島田がいけないのだ。急に大人になって、豊かになり、 て、軸のはしを捻ると、コルクの独楽がうなりをつけて廻 ちなまぐさ 花が開いてしまうからだ。結婚前の、あの血腥いよろこびるのだ。櫓の上の光沢出しをした重い板の上で、独楽はく ばく娶ん が想われた。勝川は島田を眺めていると、漠然と苦しかつるくる廻った。 ) 0 「どうしてこううまく廻るのかしら」 「仕方ないのよ。伯母さんや伯父さんが結えと言うんだも遊びに気を奪われていても、広子の本能は島田のふくら たの かんざし みや、簪の振動を愉しんでいるようだった。勝川には島 広子自身も、やはり島田には困っている風だったが、宿田の方が気になっている。 、やおう の主人である伯父の言葉には応なかったのだ。十八の我「いい加減に帳場に戻っていないと、また怪しまれるよ」 儘も義理には勝てないのであろう。そう言って、広子は淋「あっ、そうだった」 笑って、脚をひっこめたが、広子はそのまま部屋を出る しい顔になった。 淋しいと言えば、勝川は広子の態度にいつにない感情的心にならなかったのであろう、窓に近付いた。小窓を開け なむらのあるのに気が付いていた。ながい間勝川の部屋にた。 すべ 坐りこんでいて、若い広子と若い勝川なので帳場で十分怪「あら、滑っているわ。危いーあっ、滑った、滑った」 くび しまれるのが判っていても、妙にやけになって腰をあげなと頸をすくめたり、伸ばしたりした。 かった。そうかと思うと、周囲に気がねして、用をすます誘われて、勝川も窓に近付いた。七つ位の男の子がスキ ゅううつ と、さっさと勝川の部屋から出ていった。出しぬけに憂鬱ーをつけて、ゆるい傾斜を滑っていた。朝方に降って、消 になったり、ものを言っても返事もしないのだ。また人がえかかる雪であったが、坂を利用して子供は無理に滑って くったく 、るのだ。都会の子供のようだった。危い腰つきで、滑り 違ったように朗かになったりした。何か胸に屈托があるよし うそ へた て うだった。相手が十八の、嘘をつくことの下手な年頃とは降りた。気がつくと、広子の肩にかけていた勝川の手を、 てのひら め 言え、勝川には何事も見透すことが出来なかった。一つに妙に汗ばんだ掌で広子は握っていた。二人の視野から滑 とう しばらく 染 る子供は疾に消えてしまったけれど、二人は少時そうして は、勝川の若さのせいもあった。 はず ふたうら 広子はサイダーの蓋裏にはめこんだコルクを外しにかか 日本髪には慣れていないのだろう、広子はびっちり襟を った。炬燵の網に乗せている勝川の脚に、広子はのんきに えり 足を重ねていた。外した丸いコルクにマッチの軸をさし合せていた。おくり襟になるよう習慣づけられるのは遠い こたっ がら わが さび ひね えり
いと拗ねてもみたくもなるのである。そのため、土岐は滋立てたように新しく耳についた。 あしおと 子が読めと送ってよこした小説の中から、滋子の決心の秘誰か階段を上って来た。元気のいい跫音なので、宿のも ひとみ 密を知ろうとして、一字一句にくいこむような瞳を当てがのとすぐ知れた。 っこ 0 「あら、起きてらしたの ? 」 すき 広子が寝巻の上に羽織をひっかけて現れた。若い女が隙 以下は、その小説である。 すあし 間だらけな寝巻を見せるなど目に強すぎる。素足の白くて カこんなな 小さい形が、勝川の眼を射るように映った。・ : 真夜中に、室内電話がけたたましく鳴った。床から出 まめかしさは勝川にだけ許している大胆さであった。炬燵 て、受話器を取ると、 に軽く膝をついて、 「勝川さん ? 」 「気味が悪いわ、泥棒じゃないか知ら」 広子の声が細くなって伝わって来た。帳場からである。 いくらか寝乱れた島田が、生きもののような強い艶を放 「今どこからかお帰りになったでしよう ? お出かけだっ まげ っていた。島田の髷が重いようであった。持てあましてい たのでしよう」 じようだん る。勝川もいまだに十八の広子が島田に結っているのに気 「冗談じゃない、僕は十二時前に寝ているよ」 しっと 「可怪しいわね。いま誰か玄関にはいって来たのよ。黙っ持が慣れないでいた。何故か意味のない嫉妬をしていた。 て階段を上っていったの。勝川さんじゃなかったの ? 」 鬢つけ油の平凡な匂いが、広子を急に大人に感じさせるの 「僕と違うよ」 ナいっそう勝川には悩ましいのである。 電話は切れた。勝川はすっかり目が醒めてしまった。誰「帳場でね。勝川さんじゃないかと言うのよ。だからお休 まぎ かえたいの知れない人間がこの深夜の温泉宿に紛れ込んだみ中と知ってたけど、電話をかけたの。ごめんなさい」そ あいにく て う言い乍ら、白い顔を櫓炬燵の上に横にして伏せて、光沢 というのである。生憎と三階建の勝川の泊っている新築に め は、一階に夫婦客が泊っているだけであった。二階は誰ものある眼差になった。「でも、それにかこつけて、こんな やぐらごたっ 藍いないのだ。三階の部屋で勝川は起き上り、櫓炬燵により真夜中にお部屋に来ることが出来たのよ」 かかった。静まりかえった廊下あたりに気味の悪い実体を宿の者の目を盗んで、一度でもよけい顔を見せに現われ よふけ 描いて、顔色の変って来るのも、夜更のせいかも知れなかる十八歳の努力はむき出しであった。勝川はいきなりこの ゅびそ カそうするには、島田 った。周囲に山をめぐらした、湯檜曽川の流れの音が洗い少女の肩が抱きしめたくなった。・ : びん なが まなざし つや
108 残しているのが、嘘のようであった。昨日まで溶けかねて「いつまたいらっしやるの」 しすく 「いつって、まだはっきり判らないよ。夏休みには大丈夫 いた屋根の雪の残りがきらきら光って、雫をたらしてい 来られると思うけど」 小窓を開けると、目の下の川ぶちに近い坂道を広子が歩「一年に一度しか逢えないなんて、まるで、たなばたさま いていた。若い男が一緒だった。直感から、その男が何かみたいね」 たびたび 「もっと度々来るようにするよ」 広子の辭のような気がした。重大な話を相談したあとの ような、立ち入 0 た一一人の狎れ狎れしさであ 0 た。昨日はそれには応えないで、広子は再びひとり思いにルるのだ あき そこで子供が滑っていたのだ。 った。今日はよほどどうかしていると、勝川は呆れた。い じらしかった。 「誰、いまさっき一緒に歩いていた男は ? 」 「死んでしまいたいんだけど」 広子が現れた時、勝川は何気なく訊いた。広子はぎよっ とした風だったが、 ひとり言のように言った。えつ、という驚きであった が、すぐに、そんな表情を現すのは軽率だと勝川は気がっ 「うちの親戚のひとよ」 いた。一年に一度位の恋に広子は辛抱することが出来ず、 「どうした、顔色が悪いね」 あせ やけつばちにそんな焦りの言葉に托するのであろうと思っ 「島田が痛いの。頭の皮がはがれるように痛いから」 苦しい言訳のようだった。勝川は拘らなか 0 た。 午後になると、広子は島田をほどいて現われた。何か言夜にはいると、広子はひっきりなしに勝川の部屋に現れ とげとげ いたそうな、そのため妙に空虚な顔をしていたが、 た。何かに抵抗しているような刺々しい態度だった。勝川 「勝川さん、もう東京へ帰ってくださらない ? 」 が気押されるほどの幼い爆発であった。勝川がうつかり広 藪から棒の言葉であった。 子の積極的な愛情に圧された顔付を見せると、 「どうして ? 何か帳場で言われたの。あんまり僕の部屋「薄情ね」 に入りびたっていたからだろう」 と言った。また、 くび 広子は頸をふった。訳は判らなかったが、女の何か一生「もう広子がいやになったの。どうして可愛がって下さら しばらく 懸命な気持だけは判った。広子は少時黙って炬燵に手を入ないの ? 」 こんな十八の、可哀そうなくらいの愛情につつき廻わさ れていたが、 やふ うそ いっしょ こたっ
きつけ はず 未来のようだった。何か調子外れでもあった。窮屈な着付「広子さんもいらっしゃいな」 おんなざもち 1 と島田のとり合わせが、無理やりに結婚を強いられている初めての客なので、妓は座持に困る風だったが、広子は 酒席の用意をととのえると、大人のように気を利かせて引 少女のような不安を感じさせた。 「ね、お願いだから、今夜芸者あそびして下さらない ? 」き去った。実際勝川も話に困った。広子のために聘んだ芸 者なので、それほど醜い妓ではなかったが、何の感情も起 「芸者あそび ? 」勝川は驚いた。 しり こたつやぐら らないのである。 広子は炬燵の櫓に軽く尻をつけていた。 「うちのひとたち、みんな勝川さんとあたしの仲を疑って炬燵を挾んで、黙っている時が多かった。何としても変 ちょうし ちょう いるの。だから、芸者あそびしてほしいのよ。呼んで頂なエ合である。広子が銚子のかわりを持ってはいって来る 。あたし帳場の方で遠慮してるわ。そしたら、みんなもと、妓の方が露骨にほっとするのだった。 新しく運ばれた銚子を眺めると、文字が書いてあった。 あたし達の仲をもう疑わなくなるでしよう」 土地の芸者は、宿にもはいる習慣だった。泊っていくの手に取ると、 * しきそく娶くう ーー色即是空 もあった。芸者あそびをすれば、自然勝川と広子の秘密は 勝川は笑い出した。 人目をごまかしてしまう訳だった。 「そしたら、このお部屋でゆっくりあそんでいても、誰も「あら、何が可笑しいの」広子も銚子をのぞきこんだ。 「この文字をごらんよ。僕はいま芸者あそびをしているん へんに疑わないでしよう ? 」 しゃれ だよ。これはうちの銚子だろう。洒落か知ら。里心がつく 「君のためなら、僕はあそんでもいいよ」 やぐらごたっ ね」 今度は櫓炬燵に両手をついて、広子はうっ向いた。 * はうた それから色即是空をそばに置いて、勝川は土地の端唄が 「こんな苦労をするのも : : : 」 そう言いかけて、広子はきっとした顔を上げた。うまく三味線にのるのを聞いていた。 言えないのであろうと、勝川はその先の言葉を腹の内で継「あたし、ひとっとやが弾けるのよ。三味線貸してね」 ぎ足した。広子は苦痛な顔になった。見守っていると、今広子が言った。妓が調子をなおしてから渡すと、広子は かっこう さお あわただ にも泣き出しそうに歪むのだ。すると、慌しく部屋を出棹にとりつくような恰好になった。ばつん、。ほっんと調子 かろ なぞ 外れのした唄が辛うじて判るのである。勝川は妓の三味線 ていった。あとに何かしら謎のようなものが残った。 より広子のあぶない爪弾きを心して聞いた。たどたどしい 夜、若い芸者があらわれた。 ゆが つめび
が崩れるだろう。そしてこの羽織がずり落ちたなら、案外おそれております故。 寝巻の上にまだ肩上げが残っているのではないかという気勝川さまのおいでになっているのが、夢ではないかしら と思います。おいでになっているんですわね。 がした。 広子より 「今度はあたしが怪しまれるといけないから、もう帰る 鉛筆書きの幼い文字が並んでいた。一カ所書きそこねて 勝川の顔からそっと離れた拍子に、広子は立ち上った。唾をつけて消したあとがあった。勝川は文字と同じような やぐら 広子の幼い技巧を思い出すと、何か可哀そうな魅力に息を そしてふところから一通の手紙を櫓にほうり出した。 つまらせるのである。勝川はこれで三度目の旅行であっ 「さっき寝る時、書いたのよ」 これは、広子の癖だった。ロでうまく言えないことがあた。広子はその初めに逢った時から互を許し合った。ゆき ずりの温泉宿の恋として片付けてしまうには、勝川は深く ると、広子は手紙に書いた。 あしおと 心を惹かれていた。この宿に来る度に、気持は高まった。 勝川は広子の跫音が消えていくと、封を切った。 夜が明けると、上越国境の群山がくつぎりと雪をいただ なんだか、うちにおいでになっているのが夢のよう ゅびそ いて姿を見せた。夜の間は湯檜曽川の音が耳について騒々 な気がいたします。不思議に思われます。昨夜、 今日まで一時も、心にひまさえあれば勝川さまのことが胸しいのだが、昼間はあたりに目が奪われて、空が清く、 に浮んでおりましたの。忘れようと努めませんし、また忘の音さえなければ静寂の底にいるのがよく判った。ループ はる れていたこともなかったと思います。この頃ではあれきり式のトンネルをくぐる汽車の姿も、遙か遠い距離に眺めら おいでにならないのだと思う方が強くなっていました。おれた。 手紙など、出すことも出来ませんし、そんなにうぬ・ほれて「昨夜の怪しいひとね、お客さんだったのよ。土地の芸者 いるのも恥しく思いました。おいでにならなければ、それ屋にいっていらしたんですって」 やぐらごたっ 広子が櫓炬燵の火をつぎ足しに来た。自分でも結い慣れ だけ自分が幸せのように考えておりました。悪い子になり たくないと思って。勝川さま、どんなにか心では浮気な娘ない前髪のふくらみをつい忘れて櫓にぶつつけた。 とお笑いになっていらっしやることでしようね。でも、勝「どうして島田なんかに結うの ? 広ちゃんはやつばり洗 川さま以外に広子は心をうっしたおぼえはありません。そ髪で、簡単に束ねている方がよく似合うよ。若し結うのだ ももわれ れだけでも、自分を慰めています。いやな評判の立つのをつたら、桃割だ」 つば たび たかい
糸の振動が、何か哀れであった。両親を疾に失って、小さ「お床、のべましようね」 い時からこの旅館にひきとられている広子の哀れな境遇床は櫓炬燵にくつつけて、敷かれた。掛蒲団をひろげて が、三筋の糸にのってふるえて響いて来るようだった。勝のべる時である。 めがしら 「毎日あたし、勝川さんと一緒にいるのよ」 日はうっすらと目頭を熱くした。 その意味が勝川には判らなかった。 妓は十一時に帰っていった。 「野球界の十月号に勝川さんの写真が出ているでしよう。 あと片付に広子ははいって来たが、 「心配で心配で、とても帳場でじっとしていられなかったオリンビックの有望な幅飛びの選手として、大きく写って るでしよう。それがあたしの蒲団の中にはいっているの。 のよ」 蒲団をあげる時は、その中へ野球界を入れてたたむのよ。 「何が心配だったの」 だから毎日一緒にいるでしよう ? 」 「だって帳場からこの部屋は随分はなれているでしよう。 勝川さんがへんなことを芸者に言うんじゃないかと思っ勝川は妙に眩しいのだった。何でもないように報告する くちふり 広子のロ吻に気押されて、むしろ憎い気持がした。 こざら ひろぶた よいせん 広子は銚子や盃洗や通しものの小皿をのせた広蓋を両手 「馬鹿だな。君のために聘んだんだよ」 こうふん 「帳場でね、番頭さんが勝川さんもとうとう辛抱出来なくで捧げたが、昻奮のあとの軽い疲れには重すぎる風であっ こ 0 なったのだなと言うのよ。あたしもそうだろうと笑ってい たんだけど、その内に心配になってきたの。ここへ来るお「明日の朝になってから運ぶわ」 客さんは大握芸者あそびしていくのよ。芸者は泊っていく部屋の隅に広蓋をおいた。 のよ。芸者の方から誘惑しないとも限らないでしよう。勝「おやすみなさい」 て と廊下に出たが、そこから、 川さんなら随分危いもんだわ。あたし心配になったから、 め 「今度ははっきり勝川さんの顔を覚えたわ。もう大丈夫 二階の階段で様子をうかがっていたのよ」 染 それを少しも汚い行為と思っていない顔付であった。勝よ。帳場にいても、すぐ思い出せるの。この前まではいく 川は炬燵の上の小さい手を握ると、片手でその手をびしやら思い出そうとしても思い出せなかったのよ」 たた りと叩いた。そうするより他に気持の現し方が出来なかっ真面目な顔でそう言った。 ひょり 翌日は、春のような温い日和だった。国境の山々に雪を こ 0 まぶ いっしょ
でいたい年頃ですわね。無理もありませんわ」 れて、びつくりしてしまう自分が勝川は可笑しかった。 次の日、広子は見事な島田に結って来た。今日までの内勝川は泣き出しそうな顔になって、妓の説明に頷いてみ せた。 で一番よく似合っていた。 「やっと髪が馴れてぎたんだね。とても広ちゃんによく似「二三日はまだご滞在でしよう ? 」 それにも無意識に頷いた。 合うよ」 褒められて、広子も重い頭をかしげるようにして晴れ晴「また聘んで下さいね」 れと自足していた。そんな時も、広子は柔かい重味を素直ひとりになると、勝川は俯向けに倒れた。何か夢のよう であった。かあっと燃え上った火のかたまりを抱いている に沈めて来た。 四日目の夜であった。どこかの部屋で芸者をあげて騒い思いがした。夢の続きに似ていた。倒れていると、別館の ゅびそ 騒ぎが手にとるように聞えてぎた。湯檜曽川の流れもぐっ でいた。勝川が炬燵にはいっていると、 と近く耳についた。 「今晩は」 やぐら なみだ 起き上ると、櫓の板をカまかせに抱きしめた。泪がにじ この前に聘んだ妓が顔を出した。 「いま別館のお座敷に聘ばれてますの。あなたがまだいらみ出た。それにしても、広子を少しも恨む気持にならない 自分が、我乍ら意外であった。逢染めの初めからいずれは っしやると聞いたので」 あきら 境遇や家庭の事情で別れるものと諦めていた下心が、こん 「そう ? 別館は騷ぎなんだね」 「おめでたですのよ」 な場合になっても裏切られた男の逆上を許さないのか、そ う思った。逆上してみせるには、あまりに広子は可哀そう 「おめでたって、何、結婚式でもあるの」 な女だった。 「広子さんの結婚式ですわ」 て あっと思った。 落着くために、勝川はをくわえた。それでも十分でな め 「本当 ? 広ちゃんはそんな気ぶりを塵も見せなか 0 た かったので、部屋の隅へいって水をのんだ。 し、く 新館は新しく設計されているので、湯殿も便利至極に出 藍よ」噛みつくように言った。 「広子さんはどうやらいやいやの結婚のようすでしたわ。来ていた。四日間勝川は一度も帳場にも、別館にも出向か 8 何といっても、義理には勝てないのでしよう。お婿さんはないで済んだ。用事があれば、室内電話で足りた。それに おかみさんの身寄だそうです。十八なら、まだまだあそん受持の女中が広子になっていたので、広子が口をふさいで おんな むこ なが うつむ
110 いる以上、帳場あたりの結婚支度に気が付かなかったのは子が進んで結婚するのではないという確信がつけられるの 当然である。 で、いまそれを利己的に喜ぶより仕方がなかった。 わがまま いくらか気持が落着いて来ると、広子のこの二三日のむ いま更広子を責めるのは卑怯だぞ。我儘すぎる : ・ らの多い言葉っきや動作がはっきりと判って来た。勝川は ゆきずりの恋と思えば、旅の恋だ、この苦痛を軽く見す 少しも慍る気持になれなかった。三十女のようにやむを得ごすことも出来るのだ。しかし行きずりの恋にしてしまう どきよう ない義理づくしの結婚に度胸をつけて、さて恋人の方は器には、あまり心にきざみつけられた生ま生ましいものがあ 用に捌くことが出来なかったのであろう。そんな芸当は広った。青春の思い出としてこの恋が残るものとするなら、 がら 子の柄ではない広子はとても自分の口からは何事も言えこれ以上気の利いた辛辣な結末は他にないと皮肉な気もし なかったのであろう。もうどうにでもなれと、子供のよう に自分は手を拱いて、運命の流れに身をのせていたのであ勝川は落着いていられる自分をもっとよく確めるため ろう。強いて帰ってくれとも、そのことを押し通せなかつに、湯殿へ降りていった。そこには誰もいなかった。丸い た広子の心根を思うと、勝川はすまないと思った。昨日の湯船のまん中に石が積みかさねてあり、そこから熱い湯が 内に自分がこの宿を引き上げてさえおれば、広子は軽い気あふれて出ていた。透きとおる湯の中で伸び伸びとからだ 持で結婚することも出来たのである。それが判らなかったを横にした。広子の身に起っている結婚式が嘘のようであ った。それが嘘なら、こうして湯面にぼっかりと頭だけ出 のだ、昨日の内に帰らないで悪いことをしている自分だ カこ、れ・か と、そんな考え方をする苦痛の方が強くて、烈しかった。して済ましていられるのも、普通でなかった。・ : 何故自分は広子の島田髪にそれが嗅ぎつけなかった実感なのだから、何とも他に説明のしようがない。 あおむ 湯の疲れから勝川は炬燵にはいり、仰向けに寝転がっ のか。平凡な結婚準備の髪ではなかったのか。 すべてが偶然であった。自分の三度目の訪れが広子の結た。永い間・ほんやりとそうしていた。 「お床のべましようか」 婚後であったなら、こんな思いはしないで済んだろうと思 宿の男衆がはいって来た。耳を澄ますと、別館の方の騒 う。選りに選って広子の結婚の迫っている時に現れたのが ゅびそ もちろん 皮肉すぎるのである。勿論広子の責任ではない。ただ偶然ぎはすでに消えていて、湯檜曽川の音だけが聞えた。何か ひど が自分をこんな酷い位置におとしてしまったのだと、その夢が醒めたようである。が勝川は広子でない男衆が床を敷 いているのを眺めて、ぶるんと一つ頭を振った。 廻り合わせを恨むより他はないのである。しかし、当の広 こまわ さら しんらっ こたっ うそ
諦めて、自分からすすんで一生を犠牲にしようと極めた滋 「もう時間はおそいんだね」 たくま 子の逞しい気持が今更のようによく判った。小説の中の女 「十一一時すぎです」 後架の階段を勝川は降りていった。廊下はひっそりとし主人公は自分の恋情を少しも文字には現していないのだけ ていた。あたりのあかりも水の中のように、ひやりとしてれど文字にあらわす以上に切ない、生ま生ましい表現で迫 るのである。滋子はくどくどと泣きごとは言わなかった。 静かであった。 言わないかわりに小説の女主人公をかりて、自分の苦しみ 今夜は眠れないかも知れないそ。 たくら を現そうと謀んだ滋子のやり方につき当ると、 一階目の階段を降り切って後架に曲る廊下まで来ると、 ずる 滋子は狡いな。 ばあっと目の前を赤いものがひるがえりさえ切った。い がけかった。勝川は軽く息をとめて、立ちどまった。 責めるのではない。その狡さも滋子としては精一杯の芸 であると痛いくらいに判るのだ。滋子の注文もしんみりと 「あっ」 じゅばんそで 広子が赤い長襦袢の袖で顔をかくして、からだを曲げて理解出来た。 しかし、土岐はいまだに聞き分けの悪い子供のように、 通りすぎた。妙に大人びた姿で、広子のようでなかった。 すあし 素足の足裏を見せて、駈けていくのだ。いたずらを見付けいやだ、いやだ、とかぶりを振るのである。小説の男主人 られて逃げていく子供のようであった。足裏の大きさがび公のように器用に恋情に諦めがつけられず、自分には無理 よふけ だと思った。諦めてくれと言葉を送ってよこす滋子の、疲 ひとみ つくりするほど幼い明るさであ 0 た。勝川は夜更の廊圷 で、時々泊っていく芸者のなまめかしい姿にぶつかって吃れたような大きな瞳を土岐は頑是ない子供のように両手で とっさ 驚りするのだが、今も咄嗟にそのようなただ皮膚に来る驚押しのけるのである。 きであった。 土岐は改めて花嫁友裳をつけた滋子の写真を取りあげ からだ ちなまぐさ たた て があんと叩きのめされて、何とも言いようのない血腥いた。恋人に向って、嫁いでいく軅の一番血腥い状態をわざ め 苦悩に取りつかれてしまったのは、三四歩後架の方へ歩きわざ写真に撮って送りつけるなど、普通な神経ではちょっ 染 と考えられないことである。土岐は一枚の花嫁写真から 藍出してからであった。 うず おびただ 夥しい言葉を感じた。言葉は一つ一つ土岐の胸で重く疼 いて沈むのである。土岐は耐らなくなって、仰向けに転が 小説はそこで終っていた。土岐門治は涙をためて、この 小説を読んでほしいという滋子の心持と向き合った。恋をつた。 いまさら 、しよう とっ たま がん娶 あおむ
現代日本の文学 7 丹羽文雄集 三川井伊 北尾奥足 崎野立集端上藤修 + 杜秀健巻委紀康 夫成靖整 聖夫樹男 学習研究社