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検索対象: 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集
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1. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

179 人生劇場 まった ) きたからである。彼は断じて死を速めたのでもなければ、 吉良常はそのときになって、はじめてさめざめと泣きだ人生に敗北したのでもない。彼は戦いつくしたのだ。彼 したのである。 にとっては生きるための能力だけが人生の全部なのであ る 0 「旦那ー」 彼は、瓢太郎の屍骸をもう一度つよく抱きしめた。 おみねは水をふくませた「ガーゼ」を筆のかわりにして 「立派におやんなすったねー」 瓢太郎の唇をぬらしてやった。瓢太郎のロがほんのかすか まくらもと ( 枕元にはさっきのビストルがころがっている ) にうごいたように思われた。 瓢太郎が東京にいる瓢吉にわたしてくれといってた 「旦那さま」 のんだ、あのビストルなのだ。そのときは、「頼むー」と ( 彼女はやっとそう言っただけだった。亭主の顔と言えば ふっちょうづら 言った瓢太郎の言葉さえも何の意味であるかわからなかっふくれあがった仏頂面よりほかに見たことがないとは言 たのが、ーー今は一つの役目を果したビストル自身が何事え、しかし、二十余年間つれ添った瓢太郎ではないか、 かをささやいているように見えるではないか。 ーああ、せめてひとことでもわかれのことばを交すことが それにしても、たった一発だけ残っているビストルの弾できたら ) 丸を、瓢太郎がいかに長いあいだ大切に蔵っていたことで うらめしさとなさけなさをじっとこらえながら、おみね くもんかげ あろう、 読者は十年間、瓢太郎が毎晩辰巳屋の庭先かは、苦悶の翳さえ残さずに、 まるでぐったりつかれて ら、「こいつはおれの花火だぜー」と言ってぶつばなした眠っているような瓢太郎の顔を見つめた。旦那さま、あん ビストルの弾丸が、たった一発だけ残されていたことを記たは何ということをやりなすった。心の中でそう呟くと、 憶していられるであろうか。作者はそのとき、こう言っておみねの胸には、た 0 たひとり残されたことの侘しさがど もし、彼がそのとき、最後の一発を放っていた っとあふれてきた。彼女は瓢太郎の屍骸にすがりついたと ら、後章に書くがごとき彼の生涯を悲劇的な結末にみちび思うと、そのまま喚くように泣きだした。 くような事件は起らなかったであろう、と。 ( 「序章」参照 ) ( そとでは虫が織るようにないている ) せいそう ああ、しかし、ついに来た瓢太郎の死ま、、、 をし力に悽愴な 「ごしんそさんー」 色彩にみちていても悲劇ではなかった。何となれば、人生吉良常は畳の上にころが 0 ているビストルをとりあげ の最後の線までがんばりとおして彼は、完全に生きぬいてた。「これが旦那さまのお残しになった一ばん大切な品で くちびる しがい

2. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

170 際だけはせめて男らしくやりてえもんだー」 「ーーー起きぬけに発ったらどうだ、せめて一晩、ここで泊 そう言って口を噤んだ瓢太郎の顔には昔ながらの生気がって、昔の夢でも見ることにしなせえ。そのあいだに、瓢 みちみちてきた。一瞬間、吉良常は何か異様な感じが瓢太吉へわたす品物の用意をしとくから」 ひらめ 郎の眼に閃くのを見た。 「大切な品物でござんすか ? 」 「おれもな」 と瓢太郎が言った。「お前にや、もう会われめえと思っ ( 瓢太郎はせせら笑うような表情をうか・ヘた ) とったよ」 「申訳ございません」 「常公 ? 」 「さつぎ、おみねから聞いたが」 と瓢太郎が言った。「お前にも見覚えがあるずら」 ちゃだんすひきだし 瓢太郎が淋しそうに笑った。 彼は右側の壁の方へにじりよって、古い茶簟笥の抽出を ふろしきづつみ 「東京へ行くってな ? 」 あけた。そして、小さな風呂敷包をとりだした。 ひざ 「へえ、 , ーー今夜、岡崎から発つつもりでござんすが」 そいつを大事そうに膝の上でひろげると、中から出てき ちょう 「そいでな、頼みてえことがある」 たのは一梃の「ビストル」である。 「何でござんすか ? 」 「これだ」 「瓢吉のやつが今、東京へ行っとるでな、会ってもらいて瓢太郎はなっかしそうに「ビストル」を眺めながら、 えんだ」 こいつを渡してもらいてえんだ」 「坊っちゃんに、 ようがすとも、学校へ行っていらっ 「これを」 しやるんで」 士ロ良常もさすがにどきっとしたらしい。「このビストル 「学校はもうやめとる、 あいつに会って渡してもらいを坊っちゃんに ? 」 てえものがある」 「そうだよ、 しかし、しんべえすることはねえ、弾丸 「ようがすとも」 はもう一発も残っちゃいねえんだから・・ー、ー何も妙な顔をし 「じゃあ、 どうだ、今夜は此処で泊って、あすの朝早ねえで、黙って持っていってくれりやいいんだ」 く発ったら ? 」 「へえ」 「でも、急いで居りますから」 昔ながらの瓢太郎の気質を知っている吉良常にはそら答 さび ここ なが

3. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

「ちがう、夏村だーーー」 のびていた。そして本のわきにころがっていた・ハットをつ 今、出ていったやつだな ? 」 まみあげた。 8 「ふん、 「そうだ」 「瓢吉、お前、幾つになった ? 」 ( 瓢吉の眼はおやじの表情の中から徴細な神経のうごきを「 みのが 瓢吉はだまってうつむいてしまった。 ( 彼はもうすすり も見逃すまいとするかのように絶えず小きざみに顫えてい 泣いていたのだ ) すると、瓢太郎は急に意地のわるい微笑をうかべて、 「なかなかうまいもんじゃ」 「こいつを、ひとっすばすば喫ってみねえかよ」 と瓢太郎が言った。静かな調子だったが、しかし、瓢吉 ひざ どき の眼は、おやじの眉が心の底から燃えあがってくる怒気を彼は煙草を瓢吉の膝の上へたたきつけた。 おれのじゃねえ」 おさえてびりつとうごくのを見た。瓢吉は思わず首をすく「ちがう、 と、瓢吉がほそい声で言った。 めてそっと溜息を吐いた。 「何がちがう ? 」 「お前もひとつやらんか ? 」 瓢太郎は眼を・ハチパチやった。「おとッつあんが聴いと「夏村が置ぎわすれてー」 しかし、瓢太郎はその言葉を全部聴こうとはしなかっ ってやる」 それで、すっかり悄知かえ 0 た瓢吉の顔が今にも泣きそた。瓢吉は父の顔が不意に険しく曇るのを見た。 せがれ ( 身体がしびれるような気がして、窓のそとにひろがって うになった。 ( こんな底意のある皮肉を瓢太郎が伜にむか いる街の灯がくらくらっとうごいた ) って言うのは生れて始めてだった ) 「鹿ー」 彼はそれほど瓢吉の中に、彼のまるで知らない他人をか んじたのである。今の瓢太郎にとってはこういう感情の起次の瞬間、瓢吉は畳の上へおさえつけられていた。 わめ ってくることは忌まいましいよりも悲しかった。 ( 村の人頭のしんがじいんと鳴って、泣き声ともっかず、喚き声 かんだか たちのあいだで彼がまったく手に負えない男になるのもこ ともっかぬ瓢太郎の甲高い叫びが、胸の底を突きぬけた。 ういうときだ ) 「おとッつあんはなあ、貴様が、チョンガリをやったり煙 草を喫ったりするのを、わるいと言っとるんじゃねえぞ、 「やれんことはあるめえ」 と瓢太郎が言った。そのとき、彼の手は不意に机の上に手前がスリのようにこすっからい眼をして顫えていやがる ためいきっ ふる ふる

4. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

ということをきいておどろいた記憶があるが、なるほど女 図」と書いてある ) 瓢太郎は「ははア」と思わ感心したようなをあげならばそういうことも考えられるにしても、しかし、男同 それもまだ一人前の人間になりきらぬ月伜ども 士が、 てしまった。主任教論はにがにがしそうに口をつぐんでい ではないか、彼等がそんな途方もないことをやっていると た。 ( どうもこの先生が黒馬らしい ) そのつぎは「号外」で、横に大きく「ユース ( 作者注、すれば、この「ユース」なるものが何であろうとかんであ ろうと、中学校なぞというところは安んじて伜を託すべき 稚児という意味 ) 一覧表」と書いて、その下に学生らしい 場所ではない。 名前が二段にわけてならべてある。 瓢太郎はうつむいたまま、不審そうにしばらく考えこん瓢太郎は上段と下段と相呼応している名前 ( たぶんそれ がひと組なのであろう ) の中に瓢吉がいるかどうかさがし でいたが、急に顔をあげて、 てみたが、・ とこにも伜の名前はなかった。それで、ほっと 「このユースと申しますのは ? 」 胸を撫でおろした。 と言った。 ( ーーー彼はユース一覧表の執筆者が瓢吉であることを知ら 「いや、そのことで」 なかったのだ ) と、黒馬先生はそう言いかけて急にロごもってしまっ ろうばい しかし、異馬の主任教諭はすっかり狼狽してしまった。 た。 ( もし先生の顔がもう少し白かったら、たぶん・ほうつ だんなしゅう と火照 0 てきたのが見えたのであろう。ま 0 たく彼は説明それもそのである。三州吉良の旦那衆として半生を過し きゅう てきた青成瓢太郎に、美少年の何たるかを説明することは に窮したのだ ) どどいっ つまり、何と言いますかな、不良学生間に行われて赤ん坊に都々逸を教えるよりもむずかしい。 瓢太郎のきよとんとした顔をみると、主任教諭は、 いる一種の男女関係に似た交際を言うので」 「つまり、そのーーー」 「へえ ? と、彼はわれにもなくどぎまぎしながら、 ( 瓢太郎はだんだん妙な気もちになってきた ) 男同士が男女のような関係を結ぶということは一体どう「ーー一方を女に見立てて手紙のやりとりをするんです ころ いうことであろうか、 瓢太郎の子供の頃、村に妙な格な」 こう 好のものばかりつくる木彫家が住んでいたことがある、そ「ふうんー」 きようらく と瓢太郎がうなった。「中学生はそんなことをして居り の製作品が孤閨をかこっ女同士の享楽のために用いられる かっ

5. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

176 の影法師がひょろ長くうかびあがった。 あさりわたって、人生の享楽を最後の一滴まで吸いあげて しまった彼が、これから落ちついて生活しようというとぎ ちゃだんす 瓢太郎はこっそり起きあがった。そして、さっき茶簟笥にひょっこりあらわれた女にすぎないのだ。 ( 瓢吉が産ま ふろしぎ きむす の抽出しにしまいこんだばかりの、 風呂敷にくるんだれるまでの一年間は、おみねはこの気難かしい、神経質の ・ヒストルをとりだした。 亭主の許を逃れて実家へかえろうとしたことが一度や二度 あし 旧式の六連発銃である。 ( 読者は十余年前、さかんなりではなかった。そのたびごとに彼女は無鉄砲な瓢太郎に足 し日の瓢太郎が毎晩のように庭へ出て一発ずつぶつばなし にされたり、殴りつけられたり、頭髪をつかんでひきず よふけ ては夜更の村をさわがしたことを記憶していられるであろり回されたりしなければならなかったのだ。そして、瓢吉 う、そのとき、吉良常が法六町を代表して嘆願にやってきが生まれてからは、もはや彼女はかすかな反抗さえも胸の た、あの同じ・ヒストルなのだ ) 底にたたみこんで、ひたすら奴隷のように仕えて来たので たま まだ一発だけ弾丸が残っている。 ある ) きようづくえ 手入れのよく行きとどいた・ヒストルは青光りに光ってい 瓢太郎は壁際によせてある経机の上の手文庫の中から る。瓢太郎は銃口からひき金までたんねんにしらべてか宛名の書いてない一通の封書をとりだした。その上へ、筆 ふとん ら、たった一発残っている弾丸を大事そうに環の中へおさをとって「瓢吉殿」と書いた。それを布団の下へかくして てつびん めた。 から、湯の沸ぎっている鉄瓶をおろした。 きゅうす 「おみねー」 急須から茶をつぐとき瓢太郎の手首がわなわなと顫えて 彼はもう一度低い声で呼んでみた。返事はなくて、ぐっきた。 いびき すり眠っているらしい静かな鼾だけが聞える。 「おみねー」 ああ、可哀そうなおみね。自分といっしょになってから その声が聞えたらしい。鼾が急にゃんで長く吐く息が洩 わこ わすみ の二十余年間、まるで猫の眼に射すくめられた鼠のように、れてきた。すると、今まで一ペんも感じたことのない彼女 心を屈ませて、青春のよろこびさえもなく、おどおどしなへの愛情が瓢太郎の胸にどよめきかえした。ああ、おみね おれはいまどんなにお前をいとしいと思っている がら、一生をすりへらしてしまったおみね。ーー瓢太郎によ、 とっては、おみねは恋の相手でもなければ、そうかといっか知れないぞ、可哀そうなおみね、ああこの腕で、せめて て、仕事の協力者でもない。唯、若き日に、女から女へと一度でもお前をしつかりと抱きしめてやることが出来た ひきだ たんがん かん あてな いびき ふる

6. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

瓢太郎は鼻をすすりあげた。 花道 「算術や英語だけうまくなれと言うじゃねえ、どんな悪た ながいことはあるまいと言われつづけてきた瓢太郎では れをやってもいいぞ、早く学校を出て立派な男になれ、お とッつあんはそれまで生きとってやる。きっと生きとってないか。その瓢太郎がいつのまにか村の高齢者のひとりに 数えられるようになっていた。 やる」 ( しつかりしろ、おとッつあんはお前が卒業するまではき 彼は同じ言葉をひとり言のようにくりかえしながら、 ( しかし、それは瓢吉に言っているというよりもむしろ彼っと生きとってやるそー ) 川そいの下宿屋の二階で父の瓢太郎が伜の瓢吉に言 自身に言いきかせているようだったが ) ・ほうっとうるんで くる視線をそっと窓のそとにそらした。 ったことばだ。今やそのことばが瓢吉をはげますよりも以 ( おれに残っているのは瓢吉だけだ ) ーーそういう感じが上に彼自身を唆しかけることばに変っていた。 強く彼の心をかすめたのである。すると、悲しい味気なさ ( 最近の十年間、健康をほこっていた村の老人たちが病弱 で一瞬間、胸がうつろになったが、しかし、瓢太郎はすぐな彼を残してつぎつぎと死んでゆくのを見るごとに、彼は せがれ に静かな愛情をこめた眼でじっと伜を見つめながら、 いまひと息、いまひと息と、自分に叫びかけた ) 「おそうなっちゃった、おとッつあんは今夜岡崎でとまっ だが、辰巳屋の屋敷はそれから五年のあいだにまったく おもや て、あした一番でかえるでな、 , ーー今夜はおとッつあんの見るかげもなくなってしまった。いつのまにか母屋がとり 宿屋でとまれ ! 」 払われ、中庭がなくなり、そしてやっと残されたのは街道 「うん」 に面した古い店構えの本家だけだった。 「食いたいものがあったら言え」 しかし、屋敷がどんなに小さくなろうがなるまいが、旦 なしゅう 「すしが食いたい」 那衆は旦那衆だ。 「よし食わしたるそ」 されば 瓢太郎は肉の落ちたやせ腕をまくりあけた。 瓢太郎は煙草入れを腰にはさんで立ちあがった。 ( 鉄道こそ、小指ひとっきでぶッつぶれるぞと言われた辰巳屋 馬車が鈴を鳴らしながら、黒い水面にチカチカと光の波紋が、とにもかくにも「法六町」の一角でいまだに門口を張 とのばし っていられるのだ。 を描いて、殿橋の上をとおりすぎた ) きせる 銀の煙管を横ぐわえにして、ロからぶうっと「白梅」の はもん だん

7. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

わりすることを日課のようにしていたが、あるとぎ、うらなして、銀杏の幹にすがりつくことができるようになっ すみ いちょう 庭の隅にある高い銀杏の木の下までゆくと、何か思いだした。 たように立ちどまった。 「よしー」 せがれ 「瓢吉ー」彼は元気のいい声で伜を呼んだ。「この木への と、瓢太郎が叫んだ。「一銭やるぞ、遊んで来いー」 ・ほってみろー」 瓢太郎はにこにこしながら、瓢吉の手の届いたところに 「この木って、どれでえ ? 」 小刀でしるしをつけた。「毎日やるだそ、あしたはてつべ 「銀杏の木だ」 んまでの・ほれ」 「高くての・ほれんがえ」 「の・ほる」 「の・ほってみんでわかるか、 おとッつあんが見とって と、瓢吉が答えた。 やる、の・ほれー」 「の・ほったら何でも買ってやる」 神経質な瓢吉は父親の様子が何時もとちがっていること「鉄砲を買ってくれるかえ ? 」 を直感すると慌ててア駄をぬいだ。そして、裸足にな 0 て「買 0 てやるそ」 すぐの・ほりはじめたが、銀杳の木は下回りが、やっと彼の これが、瓢太郎の考えついた教育法だった。それ 両手をひろげなければ抱えられぬほどの太さである上に、故、毎日同じことがくりかえされた。小刀の目じるしはだ からだ 手がかりになる枝がないので、瓢吉の小さい身体がべったんだん上への・ほっていってもう瓢太郎の手の届かぬところ さる りと吸いついたと思うとすぐすべり落ちた。同じことを何までになった。そして一ト月経たぬうちに、瓢吉は猿のよ ペんくりかえしても同じだった。 うなあざやかさで頂上までのにつてしまった。 「あかんー」 「おとッつあんー」 瓢吉の澄んだ眼が哀れみを乞うように顫えながら今にも上から、勝ちほこった小さい声が聞えてきた。瓢吉はう 泣きそうな顔になった。 れしさで胸がわくわくしたが、しかし瓢太郎のよろこびは 「何があかん、 ほんなことでどうする、もっとしつかそれどころではなかった。 りやれー」 「手がはなせるそー」 瓢吉は半分ペそをかきながら、しかし、同じことを何ペ 上から瓢吉が叫んだ。 んとなくくりかえしているうちにやっと両足を地上からは「よし、はなしてみろ ! 」ーー・、・瓢太郎が下から手をふって っ

8. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

りとうつってきたのである ) 吉良常はちらっと瓢太郎の顔を見あげただけで俯むいて しまった。 ( 変らないどころか何も彼もあまりに変りすぎ 「そいじゃあ、裏の方から」 てしまっているではないか、 ) と、おみねがせきたてるような声で言った。 どこ 法六町に勢威「何処にいる ? 」 下女もいなければ、傭い人もいない、 すす と瓢太郎が言った。 を張った辰巳屋が、今は老夫婦二人ぐらしで、この煤けた 「へえ」 家の中にくすぶっているのだ。 「では、ーーー御めんをこうむりまして」 ( 吉良常は胸が一ばいになった ) 吉良常は土間をぬけて、裏の方へ回っていった。 「おかみさんはあるのか ? 」 ( 月のいい夜である。月がいいだけに涙にうつる思い出は 「ひとりでござんす」 こお つめたい。吉良常の胸は寒さに凍りつくようである ) 「そうか」 まくらもときせる 吉良常が縁側に両手をついて、 瓢太郎は枕元の煙管をとりあげた。「だいぶ苦労したよ 「旦那さま」 うだな、しかし、しんべえすることはねえぞ、お前なんざ と声をかけた。「お久しゅうござんす」 あ、これからどうにでもできる」 「おおー」 「へえ」 ふとん 瓢太郎は布団の上に起きなおった。「よう来てくれたな、 吉良常は眼のふちが。ほうっとふくらんでくるような気が はいれー」 した。しかし、彼はやっと自分が泣いているのだというこ あわ 彼の頭には十年前、「杉源」が一突きで殺された日の、 とに気がつくと慌てて咳き入る真似をしながら、 あの霧のふかい夜あけがたの一情景があざやかにうかんで 「ーーー申訳ありません、せめてひと旗あげてからお目にか きたのである。何べんとなくうらめしそうな声を辰巳屋のかりたいと思って」 しよう娶ん 劇 門の前に残して悄然と巡査に曳かれていった吉良常のすが「なあに、お前」 あわ とあふれてくる記憶瓢太郎の痩せおとろえた顔が急に研ぎすました剃刀のよ 人たの哀れさよ、ーー瓢太郎はど 0 ー にむせかえるような思いで、彼の眼の前へあらわれた、みうにとがってきた。「人間はやれるだけやることが大切だ。 すぼらしくやつれはてた男の顔を見た。 やれるだけのことをやったら勝ったって負けたって文 おうじよう 句はあるめえ、唯いよいよいけねえときまったときの往生 「旦那、ーー・お変りもなくて」 やと ただ まね かみそり

9. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

ぶっちょうづら けむりの輪を吐きながら、仏頂面を店さきにさらしている「新聞記者 ? 」 彼のすがたはーーああ、枯れてもすたれても昔ながらの瓢 瓢太郎は不審そうに眼を・ハチ・ハチやった。 ( 彼は「三 太郎なのである。 州新聞記者」という肩書のついた名刺をもって村の小料理 ひげ 彼はたしかに生きてきた。こんかぎり生きてきた。だ屋をゆすってあるいているちよび髭をはやした男のすがた 、カ しかしそのこんさえもやがて尽きるべきときが来た。 を不意におもいだしたからである ) それ故、彼の望みどおり中学を卒業してかえってきた伜が だが、そうは言っても瓢太郎にはもはや昔の無鉄砲をほ こわだか 東京へ出てもう一つ私立の大学へはいりたいという意嚮をこる勇気はなかった。親と子は声高に長いあいだとんちん もらしたときには、さすがに「困った ! 」という表情をか かんな議論をしていたが、しやべっているうちに瓢太郎は くすことができなかった。 何時の間にか伜の意見に同意してしまっている自分にハッ 「一体、お前はーー」 とおどろいた。 ( まったく現実の問題はもっと急迫してし どこ と、瓢太郎は、瓢吉のたくましい肩をたのもしそうな眼た。今となっては学校なんか何処でもいい、辰巳屋の庭に で財めながら、痩せた手で煙管をカ一ばいにぎりしめてい はもう売るべき一本の木さえも残ってはいないのだ ) た。「何になるつもりかや ? 」 「そいだがなあ」 ためいき 「政治家になる」 と、瓢太郎は溜息をついた。そして悲しそうに口をもぐ と瓢吉がすばやく太い声で答えた。 つかせてから、 「政治家ーー」 「もう、今のおれには・ーーー」 彼はしばらく伜の顔を見つめていたが、やがて、げつそ ( しかし、それ以上言う必要はなかった ) くちびる りしたように唇をゆがめた。 「おとッつあんー」 場「ーーじゃあ、議員じゃな」 と、瓢吉の声がだしぬけに父の言葉をさえぎったからで 劇「そんなもんにゃならん」 ある。 生 「議員でない政治家があるかや、 そいつはあかんな、 「おらあ、金は一文もいらんぜ」 人 議員は金がなくちゃなれんそ」 力のこもったふるえ声だったが、瓢吉の眼はいきいきと 「そんなもんにはならん、学校を出て先ず新聞記者にな輝きだした。 る」

10. 現代日本の文学 26 尾崎士郎 坂口安吾集

「えれえ、ひとりでやったなら、えれえ。あいつは 「やっとったじゃないか、それお前の部屋で」 の太そうなわるいやつじゃっこが、 「ーー夏村か ? 」 彼はだんだん呂律がふたしかになってきて、 ( それにし 瓢吉は思わず苦笑いをしながら頭をかいたが、しかし、 ても彼がこんなに愉快そうにしやべるのは一体何年ぶりで ほんとうに彼も何かうたいたいような気もちだった。 さかずき 「うん、夏村」と、瓢太郎が言った。「あのやくざ野郎は あろうか ) 立てつづけに瓢吉に盃をさした。 どうしたかね ? 」 「そいで貴様」 す と、どろんとした眼を据えて、 「去年放校になって、いま東京に行っとるが」 また教室新聞を出しおった「ーーー東京へ行って、すぐ泊まるあてがあるめえ ? 」 「なんぜ放校になった、 か ? 」 「ある」 ( 伜についての出来事を瓢太郎は細大もらさずお・ほえてい 「あるーーー ? 」 たのだ ) 瓢太郎はふうっと長い呼吸を吐いた。「あるなら言って 「そうじゃな、 みろー」 けんか 「喧嘩か ? 」 「夏村の下宿だ」 「ちがう、 ーー・買いをしたんだ」 いかん、いかん、そんなところへ行くな」 どな 「芸妓買いを ? 」 不意に瓢太郎が坐りなおしながら呶鳴った。「おれの眼 玉の黒いあいだは立派に学資を出してやるそ、しんべえす 瓢太郎は伜の顔をじろっと眺めた。「なるほど、チョンるな、貴様はなんでも勝手なことをしてみろ、ひとをたよ ガリが少しうますぎると思った、そうか、あいつは芸妓買りにするな、ひとをたよりにせにゃならんことはな、女に 場いをしおったか、お前も仲間ずら ? 」 ほれるとぎだけだ、なあ、おみねー」 劇「おれはやらん」 彼はあたりかまわず大声でわめきちらした。 生 「そいじゃ、ほかの仲間もみんな放校になったのか ? 」 「わかったか、瓢さんーわかったら「チョンガリ」をや 人 「夏村ひとりでやったから、ひとりだけだ」 「ひとりでやりおったか ? 」 ( 突拍子もないことを言いつづけながら、この奇妙なおや じは、彼一流のやりかたで深い愛情を一晩じゅうムャ出し 「うん」 なが ろれつ