それも仕方がなかったよ。おまえの代になったのだ、本山庫裡のあった半分がとられました。兄さんがよくのぼって を軽視しろとはいわないまでも、末寺のあり方をもっと有いた桜の木のところは、 いまでは国道になっております」 効につかうことだ。保育園はいいね。日本中の寺院を保育桜の木にのぼり、夜の茶席をのぞいていた。そで子がし がらん けん 園にすればいいんだ。伽藍のもちぐされじゃなくなるよ」 のんでぎた淋しい裏道は、五十間の国道になっていた。・ハ 設計図をもち出して、泗朗は説明をはじめた。それだけスやトラックが、かたまらない地面の砂けむりをたてて、 しっそう ではおさまらず、実地検分ということになった。鈴鹿は興疾走した。 奮した。背広に下駄をつつかけて外に出たが、 「ああ」 「あれが墓地か」 と、鈴鹿が声にだした。土台石のかこいが高くて、今ま 墓地がむき出しになっていた。墓地をとりかこんでいたでのぞけなかったのだ。土台石と土台石の間には、麦が一 黒板塀も、本堂も、生垣も消えていた。いちばん手前の墓尺ほどにのびていた。その青さが、目がさめるように感じ 石に、仏法寺代々之墓ときざまれていた。鈴鹿は墓石をなられた。麦は白い地面に生えていた。百年の歳月陽の目を びりゅうし かえ でた。猛火になめられた墓石は、肌が焼けて変色してい みたことのない土は、微粒子に還っているらしかった。本 いしずえ た。あかぎれのように、ひび割れていた。本堂の礎や土堂の床下の土であった。百年目に床下の土は陽をあびた。 台石だけがのこされていた。仏法寺の本堂がそうして建つおずおずと、陽をあびていた。麦はまるで土でないところ ていたとおりに礎と土台石は、その形をとどめていた。百につきささったように生えていた。白っ・ほい、こまかい、 年の余も陽をみない土台石は、コンクリートとまちがいそやさしい女性的な土であった。白い土と青い麦のあざやか しやく うであった。土台石は二尺にちかい高さをもっていた。塀な対照が、仏法寺の未来を感じさせた。仏法寺は素手で立 のようにかこまれていた。鈴鹿の目は、むかしのおもかげちあがらねばならなかった。本堂床下の土は、青麦をそだ をさがしもとめた。庫裡の位置もわからなかった。中庭のてるなど思いもよらなかったであろう。 見当もっかなかった。コンクリート でつくられた便所がの 「おまえが麦をまいたのか」 こっていた。見おばえのある樹木は、一本もなかった。か 泗朗は微笑で、うなずいた。 青 れはまったく知らない場所に案内された感じであった。 「国道ができるので、敷地の三分の一が削りとられまし た。せまくなりました。うら庭の大部分が削られました。
った。私はふつうの家の子供が家出するようにしか自分のくれたふうである。九年目に私は故郷の寺を訪ねた。夜に 家出を感じなかった。 はいってからである。檀家の目をおそれる気持はあったの 家出したとわかると、さっそく市川三吉は岐阜にいっ だ。ひさしぶりに逢う異母弟妹と話を交すより先に、本堂 た。私の母が当時岐阜に住んでいたからである。母は私のに上った。自分の気持から進んで本堂に上った経験はかっ 無謀を悲しんだようだ。市川三吉はあきらめて帰 0 た。榔てなか 0 た。うす暗い燈がともっていた。かえって本堂の 徒会議がひらかれ、私に見切りをつけ、神宮皇学館の一年闇のありかを教えるような燈の光であった。手を合わせ、 生である弟が呼びもどされた。本山の経営する勧学院にい頭を垂れた。私の行動を一切見とおしにしていた仏の前で はいちゃく れた。家出と同時に私の僧籍はとりあげられ、廃嫡処分をは虚心とならざるをえなかった。私は詫びの思いでいつば かゆ うけた。いたくも痒くもなかった。それで刑が決定したと いだった。さまざまな感情が去来した。それはまた快い感 すればやすいものだという考えだった。私は父に対してま傷でもあった。仏に向っては虚心となりえた私だったが、 だあまったれたわがままをはたらいていた。わがままの結当時の父のことにはそれほど頭が向かなかった。私が本堂 果であり、私の行為が法律にふれるとは思わなかった。家からもどってくるのがおそいので、弟がようすをみにきた。 出当時は女の家にころがりこんでいたが、やはり女とはう「何もいわない先に、あの子はまっさきに本堂にいってく まくいかないことがわかった。一年あまりもたもたとしてれた」 いたが、私は強引に身をひいた。ようやく自分の筆で食べ と、父は弟たちに話していたそうである。私は父によろ ていけるようになっていた。故郷のことは思い出す心の余こんでもらうために演技したのではなかった。 裕がなか 0 た。弟があとを継ぎ、父が隠居をしたというこ戦争で本堂も庫裡も全焼した。父はすでに亡くなってい とを風のたよりにきいた。当然私が継ぐべき寺を弟にくれた。本堂再建ということになり、その寄付の大口依頼を世 てやったのだという気持が私にあった。 話方が東京の私のところにもってきた。私は求められるだ 情 家出後七年目に、父が上京をした。一家をかまえているけの金額を承知し、先ず手付のように五十万円の小切手を かんたい 有私は、昔のことをわすれたように父を歓待した。滞在中、わたした。金でつぐなえるのなら安いことだという気持が むく 父はいかにもうれしそうであった。すこしでも父に報いるあった。焼けた市内の寺院の中では、崇顕寺が最初の再建 ことができるようになった自分をよろこんだ。父は家出当だった。寄付の額では私が筆頭であった。弟や檀徒は感謝 時のことをおくびにも出さなかった。私の忘却を手伝ってをしたが、それをうける資格のない私はくすぐったい思い
で、縄がきれた」 た。一斗釜が三つ出ならぶ黒いタイル張りの窯のまえに、 梯子が大ゆれにゆれたが、鈴鹿はすでに梯子の恐怖からおまき婆さんはしやがみこんで、薪をくべていた。鈴鹿は 解放されていた。瓦屋が梯子のまん中のところで大胆にゆどこにいたらよいのか。土間をあるいたり、世話方のたま られて御院主の不注意を人々に説明をした。責任からのが りの間の十八畳敷の部屋にすわってみたりするが、心ぼそ れようとした。梯子をすこしもおそれていない瓦屋を鈴鹿 いだけであった。窯の火が、おまき婆さんの背後の壁にう は見あげた。 つっていた。おまき婆さんのかおが、赤くぬったようにみ 戸板にのせられて、如哉は山門を出てい 0 た。如哉はうえた。婆さんというのは気のどくであり、五十歳まえであ なっていた。戸板をかついだ檀徒の世話方や、つきそいのった。農家の妻女だが、田圃には出ることはなくて、せい 世話方は黙々としてあるいた。仏法寺の住職ともあろうもぜいうちのまえの畑に出るくらいである。つるりとした白 のが、瓦屋の仕事ぶりを見物に、自分も瓦屋同様に屋根のい大柄なかお立ちは、ととのっていた。若いころの美貌 上で身軽にふるまおうとしたことが、軽率であったと咎めは、まだ目もとに十分のこっていた。 だてしたところで、どうにもならなかった。人々はあきら「坊ちゃん、おみ堂のおっとめはすんだかな」おまき婆さ めていた。はじめて人生の舞台にひきだされたように鈴鹿んが窯のまえから、中腰になって声をかけた。 * ないぶつ は、この椿事をどう判断してよいかわからなか 0 た。今ま「お内仏ならええけど、おみ堂はこわい」 での経験とは似もっかない、あたらしい体験であ 0 た。か「それでもご院さんのかわりに、たれかおまいりをせん れの心は、興奮にふるえていた。いきなりかおをなぐりつと、あかんでな」 けられたような打撃であ 0 たが、それが今後どう発展をす本堂は戸じまりもしてなか 0 た。すでに夜の闇のなかに しんらんあみだによらいずし とびら るのかわからなかった。かれは父の死を予感しなかった。 とじこめられていた。親鸞と阿弥陀如来の厨子も、扉をし びんしよう 麦 墜落と死をむすびつけるほど、かれの心は敏捷に、的確にめてなか 0 た。勝手知 0 たる本堂とはいえ、ま 0 くらがり うごきだしていなかった。 のなかにはいっていく勇気は、かれになかった。闇をおそ 青その日は、たちまち夜になった。秋の日が短いというのれていることを、おまき婆さんがみとめてくれそうにない ではなか 0 た。義母は病院にい 0 た。ひろい庫裡は、静まことが、はら立たしか 0 た。本堂には、小さな電燈が二つ りかえっていた。留守番に、女人講のおまき婆さんがやっともるようになっていた。本堂に通じる下廊下のはしに、 いんえい てきた。おまき婆さんは、足おとをたてずに土間をある、 しスイッチがあった。うすくらい灯が本堂につくりだす陰翳 おおがら いっとがま かまど
きんく は、いっそう不気味であ 0 た。金箔のはげおちた太い柱、はいけないことにされていた。まして厨子に手をかけるな ワ 1 ないじん おくぶかい厨子、線香のけむりでくろずんでしま 0 た内陣ど、も 0 てのほかであった。おまき婆さんは、このおそろ いんえい * りんとうろうそくたて の天井、作者不明の古い仏像の陰翳、輪燈、蠍燭立、花立しさを申訳するように、念仏をとなえづめであ 0 た。今夜 * こうもん のどぎつい影、ひっそりとした経机、ことに後門からはい は、特別であった。住職が屋根から落ちたのである。おま っていく内陣裏手は、暗闇が凝結していた。そこは昼間でき婆さんは、雨戸や、大扉をしめてあるいた。 も、くらい廊下であった。わが家でありながら、鈴鹿はふ義母は、その夜かえらなかった。 しんちゅう * たかっき だんから、できるだけそこにははいらないことにして 毎朝、鈴鹿は真鍮の高坏のふれあう音で目をさました。 かけあし た。余儀なくとおるときには、駈足になった。湿 0 た闇が御仏飯を、父が本堂にはこぶ音であった。早おきの父親 よどんでいた。陽の目をみたことのない病人の肌を連想さは、山門をあけ、本堂の扉をあけ、家中の雨戸をあけた。 せた。しかも、この廊下は壁をへだてて墓地に接してい そのあいだに、義母がごはんをたき、御仏飯をつくった。 た。くら闇にしめった冷たさをお・ほえるのも、あるいは科すこし深目の茶のみ茶碗にごはんをいれて、小さい真鍮の 学的に説明ができるかも知れない。鈴鹿を気味わるがらせ高坏にさかさに伏せると、飯の山ができた。それが、九個 る理由には、いま一つあ 0 た。廊下のはしには六畳の畳じあ 0 た。三個は、御内仏にそなえるのであるが、六個の中 きの部屋があり、そこには葬式につかう道具がしまわれてにも、大小の区別があ 0 た。いちばん大きな真鍮の台は、 いた。火葬場まではこばない造花や、棺桶をのせる四つ手阿弥陀如来にそなえる。次の大きいのは、親鸞と真慧の画 きみようじんじっぽうむげこうによらい の台などがしまわれていた。 ばあ 像にそなえ、あとの画仏や、帰命尽十方と無碍光如来の一一 おまき婆さんが、本堂に出向いた。鈴鹿は庫裡から下廊本の軸には、小さい御仏飯がそなえられた。六個の御仏飯 下にわたる柱のかげから、うかが 0 た。おまき婆さんは電を木箱に入れて、本堂にはこぶとき、真鍮と真鍮の仏飯台 こっとう 燈をつけたひろい本堂に、とりのこされたように、つくね がっしよう がふれあって鳴った。何十年もっかい古した木箱は、骨董 んとすわって、合掌をしていた。声はきこえなか 0 た。か品のようにな 0 ていた。真宗高田派では、勤式後はすぐさ れは、自分がまだまだ子供であることを感じた。おまき婆げることになっていた。 さんは、おそれていない。鈴鹿より勇気のあることを、誇目をさました鈴鹿は、かおをあらいに土間をわたりなが 示していなか 0 た。やがて、おまき婆さんは内陣に上 0 てら、たれもいないのに気がついた。真鍮の仏飯台を鳴らし 厨子をしめた。僧籍にない人間は、むやみと内陣に上 0 てたのが、おまき婆さんであることに気がついた。かれは、 こ ごはんさん
文雄筆「崇顯精舎」。生家崇顕寺本堂にかかげられている
261 青麦 はからだがふるえた。からだ中の正常な感覚をうしないそその声が、梅原さんであった。梅原さんがいっ来ていた うえ うになった。熱くなった。冷たく凍りついてしまったようのか、鈴鹿は気がっかなかった。いそがしい法会の夜にお でもあった。事情を知るには、紆余も曲折もなかった。た茶でもあるまい。梅原さんは、庫裡にはいってきたもの だごとではなかった。容易ならぬことが、御内仏のくらが か。法会とは知らなかったのか。そうは考えられなかっ えいたいぎようせまい りで大胆に行われていた。その気配をきいていると、たが た。永代経施米袋は、梅原さんの家にもとどけられてい あえ いに最後の力をしぼって、相手をころそうと焦り、喘いでた。梅原さんは、本堂にまいったのではあるまいか。それ いるようであった。大きな行動や、大きな叫びは出しつくを、如哉が発見した。しかし、如哉が本堂にいる梅原さん してしまい、のこりのカでたがいに争っているようであつをどうして呼んだものか。如哉自身が出向いたのか。 ま、つ C ′ / 、 やがて、ふたりは御内仏の間を出ていくようすであっ た。殺気だっているようでもあった。たしかにある殺戮が おこなわれているのだが、生命に別条のないやり方で、争た。鈴鹿は襖のところに立っていた。世話方のひとりが、 とおりすぎた。梅原さんの足音が、はっきりときこえた。 っているらしかった。 鈴鹿はおどろいた。如哉の居間とたまりの間は、襖でヘ如哉の居間からは、話声がなかった。 だたっていた。御内仏の間のとなりは四畳半であり、法衣すぐに、たれかがこちらへ向けてやってくるようすであ たんす をしまっておく簟笥があり、そこの戸はあいていた。たまった。女の足音であった。梅原さんが御内仏の間をとお り、お念仏の間にはいった。玄関とのさかいの襖をあけ りには、女人講中がいた。女人講の妻女や義母の絹が、は なりわん たらいていた。おまき婆さんは、きれいになった黒塗の椀た。そのとき鈴鹿は、勉強室にかくれていた。梅原さんは を紙でつつみ、一つ一つ慎重に箱に入れていた。たまりの玄関の間をいそいでとおりぬけると、内玄関に下りた。た 日 れにもあいさつをのこさず、重い表戸をあけたようすであ 、台所、土間の騒みしさは、御内仏の間にながれてい けいだい た。みんなが忙しがっていた。だれも、如哉の居間や、御った。梅原さんは本堂に向わず、境内をあるいていった。 内仏の間や、如哉に客のあることなど気にしていなかっ鈴鹿はあかりを消して、のぞいた。法会のいとなまれる夜 ちょうちん は、境内のあちらこちらに、提灯がともされていた。梅原 さんの姿が、山門にむかっていた。かの女は、いそいでい 如哉がはっきりとことばを出した。すると、女の声で、 た。ふりかえらなかった。右手の本堂では説教がつづけら 「もっております」 そういうのが、聞えた。 れていたが、梅原さんの耳にははいらない風である。かの こ 0 こお あ
224 ぶさに沙汰をいたし、主君に忠節をなし父母に孝行をつくの手で菓子をつつんで、ふろしきにしまうまでの精神には ぼさつならび すべし。出世の法には、諸仏菩薩並に諸神等をもかろしめなれなかった。そうしてもよかったのである。檀徒の手間 ひう うんぬん がはぶけることであった。 ず他宗他門を誹謗せしむることなかれ、云々」 くろ 王法といい、公方、国主地頭というものが、鈴鹿にはび「暗うならん内に、おみ堂のおっとめをしておくとええ んと来なか 0 た。これをよむたびに鈴鹿は、檀徒というもな、蝣ちゃん」 のは、いたるところであたまを下げなければならないのだ と、おまき婆さんが檀徒まいりからかえってきた鈴鹿を と感じた。忍耐と勤勉だけを、檀徒はもとめられていた。むかえて言った。・ほっちゃんというのでなく、・ほうちゃん 高田派本山専修寺のある時代の宗主であ 0 た大僧正堯秀と発音をした。鈴鹿はたれにも、そう呼ばれた。ちゃん のつくったものであるということを、知らなかった。忍耐の意味と、坊主の意味がいっしょになっていた。この呼び や勤勉のなかのごまかしには気がっかず、かれに必要なこ方が、かれには気にいらなかった。この呼び方をされる ろうそく とは、あやまちなく読むことであった。終ると、そそくさと、蝋燭がとけて流れて、まったく別のかたまりに変って と経文をふろしきにしまった。仏壇をうしろにしてすわりしまうように自分の運命がのそまない形に変えられる気が なおすと、丸盆の上に、白紙につつんだお布がの 0 てい した。反抗的に、仏間にはいって、法衣をぬぎはじめた。 た。中身はたいてい、三十銭であった。一度しまったふろ八畳の仏間であり、一方に御内仏の仏壇がはめこまれてい しきをあけて、かれはお布施を経文の上に重ねて、つつみて、反対側には法衣をかける衣桁があった。この部屋に なおす。すなおな気もちになれなかった。一種の恥しさをは、電燈がなかった。すると突然、自分がいまこの寺の主 感じた。ほどこされているという屈辱感であった。別のお人であり、父は病院にいる、義母ももどってはいないの ごんじき 盆には餅菓子が出された。檀徒は気をきかせて、かれのまだ、本堂の勤式を一日も欠かすわけにはいかないという責 えで菓子を白紙につつんで渡した。すると、鈴鹿は子供に任を感じた。かれは本堂に出向いた。下廊下から本堂に上 かえ 還った。大人の仕事を無事につとめて、その努力をほめらるには、二段の階段があった。元気よく上った。かれはお れた子供の感情になった。金銭よりも英子をもらう方が、 それないで、たれもいない本堂にはいっていった。かれ ばあ ふさわしかった。あるとき、お婆さんが菓子をつつんで渡は、どこでも通用する、ひとかどの大人になった気がし * よま にしび すのをわすれていた。鈴鹿は気のつかぬふりをして、土間 た。西陽が障子にあたっていた。かれは余間をななめにあ こうもん しやく ないじん におりた。あわててお婆さんがつつんで差しだした。自分るいて、内陣にはいった。そこから幅二尺ほどの後門をぬ
しるとうふ いっとま のうちから仏法寺の庫裡は賑やかであった。一斗釜を洗う塗にかぎられていた。みそ椀は、白みその汁に豆腐がきざ かまど もの、窯を掃除するもの、米をとぐもの、野菜をきざむもみこんであった。ひりようず ( がんもどき ) をうす味に煮 の、そのあいだにはいって義母の絹は、汗をかいた。絹はたのが一個、ひろ椀の底をふさいでいた。こんにやくのご まあえ、野菜の煮つけ、たくわん二タ切れ、ごはんもまっ 泗朗のあとに伊勢子を生んだが、めきめきと肥っていた。 すぐに息ぎれがした。例によりおまき婆さんは、総指揮官黒のふかい木椀にもられた。それが十一時ごろから、午後 娶んぬぐ の二時すぎまでつづいた。いれ代り立ち代り、檀徒はご馳 のように、自分は直接炊事を手つだわず、膳を拭ったり、 走になりにきた。なかには食べのこしを持ってかえるのも 箸をそろえたりしていた。 しようじん 法要のはじまる一二日前に、施米袋のとどけられることあった。庫裡でたべる精進料理は、かれらにはたのしい風 もあった。米袋は、本堂の余間の細長い机につみかさねらであった。その中で、とくにうまいものがあるとすれば、 れた。世話方が、半紙をよこに六枚に切ったものに、寄進大きな釜で炊くごはんの味ぐらいであった。 そのあと始末が、また大変であった。黒塗りの器物をあ 者の名前をかいて、本堂のなげしに貼りだした。 らって、拭って、一つ一つ紙につつまねばならなかった。 袋一一ッ木内テッ殿 半年後にまたっかうために、大きな箱におさめられた。た 袋一ッ遠園兵吉殿 まりの間と、板張りの間と、土間と、井戸端はごったがえ 金三十銭筧タケ殿 うえ していた。夜のくるのも早かった。夕食となれば、一日っ 法会中、寄進者の名前はなげしを飾っていた。第一日目 めている世話方に食事をださねばならなかった。女人講の に、米袋はどっとあつまった。余間の机には、うずたかく 重ねられた。これが、春秋一一回あった。仏法寺の一年分の自分たちも、食べなければならなかった。その支度があ り、そのあと始末があった。 食料になった。鈴鹿はうちのごはんを、うまいと思ったこ ごんじき とがなかった。古い米、あたらしい米、虫のくっている米本堂では、夜の勤式が終った。式のあとは、説教がはじ が混っているので、秋にあつまる米にしても当てにはならまるのである。世話方達は本堂につめていたが、庫裡のた そうぞう よ、つこ 0 まりや、土間や井戸端は、昼間のつづきの騒々しさがあっ 十ー、カ十ー もそう だんと 法会第一日の昼は、米袋をもってくる檀徒をご馳走するた。鈴鹿は夜の勤式のとき、内陣にすわっていた。如哉を かんむりようじゅきよう 習慣であった。かれらは、玄関とお念仏の間をぶちぬいた導師として仏説観無量寿経をよんだが、半分ぐらいしかよ ど強 - よう 広間にすわった。黒塗りの足つき膳にむかった。器物は黒めなかった。如哉の読経は、早かった。鈴鹿はよむことに慣 しろう かけい ふと わん
のが、自然の現象の一つのように考えられた。と言って、 「大きな地震やわ。もう大丈夫かしら」 しゆくえん 七十年にちかい自分の生涯のできごとまで、宿縁であった仏法寺の庫裡は崩れなかったが、屋根瓦は半分以上落ち といいきって、それですませる気に如哉はなれなかった。 た。それでもまだ、ときどき揺れた。下から重くつき上げ そのことばには、何となく便宜的な計量が感じられた。 た風な揺れ方にくらべると、あとのは横にゆれた。 「空がみえるわ」 仏間にはいった伊勢子が叫んだ。庫裡の屋根瓦がす・ヘり によざい 如哉はそのとき、お念仏の間の廊下に立っていた。足も落ちて、板ぶきのすきまから空の明るさがもれていた。如 とから、ふいにもち上げられた。いままで静まりかえって哉も仏間にはいって、天井を仰いだ。 いた手洗石の水が、大きくゆれた。本堂の屋根から、重量 「こうしてみると、ここの天井に節穴がたくさんあったこ 感のある騒音がすべりおちた。手洗鉢の水は、外にあふれとが、いまやっとわかったわな」 た。気がついたとき、如哉はすわりこんで、両手を腰のま「のんきなこというとるお父さん。この調子では、倒れた わりについていた。中庭の樹木をゆすぶって、ものすごい家も、きっと多いわ。戦争最中で、建築材料もすくなくな 砂煙が横なぐりに襲った。本堂が崩れたかと思った。四方っとるのに、大変やわ」 がわら 寄せ棟の東面の、屋根瓦が全部すべりおちた。 「檀家で、つぶれた家はあらへんやろか。家がなくなった 「お父さあん」 ひとには、さっそくお寺に来てもらうのや」 伊勢子が叫んでいた。とおい声であった。 「本堂もあぶないわ」 すべり落ちた大量の屋根瓦は、庭の四分の一をつぶし「庫裡は大丈夫や、まだ五六十年はもちこたえるわな。こ ひのき て、堆くつもった。時々、のこりの瓦が落ちた。手洗石のんなに太い檜がとおっとるでな」と、両手で太さをしめし 水は、動揺をつづけていた。 「お父さん、こここ 冫いた ? 」 世話方がみまいに現れた。世話方は、こわれた箇所をみ てあるいたが、 青と、如哉のからだにしがみつくようにした。 「もう大丈夫ゃ。大きな地震やったな」 「これはちょっとやそっとでは、修理はでけませんわ。 如哉は目を細めた。ときどき思いもよらぬところで、瓦ずれ戦争がすんでから、ゆっくりかかるより仕方ありませ の落ちて割れる音がきこえた。 んな」 こ 0 だんか
233 青麦 鈴鹿は内陣にとびこんだ。ふだんはあれほどおそれてい大きく息をした。後門のあたりから、昼間の弱いあかりが こうもん る後門から、くらがりの裏の廊下にはいった。陽の目をみ流れこんでいた。闇に目がなれてくると、いままで気づか やみ ない、永の病人の肌を連想させる、混った闇の恐怖もお・ほ なかったさまざまの器物が、お・ほろ気にわかるようになっ ぎわ くもっ * さんう かんしよう * ごぐそく えなかった。かれは壁際にしやがんだ。かれのあたまに た。供物をのせる白木の三方や、天井の喚鐘や、五具足を づくり は、そで子だけがあった。そこが一点ぼうっと明らんでい しまっておく白木造の棚が見えてきた。棚のうしろは、葬 こ 0 式の道具をしまう場所になっていた。段々と、周囲のおそ 娶んだて 「もういいよう」 ろしい膳立がわかってきた。かれは、がまんをした。 声は、届いたようすであった。しばらくようすをうかが「鈴鹿さん」 っていて、 そで子が呼んだ。その声は、敗北をあらわしていた。さ 「もう、 しいよう」 がしあぐんで、負けたことを白状していた。そで子の声 * うおんこう そばには、秋の夜、報恩講に如哉が報恩講式文をよむとは、ひろい本堂の静寂をやぶった。その声は、たれもいな らいばん いっしやく きに使う礼盤があった。一尺たかさの、畳半分の高座であ いがらんとした本堂にひとりぼっちで置かれている位置を った。磬台がそばによせてある。そで子の足音が、内陣のおそれていた。昼間にしろ、本堂の空虚さは気味のよいも あたりにきこえた。かれは、耳をすませた。足音は、かれのではなかった。そで子は、境ににげだしたかった。 が消えた後門のあたりまできたが、たちどまった。後門の「鈴鹿さん、どこ : : : ? 」 なかが暗くて、そで子には見当がっかなかったのだろう。 おもむろにかれは、姿をあらわすべきであった。そで子 そで子は、しばらく迷っていた。後門をはいった奥のくらのおそれた闇の中に、いままでかくれていたのである。闇 がりに鈴鹿のかくれていることがわかっていたが、闇のな なんか、恐くないー そのくせ、いまにも駈けだしたいく おび しり かをどうあるいてよいかわからなかったのだろう。声をからいに鈴鹿は怯えていた。しやがんでいる尻のところから けることは、負けであった。後門奥の闇を見つめている冷たくなっていた。百年ちかくも、一度も陽をうけていな よど と、こわくなったらしい。知らない世界であった。そで子い闇には、なにかそれだけの気味のわるさが淀んでいた。 はひきかえした。 後門に姿をあらわしたとき、鈴鹿は負け惜しみのぎりぎ 鈴鹿はそで子の胸に明滅するものを、よみとった。隠れりの線に立っていた。そで子は、内陣の敷居に片足をかけ こう娶ん おおせて、満足であった。かれは、勝った。昻然として、 て、泣きそうなかおで迎えた。かれは、勇気をとりもどし ないこん しきもん