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検索対象: 現代日本の文学 28 舟橋聖一集
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1. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

つけた。それよりいっかの若納戸の流行のように又素晴ら 「津田さん、一人ですか。お喜多さんは ? 」 しい色気を案出してもう一花咲かせれば、市五郎にしても 康吉は一一人のうちで津田の方に親しみを多く感じてい お喜多にしても、そのときこそは、本心から、康吉の才分 を認識してくれるにちがいない。先決問題はそれである。 「うん。お喜多さんは南条と一緒に広小路まで買物に行くその上で、堂々とお喜多を女房にすれば史にお喜多の一生 って出て行った」 を、幸福にしてやれる自信もっくーーっまらぬ嫉妬に目が むとんらやく と、津田はまったく無頓着に答えて、熱心に鉛筆をうごくらむなと、自分自身にいってきかせた。 ま、 かしている。 康吉は、米をとぎ終ると、釜に入れて、竈の下に、薪 「のんきだな。もう、ソロンロ夕飯だというのに。お米でをくべた。それから津田の傍にいって、スケッチブックを のそきこんだ。隣りの庭の柿の実は、ぼってりうまそうに もといどいてあげよう」 康吉はひとり言のようにそういって、井戸端で、米をとみのって、秋の夕日に焦げるような光沢を出していた。 こもん込んしゃ あかたが ああ、いい色だ。二十五、六の女の着る小紋錦紗の地色 ぎ出した。秋の日が段々に傾いて、井戸側の銅の箍が、ビ カビカ光った。康吉は、米粒をこぼさぬようにとぎ汁をあにしたら、どうだろうーーと、ふと思った。美女鼠や煤竹 よりはあかるく、藤浪のような色気よりは、もっと茶をし けかえながら、学生が若い娘とつれだって歩いたりしてい て、問題にならなけれま、 しいがと心配だった。しかし、おずませて見る。名前は柿の実で売出す。評判になるかもし 喜多は市五郎とはちがって、まだ世の中を知らぬ純情の娘れぬと空想がうごいた。こうなると康吉は、けろっと現実 であるから、自分の誠意をふみにじるようなことはあるまの苦い気持は忘れて、それからそれへと、夢のなかへはこ 。この間からの、自分の一所懸命な行動も、素直に彼女ばれていくのだ。いろんな色感が、頭の中を縦横に走り出 の心にとどいているにちがいない。南条と二人で、買物のすのだった。彼は縁側に尻をかけ、目を柿の実に凝結し た。市五郎のことも、お喜多のことも、もう念頭に影さえ ついでに散歩した位のことで、別に自分がそれを嫉妬した とが り、咎めたりするには当らない。それでも愈々不安になれなかった。 ば、今夜にでも市五郎に話して、はっきり婚約をきめさえ 四章 すれば、誰が何といおうと、指一本ささせることではない。 なかがわ 要するに自分の決心次第なのだと、ムラムラする心をおち水戸市の北を、西から東へ流れている那珂川は、遠く下 へつつい

2. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

みんなおらの支配に属してる。どんな乱暴者でも、おらの と、曲った字を書いた。 声がすると、びたっと、柔順しくなりやアがるんだ。はは「さあ、こりやア、ほんのおしるしだ」 はは」 康吉は驚いて、 らりがみ ざしてごうれい 伊助は何を思ったか、傍の塵紙に、「座而号令、天下無「伊助さん。こんなに沢山。そんなことなすっちゃいけま 敵」と、書いた。右手だけは自由になるといっても、字配せん」 りは全然なっていないし、一劃引くにも、思うように連ば「ふん、生いうねえ、生いうねえ。手下が店を持った祝儀 ない手首を、じれったがった。 に、百両じやア、しみたれてるかもしれねえが、まあ、当 きんしゆく 「でもね、伊助さん。こんな薄気味のわるいところにいな節だ。何ごとも、緊縮政策でねーー・浜口流で負けて貰おう 、、。、つよはよ」 すっては、当り前のものでも、変になって参りますよ。ど うでしよう。康吉の店へ来て、御養生なすっちゃ、 いかが「そうですか。それじやアまあ、押し返すのも何ですか いかが でしようか」 ら、御辞儀なしに戴きますが、退院のことは如何でしよう か 康吉は、気をこめて、そう云った。 か。何でしたら、私から、院長の方へ掛け合って見たいと おもいますが 「お前の店へ ? お前、店、もったか」 かいらゆう 「へい。お蔭さんで。小さい間ロの、けち臭い悉皆屋じゃ康吉は、紙包を押し戴いてから、懐中へ入れた。 「院長だって、お前、同じ穴のむじなだよ」 アございますがーーー」 「そうかい。そりやア、お芽出とう。何て店だ」 「何んのかのって、難癖ばっかり付けていやアがるんだ。 「鶴むらって屋号でございます」 「鶴むら , ーー・ふうん。洒落れてるね。こいつは祝儀をあげどうせ、お前、商売人だよ」 なくっちゃ」 「それで与助さんは、たまには見えるんでございますか」 「とんでもござんせん」 「与助 ? 馬鹿野郎。あんな野郎は、親でもねえ、子でも * ゅうわ かんどう 「まあ、待ちな」 ねえ、久離切っての勘当じゃ。だから、おら、娑婆の奴は 伊助は又、例の塵紙をとって、紙包みをつくり、その表信用が出来ねえんだ。みんな化け物よ。そこへいくと、狂 いつわ 人は気のいいもんだ。嘘がねえ、偽りがねえ、みんな、正 祝儀金壱百円也 直者が化け物にだまされて、気が狂ったんだ。康吉、お前 おとな

3. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

0 らまん 傲慢だと非難した。そこへアメリカから帰ってくる岸と落だ。軽々には安保審議をするな。アメリカの云うことばか : ぐらいのことは云っているに違いないとおも 合うことになった。もっとも岸は、南米で、東京電話が河り聞くな : うが」 野のハワイ行を知らせるのを聞いた。自民党の執行部は、 こんだん ・ ( ワイアンあたりで、岸と河野がじっくり懇談師井はそんな消息にも通じていた。 されると、また政情が変ったりしてはまずいからと云うの「保守側にとっても、安保はやつばり大問題だな」 で、なるべく一一人っきりでは話をしないようにしてくれと巻村にも、それは予感できることだった。 注文した。岸はそうもいくまいと云ったとかで、この電話「むろんだ。日本をあげての騒ぎになる」 は一時間半もかかった。岸のつく前々日に、河野はローヤ「然し、無関心派もいるだろう」 翌日は、アロ ( 航空で、 ( ワイ「そりやミーちゃんハーちゃんにはわからないさ」 レハワイアンにはいり、 ちゃんハーちゃんにも、選挙権は 島のヒロ市へ遊びに行ったり、帰ってきてホノルル市長の「何ンにも知らないミー ーティに出たりした。岸の随行員たちは東京からの電一票あるンだ。自民党が支配階級政党だってことは、被支 ー族の票をやたらに集めていることな 話があったので、なる・ヘく河野を避けようとして、ホ / ル配層の無知なミーハ のぞ えっぺい ルの空港から、まっすぐに練習艦隊の閲兵式へ臨んだりしんだ」 て、故意に時間をそらした。で、その日はとうとう逢わず「なるほど」 じまいで、翌日、春秋会派の領袖森清代議士が、岸に正式「無知識ってことは、一体、何ンなんだ。ねえ。そうじゃ 会見を申入れたが、みんなと一緒なら逢おうという返事がないか。彼らはよく知らないままに、投票する。それは無 あ 0 た。結局一対一では逢うまいとしたところは、岸・河効投票にすぎないンじゃないか」 野の友情も、ずい分、下落したものだ 0 た。とにかく最初「君の政治否定はそこから来ているのかね。なるほど、・、 1 族の投票を無効だと宣言すると、自民党は第三党に イは、みんなで逢ったが、話の途中で一人去り一一人去って、 ル席をはずしたので、最後は一一人 0 きりになった。そこで河なるかもしれないね , ネ 野がドスをぬいたかどうかは、誰もいなかったのでわから「大多数の無知には、必ず悪が伴う。たとえば、黒人の国 ない。然し、そういう時に何も云わない河野ではないかが次ぎ次ぎに独立して、国連にはいれば、その多数決は、 ら、一一言三言、岸の心をギ = ッとさせるような殺し文句が白人を押しのける。国連の投票は、常に黒人の水準から行 出たろうと思う。オレはきっと安保の話が出たと思うんわれるのと同じことになる。平等は結構だが、人類の水準

4. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

外、伊助の方では、正気の大真面目かもしれなかった。 ちやアいなさらぬ ) ( それにしても、糸屑とは変だな。何の思わくかしらねえ そうも考えられる。 が ) 然し、医者の目から見れば、役にも立たぬ糸屑を入れ あやう 康吉は、ひとりで危く、ふき出しかけた。で、もう一て、金壱百円也と書くところが、立派に狂っていると見る ごていねい 度、包から出してみると、五、六本の糸屑が、御丁寧にみのは当然だし、そして、その糸屑を有りがたがっていると あさいと な種類のちがったものだった。一本は、太目の麻糸で、日すると、こっちまで、ちいっと、キの方かなと、康吉は苦 本産だが、今一本のは、麻糸まがいで、ココナットファイ・ハ笑した。 ごくじよう 電車を下りると、大分、雨が強くなっていた。風も出 ーというマニラ麻の一種。それから、紡績絹糸の極上で、 たび 色は赤が一本、藤むらさきが一本。少し、長目に切ってあて、吹きつけるように降り、康吉は足袋の甲まで、濡らし るのが、瓦斯糸で、尾張から出る瓦斯双子なぞに用いる品てしまった。 じようぶ 質の丈夫なものである。この間、京都の帰りに、名古屋に店口には、お喜多が待っていた。 みのじま 寄って、美濃縞、羽二重縞、それから、瓦斯双子に絹糸を「傘をもってって上げたくとも、時間はわからないし、困 っちゃったわ」 まぜた糸入瓦斯、また、瓦斯糸に、苛性アルカリをかけた ぞう、ん いわゆる、、、、、、 お喜多は乾いた雑巾をもってきて、康吉の足を拭いたり 所謂しるけっと糸で織ったしるけっと黒八丈とか、瓦斯糸 で風通織にした綿風通というようなものを大分、仕入れてした。 「どうでした。逢えて」 きたので、瓦斯糸の品質鑑定には、康吉の目は相当なもの 「うん。逢ったことは逢った」 であった。 そういう専門的な上質の糸屑を入れたところが、さすが「変っていた」 「大変りだ。はじめはわからなかった。何しろ、あの長い 吉に伊助爺さんの昔を物語っているので、康吉がまだ、稲川 の番頭だ 0 た頃、悉皆屋のくせに、色見本の研究が足りなあごが、下脹れにな「ちま 0 たんだから」 さんざん 皆 いといって、散々油をしぼられた時のことが、思い出され「あら、いやだ」 悉 こ 0 お喜多は腹をかかえて笑った。 ( 伊助さんは、こういうものを祝儀袋に入れて、自分の目「やつばり、狂ってるの」 「そこが問題なんだ。Ⅱ 一。田院長も、実際は判断しかねてい を試してみたかったんだ。とすれば、性根はちっとも狂っ いとくぞ かせい ムたこ

5. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

136 康吉もあっけにとられて云った。 と、副院長は、椅子ごとくるっと身を転じてたずねた。 「そうでしよう。そういう所は、ちょっと普通でないと見 「へい。すぐわかってくれました。たつぶり、今昔を物語 なければならん。が、別に、乱暴するわけではないし、ち りました。お蔭さまでーーへい」 ひきうけにん 「そうですか。そりやアよかった。少し、変ってるでしょ をしつでもお ゃんとした引請人さえあれば、病院の方でま、、 渡ししますよ。第一、与助さんというんですか、責任者か 「へい。でも、話はごく、まっとうでした。何でございまらの送金も、この頃ずっと来ていないので、病院として は、もてあましていたんですーーー」 しようか。手前共の店の一一階へでもつれて参るわけには、 そういわれると、康吉も一言もなかった。与助のこと まだならんのでござんしようか」 は、もう十年前からすでに親の伊助でさえ見離している位 康吉は相手の顔を見い見い云った。 「定型的な精神病ではないから、それは御自由だが、普通だし、市五郎の話では、南座へ入れる弁当の仕込みのさや を取って、身すぎをしているというのでは、伊助の入院費 の家では、処置に骨が折れますよ」 を満足に送金できる筈はなかった。 「そうでございましようか」 病院を出ると、パ ラバラと、落ちてくるものがあっ 「それに、この頃は、ばらのいあの疑いも大分あるんです かむ あいにく こだいもうそう た。生憎、傘をもって出なかったので、風呂敷を冠った がねーー誇大妄想のような所は、気がっきませんでした が、それでも時々、冷たいのが襟首へしみ込んで来た。 か」 おっしゃ 「なるほどね。そう仰有られると、そうかもしれませんが ( さて、どうしたもんだろう ) 祝儀だといって、わたくしにいきなり百円くれまし康吉は歩きながら、思案にあまった。中味のカラな祝儀 包を、壱百円也として渡してよこすのも、異常といえば異 た」 「百円 ? そんな筈はないが。あけて見てごらんなさい」常だが、性格的と見れば見られないこともない。康吉の最 初の主人の稲月冫 ーこも、よく似た処があって、負け惜しみの 康吉は懐からさっきの塵紙包を出して、開いて見ると、空手形を出すことがあった。伊助も江戸っ子のきっぷとや たた いとくず らで、少し気に入れば、財布の底を叩くのが好きだったか 紙幣は何も入っていす、代りに糸屑が五、六本入ってし ら、今日の祝儀包も、そういう江戸前の浪曼癖かもしれ はんちゅう ず、精神病学の合理的範疇からは、桁が外れていても、案 「こりやア、糸屑です」 らりがみづつみ

6. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

れ。ああいう所に飾 0 て見ると、ぐ 0 と引立 0 て見えるのまぜみたいなもんでしようが、あたしらには、珍ぶん漢ぶ もあれば、案外、振わないのもある。見ておいて為になるんでさ、所が旦那の芸術と来たら、まったく、目のさめる のは、駒撚のお召と帯地だ。阿蘇さんが心血をし・ほった名ような鮮やかさで、女なら、ああ、着てみたい、男なら、 とたん 品が並んでいるから、念を入れて見てくるんだね」 ああ着せて見たいと思う途端、ゾーツと寒気のようなもの はなびし 「さっきも、久松町の花菱さんへ寄ったら、大変な評判でが、身うちを突走るってんだから、大したもんでござんす しやば ごぎんしたよ。でも、赤札の出るのは、鶴むら染ばっかりとも。あたしのような、もう娑婆に見切りをつけたもんで だそうでーーー」 さえ、こんどの花筏の小紋なんそ見ていると、二十年も三 「何に、そんなことはない。そんなことはないが、鶴むら十年も若返ってきますからね。この頃、はやりのホルモン 染の商標が、何ていうかね、まあ、一種の定評を生みつつ剤どころじゃありませんのさ。ねえ。おかみさん」 しか ある、という点は、まことにお蔭さんだ。然し、すぐ、古二、三杯でもう、おくらは色に出ていた。 すもう くなるから、油断は出来ねえ。相撲なんかでもそうだが、 「何をいってやアがる。まあ、のめ」 一つの手で勝っても、すぐ、相手におばえられると、もう 康吉はおくらの前へ盃をつきつけて、 その手では絶対に勝てねえという。まして、芸術となれ「鶴むら染なんて、お前、阿蘇さんの天平綴の前へ出て見 ようや ば、日進月歩だ。鶴むら染も、漸くこれから売出しというろ、影がうすくって見られたもんじゃねえ。が、まあ 所だが、そのあとを気をつけねえと、三日天下に終ってしや、康吉が、これから毳の祝まで生きるうちには、一つや るこっちょうしん まう。阿蘇さんみていに、鏤骨雕心、五十年の歴史を持っ二つは、阿蘇さんの鼻を明かすような、いい ものが出来る 老匠ともなれば、もうどこへ出しても、押しも押されもしかもしれねえ。みんな、その日を待っててくれよ」 ねえ存在で、売れる売れないは、問題にならねえ。そこへ 「ふん。旦那は気が弱いから駄目だ。へい、御返盃」 吉 いくと、まだ情けねえことに、鶴むら染なんて、一つ、下おくらは、なみなみと酒をつぎ、 屋手なものを染めて見ろ、もうそれつきりだ。阿蘇さんなん「いくら、渋くたって、売れなきや仕方がないものね。旦 悉ぞにくらべると、吹けば飛ぶようなもんだ」 那が何ていおうとも、あたしや、当分は鶴むら染の天下だ 「そんなことはござんせんよ。旦那」 とおもっていますのさ」 まんざら と、おくらが、盃をおいて、 そういわれて、康吉はくすぐったいながらに、満更でも 「そりやア、阿蘇さんの帯は、渋好みで、古代美術の張り ない気持だった。

7. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

しろうと くろろ・と る。素人とちがって玄人は、随分苦しいやりくり算段の内が欲しいのかい ーー馬鹿」 あくたい 幕がわかっているので、康吉もなるべく大目に見てはやる と、ありったけの悪態をついといて、ギュッと、二の腕 ぼうりやく のだが、二言目には園八が、鶴むらの店を引立ててやったをつねられたことがある。つまり、まんまと園八の謀略に しやくさわ ように恩を売るのがに障って、どうしても、ぎりぎり結のせられたのであって、更にもう一歩、康吉を深みへはめ 、しよう こんたん 着、半金だけでも入れないうちは、裳は渡さぬと頑張ようという魂胆であることは、康吉に読めた。いや、魂 り、園八の方もそれがなければ、去年の古着では、自前の胆なぞというより、もっとあらわに、あわよくば、衣裳代 姐さんの顔がつぶれるという破目なので、手を合わしておを踏み倒すどころか、それこそその頃売出しの鶴むらの身 しゅうたんば あげく しんばうえんりよ がむというような愁歎場まで演じた揚句、それじやア今夜上を、みんな吸い取ってみせるぐらいの深謀遠慮であった より 十時まで待ってくれ、園八が腕に縒をかけて、十時までに かもしれない。 しか 半金だけ揃えるから、どこそこの何という待合まで、金を 弱い尻といえば、それくらいだが、然し、そんなこんな 受取りに来い。それで出来ずば、衣裳はお返しするという があってから、園八は康吉の一種の苦手になっていて、勘 ような話になって、一旦物別れになり、十時になるのをま定取りにも自分でいくのは億劫になり、そうかといって、 って、指定された家へゆくと、二階の小座敷に案内され注文をはねつける程のふんぎりもっかぬという、何うやら とお て、まずお茶が出るかとおもうと、お銚子にお通しものが煮え切らぬ調子で接しているうちに、商売をやめる時に、 ーせん 運ばれたりして、こりや様子がおかしいと気がついた頃、又貸しになり、喜撰の店を持っ時にも、半分だけで待って ふすま ガラッと乱暴に襖をあけて、どこかで大分のんで来たらしくれということになり、つもりつもって、千円を上廻る勘 い園八が、島田の根をガクガクさせながら入って来て、 定になっているのであった。考えれば、勘定はたまる一方 「こら、康吉のしみったれ。何いってやアがるんだい。二の、疾まぬ腹はさぐられ、康吉もこれでは立っ瀬のない始 吉百や三百のはした金が、どしたってんだい。へん。ここは末だった。 屋お座敷だよ。野なことはいし 、つこなし。さあ、一杯、行 皆 六章 こう。のまない。気のきかない男だねえ、じやアあたいが 悉 のむから、ついどくれ。畜生。そんな顔しないで、もっと おくらが、階下へ下りたので、康吉は、 かんじようと 朗らかにね。ね、ね。康吉さんてば。そんな、勘定取りみ「話中に、混線してしまったが、やつばり、駄目かい」 たいな顔をしちゃいや。借金取り。高利貸。そんなにお金と、前の話に縒をもどした。 さんだん おっくう

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「うつる ? 」 「これか」 なかよた せんらやかん 「うん。大当りだ」 中蓋のある煎茶の罐を、引っぱり出して、ポリポリ前歯 「焼ける前は、随分あったんだけどなア。長襦袢だけで、 でかみながら、又、間をおいて、 ひ、だし たんす 簟笥の抽斗が、そうね。二つ半ぐらいふさがったかしら、 「伊助さんを、狂人でもないのに、あんな中へ置いとくの ひいムうみいよう 緋縮緬が三枚に、友禅が一、二、 は、由々しい人道問題だとおもうんだ」 「よせったら。そんな、死んだ子の年勘定みていなことは と、康士ロはいっこ。 「ほんとに気の毒ね」 「はい、はい」 「それで、こりやア思いっきだが、い それをいうと、康吉がいい顔をしないのはわかってい 来ちやアどんなもんだろう」 口に出てしまうのであった。 「ええツ」 「そこでさっきの相談だがね」 お喜多は、びつくりして目をみはった。 ひじ と、康吉は、片方の肘だけ、チャ・フ台のかどについてい 「ちょいと、笑談じゃないでしようね」 「笑談なんかじゃない。伊助さんにも話したし、副院長の 「なに ? ー 先生とも相談をして来た」 「そら、伊助爺さんのことだ」 「あきれた人ね。一体、どうするの、そんな病人をつれて 「ああ、そうそう。もっと、火鉢の方へお寄んなさい。寒来て」 いでしよう」 「いやか ? 」 「だってお前、もう、つつじが咲いてるよ」 「いやもいいもないわよ。絶対不可能事ですよ」 吉 「いくらつつじが咲いても、今年の寒さは別よ。でも炭団「ふうん」 「だって、つもってもごらんなさい。部屋数だってこの通 を一つ、入れただけよ。おこ 0 てるかしら」 皆「何に、丁度いい。それより、ビーナットはよ、、、 りでしよ。どこへ入れるつもりなの」 「この隣りはどうだ」 「そらはじまった。ありますよ。その戸棚のそこーーーちょ らようだい いと手をのばして頂戴。そこじゃない。そっちの、ホラ、 と、康吉は、次の間をさした。二階梯子を上って、すぐ からかみ 1 かんのん 六畳一一間の押入の横から唐紙仕切りで、三畳の小間がつい 観音びらきの方、あけると、あるわよー・ーー」 ながじゅばん たどん っそ、うちへつれて

9. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

また だけは、余は、知加の鼻声にも、心をとろかさなかった。 る。他カ本願といわれれば、それも亦、可なりである。余 ったな 断じて帰京しなければならぬと云い訳をして、暮れそむるは演奏家でも作曲家でもないから、拙い指に、ショパンの 頃、 ()n 市をあとにした。思えば、市の旅は、往き良しの描く詩境をなそっていく一個の模倣家として、余は余の本 帰り悪しという外はない。 領をわきまえることを知っている。 しかも、満員列車の車中に容れられず、僅かに連結機上 ソナタ第一一番は葬送行進曲ソナタといわれるものだ。第 の金具に立つを得たのみであった。リ 歹車の動揺のたびごと三楽章に、美しくも悲しいヒューネラルマーチが使われて に、地獄の蓋がパクパクあくような恐ろしい思いがした。 数時前、東京をあとに、 ()n 市なる知加のもとに飛びゆきし 余は、第三楽章にかかるや、すでに慟哭を禁じ得なかっ 時の余は、夢見心地ともいうべき浪曼的希望に胸をふくら た。悲しい。悲しいが、あまりにも、純粋だ。澄みわた けんそう ましていたから、汚れたる列車の喧噪も、何の意に介するり、冴え冴えと濃いむらさきだ。秋の深夜を思わせる。こ こともなかったのである。今や余に希望なし。老いて、自の不思議な美しさこそ、ショパンだ。この濃厚の純粋さこ わずら 信を失える余は、すべての人事が煩わしく、帰宅して娘らそ、ショパンだ。 ようや の顔を見るさえ、うとましい限りであった。 余は、漸くビアノをはなれ、旅装をときに、二階なる寝 幸い、娘らは、どこをほっつき遊び居るものか、朝から所に上った。 他出しての不在中であり、わずかに飯炊き婆さん一人が、 いつも、余の側らには、知加がい、帯や足袋まで、ぬが るすいばん ゅう かけぶとん 留守居番をつとめていた。余は娘の顔を見るのは、憂うっせてくれる。余を床に入れ、掛蒲団をかけてくれる。これ なりといいつつ、さりとて、娘がいなければ、やはり、物はもう、何年間かつづいている長い習慣だが、今夜は、余 足らぬとは、勝手なものだ。応接間に入り、旅装のまま、 以外、人影を見ない。娘らはすでに帰宅したものか、ま せんぎ 毛。ヒアノの蓋をあけた。知らず知らず、余の指は、ショパン だ、外をほっつき歩いているか。余はそれを詮議するも、 のソナタ第一一番Ⅱ変ロ短調を弾き出した。 物憂い。余は、一人、押入から蒲団を引出して、その中 余はンヨ。、 / ンを愛している。余自身は、およそ、天分に に、靴下をはいたまま足を突っこんだ。 恵まれぬ凡々たる常識家であるから、せめて、ビア / を通 ふと、壁間にあるショパンの肖像画が目に入った。額は あごとが 昭して、ショパンの天才の息吹きにふれ、仮りものにせよ、広く、眉毛は濃く、顎は尖って、面長である。眸は生き生 らようむす 一種の芸術的共感をもつのを、生活のあわれといたしておきと賢そうた。太い蝶結びのネクタイをしめ、タキシ 1 ド ふた めした わず たび ひとみ

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4 ていた。そこへでも寝かしておこうというのが、康吉の胸「背負ってゆくんだね。 算用であった。 「それもあなた、やる気 ? 」 たんす 「いやよ。あすこは鏡台や簟笥もあるし、とても便利な部「勿論だよ」 よしてよ」 屋だもの。そりやア、ふだんは空いてるようだけれど、目「みつともない。 に見えない役に立ってるのよ。第一、あなた、寝室のすぐ「まあ特別に、さくら湯の親父に話して、人より先に入れ ふろおけ どざえもん 隣りじやア、困るじゃないの」 て貰うんだな。うつかりして風呂桶の中で、土左衛門にし おおごと 「それもそうだが、 ほかにないからーー」 ちゃっちやア大事だからー 「ないのが当然よ。そんな余計なものを入れとく部屋なん「ぶつ」と、お喜多はふき出し、 かあるもんですか」 「笑談じゃないわよ。一人で湯船にも入れないの」 「余計なものはひどいね 「そりやアそうだ。右手が、やっと、この位動くだけで、 すいきよう 「あなたも酔興ね」 あとは手足共、全部麻痺だ。湯が深いとおまえ、・フク・フク 「お前はそういうけれど、一度、あの伊助さんの様子を見といっちまうー てごらん。実際、出来るなら引取って、世話してやりたく 「いやアねえ」 なるのが、人情だよ」 「食べるんだって、箸をもつだけで、やつばり半分は、や 「そりやそうでしようけれど、同情と実際はべつ物よ。出しなってやらずばなるまい。でも気位だけは、昔のまんま 来ない相談は困るわ。それもまあ、病人にもよりけりで、 で、こら、こんなものをくれたんだよ」 じき本復するとか、先が見えてるならまだしもよ。いわ と、康吉は、さっきの祝儀包を出した。お喜多は手にと ば、不治の病人でしよ。変な話だけれど、おしもの用までってみて、 足してやらなきゃならないんでしょ 「祝儀、金壱百円也。まあ」 「それは、みんな、わたしがやるつもりだ。お前の手を汚「ところが、中味は糸屑だ」 すつもりはないよ」 「へえーー 「あなたがやるの」 びつくり箱でものそくように、その紙包の中をのそいて 「引きうける以上、その覚悟はあるさ」 みて、 「お風呂はどうするの」 「やつばりこりやア、ほんものよ」 かくご