちびるか 前のような、何だか哀願するような、気弱いまたたきをし私は立ったまま、唇を噛んで涙ぐんだ。涙ぐんだ目でじ っと前を見ていた。泣くのを川瀬に気づかれたくなかっ 「しばらく、こうしていよう」 た。そのくせ私のうしろで川瀬もやはり身づくろいしてい からだひぎ こつけい 川瀬はそう言って、私の身体を膝に抱いた。 ると思うと、何だかとても滑稽になってくるのだった。な ふる おとな 私は私の身体のこまかく慄えるのを、対手に気づかれるんて大人は滑稽なんだろうという風に。 たばこす のが厭だったけれど、どうしても、慄えはとまらなかっ 川瀬は、長い脚を立てて、煙草を契い始めた。すると不 た。 ( 以下四行削除 ) 思議に、川瀬はもう私に優しくしてはくれないのか、と、 さび 私には、何の感応もなかった。ただ私には抵抗するなどすっぽかされたような淋しさが湧くのであった。そして私 思いも及ばぬような失われた意志があるばかりだった。感はふいに父を思い出した。私は父を、遠くへ置きざりにし
のぞ 私はその時、小さい蒲団に寝かされている赤ん坊の顔を覗どうもならんですよ」 奥さんは、こだわりのない笑い方で、 き込んでいたので、川瀬とは顔を合わせなかった。 「その方がよかじゃありませんか」 「奥さん、もう慣れましたか」 らやぶだい と、父が言うと、 茶餉台を出して、父と川瀬の前に盃や箸などおきなが 「ええ、おかげさんで」 いなか 男のようなさばさばした中に、田舎娘のような愛らしさ「よっ。ほど子供好きと見えて、さっきから子供ばっかり見 のある言い方で、 とんなさる」 「こっちの方が寒いですね。私は長崎よか知らんものだか と、川瀬に一 = ロった。 やかんとくり ら。この頃、ようやっと慣れましたア」 川瀬は薬罐に徳利をさし入れながら、曖昧な答え方をし ひばら 川瀬は奥の部屋の火鉢の向うに坐って、 ている。 かみ 「おい、一本つけんかい」 赤ん坊は髪の毛の濃い、可愛い女の子であった。 と、言った。 「赤ちゃん、起きないかしら」 「なアんもなかったけど」 私は奥さんの顔だけ見て、一層、よそおった子供らしさ 奥さんは言いながら、酒飲みの家らしく気軽に立ってい で言うのだった。 った。背の高い、しゃれつけのない人だ。 「も少しすると起きますよ」 私は赤ん坊の顔ばかり覗いていた。 それで私はそこにあった講談雑誌をめくって口絵を見始 「嬢ちゃん、幾つにおなりなさるトですって」 めた。 奥さんは、私が赤ん坊の顔ばかり覗いているので、子供奥さんは、父と川瀬の間をもてなしながら、父にも口を 好きの少女と見たようである。 合わせている。色白の顔には、そばかすがあって、つくろ 「十六にもなって、お転婆でしようがないです。少し奥さわない人の好さが見えた。 んに仕込んでもらわにア」 私は川瀬の顔を見たい、と思った。 なまり が、そうした、ちゃんと大人の奥さんのいる川瀬は、私 父もここへ来ると余計に長崎言葉になるというような訛 で、 をやつばり子供だと思っているにちがいない、 と思われ た。秘密は川瀬ひとりが負えばいい、 と小気味よく思って 「犬を四匹も五匹も連れてほっつき歩いとったとだから。 ごろ ふとん てんば ら、 さかず、はし あいま、
変っていった。 「川瀬さんに逢ってほんとうに助かっちゃった。どうしょ うかと思っていましたのよ」 「どうしたの ? 」 「ところが、僕も山は、たしかには知らないんだ」 並んで歩き出しながら、 まったけ 「あらー 「松茸狩りにおくれてしまったんですの」 と、一一一口うと、 「よく一人で来たね」 「大体、見当はついてるんだけど、まあ歩いて行ってみま 「川瀬さんもいらっしやるんでしよう」 「僕は昨日、神戸へ出張してたもんだから、今からゆくとしよう。嬢ちゃんとこうして歩いていりや、山は見つから なくてもいいや」 こだけど、そいで、嬢ちゃん、山ア知っとるの ? 」 と、川瀬はいつものように軽口を言った。すると私は、 取り澄ます必要がないので、軽い声を挙げて笑うのだった。 安心で、私はもう笑って首を振った。 「とにかく、少し山へ入っていってみますかね。川っぷち 「大胆だね」 ばかり歩いていても松茸はないだろう」 川瀬は私の顔を覗き込んで笑った。 らようど 父親の親友でもあり、また子供の時から知っている故もすると私はその比喩がおかしくてまた笑った。陽は丁度 あって、私は川瀬に親しい気持ちを持っていた。もし彼に真上くらいにあって、背の高い川瀬の足について歩いてい もらろん 奥さんがいなかったならば、私の空想の中の一人に勿論彼ると、薄く汗ばむほどであった。 も加わっているにちがいなかった。そしてその中では一番「川の向うとか、こっちとか言っていたんだがなア」 現実的に、親しみのある一人にちがいなかった。 川瀬はちょっと立ち止まって左右の山を見ていたが、大 けれども彼には、出産のためにまだ当地へは来ていない勢、人の集っているらしい気配は私にも感じられなかっ けれど、奥さんがあるということは、この春、魚屋の二階た。 で父と三人でひとつの床に寝た朝、父が言ったとおりなの 「どうしましよう」 ・こっこ 0 こー - 瀬に 私は、父が傍にいないので、いつもよりも余計冫月 わずら それで私には、その後彼に対しては、空想を煩わす必要親しい態度を見せられるのであった。 のない、い。 わま、若い叔父さんとでもいったような心持が「少し入ってみましようね」 丁度そこから道のついている左手の山へ私は川瀬のうし あった。
そろり、ともの憂げに歩くあの歩き方もしてみた。昨夜父いうことを私は聞いていた。そして彼が大酒呑みだ、とい しゅうち 親と向い合ってさえ、男女間の羞恥みたいな感情にとらえうことも。そういう私の彼に対する知識からみても、彼は られた私は、自分にもう、そのような仮想を与えることを何か鋭く、そして細かかった。 さっそく 覚えていた。 秀文と川瀬はその夜、早速外へ出て行った。 ふんいき それに父親の周囲には、やはり若い男の雰囲気があっ私はつまらなく、先へ眠ったが、 た。今夜は、父の友人の川瀬が来るという。私の解き放た「これア、困ったな」 , こい、つ田い、も れた希望の胸は、もう一度学校へゆきたい、 という声で目が覚めた。 あわ はつらっ 併せ持ったまま、いち早く、秘めた幻想の方に、剌と伸父と川瀬が部屋に立っていた。 ふとん びてゆくようなのだ。 川瀬の蒲団が駅から届かず、蒲団を借りるにも、階下の その夕方、父と一緒にやって来た川瀬は、私の記憶の中人ちももう眠っている、と言うのである。 「仕様がない。一緒に寝るか」 に探り当てたその人であった。 もちろん 「やア、嬢ちゃんですか、大きくなったなア」 と、父が言っている。勿論一一人とも酔っていた。 と、父の秀文をもかえり見た。そのくせ彼自身はちっと さあ、ことだ、と思って私は起きた。何故ならば、私も もっと も変っていなかった。尤も川瀬に別れてから三年ばかりし蒲団が無くて、父親と同じ寝床に寝ていたのである。 た 「やア、どうも、嬢ちゃん、すまんですな」 か経っていないのだけど、私には遠いことのように思え、 父は酒に酔って、小鼻を余計にふくらませ、少し厭らし Ⅱ瀬の変っていないことが不思議に思えた。 りつば 私は、自分の周囲に増えた男が、立派なのに何か華やかい顔をしていた。川瀬はますます蒼い顔をしている。 さを感じた。川瀬は、秀文より背の高い、顔立ちの大き もう大分更けているらしい。隣りの部屋では男たちの寝 あおじろ からだふる 娘な、それで口元だけが丸い、そして顔の色は蒼白かったけ息がしている。私は肩をす・ほめ妙に身体の慄えてくるのを ちち の れどちっとも柔弱には見えぬ、むしろ荒々しい中に細かな縮めながら冷めたい畳に坐った。 しいよ。寝とんなさい」 素神経を持っているように見えた。 ころ 私の父が小学生の頃からお貞に隠れて尺八を覚え、長崎父は、まだ楽しい気分が川瀬との間につながっているら しく、 ではその方では隠然とした存在でもあったらしいのだが、 たが Ⅱ瀬は、秀文の教えている人々の中では図抜けていた、と「みんなここへ入って寝ようや。互いちがいに這入りや、