そういう声を聴いていると、社会党や共産党の政治家た顔を見ていると、涙がわいてきて、止らなかった。秋岡委 ちは、何ンという虫のいいことを云う人たちであろうか員、守谷委員が、よく世話をした。今夜は自分達が、付添 と、英子は思った。保守の自民党が、全学連を破壊勢力と っているから、英子には帰寮するようにすすめた。然し、 ぞうお 云って憎悪するのはわかるが、革新政党の人達が、自分ら英子も、まだ麻酔からさめない友達を置いて帰るわけには あらわ の影響下に生れてきた若い激情に対して、露な非難を浴び いかなかった。 せかけるのは、大人げなくもあれば、自己本位でもあり、 布原が正気付いたのは、午後十一時すぎであった。然 或る意味では、無責任でもあるだろう。 し、今夜はなるべく話をしないようにという外科主任から やがて手術が終ったらしく、ガラス戸があいて、診の注意があったので、英子は軽く、布原の手をさすってや ひまっ 療所の外科主任が、白衣に少し血の飛沫をつけたままで、 るだけにした。布原は目をあけて、「ここはどこ」と訊き、 あらわれた。 秋岡委員が、お茶の水の診療所だと云うと、黙ってうなず 「布原タマさんの友達ですか」 いて、またすぐ、目をつむった。布原は目の上までの大き ほうたい 「はい。経過は ? 」 な白い繃帯を頭へ巻き、大腿部には副木をして、やはり厚 英子は全身をドキドキさせて訊いた。 く繃帯をまいていた。 「輸血を充分したのと、時間も早かったから、今夜一ばい 一一度目に目をあけたときは、「片森さんは ? 」と云い の経過によっては、何ンとか助かるでしよう」 守谷委員が、「ここにいますよ」と入れ代ったが、それは うわごと 「まア : : : ありがとうございます」 半分囈言みたいなもので、ほんとうに覚醒してからは、記 やがて布原は麻酔の切れないままに、担架車で病室へは憶になかった。 ねむ こばれた。却って、大きな病院より、町の診療所だったこ 布原はまた睡りだした。それで英子も一一人の委員にあず とが、彼女の幸運になったかもしれない。手当もよく、手けて、帰ることにした。先生は、生命は助かると云ってい 術のタイミングもよかったのだ。手おくれになったら、恐るけれど、あんな重症で、明日の朝には、冷たくなってい ろしい危険が来たに違いない。病室は、やはり同じ大学のるのじゃないかと、英子はひどく不安にかられた。 さこっ 英文一一年の女子学生で、左鎖骨骨折の負傷者と同室だっ 診療所の門を出ようとすると、巻村が立っていた。 「あらーーー」 布原の麻酔はいつまでもさめなかった。英子はその「夜になって、もういちど、女子寮へ行ったら、キミがこ かえ かくせし つ、そ
たのであり、全権団が出かけてしまった以上、日米間の調では、自民党のお家騒動とまるつきり一緒じゃない ? 」 ふんまん 印は、時間の問題にすぎなかった。 英子は、憤懣をこめて云った。こんなことで、統一行動 「何しろ、国民の知らないうちに、ドンドン、既成事実をが取れる筈はないと思った。 積上げていってしまうやり方なンだから : : : 岸独裁は「今の執行部があと一一年 : : : 一年でもいいから、指導権を 持ちつづけたら、客観情勢も変ると思うけれどーー」 かえ 「空港デモを評価したのは、却って、・フルジョア新聞ね布原はまた痛んでくる足を押えるようにして、祈りに近 : アカハタは、猛烈にやつつけてるわ。見る い言葉を吐いた。然し、現執行部を掌握している主流派 英子はポケットに、アカハタを持っていた。 が、あと一一年も、指導権をもちつづけられるかどうかは、 しやく かえ 「見たくない、癪だから : : : 」 却って英子のような第一二者のほうが、正当な見方が出来 と、布原は一応ことわったが、また思い直してか、黙っ た。布原タマには、願望が大きく強いので、状況判断が甘 て、手を出した。 いとも云えるのである。 あいまい 「読んで上げようか」 「何しろ、主流派は頭のいい人ばかりだし、一点の曖昧も 「うん」 許さない純粋度と厳しさのために、却って、孤立化する怖 「 : : : 憎むべきトロッキストの挑発が、依然としてつづけれがあるのよ」 られている。彼らの一団は、 英子のそういう見方に対して、現在病体の布原は、返す ″一月十六日、羽田へーーー岸渡米を阻止せよ 言葉がなかった。若し、布原が元気でビンビンしていた はんばく というビラで、発狂的煽動を行な 0 ている ・ : トロッら、とっくに反駁していただろう。 キストと西尾一派の右翼分裂主義者は、ともに今日、アメ 「片森さん、すまないけれど、私の代りをしてくれない」 リカ帝国主義と日本反動の手先であり、民主勢力の共同の或る日、布原は大分うすよごれた毛布で足をくるんだま 敵である」 ま、上半身は起していて、食堂へ出てゆこうとする英子を と、英子は読んでいった 呼び止めた。 「ひどいことになるものね」 「なアに ? 」 布原はそれには答えず、天井をにらんでいる。 「金助町まで、行って来て : : : 」 「要するに、思想でも政策でもなくって、派閥ね。その点「金助町 ! 」 せんどう おそ
「まア : 新情勢なのだというのだ。これは、主流派と対立し、その すべ 指導幹部を除名しただけで、何ンの手もうたぬ日本共産党答える術もなかった。 しか 然し、それつきり、布原はそれについては語らなかっ ではなかったから。 ただ 秋に入って、反主流派の攻撃の火の手は、一日一日と募た。只、英子を不安にかり立てるのは、布原の態度に、今 ってくる。それにかかりッきりの布原は、今までのようまでにない何か微妙な変り目が感じられることだった。 に、 巻村純一一から、逢いたいと云って来たのは、新学期がは じまって、一段落した九月の末頃だった。 「片森さん」 と呼びかける数も少なくなった。せつかく黒板に記入し て、順番をとった風呂も、 激しい日 「あとにするから、次の番を入れちゃってーー」 す、 と、自分はペンをおかないのだった。が、その隙を盗ん で、 「片森さん、この夏休みに変化なかった ? 」 「意識の変革 ? 」 男の大学生に対して、女子大学生の数は、はるかに少な 「ノウ。身辺人事の変化よ」 。それで、在学四年の間に、一人も男の友達が出来ない 「何ンにも」 ようなのは、少しどうかしているンじやアないかと思われ と、英子は否定したが、布原は睨み返して、 がちである。 「木沼さんが、松本へゆく前に、あなたの家へ寄ったンで男の友達という意味は、単なる仲よしとも違う。といっ フィアソセ イしよう」 て、はっきり婚約者でもない。然し、将来夫婦になること ののし ギ 英子はギクリとした。木沼のことは、あの時あんなに罵を二人だけは認めている。親兄弟はまだ承知していない。 だから公認でない夫婦約束になっている。ただし、学生間 ネったのに、それだけにまた、忘れられずにいる日もあった ではみな得心していて、二人が仲よくしても、とやかくは 云わないのだ。そういう男友達の意味である。 「ちょっとね」 はっきりした統計はわからないが、卒業する頃には、そ コ一人でポートを漕いだって云ってたわ」 にら つの
そこには、全学連の書記局があった。 ので、一瞬英子は、場所をまちがえたのかと思ったほど もら しゃ 「木沼中央委員に渡して貰いたいものがあるのよ」 だ。奥で、木沼は執行部の連中と、声高に喋べっていた。 「木沼さんでなくっちゃいけないの」 」小路や堀や荒井の顔もまじっていた。 「いなければ、北、 る路さんでもいいけれど : : : なるべくは英子が入口にあらわれたのを、しばらくは気がっかない 風だったが、そのうち、北小路が見つけて、 木沼さんに : : : 」 「おい、木沼ーー」 布原の手には、糊付けした大型の封筒があった。 「渡すだけなら : : : 」 と知らせた。木沼は驚いた様子で、奥から出てきた。 「誰かと思ったら、片森さんか」 「すみません」 そうでなくても、布原の負傷以来、陰に陽に、英子は手「思いがけなかったでしよう」 伝わされている。それを巻村なんかでも、この頃、英子が「どうもありがとう。おタマの代りにやってくれてるそう 全学連の仕事をしていると云って、心配している。その自で : : : 」 分が、金助町の本部へ出入りするところを、誰かに見られ木沼は一ト頃よりもまた痩せて、アゴが突き出している ように見えた。 でもしたら、一層評判が立つだろうと思った。 「単なる代理よ」 大体、封筒の中身も、何がはいっているかは、わかっ 英子は、布原から預かってきたものを出して、木沼に渡 ていた。女子寮生の中の、全学連加盟費の集金だろう。 それを早く、木沼委員の手へ渡したい布原の気持もわかした。 る。 「それは、わかってる」 「食事がすんだら、行ってくるわ。受領証ももらってくる「おタマも、決して、闘志をへらしたわけではないの。な しろ、怪我する前より盛んなくらいよ。ただ、視力が弱っ イのね」 ているの。夜なんか、外出は危険な位 : : : その上に、再骨 ル「お願いするわ : : : 」 ネ英子は引ッ返して、白のショート・ ーをかかえて折した足も痛むらしいから : : : 」 「気の毒に : : : やつばり、重傷だったンだ」 出た。 「完全に元通りになったら、あたしは頼まれても、しない ーー金助町へ来て見ると、全学連の本部ともあるもの わよ」 が、もう少しは、ましなのかと思ったら、あんまりひどい
「私的所有のない共産社会なんて、全く、夢の夢なンだ英子はそれを、感付かぬ筈はないが、やはり黙ってい てあか こ。 わ。誰だって、自分の手垢のついた辞書は私有したいし : フライ・ハンだって、実はそうよ」 学年試験がはじまるので、英子は研究室にいるほうが多 「でも、記念品というものは、共有すべきでしよう」 い位だった。こうなると、東山時代のノートばかり取って 「わかった。恋愛だって、私的所有だものね」 もいられないので、八方へ手をひろげた。 「恋愛を共有したら、どういうことになるの」 巻村純二は殆ど話しかけてこなかった。黙々として、三 「昔の女闘士なんて、共有だったンじやアないー 条西実隆に没頭しているらしい。英子は少し物足りなかっ 「あなたのお父さんの時代 ? 」 た。せつかく杉下教授が紹介してくれたのだから、もっと 「親父も自分のことは黙秘なのよ。でも、仲間のことは云親切に指導してくれてもよかりそうなものだと思ったりし うわ。その劇団の下廻りの女優は、平気で誰とでも楽屋風た。若し、これつきり彼が話しかけてこなかったとした 呂へはいるし、まるで劇団専用のプロスチチ、ートだったら、何かで自分を、つまらない女と見たのかもしれない。 ンだってーーー」 たとえば、質問の具合とか、ちょっとした返事とかでも、 「不潔だわ」 学識の有る無しが鑑定されるものである。 「だからさ、英子なんかは、あくまで個人的自我を守れば「部屋が変ったそうだねと、杉下教授が云った・ しいのよ」 布原はそう云って、英子の顔を立ててくれたが、自分は「こんどは誰と」 カーテンも引かないで、いつも天井を向いて、寝相よく寝「布原さんですー そうじ ぶしよう た。投げやりで不精のようだが、掃除はよくやった。英子「知らないね。デモに行ってる ? 」 のほうが、借りになることが多い位であった。 「私ですか。私は行きませんが、布原さんは行ってるよう です」 布原は食堂のきまった食事を、黙って食べた。フライ・ハ むず ンも殆ど使わない。おくれることはあっても、腐らせるよ「大学は実に難かしいところにある。片森君や巻村のよう な学生もいるし、・フント ( 共産主義者同盟 ) もあるし : ・ うなことは、先ずなかった。 しか 然し、彼女は警職法以来、デモには欠かさず参加してい そうかと思えば、ロカビリーやビート族もいるし・ : ・ : 講義 るようだった。それを英子には云わなかったが。 したり、口頭試問したりしていれば、教授や助教授は学生 はず
れは、満を持している警視庁に対して、茅学長が、 と、守谷委員が云った。その守谷と秋岡は、駒場の友達 「学内踏みこみは、十日まで待 0 てくれ。説得が水の泡にに連絡に行くというので、英子は彼女らの代りに、布原の なるから」 はいっている診療所へ、十通近い通信の伝達をたのまれ と申入れていたせいもある。 ほうたい 九日夕刻、教養学部学生部から、清水に対する退去命令 布原は大分回復していた。頭部裂傷の繃帯も小さく が出た。それは、「寮に宿泊或いは仮泊するときは、学校なり、顔色にも、血の気がさしていた。一緒に入院した英 たて 当局の許可を必要とする」という内規を楯にとり、これに文二年の学生は、昨日退院したとやらで、隣りのペッドは 違反している清水を学外に退去させろという勧告である。空いていた。 清水にとっても、中央委員にとっても、致命的な勧告だつ「木沼さんが、はじめて見舞に来てくれたわ : : : 今日」 た。英子はそれを寮委員の秋岡から、聞かされた。 と、布原はニコニコして云った。 「もうダメね : ・・ : これで」 「まア、おそいのねー と、英子は云った。 「でも忙しいもの : : : 個人的な問題は、あと廻しよ」 「清水書記長も、さすがに神経質になってるらしいわ。総それなら、女子寮へやってきたのは何ンだろうと英子は かんしやく 代会でも、癇癪を起したり、ヤジに対して怒ったりしたそ思った。 うよ」 「木沼さんたらさ、もう懲り懲りしたンじやアないかって 「一般学生からいうと、非合法ってものは、どんな理由が あっても、異物なのね。異物が体内から、押出されるよう「何ンて答えたの」 に、経済学部の学生が、駒場寮から出されるのは、自然科「とんでもないわって : : : 懲りるどころか、ますます闘志 学的じやアないの」 も旺盛だし、敵を憎む気持も、募るばかりよ」 「まア冷静ね : : : わたしたちは、身体中の血が炎え立って「木沼さんは喜んたでしよう」 るのに」 「大いにやって下さいって云ったけれど、彼何ンとなく憂 うつ と、秋岡に云われた。 鬱そうだったわ。たしかにあの人は、この夏の前とあとで 「それよりね、神宮外苑には、警視庁の機動車が並んで、 は、人が変ったみたいだわ」 すわ出動の用意をしているって云うわ」 布原は目を細めて、英子の表情にさす微妙な動揺を読も こ 0 おうせい ゅう
ない」 しよう」 「でも、これからの革命には、宗教的な信念より透徹した 思いがけない奇襲にあって、英子は面くらった。 論理が必要でしよう」 「とんでもない」 「そう云われると一言もないんだけれど、自分なんか、あ「ホホホーー巻村さんの影響がありすぎる」 んまり自由にすると、危険なのよ。迷ったらおしまいだし「あら、いやだ」 ちょうはって、 ね。スタイルにしても、挑発的なものは、全然避けたい 「でも、あの人は悪党よ。階級的裏切りも、ほどほどにし の。少し官僚的かしらね」 てもらいたいわ。あの人の知識階級論なんて、ヘドが吐き 「少しどころじゃないと思うわ」 たくなる。あれこそ、イカサマで、ニセモノで、全く処置 「だから、それはテスト・コースなの。今に脱皮してみせなしだわ」 るつもり : : 一応中央委員事務見習だもの、ホホホー 「それほどでもないと思うわ」 じちょう あばたえくほ と、布原は自嘲した。たしかに、この頃の布原は、白の 「そりやア菊面も笑窪だからね : : : ・フロレタリア 1 トを認 ねずみ プラウスに、鼠のタイトのスカートで、口紅もつけなくなめないで、知識階級の再生産なんて、およそナンセンスじ った。質素を通りこして、無色無味を思わせた。そうかとやないの。あれこそ、・フチ・プルの悪魔的テマゴ 1 グだと 思うと、男のように股をあけて走った。人前で、欠伸をし思うわ」 せき めちやめちゃ たり、咳ばらいをして話し出したりした。しかし、ウエス 「おタマにあっては、減茶減茶ね」 トのくびれあたりには、女らしさが充分にあった。乳房も「怒った ? 」 、え。でも、人のことを、そんなに云うもンじゃない 盛り上っていた。彼女はっとめて中性を装おうとするが、 と思うの。同じ時代の中で、思想の悩みがあるのは、われ それは擬態であった。 人ともでしよう」 イ「恋愛だってするときがきたら、するつもりよ」 「やつばり、あなたは巻村さんに惚れてるンだわ」 と、布原は云った。 ネ 「それなら、見直すわ。この頃のおタマは、恋愛なんて否「もうよしましよう。今夜は : : : 明日、頭をクリャーにし 定してるみたいだもの」 て考えるわ」 「そうね。現代は否定的だわ。小説を追放したようにね英子は、涙をうかべていた。巻村をニセモ / と云われた ・ : 片森さんがデモに参加しないンだって、恋愛のためでから口惜しいのではない。布原が、よく知らない筈の巻村 あくび くや
て、上機嫌に見えた。 「木沼さんは漕げるの」 「少しはね」 湖水へ出てみると、岸に立って見るよりも、湖水の面積 は一層広く思われた。形もさまざまだった。ポ 1 トの位置 「では、ポートを頼んでくるわ」 ・グ 英子は、貸ポートの小父さんのところまで、走っていつでは、ダーク・グリーンの円形になったり、シル・ハ ひょうたん レイの瓢簟形になったり、また上ずみにコ・ハルト・・フルー 木沼とは、あのとき、布原タマが、新寮委員長に就を流した三角池のように見えたりした。 任したので、挨拶に行ったとき、英子も一緒にゆき、それ暗いので遊覧船は見えなかったが、モーター・ポートが 以来、両三度、顔を合わしただけであった。木沼も、雄弁わがもの顔に走り廻り、そのあとには幅と厚みのある澪が あお では、唐牛や北小路に負けなかった。闘志も盛んだし、実出来て、小さいポートは、その煽りを食った。 やがて月がの・ほってきた。 行力にも富んでいた。布原タマは、それについては、一語 「よかったよ、やつばり、来て・ : : ・」 も洩らしていないけれど、彼女が木沼に熱を上げているこ と木沼は云った。 とは、確定的だった。英子の想像では、二人はたしかに、 べゼ関係まではいっていると思う。或る日、木沼から布原「そお、安心した」 びい、 「お国贔屓だな」 へ電話がかかったとき、夢中になった布原は椅子を倒した 上に、インキ壺まで、ひっくり返した。それを起しもしな 「だってそりやア : : : ここで生れて育ったンだもの」 いで、・ハタ・ハタ、スリツ・ハを鳴らして、電話室へ飛んでい 「この夏、こんな素晴らしい一夜を送れるとは、想像外 ったものだ。 あいにく 英子は、インキ壺をつまみ起して、卓の上を紙で拭いて「布原さんとだったら、もっといいんでしよう : : : お生憎 やったが、おかしくて笑いが止らなかった。その木沼が何さまね」 ンの前触れもなしに、湖畔の家へやって来たのについて「何を云うンだ。布原は、鋭敏で、働き者の寮委員長だ は、金でも借りにきたのかしらん が、愛人にしようとは思わないさ」 「でもそれじやア矛盾してるンじゃないの : : : 思想的に高 められている人ほど、愛人の資格をもってるンでしよ。田 5 ポートに乗った木沼はロ笛で「トロイカ」を吹いたりし想上の低位置にいるものは、正しい愛の対象にはなれない みお
。片森さんらしいね。、、 ししとこで、釘をさすか らな」 英子は家の中へはいった。壁という壁、板という板に、 木沼は用心深く、仮証を封筒へ入れ、パチンと、ホチキ ことごとく、べったりと何か書いてある。 スで止め金をうってから、 天井にまで、全学連役職員の名前や、地方学連の所在「はい」 地、委員長名などが、書かれている。 と云って、英子に返した。ついでに、書記長たちに、紹 今日、英子が持って来た布原差出の封筒の中に、布原が介しようかと云ったが、英子は辞わった。・ テモにも一度も 扱っている女子学生の加盟費がどの位はいっているかは、 行ったことのない自分が、そんな差し出がましいことは、 封筒の上からでは、わからない。それを木沼が受取って、 したくなかった。 仮領収証を書いて、英子に渡すと、英子はそれを布原に届「寮へ帰るの ? 」 け返すというわけだ。加盟学生一人につき年間二十円の加「帰るわ」 盟費は、全学連財政の主要な財源をなしているのだが、昭「これから、僕は東大の緑会まで行くんだが、片森さんも 和三十四年度の全学連の予算書には、加盟費としては、約行かないか」 二百万円しか計上されていないところを見ると、約二十七 と、木沼がすすめた。英子も、大分前に、「大学新聞」 万と号される全学連の学生のうち、三分の一の十万名以内へ投稿した詩が、一向掲載されないので、若し、没書なら - もら 返して貰いに行こうと思っていたところだったので、 の者が、この二十円を払っているにすぎない状況である。 それで、木沼としても、こうして布原から送ってくる女子「あたしも、用があることはあるの 学生の加盟費を、徒おろそかにするわけこよ、 冫。しかないのだ「では、丁度いい」 いいとうそで っこ 0 そう云って、木沼は外套の袖を通し、ペレをかぶって、 全学連の貧しさは、これでもわかる。金助町の本部を、 出てきた。本郷の通りを、スタスタ歩きながら、 ( ぎれい 小綺麗にすることなどは、ゆめにも考えられない。それに 「おタマとすれば、一月十六日の調印全権団出発阻止行動 くらべて、自民党はむろんのこと、社会党、民社党、共産に参加できなかったのを、とても残念がっているのよ」 しか 党でも、みな屈強のドル箱をかかえている。 「然し、それは仕方がないさ。充分に静養して、完全な回 復を見た上で、また立上ってもらうしかない」 あだ
英子は腹をよじって笑った。 た、と云う 「警視庁創立八十五周年なんて、とんでもないじゃない。 「といって、別に私は、岸首相の長寿延命を期待している 警視庁民主化十何年記念であるべきよ。そういうところが、わけじやアないのよ。誤解しないでね」 彼らが、依然として、天皇の警察であったことから、一歩「わかってるわ」 もぬけ出してはいない点だと思うの。それを更に改正し「つまり彼らが、国民大衆の反対を押切ってまで、警察官 ねら て、民衆の弾圧に立ち向おうっていうのが、改正案の狙いの権力の増大をはかろうという料簡が、ナンセンスだって じじようじまく だし、その背後には、昔特高部長だったような警察官のことよ。要するに、自繩自ってことを、知らなすぎると 古手が代議士になっていたりして、強引にこの法案を通そ思うンだ」 そういう布原の論法は、たしかにその頃の警職法改正反 うとしているンでしよう。怪しからんわ」 対運動の公式論にはないものがあり、それが、英子の心を 「ただね、旧内務官僚が、警職法改正に熱心なのは当然ととらえたことは事実である。 しても、今の閣僚には、散々特高や憲兵に手を焼いた人が「たしかに、傾聴すべき意見だわ」 デモにゆかない英子も、警職法改正反対のビラなどは克 多いのに、どうして、警察官に大幅な権力を持たせたいの わ・、第ノよ ~ い 明に読んでいたので、この布原の見方には、よそからの受 か、諒解に苦しむわ」 とも、布原は云った。そして、自分の憲兵に、苦しめら売りでないものが感じられたのである。 れた近衛文麿の話をした。古来の名将英雄や支配者たち「これから、時々、あなたの話を聴きにいくわ : : : よくっ は、敵に殺されるよりも、味方の警察官に、弑せられるこて」 と、英子は箸を箸箱に入れながら云った。 とが多いという例を、いくつか取出して話してくれた。国 「でも私は、あなたに干渉はしませんよ。だから、デモに イ王や宰相や将軍たちは、自分の権力を保持しようとして、 レその配下の警察力を拡大し、思いきった実権を与えること行きたくなければ、行くことはないわ : : : 今日は・ハターを ひし ネで、彼此の勢力が逆転し、突然足許からのクーデターが成借りたけれど : : : あれは私の好みではないの」 ようきひ で、あい 功する。楊貴妃を溺愛した唐の玄宗なども、安禄山という「ほんと ? 」 はんぎやく もうじん はしよく 部下の警備隊長の叛逆にあって、巴蜀の地に蒙塵し、その英子と布原は、それ以来、急速に仲よくなっていったの 途中、馬嵬の駅で、遂に愛人の首を縊らねばならなかつである。 ばかい