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検索対象: 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集
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1. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

ゆきしゃん、あんたがお父しゃんもおっ母しゃんも : : : 」 行かなければならないとゆきは思うのである・ 楊甫程がいかに寛大なパトロンであっても、彼が自分を「私の父も母も死にました」 めかけ 所有していることに変りはない。そうして彼の妾になる前とゆきは勝沼の話をたて切るように言った。 に自分の肉体に余儀なく目覚めさせられ、自分を別の女に「ほう、そうか : : : それでもよか。お父しゃん、おっ母し 変えたおッャ婆さんの家での残酷な教練を思い出すと、ゆゃんはなかでも兄妹もあろう、叔父、叔母もあろう。そん きは今でも顔のほてって来るような屈辱を感じると同時身内のものがロシャ人に家来のごと使われても、あんた何 に、もう今では自分は性技を味わわないではいられない女とも思わんか」 になっていることを、われながら憎々しく感じないではい 「おほほほ」 らようちん られない・ ゆきは提灯のようにふくらんだ袖からぬけ出した白い腕 を椅子にのせたまま、冴えた声で笑った。 「日本人会会長の勝沼さんが私に、お頼みとはどんなこと「勝沼しゃん、私は今日本という国と肉親の縁なんかで泣 でしよう き落とされるようなつながり方はしていませんわ。私の家 もらろん ふくれぎ 「あんたも勿論御承知なことじゃが、今日本はロシャと戦は天草福蓮木村の没落した豪農でした。今考えてみると、 しよせん 争ばはじめとります。緒戦の模様はわが方に有利なようじ私は幼いときから気位とひもじさを一緒に持って育って来 やが、何せ相手は大国じゃ。陸軍も海軍も充実しちよる点たんです。私の家に対しての村の扱いはそういうものでし では、イギリスや独逸にも優るとじゃないか。それじやけた。肉親のものにしても、両親もいない今、私は自分のお ん内地では次々軍隊が編成されて満洲さして出征して行き金を国に仕送って、家の失った田地を買い戻そうなんて思 居る。おいが故郷の天草や島原でも、そうぞ、皆が苦労ば いません。そんなことより勝沼さん、私は私と一緒に石炭 して一死報国の念に燃えて出征兵な見送っちよるじやろう船に積みこまれて来たような不幸な娘がいなくなるような 甲いうま、。 若者な出征すっか、田地田畑耕すにも年寄や女世の中の来ることを望んでいますわ。女ばかりじゃありま いやおう 子の手な動かさんならん : : : そいを思う時、おいもこうしせん。戦争になれば否応なしに召集され、お国のためとい もったい う合言葉にカづけられて、戦場に向かって、殺したり殺さ て安穏に南洋で暮らしとるが勿体のうてならんとじゃ。 いんや、ここに居申しても安穏とは言われんたい。一れたりしなければならないのは、大部分教育も受けられな 朝日本国な戦に負けて、ロシャの属国となって見なさい。 、財産もない貧しい家のものなのですよ。私はロシャと あんのん アームチア

2. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

こうしょ ) の高級社員の間に、日本人の公娼を黙認して置くのは世界二にもなっているのだものとおていは思った。 の一等国たる日本の不名誉であるという声が叫ばれ出して「そう言えば勝沼さん、女郎屋の閉鎖も今度こそ本ものに いることが伝って来た。その声には昔女郎屋を経営して得なりそうですわね」 た財産で、ゴム山や椰子林を買って、今では一人前の事業「うん、そうのごたる」 家顔している出稼ぎ上りの紳士達も交っていた。 と勝沼は不服そうに言った。 々近く公娼廃止大演説会が開かれるという大正七年の「今にな 0 て役人や商社の連中、それにこの商売で一財産 おなご かた、 三月のある夜、勝沼貫太郎はおていの店をたずねて来た。 つくった奴らまでからゆきの女子どもば眼の敵にし居っ こくじよく いまさら ゼげん おていは窓際に扇風機を置いて、エグモンドに送るジャて、国辱じゃとぬかし居る : : : 今更おい一人を女衒のごと ひざ ンパーの毛糸編みにせっせと膝の上の編棒を動かしてい 悪く言えば、どぎゃんなりおると思っちよる : : : 」 た。 「勝沼さん、怒るのはおよしなさい。あなたの愛する国家 つめえり 勝沼は部屋へ入ると白麻の詰衿のボタンをさっさと取っのそれが方針なら仕方がないじゃありませんか。私はそう て、シャッ一枚になりながら、おていの手の編棒を見て、 いうことになる日が来たら、せめてゆきさんに預けられた ニャリと笑った。 お金で、勝沼さんの関係の女の人だけでも後の身の立つよ 「精の出るこっちゃのう。南洋じゃ冬でも毛糸のごたるもうにして上げたいと思いますよ」 の見ただけで、肌が汗を噴き出しよるが : : : 」 「さば、おいもそんこと、考えちょったところじゃ。金の 「イギリスは寒いんですって : : : 主人の今いるところは、 額にもよるこっちゃが、おいは証文巻いたあとの女子ども なおさら 北によっているというから猶更でしよう。私の編んだ毛糸な、内地に帰したところで使いものにならんのが多かろ思 を間に着ていると、スコッチの上物より、暖かいってこの う」 肌間の手紙に書いてありましたよ」 勝沼のいうことにも一理あるとおていは思った。おてい の「いい年して、のろけるもんじゃなかたい。この上暑うな自身も・ ( ンコックで五年も売春生活をしている中に知った りよったら、おいは生命がたまらん」 ことだが、若い時からこの生活に堕ちて、それによってし 南 じようだん ハンカチ そんな冗談を言いながら、半巾で汗を拭っている勝沼のか金を得る方法を知らない女達のあるものは、恐らく売春 頭も、前髪の毛が大分薄くなって、顔の寸が延びたように禁止と言われても他に生きて行く道はないに違いない。公 見える。この人ももう五十を過ぎた轡だ。自分がもう三十娼がなくなる替りには私娼が多くなる結果になるであろ でかせ

3. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

「おお、来た、来た : : : 」 「そうですばい」 と言って、蝶吉は虎松の肩を擦りぬけるようにして、身とおきんも眼を丸くして言った。 軽に勝手へ出て行った。 「いや、ほんとうの大じゃないが、お前さん達のような若 い女の家出するのを見張っている警察の探偵だよ」 「おお、よく来たね、おていちゃんにおきんちゃんか : ・ 「警察とですか」 さあ、お上り」 たばるや うしろ 「御免してくれまっせ」 おていは田原屋を無断で出て来ただけでも後ぐらく思っ さら おていはうしろにうじうじしているおきんの腰を押すよているのに、警察ときいただけで更に肌の栗立つのを覚 かまら えた。 うにして、框を上ると急いでうしろの障子を立てた。 らようど 「ああ、怖ろしかったと」 「まあ、まあ心配することはない。内へお入り、恰度、こ ホンコンた 「ほんに : : : 」 の間の友達がもう一一三日中に香港へ発つんでお前さん達の つごう 一一人の少女は走りつめて来たらしく頬を真赤にして抱き都合もききながら来ていなさるよ」 からだ あうように身体をよせあっていた。 「さあ遠慮は入らないよ。どんな邪魔が入ってもうちの人 「どうしたんだえ : : : おっかけられでもしたのか」 と私がついていれば、心配することはないんだから : : : 入 っておくれー 「千馬町からオランダ屋敷のあたしば来たと、黒かトノヒ 着た男の人が見えがくれにあとつけて来るとですばい。お おさくと蝶吉にすすめられて、おていとおきんは虎松の 店の番頭さんか思って胸ばドキドキ鳴りよった : : : そうじ待っている茶の間に入って来た。おさくは案内しながら、 あんど ゃなかったと、安堵ばしたけん、いつつまでもあとつけてそれとなく、おきんの足もとに注意すると、なるほど、片 来よるん、気味わるうて、気味わるうて : : : 一一人して手えっ方の足を引きずるようにして歩くのに気づいた。なあに じよろう 肌連れて、小路ば飛びこんで、やっとはぐらかして来たとでこのくらいならお女郎にしておけば目立ちはしないとおさ ながじゅばん くは思った。長襦袢に仕掛けを着た自分の吉原時代のよう のすたい」 な姿をおさくは南洋の売春婦もするものだときめている 「ああ、そりやイヌだ : ・・ : 」 南 のだ。 と蝶吉は言った。 「大じゃなかとです。黒かトンビ着た男じゃったなあ、お虎松の紳士風に装った立派な洋服姿におていもおきんも 気を呑まれた形で膝を小さくして坐っている。虎松はおき きんちゃん」 めん おそ ほお ひざ あわ

4. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

川瀬はそんなことは構わない性質らしい。今の雨で急に取 川瀬が、例のように私を子供扱いするような口をきぎ始 り込んだらしいお襁褓も部屋の中に放ってあった。 めると、私は背をしゃんと立てて、とり澄ました表情をし 然し、それは川瀬にはふさわしくない、と私は思ってい た。きっとこれは奥さんの故だろう。 雨はますます強くなっていた。 ししでしよう」 私はメリンスのお太鼓を斜めに川瀬の方に向けながら坐「お母さんがきて、、、 っていた。 「ええ」 「お風邪ですか」 川瀬は蒲団の中で向うむきになり、私の方は見ていなか と、私は言った。言いながら私は、やつばり自分が、全った。 然他人の男に言っているのではないことを感じた。 「どうしようかしら。なかなかやみそうにないけど、帰ろ うかしら」 「うん、ゆう・ヘから少し熱があってね」 こうし しト - ろ・じあ 私は立って、格子の障子を開けてみた。冷めたい、雨を すると私はわざとそれにはつづけて答えてやらなかっ含んだ風がさっと入ってくる。 「も少し、待っていたら」 「たいしたことアない。もうだいたいいいんだけど」 「だけど」 ひぎ 私はまだ黙っていた。 言いながら、私は、机の上にあった講談雑誌を膝にとっ 今度は川瀬も黙った。 て見始めた。 かも ムんいき 川瀬は床の中へ這入ってしまい そういう時のひそやかな雰囲気が、どういうものを醸し はず 出すかということを、私はもう自分の感覚で知っているわ 「そのへんに梨があった筈だ。むいてお上んなさい」 いいんですの」 けだった。 なお の 「今日は何か用事だったんですか」 それでも私は尚、そこにじっと坐っているのであった。 素「ええ、お友達のうちへちょっと、その家を出たら降られ妖しい期待、というようなものに私はとらわれ出してい た。対手が川瀬だ、ということが私を大胆にさせていた。 てしまって、でも川瀬さんがいらっしやるとは思わなかっ たわ」 川瀬がひとりだと知った時から、すでに私の心はもうそ 「びつくりしたような顔してたね」 のことだけに傾いていたものだったかも知れない。 しか たいこ あや こ 0 ムとん

5. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

けんお せんりつ の顔のあたりを見た。彼は飽くまで知らん顔をしていた。覚的には嫌悪の戦慄が身内を走っていた。 こざさ 私は自分たちの小笹や落葉を踏む足音をこわい、と思 0 彼はもう、私に言葉などかけなか 0 た。 ( 以下四行削除 ) やがて川瀬は傾斜の少いところを選って腰をおろした・ どろ 私は川瀬から顔を反向けて立っていた。 川瀬は、私の着物の泥を払ってくれた。男の、荒々しい ムるま 「ここへお坐り」 振舞いの後に、男の、またこうした優しさのあることも始 と、川瀬が優しい声で言った。 めて知るのだった。 「ええ」 念を入れて結った髪も、念を入れて結んだ帯も悲しいば まだ、立ったままでいると、 かりだった。 「どうしたの。ね、ここへきなさい」 私は彼に背を向けて頭へ手を上げながら、まだ恐怖の去 それは、命令するようでもあり、頼むようでもあった。らぬ胸の慄えで、がくがくと歯が鳴るのだった。 私はそれに抗うことは出来なかった。そっと坐ると、彼「ちゃんとしなさい。人が変に思うといけない」 はまた 人が、変におもう ? がくせん 「こわいの ? 」 愕然と、その言葉を聞いた。 と、言った。ちらりと見ると、川瀬の目は、泣く一歩手ああ、私が悪いわけじやアない。 くちびるか 前のような、何だか哀願するような、気弱いまたたきをし私は立ったまま、唇を噛んで涙ぐんだ。涙ぐんだ目でじ っと前を見ていた。泣くのを川瀬に気づかれたくなかっ 「しばらく、こうしていよう」 た。そのくせ私のうしろで川瀬もやはり身づくろいしてい からだひぎ こつけい 川瀬はそう言って、私の身体を膝に抱いた。 ると思うと、何だかとても滑稽になってくるのだった。な ふる おとな 私は私の身体のこまかく慄えるのを、対手に気づかれるんて大人は滑稽なんだろうという風に。 たばこす のが厭だったけれど、どうしても、慄えはとまらなかっ 川瀬は、長い脚を立てて、煙草を契い始めた。すると不 た。 ( 以下四行削除 ) 思議に、川瀬はもう私に優しくしてはくれないのか、と、 さび 私には、何の感応もなかった。ただ私には抵抗するなどすっぽかされたような淋しさが湧くのであった。そして私 思いも及ばぬような失われた意志があるばかりだった。感はふいに父を思い出した。私は父を、遠くへ置きざりにし

6. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

わば意地の悪いみたせ、 だ。お父さんはこういう幀りない、い くちご いなところがあるから嫌いだ、と、思いながら、ロ籠もつ「飯をついでくれないか」 らやわん と、茶碗を差し出した。 「はい」 「どうするって ? 」 と、私は両手で受け取ったが、何故だか、父親ひとりの 「何もせんわけにはゆかんだろう」 前に坐って、そうやってお給仕をするのが変に気まりが悪 「ええ」 しゅうら 私はちゃんと胸に描いてきたのだ。父親にそれを口に出く、男女間の羞恥みたいなものが私の気持の中に湧くので あった。感じの敏い父親がそれを見抜くのではなかろう して言うのは恥ずかしかったけれど、 か、と思うと、私はますます自分の態度にこだわった。 「私、学校へゆきたいわ。実科女学校でもなんでもいいか 隣りの部屋の職工たちはがやがやと外へ出て行ったらし ら」 。冬の夜だというのに、表を歩く人の足音はなかなか多 「学校へ、ね。それもよかろう」 いらしかった。 父は、さて面倒になってきた、というような気がしたの 「明日はね。お前も知っているだろう。長崎の川瀬がここ か、ちょっと区切ったが、 へやって来るよ。みんなえらい人が子分を引っ張るんで 「今から、女学校へゆけるかい」 ねー 「ゆけるでしよう。何とかすれば」 御飯を噛む合間に父親はそう言った。 「そうだね。何とかすればゆけないことはないだろうー いまさら 「川瀬さんって、ああ、知ってるわ」 もう今史女学校の新入生でもなさそうな柄に、私は見え たのにちがいない。そのうちに私が昨夜来た時と同じ服装父が別に看板をかけてではないが、長崎で夜の時間に尺 八をおしえていた時に来ていた人で、造船所の社員だっ なのに気づいたらしく、 た川瀬を、私は記憶の中に探り当てた。 「お前、着物はそれ一枚かね」 「ええ。着物はあるけど、羽織がね」 と、私はすまなさそうに微笑んだ。 相生と書いて、おう、と読ませるこの町は、瀬戸内海の 「着物なんか、すぐ出来るさー さかず、 と、父は、それだけは確かなように受合って、盃を伏小さな港のひとつであった。一里ばかり出て行けば、山陽 めんどう ほほえ

7. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

って。だから知っているわ、きっと」 んて、たいしたことアないのだ」 「そうかい」 彼はまたしても自分の鬱憤をはらすように言う。 まあ、いいさ、という風に、 私は、ただ自分に言われた言葉だけを感じ、 とかく 「兎に角、たいしたことアないよ、ここらの人間なんて。 「そんなこと」 かいしゃ 造船所に来ている者だって、みんな、少しばっかり月給が と、父を咎めるように言い、私にばかり、何か負わせ いいのを当てにして寄って来てる連中だね」 て、彼自身は何も娘にしてやらないその態度をどういうの 自分へとも私へともっかぬように、そして誰を目指してだろう、と思った。 いるのでもなく、ただ何となく自分の憂さを晴らすように「だって、父さん。よその娘さんなんて、もっと立派なの 父はそう言うのであった。 よ。ちゃんと何か出来ているし、わたしなんて ! それと 「負けんようにせにやいかんよ、え。そりや、俺も東京でも父さん、わたしを元気づけるために言っているの」 しよう はしくじったよ、ね。だけど仕様がないじゃないか。俺も「うん」 しんき 若かったんだから、な。これから新規まき直しをやろうじ父は、にやりと笑って、 ゃないか」 「まあ、 しいじゃないか。どうだ、呑まないか」 きかず、 父は少し酔いが廻ってきたらしい。私は、ええ、とうな 盃を私の方へさし出して、 ずいて聞いていたけれど、私は何だか困ってしまうのであ「まあ、そんなようなものだよ、世間というものは、な」 とくり った。父親に、そんな風にもたれかかるように話しかけら徳利を振って、 れると、自分をどんな心の位置においていいのか分らなく「ああ、もう無い。もう一本つけてくれ」 なるのである。 たのむ、と、女房をでもごまかすようにわざと鼻の先を あ 0 「そうね」 顰めて、顎をしやくった。すると私の中には酔っぱらいさ と、だけ言った。その声の調子には、無責任なものが含んを扱うような余裕が出てきて、 まれているのをどうしようもない。 「いいの ? 」 が、父は気づかず、 と、一応、しぶってみせた。と、今度は父が、娘の生意 「ひとつ、お前の頭のいいところで、皆を感心させてやら気を感じたかのように、 んかい。そのくらいのことは出来るよ。このへんの人間な 「いいさ。何をお前がつべこべ言うことがあるんだ」 おれ しか とが うつゑん りつば

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すなお で、私はにやっと笑った。二人を見比べた私の視線は、き と、艶子は素直に笑った。 っと、きよろきよろと敏い動きをしていたにちがいない。 年寄りの女中がお茶とお菓子を運んで来た。私はもう、 私はやはり、その父の言葉の端しに、意外な発見をするよちゃんとしたお客様になっている自分を感じた。それはな おくそく うに思うのであった。けれどもそのことから勝手な臆測をかなかいいものだった。子供から大人になろうとする時 するというようなことはなかった。 は、このようなことも心に残るのである。 ムんい 私は至極幸福に眠った。 すると私は何かしら、もっと雰囲気をつくりたくなる。 ごぞん ある日私はひとりで相生へ遊びに行った。小間物屋の千「ねえ。中里さん、私の近くにいらっしやるのよ。御存 代子は神戸へお嫁に行ったということを聞いていたので、知ー 私は久しぶりで艶子に逢おうと思うのだった。 艶子は、ばっと表情をひらいたようにみえた。首を振っ 質屋の入口は横町の方にあって、本当の門は表側の通りて、 についている。私は門の方から入って行った。 、え、知りまへなんだわ。そうでつか、奥さんおもら 「あら、桃代さんでしたん。まあ、ようお越し」 いになって」 しいえ、まだよ」 古い家の、ひんやりした中から、艶子はちゃんと帯を締「、 はず めている姿で出てきた。 私はそう言って、ある考えに心が弾んだ。 私は家の人たちにあまり逢わぬように、土蔵の見える縁「ねえ、艶子さん、あなたは中里さんのところへお嫁にゆ を通って、そっと艶子の部屋へ入った。庭には、白い土蔵かない。いや ? 」 いしどうろう の横をのぞかせたまま、手入れのされた庭木や石燈籠など「あら、なにいうてん。そんな勝手にはゆきませんわ。私 があった。 のようなもん、中里さんの方で承知しいはらへんでつしゃ ろ」 「お母さん、おいでたんですって ? 」 「ええ、来ましたの、千代子さんもお嫁にいらっしたんで「そうかしら。私、あなたと中里さん似合いの御夫婦だと すってね」 思うんだけど。ほんとうに、私、中里さんにうちの父さん に話さして見ようかしら。でも、お宅のお父さんやお母さ 「へえ、神戸の会社へお勤めの人のところへなア」 「あなた、まだ ? 」 んいけないっておっしやるかしら。他所の人だから」 「そんなことないでつしやろけど」 「へえ、まだ」 おとな

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「中里さん、いい人だと思うんだけど、ねえ、あなたどうよ」 思う。あなたがよかったら、私、ほんとうにお父さんに話「もの好きな桃代さん」 してみましようか」 「だって、あなたなら、とてもつり合っているんですも ようかん 艶子は羊羹の端を切って、わざと顔をあげて鹿つめらしの」 く庭の方を見ながらそれを口に入れようとしていたが、ふ私がそう言うと、艶子は黙っていた。そのことを自分も と私の視線と会うと、いきなり笑い出して、羊羹を下へ落認めるように。 なお としてしまった。 私は尚も、中里がいい人にちがいない、ということを、 笑いはなかなかとまらなかった。あら、どうしておかし艶子をまるでそそるようにしゃべりつづけるのであった。 と言いながら、私もいっしょに笑った。 艷子は初めつから聞き役であった。 ことがら 「ああ、おかしいツ」 私は、意外な約束をして艶子の家を出ながら、その事柄 そう掛け声をして笑いをとめながら、艷子は、 に自分でも夢中になった。 「桃代さんたら、本気でいうてはるもの」 どうせ、自分が中里にふさわしくないのならば、自分の 「あら、ほんきよ」 手で自分の知っている人に中里を結びつけておく、という くくつ、と艶子はまた笑った。 のは、せめてもの思いっきであった。そんなことから、中 「あら、いやだ。艶子さんたら、中里さん好きなくせに」里に近くなれる、というのも一策だと思われたのである。 私は、何故かそんなこと、ずばり、と言ってみたかった二人が結婚をすれば、私もその家へ遊びにゆけるというも のである。 のだ。 艶子は笑いをとめた。 これは多分に私らしい思いっきだったけれど、その思い 娘私は、とりなすように、 つきの方がおもしろくて、私には悲しい気持は、そんなに の「結婚って、縁があれば割合にまとまるものなんですっ起らないのであった。 ただ、話の間中、艶子は初めつから自分の話としてだけ と、言った。 中里のことを聞き、一度も、私に中里のお嫁さんになった 「そりや、そうやわね」 ら、とは言わなかった。私が自分で中里のお嫁さんにふさ 「私、なんだか、あなたと中里さん一緒にしてみたいのわしくない、と思っていることは、人からみた場合にも、 しか

10. 現代日本の文学 25 円地文子 佐多稲子集

に、もう自分の時間など無く立ち続けるそれらの姿だっ 「おつけえ姉ちゃん、山、火事だっそ」 た。 きぬ子の声が絶望的に響いた。 一一年間のそこの単調なくり返しの朝夕は人生について真山裾から段々にばちばちと少しずつ上の方へ燃えつづけ じめ 面目に対してゆこうとしていた一少女の考えから生活の希ていた芝地の火が、勢いよく拡がろうとしていた。市次と はんてん 望を奪っていた。脱けどころのない疲労は若い健康の上に祖父が、上着の半纏を振りかざし、跳ぶようにして、ば 押し重っていった。お店なんて、肺病の巣だっせ、みんな つ、ばっと地面に火をたたき伏せていた。その半纏の下を 言ってはるわ、などと仲間同士で語り、友達の二人三人のすり抜け、火はぼぼうと音を立てて横に飛び、前にとん 死を送りながら、遂に自分に回ってくるのをどうしようもだ。太陽の下で芝の燃える色は薄黄色く見えたが、ときど なく、自然に胸を折るように背中のうずくのをじっと、目き、きろ、きろっと赤く光り、半纏を振りかざし必死にな を強く据えて見つめるばかりであった。こういう娘にとっ ってあとを追う兄たちの手の下に、ますますあおられるよ たけ て、或る朝起き抜けに、咳き込む拍子にぶくぶくとあぶくうにぼ・ほうと猛り立って前へとんだ。 どな といっしょに吐き出されたまっ赤な血は、生活に変化をも「村へ言うてこい」と市次がまっ赤になって呶鳴った。呶 たらすやけくそな希望にさえ見えた。病的に熱した目をき鳴りながら自分は火を追うて横へ飛んだ。老人は表情だけ らきらと光らせて、縁先の土にぶつぶっとあぶくの消えては少しも変えていないのだが、市次に負けず半纏を振り上 ゆく自分の血を見つめていた。それからまっ蒼になり、床げているその動作で異常なのが知れた。 についた。 きぬ子が短かいおかつばの毛を後ろへはね上げるように し′カ そういう思いもあるのに、ひとり離れて田舎へ帰って来してもと来た道を跳んでいた。こぎくもそのあとを追って たま ていると、こぎくは堪らなく友達が恋しかった。それはた走った。 だもう娘らしく友達が恋しいのであろう、決して一一年間の きぬ子の知らせで、駅前の運送屋からすぐ、荷馬車を曳 女店員の生活ではないのだ、と自分自身でさえ腹立たしく く村の若い男たちの自転車が、三、四台つづいて線路の下 なり、そう思って見るのであった。 のトンネルをくぐり山へ向かった。 兄の何か叫ぶ声がふと聞えた。反射的に、が ば、と起き「お母はあん」 たこぎくの耳に、燃えていた芝の音がばちばちと大きく聞 きぬ子は土間へ駆け込むと、せつかちに甲高く、山がな え、同時に、 ア、山がなア、としゃべり出した。土間の隅で、味噌豆を さお すそ かんだか すみ