「村といっても知作古川の沿岸にあって前には吉田 という港をひかえているだけに運輸灌既の使はおの 」 ( 「人生劇場」 ) ずから交通の中心となって、 右愛知県・吉良町を流れる矢作古川 左愛知県・吉良吉田港の朝 構化したものである。 さて、ばくはこの四月の初めに、愛知県幡豆郡吉良 おもむ 町に赴し 尾崎士郎の郷里であり、出世作「人生劇 場」 " 青春篇。の背景にもなっているためである。つま り、こんど新しく「尾崎士郎集」が刊行されるに際し て、そのふるさと紀行を執筆するよう依頼をれたから だ。ところで、ばくは尾崎士郎と懇意だったので、か おとす ねてから一度その郷里を訪れてみたいものだと念願し ていた。しかも、それが吉良上野の旧領だというので、 この意味でも興味をそそられていた。これが今度図ら すも達せられたわけだ。尾崎士郎はもともと反骨の士 みつなり である。それは関ヶ原合戦に破れた石田三成に、少な いちず からぬ同情を寄せているのでもわかる。従って、一途 に悪人呼ばわりされている、かっての郷土の旧領主吉 良上野にたいしても、世人とは反対に弁護側に廻って いる。これは尾崎士郎の生まれた横須賀村と隣り町の 吉田町とが昭和三十年に合併した時、士郎はその新町 名について相談を受けたが、その時、敢然と吉良町を 主張し、結局それが通っているのを見ても明らかであ る。すなわち、ばくはそ、つい、つ吉良町を見たかったの である 吉良上野は領主としては、吉良町の西部を流れてい やはぎふるかわ る矢作古川の上流に黄堤なるものを築堤して、下流 ショ十イ・ス はか
の耕地を水害から救っているし、また海岸を干拓して はどこ 塩田をつくり製塩を興したりもしている。善政を施し ていたわけだ。吉良上野の愛馬の赤馬が、今なお郷土 玩具になって残っているのを見ても、領内に徳望があ ・つわカ って、いかに領民に、い服されていたかが窺える。それ 背プ ゆえ、この界隈では昔から「忠臣蔵」は禁忌になって いる。そもそも「忠臣蔵」事件は、穂の塩は今日に おいても良質で有名だが、元禄の昔からいい塩が出来、 吉良上野は製塩に手を着けたものの、どうしても赤穂 の塩に嗜わぬ。そこで、州赤穂の城主匠に、 辞を底うしてその製法に関して教えを乞うた。ところ が、膠もなく断られてしまったことが発端になってい る。考えてみれば、赤穂藩の大きな財源になっている塩 やすやす の製法を、そう易々と教える筈がない。その結果、吉 おんみつ 良上野はその秘密を手にいれようとして、数人の隠密 を赤穂に放ったが、中には捕えられて牢死する者まで はら 出るに到った。つまりは、この腹癒せに、幕府の儀典 ・ : フけハしっし」・フ 長といってもいい公家筆頭という役柄を吉良上野は利 はヤか 用して、なにげだい顔で浅野内匠頭に辱しめを与えた あげ ろうか のである。揚句の果てが、浅野内匠頭の松の廊下での : んじようざた 刃傷沙伏になったわけだ。 いまいったように、尾崎士郎の郷里では、昔から「悪 臣蔵」を上演すると、必ず出示りがあるといって法度に かんたく はっと
尾崎士郎文学紀行 愛知県幡豆郡・吉良町 ( 旧横須賀村のあたり ) 「三州吉良港」への旅 赤良 き崎 ロ乗 殿な 様ノ こ馬 つ領 い故し朴翳 でド をお 身人 な出 れ廻 た巡 方、 の公崎か視赤 い名 ら手 る仮 吉名 こイ乍 浅見 ″も吉上 ; 本 人人青赤良野忠吉仕 物生成馬上介臣良様 て内あ を る 。時 い っ 冂ぉ節 成で は劇瓢に野義 t 蔵のが生文え瓢あ 仕 な で は い い れ様 の ぎか で 即 第 がが 討 た て そ れ は い 士お殿 の り も グ ) よ ロ 自 . 生 ち を 虚ー 17 ナ日 の の 月リ は 尾 の で代ま 、表 い ら だ た が央 で る し、 お で 役 な つ て 、良手 と い つ の は い か い れな吉 : る で歯ば 下げ と駄た ろ か た 士 うク ) た作 し、 わ る 成 赤 馬
ちょうばまと 一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人 しめんそか 気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたし かであろう。 まったく「あいつは「吉良」だー」ということになると 旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時 代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも ( 忠 臣蔵なんて高々芝居じゃねえか ) 、 という気持がわい てくる。 ( うそかほんとかわかるものか、あんなものを一 一真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難をつけ られているうちのおとのさまの方がお気の毒だ ) 三州横須賀は肩をそびやかしたのである。相手にしない 序説 ならしなくても、、。 をらみなと ししそのかわり日本中の芝居小屋で「忠 「三州吉良港」 をらこうずけ 臣蔵」がどんなに繁昌しようとも、この村だけへは一足だ 一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須 0 て踏み入れたら承知しねえそー 賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましいがあ 0 平原の中にぼつねんと一つ、置きわすれられた村であ て、それが今は、はなやかな伝説にな 0 た。そのときの若る。 ( 村とい 0 ても矢古川の沿岸にあって前には吉田と かん ~ い い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだ いう港をひかえているだけに運輸灌概の便はおのずから交 したというので、港の方だけが有名になっているが、しか通の中心となって、何時のまにか、上町、下町、法六町、 ふきぬき 場し吉良という地名が現在何処にも残っているわけではな吹貫町といった風に村全体が一つの市街に構成されていた が ) 生 その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」 しかし、さすがに明治になってからは片意地な理屈をい 人 が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実であうものもなくなってしまった。それで村一ばんの劇場であ んみようざ る。これは一面、吉良上野が彼の所領においては仁徳の高る本明座で、忠臣蔵が臍の緒切って興行されたことがあ い政治家であ 0 たということの反証にもなるが同時に他のる。すると思いがけないことがおこ 0 た。判官切腹の場が 人生劇場 ( 青春編 )
あったが、大星由良之助が勢いこんで花道をかけてくる途ならぬかというくらいのことは見物にだってわからぬ筈は 中で、ひどい津痙攣をおこしてしまったのである。 あるまし すると、もう一つ積極的な意見があらわれ 「カ弥ーー由良之助は ? 」 てきた。「それもそうだが、そんならいっそのこと内匠頭 「いまだ参上ーーー」 をわるものにしてしまったらどうだ ? 」 と言ってから、ちょッと間を置いて、カ弥に扮した色の しめなわ 生白い俳優が「つかまつりませぬ」というところだそうでその次の興行では、芝居小屋の前に〆繩を張った御堂が あるが、そこで、かんじんの由良之助が動けなくなってしつくられた。うやうやしく吉良上野の霊がまつられたので たくみのかみ まったのである。舞台では内匠頭が腹に刀を突きさしたまある。それ故、木戸銭をはらった人たちはその前に立っ かしわで まのすがたで痺れをきらしてうんうん唸りつづけているのて、ばんぼんと柏手を鳴らした。 * もろなお ひう に由良之助が花道でヘたばってしまったのでは仕方がある舞台の上では俳優がすべて「師直」を誹謗する言葉を禁 にんじよう ・せられたのは当然である。そこで刃傷の場面がなくて幕が 芝居はこれでめちやめちゃになった。これはいうまでもあくとすぐ内匠頭が「無念ー」とさけんで切腹するという きらこうずけ たた なく吉良上野の霊が祟ったのだということに衆議一決し妙な芝居が出来上った。 た。をこで、改めて丁寧な慰霊祭が行われ、興行がやりな この「吉良港」で〔ある朝ーー村の邏侠である太田仁 * けんか おしになったが、このことが近村にったわると大へんな人吉が伊勢の喧嘩で死骸になってかえってきた。霧のふかい うわさわ 気をあおって初日は小屋の割れるようなさわぎになった。朝であったが、村はその噂で湧きかえるようだ。下町通り ところがまたしてもそのどさくさのあいだに楽屋うらからにある宝泉寺前の広場にあつまる人の数はだんだんふえて 火が起った。小屋は大混雑のうちにみるみるうちに焼け落くる。まるで、吉良邸からひきあげる赤穂浪士を見るよう だんなしゅう たつみや ちてしまった。 な思いでーーその中に、村の旦那衆のひとりである辰巳屋 ひょうたろうあお 忠臣蔵の興行がながいあいだうちたえていたのはそれがの瓢太郎の蒼ざめた顔が今にも泣きそうになってぶるぶる ためであるという。しかししばらくたっと一人の男がうま顫えているのが際立って見えた。 いことを考えついた。つまり、吉良上野の出る場面だけを まったく瓢太郎は悲しかった。これは、人情ぶかい彼の すっかりカットしてしまったらいいじゃよ オいかというので気質のためだとも言えるが、しかし、仁吉とぎつかり結び ある。吉良を出さなくた 0 て何故匠皿が切腹しなければっくことによ 0 て、とにかく村境までは肩を張 0 てあるく しび けいれん れいさい ふん
なっていたものの、それでも、時たま旅役者の群れが たのを覚えているか、これが時代に伴って進化したも やってきて上演することがあった。忠臣蔵は、旅役者のらしい いまは三輛繋ぎの小型の電車になっている 2 にとって一番の飯の種だったからだ。といっても、吉 が、あい変わらす車体を真っ赤に塗りしていて、そ 良上野の墓参りをし、松の廊下の刃傷の場を綷いてのれがこれも昔の儘らしい単線をゴトゴト走「ている。 上のことである。ところが、やはりそのたびに、不思 ところで、吉良上野の赤馬といし 、名鉄電車の赤ペ ばだい ンキといし 議に役者が怪我したり、火事があったりして、不吉な 、あとで訪ねた吉良上野の菩提寺華蔵寺の ことが起こり勝ちだったという。ところで、吉良町を朱塗りの鐘楼と、 吉良町界隈はよくよく赤い色と いんねん 訪ね、尾崎士郎の遺跡をつぎつぎと見て廻っているう因縁があるらしい。吉良上野が浅野内匠頭に斬りつけ ちに、今史のように士郎の半生が浮かんで来ると共に、 られた時は、ちょうど還暦の歳だったので、これにあ 士郎が石田三成や吉良上野に同情を寄せていた気持ちやか「ているのだろうか。とにかくちょっと異様な印 がなんとなくわかるような気になって来た。 象を受ける 閑話休題。さきへ進もう。 ばくが吉良町に着いたのは夕刻だったので、尾崎士 郎の遺跡めぐりは明日することにして、さっそく旅館 トの中 に入った。東西に延びているメイン・ストリー 三十年振りの帰郷 A. てつ、刀 心部の裏側にあり、表のそう仰々しくない 尾崎士郎の郷里の吉良町は、国鉄東海道線の岡崎とすると仕舞屋にも見誤られそうな喜廼栄という旅館で 名古屋との中間にある。が、東海道線は三河平野の真ある。尾崎士郎の年譜を見ると、昭和二十二年四十九 ん中を通っているが、吉良町は三河湾寄りの海岸沿い 歳の頃に″四月、三十年振りに郷里横須賀村 ( 現在の にあるので、名古屋と岡崎の手前の蒲郡までをいで 吉良町 ) をたすねる″とある。喜廼栄旅館はこの時尾 いる、私鉄の名古屋鉄道の三河線を利用するのが便利 崎士郎の泊った旅館で、士郎はこの訪問がロ火になっ オ小学生の時分に、赤塗りの小さな車輛を二輛引 て屡々郷里に帰省しているか、その都度この旅館に長 いて、ポ〉ボと白い煙を吐きながら、玩のような軽逗留していたようだ。ばくの通された部屋の脇床には、 便鉄道が走りだしたと、尾崎士郎がなにかに書いてい 尾崎士郎がこの旅館の女主人のために筆を執ったもの せき
右「人生劇場」執筆当 時の士郎 ( 昭和 8 年 ) 下座談会で。右より 士郎、高田保、武田麟 太郎 ( 昭和 9 年頃 ) いつの間にか現実と位置をすり変えてしまっ たのである」 詩と真実の問題は、「人生劇場」の随所に興味ぶかい 波紋を描き出しているのだ。町吉良を歩きながら、 私がこの町にほかならぬ尾崎士郎その人の文学の影を みるようにったのも、そのためであろう。吉良町は 尾崎士郎の文学の町なのである。 尾崎士郎が生まれた吉良町は、矢作古川沿いにひら けた人口二万ほどの町である。吉良町となったのは戦 後のことで、彼が生まれた当時は横須賀村といった。 しかしそのあたり一帯は、慶長年間以後吉良家の領地 よしひさ であり、「忠臣蔵」の悪役として知られる義央も、この 土地では名君としたわれてきた。実際に黄金堤や富好 新田などの開発をみると、赤穂一辺倒の考えに修正を みやば巻え 和ほどこさなければならなくなってくる。宮迫の共同墓 ⅱ・日 . 地には、吉良家の付け人清水一学の墓もあり、吉良家 けぞうじ 聞頃 の菩提所華蔵寺をはしめ、歴史にちなむ旧蹟が多く、 、」うじん 都筆 幕末近くともなれば、荒神山の決闘で、男の中の男と の執 いわれた吉良の仁吉などもこの土地の出身だ。 比場 三河というところは、もともと小藩が多く、江戸時 やはぎ 469
尾奇士良文学糸己行 愛知県吉良港 さらみなと 「三州吉良港」 一口にそう言われている が、吉良上野の本拠は三州 横須賀村である。後年、伊 勢の荒神山で、勇ましい喧 嘩があって、それが今は、 、イ、を - はなやかな伝説になった。 ( 「人生劇場」 ) ーノマ
252 ゃねえか。辰巳屋の大旦那を知ってるかって 吉良常の威勢がついてくるにつれて、黒馬先生はだんだ しな 黒馬先生はいかにも困ったという顔つきをしたが、 ん萎びてきた。 「いや」 黒馬先生にとってもまったく意外だったらしい。 と低い声で言った。「知っているよ」 「ああ」 「知ってるかい」 と、吉良常が唸った。「大旦那に会いてえなア」 ひざぼうす 吉良常は膝坊主をポンとたたいた。「うれしいね、辰巳 「大旦那」 黒馬先生は上衣をぬぎ、やがて、ズボンをぬごうとして屋の大旦那を知ってるかね、まったくうれしくなっちまう ね、 やつばり学問のあるひとには敵わねえや、三州吉 いるところだった。「ーー大旦那というのは何かね ? 」 「何かねって、おめえ、ーー辰巳屋の大旦那を知らねえの良港は忘れても、吉良の仁吉と青成瓢太郎を忘れちゃあい けねえよ」 か ? 」 「青成ーーー ? 」 「辰巳屋 ? 」 黒馬先生が眉をひそめた。「青成というのは、君」 「三州、吉良港の辰巳屋だよー」 吉良常が紋切型の声をだした。「お前さんは、わかるま「何かねー」 いよ、三州吉良港なんてえのはちっ・ほけなところだから「いや、おれが岡崎中学で教えたやつに青成というのがあ ったぜ」 吉良といえば、君、何じゃないか、 「知っているよ、 「えれえー」 ちゃぶだい げんこっ 清水の次郎長の産れたところだろう ? 」 吉良常は餉台のはしを、にぎりしめた拳骨でポンーと 「出鱈目を言いなさんな、次郎長さんは清水港じゃねえ敲いた。「ちがいねえ、 お前さんが教えたのは瓢吉さ か」 んだろう ? 」 「そう言えばそうだな」 「そうだー」 「そう言わなくてもそうだよ」 黒馬先生の眼が急に輝きだしたのである。 「やつばりね」 「それで、何かね、ーーー・その吉良港というのは ? 」 おれは青成瓢吉のいたクラ 「馬鹿野郎ー」 「そう言えば思い出すぜ、 吉良常がとうとう呶鳴りだした。「だから言ってるんじスの主任教師だったからね」 でたらめ うな だんな たた かな
りかかっているのだ。そこへ、さっきのおんながお茶をは そう言いかけてからーー・・眇眼のおんなは瓢吉の顔を げいしやしゅう Ⅱこんできて、「どなた、 こちらの芸妓衆は ? 」と言っじろじろと見あげた。「ほんとに、どなた、芸妓衆は ? 」 こ 0 「ーー・芸妓ならだれでも招べるかい ? 」 ( 瓢吉が顔をあげた ) 「ええ、そりやもう、どなたでも」 「へえーーこ 「じゃあ」 瓢吉は思わず眼を瞠った。「君おれを知ってるのかい ? 」 と、瓢吉は思わず生をのみこんだ。それから早口に、 「そりゃあ、兄さん、一ペん会えばね」 「あかし家の光竜だー」 「どこで会ったかね ? 」 ( 言い終るとすぐにうつむいてしまった ) 「ーーずいぶん白ばっくれるわね」 「ーー光竜さんー」 すがめ 眇眼のおんなはすっかり呑みこんだ気もちで横眼づかい 眇眼のおんなは何か考えこむような真似をしたが、 に瓢吉をにらんだ。 「ちょっとお待ちなすって」 といって出ていった。 しかし、瓢吉はいくら考えてもわからなかった。そこ とうとうとんきよう で、到頭頓狂な質問をはじめたのである。 しかし、一一三分経ったと思うとすぐかえってきた。「ね 「君は岡崎にいたことはないかい ? 」 え、兄さん、お気の毒ですけれどもね、光竜さんは今お座 か・つす・もり 「岡崎ーーー」 敷なんですって、 それにね、ここは同じ新橋でも烏森 「そうだろう ? 」 なのよ、ねえ、だから光竜さんでなくってもいいでしよう、 「あら、よく知っていらっしやるのね」 わたしにおまかせなさいな、きっと いいかたをお世話して 「岡崎のどこだ ? 」 あげるわ」 「ええ」と、おんなは生返事をしてから、「岡崎で育った 「ううんーーこ のはわたしじゃないのよ、 わたしのおじいさんなの ( 瓢吉はもやもやした感情のなかで、もうどうでもいいと よ」 いう気もちになっていた ) 「でも、吉良の仁吉と云う名前ぐらい知っとるだろう ? 」 彼はそのまま畳の上へぐったりと横になった。 おんなは懾てて袖でロをかくした。「そのかた、なに御ふと眼がさめたのは、よほど時間が経 0 たあとのような ふすま 商売 ? 」 気がした。 ( 軽く襖のあく音で眼がさめたのである ) みは なまへんじ なまっ ! まね