の上に、あたらしきコミンテルンの宣伝運動の手が、どのもし、果してそうだとしたら、コミソテルンにとっても相 すき のが 2 ような小さな機会と隙をも逃すまいとするかのように縦横当に重要な会見であるにちがいない。そこで、ラデックの にひろげられていた。その革命的暗雲の、激しく回転する配下の一人が先ず彼を引見することになったのである。そ 中へ彼は進んでとびこんでいったのだ。すると、彼の心のの男にあたえた第一印象によって高見はこの冒険の第一歩 と、いうのはその 中には別個のあたらしい世界がひらかれてきたのである。 を踏み越えたと言わねばなるまい。 こんとん かくて、すでにその渾沌を形成する有機体の一つであった会見の結果、公式に彼を中心とする会議がひらかれるよう ゅうとうじ な段取りになったからである。 彼は、もはや単なる遊蕩児ではなかった。 うす暗い部屋である。 じゅうたん かって、「ワセダ大学」の予科大会で、ちんぶんか厚い絨毯が敷かれた床の上にはほそ長い会議用のテープ んぶんな演説をして、二時間半のレコードをつくった彼のルが一つだけ置かれてあるきりだ。 ひげ 糞度胸は、たちまち彼自身の存在を異郷の空においてさえ正面の席に腰をおろしているのは、顔じゅうが髯でうず も証拠だてることに成功した。プローカーとしての意識がまった背の高い男である。部屋の中がうす暗いだけに、眼 次第にうすれて、ひた向きな純情が彼の心によみがえっての光が一層するどく輝いている。 きたのである。 二人を案内して入ってきた軍人は、ちょうどその反対側 彼は、そこで、ある偶然の機会から、独立運動の陰謀ににあたる、入口に近い椅子をゆびさして何やら低い声でさ 参画していた黎春朴という若い朝鮮人と知りあいになっさやいた。 た。 ( 彼等の独立運動はコミンテルンによって擁護されて高見と黎春朴とはならんで腰をおろした。高見の胸はも う感激で一ばいである。彼は運命がこのように急速力で回 いた ) 高見剛平はこの黎春朴の手引によって、ひそかにハル・ヒ転するのを見たことがないのだ、ーーー極度に緊張した感情 ンの国境を越えることができたのである。彼の大胆な行動と神経の中で、彼は自分の心に迫ってくるものをありあり ひざ は着々と功を奏した。彼は自ら日本の社会主義者の代表とと見た。の上でにぎりしめた彼の拳はわなわなと顫え 名乗って、ちょうどそのとき、国境の—市に来合せてい はんまっ こうん た、コミンテルンの要路者であるラデックに会見を申込ん高見剛平はその気もちに反するために昻然と胸を張っ だのである。日本からやってきた最初の社会主義者、 て、彼の向い側に腰かけているロシャ人の顔を正面から睨 くそ れいしゅんぼく こ 0 こぶし ふる
218 はす 「こっちに高見という男が来ている筈じゃが ? 」 う ! 」とわれ知らず嘆声をあげた。 「いらっしゃいます、もうずいぶん長くお待ちになってい しかし、彼も、豪快な高笑いをみせて、高見の横に腰を らっしゃいます」 おろすと、軽く肩をゆすぶるようにおさえて、 愛想笑いをうかべながら、女給が短い廊下の左側にある「だいぶ、景気がよさそうだな ? 」 とびら 小さい部屋の扉をあけた。 「うん」 あお 「ようー」 高見は食卓の上のウイスキーをぐっと呷った。 ゅう娶ん 正面のソファーに、茶色の洋服を着て悠然と、葉巻をく 表に面した小さいひらき窓には秋の空がひろがってい ざっとう ゆらせながら腰かけているのはまぎれもなく高見である。 る。眼まぐるしくうごいている電車通りの雑沓が上から見 三年の歳月を短しというなかれ、ーー・・学生時代においてさると油絵具をつかった・ハノラマのようである。 え、すでに十分将来を予想させたところの彼の額際から、 「夏村 ! 」 上へ上へと禿げた頭は、脳天に届くあたりまでうすれて見高見が重そうに口をひらいた。「実は、おれは一昨日、 ひろ える。しかし、禿ける領域の拡がるに比例して彼の堂々た門司へ着いたばかりだ」 ふうさい る風采はますます威容を加えつつあった。 「門司へ、 じゃあ、貴様は支那へ行ったのか ? 」 プラチナ それにしてもほそい白金の鎖をチョッキの胸間にきらめ「うん、 くわしい話はあとからするがね、おれはモス こん かせている高見と、紺サージの、 コーまで行ってきたんだ」 ーーーそれも、着不精のた こう娶ん おりかばん めによれよれになっている洋服を着て、豚の皮の折鞄を抱高見は昮然として肩をそびやかした。 えている夏村とは、事務員と重役ほどの相違がある。 「どうしたーー一体 ? 」 「モスコーへ ? 」 くちびる 「朝、東京へ着いたばかりだ、着くとすぐに君に会いたく夏村は思わずどきっとした。彼の唇からは微笑が消え こ 0 なったんで電話をかけたんだよ」 「モスコーへ、一体何しに行ったんだ」 「ーー何処へ行ったのだ ? 」 「コミンテルンの要路者に会見するために行ったんだよ」 「まア、坐れよ」 「ほんとか 高見は愉快そうに笑 0 た。常轣坤、一。擲の勝負を夢みる「嘘をいうか」 夏村だけに、半年前とは打って変った高見の姿に、「ほ「じゃあ、何だな、ー・貴様は日本の社会党から派遣され どこ
262 てしまったらそれきりだからな」 「僕がやられるようになれば、君の身辺にも危険が刻々に そのときはー」 高見は屋根に鳴る雨だれの音に耳をすましていたが、急迫っていると考えなくちゃならんさ、 に深い決意をこめて、 高見は思わず夏村の手をにぎりしめて、「頼むぜ ! 」と ことさら よそお 「それでは」 言った。かすれるような声だった。殊更に落ちつきを装っ ひとみ と言った。「君は今夜の汽車で発ってくれないか、そしてはいるものの、しかし、彼の瞳は極度の緊張のためにう て、門司の宿屋で待っていて貰おう、こっちの都合で青成るんで見えた。 さったば に行って貰うから」 夏村は紙幣束を無造作な手つきでポケットの中へ入れて 「しかし」 から、 と夏村がさえぎった。「あいつを、そこまで深入りさせ「よし」 と言った。「とにかく、おれはきっと約束だけは果すよ」 るのは考えものだぜ、僕と君はどうなったっていいさ、し シャンハイ 上海だけ突破すれば、もうわけはない、 かし青成は、すくなくとも僕等一一人とはまるで人生の方向「頼むー ビンにはニューヨーク・トリビューンの通信員と名乗るコ を異にするからね」 「そんなことが考えて居られるかい、 青成だって乗りズロフというロシャ人がいるからね、万事その男と話をし かかった船だよ、生命がけの仕事に一人や二人の犠牲者がてくれたまえ、ーーー若し、僕が行けなかったら、いよいよ つかまったということを確実に先方に伝えてくれるんだ、 出たところで仕方がないよ」 それから先は、ハルピンで国 高見は早口にしゃべりながら、上着の内ポケットへ手を君の役目はそれだけだ、 突っこんだ。たぶん、そのために用意してきたのであろ際恋愛の範をたれてかえってくるさ」 「わかった」 一束の百円紙幣をぬきだしたのである。 こいつをとにかく渡して置こう、こ夏村がゆったりと立ちあがった。「それで、ーーー青成と 「三千円あるぜ、 とによったら、今日きりで君に会う機会がなくなるかも知は何処で会う ? 」 れないから、今夜の会見の形勢によっては僕が門司へ行く「やつばり此処がいい 夕方六時になったら来るよう かも知れんぞ、 そこで、僕が行けなかったとぎは、僕にそう言ってくれたまえ」 「うん」 の第一段の計画が失敗に終ったと思ってくれたまえ ! 」 「そのときはどうするんだー」 夏村が扉のそとへ出ていった。高見剛平はほっとしたよ どこ とびら ここ
みつけた。しかし、そのロシャ人はこの小さな出来事をま「それでどうした ? 」 高見剛平の眼には、そのとき、極度の速さで伸びた るで歯にもかけないといった風に、・ ( イプを横ぐわえに したままで、ゆとりのある視線をこの異国の青年の顔の上り縮んだりしていたラデックの顔がありありと見えるよう に投げていた。彼の横に腰かけている黎春朴のの尖が床だ 0 た。ま 0 たく、彼の言葉は最初のうちは誰にも通じな にふれるごとに軽くふるえている。 この不敵な朝鮮のいように思われた。しかし、言葉よりも先ず、胸を縦横に 陰謀家さえも、間もなく彼等の前にひらかれようとしてい うごかして、汗みどろになりながら、全身のゼスチュアを る不安な出来事の予想におびえているように見えるのだ。 もって一生懸命に叫んでいた日本の青年の顔からうける印 そこへ、四人のロシャ人が、扉をあけてどやどやと入っ象だけは誰の眼にも快く映った。ラデックのんだ深い瞳 の中には、だんだん喜びと感謝の色がかがやきはじめたの てきた。 がんじよう みんな同じように髯を生やした、同じように頑丈な体格である。 れいめいき である。 一ばんあとから、最初に高見と会見した男が高見は、日本の社会運動が、ようやく大きな黎明期に近 入ってきた。子に着く前に、ちょっと彼の顔を見て親しづきつつあること、同時に今や全国にわたって強烈な圧迫 そして、自分がはる が加えられようとしていること、 み深い表情をうかべた。 みんな黙っていた。ーー・・何かおごそかな儀式でもはじまばると海を越えてやってきた根本の目的は一日も早く、あ たらしい時代を日本に築きあげんがためであること、 るような空気だ。 しよく その緊張が一つの頂点に達したとき、案内役の軍人が燭ああ、それにもかかわらず、日本の運動は何と手も足も出 ろうそく それ故に、同じ目的の 台と蝋燭を持ってはいって来た。燭台はプリキ製の粗末なないほど資金に乏しいことか、 ねが ために希わくば宣伝費の幾分かを投ぜられんことを、 ものだったが、しかし、そいつをテー・フルのまん中におい て、蠍燭を立て、マッチをすって火をつけると、ちょろち彼の頭の中に折り重なっている言葉を無選択に拾いあげて 劇 よろと燃える餡の中に、テー・フルをかこむ八つの顔が深いは、片言の英語で、こまごまとしやべったのである。 圧 ~ かげきざ 「やっと腰を下ろしたときは、もうどうでも勝手にしてく 人翳を刻んでくつきりとうかびあがった。 高見剛平は、ときどき晴れわたった秋の空を窓越しれと思ったね、ズボンから上着からびしょぬれの汗だ、す そして、すぐさま 幻に眺めながら、こまかくその日の情景を語りだしたのであると、ラデックが立ちあがったよ、 僕を同志の一人に加えるという宣言をしたんだ、それで僕 なが 椴のお
を食わば皿までだ、おれは革命家でもなければ憂国の志士まい」 てっとうてつび んぎわ でもない、徹頭徹尾・フローカーだ。なまじっかな良心に禍「じゃあ、おれが行くということは ? 」 いされて心をぐらっかせないことが何より必要だ、 や「ーーー・君は厭が応でも僕の使命を果してくれなくっちゃ困 っと今、そういう決心に落ちついたところさ」 るよ、商売人は飽くまで商売に忠実であることが必要だ、 「しかし、朝鮮人がやられたとなると、おれは ? 」 だから、若し君が門司あたりでつかまってくれたらこれ以 「考えようによっちゃあ、その方がますます好都合だ、上の幸いはないね、 、そうなれば、僕 おれは今夜、思いきって内務大臣を訪問しようと思っもコミンテルンに対して完全に詐欺の譏りをまぬがれるわ ているよ、憂国の志士としてではない、プローカーとしてけだ」 だ、いいかね、だから君は一一三日のうちに出発してくれた高見剛平はいかにも悪党らしい落ちつきを示して安楽椅 まえ」 子に深くよりかかった 「うん」 夏村は軽くうなずいてから、「だが、内務大臣を訪問す「そこで、ーー・・青成のことだが」 つめさき るのは考えものだ・せ、 こういう風に形勢が急変してき夏村が葉巻のロを爪の尖でつまむように切りながら、 たとなると、無事にかえるわけにはゆかんぞー」 「どうする、青成を ? 」 「覚悟の上さ」 「そうだね」 強い神経が高見の瞳をかすめた。「おれは内務大臣に底高見はちょっと考えてから、 を割って話をするよ、 例えばおれがコミンテルンから「 こっちの形勢如何によっては僕と行動を共にして貰 何万円、金をふんだくってきたところで、いやしくも商売わなくちゃならなくなるかも知れんからな、僕は今日の午 場 であるかぎりはどうにも仕方があるまいじゃないか、ポロ後二時に警県局長と会見して、それから内務大臣の都合を きようかっ 劇 会社を恐喝して金をまきあげるのとはわけがちがうよ、相きくことになっとる、その上で、青成に会いたいんだが」 生 それに日本の官憲はソビエ 「じゃあ、あいつが僕と同行する必要はなくなるわけだ 人手は兎に角一国の政府だ、 しりお ットを承認しないどころか、しきりに白軍の尻押しをしてな」 礙コソコソやっている最中じゃよ、 オしか、してみりゃあ、その 「そこだよ、困るのは、ーーー・何しろ形勢が刻々変るんだか 金をおれが何に費おうと誰に文句をつけられるわけもあるら、もし、僕が警保局長と会う前に警視庁の手につかまっ
265 人生劇場 「うん」 「それで、ーー高見は大丈夫かい ? 」 「あいつの女房になったんだ」 「何がさーーー ? 」 ゆくえ 「丘部の、 あの女が丘部の」 「だって、警視庁じや大さわぎをして行方をさがしている というじゃないか」 夏村は敲きつけるような声で「畜生 ! 」と言ってから、 きびす あ 上着のポケットを・ほんぽん敲いた。それから、くるりと踵「はじめはおれもそう思ったんだが、裏に裏あり、 いつはそんなへマな芸当はしないよ」 をかえすと、人混みの中へ大股にあるきだした。 「うまく逃げたのか ? 」 「おい、上の・ハアラーへ行こう、ーー・・ー話があるよ」 「逃げるも逃げないも、みんな高見の打った芝居じゃない 「君は高見に会ったのかい ? 」 か」 「うん」 「芝居 ? 」 「大丈夫か」 「そうだよ、 あいつは日本の政府に出来るだけ高く自 「大丈夫さ」 分を売りつけようとしているんだ、せりあがるだけせりあ 「タ刊を見たか ? 」 げるには、 ( ルビンまでを送る必要もあるし、 , - ー人間 「見ないよーー見なくともわかるさ」 の一人や二人は殺さなきゃなるまいよ」 「ほんとに大丈夫かい ? 」 「何だかちっともわからんね」 「くどいね、 高見というやつは」 夏村は、あるきながら瓢吉の耳元へ口をよせた。「えら「今にわかるよ」 「それで、君はハル。ヒンへ行くのか あいつは今にどえらいやつになるそー」 ざっとう 二人は二階の。ハアラーで構内の雑沓を見おろしながら長「行くさーー行かなきゃなるめえ。高見が・フローカーな 子にならんで腰をおろすと、すぐにビールを飲みはじめら、おれだって、君・ : : こ こ 0 ( 夏村は眼をつりあげて冷やかな微笑をうかべた ) 「おれもひとかどの悪党を気どっていたが」 くちびる あわ おれはどうなるんだい ? 」 唇についたビールの泡を手で払いながら、夏村はだし「すると、 「君は君さ、高見は今夜六時に君に来てくれって言ってい ぬけに感嘆したような声をだした。 くそどきよう たぜ」 「あいつの糞度胸には敵わねえや」 たた かな おおまた
っそりと溜息を吐いた。「まだ言っていやがる、あんな女「そうなんです」 のことが今でも気にかかるのか」 「では、さっきお発ちになった方ですわ、肩幅のひろい 「うん」 ーーー・洋服を着た二十五六の」 はす 「駄目だよ」 「そうです、一時か二時頃まで、たしかにいた筈ですが」 夏村は力強く瓢吉の肩をおさえて、酒臭い息を吐いた。 「その方なら」 「今頃はどこかの町の隅でほこりにまみれているよ、 女は、もう一度たんねんに瓢吉の顔を見てから急に眉を ぐずぐずしていると、貴様は一生涯を棒にふってしまうひそめた。「失礼ですが、あなたはどういう御関係の方 ( 窓のそとがあかるくなって、急に雨のあがった秋の空が「どうといって、ただ友だちなんですが」 い陽ざしをうけて青く澄みとお 0 てきた ) 瓢吉は女の表情の動きに何とも知れず異常な出来事 をかんじた。しかし、女は瓢吉に対するかすかな好意を、 その日の夕方である。瓢吉がホテルに高見をたずつめたい視線にうかべながら、 とびら ねたときには、二階の三十七号室の扉はあけはなしになっ 「あの、たった今なんですけれど」 ていて、部屋づきの女給仕がペッドをとりかえているとこするどく廊下の方を見かえしてから言った。「警視庁の ろだった。 方がお見えになって、そのままいっしょにお発ちになりま うかが 「ちょっと伺いますが」 したよ」 はばか 女がこっちを向くのを待って瓢吉はあたりを憚るような 「そうですか、 どうも」 低い声で言った。「このーー部屋にはもうだれもいないん瓢吉は、慌ててお辞儀をすると、くるりと踵をかえし ですか」 て、飛ぶように階段を下りていった。刑事につれてゆかれ 劇 とんざ 「ええ」 たとすれば、高見の仕事も此処でいよいよ頓挫してしまっ 生 人一見、家政婦というかんじの三十近い痩せぎすの女はうたわけではないか。 ろんそうな眼でチラリと瓢吉の顔を見ただけだった。 夏村はどうするつもりであろうか、ーーー彼は今夜、十一 「たしかに二階の三十七号室だときいているんですが」 時に東京駅の一二等待合室で夏村と会う筈になっている。 「どなたかおたずねになっていらっしやったんですか ? 」門司まで送ってゆく約束をして、夏村からあたらしく旅装 いま・ころ ためいきっ あわ ここ
しかし、その感じは、高見剛平には通じなかったらしる。 い。彼は急いで百円紙幣を夏村の上着のポケットの中へね「折角だから、こいつはおれがとって置こう、 じこんだ。 彼は豪快な調子で笑いだした。 夏村は、皺くちゃになった紙幣をゆったりした手つきで「妙な男だね、君は」 とりだすと、紙屑のようにテー・フルの上へはじきすてた。 高見も思わず苦笑いをうかべた。「じゃあ、ーー・今夜、 「まちがえちゃ困るぜ、 おれは君の使用人じゃないん八時忘れちゃいけない・せ」 「よしー」 だから」 とびら 「そうじゃないよ、そんな君」 旅行鞄を持って扉のそとへ出ていった高見のうしろ姿を なが 「ほしいときにはおれの方からくれと言うよ、 君が生チラッと眺めてから、夏村は窓のそとへ視線をうっした。 命がけならおれだって生命がけだせ、おれたちのあいだに ( 彼はさっきから、高見と話しているうちにだんだん気圧 のが ひけ目をかんじたり、感謝しあったりする気持をおこす必されてくる感じから逃れることができなくなっていたの 要はないんだ、言わば君とおれとは夫婦みたいなもんじゃ だ。自分の姿がみす・ほらしい だけではない、高見が急 りようけん ないか、君がおれにくれてやるという了簡なら、おれは御にふくれあがって、自分よりも十倍も二十倍も大きく見え こうむ 免蒙るよりほかに仕方がないそ」 てくるのである。もちろん百円紙幣が問題なのではない。 「何もそう君、四角ばらなくたっていいじゃないか、僕と彼は萎びた心をはねつかえす機会をねらっていたのだ。う 君とのあいだで」 つかりしていたらペコペコお辞儀でもしてしまいそうな気 だから四角ばるんだ、いいかね、金の問題じゃあなもちではないか、 そこで、夏村大蔵はやっと百円紙幣 おれたちは」 によって彼一流の戦法を用いる機会をとらえたのである ) 劇 「わかったよー」高見が沈痛な声でさけんだ。 彼はソファーの上にぐったりと倒れかかった。 生 じゃあ」 しかし、一人きりになると、「負けた ! 」という感じが 人「おれがわるかった、 前よりも強く彼の心に迫ってきた。窓のそとには陽がかげ しかし、そのとき夏村の手はすばやく前にのびて、 って、ーー秋の空は今にも雨になりそうだ。夏村は女給を 一度なげすてた、皺くちゃの紙幣をつかんでいたのであよんで、「キング・オプ・キングス」をとりよせると、ひ しわ かみくす いの せつかく しな
たな」 「夏村がくれたんだよ」 「コミンテルンから十万円とってきたというはなしだぜ」 「夏村がね」 「十万円はうそだが一万円は持ってぎたらしいね」 「僕は今夜、夏村といっしょに門司まで旅行する筈になっ 「一万円にしたって大したもんだ」 ているんだが、 しかし、もう夏村の身辺もあぶなくな 横井はそっ・ほを向いて、わざとらしい溜息を吐いた。 っているらしい、それに僕が必ずしも同行しなければなら 「あいつ、その金を何に使うつもりかな ? 」 んという理由もないから、むしろこの金は」 すてばち 「もう大半はなくなっているだろうよ、昨日の新聞に日本瓢吉は横井と視線を合わすと、捨鉢な微笑をうかべた。 ききん の社会主義者が、ロシャの飢饉を救済するためにあつめた「煙のごとく散ずるに若かずだ」 金が百何十円かできたということが書いてあったが、 「天のあたうるところだね」 その金がロシャ政府に届くころには高見剛平が一万円をふ と横井がごくりと咽を鳴らした。「ああ、天のあたう ところにして大尽あそびをしているということになる、どるところをとらざれば禍いその身に来る」 のが うしたもんじやろか、いや、何しろえらいやつじゃない 瓢吉は、心のこだわりからやっと逃れたという気もち ・カ こんな晩に高見でもあらわれて、千円ぐらいボで、高見と夏村との関係をひととおり弁じ終ると、はじめ ンーとなげだすということにならんもんかなア」 て、大声に笑いながら、 「だからさ」 「だからさ、彼等は英雄だよ、僕と彼等とは人種がちが 瓢吉はやっと、昔ながらの雰囲気の中で気安い落ちつきう、ーー今夜、僕は夏村を東京駅に見送って ( ッキリ左様 をかんじた。「ーー高見の手から回り回った金が百円あるなら、を言うつもりなんだ」 んだー」 「それで」 場 吹岡のきよとんとした顔に、かすかな不安がながれた。 劇 吹岡と横井は、机の上の紙幣束をみると思わず顔を見合「君はどうなるんだい ? 」 生 「どうなるって」 人わせた。 「これは一体」横井はその一枚をとりあげて電灯のあかり「いや、 夏村の身辺が危いとすれば、君だって」 1 にすかしてから、 「むろん、危いだろうね、しかし、僕は高見の同志じゃな 「ほんとうの紙幣かね、ああ、これが」 だいじん い」 はす
てくるものだ、何しろラデックは極東宣伝部の委員長だか はほっとしたよ、ラデックがすぐ僕のそばへやってぎて、 なにくそ おお愛すべき青年よーと言ったと思うといきなり抱きあらな、おれも何糞 ! と思ったよ」 ひげ それで ? 」 げて頬っぺたにキッスするんだぜ、もじゃもじゃの髯がさ「ふふん、 わるとくすぐったいとも何ともまったく妙な気もちだった「議長は先ず高見君の説明を要求します、と来たね」 「どうした、君は ? 」 「むろん、威勢よく立ちあがったよ、いずれそうなると思 「そうか、頬っぺたを舐めたか」 ころ シャンハイ 夏村は高見の話のつづいているあいだ、吸口をかみしめっていたから、そのときの答弁だけは上海にいる頃から何 けいこ ところが君、すっか ていた・ハットに火をつけた。「やつばり何だな、ロシャ人・ヘんも稽古をしておいたんだが、 あんしよう り暗誦している筈でも、いざとなるとまるで駄目だね、此 には貴様の面でも美少年に見えるのかな」 夏村の眼が急にいきいきと輝きだした。 処でしくじったら百年目だと思ったから、もう修辞も文法 「うん」 も飛び越えて、な単語だけに力を入れてしゃべりまく 高見は葉巻の灰をテープルの角で落しながら、 ってやったよ、ラデックは始めのうちは何だかわからんよ 「正面にいた髯だらけの男が立ちあがったよー何とも言うな顔をしていたが、だんだん、こう胸を乗りだしなが えない皹のある顔でね、唯今より日本人高見君、ほか一ら、黙 0 てきいていたよ」 ふしよう 名の人についての会議をひらきます。不肖ラデック、議長 としてこの会議を管理します、というのだ」 「ところで」 「そんな言葉がどうして、お前にハッキリわかった ? 」 高見が急に前かがみになって、にやりと笑ってみせた。 「英語だからわかるよ、 それに君、単語だけわかれば「頼みがあるんだがね ? 」 大体の見当はつくじゃないか」 「だれにーーー ? 」 「えらいよ、貴様は」 「むろん、君に」 夏村はテー・フルの上へ、乗りだすように上体をかがませ「おれに ? 」 一つハルビンまで行ってくれないかね ? 」 ていた。「ーー・おれだったら、今からお前を死刑にすると「そうだよ、 おい」 「何だって、 言われても平気でポカンとしているね」 のぞ いや、その場所へ臨めば、頭が不思議なほど活動し夏村の頬が充血したように赤くなった。「 ( ル・ヒンに行 はす