彼は瓢吉の身辺に起った事件についてあらんかぎりのことさしさわりのあるひとはいねえよ、何だや、用事は ? 」 を想像してみたが、まるで見当がっかなかった。 ( 見当が「へえ」と吉良常が四つん這いになって前へすすんでき はいしやく つかないだけに、じっとしていられないのだ ) 「道具が拝借したいんでござんすが」 おみねがきよとんとした顔をして坐っている。 「道具たあ何だや ? 」 「学校の成績でも悪いで、 ほいで呼ばれるでござんす吉良常は右手をのばして、ビストルの引金をひく真似を かな ? 」 してみせた。 「そんなことじゃねえ、瓢吉の野郎何かやりゃあがったにすると、瓢太郎は急にそっ・ほを向いて、 ちがいねえ」 「ーーおみねーあしたの朝、まごっかねえように入用の まくらもと 「何をやったずらな、あの子が ? 」 ものをみんな枕元へそろえておくだぞ」 ぶじよく 「行ってみんでおかるか、ーー・・・今夜はじき寝るぞ、あした それから、極端な侮辱をこめた眼で、吉良常の顔の上 したく 間に合うように支度をしとけー」 へ、ふふんとせせら笑うような微笑をなげた。「ーー・・貸さ 「ー・ーほいでも、あんたひとりで大丈夫かなも ? 」 んこともねえがな、せめて人の一人や二人ぶった斬ったあ 「行ってくるー」 とでそういうはなしはしてもらいてえ、まさか戦争がはじ 瓢太郎は怒ったようにぶつきら・ほうな声で答えた。そしまってロスケ ( 露助 ) が押しよせてきたわけでもあるめえ て、何かむずむずする気もちで不安そうに眼をしばだたいし」 ているおみねの顔へ強い一瞥をなげた。 そう言いながらも、瓢太郎の眼に今夜の吉良常の様子が そこへ、吉良常がのっそり入ってきたのである。縁ばた いつもとちがっていることがわからぬわけではなかった。 に両手をついてびよこんとお辞儀をした吉良常を見ると、 ( まったく吉良常の眼には、涙さえうかんでいたのである ) 瓢太郎の不機嫌な感情はやっと掛け口を見つけたらしい。 「へえ、おっしやるとおりで」 ( まったく、吉良常にとっては時機がわるかったのである ) と、吉良常は低い声で言った。そして、丁寧にあたまを 「旦那、ちょっとお耳を」 さけてかえっていった。 その晩である。 と、吉良常は時になくは 0 きりした声で言った。 「耳 ? 」 もう夜が更けて、 ( 風はないがさすがに大気はひやりとし 瓢太郎はじろっと吉良常の顔を睨んでから、 「誰もてきた ) 村中がしいんとなった頃、ときならぬひとの叫び いちべっ にら ころ ていねい
な・こやか だった。それが、今となると、半日もモルヒネなしでくらあるが、山にかこまれた平原に特有な気候の和さが村びと すことができなくなっていた。最初のうちは、知合いの医の野心を性欲にだけ限定してしまったからだと言えないこ 者の手をわずらわしていたのが、そんなことではもう間に ともない。まったく一夜の秋の夜祭で短い夜を楽しむため 合わなくなり、町の薬種屋が一週間に一ペんずつ、こっそに一生を棒にふってしまうような若者がざらにある。 ( 矢 はぎ りモルヒネの瓶を持ってくるようになった。今は自分の手作古川には、春近くなると、赤ん坊の死体が、うき袋のよ の届く範囲で注射する場所をさがすのさえ困難になってきうにぼかぼかうかんでながれているのを毎日のように見た た。注射のあとはすぐに赤黒く瘤のようにかたくなって、 というはなしを得意になってしゃ・ヘった老人があるがこい うず つはどうだか、 ときどき疼くように痛みだした。 モルヒネが切れかかると、目まいがして、頭が・ほうっと なり、手がしびれてすぐ眠くなった。 辰巳屋の屋敷が売りに出たといううわさがったわったの からだ 仕事がものうくなり、気力がめつきりおとろえてきた。 は、瓢太郎の身体がすっかりいけなくなった頃だ。事実は きゅうはく 瓢太郎は誰に対しても、まるで別人のようなやさしい男にそれほど窮迫しているというほどでもなかったが、しか なってしまった。 し、そのうわさはまもなく一つ一つかたちの上にあらわれ やつら たけやぶ 「瓢吉 えらくなれえ、貴様はこの村の奴等の真似をすてきたのである。先ず、裏の竹藪が売りはらわれた。屋敷 るな、何でも無鉄砲なことをしなきゃあ、えらくなれねえをかこんでいる松の並木が伐りとられた。それから法六町 に軒をならべた辰巳屋の借家までも住んでいる男が知らぬ そういうときには彼はきっと仁吉のはなしをして聞かせ内に、何時の間にか大家の名義人がかわってしまっている た。はなしているうちに仁吉はだんだん現実の人間から遠といった風に。 あわただ ざかって、すばらしい英雄になってしまった。それが瓢吉 こういう慌しい変化は小さい瓢吉の眼にもありありとう ひおどしよろい の頭に反映すると、仁吉は時も緋縅の鎧を着て白い馬につってきた。まったく誰にしたって落ち目になったが最後 乗ってあらわれてきた。 だ。瓢太郎が権柄ずくな顔をして大きな口をきいていたあ 瓢太郎が、そう言うのも無理がないのだ。三十をすぎるいだは村じゅうが彼に親しみをよせていたのに、彼の方が と、この村では誰も彼もひねこびれた老人のようになって人なっかしい静かな男になると妙なものでこんどは誰も彼 しまう。物資がゆたかで、生活に苦しむ必要のないせいもも逆にじりじりと彼からはなれていった。 びん こぶ けん・ヘい ころ
139 人生劇場 い気になって表面だけは新海に同情しているのを見ると、 「途中で寝たんじゃないかな」 たちまち彼独特の反気が起 0 て、こ 0 そり抜け駆けの功「そうかも知れん、さがして来るか」 名をした上で、「ザマあ見やがれー」という気もちになり「へんだな、まあ、もう少し待て」 たいのだ ) 吹岡が急に低い調子で、「実はな」と言った。「ーーーおれ 「ううん、いいにおいだ」 は今日新海のために、ひと芝居打とうと思っていたんだ、 夏村はしぎりに鼻をうごめかした。 それには誰かを悪ざむらい ( 武士 ) に仕立てて、お袖を痛 さっそう めつける。 「何がさ・ーー」 いいかい、そこへ、九州男子新海一八が颯爽と して、 「いや、髪のにおいだ もっとこっちへよれ」 彼は指の先を軽くお袖の頬に触れた。 「ふふん、剣劇だな、その悪ざむらいの役はどうしても夏 「何するの、 ひつばたくわよ」 村のほかにはないぞ」 「さあ、ひつばたいてくれー」 ( そう言ったのは横井安太らしい ) ふすま そのとき、襖ひとっへだてたとなりの部屋へ、吹岡を先 頭にした一隊がどやどやと乗りこんでぎた。 「そうだよ」と、吹岡が言った。「ーー・・・やつばり夏村のほ 「青成ー」 かにはないな、あいつにしたってそんな機会でもなけりや と、吹岡のしやべる声が聞えた。「向うの方に灯火が見女の手にふれるわけにはゆかんぞ、それにつけても残念だ えるだろう、あれが鴻 / 台だ、今に向うから月がの・ほるな」 ぞ」 「誰か代りはないか ? 」 だめ 「月よし、水よし、お袖更によしか、 ああ、おいどん「駄目だよ、夏村でなくっちゃ幕はあかないさ、 二枚 は酔うそー」 目どころならいくらでもあるし、主役に不足はないんだ 「酔うべし、酔うて泥のごとくなるべし」 が、悪役とくるとどうしても・ : : こ と、吹岡が言った。 「だが、どうしたんだろう ? 」 「おい、夏村はどうした ? 」 「心配するな、あいつのことだ、やってくるよ」 こんどはぶつきら・ほうな高見剛平の声である。 「じゃあ、悪役はヌキにしてそろそろはじめるかーーー」 「そうだ、夏村が居らん」 「見ろ、下を舟が通るそー」
わりすることを日課のようにしていたが、あるとぎ、うらなして、銀杏の幹にすがりつくことができるようになっ すみ いちょう 庭の隅にある高い銀杏の木の下までゆくと、何か思いだした。 たように立ちどまった。 「よしー」 せがれ 「瓢吉ー」彼は元気のいい声で伜を呼んだ。「この木への と、瓢太郎が叫んだ。「一銭やるぞ、遊んで来いー」 ・ほってみろー」 瓢太郎はにこにこしながら、瓢吉の手の届いたところに 「この木って、どれでえ ? 」 小刀でしるしをつけた。「毎日やるだそ、あしたはてつべ 「銀杏の木だ」 んまでの・ほれ」 「高くての・ほれんがえ」 「の・ほる」 「の・ほってみんでわかるか、 おとッつあんが見とって と、瓢吉が答えた。 やる、の・ほれー」 「の・ほったら何でも買ってやる」 神経質な瓢吉は父親の様子が何時もとちがっていること「鉄砲を買ってくれるかえ ? 」 を直感すると慌ててア駄をぬいだ。そして、裸足にな 0 て「買 0 てやるそ」 すぐの・ほりはじめたが、銀杳の木は下回りが、やっと彼の これが、瓢太郎の考えついた教育法だった。それ 両手をひろげなければ抱えられぬほどの太さである上に、故、毎日同じことがくりかえされた。小刀の目じるしはだ からだ 手がかりになる枝がないので、瓢吉の小さい身体がべったんだん上への・ほっていってもう瓢太郎の手の届かぬところ さる りと吸いついたと思うとすぐすべり落ちた。同じことを何までになった。そして一ト月経たぬうちに、瓢吉は猿のよ ペんくりかえしても同じだった。 うなあざやかさで頂上までのにつてしまった。 「あかんー」 「おとッつあんー」 瓢吉の澄んだ眼が哀れみを乞うように顫えながら今にも上から、勝ちほこった小さい声が聞えてきた。瓢吉はう 泣きそうな顔になった。 れしさで胸がわくわくしたが、しかし瓢太郎のよろこびは 「何があかん、 ほんなことでどうする、もっとしつかそれどころではなかった。 りやれー」 「手がはなせるそー」 瓢吉は半分ペそをかきながら、しかし、同じことを何ペ 上から瓢吉が叫んだ。 んとなくくりかえしているうちにやっと両足を地上からは「よし、はなしてみろ ! 」ーー・、・瓢太郎が下から手をふって っ
424 うたぐ はなま 「御親切は痛みいるが、それには及びますまい」 有りもせぬ下心を疑られては迷惑だとかねて甚だ気にか 「うてぬか」 けていたことを、思いもよらずアナマロの口からきいたか オレはスックと立ってみせた。斧をとってズカズカと進ら、オレは虚をつかれて、うろたえてしまったのだ。一度 み、エナコの直前で一睨み、凄みをきかせて睨みつけてやうろたえてしまうと、それを恥じたり気に病んだりして、 ごと ますます っこ 0 オレの顔は益々熱く燃え、汗は滝の如くに湧き流れるのは エナコの後へまわると、斧を当てて繩を・フツ・フッ切っ いつもの例であった。 もど た。そして、元の座へさッさと戻ってきた。オレはわざと「こまったことだ。残念なことだ。こんなに汗をビッシ望 何も言わなかった。 リかいてててしまえば、まるでオレの下心がたしかにそ アナマロが笑って云った。 うだと白状しているように思われてしまうばかりだ」 「エナコの死に首よりも生き首がほしいか」 こう考えて、オレは益々うろたえた。額から汗の玉がポ これをきくとオレの顔に血がの・ほった。 タボタとしたたり落ちて、いつやむ気色もなくなってしま 「たわけたことを。虫ケラ同然のハタ織女にヒダの耳男は った。オレは観念して目を閉じた。オレにとってこの赤面 てんで ( ナもひツかけやしねえや。東国の森に棲む虫ケラと汗はマトモに抵抗しがたい大敵であった。観念の眼をと に耳をかまれただけだと思えば腹も立たない道理じゃないじてっとめて無心にふける以外に汗の雨ダレを食いとめる か。虫ケラの死に首も生き首も欲しかアねえや」 手段がなかった。 わめ こう喚いてやったが、顔がまツかに染まり汗が一時に溢そのとき、ヒメの声がきこえた。 れでたのは、オレの心を裏切るものであった。 「スダレをあげて」 顔が赤く染まって汗が溢れでたのは、この女の生き首がそう命じた。たぶん侍女もいるのだろうが、オレは目を 欲しい下心のせいではなかった。オレを憎むワケがあると開けて確かめるのを控えた。一時も早く汗の雨ダレを食い は思われぬのに女がオレを仇のように睨んでいるから、さとめるには、見たいものも見てはならぬ。オレはもう一度 のろ てはオレが女をわが物にしたい下心でもあると見て咒ってジックリとヒメの顔が見たかったのだ。 いるのだなと考えた。そして、・ハ力な奴め。キサマを連れ「耳男よ。目をあけて。そして、私の問いに答えて」 て帰れと云われても、肩に落ちた毛虫のように払い落して と、ヒメが命じた。オレはシプシ・フ目をあけた。スダレ 帰るだけだと考えていた。 はまかれて、ヒメは縁に立っていた。 にら すご おり なわ あふ
あ」 「ふふん」とせせらわらった。「竜虎隊のやっ等だな、大 「ひでえ目にあったぞ」 きな面をしてやがる」 と、夏村が言った。 たもと 「何だい ? 」 彼はうしろの壁によりかかると、袂の中から「ゴールデ 「一週間の停学と来ていやがらあ、ーー黒馬のやつに一ばン・・ハット」をとりだしたのである。そいつを一本ぬきだ してゆびのあいだにはさむと、すぐ火をつけようとはしな い食わされたね」 いで机のはしでこっこっと軽くたたきながら、 「停学 ? 」 「ーーーその方がよっぽどましだ・せ、第一、本が読めら「やつばり、西郷はえれえな」 と、途方もないことを言いだした。 ( 彼は一種の西郷崇 しんきん 「お父ッつあんはどうしたい ? 」 拝者であるが、しかし、彼の頭の中にある西郷は維新の勤 「かえったよ、 おれのおやじはお前のおやじのように王家ではなくて、おそろしくかたちのゆがんだ豪快でぐう ぶっちょうづら 仏頂面はしねえよ」 たらな生活面だけをえしたーーっまり、西郷隆盛ではな 「おれのおやじだって何とも思っているもんか、よろこんくて「西郷大蔵」なのである ) しんさく でるくらいだ」 「おれはこないだ高杉 ( 晋作 ) の伝記をよんだが、あいっ かな 「ふふんーーー」 はおもしれえな、おもしれえが西郷にや敵わんー」 と、夏村がせせら笑った。「お前、おれのおやじを知っ 「そうは思わんぞ、 おれは」 てるか、尾張一円の顔役だ・せ」 「おれが西郷なら、お前は高杉だ」 こうなると瓢吉もだまってはいられなかった。 「何を言っとる」 「お前、吉良の仁吉を知っとるけえ」 「西郷は若いころ、妓買いばかりしてくらしとったん ( そのくらいのことじゃ負けないそということを示すためだ、高杉でも大久保でもみんな西郷の『ュース』だったん つっそで に瓢吉は筒袖をたくしあげた ) だからのう、そりゃあえれえよ」 窓のすぐ下の堤防で、上級生が三人唱歌をうたいな「嘘を言えー」 せんぼう がら足早に通っていった。夏村大蔵の眼は羨望に燃えなが「だれが嘘を言うか、ちゃんと本に書いてあらあ、 ゅうやみ らタ闇に消えてゆく彼等の、肩をいからしたうしろすがたれはもう六ペんも読んどるそ」 を追っていたが、 「何の本だ」 のうか お
オレがすさまじい気に気がついて目を転じたとき、す でにエナコはズカズカとオレの目の前に進んでいた。 シマッター とオレは思った。エナコはオレの鼻先で懐それからの足かけ三年というものは、オレの戦いの歴史 さき 剣のサヤを払い、オレの耳の尖をつまんだ。 であった。 オレは他の全てを忘れて、ヒメを見た。ヒメの言葉があ オレは小屋にとじこもってノミをふるツていただけだ る筈だ。エナコに与えるヒメの言葉が。あの冴え冴えと澄が、オレがノミをふるう力は、オレの目に残るヒメの笑顔 つる に押されつづけていた。オレはそれを押し返すために必死 んだ童女の笑顔から当然ほとばしる鶴の一声が。 ぼうせ オレは茫然とヒメの顔を見つめた。冴えた無邪気な笑顔に戦わなければならなかった。 オレがヒメに自然に見とれてしまったことは、オレがど を。ツ・フラな澄みきった目を。そしてオレは放心した。こ しよせん のようにしているうちに順を追うてオレの耳が斬り落されのようにあがいても所詮勝味がないように思われたが、オ おそ るのをオレはみんな知っていたが、オレの目ヒメの顔をレは是が非でも押し返して、怖ろしいモ / ノケの像をつく 見つめたままどうすることもできなかったし、オレの心はらなければとあせった。 目にこもる放心が全部であった。オレは耳をそぎ落された オレはひるむ心が起ったとき水を浴びることを思いつい のちも、ヒメをポンヤリ仰ぎ見ていた。 た。十パイ二十・ハイと気が遠くなるほど水を浴びた。ま オレの耳がそがれたとき、オレはヒメのツ・フラな目が生た、ゴマをたくことから思いついて、オレは松ャニをいぶ ほお き生きとまるく大きく冴えるのを見た。ヒメの頬にやや赤した。また足のウラの土フマズに火を当てて焼いた。それ みがさした。軽い満足があらわれて、すぐさま消えた。すらはすべてオレの心をふるい起して、襲いかかるように仕 ると笑いも消えていた。ひどく真剣な顔だった。考え深そ事にはげむためであった。 うな顔でもあった。なんだ、これで全部か、とヒメは怒っ オレの小屋のまわりはジメジメした草むらで無数の蛇の ているように見えた。すると、ふりむいて、ヒメは物も云棲み家だから、小屋の中にも蛇は遠慮なくもぐりこんでき わず立ち去ってしまった。 たが、オレはそれをひッさいて生き血をのんだ。そして蛇 おんりよう ヒメが立ち去ろうとするとき、オレの目に一粒ずつの大の死体を天井から吊るした。蛇の怨霊がオレにのりうつ 粒の涙がたまっているのに気がついた。 り、また仕事にものりうつれとオレは念じた。 オレは心のひるむたびに草むらにでて蛇をとり、ひッさ はす
きながらもっとも欲しない、そして思いがけない行動を起にでかけたので腹を立てたのだそうだ。しかし、チイサ釜 してしまったのである。 が父に劣らぬタクミであるということはすでに評判があっ オレはオレの部屋の前まで走っていった。それから、 たから、オレの場合のように意外な身代りではなかったの である。 の外まで走って出た。それから歩いたが、また、走った。 居たたまらなかったのだ。オレは川の流れに沿うて山の雑チイサ釜は腕によほどの覚えがあるのか、青ガサの高慢 まゆ 木林にわけ入り、滝の下で長い時間岩に腰かけていた。午を眉の毛の一筋すらも動かすことなく聞きながした。そし てい、ようあいさっ がすぎた。腹がへった。しかし、日が暮れかかるまでは長て、青ガサにも、またオレにも、同じように鄭重に挨拶し やしきもど やっ 者の邸へ戻る力が起らなかった。 た。ひどく落付いた奴だと思って薄気味がわるかったが、 その後だんだん見ていると、奴はオハョウ、コンチワ、コ ン・ハンワ、などの挨拶以外には人に話しかけないことが分 オレに五六日おくれて青ガサが着いた。また五六日おくった。 せがれ オレが気がついたと同じことを、青ガサも気がついた。 れて、フル釜の代りに伜の小釜 ( チイサガマ ) が到着し た。それを見ると青ガサは失笑して云った。 そして彼はチイサ釜に云った。 「馬耳の師匠だけかと思ったら、フル釜もか。この青ガサ 「オメ工はどういうわけで挨拶の口上だけはヌカリなく述 に勝てぬと見たのは殊勝なことだが、身代りの二人の小者べやがるんだ。まるでヒタイへとまったハエは手で払うも が気の毒だ」 のだときめたようにウルサイぞ。タクミの手はノミを使う が、一々ハエを追うために肩の骨が延びてきたわけではあ ヒメがオレを馬に見立ててから、人々はオレをウマミミ あな とよぶようになっていた。 るまい。人のロは必要を弁じるために孔があいているのだ 男 耳オレは青ガサの高慢が憎いと思ったが、だまっていた。 が、朝晩の挨拶なんそは、舌を出しても、屁をたれても間 姫オレの肚はきまっていたのだ。ここを死場所と覚悟をきめに合うものだ」 オレはこれをきいて、ズケズケと物を云う青ガサがなん 夜て一心不乱に仕事に精をうちこむだけだ。 チイサ釜はオレの七ッ兄だった。彼の父のフル釜も病気となく気に入った。 そろ とりさた けびよう と称して伜を代りに差し向けたが、取沙汰では仮病であっ 三人のタクミが揃ったので、正式に長者の前へ召され たと云われていた。使者のアナマロが一番おそく彼を迎えて、このたびの仕事を申し渡された。ヒメの持仏をつくる はら ひる あいさっ やっ
どこ 一ペんお手紙を差上げようと思っとりながら、ずるくるこの村の何処からもさぐりだすことはできなかった。 ごぶさた かん一く ずるに御無沙汰しとりました、五年前に監獄を出てから台うらぶれて故郷へかえるわが身の味気なさがひしひしと胸 けいだい 湾へ行ったり朝鮮へ行ったりしましてな、ーー・そ、それで、 にこたえて、ーー、彼は日の暮れるまで福泉寺の境内をうろ 今夜はちょっとおわかれに」 ついていたが、 ( しかし、境内をうろついても今は仁吉の くちびる ふる ぬか 吉良常の唇が苦しそうに顫えている。 「大旦那さま墓前に額ずくことのできる身の上ではない ) 夜になってか に一ペんお目にかかってと思いましてな」 ら辰巳屋の前を通り、よそ眼にも瓢太郎に会ってから、こ 「よう来ておくれやした、そいで、今、どこにおいでやすの村にわかれを告げようと思っていたのである。 か ? 」 しかし、此処までくると、 昔ながらの辰巳屋の暖簾 「今でござんすか」 になっかしさがどっと湧きおこって、そのままふらふらと 吉良常は土間の方へちらっと眼をそらしてから、 入ってしまったのだ。 かんだか 「今はな、ーー・東京へ出る途中でござんすが」 奥の方から、甲高い声が聞えてくる。吉良常はじっと耳 「東京へ ? 」 をすました。瓢太郎の声だ。ああ、昔ながらの瓢太郎の声 「ーー・あっちに『呑み込み』の野郎が行っとりましてな、 だ。ーー胸の鼓動がだんだん高まってくる。吉良常は何・ヘ 是非来いと言いますもんで」 んとなく唇を噛みしめた。その声をきいているうちに十年 「へえ」 前、肩で風を切ってあるいていた若き日の自分のすがた おみねは吉良常の顔に不安そうな視線をなげてから立ちが、とじ合わせた瞼のあいだから・ほうっとうかんでくる。 こ ただごと あがった。「ほいじゃ此処でちょっとお待ちやす」 ( 不意に奥の方から烈しい物音が聞えてきた。普通事では おみねが奥へはいって行くと吉良常はほっとしたようにないらしい ) あたりを見まわした。それから彼は悲しそうに眼をしばだ前かがみになった人の影が中庭の方から土間の暗がりを たいたのである。あらゆるものが変りつくしてしまったのぬけて彼の眼の前を鳥のようにかすめて、表へとびだし た。 ( ーー・もしその男が出て来なかったら、吉良常が奥へ 人だ。今は法六町の通りをあるいても自分の顔をお・ほえてい る人間はひとりだっていまい。彼が駅へおりたのはその日 とびこむところだったのだ ) ひけ の夕方だった。それから町すじをひととおりあるいてきた 五十前後の、頬のこけた横顔が半白の髯にうずまってい のであるが、しかし十年前のおもいでは一日ごとに変ってる。 入口の、ほこりで黒くなった軒灯の光にその横顔 まぶた のれん
たま ぶこくそしりや 諸君、余を指して誣告の誹を止め給え。何となれば、真この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人 なお 理に誓って彼は禿頭である。尚疑わんとせば諸君は、巴里種に隔絶し、実に地球の小廻転を試みてのち、極東じゃ・ほ 府モンマルトル Bis 三番地、 pe 「 ruquier ショオ・フ氏に訊ん国にいたって初めて著しき類似を見出すのである。これ き給え。今を距ること四十八年前のことなり、二人の日本余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く かつらあかな 人留学生によって鬘の購われたることを記憶せざるや。一諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安ん・せ 」とぐ ! い 人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚昧の相を漂わよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与えた し、その友人は黒髪眸の美青年なりき、と。黒髪明眸なのである。見給え蠏は成吉思汗とな 0 たのであ る友人こそ即ち余である。見給え諸君、ここに至って彼はる。成吉思汗は欧洲を侵略し、西班矛に至ってその消息を がいたん 果然四十八年以前より禿げていたのである。於戯実に慨嘆失うたのである。然り、義経及びその一党はビレネ = 山中 のに堪えんではない乎ー高尚なること懈の木の如ぎ諸最も気候の温順なる所に老後の隠栖をトしたのである。之 ろうれつかん 君よ、諸君は何故彼如き陋劣漢を地上より埋没せしめんと即ち・ ( スク開闢の歴史である。しかるに嗚呼、かの無礼な ふそん まんちゃく 願わざる。彼は鬘を以てその禿頭を瞞着せんとするのでる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説えた のである。彼は日く、蒙古の欧洲侵略は成吉思汗の後継者 ある。 諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵である太宗の事蹟にかかり、成吉思汗の死後十年の後に当る、 すべ か ? 否否否。千辺否。余の生活の全てに於て彼は又余のと。実に何たる愚論浅識であろうか。失われたる歴史に於 憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか ? 然り実にて、単なる十年が何である乎ー実にこれ歴史の幽玄を計 はなはだ 憎む・ヘきである ! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極であり磧するも甚しいではないか。 ますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余の甚だ不本意とする 士よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして ふこくそしり あえ 博であろうか ? 否否否、万辺否。余はここに敢て彼の無学識者の常識を肯んぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を うら けいじっ 発せしむる憾みあるからである。たとえば諸君、頃日余の 風を公開せんとするものである。 戸口に Banana の皮を撒布して余の殺害を企てたのも彼 諸君は南欧の小部落・ハスクを認識せらるるであろうか ? けんこうこっ でんふ 仏蘭西、西班牙両国の国境をなす・ヒレネ工山脈を、やや仏の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部及び肩胛骨に軽微な のうしんとう こうむ たぼくしよう はうちゃく る打撲を受けしのみにて脳震盪の被害を蒙るにはいたら 蘭西に降る時、諸君は小部落・ハスクに逢着するのである。 さんぶ