祖母 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 27 丹羽文雄集
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1. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

うめ 一つ一つの呼吸が、呻き声になるのだった。母は太い息をという計画であった。母は祖母と最後の別れをした。 胸いつばいに吐いて出すが、祖母のような呻き声はたてな「紋多だけがおばあさんの味方ですから、やさしくして上 っこ 0 力ー げるのですよ。お母さんに代って、おばあさんをやさしく 「おむつをお代えする時、大ぎなねだこに触れますと、苦して上げるのですよ」 痛がられましたが、それももう今では無感覚のようになり と、母が言った。やさしくしてやりたくとも、毎日祖母 ただ ました。ねだこが爛れて、赤むけになっております。脚の呻き声に悩まされて、紋多は大学の入学試験準備が邪魔 も、腹も、すこし強くこすりますと、つるりと皮が剥げそをされた。それほどひどいめに遭わされながら、最後まで うです」 生母につくした母の心が、紋多には不可解であった。母は しかし、本人がすでに苦痛を訴えなくなっているのだか だらしがないとさえ思われた。祖母は寺に嫁入りするまで ら、気の毒がるには当らない。 に、二度も結婚をしていた。婚家先にそれぞれ一人ずっ子 「皮膚はすでに死んでいる。目も耳も死んでいる。それな供を残して、不義がもとで追われたり、夫と死別してい ごう ざた のに、心臓だけが生きている。昔の人なら業の深さで死にた。情痴沙汰では、前科数犯のしたたかものであった。 ぎれないというところだろうね」 紋多が八歳の時家出をした母を引きとるまでには、母の 母が死ねないのは業の深さであるとは思いたくなかつ上に三十年に近い歳月が流れていた。 わず ようや た。祖母は、七年間病床で苦しんだ。母は、僅か四カ月の紋多も母のように生家の寺をとび出し、漸く文筆で生活 入院で、死にのぞんでいる。その時間の差は、それだけ母が出来るようになっていた。三十年間の母の生活は、のそ おっと は祖母にくらべて、罪が軽いからだと思われる。祖母のた くわけにいかなかった。良人を奪われ、その上生家まで追 めに、母は生家の寺を追い出されることになった。祖母われながら、最後まで生母につくした母の記憶が、紋多の が、紋多の父を奪った。祖母は、紋多の父に後妻が来る唯一の母の思い出になっていた。やさしい心根の母であっ と、寺を追い出された。近所に隠居をした祖母は、自分がた。そのまま母が亡くなっていたならば、永久に母は紋多 追い出した紋多の母を呼びつけた。当時の母は、再婚をしの心に美しい夢の人となって残ったにちがいないのであ ようしゃ ていた。祖母は、母からも絞れるだけは絞りあげた。そのる。が、三十年は情容赦なく、母の性格を一変させた。紋 ため、母はどんなに辛い思いをしたことか。祖母の死が近多の知る限りでは、二度も結婚をし、ひとの世話にもな だんと 付くと、改めて檀徒が寺に迎えた。寺で死を迎えさせよう り、しかも世話する男の意に叛いたためにその人を自殺さ そむ じゃま

2. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

日の近づくのを、漫然と待っている肉塊にすぎないとかれが痛んだ。おもわず手が腰にいった。左足をひきずるよう にして歩いた。歩きなれると、痛みはうすらいだ。 は考えた。この考えを、残忍とは思わなかった。かれは、 祖母をおもい出す。祖母は隠居所に、祖母と同年配の檀徒廊下に坐って、老眼鏡をかけ、婦人雑誌の付録の料理の のおばあさん達をあつめて、仏の道をといていた。寺院に本をひらいていた。あるときには、大衆雑誌をよみふけっ くらした祖母は、耳学問で一ト通りの説教ができるようにていた。 おっしゃ しんぎん 「おばあさん、へんですわ。旦那さまを弟だと仰言って、 なっていた。中風で七年間も呻吟をしたが、達者のころに は、とにかく仏のことを口にしていた。その娘にうまれた弟が二つのとき、私が五つのとき、父親がなくなったと話 されるのですが、旦那さまを弟と思いこんでいられるよう 鈴鹿の生母は、寺院生活はふかくなじんでいるはずだっ た。生母は墓まいりや、仏壇の行事をおこなうが、それはです」 老人らしい趣味の程度にすぎなかった。仏のことを真剣に朝の食事のとき、女中が鈴鹿に話した。 考えている証拠にはならなかった。 「いよいよ・ほけたかな」 「築地の本願寺には、いつも説教があるはずだから、たま と、わが子の年齢すらわすれてしまう人間の姿が、かれ には出かけたらどうか」 には恐怖だっこ 0 「い 0 そ、すべての点に・ほけてくれたら、可げのするお と、すすめたこともあった。生母には、その気がなかっ ばあさんになるのだが、ひとのかげロとなると、あぶらっ た。仏壇にむかう場合は、小さい声で念仏をとなえた。 こく、熱心になって、なかなか達者なところをみせるのだ が、ふだん、老母の口から念仏をきいたことがなかった。 から、安心はできないよ」 宗教心をもてというのではなかった。在家のうまれではな いというだけでも、老母の口から念仏が出てよいのだ。念訪問客が、鈴鹿のことを先生と呼んだ。 仏が出るにふさわしい年齢ではないのか。そんな必要も不「先生て、たれのことやな」 と、老母が女中にきいた。 安も、感じていないらしかった。目に見えないある大きな 「旦那さまのことですわ」 存在に、自分の生涯が、自分の日常が、自分の心が、ずつ と見つめられているのだというふうには、一度も考えたこ老母には、びんと来ないらしかった。 鈴鹿が十畳にいるとき、老母が押入をあけ、 = つみかさね とがないらしかった。死の恐怖が、老母にはなかった。 立ち上るとき、老母は多少、倒れたときの打撲傷のあとたふとんの間に手をつつこんで、何かさがしていた。思い だんと

3. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

132 おっしゃ ると、「おばあさんがお腹が痛いと仰言るから、介抱しての妹分として入籍した。間もなく永田東作と知合いにな ふうしっちはう いわけ いるんだ」と言訳をする良人だった。そんなことが二三度り、永田は永年の風疾で痴呆になっている細君をかまいっ けなくなったそれだけの根気のよさで、琴の一身をかまい あった。 が、実母にそれがじかに言えることでなし、良人にあた出した。それが数年続き、永田の細君が亡くなると、二人 それでおさまらぬとの関係は公然のものになった。問屋である永田の二十幾 ると、役者狂いをもち出されて、 き、良人は実母と一しょになって琴を責めるのだった。琴人の召使たちは琴を神明町の奥さんと呼び、琴をまごっ かせたが、いっかそれにも慣れて、千鶴からも実の母のよ は紋七をつれて家出を思うようになった。 紋七をつれて友だちの嫁いだ先の岐阜へ家出した。が直うに慕われた。当然後妻として永田に入籍すべきところ、 ぐ、手がまわって連れもどされた。家出はそれほど叱られ理屈では負けたが、永田家には東作の弟夫婦が同居してい るので、琴はこの年齢になってそんな大世帯へ気がねして なかったが、五日目、 わがまま 「お前がいまうちにいては、何かとうちの中がうまくいか はいっていくのは厭だと我儘を押しとおした。 ないんだよ。もう一度この家を出ていっておくれよ。紋七紋七が東京の大学にはいった年、祖母は死んだ。葬式の たくさん はわたしとお父さんで沢山だから、それに学校もあるから日、紋七は琴が陰ながら見送りにきていると出入りのもの 紋七はいま手放せないんだよ」 に教えられて吃驚りしたが、告別式の混雑のためすぐ忘れ 実母の言葉であった。しかし、実感から琴はいられなくてしまった。母と言えば、中学時代、年に一一一度中学校の てもう一度出たい気持の方が勝っていたので、その夜、わ 門のあたりでそれらしい人を見かけたが、継母が十分やさ ずかな着物を信玄袋にして、実母に見送られ裏口から家をしかったので琴のことは頭に滲みなかった。琴と別れて十 出た。 年近くなっているので、その人が果して母なのかどうかさ 祖母は紋七の桑名の家へ嫁いでくるまでに = 一度結婚し、 え判らず仕舞い、一度も口をきかなかったのだ。 三度とも不品行のため出されたという人柄である。琴は二 その後、東京の紋七の下宿へ琴の手紙が来るようになっ 度目の家出で、実母の計いにより籍をぬかれた。その後親た。ある帰国のついでに岐阜へまわったが、十何年ぶりで しゅうとめ 戚が仲にはいって、姑と父の間に争いが生じ、祖母は琴逢い見る母なので、歩廊の大勢の顔のなかからおいそれと のように追い出され別居した。紋七に若い継母がきた。 母の顔をひろい出すのは困難だろうと、びくびくしながら まげはで しばらく無籍人であった琴は、事情を知る岐阜の友だち歩廊に降りると、大きな髷の派手な顔つきの一婦人が近づ とっ びつく

4. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

かったのか、また祖母と父が憎み合うようになったのか、 その日、知人の家に来て、そこの格子戸から祖母の柩を見 Ⅳ永い間自分は知らなかった。それが日本の善良な家族制度送った。自分と逢うこともなくなったが、幸い東京の大学 に悖る事情からであると知ったのは、ずうっとあとになつに入学できて、上京の途中とかえりに、岐阜の母を訪ねる てからである。 こ A 」に 1 レこ 0 自分が毎日隠居に出入することは、うちで反対であっ 母は遠山の世話になっていた。自分はそんな母の生活に だんと たびたび た。檀徒にも度々忠告された。姉は一度も隠居にいかなか は、ふれないことにした。母は自分のくる汽車の時間に った。自分は周囲の言葉をきかなかった。しまいに父も檀は、駅に出迎えた。かえりは汽車の中まで見送ってきて、 徒も、自分に匙をなげた。 汽車がうごき出すと、泣き出しそうな顔をした。自分はそ たび 母は隠居にくる度に、自分の好きな菓子を買ってきた。 んな母の顔を見るのが冊で、汽車が動きだすと、やれやれ 名古屋のきんつばが印象にのこっている。当時の母がどんと思った。母の家では一ト晩か二タ晩、泊った。母は菓子 な生活をしていたのか、自分には興味がなかった。母をそや果物をそろえて、食事には食べられないほど食膳を飾っ れほど必要としなかった。そのうちに自分は中学校を卒業た。台所でこまのように働いた。自分は飲んだり食べた そこ した。中学生の頃、台湾にいっている母の弟が、祖母の中りしているので、母の家にいる内に胃を害ねた。母は胃散 風を見舞いに来た。叔父に対しては、何の感情もおこらなを用意しておいて、あれを食べよ、これを食べよとすすめ かった。自分の姉は結婚して、米国に渡った。姉は祖母に たあとは、胃散を押しつけた。自分が滞在している間は、 ふいちょう うれ も母にも、あまり馴染んではいなかった。姉が米国に渡っ息子がきておりますので、と嬉しそうに近所隣に吹聴して とっ たのは、嫁いだ先で実家のいざこざや、生母の問題で苦し いた。自分がかえると、次の日一日は寝るのである。あま むことが厭さに、思い切って海を渡ったのだと檀徒に教えり気をつかい働きすぎるので、がっかりした。うどんが食 あわ られた。よくそこまで決心をしたと檀徒は哀れんでいた。 ・ヘたいと言えば、母はどんなおそい時間でも、出かけてい おくびよう そんなものかと、姉の決心に思い到らなかった自分は、現った。母は人一倍臆病ものであった。ーー現在の母は、孫 しゅうとめ わすら ふすま 在、姉がそのため逃け出した姑と嫁の問題に煩わされてとはなれに寝ているのだが、襖をしめ切って休むことはで いるのだ。姉を狡いと思うようになった。 ぎず、冷たい風が流れ込んでもかまわない、間の襖をあけ 祖母は中風で七年牀につききりで、最後は寺にひきとらておく臆病ものである。 もしゅ れて、死んだ。自分が喪主となり、葬式をやったが、母は 自分は年に五回、母に逢った。一日二日の滞在中、しん する とこ ひつぎ

5. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

そり簟笥から柔かい著物を盗み出して著た。そして材木屋た。身をふるわせて泣いた。祖母も泣き出した。祖母は畳 たた の池で遊んでいたが、自分はひどい汗をかいた。夏であつを叩いて泣いた。 た。綿入れをぬすみ著ていた。 こういう事実は、自分母はその後月に一度、隠居所に来るようになった。母の が単にお洒落であったというだけでは片付かないと思う。説明によると、自分に逢いたいために来るのだという。家 自分の中にある一つの性格は、ふりかかってくる不幸か出は祖母の不心得から起ったのだが、母と祖母はいっか仲 ら、どうしたら一番無難に逃げられるか、不幸を征服する なおりをしていた。・ : カ母を呼びつけるのは祖母であり、 のではなく、逃げ出す方法を考えっかせるのだ。金を盗む祖母は月々の寺からの仕送りの不足を母にせびっていた。 とっ ことも、こっそりと著物を著ることも、自分で自分の身を母は当時後妻となって一の宮に嫁いでいたのだが、祖母が 始末をつけようとする性格の芽生えではなかったか。幼い呼ぶと、偽の電報や、偽の急病の手紙を書いて貰い、月に 女の子が、著物の破れをこっそり自分の危い針で縫い、母一度は来た。母が岐阜の遠山の世話をうけるようになって を淋しがらせるのと同じである。 からも、偽電報の呼出しはつづいた。或る時母が金を落し 祖母は寺から二三町はなれた路地に隠居した。自分がい て祖母から汽車賃をかりて岐阜にかえった。祖母は男用の くことを、一日のたのしみにして、おやつを作り待ってい洋傘を杖にして、汽車賃のとり立てに岐阜にきた。祖母は た。月々寺からの仕送りはあったが、祖母は不自由をしてそんな人だった。 いた。自分はそこで母に逢った。タ顔が咲いていた頃であ父と祖母は隠居して以来、不和になっていた。寺へは二 る。その日いつものように祖母の家へはいっていくと、一一度と足踏みしてはならないという約東であったが、法要が タ間しかない奥の部屋から、 あると、祖母は一般の参詣者として本堂に詣った。祖母は 「紋多」 説教を覚えて、隠居の長火鉢の前で、いつも祖母と同じ年 と言って、母が立ってきた。自分は気まり悪くなった。齢の女に説教していた。或る時、本堂に詣っていた祖母が 会 さいせんたもと 土間で・ほんやりとした。「何を遠慮しているのか」と祖母立ち上る拍子に、そこらに落ちている賽銭を袂に入れた。 かまち 再が言った。母はつっ立っている。自分は框に上った。母の自分は見ていて、いやな気がした。隠居するまではわが家 方で寄ってきた。自分の顔は母の帯に押しつけられた。母であった本堂から、落ちている賽銭を拾うことは、不正で くせ は泣き出した。母がいなくなったので淋しかったであろうもなんでもなかったのだろう。祖母にはそんな癖が脱けな もら とか、今のお母さんにやさしくして貰っているかと訊い いようであった。どうして祖母と母が憎み合わねばならな ようがさっえ にせ

6. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

の夜は必ず仏法寺のたれかが迎いにいくとはかぎらなかっ った。が、なかなか死ななかった。須磨は仏法寺にもどっ た。 たことも、判らないらしかった。目をあいているときも、 ねむっているときも呻いこ。 肉は落ち、皮膚はたるんだ。生きる気力はなくなってい 参 たが、死ぬこともならなかった。須磨の死は、本人にとっ ては何よりのすくいであったろうが。つき添い女に、七十 呻き声が、仏法寺を夜どおし怯やかした。たれもこの声にちかい、しなびた、色の黒い、痩せたのがついていた。 きよそ からのがれることはできなかった。呻き声は、やめさせる挙措動作がのんびりとしていた。つき添いは、病人のしも わけにいかない。呻ぎ声は、お念仏の間から発した。 の始末をするのだが、本人の方でしてもらいたいようにみ この声からいちばん遠くにはなれていることのできたのえた。須磨は、流動物だけをたべていた。めったに口をき は、下部屋にねる義母と一一人の子供であった。鈴鹿は、奥かない、痩せたっき添いが、たまりの間にはいってきて、 娶ん 座敷を勉強部屋につかっていた。大学の入学試験がせまっ用意されている膳をうけとるときは、病人よりもこちらの ていた。お念仏の間から障子で中庭に接していた。廊下を方が先だという気がした。須磨のしもの始末が、十分にお わたり、奥座敷に達する。かれは、そこの雨戸をたてるこ こなわれてないのはわかっていた。それを気もちわるがる とにした。そして二タ間ある奥の方に机をすえて、あいだ気力も、病人にはなくなっていた。 ふすま おないぶつ の襖はしめきった。比較的、呻き声から遠のくことがでぎ障子一つで御内仏の間となり、それから襖をへだてて如 哉の居間になった。夜の呻き声は、如哉のすぐそばで聞え かれは、ほとんど祖母の病室をのそかなかった。祖母のた。呻き声は、苦しくて発するとはかぎらなかった。呼吸 須磨には、鈴鹿のみさかいがっかなかった。七年間、須磨のたびにうなる須磨は、声をともなわない息はできなくな は中風をわずらって寝たきりになっていた。死はすでに時っていた。うめき声は、庫裡のもつ大きな静寂をやぶつ 青間の問題にされていた。いよいよという時がせまったのた。呻き声は、目にみえない人間に呼びかけていた。祖先 で、須磨は仏法寺につれもどされた。檀家の意見であり、 の霊にはなしかける調子であった。夜ふけに、鈴鹿はふと目 によざい わずかな時間を、如哉に辛抱をするようにと言った。寺にをさますことがあった。祖母のうめきが耳につくと、ねむ せいさん つれもどされたときには、明日にも息をひきとる気配であれなくなった。この世のものとは思えない凄惨なひびきで 」 0 うめ さん おび だんか

7. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

の眼はがつくりとおちく・ほんでいた。つやつやとした頬を「鈴鹿、鈴鹿」 もっていた。客のまえで、孫をとらえて、大人げなく憎悪須磨の声が追いかけたが、かれはきこえないふりをし をぶちまけなくともよかったのである。鈴鹿にいうことはて、遠ざかった。 なかったのだ。鈴鹿ひとりが、隠居所に出入しているので祖母と父のあいだに、はげし、 ししいあらそいがあってか あり、いわば須磨の味方であった。 ら、祖母が隠居所にはいった。檀家は如哉に味方をした。 かたわ 祖母が如哉をにくんでいることはわかるが、それをきくこ 「如哉はたすかったにしても、片輪もんになるのや。いい 気味や。そして死ぬまで、片輪にたたられるとええのや。 とを鈴鹿はこのまなかった。この感情の味わい方は、大人 びていた。かれは父親とも祖母とも、ひとしい距離にあっ 仏さんは、ひと思いに如哉をころしてしまうんでのうて、 た。誇張をするなら、義母の絹も、またひとしい距離にあ じりじりと、ながい間かかって、如哉をくるしめてやろう った。それを大人たちがよってたかって、距離の混乱をも とおはからいになったのや。そうにちがいない。たれやか て、あんな高い山門からおちて、たすかることはないのやとめたがった。かれは少年というあたらしい時期にはいっ たばかりであった。 ろうな」 なみだ 鈴鹿はおどろいて、四角なかおになっていきりたっ祖母檀家の命日にまいりにいくと、そこの老婆が泪ぐんで、 のかおから目をはなさなかった。祖母のはげしい調子に、 しまになにもか 「可哀そうな蝣ちゃん、いまにわかる。、 おどろいているのが自分だけであることに、かれは気がつも、わかるようになる。わしだけが知っとるのや。お母さ いた。客には、須磨のいかりがよくわかっているらしかつんが家出なさったわけが。このわしだけが知っとるのや」 しっと た。そのことが、かれには意外だった。人情や嫉妬や熱情と、鈴鹿を悲劇の舞台にひきあげた。手をとらんばかりに については、何も知らなかったが、自分の予期していたこして「いまにわかる、いっかわしが、坊ちゃんにくわしく とは起らなかった。むし餠はうまかったが、かれはこれ以話すときがくる。それまで辛抱しておいなはれ」 そで 上祖母をいい気にさせたくなかったので、おかわりを言わすると、袖のながい法衣をきた小坊主の表情が誘われ ひばち 青なかった。祖母は長火鉢の向うで、おかわりの声のかかるて、泪ぐましくなった。かれにはうけとめることができな かった。いいかえす言葉を知らなかった。かれは、気まり のを待っていた。あとが出したくて、祖母は待ちかねてい わるくなる。それほどの悲劇の主人公でありながら、わが 家にいるときには、ずっとのんきであり、友達のなかでは かれは、ふいに、おもてにとびだした。

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334 「おい、ちり紙」 と、女中に言った。 「何ですか」と、伊佐木が机の向うからのぞいた。 三日経った。 うさぎふん 「おばあさんが落としたもの。ころっと、兎の糞のよう 孫のいない家庭がさびしいらしく、老母はときどき孫の だ。とうとうおばあさんも、おしりのしまりがなくなっ ことを口にだした。千葉の家には妻の父親が行っていた。 た。これからは、家の中でも油断ができないよ。いっ踏み朝、十畳の間で鈴鹿が新聞をひらいていると、 つけるか判らないからね。伊佐木君も用心してくれ給え。 「おばあさん、そのはらにまいている財布を出してしまい 家内の祖母が、これをやった。廊下にころころと落としてなさい。あっくるしいでしよう」 あるいた。岐阜のおばあさんの部屋でも、これをやってた と言っている女中のこえが聞えた。 んじゃないか。君がくさいとい 0 たのは、これの匂いもま生母は、ねるときにも、はらにまいているものを外さな じっていたからだろう」 カった。ながい間のひとりぐらしが教えた処世術の一つだ しかし、そんなことは老人の失敗として笑ってゆるせった。 た。用意のよい年よりは、古くなったきものをほどいて、 「荷物がとどかん。駅へききにいってほしいわ」 洗濯して、切って、幾枚もおしめをつくっておくものだ。 と、老母は女中にいった。 たんす いざというときにすぐ間にあうように、簟笥の奥にしまっ 丸通からとどくものであり、五六日はかかると鈴鹿は考 ておく。鈴鹿の生母には、よくよくのそめない芸当であっ えていたが、生母には納得がいかぬらしかった。女中は、 生母の気やすめに、駅へききあわせに出かけた。チッキの 生母は、ものすごいいびきをかいた。冬間はこたつを欠荷物は、すてにとどいていた。 かしたことがなかったが、あついため、半身をのり出し「おばあさん、そとへ出てはいけないよ。・ほくの留守中 て、ロを大きくあけて眠った。男のようないびき声をたても、うちにいることにしているのだ」 くす た。寝がおは、人相を一変していた。かおの構造が崩れて 「そんでも、外山さんとこへあいさつにいかないと、わる しまい、七十三年の苦闘のみにくい部分だけをさらけだし 。外山さんは、このまえ、せんべつをもらっとるから」 「かまわないんだ。外山さんには、何かの折に、母が上京 していると・ほくから伝えておく。それでいい。義理がかけ こ 0 こ 0

9. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

162 「あんたの嫁の選択のむずかしいのには、ほとほと手を焼が、彼は母親に対しても我儘な気性をふりまわしていたに いているのや。それで、あんたのことは先ず措いて、この過ぎないのだ。まして父親の手が生母のからだに再びかか ままでは楽法寺はかさかさしててやりきれんさかい、一つるなど、思いもよらないのである。父親の手が再びのびて たた お父さんの後妻をー・ー後妻のことでは、あんたの意見は聞きたなら、自分はその手をびしっと叩き落すであろうと思 いて知っとるけど、この際や、あんたの生みのお母さんに いつめていた。檀徒が口を入れた。 戻ってもらったらええと、あんたの心持を聞くのやが」 「お母さんがこの寺を出られた訳は博丸さんもよく御存じ 彼は強いられて話に身を入れているような顔をしていたやと思いますが、お母さんは役者狂いをして、檀家にも顔 が、生母と聞いて心外なと思うと、顔色を変えた。 / 彼の心向けがでけんようになって家出しなさったのやけど、いま は利己的に慌てるのだった。顔は伏せていたが、胸にこみのお寺の内情を考えると、檀家も昔のことは大目に見てく あげてくる複雑な感情が思わず姿勢の上に強くあらわれれるやろうとわしは思いますけど」この檀徒は七十歳にな っていた。 た。搦手から攻め立てるのだなと思った。固くなった。 「あんたのお母さんやで、この話は誰より一番あんたに都博丸はっきとばすように眺めた。生母の役者狂いは父親 合がよいと思うのやが」 と祖母の不倫から起ったことであり、そのための家出だっ 生母のことは初めから問題外だと思っていた。生母の一 た。二十年前の若い母親の、のつびきならぬが、彼に 身上には誰の手もかけてもらいたくない、そっとしておい は痛いようによく判るのである。そしてこれは自分にだけ てほしいというのが博丸の実感だった。彼の場合、この寺判るのだと思っていた。当時の母親の心持がじわじわと彼 かせ に生母が戻ってくることは我と我が足に枷をはめるのであの心にのりうつって感じられて来た。 る。生母としては自分の生れた楽法寺に許されてかえるこ 「お母さんはいまどんなくらしをしているのかな」と滝東 はす とを断る筈はなかった。しかし博丸の家出したあと、見知寺が訊いた。 さや らぬ四人の子供にまとわりつかれ、二十年目に夫婦の鞘に「細々ながら一人でやっています。この頃逢いませんから おさ おもはゆ 収まる、その面映さは生理的にも不幸であるにちがいなか よく判りませんが、津の伯父が母の世話をしている筈です」 った。平常の博丸は母の面倒を見る人間は自分だけだと思 「お母さんにとっては何と言っても生れた家やでな、来い いこんでいた。 それが孝行というものか、そう訊かれと言ってやったら、どんなに喜んでかえってこられるか知 ると、生母だけに尽すこの心持は孝行と言えないのだったれないな」 からめて あわ だんと

10. 現代日本の文学 27 丹羽文雄集

228 ほかの世話方が、うなずいた。反抗したくて、鈴鹿は身さい窓が、高いところについていた。陽のささない、くら をふるわせた。かれは大人の手で腕をつかまれ、ぎゅっとい室内であった。祖母の須磨には、来客があった。須磨の ろうば しめあげられるの感じた。彼はじたばたした。熱つ。ほい目年齢ににた老婆であり、 「こんにちは、坊ちゃん」 で、大人たちを睨んだ。 だんか 檀家の老婆であった。須磨は小さい仏壇を背負い、長火 「たれがとめても、・ほくは、おばあちゃんとこへ行く」 ほうわ かれを見つめる世話方の目は、意地わるくなかった。む鉢をまえにして、たずねてくる客を相手に法話をきかせて しろ当惑をしていた。どういうつもりで、ふいに、そんな いた。きき手は、手ぶらでは来なかった。 ねんしゆっ えん ことをいいだしたのか。入院費用の捻出の相談が一時中断「伊園が手伝っとるそうやな」と、祖母が言ったが、す こもどっていった。鈴鹿はおさえがた 、追い落すように、「罰があたったんや。仏さまの罰や」 されたが、また相談冫 はげしい口調になったので、鈴鹿はおどろいた。 、勝味のない反抗をつづけた。 鈴鹿はむきだしのかまちに腰をかけて、客がもってきた 今日一日、かれは祖母の隠居所をたずねていなかった。 もち にちがいない、色のくろいむし餅をたべていた。自家製の あん 〇 むし餅であった。塩からい餡であった。皮がしこしことし 昔の東海道は、かま・ほこ型にまん中がゆるくもりあがって、粉のにおいがつよくのこっていた。この歯あたりの感 ていた。仏法寺の山門をでて、右手に二町ほどいくと、東じが、かれは好きであった。 によさい 「門から落ちたら、死ぬのがあたりまえや。如哉は死ぬの 海道の通りからゆるい傾斜で、路地が下りていた。路地の けん があたりまえや。わしをこんなとこに押しこんで、仏法寺 片側は、半間幅のどぶ川であった。どぶは深かった。わが かばん に足ぶみしてはならんと言いくさった。仏罰ゃ。いい気味 家に鞄をほうりだすと、鈴鹿は祖母の隠居所へはしってい ゃ。わしは、如哉に罰があたるようにと、いのっとったの った。祖母はなにかおやつを用意して、待っていた。 隠居所は、紙屋のうらにあった。もとは、何かの倉庫らや」 さん しかった。どぶ板には、すべらないように細い桟がよこに かれは、祖母の目が、憎悪の青い陷をもえあがらせてい うちつけてあった。半間の入口である。あとから床をつくるのを感じた。陽のささない部屋で、須磨はたえず如哉を ったものか、はいったそこには柱がなかった。二タ間から憎んでいた。はらをたてると、須磨のかお - は四角になっ しようじ えぐ できていて、奥の間のさかいには障子がはまっていた。小 た。指をいれて抉ってみたい誘惑を感じさせるほど、須磨 にら ばち はのお