と、康吉は声を低めて、話しだした。 今、引取ったんだが、ありやア、これからも、うるさ形だ 「何だっていうの」 ね」 「何あに、どこから聞いたのか、あんたをここへ預けたの「知らん顔をしてりやアいいのよ。これがさ、若し、こち ごやっかい を知っていてね、何も、佃煮屋の一一階なんそに置かないでらの御厄介にならないで、霞町へでも、頼みこんでごらん も、霞町という親類もあることは知ってる筈だ。知っててなさい、ソラ部屋が無いのなんのって、迷惑そうな口をき なすったんなら、こりやア手前共を踏みつけにしたも同然くにきまってるんだから。もともと、薄情もんだもの。ほ だっていうんで、えらい権幕でーーー傍に、おくらもいるんの口さきだけなのよ。 でも、そんなこといわれて、 めんく し、どうも私も、今日はすっかり、面喰らってしまったん口惜しいなア」 そで だ。あんたに聞けば、もう長いこと、音信不通たというん と、お喜多は、袖で目にたまるものを拭いた。 で、私も、おくらに骨を折って貰ったわけだからーー」 菅子が上って来た。もう、おくらから通じてあると見え ゆきき ちゅうばら 「そうよ。長い間、往来もしてないし、そんな、今になって、中っ腹の調子をかくしきれなかった。 せつかく て、霞町の親類もありやアしませんよ。驚いた」 「何だか、却って御迷惑になったようで、私共の折角の気 お喜多も顔色を変えた。 持が、台なしですわね」 「それだけならいいんだが、この結婚に、親市五郎の承認 「そんなことはありませんよ。どうせ、嫌がらせのような があるのかどうか、お伺いしたいと、お出なすった」 もんですから」 「そんなこといったって」 康吉は、驚いて、菅子の方へ云い訳をした。 「うん。それでまあ、私もね、実は市五郎さんがお喜多さ「すみません。菅子さん。散々御世話になったうえに、 んを預けていきなすったとき、大体、こんどのことは、又、いやなことをお耳に入れて。霞町の叔母は、自分が、 だく 諾があったんですって云ったんだが、 官吏の家へ嫁入したってんで、昔から私共を、見下すよう 吉 ろく 康「康さんも、もっと強く云っておやんなさるといいのに。 な気分が多かったんでございますの。梅村の時代から、碌 りようけんしだい すつばう 皆市五郎から預かった上は、あの女は、手前の料簡次第です素法、つきあいもしてはいませんでしたのに、すぐ、目に 位のことは、ね」 角を立てて、物を云う癖がありますの。水に流して下さい こうムん お喜多は昻奮して云った。 な」 「そうもいえねえさ、まあ、やっと、勘弁して貰って、 と、お喜多も、共々泪声になりながら、菅子の前に頭を けんまく かんべん なみだ
116 だから、西洋の女は幸福よ」 なると、簡単には外国婦人に負けはとらないわ」 「赤いものを着られるだけでか。ばか」 「そんな競争をするからいけないんだ。日本は日本の国民 「だって、そうじゃないの、日本の女は、少し、赤いもの性で、押さなくっちやア」 でも着れば、うるさいわよ。派手好きだの何だのって。昔「あああ . まゆそ はぐろ は、何しろ、結婚すれば眉を剃ったり、お歯黒を染めたり と、突然、お喜多は小さい欠伸をして、 して、全然、若さを失ったんだもの。その封建的遺風がの 「ホテルへ来て、何も国粋論をしなくたっていいじゃな、 めくじら ひらぎや こっていて、今以て、すぐ目鯨を立てるの、そこへ いくの。どうしても、いやなら、柊家でも、大野屋でも、どこ と、西洋婦人は気楽そうね」 へでも行きましよう。電話かけて頂戴ー ふく 「いいや。日本の女も、ちかごろは大分、変って来たよ。 と、又、脹れた。 さっき食堂にいたのなんざ、毛唐と大差ない風俗じゃない 「何も、ホテルがいやだといってるんじゃない」 か。背中までまる見えのような洋服を着て 「だって、ケチばかりつけてるからよ。あたしが、ホテル あげあし 「そうかしら。あの、私たちと丁度、背中合せになってい っていったもんだから、揚足ばっかり取ってるのよ。意地 わるね」 た御夫婦でしよ」 「うん」 「まあいい。まあしし ホテル生活も、なかなか、乙だ 「スマートよ。板についてるわ」 「つきすぎてるんだ。 そこへジリジリと、卓上電話が鳴って来た。 「そんなことないわよ」 章 「亭主の方も、樺色のニッカーかなんかはいて、にやけて 何日にいくから、何時頃電話をかけてくれという電報が 「旦那様の方はよく見なかったけれど、奥さんの趣味は、打ってあったので、親市五郎から、ホテルへ電話がかかっ てきたのであった。 相当、年季が入ってるとおもうけれどーー」 「なアに、自分の趣味じゃなくて、洋裁屋の好みだよ、あ「ああ、モシモシ、へい。康吉でございます。お久しぶり ごよ んなの」 でございました。へい へい。まことに、こちらこそ御無 さた 。道中、無事で 、え。どうして、あの奥さま、洗練されてるわ。ああ沙汰ばかり。御挨拶で痛み入ります。へい かば せんれん あくび おっ
かかりませんから、まあ、材料不足でも手不足でも、ほそ「何を書こう」 ぼそは、やっていけるんでござんす」 「何でもけっこうでございますよ」 「そりやア、けっこうだ」 と、お辰はまだ、墨をすっている。しばらくして、東介 は、とつぶりと、穂に墨をふくませてから、 「ところで、先生。久しぶりにお見えになった記念に、な んそ一筆、書きのこしていってはくださいませんか」 余花 「そうかい。外ならぬ清さんのたのみだから、それじやア かばやき 万が一青葉にのこる 何か、書きましようか。蒲焼のやける間に」 花もかな 「ぜひ一つ、おねがいいたしますーーおい、お辰」 と、清次は下へ向って声をかけ、 とだな しきし と、さらりと書いた。 「ソラ、奥の戸棚に、白い色紙があるだろうーーーそれと、 すずり 「ありがとうございます」 硯と、持って来なさい」 「いやーーーこの句は、このごろ私が好きで読む徳元という 「はい」と、返事があって、やがて、お辰が、いいっかっ 江戸の古い俳諧師の、万句巻頭の発句ですよ」 たものを持って上ってくる。この前も、清次には逢ったが、 と、東介は説明した。 お辰にはまったく久しぶりの対面であった。お篠より、さ ( 万が一青葉にのこる花もかな ) と横からお篠も読んでみ すがに世帯の苦労から、顔も姿もかわっていた。行きずり にあったのでは、ちょっと思い出しもならぬほどの変化で 「何だか、あてつこすりみたいね工、お辰さん」 あった。三人の間に、しかるべく挨拶があったのち、 したく といった。するとお辰は、 お 「それじゃ、一つあっしは支度にかかりますから、 「あら、あたしなんざ、もう枯葉でございますわ」 痩辰、よく、墨をすってな。筆もお気に入りますか。そう、 そういいながら、淋しく笑 0 て、路石の蓋をしめた。 その新しい奴を、お目にかけてーーー」 そうい 0 て、清次は下へ下りてい 0 た。そしてすぐ鰻笊下では清次が、もう鰻を焼きだしたとみえて、渋うちわ 夏 を叩く音が、聞えて来た。 をもって、川のほうへ出てゆくのが見えた。 東介は、色紙を前にして、筆の白い穂先を口にふくん て、
がした。 汽車にのると、さっそく、知った顔にあって まだ、笑い終らぬうちに、小扇は、二席ほど向うの自分 しまった。水戸の大工町で、清元の女師匠をしていた延小のシート へ帰っていったが、伴れの人を紹介するでもなか っこ 0 扇という人で、そっちにも、伴れがあり、お互いにちょっ ばっ と跋のわるい思いをしたが、横浜までいく間には、気まず「とんだうるさ方にめつかっちゃったわね」 かえ さも脱れて、却って長旅の退屈をまぎらすには、丁度いし お喜多も今笑った顔をしかめて、小さい声でいった。 相手だった。延小扇は、今では柳ばしに稽古所をもってい 「何アに、こっちは天下公然だから、何ともない。向うの て、時々ラジオなそにも出るのだという話だった。 方が、却って、まずいとおもってるよ」 「柳ばしなら、目と鼻じゃありませんか。そいつは、うつ「何でしよう」 かりしたね。まあ、これを御縁にお心安くおねがいします「さア。紹介しないところを見ると、おもて向きの人じゃ よ」 ないね」 と、康吉は云った。 「むろんよ。でも、あなたの洋服のこと、何かいわないか 「私の方こそ、よろしく。おかげさんで、大分、お弟子もと思って、ヒャヒャしていた」 ふえましたけれど、又、いい方があったら、お世話して頂「ふん。何もそんなに、ひがまないでもいいさ。自分でこ しらえて、自分で着ているんだから・ーー」 「ふふふふ」 と、小扇は、お喜多へ半分、康吉へ半分、科をして、 「でもね、あたしはきっと、あなた方お一一人が、御一緒に 向うでも何か話しているらしいが、人の頭のかげになっ なるに違いないとおもっていましたよ」 て、よく見えない。小扇はこっち向き、伴れは向う向き 「ひやかさないで下さいよ、汽車の中なんかでーーー」 で、首のつけ根から上が、クッシ日ンの白い掛布の上に出 吉「ひやかしてるんじゃありませんよ。でも、結構ですわ。 ているだけである。縞のワイシャツの、共襟が三分程見え 思い思われた仲が、こうして、ちゃんと御夫婦になって。 たりかくれたりするが、頭は髪床へいって来たばかりで、 きれいに刈りこまれ、眼鏡を掛けていると見え、耳の裏 悉お仕合せですわ」 「食堂、おごりましようか」 に、光るものがある。食堂へいく時も、小扇だけはニッコ 「あら、はははは」 リ会釈するが、伴れの男は、知らん顔をしているばかりで 「はははは」 なく、わざと顔を見られまいとする様子である。 ちょう と・らえり・
さんに、 とになる。そして、右手で床を打っ音が、いたましく響い 「伊助さんでございましたね。たしか」と、声を掛けた。 「伊助はわしだよ」 「誰にきいて、やってきたんだ」 ろれつ 爺さんは、呂律のまわらぬ発音でいった。・、、 カその抑揚「へい。梅村の旦那から聞きました。すみませんでした。 は、たしかに聞きおぼえのある伊助の声にちがいオカ よ、つ今まで、同じ東京にいながら、ついそ知らずにすごすなん た。康吉は嬉しさに、手がぶるぶる顫え出した。 「ほんとうだ。義理知らず、恩知らず」 章 伊助はもどかしく、叫ぶようにいった。康吉は床に手を 「ああ、伊助さん。康吉でございますよ。お・ほえていて下っいたまま、 さいますか」 「こんな、狂人と一緒の病院なんぞへ入れたりしないで、 伊助は然し、黙って康吉の顔を穴のあく程ただ見つめてほかに思案もあったでござんしように、全く、申訳もござ あじ いた。変れば変るものである。面長のしやくれ顎で、鼻はんせんでした。でも、これからだって、おそくはござんせ しい男とん。義理知らずの康吉に、恩返しの一役を買わしてやって 形よく高く、目はどちらかといえば窪み加減で、 いう程ではなくとも、キリッと締った顔付が、役者でいえくだせえまし」 しやば 「ふん、おらはもう、娑婆へ出る気は、毛頭ありやアしね ば、今の権十郎という感じだったのに、それがまあ、プク ふく じんぞう tJ くらくおうじよう え。ここで、くたばるまでよ。狂人を相手に、極楽往生 ップクッと脹れ上った腎臓ぶくれか、目と鼻の間が、のつ べら。ほうになって、面長が丸顔に変り、しやくれた顎がおだ。康吉。へたな義理立ては、無用にしな」 たムくかぜ 多福風邪のように盛り上っているではないか。 そのと声の調子は、中気病みのように、不正確だったが、性根 たんか おのの 吉ぎ突然、伊助は何か非常な感動に襲われたように、身を戦は昔のままの伊助らしく、自己満足の啖呵が切りたくてな かせた。足は全然、利かないが、右手は自由になると見えらないという風が見えた。 「では、・ とうあっても、この病院を出なさらぬおつもり 悉て、しきりに右手をふり廻し出した。 「康吉かい。康吉かい。 こりやア珍しい。よく来てくれか」 た」 「住めば何とかいうが、康吉、おらはもうここへ来て何年 そうごう とぎれとぎれの発音だったが、綜合すると、そういうこになると思う。今では、ろ病棟の班長さんだ。狂人共は、 ふる アクセント
反対の丘の下からお喜多が湯から帰って来るのが見えが、気の毒にも、いじらしく思えてならぬのであった。何 たばこ た。市五郎は縁側で莨をふかしている。康吉は釣瓶につかとかして、恩になった市五郎のために、お釜をおこさなく ってはならない。自分の身を堅めるか否かはその目鼻がっ まったまま、うっとり、お喜多の湯上り姿に見とれていた とんぽ いてからのことである。 そう思って、康吉は、残暑の 。蜻蛉のうすい翅が、井戸のまわりを、音もなく飛ん きびしい田舎道を、ポロ自転車にまたがって、注文取り でいるのだった。 に、とび廻らずにはいられなかった。 一日の仕事がすんで、康吉の庖丁で、鰹かなにかの刺身 巻の弐 で、夕飯を共にする楽しみはまたとなかった。 「何しろ、器用なもんだ。一体、どこで仕こまれたんだ ね」 と、市五郎は、皮焼きの鰹の厚づくりに舌鼓をうちなが らいった。 市五郎からその話を聞くまでは、とても適わぬ望みと、 康吉は八分通りはあきらめていたのだった。そんな大それ水戸へながれついてからの市五郎は、めつきり年もとっ た望みを抱いて、なまじいな気苦労をするより、自分が思たし、昔のような、向う気のつよいところはすっかりなく おム いがけず、市五郎親子と、一つ屋根の下に起臥して、朝ゅなっていた。何から何まで、康吉のしてくれるのを、待っ からかみひとえ うにお喜多の顔を見、声をきき、わずかに唐紙一重を境にている風ばかりであった。 おおげさ して、枕もちかく眠りにつく、この仕合せをどんなにうれ「へい、どこで仕込まれたなんて、そんな大袈裟なもんじ みようり やアござんせんよ」 しく、奉公人冥利と思っているかしれなかった。 と、康吉は赤くなりながら、ほめられて満史悪い気持で 東京にいたときは、何しろ日本橋きっての悉皆屋ではあ よんぎい り、どうこまめにうごいても、奉公人の分際で主人の気持もなかった。 ちに、手のとどく処まで踏みこんでいくことは出来なかつ「商売が落ちついたら、一遍、伊助さんの消息をききに、 た。その代り又、地震という大きな災害のためとはいえ、東京へ出たいものでござんすよ」 水戸くんだりへ流れこんで、康吉一人をたよりに、どうや主従の間では、一一言目には伊助の話が出た。 らその日ぐらしの侘住居をしている主人親子のありさま「まったく、私が一人前になりましたのも、みんな、伊助 わび はね かつお まんざら したつづみ
「辰巳屋ですか」 「いざとなれば、お前、尻端しよりであるいても、知れて 「いやか」 いる」 「いやじやアありませんわ」 「何てっても、清次はいい鰻をもっていやアがる。尾州も「そうだ。お前は駒下駄におし。もし、歩くようにでもな のの天然なんざ、いまどき、よそじやア、しやっちょこだると、なんだから」 ちしても、手に入らない。 辰巳屋もあれで、もう少し「はい」 家の造作がいし 、といいんだが、何しろ、汚い。前に、青い 「そうときまったら、支度をなさい。わたしが、ここまで あしは 芦の生えている川があったりして、とんと、四谷怪談の隠読んでいく間に とかく、おまえの支度は手間どるか 亡堀みたいだが、その代り、うまい」 ら」 「あの人も、一生、鰻かきですね」 ちろ 「そうさ、あんな、生ま白い顔はしているが何だぜ、鰻に お篠は、ちょっと膝から手をおとして、中腰で頭を下げ かた込やく かけちやア、ずいぶん、目もあるし、腕もある。昔の敵役て、次の間に立った。お篠は、ことし、三十を二つか三つ じやアあるが、商売の点では、私はあいつを認めている」出た年増ざかりである。東介とは十五もちがう。派手につ 「あたし、清さんはいいけれど、おかみさんに逢うのが、 くれば、まだまだ、ずっと若く見えるが、地味な身なりが いやなんですよ」 東介の好みで、やはり年相当に見られてしまう。しかし若 「向うでも、顔は出したがらないさ。平気だよ。それにお いころとちがって、このごろのお篠は、すべて東介のため なつやせ やかもち 前みたいに夏痩のする人は、鰻がいい 。万葉の家持の歌に に、己れを無にして悔いるところがないのだから、年より いはまろ 、つさい、意には介し も ( 石麻呂に吾物申す夏痩に、よしといふ物そむなぎ漁りふけて見えようが、どうしようが、し 痩食せ ) というのがある」 ておらぬ。東介が世間と没交渉でおられるのも、お篠がか むよくてんたん 「では、参りましよう。ほんとに夏痩はいやですわ」 げでこのごろの女には見られない無慾恬淡であることが、 とお篠は袖を引いて、手をかくすようにした。 大変役に立っているのである。 夏 「ちかごろは、乗ものが不便だが、赤羽から・ハスは通って年をとると、無慾になるのは、たいしてほめたことでも 8 いるだろうね」 なし力、いつまでも、慾ばり根性のぬけないのよりは、だ いぶましである。お篠も商売に出ていたころは、なかなか そで きたな おん おの こまげた ひざ したく しりま
と、答えた。微塵も、疑惑の翳のない、澄み冴えた声で 知加は、無言のまま、うなだれた。白いうなじが、焼跡のあった、余は、安堵した。というより、歓喜の思いを叫び たい程であった。余は、知加の胸中を、つぶさに照らし明 暮色に、鈍い光沢を放ち、ふと、余は思いがけぬときに、 古い世の花を見たような、ときめきに、うたれた。或いかし、その隅々まで知り得た思いであった。知加の胸中 あと は、古い絵の中に、おもいもよらぬ新鮮な色を見たときのには、すでに、フィアンセとしての金森氏の影は、痕もと しよういぐんじん 感じに似ている。 どめず拭い去られており、ただ、金森氏の傷痍軍人たるに 「金森君と、知加が、夫婦になるということは、見すみ同情して、目下の同棲を認めておると考えて差支えのない おとしい す、君を不幸に陥れることだ、せつかく、君を、ここま心境である。とすれば、余の勝利は、もはや、確信的でな で、護り通してきたわしとして、それでは、君に対してければならぬ。余は、先頃、 「負けた。負けた」 も、わし自身に対しても、どうも、不忠実であるように思 と号したのと反対に、 おっしゃ 「小父さまの、仰有る通りですわ」 「勝った、勝った」 と唱すべきであった。彼との結婚が断念されたる以上、 「ほんとうに、そう思うか ? 「それに、あの人、狭いところがありますし、今までは、知加は、余の妻たる以外に、行くところはない。余にとっ いさぎよ めいせ ) その狭さが、潔いと見えるときもありましたけれど、これて、知加の明皙なる答えは、同時に、余との将来への、イ からは、それでは生きて参られません。よく、存じておりエスに外ならぬ。 ますわ : : : 」 余は、今日こそ、最初の接吻を行なって、余らの愛の固 知加の語尾は、稍々、涙ぐむかと思われた。 めを記念せねばならぬと考えた。 しようよう 毛「では、今の所、二人が夫婦になるという話は、出ておら余は、暮色の中を、逍遙しつつ、その機を狙ったが、さ ないのだねー すがに、前後左右に気を取られ、まだ、人の姿のほの見え ほとばし 余は、自分でもくどいと思いつつ、もういちど、念を押るうちに、情熱の奔るにまかせるというわけにもいかな 鵞 さずにはいられなかった。知加は、あらためて、余の顔をい。 9 ふり仰ぐようにして、 然るに、余が、知加の唇に、愛のしるしを捺さんとする . を . し 心中を、早くも察したる如く、知加の態度が、一種の不安 みじん あんど
しんみつけ のばこうばい 新見付までくると、一一人は左へ上り勾配を取り、中央線ることがある。英子はその風景が大好きで、いつまでも岸 パトロ 1 ルが来た。 のガードの上を渡って、九段の一口坂へぬけた。いくら歩辺に立っていた。二時頃、 いても、疲れる様子もない。 「大分おそいようだが、お宅はどこですか」 やすくに と訊かれた。 一口坂を上りきると、靖国神社の塀がつづく いつのまにか、また水のある風景の前へ出た。こんど「病院から出て来たンですわ。友達が重傷なのでーーまた は、千鳥ケ淵の岸辺であった。英子は、霧の中のペンチを病院へ帰ります」 見つけて、腰をかけた。 英子が要領よく答えたので、・ハトロールは、 「そうですか。失敬しましたーーー」 「よく歩いた」 と云って、通りすぎた。 「ほんと ? 御茶の水からですものね」 「まったく当意即妙だな」 「何時だろう」 「だって、その通りなンだもの」 「一時半よ : : : お掛けなさいな」 巻村は笑った。その笑いがおさまると、また一一人は黙り 巻村は英子のしいてくれたハンケチの上へ、腰をおろし うなが こんだが、。、 , トロールのおかげで、却って気持を促された ように、巻村は静かに顔を寄せて来た。英子には、もう驚 きはなかった。これだけ深い霧なら、一メートル離れた ら、まるつきり姿が見えない筈だった。巻村はすぐ口を吸 「今夜は朝まで、ここにいる。明るくなったら、おタマの ったりせず、英子の顔をいつまでも見つめていた。目と目 ところへ帰るわ」 ・、、ほんの僅かな間隔で相対した。その顔の間にもこまか と英子は云った。巻村は黙っていた。煙草を出したが、 い銀粒のような霧が、流れこんできた。冷たい鼻が触れ ビースの箱には、一本も残っていなかった。 霧は夜更けと共に、ますます濃くなってきた。岸の景色た。黒いまっげに、その銀粒がビカビカ光るのも見えた。 は霧の中へかくれてしまったのに、水面だけはくつきりカ英子は霧に噎せそうになり、少し歯をあけた。 1 ・フを見せている。そこだけを見ていると、英子にはそれ巻村は両手で、女の肩を抱いていた。そこだけに熱があ が故郷の湖水のように思われてきた。湖水でも、霧の深いり、あとはみな、冷えて行きそうだった。ネックラインの 夜は、周囲の景色がみなかくれて、水面だけが光って見えへんも、冷たかった。英子は膝と膝を堅く閉じてはいた わず ひざ かえ
まで、自転車だ」 も、時々、こっぴどく、伊助爺さんに、やつつけられるこ お喜多はお喜多で、すぐ電話口に引返していった。二郎ともあったが、それも修業の一には違いなかった。或る日 くらまえふる もんらりめん は、ガタガタと、自転車を出して、ひらりと飛びのる。 も、蔵前の旧い町家の隠居から、白地の紋縮緬一びきを、 なんど 「稲川さんとこは、仕立ものは、どこですかい ? 」 至急深川納戸の無地に染めてくれという注文があった。と あらた と、爺さんは、少し、形を更めて、康吉に聞き直した。 ころがその頃の康吉は、深川納戸という色を知らなかっ 「両国の杉野屋で、やらせて居ります」 た。そこで梅村へいって、伊助爺さんにこれこれだという 「杉野屋なら、申分はない」 「では、すぐ工場をかけ合って、また、とって返して参り「康さんは、深川納戸なんて、色を引請けて来て、一体ど ましよう」 ういう色気か知ってるのかい。ちょっとでも、艶が違っ と、康吉は店を出た。お喜多がうしろから、もう一台自て、品物が納まらなかったら、どうするんだ。ちゃんと色 転車を貸そうからといった。そして、自転車の置場まで、見本を持って出て、自分に納得のいく色を見立てて貰うん 康吉を案内しながら、 だな」 「ほんとに、すみませんのね。ーーすっかり内幕をお見せ「へい、ところが、御隠居の仰有るには、深川納戸でなく しちゃって。だからいつも伊助にいってるんですのよ。同っちゃならないように仰有るもんですからーー」 業の方には、とりわけ親切にして上げなくっちゃいけない 「だがね、康さん、お納戸には、幾種類もあるんだよ。聳 がわ あいおい って」 川納戸、相生納戸、花納戸、橋立納戸、幸納戸、隅田納 みやま と、ささやくように云った。 戸、鉄納戸、藤納戸、深山納戸、深川納戸、大内納戸ーーー ざっと数えただけでも、この通りだ。今のうちでも、深山 しろうと 章 納戸と花納戸の見分けなんざ、なかなか素人には出来るも 康康吉が、工場から杉野屋にとんでいって、職人の照蔵をんじゃね = 。橋立納戸と烏鼠なんぞもむずかしい。一方 皆拝み倒して、約束通り、その晩の九時に、仕立て上げるとはお納戸で、一方は鼠だが、一寸見ては、同じようにしか しゅうぎづつみ 市五郎もすっかり上機嫌で、褒美に祝儀包を包んでくれ見えねえ。現に、お前さんが引きうけて来た、深川納戸 7 た。そしてそれ以来、康吉は、梅村の家を出入するのに、 と、鴨川納戸との区別なんか、実に、むずかしいんだ。あ 肩身のせまい思いをしないですむようになった。それでりきたりの鉄納戸だって、深川や鴨川と並べて見て、どこ ほうび いん、よ