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検索対象: 現代日本の文学 28 舟橋聖一集
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1. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

ざるまないた 「いったい、あの人もどうして、やめるのがいやなんでしえて、おみつ婆さんに食べさせるのであるから、どんな機 嫌のわるい日でも、清次の顔を見れば、おみつはすぐ、機 「そりやアお前さん。芸者でなけりやア、逢ってもらえな嫌がなおるのであった。 い好きなお兄さんが、できてでもいるんでしよう」 「チェッ。そりやア、どうせ、あたしたちは安ものでしょ すると、そこでまるで合の手のように、腹ばいの清次がうけれど、清さんだって、たまには、何だよ、鰻ぐらいあ 青い額をふりながら、 たしたちに振舞ってくれても、よさそうなもんじゃない」 「わははは」 「ほんとに、そうだわ。安丼だって、なかなか、ありつけ と笑うのであった。東介もつりこまれて、思わず苦笑いやアしないもの」 うなぎ せっしよう ・』、日回ス を洩らした。それから清次はやおら立上って縁へ 「慈善をすると、殺生の恨みつらみが、消えますとさ」 などと、 笊と爼板をもって来た。三匹ほど、太く長い、ぬるぬるし たちは意地のきたないことを平気でいった。 た奴をひきずり出すと、カチンと、目打ちをくらわして、東介は、いたたまれない気持になって、ほうほうの体で逃 まわし にわかに、のたうち廻る尻つ。ほをつかんでは、胸から胴げかえった。 へ、あざやかに、割いてゆく。 「どうだね、その後の様子は ? 」 「大きいね工、今日のは」とおみつ。 と、研究室では顔の合うたびに、楯矢博士の催促にあ あぶら 「豪儀に脂があるね と、抱えのお辰。みんながドャう。東介もほとほと、困った。しかし、不思議なことに、 ドヤと隣から入ってきてのそきこむなかに、お篠もまじっそのころから、夕方になると、何となく東介は、お篠の顔 しりめ ていた。しかし、お篠は、東介のいるのを、まるで尻目にが見たくてならぬような気持にかり立てられだした。 あいさっ かけるように、立ったまま、挨拶もようしなかった。 「君、それじやどうだ。当人と、さしでゆっくり逢ってみ 「清さん、それじア足りないよ。あたしたちに廻らないよーては」 と、お辰がせがむ。 と、ある日博士がいった。 てめえ 「措きやアがれ。手前たちに、こんな上ものをくわしてた「いや、実は、この間、お逢いしたのです」 やすどんぶり まるもんか。食いたきや、勝手に、安丼をとりね工よ」 「何だ。逢ったのか。そんならそうと、早くいえばいいの たた と、清次は憎まれ口を叩きながら、鰻の肝を、器用にむに」 しりとっている。それから白焼きにして、たれまでこしら「はい」 かか しの ばあ

2. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

114 ・こ 0 「何だじゃないわよ。人の方ばかり向いてるから、そら、 「お金を取られた」 手許がお留守よ」 「ばか」 「ふん」 そこへ、ポーイが入ってきて、風呂の支度をはじめた。 康吉は鏡に向って、ネクタイをほどいていると、結目から「そこ、そこ。お皿の下に、落ちたの。ェッグが 少し下に、飯粒が、三、四粒くつついていた。恐らくさ「エッグか。ふふ」 つき、汽車で食べたライスカレーを誤ってこ・ほしたの康吉が噴き出すと、その拍子に、ナイフがすべって、卓 に、気がっかなかったのだろう。幸い、チョッキの内側なの下に落ちる音がした。 しあわ 「そら御覧なさい。云ってるうちからじゃないの。 ので、誰にも見つからなかったのが倖せと、急いで、お喜 多の見ていない隙に、つまんでとって、ロの中へ投げ込んよ。そのままにしておいて。拾ってくれるから」 「でも、そりやアいかん。俺が落したんだから」 ザーツと景気よく、湯の出る音がしだした。 ナフキンをしたまま、首をさげると、又、椅子がずるつ し・もら とすさって、康吉は危く、尻餅をつきかけた。 「いやアね。みつともない。みんな、こっち見てるわよ」 翌朝は、京都特有のどんよりした薄曇りで、街の方は、 濡れていた。食堂へ出ると、外国人が我がもの顔に、や「だから、ホテルは場違えだといったんだ。ろくろく飯も かな雰囲気をかもし出していた。そうかとおもうと、まる咽喉へ通らねえ」 うすもの で外国人達と同じように、肩や腕を出し、羅物しかまとつ「大丈夫よ。おちついて食べれば。食堂で傍見をするの は、西洋では不作法になってるのよ」 ていない日本の女もいた。 け一ら′ 「毛唐の食い振りが珍しいから、つい、見ていたんだ」 康吉は、こういう華やかな空気には、全然、馴染めない ので、始終、失策をしでかしそうな気ばかりした。緊張す「およしなさいよ、毛唐なんて」 たくさん ればする程、靴がすべりそうになったり、フォークを取落「いいよ。毛唐で沢山だい」 しそうになったりした。 「聞えるとわるいわ」 「毛唐だって、こっちを見てやアがるじやアないか、ホラ 「あなた、 だから、こっちでも、にらみつけてやるんだ . お喜多が、低いけれど、カの籠った声でいった。 「いやアね。あたし、照れちゃうわ」 「何だ」 こも こぎ わみ

3. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

118 まず、二人でいくか、一人でいくかが問題になり、どう おさんなそというから、さだめし、上方風のしっとりしせ上京するなら、ついでに、おさんの親類へも顔を出すと おおげさ としま いうことになるので、段々に、話が大袈裟になり、 たいい年増を想像して来ただけに、お喜多は、少なから ず、あてがはずれたような気がした。身につけるものの趣や十日の滞在では、廻りきれないとなれば、その間の旅費 味も田舎臭いし、言葉っきも、いけぞんざいで、少し尻上も生やさしいものではない。それより一人になさいという から、一人で行くつもりになると、自分というものを、ど りの、東北弁のまじる一種の方言が、耳障りでもあった。 もんらやく てっとうてつび それより何より、市五郎を徹頭徹尾、尻に敷いている感じういう風に、みんなに説明してくれるかで、又悶着にな で、何か云い出そうとすると、すぐ、おさんが話を取ってり、おさんのいないところで、市五郎だけに都合のいいよ しまうのも、いやだった。お喜多は、お肚の虫が、ジリジうに、しゃべられては、おさんの立場がゼロだから、どう リあばれ出しそうになってくるのを辛抱したが、それにししてもいやだという処に、結局、帰着したものらしい おとな 「そ、そんなことは、何とも思っちゃいませんから、あん ても、市五郎が、打って変って、猫のように柔順しくなっ びつくり たのには、吃驚するより外はなかった。昔は、すぐ、顔色まり、御心配なさると、却ってこっちが痛み入ります。何 たんか を変えて、啖呵を切り、少し揉めてくると、立上りかねなしろ、東京と上方じやア、離れて居りますから、ちっとも かんべきや い疳癖屋だったのが、おさんに何をいわれても、ただ、 = 気になんざ、していませんですよ」 をし力にも不甲斐ないよう康吉は、むきになってしやべり立てるおさんの声に辟易 ャニヤしているばかりなのよ、、、 で、いっそ、お父つあんの背中を思いきり一つ、どやしてしながら、なだめるように云った。 ふ 「でも、ほんとに、あの時は、市さんが、もうちょい、 やりたいと、巴うほどであった。 んぎりをつけてくれりやア、二人してなり、せめて、市さ たとえば、初対面の挨拶がすむやすまずに、おさんは、 んだけでも、式に間に合ったんですよ。すぐ、その晩の夜 康吉たちの婚礼に参列しなかった云い訳をはじめたのはい いが、それがみんな、市五郎の不精のせいにしてしまうの行で、帰って来てもいいから、一生一度の晴れではある で、話だけ聞いていると、おさんが一人で気を揉んだようし、不義理をしちやアいけないって、あたしも散々、云っ になる。然し、よく聞いてみると、実は、おさんが反対たのにね」 で、市五郎も止むを得ず、上京を見合せたというのが、本と、おさんは、くどく、それにこだわっている。 「もう、そのお話は、その位で結構よ」 当の筋らしいのである。 かみがたムう みみぎわ ふが かえ へ込え、

4. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

つけた。それよりいっかの若納戸の流行のように又素晴ら 「津田さん、一人ですか。お喜多さんは ? 」 しい色気を案出してもう一花咲かせれば、市五郎にしても 康吉は一一人のうちで津田の方に親しみを多く感じてい お喜多にしても、そのときこそは、本心から、康吉の才分 を認識してくれるにちがいない。先決問題はそれである。 「うん。お喜多さんは南条と一緒に広小路まで買物に行くその上で、堂々とお喜多を女房にすれば史にお喜多の一生 って出て行った」 を、幸福にしてやれる自信もっくーーっまらぬ嫉妬に目が むとんらやく と、津田はまったく無頓着に答えて、熱心に鉛筆をうごくらむなと、自分自身にいってきかせた。 ま、 かしている。 康吉は、米をとぎ終ると、釜に入れて、竈の下に、薪 「のんきだな。もう、ソロンロ夕飯だというのに。お米でをくべた。それから津田の傍にいって、スケッチブックを のそきこんだ。隣りの庭の柿の実は、ぼってりうまそうに もといどいてあげよう」 康吉はひとり言のようにそういって、井戸端で、米をとみのって、秋の夕日に焦げるような光沢を出していた。 こもん込んしゃ あかたが ああ、いい色だ。二十五、六の女の着る小紋錦紗の地色 ぎ出した。秋の日が段々に傾いて、井戸側の銅の箍が、ビ カビカ光った。康吉は、米粒をこぼさぬようにとぎ汁をあにしたら、どうだろうーーと、ふと思った。美女鼠や煤竹 よりはあかるく、藤浪のような色気よりは、もっと茶をし けかえながら、学生が若い娘とつれだって歩いたりしてい て、問題にならなけれま、 しいがと心配だった。しかし、おずませて見る。名前は柿の実で売出す。評判になるかもし 喜多は市五郎とはちがって、まだ世の中を知らぬ純情の娘れぬと空想がうごいた。こうなると康吉は、けろっと現実 であるから、自分の誠意をふみにじるようなことはあるまの苦い気持は忘れて、それからそれへと、夢のなかへはこ 。この間からの、自分の一所懸命な行動も、素直に彼女ばれていくのだ。いろんな色感が、頭の中を縦横に走り出 の心にとどいているにちがいない。南条と二人で、買物のすのだった。彼は縁側に尻をかけ、目を柿の実に凝結し た。市五郎のことも、お喜多のことも、もう念頭に影さえ ついでに散歩した位のことで、別に自分がそれを嫉妬した とが り、咎めたりするには当らない。それでも愈々不安になれなかった。 ば、今夜にでも市五郎に話して、はっきり婚約をきめさえ 四章 すれば、誰が何といおうと、指一本ささせることではない。 なかがわ 要するに自分の決心次第なのだと、ムラムラする心をおち水戸市の北を、西から東へ流れている那珂川は、遠く下 へつつい

5. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

分娩・授乳。そして既にその仔等は活に跳躍運動をはじして、その重量は十一グラムもございました。写真にもと めていた。いくつか又新しい檻が分離され、次回妊娠の著っておきましたが : : : 」 明に認めらるるものも出来て来た。その報告書を、追川初「それでは、体重が多いのも、無理がない が書き上げる傍から、待っていて一枚一枚、二桐の机には「先生は、体重、何貫おありなのーー」 むら こぶのは、襟子の役である。今運ばれたべージには、次の と、うつかり襟子が無駄口をきくのを、追川初は、鞭を ような記事があった。 ふるような声を立てていった。 めすちょうこう (<) 牝ノ挑媾的動作開始マデノ時間。 「襟子。ここは神聖な研究室です。何故あなたはわからな 「区分檻」ノ一区劃中ニ、充分成熟シ且ッ未ダ交尾ノ いのですか。それがわからなければ、ここをすぐ出てゆき めすおす 経験ナキ牝牡各一頭ヲ入ルレ・ハ、牡ハ牝ヲ識別シ、次なさい ニ交媾ヲ行ハムトシテ、牝ノ背後ョリ其頸ヲ噛ムニ至すると襟子は、耳を手でふさいだまま、二桐の胸の中へ ル。此時、牝 ( 声ヲ発シ、之ヲ避ケントスルモノノ如崩れて来た。二桐は、びつくりしてうけとめた。 がんこ キ動作ヲナス : 「追川君、何もそう、頑固にいう必要はないじゃない : こんな娘さんに、研究にばかり興味をもてっていったって、 それを追川初が書いているだけに、何となく微笑ましか むだ そりや無理だよ。稀には、無駄話もしたかろう。したって いさ。別に、そのために、僕の仕事がどうなるってもの 「これでよろしゅうございましようか」と襟子が訊く。 「よろしいでしよう。そのあとへ、牝牡を同居せしめてかでもないよ」 がいどうさ ら、該動作を開始するまでの時間を、モルモット三十匹に と、二桐は、不愉快になっていった。 ついて計測して、表に出しておいてくれ給え」 、え、私は、もう三年も先生にお付きしていて、先生 石「かしこまりました」 がいかに冷静な大学者であるかをよく知って居ります。恐 ひはん 「それから、この間の肥胖病のモルモットを解剖したか聞らく、現在の研究所の先生のなかで、二桐先生に追随出来 わ、め いてみて下さい る先生はいらっしやりますまい。それもみな、先生が傍目 木 そこではじめて追川初は机越しに向うから大きい声で答もふらず、ーーほんとうに傍目もふらないで、ただ、お仕 えた。 事にまっしぐらでいらっしゃればこそでございます。それ 「いたしました。やはり内生殖器周囲に、脂肪塊がありまなのに、襟子は、何という不躾な子でございましようこと よんべん こうこう はほえ と たま ぶしつけ

6. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

やってやれないことはないと思うけどしい身体が、康吉には、まぶしい程だった。男の自分がま 「そうね、 ぶしいくらいであって見れば、それは当然、お喜多にも強 ねた 「大変ですよ、朝晩のことだから」 烈な印象になっているのだと思うと、康吉はやはり妬まし えんよく と、康吉は婉曲に駄目を出した。その翌日、昨日来た南い気がした。悪い虫のつかないうちに、早く自分の女房に 条という学生が、もう一人友達をつれて来て、二人で入っしてしまおうかという気が時々した。 ずつ て、一カ月賄付で、三十五円宛だすから、置いてくれとい やがて秋の天候がすっかり定まって、毎日、空高く晴れ きくびより った。二人で七十円ともなれば、少々気骨が折れても、算渡って菊日和がつづいた。春から夏へ、とかく風の多いこ ばん 盤はひきあうにちがいなかった。 の土地では、空気の澄む秋の季節には恵まれていた。 「あたし、やって見るわ」 或る日、市五郎は組合の寄合の帰りに、康吉を、中川と うけあ うなや はいわー、 と、お喜多は、請合って見る気がおこって来た。 いう鰻屋に誘った。いきのいい、身のあつい蒲焼が名物で、 「世帯もちの稽古のつもりでやってみるのもいいだろう」東京人のロに合うものは、ここ一軒だった。裏に小意気な 市五郎も賛成だった。南条はすっかりよろこんで、今日座敷があって、大工町の箱も入った。市五郎は座敷へ上が はくたかちゅうぐし からでも、寄宿寮をひきあげてくるといった。 ると、白鷹と中串を命じて、自分が床の間の方へ坐った。 だいはらぐるま やがて大八車に、二組の寝具と机に本棚という簡単な引「実はね、ものは相談だが、御覧の通り、私も着のみ着の 越し荷物が、到着した。康吉は車から、机をとりおろす拍ままで焼け出された。どうやら、お前の工夫で、梅村の看 、刀、刀し、刀 子に、四つ目垣にからんだ丹精の朝顔の花が、一度に三つ板は出してみたが、田舎もの相手の商売では、は、 四つ、首をうちおとされるのを見て、何ともいえぬ腹立た ない。昔お前が考案したソラ若納戸という色気が流行し くろうとしろうとけむ しい気がした。いつもの康吉らしくなく、南条たちに手をて、下町から山の手へ東京中の玄人も素人も煙にまいた時 吉貸してやる気もなかった。時々、横目で見ながら、染めにの話は、まったく夢だ。貧すれば鈍するで、この間の片そ め小紋なんぞも、私は一日考えて、とうとうましな智恵一 康出すのり置き小紋の柄を、選んでいた。 皆南条は、中背の色の白い、眉毛の美しい学生だった。もつうかんで来ね工ありさまだ。ところが実は少々金の要る ことが出来たんだ」 う一人の津田というのは、背は低かったが、瞳のはっきり した、頭のよさそうな男だった。二人ともまだ、一一十歳ぐ と、市五郎は切り出した。女中がお銚子を二本はこんで らいで、若さにあふれていた。苦労のあとのないみずみず来た。久しぶりのお酒だった。 ひとみ そろ

7. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

しても、その上を越すような、思いきった手段に出る必要一年とたたぬ間に鶴むらという暖簾が相当の人気を持ち出 とうとら・ さから がある。いわば、滔々たる奢侈浪費のお先棒をかついで、 しているとなれば、康吉も、この現実の浪に抵うことはな これを、駆り立てるコツを研究しなければならぬのであるかった。むしろ、その浪に乗って、生活の基礎だけは築き から、康吉が、段々自分の仕事に、懐疑的なものを持ち出上げてから、ゆっくり、勉強して見たいとも考えた。そう したのも、無理はなかった。 かと思うと、反省を知らぬ第澱な客の無理やりの注文を受 かす ( 儲けようと思えま、 をいくらでも儲かる。ここで、仕事にけるときなどは、例の懐疑が、ムラムラと胸もとを掠め 精を出すことで、同業者に負けを取るとは思われぬから、 て、これでいいのか、これでいいのかと、自分を責めた。 ぶげんしゃ うまくいけば、このまま身代をふとらせて、一代の分限者そのうちに、秋風が立ったかと思うと、もう、冬物か さっとう いしよう にだってなれないことは無い。然し、自分だけが儲かつら、正月衣裳の注文が殺到した。康吉は、目の廻るような すた て、何になるんだろう。世の中が、頽れてしまって、どう急がしさに追われていたが、そのおかげで去年から、この くったく ゅう なるんだ。大きい目で見て、この日本の将来は ? ) 春へかけての屈託は、どこへか飛去って、久しぶりに、悠 ゅう ふと、康吉は、考えた。そして、自分に、ほんとうの学悠とした歳の暮が、迎えられそうだった。お喜多の女房ぶ 問のないことが悔まれた。 りも、日ましに、脂がのって来た。その点では、いつまで ( 何か、私達のような、無学のものにわかるような本はなたっても、康吉の方が、亭主らしい格が据わらず、それを いものか。日本の財政とか、思想とかについて、書いてあ無理に、そう振舞うと、自然、お喜多とロ争いをしなけれ ばならぬことが多かった。しまいには、 るような ) そんな気にもなって、注文取りに出たかえり、神田の古「康吉さんも、縹緻自慢のお内儀さんをもったので、気が 本屋なぞをのぞいたこともあったが、結局、何を読んでい揉めるのさ」 吉いか、見当もっかなかった。 と、おくら婆さんに、蔭口をきかれるようになった。そ 屋 ( こういうときに、津田さんにでも、きくとわかるかな ) れが又、どの耳からロを廻ったのか、暫くすると、お喜多 悉康吉は水戸の下宿でお馴染の津田さんのことを思い出しの耳に入り、それから、康吉にも伝わるのであった。康吉 た。然し、津田さんも、この正月に、親父橋のへんで、ひもくさくさして、いっそ、正月がすんだら、お喜多をつれ かみがた 8 よっくり逢ったきり、消息をたっていた。 て、上方見物にでも出かけようかと思ったりした。東京を 然し、そういう思想は思想として、新しく店を出して、 はなれて一一人ぼっちになれば、自然、ふだんとは違った心 なじみ しか のれん

8. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

なすだけふもと やみぞ って下さい」 野の国那須岳の麓から発し、八溝山脈の西に沿うて南流し、 烏山町の南方で、急に東南に転ずるや、八溝山脈を横断し お喜多は、顔色一つ変えず、落ちついて黙っていた。膝 て、やがて太平洋にそそぐのであるが、その河口に、名高の上に、指をくみあわせて、手入のゆきとどいた爪が、ほ たんもの い那珂港がある。康吉は其の日港の古い太物屋に取引があんのりさくら色に艶々していた。 ちょうど おおあらい って出かけた。恰度お喜多も大洗の磯浜に用事があって、 「何か旦那様から、それについて、おききになってはいま 一一人はつれ立った。午前中に用をすまし、帰路も一一人は那せんか」 珂川橋のたもとで落ち合った。康吉はそこから堤づたいに 、え、なんにも」 青草を踏んで歩いた。葦のふかい川岸に出た。葉がくれ「それじやア、あなたもだしぬけで、さぞびつくりなすっ いっそう りようけんおばしめ に、小さい舟が一艘つないであった。 たでしよう。奉公人のくせに、生意気な料簡だと思召した くたび 「草臥れたなら休みましよう」 ら、かまわずそう仰有って下さい」 と、康吉は、その舟の艫の方へ足をのせて、 それでもお喜多は何にもいわない。康吉は変に怖いよう 「それに、ちょっとお喜多さんに相談したいこともあるんな気がして来た。背よりも高い葦の葉が、そよりとも動か ですよ」 ず、影を水におとしている。秋の日の照りかがやく真昼間 しん 康吉の手につかまって、お喜多も葦舟にのりうつった。 だが、あたりは森として、ものの動く気配もない。さっき 一一人は、鉾ど艫に相対して、腰かけた。 までべたべた揺れていた川浪もしずもって、水はとろんと よど こうふん 「実はね、お喜多さん。この間、旦那様から、私を養子にむらさきに澱んでいた。昻奮しているのは康吉だけであっ うか したいというお話があったんですよーーー・だしぬけだったの た。黙りこくっている女を相手に、熱に囈されているよう なお で、私はびつくりしたが、尚よく考えさして戴いているんにしやべったが、急に自分も張合がぬけて、ロをつぐん だ。石のように黙りこんだお喜多の腹のなかが、康吉に 吉です」 葦舟のふなべりには、風もないのにべたべた、ペこ は、さつばりわからなくなった。康吉は手拭を出して、額 たわむ うら ほととぎす 皆べた、川浪が戯れている。 の汗をぬぐいながら、鳴くまで待とう時鳥かと、ロの裡で つぶや 「ついては、お喜多さん、夫婦になるにはどうしても、お呟いた。手をのばして、わけもなしに、川ぎしの葦の葉を 喜多さんの気持ちをきかずばなりますまい。それで、機会ひつばりちぎった。一分、二分、三分とたっていった。 をこしらえたいと思っておりました。ざっくばらんに仰有「ねえ、お喜多さん。そんなに黙っていられちやア、私も つけ おっしゃ

9. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

4 ていた。そこへでも寝かしておこうというのが、康吉の胸「背負ってゆくんだね。 算用であった。 「それもあなた、やる気 ? 」 たんす 「いやよ。あすこは鏡台や簟笥もあるし、とても便利な部「勿論だよ」 よしてよ」 屋だもの。そりやア、ふだんは空いてるようだけれど、目「みつともない。 に見えない役に立ってるのよ。第一、あなた、寝室のすぐ「まあ特別に、さくら湯の親父に話して、人より先に入れ ふろおけ どざえもん 隣りじやア、困るじゃないの」 て貰うんだな。うつかりして風呂桶の中で、土左衛門にし おおごと 「それもそうだが、 ほかにないからーー」 ちゃっちやア大事だからー 「ないのが当然よ。そんな余計なものを入れとく部屋なん「ぶつ」と、お喜多はふき出し、 かあるもんですか」 「笑談じゃないわよ。一人で湯船にも入れないの」 「余計なものはひどいね 「そりやアそうだ。右手が、やっと、この位動くだけで、 すいきよう 「あなたも酔興ね」 あとは手足共、全部麻痺だ。湯が深いとおまえ、・フク・フク 「お前はそういうけれど、一度、あの伊助さんの様子を見といっちまうー てごらん。実際、出来るなら引取って、世話してやりたく 「いやアねえ」 なるのが、人情だよ」 「食べるんだって、箸をもつだけで、やつばり半分は、や 「そりやそうでしようけれど、同情と実際はべつ物よ。出しなってやらずばなるまい。でも気位だけは、昔のまんま 来ない相談は困るわ。それもまあ、病人にもよりけりで、 で、こら、こんなものをくれたんだよ」 じき本復するとか、先が見えてるならまだしもよ。いわ と、康吉は、さっきの祝儀包を出した。お喜多は手にと ば、不治の病人でしよ。変な話だけれど、おしもの用までってみて、 足してやらなきゃならないんでしょ 「祝儀、金壱百円也。まあ」 「それは、みんな、わたしがやるつもりだ。お前の手を汚「ところが、中味は糸屑だ」 すつもりはないよ」 「へえーー 「あなたがやるの」 びつくり箱でものそくように、その紙包の中をのそいて 「引きうける以上、その覚悟はあるさ」 みて、 「お風呂はどうするの」 「やつばりこりやア、ほんものよ」 かくご

10. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

ムう 体、風つきからして・ハカついていて世間並に踏める女は、 ほかでもモルモットやマウスに関する飼育法の卓越した けしよう 数える程しかいないのである。稀に、あくどい化粧をした技能は、追川初の右に出るものはいないので、少し位婆さ らようほう り、真赤な口紅を塗ったりしているものもあるが、下手なんでも二桐にとつでは、重宝この上もないのである。恐ら 化粧は、しない方がましである。そんな女を見ると、二桐く他の女助手を使っているのにくらべて、三倍も四倍も、 はすぐ、おや、君は今、モルモットを食べて来たのかい、 能率がちがうにちがいなかった。それに、二桐も人情に遠 しんらっ ごと もっ また ロのまわりが血だらけじゃないかと、辛辣な皮肉をとばしい科学者を以て任じている如く、追川初も亦、人情に遠い てやるのがきまりである。 木石の女として通っているのであるから、二人の存在は好 で、どうせ、みつともない女ばかりならと、二桐はすす一対ともいうべきであった。無論、追川初の木石無情は、 おいかわはっ んで希望して、一番年上の追川初を、自分の女助手に選ん彼女の潔癖すぎる性格から出てくるものであった。彼女 けいらよういや ほうらっさげす でいた。追川初は今年四十四歳の中年の女である。顔は必は、軽佻を卑しみ、放埒を蔑んだ。彼女の憎しみを買っ みにく ずしも醜くはない。却って若い子の下手なメーキャツ。フをて、研究所を追われた数人の女助手がいる。どんなことが なみだ 見ているよりは、さつばりして、垢抜けという程ではない あっても、泪一つ見せたことのない追川初の性格を、みん すで にしても、自然なる媚と柔らかい感覚がある。既に、勤続なは意地悪なものとして、嫌っていた。その代り彼女が侍 一一十五年という・研究所切っての古参で、凡そ研究所いている先生に対しての、忠誠は又、類がなかった。服務 らしつ じゅんばうしゃ 内部のことなら、自分のからだのように知悉していた。長規程に対するもっとも厳格な遵奉者でもあったが、少しも く初代所長博士の女助手をつとめていたが、博士の感傷を交えずにやり通す所に、その特徴があった。一一桐は 後、現所長添沢博士の女助手となってから、何となく、うそれを充分に評価していたので、別に研究所内の下らない しばら まが合わなかったせいか、暫く無任所の位置にあったのデマなそは、少しも意に介さぬのである。 としごろ を、三年程前から、一一桐が特に所望して自分の傍におくこ この追川初に、一人の妙齢の娘があるという話は、研究 とにしたのである。 所の伝説として古く知られていたが、少なくとも現在の所 追川初の熟練した技術は、特にモルモットや二十日鼠の員で、その娘の存在を確かめたことのあるものは誰もなか け・んミ - / 、 牝の発情を検索し、これを見わける錏敏な目であった。ひょ った。追川初は、この一人娘については、全く口を緘して いとつまんで、その腹をひっくりかえし、チラッと外陰部いた。いっしか人々は、ロ碑としての、想像上の人物とし をにらんだだけで、発情中か否かがわかるのである。そのか、考えられぬようになった。それだけに、浪漫的なもの めす かえ こび まれ あかぬ ばくせき かん かしす こう