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検索対象: 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集
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1. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

ただ した気もちになってしまっていたのである。 瓢吉をとがめるなかれ。彼は唯、おりんに会いたかったの もし酒にさえ酔っていなかったら ( これは瓢吉の述ではない。 ( こんな晩でなければ誰がおりんに会いたいと そんたく 懐ではなくて作者の忖度であるが ) もちろんあんなところ思うものか ! ) 彼は今夜のはればれとした気もちを時ま はす へゆく筈はなかったのであろう。ところが、今夜の彼は酒でも持ちつづけたかったのである。 にも酔えば人生にも酔っていたのである。彼はうらめしそ言うことをやめよ、おりんに会えないとすれば、いや、 がまぐち うに蟇口をあけてみた。芝口から此処まであるいてくるうおりんに会えないとしても、彼は芸妓をはべらしてあそぶ ちに何ペん同じことをくりかえしたかも知れないのであということに彼だけの空想を描いていた筈ではないかと。 しかし、今夜の瓢吉にとっては、おりん何ものぞや る。だが、その中には五十銭銀貨が一つだけぼつんと、お さまっているきりだった。 ( 蟇ロの中がすっかり空になっ だ。強いて言えば今夜の彼を拉し来って烏森の待合で、 うた ていたらまだしもあきらめがよかったであろうが、何と一「踏破千山万岳煙」と唄わしめたるものは、おりんではな 枚の新しい銀貨がなまなましい悪夢の記憶を刻んでびかびくて、おやじの「瓢太郎」である。 か光っているではないかー ) ( 町をあるいている人はひとりもいない ) 今、瓢吉の頭をみたしているのは、待合の二階でもなけもうすぐ寄宿舎だ。 ともし火のかげが黒光 れば、若い芸妓の顔でもない。 門がしまっている。ーーー今まで、あれども無きがごと りにけた天井に映 0 ている古い奥座敷の、長火の前にく、らくらくととび越えた門だ。その門が、今夜にかぎつ きんじようてつべき 坐って、じっと彼の方へ微笑みかけている瓢太郎の顔であて金城鉄壁のごとくそびえているのだ。 ( 悪夢のさめたあ ぶっちょう る。その瓢太郎の顔がだんだん仏頂づらになって、歯を食との味気なさで、彼の心はすっかりしなびきってしまっ いしばっているのがまざまざと見えてくる。 ああ、その顔が彼を追っかけてくるのだが、瓢吉、くよやっと彼の肩ほどしかない、青いべンキの剥げおちた古 劇 し門であるが、それにもかかわらず今夜の彼にはどうして くよするな、やりてえことは何でもやれ、ーー・・・・瓢太郎のそ こうだいむへん 生 の言葉が今夜ほど彼の心に広大無辺な人生を感じさせるこも飛び越えることができないのだ。よし、かりに門をとび 人 とはない。おとッつあんーおれは今日、学校の教室で、越えることができたとしたところで、どうして、事務室の ガラス戸を敲くことができよう。それも二時間前の彼なら どえらい男になったぜ ば、大きく肩をゆすぶって、 その気もちだ。その気もちが彼を駆りたてたのだ。人よ、 たた らっ

2. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

164 武者なのではないか。 り青成瓢吉だ、君知るや、われはこれ人生に舞い落つる一 そで 本という本はお袖と会うための金を工面するために売り片の木の葉に似たりだ」 つくしてしまったし、行李の中には一枚の着物も残っては「ほんとうによすのか ? 」 「こんな学校に何の魅力ありや、 いないのだ。 ( 着のみ着のままで、ーー彼が此処に最後の な・こり 日までがんばっているというのも、実を言えば名残が惜ししたそ」 いからではなく、二タ月たまっている舎費を払うことがで「うんーー」 うな 夏村が大きく唸って膝を前へ乗りだした。 きないからだ ) 「青成、握手しよう、 おれもやめるぞ」 冷酒の酔いはすぐに回ってきた。 「何だか今夜は、 「君とおれとはちがうそ、 君は始めからやめとるよう ひそう じようだん なもんじゃないか、おれの悲愴なる決心を君の冗談といっ 一ばん酒に弱い吹岡は、もうぼうっと頬を染めていた。 しょにしちゃこまるそ ! 」 「ーーーわれ等の青春の名残という気がするな」 「・ハ力を言え、ーー・おれは学校なんかを眼中に置いとらん」 「尽きぬ青春に名残を惜しみますかな」 あざけ 「やめるもよし、やめざるもよし、ーーー今夜は今夜、明日 ( 夏村が嘲るようにヘらへらと笑った ) 「ところで、 は明日さ、とにかくおれは青成のために乾しよう」 これからどうする ? 」 吹岡は悲しげに眼をしばだたきながら、しかし、おどけ 横井が眼をしばだたいた。 た口調で言った。 「何を か・ん - 小、 「学校だ」 「しかし、今夜は感慨が深いな」 ちんつう 「ああ、あれは」 横井が沈痛な声を出した。 くるま 瓢吉が横合いからさけんだ。 「ーーさっき長坂博士が俥に乗るときの顔を見たか、おれ 「これでもうおさらばだ」 はまったくひやりとしたよ」 「じゃあ、やめるのか ? 」 「だがーーー」 「ああ、やめるよ」 と、吹岡が、勢いこんで言った。「おれたちは立派な仕 「やめてどうする ? 」 事をしたと思うよ、われわれが講堂の中で偶然志を一つに ひょうひょうこ 「どうするってーー・どうなるかわかるもんか、瓢々乎たしたことは愉快だったな、 まるで予想もしなかった、 ここ ひざ おれは今夜こそ決心

3. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

瓢太郎は鼻をすすりあげた。 花道 「算術や英語だけうまくなれと言うじゃねえ、どんな悪た ながいことはあるまいと言われつづけてきた瓢太郎では れをやってもいいぞ、早く学校を出て立派な男になれ、お とッつあんはそれまで生きとってやる。きっと生きとってないか。その瓢太郎がいつのまにか村の高齢者のひとりに 数えられるようになっていた。 やる」 ( しつかりしろ、おとッつあんはお前が卒業するまではき 彼は同じ言葉をひとり言のようにくりかえしながら、 ( しかし、それは瓢吉に言っているというよりもむしろ彼っと生きとってやるそー ) 川そいの下宿屋の二階で父の瓢太郎が伜の瓢吉に言 自身に言いきかせているようだったが ) ・ほうっとうるんで くる視線をそっと窓のそとにそらした。 ったことばだ。今やそのことばが瓢吉をはげますよりも以 ( おれに残っているのは瓢吉だけだ ) ーーそういう感じが上に彼自身を唆しかけることばに変っていた。 強く彼の心をかすめたのである。すると、悲しい味気なさ ( 最近の十年間、健康をほこっていた村の老人たちが病弱 で一瞬間、胸がうつろになったが、しかし、瓢太郎はすぐな彼を残してつぎつぎと死んでゆくのを見るごとに、彼は せがれ に静かな愛情をこめた眼でじっと伜を見つめながら、 いまひと息、いまひと息と、自分に叫びかけた ) 「おそうなっちゃった、おとッつあんは今夜岡崎でとまっ だが、辰巳屋の屋敷はそれから五年のあいだにまったく おもや て、あした一番でかえるでな、 , ーー今夜はおとッつあんの見るかげもなくなってしまった。いつのまにか母屋がとり 宿屋でとまれ ! 」 払われ、中庭がなくなり、そしてやっと残されたのは街道 「うん」 に面した古い店構えの本家だけだった。 「食いたいものがあったら言え」 しかし、屋敷がどんなに小さくなろうがなるまいが、旦 なしゅう 「すしが食いたい」 那衆は旦那衆だ。 「よし食わしたるそ」 されば 瓢太郎は肉の落ちたやせ腕をまくりあけた。 瓢太郎は煙草入れを腰にはさんで立ちあがった。 ( 鉄道こそ、小指ひとっきでぶッつぶれるぞと言われた辰巳屋 馬車が鈴を鳴らしながら、黒い水面にチカチカと光の波紋が、とにもかくにも「法六町」の一角でいまだに門口を張 とのばし っていられるのだ。 を描いて、殿橋の上をとおりすぎた ) きせる 銀の煙管を横ぐわえにして、ロからぶうっと「白梅」の はもん だん

4. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

224 くたばるときが来たらおれもいっしょにくたばってやる 高見剛平はもはや、革命家でもなければ志士でもない、 彼は今、国家を相手にゆすりを働こうとしているのぞ ! 」 だ。舞台がひろく、ねらいどころの大きいだけに、さすが ( ーー夏村の心を唆しかけているものは思想でもなければ こうばく ほとんど予測することのできない荒漠 友情でもない、 の夏村大蔵も一本まいったというかたちである。 の中へ身体ぐるみぶつつかってゆく気もちだ。冒険に武者 高見剛平は、もう一度腕時計をすかして見てから、 「こうしちゃいられんそ、じゃあ、おれはひと足先に出るぶるいする悪党の意識が彼の胸の底に伸びあがってきたの からね、君は此処でゆっくり飯でも食ってからかえってくである ) 「ありがとう」 れたまえ、そして今夜」 と、高見剛平が言った。 「今夜 ? 」 ・ころ らんてい 「八時頃に、赤坂の蘭亭という待合へ来てくれたまえ、お「じゃあ、ーー・今夜」 あわ れは当分、日本では桜井という名前になっているんだから彼は慌てて内ポケットの中から革の紙入をとりだすと、 その中から手の切れるような百円紙幣をそっと一枚ぬきと まちがえないでね」 どこ っこ 0 「うんーーそれで、今から君は何処へゆくんだ ? 」 くちびる かす 高見は、唇の上に微かな笑いをうかべた。「内務大臣を「これで勘定をしてくれたまえー」 ほんの一瞬間であったが、不興気な感情が夏村の顔 訪問するんだ」 をかすめた。 彼の手はそのとき、夏村大蔵の肩のうえに置かれてい 「いいよ、そんなものは」 た。深い底意をふくんだ眼で、じっと夏村の顔を見すえ 「とって置けよ、 , ーー何に費ったっていいんだから」 て、 「くわしいはなしは今夜するよ、とにかくおれは今度の仕「要らん」 事に蛩命をかけているんだ、まかりまちがったら、おれは夏村にぶつきら・ほうな調子で答えてから、ソファーの上 ながしめ かばん 世界中にかくれる場所のない人間になってしまうんだ」 に置いてある旅行鞄にジロリとわざとらしい流眄をくれ た。こんなべらべらしたものよりも、おれにとって肝心な 「じゃあ」 ろこっ 夏村はそう言いかけて思わず口を噤んだ。彼は大きく黙のはその鞄の中のものだよ、という気もちを露骨に示しな がら。 ってうなずいた。 「わかったよ、人生意気に感ずだ、 かわ

5. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

宕を積んだ筏が静かな水面をながれていった ) 「ああ、じれったい」 「ねえ、 ( そう言ったお袖の手は、むしりとった草の汁で青くそま お袖がひょいと腰を浮かした。 っている ) 「今夜来て下さらない ? 」 「ーー・・あたし、あんたと早く家をもちたいのよ」 どこ 「何処へ ? 」 「家を ? 」 どこ 「ええ、 「おもてから入っていらっしゃればいいじゃないの ? 」 二人きりで何処か遠いところへ行って暮した 「柳水亭の ? 」 「ええ、 放心したようなお袖の眼が、はるかな空想を追って輝き 「そんなことはできないよ」 だした。「そして、あたし、赤ん坊を産みたいわ」 「どうして ? 」 ( 瓢吉のこころはすでに中空にゆれている一片の紙鳶では 「だって、 ないか。このとき紙鳶をつないだ糸がゆるゆると前に伸び そうじゃないか」 て、と たかと思うと、ぐっとお袖の手許にたぐりよせられた ) 「何がさ、誰にあったって何ともないじゃないの ? 」 瓢吉の胸の底を無数の衄がとおりすぎた。ー・ー彼はま 「うん、だけど・・ーー」 ず、故郷の家の煤けた天井を思いだしたのである。陽あた 「用事があるの ? 」 「今夜は来られないよ」 りのわるい、うす暗い部屋の中である。うすの中からく 「どうして ? 」 つきりとうかんでくるのは痩せおとろえた親父の瓢太郎の ただ 「 , ーー・学校が大騒動なんだよ、そのことで会合があって」顔だ。唯ひとすじに伜の世に出る日を待ちあぐんでいる悲 ひとみ じゃあ、 「そう、 いいわ」 しげな瞳。 たもと お袖は慌てて袂で顔をおさえた。 すると、こうしちゃいられないそ、 と一つの声がさ 「あたし、いっそのこと、誰かほかのひとを好きになってけびかける。その顔が消えうせると、こんどは遠く校歌の しまおうかしら ? 」 コーラスが聞えるような気がするではないか。今夜は「ワ すく はす ( 水辺の隹人、情緒かくのごとくに掬うべきものがある。 セダ劇場」に学生大会がひらかれる筈なのだ。ああ、こう すで 三州男児のこころ既に「ナマコ」に似たり ) しちゃいられないぞー 「ねえーー・」 あわ いかだ せがれ や

6. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

「何 ? 」 どうもこ 「おそれ入るね」 「もう眼をつけているんだね、このひとは、 の前のときから様子がへんだと思っていたよ、阿呆たらし半助もさすがに頭をかいた。 「いい年をしやがって」 照れくさそうに、吉良常の顔にちらっと視線をうっし 「何も手前」 こ 0 半助が口をとがらかした。「あんな小娘をどうしようつ 「どうです、今夜は此処に落ちついてゆっくりやりましょ てえんじゃねえぜ」 う・せ」 「どうだかわかるもんかー」 「わからなきやわからなくったっていいよ、とにかく呼び 吉良常は腕組みをして坐ったまま返事をしなかった。さ なよ」 つきから、一一人の痴話じみた言葉を聴いているうちに、彼 「厭だと言っているじゃないの、ーー呼びたきゃあ、自分は重苦しく不快な気もちをおさえることができなくなって で勝手に呼んでくるがいいや」 ( ー・・・やつばり昔のとおりの寸法の合わねえ「呑み込みの 「畜生ー」 半助」に変りはねえや ) 「へんーだ」 「何がへんーだ」 「おれはもうくたびれたそ」 「わたしゃあ、せんだっても、お前さんがあの子の手をに 「そうおっしやらねえで」 ぎったり、口説いたりしたことまでちゃんと知っているん半助はどきっとしたように坐りなおした。「今夜はわた ・こト ( こう見えたってね」 しにまかせておくんなさいよ」 そう言ってから、お仙の方を向いて、 ( この女もおおかた五十年の大半を場末から場末へとうら だから」 道づたいに人生の泥溝板を踏んで流れわたってきたものと「おい 見える ) 「何よ ? 」 しわづら こう座が白けちゃあ、申訳がねえ おしろいの、ところ剥げになった皺面に、・ほうっと酒の「呼んで来いよ、 酔いをにじませて、 ぞうさく 「ーー・お前さんなぞに見くびられる女とは、造作が違わ「呼んだってくるもんかい、今夜は南風さんが来てるんだ くど どふいた ばすえ よ」

7. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

265 人生劇場 「うん」 「それで、ーー高見は大丈夫かい ? 」 「あいつの女房になったんだ」 「何がさーーー ? 」 ゆくえ 「丘部の、 あの女が丘部の」 「だって、警視庁じや大さわぎをして行方をさがしている というじゃないか」 夏村は敲きつけるような声で「畜生 ! 」と言ってから、 きびす あ 上着のポケットを・ほんぽん敲いた。それから、くるりと踵「はじめはおれもそう思ったんだが、裏に裏あり、 いつはそんなへマな芸当はしないよ」 をかえすと、人混みの中へ大股にあるきだした。 「うまく逃げたのか ? 」 「おい、上の・ハアラーへ行こう、ーー・・ー話があるよ」 「逃げるも逃げないも、みんな高見の打った芝居じゃない 「君は高見に会ったのかい ? 」 か」 「うん」 「芝居 ? 」 「大丈夫か」 「そうだよ、 あいつは日本の政府に出来るだけ高く自 「大丈夫さ」 分を売りつけようとしているんだ、せりあがるだけせりあ 「タ刊を見たか ? 」 げるには、 ( ルビンまでを送る必要もあるし、 , - ー人間 「見ないよーー見なくともわかるさ」 の一人や二人は殺さなきゃなるまいよ」 「ほんとに大丈夫かい ? 」 「何だかちっともわからんね」 「くどいね、 高見というやつは」 夏村は、あるきながら瓢吉の耳元へ口をよせた。「えら「今にわかるよ」 「それで、君はハル。ヒンへ行くのか あいつは今にどえらいやつになるそー」 ざっとう 二人は二階の。ハアラーで構内の雑沓を見おろしながら長「行くさーー行かなきゃなるめえ。高見が・フローカーな 子にならんで腰をおろすと、すぐにビールを飲みはじめら、おれだって、君・ : : こ こ 0 ( 夏村は眼をつりあげて冷やかな微笑をうかべた ) 「おれもひとかどの悪党を気どっていたが」 くちびる あわ おれはどうなるんだい ? 」 唇についたビールの泡を手で払いながら、夏村はだし「すると、 「君は君さ、高見は今夜六時に君に来てくれって言ってい ぬけに感嘆したような声をだした。 くそどきよう たぜ」 「あいつの糞度胸には敵わねえや」 たた かな おおまた

8. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

「じゃあ」 ( 人生の裏みちを濃くうすくもつれあってながれてゆく二 ハッビの男が言った。「明日きちんと払っていただくとつの影である。 , ーー暗い裏みちはどこまで行っても尽きる して、今夜は一応、今夜だけのはなしをつけなくっちやア」ものではない ) 「今夜だけのはなし ? 」 明減章 「そうですよ、 ーーー・あなた方にね、無銭飲食されて、その たんか 上に啖呵まで切っていただく義理はなさそうですからね」 夜につづく朝である。朝につづく夜である、 かくて 「じゃあどうするんだ ? 」 赤坂、蘭亭の離室で、瓢吉はすでに三日をすごしているの 「何をおっしゃいますんで、 何も彼もわかっていらつだ。 しやるくせに」 ( まるで、泥沼の中をさまよっているような今の気もちで たた 寄ってたかって敲き出されないだけがまだしも幸いだっはないか。ずるずるべったりに彼は高見剛平の計画の中へ かっこう どな た。吉良常も格好をつけるためにガンガン呶鳴ってみたもはまりこんでしまったのだ ) のの、しかし、心の中は、まるで泥棒でもしたあとのよう彼の記憶は、東京駅で、呑み込みの半助に吉良常を託し ちち な、みじめなうそ寒さで、全身が縮みあがる思いである。 た夜から・ほうっととぎれている。その夜彼が夏村大蔵をた ( 黒馬先生の計略は、みごとに裏をかかれたらしいー ) ずねたのはお袖の消息をきくためであった。そのとき、彼 巡査がやってくると、吉良常は思わずほっとした。彼はは下宿屋の玄関から豚皮のカ・ハンを抱えて出かけようとす 逃げるように巡査のあとについて外に出た。 る夏村に・ハッタリ会ったが、夏村は彼を見ると、いかにも 「君」 待っていたという感じを厚い頬一ばいに波をうたせなが あえ と黒馬先生がよろめきながら喘ぎ喘ぎ言った。「すまなら、「ちょうどよかった」 うめ 場かったな、まったく何とも」 と呻くような声をだした。「もしかと思って、君に手紙 「はらはらしました・せ」 を書きのこしてきたところだ・せ、 さア、行こう、高見 生 吉良常はぶつきらぼうな声で答えてからへらへらと笑っが待っているんだ」 人 あわただ こ 0 お袖のことをきく余裕さえあたえぬほどの慌しさだっ こうふんはす 「わたくしもね、こんな気もちは生れて始めてなんで : : : 」た。瓢吉の眼にその晩のように興奮し弾みきっている夏村 灯火の暗い夜更の街である。 の顔が映じたことはなかった。瓢吉もまたその感じにずる よふけ はなれ ほお

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170 際だけはせめて男らしくやりてえもんだー」 「ーーー起きぬけに発ったらどうだ、せめて一晩、ここで泊 そう言って口を噤んだ瓢太郎の顔には昔ながらの生気がって、昔の夢でも見ることにしなせえ。そのあいだに、瓢 みちみちてきた。一瞬間、吉良常は何か異様な感じが瓢太吉へわたす品物の用意をしとくから」 ひらめ 郎の眼に閃くのを見た。 「大切な品物でござんすか ? 」 「おれもな」 と瓢太郎が言った。「お前にや、もう会われめえと思っ ( 瓢太郎はせせら笑うような表情をうか・ヘた ) とったよ」 「申訳ございません」 「常公 ? 」 「さつぎ、おみねから聞いたが」 と瓢太郎が言った。「お前にも見覚えがあるずら」 ちゃだんすひきだし 瓢太郎が淋しそうに笑った。 彼は右側の壁の方へにじりよって、古い茶簟笥の抽出を ふろしきづつみ 「東京へ行くってな ? 」 あけた。そして、小さな風呂敷包をとりだした。 ひざ 「へえ、 , ーー今夜、岡崎から発つつもりでござんすが」 そいつを大事そうに膝の上でひろげると、中から出てき ちょう 「そいでな、頼みてえことがある」 たのは一梃の「ビストル」である。 「何でござんすか ? 」 「これだ」 「瓢吉のやつが今、東京へ行っとるでな、会ってもらいて瓢太郎はなっかしそうに「ビストル」を眺めながら、 えんだ」 こいつを渡してもらいてえんだ」 「坊っちゃんに、 ようがすとも、学校へ行っていらっ 「これを」 しやるんで」 士ロ良常もさすがにどきっとしたらしい。「このビストル 「学校はもうやめとる、 あいつに会って渡してもらいを坊っちゃんに ? 」 てえものがある」 「そうだよ、 しかし、しんべえすることはねえ、弾丸 「ようがすとも」 はもう一発も残っちゃいねえんだから・・ー、ー何も妙な顔をし 「じゃあ、 どうだ、今夜は此処で泊って、あすの朝早ねえで、黙って持っていってくれりやいいんだ」 く発ったら ? 」 「へえ」 「でも、急いで居りますから」 昔ながらの瓢太郎の気質を知っている吉良常にはそら答 さび ここ なが

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「きっと出すか ? 」 活気づいてきた。瓢吉も、その雰囲気の中で何かしらしつ 「ほんとに貴様ー」 とりとしたやすらかさをお・ほえたのである。彼は時の間 そそ 横井はしかめつ面をして息をふうふう吐きながら、 にか郷村での出来事を、あたらしい感興に唆られる思いで 「ほんとに怒っていやがる ? 」 一席弁じ終っていた。 「じゃあ、出せよ」 「そうかね」 あいづち 吹岡も思わず笑いだした。彼は最初から、「死刑説」の吹岡はうれしそうに一々合槌をうちながら、 ふじよう こうでし 主張者であるだけに、今になって不浄の金に拘泥すること「そんなことがあったのかい、やつばり、君のおやじはえ は、考えてみれば自分ながらちょっと可笑しい気がしてきらかったんだな」 たのである。 「おれは」 おおぎよう 「おどろいたやつだね」 横井は、酒の酔いに煽られて、大仰な素振りを示した。 横井は紙幣束をもう一度机のはしにおいて、 彼は何べんとなく感嘆の叫びをあげて、 きらつわ 「どうも、吹岡の公明正大もあてにならんぞ、ひとりでつ 「ーーまるで今の世のはなしじゃないね、そ、その吉良常 かうのは怪しからんというのは、ひとりで死刑になるのは という男に会ってみたいじゃないか」 怪しからんというのと同じだ・せ、だからおれは」 「賛成 ! 」 いたけだか さっ斗〈 と横井は急に威丈高になって、しかし、ほがらかな笑い 吹岡が威勢のいい声をだした。「どうだい、早速、 声を立てながら、 今夜 ? 」 「ー。・・、・おれは、はじめから天のあたうるところだと言って「いいね」 いるじゃないか、兎に角、今夜は底抜けに飲もう、こんな「おい、こうしようー」 金こそ、一息に・ハタ・ハタ散ず・ヘき性質のものだ」 彼は横井の肩をたたいて、「ーーー この百円をもって、わ 劇 「いや、おれも」 れ等の吉良常の健康を祝そうじゃないか、そうすれば、 生 吹岡はニタリと笑ってみせた。 人 「まったくさもしいね、 おれも喜んで死刑になるよ」 そう言って瓢吉の方を向いた。 「それ見ろー」 「のう、ーーー青成ー」 三人は幾度となく大声に笑いくずれたあとで、たんだん「そうだ、 そいつはありがたい」 かく あお ふんい・