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検索対象: 現代日本の文学 28 舟橋聖一集
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1. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

鴛料去す一みと 物の第ニヤ二こ一み男 ) 物子本′ッっ 1 民のを 朝れまい発手第を第物っ一第 」白』い←腕 」い。月 を潮新 したこともまた事実であった。 維新によって父方の舟橋家がさんたんたる没落過程 をたどったのに反して、母方の近藤家は明治の新興階 てつばう 級であった。三多摩の鉄炮鍛冶であった近藤氏は御家 人の株を買って徳川の旗本となった家で、聖一氏の曽 えのもとたー 祖父庫三郎は維新のとき上野の戦争に敗走して榎本武 あき 揚とともに北海道へ渡ったのち明治新政府に重用され たが、司法卿ぐらいにはなれたものをと階しまれなが ら世を去った。 安政四年 ( 一八五七 ) 江戸に生まれた祖父陸三郎は 庫三郎の三男で、東大の前身であるエ部大学校の鉱山 学科を明治十三年に卒業後いったん官途について、同 十六年に静岡県出身の軍医遠藤周民の女ひろ子と結婚 ふにん 後、秋田県の阿仁鉱山へ所長として赴任した。夫妻の 長女で聖一氏の母堂にあたるさわ子氏が明治十九年に 生誕したのは、この鉱山の官舎に在住中のことだが、 十寸刀よ 人。真 たまたま銅山王の古河市兵衛が阿仁鉱山を買い取るこ 新載写本 とになって陸三郎の幸運の道はひらかれた。彼は古河 」掲版 をる初 鉱業の社員となって二十一年に帰京すると、まもなく 」得の 月、をそ鉱業視察のためにヨーロ ハへ一年半の外遊を命しら し料レ」 れた。 年絈稿誌 に原載 明治三十年、古河の経営する栃木県足尾銅山の製錬 わたらせ 正号て掲 にともなう鉱毒が渡良瀬川に流れこんで、沿岸数十カ 財新人號 十第年三十ニ第

2. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

426 校に転校、ほとんど病気欠席する・ 大正ニ年 ( 一九一三 ) 九歳 八月、東京府豊多摩郡落合村大字下落合四百三十五番地 ( 現新宿区 下落合一ノ四三五 ) に転居、今日に至る。父、工学博士となる。母 方の祖父近藤陸一一一郎、古河合名会社理事長となる。九月、私立高千 穂小学校に転校。田辺茂一と級友になる。 大正四年 ( 一九一五 ) 十一歳 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 十二月一一十五日、父了助 ( 明治十年生、仙台藩儒者元一の四男。東「代表的名作選集」 ( 新潮社刊 ) によって小説を読みはじめる。四 京帝国大学工科助教授、採鉱冶金教室 ) 、母さわ子 ( 明治十九年生、迷の「平凡」、独歩の「牛肉と馬鈴薯」、泡鳴の「耽溺」、風葉の「恋 古河合名会社理事近藤陸三郎の長女。実家は本所番場町にあった ) ざめ」等に心を惹かれた。 十三歳 の長男として、東京市本所区横網町一一丁目一一番地に生れる。クリス大正六年 ( 一九一七 ) マスにちなんで聖一と命名。母方の祖母近藤広子に寵愛され、祖母高千穂中学校に進学。十一月、祖父陸三郎死去・ 十四歳 の影響を多く受ける。生後間もなく百日咳にかかり、以後喘息性ア大正七年 ( 一九一八 ) レルギー疾患が持病となる。生家の筋向うに相撲の友綱部屋があ四月、新任の教論高田真治が国語の時間に漱石の「硝子戸の中」を 講義し、文学への目を開かれる。 り、幼少より相撲に親しむ。 十五歳 大正八年 ( 一九一九 ) 四歳 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 本郷西片町十番地に転居。祖母を慕って番場町に泊る日が多かった。田辺茂一と回覧雑誌「揺籃、を創刊、小説「クレオ・ ( トラと楊貴妃」 五歳を発表。 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 十七歳 父、文部省から三年間のドイツ留学を命ぜられ、その間、転地療養大正十年 ( 一九二一 ) 静岡県興津 ( 祖母広子の郷里 ) の竜華寺に高山樗牛の墓を詣で、ひ をかねて、母と神奈川県腰越長山の近藤家別荘に移り住む。 七歳そかに文学への意志をかためる。高田教論の水戸高等学校転校によ 明治四十四年 ( 一九一一 ) 四月、腰越小学校に入学。脆弱な体質は漁村の小学校になじめず、り、同校進学を志望。花袋、秋声、泡鳴を愛読する。 十八歳 大半を欠席する。上京の折、祖母につれられて一一長町市村座の歌舞大正十一年 ( 一九二一 l) 四月、旧制水戸高等学校に入学。高田真治、相良守峯教授につく。学 伎を見物、尾上菊五郎の舞台姿に強く印象づけられる。 八歳友に土方定一、片柳真吉、早崎文雄を得る。イプセン、チェホフの戯曲 明治四十五年・大正元年 ( 一九一 ll) 八月、父、ドイツ、プロイセンの鉱山大学留学から帰朝し、東京帝に興味を抱き、校友会雑誌に短歌「金蘭集」を発表 ( 筆名舟津慶之輔 ) ・ 十九歳 大工学部教授となる。一家は本郷区弥生町三番地に移り、誠之小学大正十ニ年 ( 一九一 llll)

3. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

せつけん あに けを喜ぶ風多く、東洋は西洋に席巻せらるること豈手品の招魂社裏の青木善吉の門構えの私宅にドサ ( 踏込み、本人 みならんや。諸文明、諸文物みな然りとするも過言ではあを引致すると同時に、証拠物件の検査をする手入れのこと ) るまい。然し掏摸だけは日本古来の伝習と見えて、泰西物をかけたことがあった。このように予の先輩達も、巧妙な かばら の輸入を許さないばかりか、手品のうまい中国人も掻っ拂掏摸団の横行には手を焼いたものらしいが、たとえ目ぼし 、んらやく 、巾着切り、箱師等々の技術に関しては、到底日本人の いのを逮捕しても、親分の仕立屋銀次などに貰い下げに来 巧妙に及ばない。 この日本流掏摸の中でも、江戸文化全盛られると、身柄を釈放してやらぬわけにはいかなかったと 時には、上方を圧倒して、掏摸の本場は江戸にあった。上言うから、掏摸と警察との間には、一種の狎れ合いがあり、 方の掏摸は、指の間に小さな刃物を隠し、これを使って、腐れ縁もあったようである。同時に、警察官を大動員する 被害者の衣服を切り、紙入れ等を掏り取ったが、江戸の掏ような事件があると、掏摸達は結構そのお先棒をかつぎ、 摸はこれを恥じ、刃物を使わず指先のみで仕事をした。そ犯罪捜査の補助機関であるごときサマをなしたと言われて の上、関東ではスリと言うが、関西ではチボと言ったそう たま だ。掏摸の溜りは江戸では両国であった。昔の掏摸は、町 ご存じのように、掏摸の大検挙は、明治三十九年のこと ムとこ ねら ぞうさ せんめつ 人百姓の懐ろを狙うのは造作もないが、恐ろしい大小を腰であり、大鉄槌が下された。その時は根こそぎ、殲減され たようであったが、しばらくすると、元の木阿弥となり、 に差している武士の懐中物を掏るのが、彼等の見栄であり、 かえ おうせい 意地でもあったと言う。駆け出しの掏摸が、お武家の紙入いや検挙以前より却ってその人数を増し、組織力も旺盛と ごと かま とれを狙って、一刀の下に斬り下げられる例もあった。掏摸なったものの如くである。往昔の盗賊が釜うでの刑に処せ まさご 、りすてごめん のに対しては、武士は斬捨御免であり、町人達からは、リンられんとした時、泥棒を浜の真砂にたとえ、いくら逮捕し うそぶ きチを受けて殺されても文句は言えなかった。明治になって、ても、その種子は尽きないと嘯いたそうだが、明治、大正、 はんじよう 條掏摸が繁昌したのは、武家階級に対する廃刀令すなわち武昭和にかけて、掏摸の数は増すとも減らないのが実状であ 号士の武装解除によって、掏摸の危険が著しく減ったので、 る。只、手口は変化して、いわゆる名人芸は明治の末で次 七にわかに盛んとな「たのである。その有名なる者に、湯島第に衰え、予が掏摸係にな 0 た昭和初年以後は、自分らを はだ の吉、仕立屋銀次、深川の大徳、ビッコの治三公、おいら驚嘆させるような名人肌は少くなり、ソロソロ暴力掏摸が 3 んの定こと荒井定吉、中折れの文太こと原田文六等が居た。流行し始めたのは、時世の然らしむるところか。掏摸に名 当時掏摸の害毒に苦しんだ警視庁が、明治一一十七年、番町人があれば、掏摸係のデカにも、名人がいなければならぬ。 だいてつつい たね もくあみ

4. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

おもしろ びよう た。あまっさえ、妻は産後の肥立ち面白からずして長く病これはなかなか重く、予後も三カ月を要した。りつに伝染 じよくっ ちのみご 褥に就いていた。予は乳呑児をかかえ、乳を貰いに近隣をするをおそれたが、その憂いはなかった。 すこぶ 彷徨せざるを得なかったのである。 りつは難産の子ではあったが、身体は頗る頑健である。 この年は珍しく雪の多い年であった。予の懐中に飢に疲あれが弱い子であったら、この貧窮のなかでとても満足に ひんぶん れて寝入ったりつの顔には払えども払えども白い雪が繽紛は育ち得なかったであろう。 として散った。予が破れ傘の位置を転ずると、こんどは予 えりくび ようしゃ が襟首に、冷たいやつが容赦なく吹きつけてくるのであっ 明治三十八年 ( 参歳 ) はなは おびただ 気候甚だ不順のため、農作物の被害、夥しく、故老の計 きようきん う、天保七年来の凶饉なりと。奥羽地方一般、物資欠乏に いわん 明治三十七年 ( 弐歳 ) 悩む。況や、予が家族の如き、平時にても足らざる上に、 さいやくあ 二月、日露の役起る。応召による欠員のため予は再び、 この災厄に遭ったのであるから、全く飢餓線上に彷徨し 県警察部衛生委員を命ぜらる。妻慶子引きつづき病褥にあた。 り、頭痛を訴うるところ多し。精神やや常軌を失うが如十月、宮城県私立衛生研究所の事務員を嘱せられ、手当 し。九月、遂に居を分っに至った。 一一十五円を受けることとなる。県委員の手当とともに、月 衛生委員とは申せ、時折の会同に、末席をけがすのみ。収約三十三円五十銭なり。それでも、どうやら、小康を得 きんきん 中元歳末に僅々五十円を受くるにとどまる。これではとてたる思いであった。 すく もやってゆけるものでなし。嘗て、明治三十一年、内務省この間、りつは順調に成長す。与うるもの尠なくしてな における各府県衛生主任会議に列席するため上京し、東京およく、まるまるとふとる。体重、一一貫百匁。 ぎゅうとうびよう 水道装置、牛痘苗製造所、北里養生園等を参観したる時 代が、予の半生にとりてもっとも光彩を放ちたるの時か。 明治四十三年 ( 八歳 ) それも今は、昔の夢である。 長女やす江、仙台市立、立町小学校代用教員となる。り 十一月、りつ、はしかを疾む。いにして経過良好であつも四月より片平丁小学校に上る。 った。ことしのはしかは、一般に軽微なりしもののようで 七月十七、八両日。岩沼地方に大洪水あり。天保以来と 2 りつ力い いっすい あった。十二月、長女やす江、インフルエンザにかかる。謂わる。弓ヶ崎決潰して、床上一一尺余の溢水なりと伝う。 ) 0 や かっ ひだ うえ ごと うれ ごと

5. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

して、特別高等警察部が新設された。その第一課は治安維であるから、両者は切っても切れない関係にあるわけだ。 持法取締りすなわち左翼、第二課はその他主管に属せざるというより、警察の本質は、むしろ特高行政にあるといっ ものすなわち右翼を対象とした。予はこの改正を知り、大ても過言ではないかも知れない。とはいえ、特高が社会の いに衝撃を受けた。特別高等警察の六字には、警察官とし脚光を浴び、警視庁管下の花形として生彩を放つに至った しっと せんばう て名状し難き魅力と羨望をお・ほえたのである。同時に嫉妬・のは、何んといっても、大正十四年、加藤高明内閣の第五 反撥もあった。正直、今までの予は掏摸係の身分に充分満十議会で治安維持法が成立し、国体の変革、私有財産否定 足していたのである。前にも記した如く、掏摸にも名人がを骨子とする共産主義または無政府主義に大弾圧を加える いるように、掏摸係のデカにも名人にあらざれば彼等の手国策が確立してからのことである。それでもたしかにはじ 口を見破ることが出来ないから、木嶋氏のような練達の掏めのうちは若槻内相によって、健全な労働運動や社会運動 摸主任のいることを自負したい気分が存したのである。とを取締まる法律ではないと度々声明されていたが、昭和三 うんでい ころが、同じ刑事の職とはいえ、特高と掏摸係では雲泥の年の改正案によって、治維法が次第に険悪の相を示すこと ろく 差を感ぜしめられた。早く言えば、予も警察に禄を食む身になったのは、予のような一介のデカにも、容易に察しられ である限り、一度は特高刑事に任ぜられたいと思うことしるところであった。治維法の適用が活発となるに従って、 きりだったが、掏摸係はいつまでたっても掏摸専門の職掌従来のように官房内に置かれた課の程度では用をなさなく なったのであるから、前に記したごとく、昭和七年に至っ に甘んじなければならない AJ 特別高等警察部は、昭和七年にはじまるとは言い条、て特別高等警察部が出生したのは、当然の趨勢と言えるな えんげん らん。 の事実はその淵源を遠く明治時代に発しているのであった。 きそもそも公文書に高等警察の名称が用いられたのは、明治今更ながら、予は掏摸係の名人芸などはもはや自慢の種 條一一十五年十一月の機構改正に「高等警察機密費ニ関スルコ子にならないことを知った。まず第一に、特高部は予算が 具 号ト」とある以来のことだが、現実にこの事務が開始されたちがう。当面の敵である日本共産党の組織などは、その予 だじようかん 、わ 七のは極めて古く、明治七年一月の太政官特達に「国事犯ヲ算の三分の一を以てしても簡単に弾圧出来るほどの厖大な 隠密中ニ探索警防スルコト」と定められており、安寧課にものであった。予算もさることだが、これを取締まるに当 於いて主として国事犯人を管掌したとある。予思うに、わ 0 て、従来のような教育的行刑精神とは似ても似つかぬ厳 が国に警察制度の生れた当初から、特高事務が存在したの罰主義を以てした。掏摸係としての予等が恰も被疑者と狎 はんばっ わかっき すうせい

6. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

2 0 O O 8 0 6 4 4 6 2 H 文学紀行Ⅱ八木義徳 評伝的解説Ⅱ野口冨士男 監修委員編集委員 伊藤整足立巻一 井上靖奥野健男 川端康成尾崎秀樹 三島由紀夫 杜夫 現代日本の文学 舟橋聖ー集 舟橋聖一集 悉皆屋康吉 エネルギイ 木石 鵞毛 篠笛 りつ女年譜 百七号具條さきのこと 善意 夏痩 ぐ人 . すみ 谷崎潤一郎の遺言により舟橋聖一に送ら れた六代目菊五郎の「船辨慶」静の衣裳 尾上松緑主演「花の生涯」明治座の舞台 学研

7. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

の安易な思惟をはたらかして、挙国一致的論法を用いるらって、真に強固な国家的観念を、しかも植民地的なムー : 、ほんとうは、田 5 念の亡霊にすぎない。 ドの中で、育て上げられるとは、思えないじゃない」 がんば むろん、国家は警察をもち、自衛隊をもっている。しか「外し、一応財閥は頑張るわね」 し、これとても、昔のように、絶対的な御用機関かどうか「現に、頑張っているじゃない。今の政治家は、やつば はわからない。警察庁長官や警視総監の任免権は、政府が り、財閥の玄関番であることに於いて、明治以来の伝統に 持っていないのであるから、政府の意思に反して、彼らがあるわよ。徳川は財閥そのものだったけれど、明治の政治 動くことも出来るわけだ。一体、日本という国家の大権は家は、ヒモ付きよ。それが今日まで、流れていて、すぐれ どこにあるのか、不可解なのが現状であるから、いくら武た政治家とは、私腹をこやさずに、財閥に忠義をつくす者 器があっても、論理のない国家などは、怖るるに足りない の謂でしよう。岸や河野こよ、 冫。いくらか自分というものが というのが、布原の考え方だ。 あるけれど、池田あたりからは、私心のないのが、看板で 「でも、おタマ。日本という国家に、論理がなくっても、 しよう。ということは、つまり、書生ッポ大臣で、公正ら どたんば アメリカの属国としてみたとき、アメリカの論理が、そのしく見せかけて、土壇場で金持の便宜をはかって来たの まま、日本の中へ、すりかえられているという風には考え が、主税官としての彼のキャリアでしようが : : : 彼の手心 こうむ られないの」 で、おかげを蒙った財閥が彼を支持するのは当然だから、 「それはあるわね。たとえば、国粋論だった日本の右翼総裁候補としては、うってつけだわ : : : それでも、国家と が、今では向米一辺倒でしよう。大東亜戦争をやった原動いう観念をそのまま具体化している人物、たとえば、毛沢 力で、あんなにアメリカ嫌いだった筈の右翼がさ : : : そう東とかネールとかいう人物とは、縁遠い感じじゃない」 いう怖るべきすりかえはあ 0 たと思うの。それから、財「おタマの国家否定論は面白い」 イ閥。これはアメリカのおかげで、金持になったンだし、大「否定じゃない。巻村さんのとは違いますよ : : : 」 事な大事なお得意先の御機嫌は損じられないものね : : : で「それはわかってますよ。あなたのは、日本民族に、希望 かねもう ネ も、貿易とか、金儲けだけとかで、国家観念が固められるを失っていないンだものね」 工 ものかしら。国家って観念は、これからは、何ンといった「巻村さんも民族は認めているンじゃないの」 って、民族の独立以外には考えられないンじゃないの。民「さアどうかしら。あの人は、個人だけじゃないの。民族 族的独立のないところこ、、 冫しくら金儲けをさせて貰えるか的自覚より、コスモポリタンらしいわね。人間の尊厳とい はず おそ

8. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

五月、同人誌「歩行者」に参加、戯曲「支配する力」「人間の恋」を発表。二、梶井基次郎、外村繁、阿部知一一、徳田戯一一等が集まる。三月、 むくろ 清元師匠延玉英の門下となる。相弟子に大震災で罹災し、水戸へ避戯曲「骸」を「新潮ーに発表。東京帝国大学卒業。四月、明治大学 難中の小伝馬町の染物屋老田弥吉がいた。彼によって大工町花街で予科講師となる。十月、戯曲「魑魅」を「文芸都市」に発表 ( 十一 の遊興を知る。この老田弥吉は後の「悉皆屋康吉」のモデルである。月、心座第九回公演で上演 ) 。文芸家協会会員となる。 一一十五歳 昭和四年 ( 一九二九 ) 一一十歳 大正十三年 ( 一九二四 ) 一一月、戯曲「佝僂の乞食」を「歩行者」に発表。この年築地小劇場「魑魅」新潮社刊行の「日本戯曲集第五集」に収録される。八月、 の東屋三郎の紹介で、小山内薫の門に入った。父が東京帝国大学教長男雄之介誕生。心座の左翼化と相容れず脱退する。約四ヶ月間、 大連、奉天、京城を旅行。 授を退官。 一一十六歳 昭和五年 ( 一九三〇 ) 二十一歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 三月、水戸高等学校を卒業。四月、東京帝国大学文学部国文科に入一一月、今日出海等と蝙蝠座結成。四月、拓殖大学講師を兼任。新興 学。九月、池谷信三郎、村山知義等と河原崎長十郎を中心に新劇団芸術派クラブに参加。戯曲「・ ( ンガロオの秘密」を「新潮」に発 「心座」を結成。十月、阿部知二、古沢安一一郎等と帝大文芸部雑誌表。処女出版「愛慾の匙」を新潮社より刊行、印税百九十五円を得 る。十月、小説「海のほくろ」を文学時代に発表、川端康成の賛辞 「朱門 , を創刊、小説「信吉の幻覚」を発表。 一一十一一歳をうける。十一月、コクトーの「声」を今日出海と共同演出。十一一 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 月、戯曲集「ハンガロオの秘密」を赤炉閣より刊行。 五月、「骨」が牛込会館において、研劇協会によって上演された。 一一十七歳 同月一一十七、八の両日「痼疾者」が新橋演舞場の心座第三回公演で昭和六年 ( 一九三一 ) 初演され、上司小剣、秋田雨雀等に認められた。七月十一日、父方六月、文芸家協会評議員となる。九月、「近代生活ー同人となる。 の伯父佐藤一一郎の四女佐藤百寿と結婚。九月、心座第四回公演に築この年、吉行ェイスケ、楢崎勤等と遊び、竜胆寺雄と交友を結ぶ。 地小劇場で上演された戯曲「白い腕ーが、十月、今東光の推薦によ昭和七年 ( 一九三一 l) 一一十八歳 って「新潮」新人号に掲載され、はじめて原稿料八十八円余を得る。一月、「士官夫人」を「報知新聞」に連載。間もなく掲載禁止をうけ 一一十三歳て中絶。六月、長男雄之介急死。七月、あらくれ会の同人となり、 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 日 を一 この年、今東光を通じて今日出海を知り、交友今日に及ぶ。十一徳田秋声門下に列なる。「あらくれ」を創刊。十一月、「白い蛇赤い 月、長女美香子誕生。東京帝国大学文芸部委員長となる。十一一月、蛇」を「都新聞」に連載 ( 百一一十回完結 ) 。明治大学文芸科講師とな る。生活を緊縮するため、土地一一百坪を売却、家屋も三つに分けて 年卒業論文「岩野泡鳴の小説及び小説論」を脱稿。 二十四歳その一部に住む。 昭和三年 ( 一九一一八 ) 昭和八年 ( 一九三 = l) 一一十九歳 一月、心座の執行委員長となり、富田常雄を知る。二月、田辺茂一 主宰の「文芸都市 , に参加。戯曲「襤褸 , を発表。同人に井伏鱒四月、明治大学予科教授となる。六月、紀伊国屋出版部が設立さ

9. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

の心情としては、被疑者に対して何をしてもいいという特 れ合いを演じているかのような印象を世人に与えたのも、 その罪科を悟 0 て改悛すれば、時に彼等をして犯罪捜査の高デカの身分保障が、まさに皿涎万丈に値したのはここに 片棒を担がせたことが、教育的行刑のあらわれであったか言うまでもないのである。 そのうちに特高の調べ室からは、共産党の女闘士の悲鳴 らである。つまり、明治・大正・昭和とその機構を増大し ぎら ろうお ちょうばっ てきた警察行政は、江戸時代の伝馬町大牢に於ける懲罰行なども聞えるようになった。女嫌いで通り、女掏摸や隠し 刑から次第に解放され、言い換えると、秘密主義から教化売女の女体には何の興味もない、刺戟もない予であったが、 うめ りっせん 主義へと進歩したのである。これは警察ばかりでなく、」 女闘士の息も絶えだえな呻き声には、思わず慄然たらざる ろうごく 務所にあっては百八十度の転回がなされ、暗い牢獄から公を得なかった。中には固く口を閉じて一語も発しない党員 しない もつおうだ 開された刑務所となり、外部の参観まで許すようになってもいたが、竹刀を以て殴打するぐらいは序のロであり、拷 もん しか 問の苦痛に耐えかねて気を失う被疑者に、水を・フツかけて いた。然るに特高警察は容疑者に対して、再び敵か味方か いってき の関係を生じ、そこでは教化主義が一擲されるに至ったのは正気づかせ、懲りずまに拷問を再開するという地獄の呵 しやく せいきん である。率直に言うと、治維法違反の被疑者に対しては、責にも似た凄惨な様子は、署内のどこにいても、それとす 警察官は何をしても構わないという非常事態に突入したのぐわかるのであった。 もど ぐじよう ここでもう一度前に戻るが、掏摸係のデカは、他の部の 具條さきが留置されたのは、昭和八年の夏であった。真 のみしらみちょうりよう 警官にはなれない不文律のようなものがあったのである。夏の・フタ箱は、蚤と虱の跳梁にまかしていた。当夜たま これは明治のはじめに掏摸の大親分たちがその巧妙な技術たま刑事課所属の留置場看守に事故あって、それに代って おか を得意として、社会に横行したところから、江戸時代の岡予が宿直に当っていたので、具條の留置場入りに立合う仕 く、り ッ引あがりや、掏摸の小物の転向した連中を掏摸係のデカ儀となった。同じ・フタ箱でも、男子のそれに較べて、女は に採用したことに原因している。そのため予などは、掏摸多く保護室入りなのでまだしもであった。・ : カそれにして や万引の検挙に鼻が高かったとは言い条、つとめてその職も、うだる暑熱であり、空気の流通は悪く、言うに言えな しようそう に安んじようとする心の焦躁がないとは言えなかった。端い悪臭が澱んでいる。予は一目でこの女が女掏摸でも箱師 みついんばい 的に言えば、心の底に劣等感がありながら、特別技術の美でもなく、またお目見得ドロの女中でも、密淫売の女でも 名に隠れて、鼻ッ柱が強かったのでもある。かかる掏摸係なく、女マルキストとして治安維持法にひっかかって、挙 かっ すり よど こ あ ごう

10. 現代日本の文学 28 舟橋聖一集

リ而 横網町二丁目二番地、舟橋聖一生家跡 「なるほど、ここが舟橋さんの生れた家のあったとこ ろなのか」 明治三十七年十二月二十五日、舟橋聖一氏はここに しまから六十五年前である。 生まれた。、 「生家の裏手には隅田川の掘割りが流れこみ、筋向う には相撲の友綱部屋があった。そのため幼少より相撲 に親しんだ。幕下力士の肩車で、友綱部屋をはじめ、 高砂部屋、雷部屋、宮城野部屋、井筒部屋等を廻り歩 後略 き、浅草公園に遊ぶこともあった : 舟橋さんの年譜の一節には、このような記事がみら れる。隅田川では白魚が釣れ、夏は子供らの好適な水 泳場であったという。隅田川は文字通り「自然の川」 として生きていた。現在の隅田川は川底からメタンガ しかも下か スを噴き上げる悪臭の交通路にすぎない らのメタンガスに加えて、近い将来は、上からの排気 ガスの厚い幕に覆われようとしている。 蔵前橋から両国橋ヘー私は両国橋の中はどに立って、 対岸のすぐ右手前にみえる柳橋の料亭の家並みに眼を 移した。そこだけ一廓が木立ちのこんもりとした緑の 中に、洒落れた数寄屋風の建物が数棟ひとかたまりに なっている。柳橋芸者の出入りする高級料亭だかっ て私も人に招かれて、この地で二、三度あそんだこと かある