馬のたくましい腕が彼の腰をおさえたのである。「じゃくったってね」 あ、押しますぜ」 酔っていたせいであろう、馬も乙なことを言いだしたも ( 彼の身体がぐっと前へうぎあがった ) のである。しかし、そう言いながらも彼自身の両手は、そ 「ようがすかい ? 」 のときすでに・フランコの綱をにぎりしめていたのである。 「ーー・もっと力を入れて」 「乗って見たまえよ」 「よし来た」 「この年になってね、 「もっと押してくれ、 ふってふって振りとばしてくれしかし、馬はじろりとあたりを見まわしてからそっと踏 台に足をかけた。 「へ、へ、へ、 「さあ押すぜー」 馬がかすれたような笑い声をたてた。 ( 横井は両手に力を入れてぐっと前へ押しあげた ) 「さあ押しますよ」 「ーーーああ、いけねえよ」 あわ 「もっと、もっと、 馬が慌てて上からさけんだ。 はす 押すにつれて、横井の身体にはだんだん弾みがついてき「眼が回りそうだ。ねえ、とめておくんなせえよ」 たく た。彼の接がたちまち空中に大きく弧線をえがいてはねあそのとき、横井の手はひとつの企らみのために、かすか しんふく がった。ぐいぐいと左右の綱が強くきしむにつれて振幅が にふるえてはいたけれとも、 しかし、彼は一生懸命で すき 次第にひろがってくる。 ある。彼は決して馬にとびおりる隙をあたえなかった。馬 「セルロイドの重役」は思うさまゆられてから、やっと調の身体がうしろへゆりかえされると、彼は機をはずさず、 子をゆるめた。やがて元の位置にもどると、ゆったりと砂渾身の力をこめて、前へつきはなした。 地へおりて、 綱がだんだんきしんでくる。見る間に、馬の着物の裾が 劇 「気が遠くなるようだ、 いいきもちだったそ、どうだはだけた。痩せて骨ばった毛脛がたちまち宙に伸びあがっ 生 君もひとっ ? 」 たのであるー 人 「まさかーーー」 ( 今だぞ ! ) 四「ためしにふられてみたまえ ! 」 横井は胸の底ふかく、自分をしかける声をぎいた。彼 「へ、へ、へ、 ふられる方なら何も・フランコに乗らなは最後に、もう一突き、馬をぐっとっきはなすと、そのま よ」 こんしん けずね すそ
みせた。 ( 彼には伜のすがたが蝉のように見えた ) 強く・ーーそれも最初は風があたるくらいの感じだったが、 「えらいぞー」 まもなく高い銀杏の木が前後に大きくゆれはじめた。 瓢太郎が手をたたいた。「そこから何が見える ? 」 「しつかりとぼっとれー」 「何でも見えるーー」 瓢太郎は絶えず下から声をかけた。瓢吉の眼の前では、 「言ってみろー」 あらゆるものがうごきだしたのである。そして、もう何を 「馬が見える」 見ることもできなくなってしまった。 「馬が何処におる ? 」 「おそげえ ( 怖いという意味 ) 、おそげえー」 「橋の上におる」 瓢吉は夢中になって叫んでいるばかりだ。 ( 幹がゆれる ( 一台の駅馬車が春の陽ざしをあびて、彼の視野の中をまごとに全身の力がぬけて今にもふるいおとされるような気 っすぐに走ってくる ) ーーー遠い平野のはてに点在する村が持で・ーー ) 緑のかたまりのように見え、そして、彼の住んでいる町さ「おそげえなことはないそ、 おりて来いー」 え、今は彼の眼の下にうずくまって、それは彼よりもずつ 瓢太郎は汗びっしよりになっていた。そして、泣きなが と小さくなってしまった。 ら、やっとおりてきた伜をみると、すぐに、 「鉄砲を買ってやる、来いー」 「万歳ー」 そう言って先に立ってあるきだした。 と、瓢吉が腹一ばいの声で叫んだ。何とうぎうきした気瓢太郎はこのとき、すでに自分の人生が終りにちかづき もちではないか。遠い山が雲とすれすれになり、その下につつあることを知っていたのである。 ちんじゅやしろ 見える鎮守の社は手をはなしただけですぐ飛んでゆけそうそれ故、彼の頭は瓢吉を育てることで一ばいなのだ。 彼は若い頃からひどい胃弱で苦しんでいたが、それが難 劇そのとき、下から瓢太郎の声が聞えてきた。「しつかり病の胃癌だということがわかったのは四十をすぎてからで 生 とまっとれ、手をはなしちゃいかんそー」 ある。半年あまり彼は病院を転々としてくらしていた。し おやじかたはだ ちょうこう 人 瓢吉はびくっとして下を見おろした。親爺が片肌ぬぎにかし、何処へ行ってもよくなる徴候は見えなかった。それ いなか 7 なって銀杏の幹に両手をあてているのが見えた。すると、 よりも田舎の病院生活でわるいことをお・ほえてしまった。 こすえ かすかな波動が梢の方へったわってきた。徐々にだんだんそれは、あるときの応急手当でモルヒネの注射をしたこと どこ せみ がん ころ
とん・きよう う、これをー - ・ー」と、最後に頓狂な叫び声をあげた。「こ そのとき、不意にラツ・ハの音がひびいてきた。授業時間 が終ったらしく、湧きたつような騒がしさが壁越しに次第れを大蔵が書きましたか ? 」 く、ん に高まってくる。 老人の顔には一種異様な苦悶の表情がうかんできた。 「いや、それを書いたのは」 と、先生が急に緊張した顔で瓢太郎の方をちらっと見 て、 主任教諭は左の手で、顎をごしごしこすった。 これですよ、こいつをごらん下さい、他愛のない落「青成瓢吉らしいですがね、何しろ最初に計画を立ててす つかり社長気取りになっていたのが夏村なんです」 書という程度を越えていますよ、それに一年早々こんなこ とをやり出すようじや一先が思いやられますからな、一応「なるほど」 父兄の方からも将来を警めていただきたいというのが、校と老人がやっと安心したようにうなずいた。瓢太郎は慌 てて、紙切れをとりあげた。 長ならびにわれわれの意見で、 「教室新聞第 x 号」と鉛筆で大きく書いてある。 ( どれも 瓢太郎は不思議に落ちついてきた。心の底にたまってい た残滓のような不安が一ペんに洗い去られたような気がしこれもノートの切れはしであるところをみると、教室の中 そう言いたい気もで授業中にこっそりやったものらしい ) たのである。「えらいぞー瓢吉」、 ちなのだ。 ( まったく人間は、先が思いやられるような男第 x 号 ( 七月四日 ) そして瓢吉はどうやらそういう人ワレ等ノ尊敬スル校長熊襲閣下ハ当日甲組教室ニオイテ にならねば駄目だ、 しを十ーし、カー ) 修身の授業中恐レ多クモ一発ノ放屁ニョッテ学生ノダ眠ヲ 間としての第一歩を踏みだしたらし、でまよ、 彼は今自分たちの前に口をとがらしてしゃ・ヘっている色ヤ・フラレタル由。ンコデワレワレハ、七月四日ヲモッテ恩 場の黒い若造の教師をどうしても心から尊敬する気にはなれ師ノ放屁記念日ト決定ス。全校ノ生徒七月四日ヲワスルナ ョ。 ( その横には、顔中ひげむじゃらの男が尻をうしろへ 劇ないのだ。 ( この色の黒い妙な男の出現は、中学の先生と さしえそ 生 いうものに対する瓢太郎の lmage ( 幻像 ) を根こそぎぶちつきだしている挿画が添えてある ) 人 第 x 号 ( 七月七日 ) こわしてしまったらしい ) ・ - えかカ しかし彼の横にいた老人は前屈みになって、字をぎっし ( 紙一ばいに、真っ黒な馬が白い洋服を着て汗をたらしな り書きこんである紙切れを一枚一枚めくっていたが、「ほがら走っている画があって、その横に「黒馬先生遅刻之 くまそ 椴うひ
いらしいけれども落付いたもので、驚ろいた様子もなく考 ア散歩がてら行っておいでなさいましと言うのであった。 そういう言葉でも大体の予想はつくのだが、行 0 てみるとえてみる様子もないので、一行もそれ以上にねる根気を うやむや なるほど 成程へんてつもない所で、なんとなく薄暗い感じのする小失って有耶無耶に口を噤んだ次第であったが、そういうこ みすたま かたすみ さな部落の片隅に、池というよりは水溜りとよぶにふさわとも蒲原氏には忘却の大河のなかをうねるようで、自分の しいものがあって、水の色も見えないくらい葦の密生する方でも無関心にそれらのことを聞き流していると、山や谷 むな ところがそれであった。名所旧跡というような放めしい目や密林に心というべき遠い気配が通じていて虚しい心へ流 じる 印しは何一つなく、近隣の風景に比べると特別みす・ほらしれかかってくるような、ひろい愁いがわかるのであった。 うすぎたな い薄汚い湿地で、わざわざ行ってみる奴が莫迦にされた感夕食を終ると、蒲原氏はただ一人彷徨うような散歩にでか すべ じであるが、全てに置きすてられた山底の部落では伝説もけた。 また 亦置きすてられて荒廃のままにまかされ、いわば伝統のもすでに薄明がたれこめ、山々は暗紫色に溶けはじめて夜 っかな悲しさにつながるものが、現に静寂な山気をおびのさなかへ消え落ちょうとする頃であった。温泉部落を出 こみち て、さまよい流れているような、思えば遙かな傷心も蒲原外れて谷川を渡り終ったところから、間道とお・ほしい小径 さんてん をことさら選んで激しい傾斜を登って行くと、やがて山巓 氏の心の奥をすぎたのであった。 この散策に際してまず一行を驚かした一つのものは、部へ現れて、そこから見晴らしのひらけた尾根伝いの径が走 くらやみ 落部落にたむろする子供等が、一行をめがけて敬礼を怠らっていた。谷はすでに暗闇の底に沈み落ち、はるか下から、 もやかたま な かす ないことであった。人の珍らしい山奥とはいえ、見馴れな ほのぐらい靄の塊りが湧いていたが、空には幽かな明かる さが残っていた。 い人にはお辞儀をせよと教える筈もないわけで、訝かしい しごく ちょうど 思いのした一行が宿の者にたずねてみると、宿の女は至極径はまもなく少しずつ下りはじめて丁度山の中腹をうね 心人なっこい顔をしてハアと答え別に驚いた様子もないのるようなぐあいになったが、片側には下へ下へと切りひら つるくさ で、それでは矢張りそれ相当の理由があっての事柄で、やかれた段々畑を見るようになり、片側は蔓草や樹木密生の 逃がてその理由をきかれるものと思うていたら、宿の女は前山の腹が頭上へかぶさるようになってきた。この辺りへか と同じい人なっこい顔付のままで、「そうですかの。それかってくると、それ迄は見かけることの出来なかった人影 はまあ、どういうわけでございましようぞい」と静かな声が、ひっそりした山の腹から時々ひょいと現われて、闇の奥 すがた で言うのであった。やつばり分らないことらしい。分らなへ消えていった。ようやく像がわかるくらいの明るさだっ はす やつば はす わ ころ
412 目の前に昔の山々の姿が現れました。呼・ヘば答えるよう この幸福な日に、あの森の花ざかりの下が何ほどのもので でした。旧道をとることにしました。その道はもう踏む人しようか。彼は怖れていませんでした。 がなく、道の姿は消え失せて、ただの林、ただの山坂にな そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一 っていました。その道を行くと、桜の森の下を通ることに面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラ・ハラと落ちて なるのでした。 います。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。こ 「背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことがの花びらはどこから落ちてきたのだろう ? なぜなら、花 できないよ」 びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見は 「ああ、 いし一、も」 るかす頭上にひろがっているからでした。 男は軽々と女を背負いました。 男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそり 男は始めて女を得た日のことを思いだしました。その日と、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が やまみち つめた も彼は女を背負 0 て峠のあちらの側の山径を登 0 たのでし冷くな 0 ているのに気がっきました。に不安になりまし しあわ た。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然 た。その日も幸せで一ばいでしたが、今日の幸せはさらに 豊かなものでした。 どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせて いました。 「はじめてお前に会った日もオンプして貰ったわね」 と、女も思いだして、言いました。 男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大 「もそれを思いだしていたのだぜ」 きな老婆でした。そのロは耳までさけ、ちぢくれた髪の毛 うれ は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼 男は嬉しそうに笑いました。 「ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。谷も木もの手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見え 鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。走ってみたくなるじなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめ すきま て鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、 ゃないか。都ではそんなことはなかったからな」 「始めての日はオンプしてお前を走らせたものだったわ背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼 ね」 に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふ 「ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ」 と気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつ 男は桜の森の花ざかりを忘れていませんでした。し、け、そして女はすでに息絶えていました。 っちはだ おそ のど
316 たが、現れる人像の一つ一つがきまったように同じ服装ののだ。一言物を言うだけで全ての思いが足りるような、ひ 女ばかりで、丁度ちゃんちゃんこのような厚い感じの仕事ろ、そうして熄みがたい願いであった。 てつこうきやはん 着にもんべをはき、手甲・脚絆をつけているが背には粗朶愈々歩行のあらゆる根気が根こそぎ失われてしまいそう なたかまたぐ まっくらみち らしいものを負うて、鉈や鎌の類いの物を手にさげているな時分になって、折りよくひょいと、もはや真暗な径の上 あたか ようであった。恰も野生の動物のような軽やかな身のこなへ一つの人像が降りてきたのを認めると、蒲原氏は全く自 しで、見た目には手とも腰とも肩ともっかぬ一点に於て軽然の風声のように言葉をかけた。 くちご , 軽と全身の調子をとりながら、スイスイと歩きすぎて行く「あの : : : 」併し激しく言いかけてからロ籠ったが、それ たそがれ しゅうち のであった。恐らく山へ働きにでる女達の丁度この黄昏どは全く羞耻の念によるものではなく、ひとえに全身の痺れ きが一定の帰宅の時刻に相違なく、行く先々へ時々ひょ、 しるような疲労のせいにほかならなかった。 と と山の陰から現れてくるが、軽やかで、踏む足に殆んど音 「あの、温泉へ行く道はこれでしようか ? 」と蒲原氏はた のない故か、時々それがだしぬけで、ふと浮びでた人像にずねた。 もちろん 夢みる思いがするのであった。行くほどもなく段々畑のと勿論今来た道を通って行けば自然温泉へ行くわけである ころどころに 0 た木立が見えはじめ、このあたり特有のが、そうとは知らない山の女は贋迷い子の中老人に憫れみ まなざ ていねい 窓の小さい荒壁の農家が現れてきたが、屋内にほのぐらい の眼差しをそそぎ、丁寧に道順を教え、迷うほどの難所も はかげ 灯影の気配はあるものの、窓に人影がうつるでもなく物音ないから、この方向にまっすぐ歩きさえするならば、あん がたつでもなく、中なる生活を想像する一つの手掛りもつじよう温泉へ着きます・せのと、つけ加えて言うのであっ かめなかった。せめて女の軽々とした足どりが家の中までた。 すがた うなす うれ 這入るところを突ぎとめたいと思ったのだが、女の像に出蒲原氏は頷いたが、熄みがたい胸の愁いはなお満ち足ら 会うといっても稀れなことで、家もまばらなことであり、ぬものがあってか、言葉は自然になおも流れて、「あの、 そういうことにはぶつからなかった。 みちのりはどれほどでしようか ? 」とたずねると、 蒲原氏は全く疲れきっていた。歩くどころか立っている「一里ですぜの」 のも非常に苦痛で、何かに凭れ、何かに掛けたい願望がし女ははっきりそう答え、蒲原氏がお礼の意味でガックリ うす きりに疼くのであったが、それにもまして、仕事帰りの山頷くのを見ると、なおも何やら労わりたげな様子であった が、ふりむいて軽々と歩きだした。 の女に一言物を言いたかった。どんな言葉でもかまわない いでたち そだ うなす しか すべ しび
ほほえみ い微笑をうかべた ) 「今晩は、 つやつやした、おんなの髪のにおいが、ぶうんと彼の鼻瓢吉は頭がぼうっとしてきた。そして、彼は無意識のう の先に迫って来たのである。 ちに身体を斜に構えていたのである。若い芸妓と眇眼の女 りんかく 丸顔の、ーーー無表情ではあるが、しかし、輪郭の整った、中とが思わず顔を見合わせた。 ( 二人は危く一ペんにどー まだ十七八の若々しさにはりみちているロの大きいおんなっと笑いだすところだった ) しわ が顔をあげた。 そのとき、瓢吉が眉に皺をよせ、心もち肩をゆすぶりな うな ( 瓢吉は、もう勝手にしゃあがれという気もちだ ) がら、咽喉からし・ほり出るような声で唸りだしたのであ る。 「兄さん、学校は、どこ ? 」と、おんなが訊いた。 「ワセダだよ」 「踏破るーーー千山、万岳の」 「あら、 そのとたんに若い芸妓が高調子に三味線を鳴らしたと思 おんなは、職業的な笑いをにやりとうかべた。「すてぎうと、 ね、あたし、「ワセダ』のかた好きょ ! 」 「書生さんにほれて : : : 」と、巧みに呼吸を合わせながら かんだか そう言ってから、すぐに三味線をとりあげた。「ねえ、甲高い声で、「サノサ節」をうたいはじめたではないか。 何かおうたいにならない、ビンとかシャンとかやらなくち瓢吉の胸の底を妙なうそ寒さがとおりぬけた。彼はまる かっこう はんばっ ゃあ、 ワセダのかたは芸人ばかりですもの」 で格好のつかなくなってしまった自分の感情に反撥するた 「ほんとにね、兄さん、ーーー都々逸でもおやりなさいよ」めに、 すがめ ( 何時のまにきたのか眇眼のおんなが、瓢吉の肩をぼんと「もういいぞー」と、大声でどなった。「おれは帰るー」 たた 敲いた ) 「何をおっしやるの ? 」 うた 「唄えねえよ」 客あっかいになれた眇眼のおんなも、さすがに突拍子も 劇 と瓢吉がぶつきら・ほうな調子で言った。すると眇眼のおない彼のことばにどきっとしたらしい。しかし、彼女はす ぐに声を種出て、 人んなが、およそ彼女の顔とは不調和な色っぽい声で、 「でも、こちらは唄えそうな顔をしていらっしやるわね」 「ええ」と言った。「ひとっ乾して小奴さんにお回しなさ 「むつつりしていないで、少しは何かおやりなさいな」 いな」 ( 三味線をひいている若い芸妓が無表情な顔にわざとらし「君、ーー」 どどいっ
ると、道の両側はまだ燃えている火の海だったが、すでに通っている。丘の上の住宅は燃えており、麦畑のふちの銭 は焼け落ちたあとで火勢は衰え熱気は少くなっていた。湯と工場と寺院と何かが燃えており、その各々の火の色が そこにも溝があふれていた。女の足から肩の上まで水を浴白、赤、橙、青、濃淡とりどりみんな違っているのである。 ひた せ、もう一度蒲団を水に浸してかぶり直した。道の上に焼にわかに風が吹きだしてごうごうと空気が鳴り、霧のよう けた荷物や蒲団が飛び散り、人間が二人死んでいた。四十なこまかい水滴が一面にふりかかってきた。 なおえんえん 群集は尚蜿蜒と国道を流れていた。麦畑に休んでいるの ぐらいの女と男のようだった。 二人は再び肩を組み、火の海を走った。二人はようやくは数百人で、蜿蜒たる国道の群集にくらべれば物の数では 川のふちへでた。ところが此処は小川の両側の工場が猛ないのであった。麦畑のつづぎに雑木林の丘があった。そ 火を吹きあげて燃え狂っており、進むことも退くことも立の丘の林の中にはど人がいなかった。・二人は木立の下へ はし」 止ることも出来なくなったが、ふと見ると小川に梯子がか蒲団をしいてねころんだ。丘の下の畑のふちに一軒の農家 けられているので、蒲団をかぶせて女を圷し、伊沢は一気が燃えており、水をかけている数人の人の姿が見える。そ に飛び降りた。訣別した人間達が三々五々川の中を歩いての裏手に井戸があって一人の男がポンプをガチャガチャや いる。女は時々自発的に身体を水に浸している。犬ですらり水を飲んでいるのである。それを目がけて畑の四方から かわ たちま そうせざるを得ぬ状況だったが、一人の新たな可愛い女が忽ち二十人ぐらいの老若男女が駈け集ってきた。彼等はポ 生れでた新鮮さに伊沢は目をみひらいて水を浴びる女の姿ンプをガチャガチャやり、代る代る水を飲んでいるのであ ーま炎の下を出外れて轗の下を流る。それから燃え落ちょうとする家の火に手をかざして、 態をむさ・ほり見た。小月ー ぐるりと並んで暖をとり、崩れ落ちる火のかたまりに飛び れはじめた。空一面の火の色で真の暗闇は有り得なかった が、再び生きて見ることを得た暗闇に、伊沢はむしろ得体のいたり、煙に顔をそむけたり、話をしたりしている。誰 はて 痴の知れない大きな疲れと、涯しれぬ虚無とのためにただ放も消火に手伝う者はいなかった。 あんど ねむくなったと女が言い、私疲れたのとか、足が痛いの 心がひろがる様を見るのみだった。その底に小さな安堵が あるのだが、それは変にケチくさい、馬鹿げたものに思わとか、目も痛いのとかの呟きのうち三つに一つぐらいは私 れた。何もかも馬鹿馬鹿しくなっていた。川をあがると、ねむりたいの、と言った。ねむるがいいさ、と伊沢は女を たばこ 麦畑があった。麦畑は = 一方丘にかこまれて、三町四方ぐら蒲団にくるんでやり、煙草に火をつけた。何本目かの煙草 いの広さがあり、そのまんなかを国道が丘を切りひらいてを吸っているうちに、遠く彼方に解除の警報がなり数人の つぶや かなた おのおの
おしよう 小さい祭壇がもうけられて、前の晩、福泉寺の和尚が書い 吉良常がひととおりしやべって出てゆくと、おみねが入 ていった白木のが・ほっんと一つ置いてあるきりだ。線れかわりに入ってきた。瓢吉は父の自殺したビストルをと 香の煙がふかふかと部屋にたてこめて、 一瞬間、瓢吉りあげて、しばらくじっと見つめてから、すぐその下に置 いてあったうすい封書の封を切った。 はそくぞくっと来る寒さをお・ほえた。しかし、顫える手つ きで父の顔を掩った小さい切れをとりのけると、ロをきっ ( 表にはそんざいな字で「瓢吉殿」と書いてある ) 中は表よりも、もっとそんざいな文字が、書ぎつら かりと結んで、半眼にひらいている眼がかすかな親しみを り・ルかノ、 みま、 たくましゅうね人 もまじえないで、彼の顔を見戍っている。 ( 逞しい執念にねてある、觚吉は文字の輪郭を一字一字たどっていった。 ひとみ みちたその瞳を見よーー生けるがごとくという感じではな「遺しおくこと」ーーー先ず最初にそう書いてある。 父はお前が一人前の男となる日まで生きんと思いし 。その瞳は氷のようにすみとおった死の底から、猶且、 かな が、その喜びを見ることも叶わずしてこの世を去る、お 人生に挑みかかる要求に燃えている ) ふすま 前は父の心を無駄にしてはならんぞ、お前が立派な男と 吉良常が音のしないように襖をあけてはいってきた。 なるまで墓を建つるに不及、思いあまりしことあらば小 「若旦那ー」 牧村の祥遠寺に相談せよ。何につけても母を大切にする きらつね ことこれ第一に心得べきことなり、辰巳屋の家財はすべ 瓢吉がふりかえると、吉良常は低い声で、 て債権者の意に任すべし、一切の債務について証文等を 「ーーー大旦那があんたに渡してくれとおっしやった品物が 書き残すこと無用になさるべし、それがために、どのよ ありますんで」 うな辛き目にあうとも人を恨むべからず、辰巳屋の家名 彼は畳の上をいざるようにして、床の間の祭壇の横にお をあげんことを思うまじきこと、どこへ出ても恥かしか いてある小さいふくさ包をとりあげた。 らぬ男となれば家名を再興したも同じことなり、たとい それを瓢吉の眼の前でひらいてみせた。そのときになっ 劇 一銭の金でも無駄にしてはいけませんぞ、それでは瓢さ て、吉良常がだしぬけに泣きだした。 生 ん、くれぐれもおみねさんのことをたのんだよ。 人「これでござんす、ーーこ、これで大旦那さまが : : : 」 父より ( 吉良常の涙が青黒く光っているビストルの上へ滴り落ち 瓢吉どの 四た ) さいだん ふる したた なおかっ およばす
186 を見ろー女にほれられたことが一ペんでもあるか ? 」 こないだ高見に会った、あいつは」 たいやき 「今、社会党員彼は焦っいた鯛焼のような筋くれだった頬っぺたをさす 彼はちょっとあたりを見まわして、 りあげた。「おれは女なんか眼中に置いとらん、男はほれ るもんじゃ、ほれられなくなったらもうおしまいだそ、貴 「高見がね、 まだ学校に居るのか ? 」 「学校には居らん、 おれの会ったのは大手町の通りだ様は昔からユースだったから、男性が挑みかかる愉快さと いうものを知るまい、おれなんかはふられどおしじゃ、男 ったが、尾行を二人っれてふんぞりかえってあるいとっ た、誰も彼もケチくさくて話にならん、まだ格好だけでも子す・ヘからくほれる・ヘし、ほれた女からふられふられてふ だいじようふしんめんぼく られぬくところに大丈夫の真面目があるそー」 天下をねらっとるのは高見くらいのもんじゃ ! 」 ( 夏村大蔵、ーーー何処かでふられぬいてきたあとらしい ) 「何か言っとったか」 「しかし、君」 「君のことを聞いとった」 「何と言った 瓢吉が言葉を外らした。「君はおれのことを会う人ごと 「女にほれてしなびきっとると言ってやったよ」 に言いふらしているんじゃないのか ? 」 「そうでもない、ああ、そう言えば」 ひざ 「ーーほんとの話じゃねえか、高見もそう言っとったそ、 夏村は思いだしたように膝をうった。「めずらしいやっ あいつはほれられる快味ばかり味わってほれる苦労を知らに会ったぞ」 んから駄目だってな、おれも同意見だった」 「ほんとにそんな話をしたのか 「黒馬だ、黒馬も君、まるで変ったね」 「どこで会った ? 」 「あたり前さ、こんな話がだまって居れるかー」 「ひどいやつだな、 「それだよ、 じゃあ、おれが駒形で」 一体、どこで会ったと思う ? 」 「それも話した、阿呆らしくてそんなことがないしょにし「そんなことがわかるか」 て居れるかい、 「わかるまし 五六日前におれはヘ・ヘれけによっぱら 青成 ! 」 くちびる あわな ってな、京橋の通りで巡査をぶんなぐったよ」 夏村大蔵はどす黒い唇に残った・ヒールの泡を舐めなが ら、 「それでどうした ? 」 こうりゅう 二日の拘留さ、おれもあん 「・・ー・・女にほれられるようなやつに天下はとれんそ、おれ「むろん、ひつばられた、 こ