る。デリケートだというんだ」 吉は傘立の中から、わざと骨の一本折れたのを選び出し きりど 「心細いのね」 て、切戸を出た。 「まあ、詳しい相談を よ、今夜ゆっくりしよう。それより、 四章 風呂へ行ってくる」 らようづけ ながじゅばんえり 「どうしたの」 帳付をすまして一一階へ上ると、お喜多が長襦袢の襟をか 「だっておまえ。ああいう所にいってくると、何となく、 けていた。京都で仕入れてきたものの中から、一反だけ自 さつばりしねえから。廊下を歩いていると、背ろから、黙家用に奮発したのがやっと仕立上って、それに、これも ってくつついてくる女の狂人がいてね。何だか、そいつに 「ゑり萬 . で買ってきた薄い八重桜の半襟をかけると、ぐ 見こまれたみてえで、気味のわりい話さ。うふ。ぶるぶっと引立って、着ないうちから、しつ。ほりした色気が出て あやめ ごくじようりんすらりめん る」と、康吉は頸の辺をふるわした。 来た。襦袢は極上の綸子縮緬で、菖蒲の花の地紋が、いか うぬば 「自惚れてるわ」 にも気に入ったので、お喜多に着せてみたくなったのであ ぜいたく 「だっておまえ。往きもかえりも、ついてくるんだもの」る。然し、悉皆屋風情が、こういう贅沢をするのは、可怕 かしやく 「いい女なの」 なびつくりで、誰にともなく、良心の苛責を感じる。 べっぴん 「そうなんだ。とても別嬪でね。かえりには、紅をさした「ちょっとお見せ」 り、衣紋をぬいたりして、お見送りさ」 「はい」 「はははは。よかったわね」 康吉は手にとって見て、 「何でも、遠い野の果てで、惚れた男に捨てられた女だっ 「やつばり、、、 しものは、手にひびくね。まる味があるだ て話だ」 けでなく、温か味がちがう。まあ、大事にして着るんだ 「あなたも少し、どうかなって来たんじゃないの」 ね」 「いや、全く、そんな気がする。伊助さんもあんな所に、 「着初めはいつにしましようか」 じんじよう 長い年月を入ってりやア、どうしたって、尋常じやアなく「そんなに、せくことはないじゃないか」 なるよ」 「でも、こうして仕立上ると、着てみたいものよ」 「さア、早くいってらっしゃい」 糸切歯で、くけた糸のさきを切ると、襟の出るところ くみおけ と、お喜多は、セルロイドの汲桶を出してわたした。康を、お喜多は自分の胸先に合わせてみたりした。
は鶴むらという振割りで、私もやっと、仲間に入れて貰うが、よっ程、どうかしてるわよ」 ことになったんだ。まだ、御歴々とくらべて歴史は浅し 「何でもお前と来たら、その調子だから、かれこれいわれ し、阿蘇さんはあの通り、気のいい人だから、通るとしるんだよ。そりやア私だって、兼岡なんてものは、認めて ないよ。認めてはいないが、そうかといって、いきなり、 て、大亀あたりに、けじめを喰うんじやアねえかと、ビク ビクもんで出かけたんだ。それがおまえ、無条件で通った鶴むらを入れろといったんじやア、お座が白けてしまうじ んだから、嬉しいじやアねえか。はじめ、小紋は、兼岡とやないか。大亀だって、い、顔はしないにきまってる。そ いうことにしたいというと、長兵衛さんが、そりやア、康こはお前、如才なくいかなくっちやア 吉さん。いけないよ。筋からいったって、梅村の株は、鶴「私のことを、かれこれ云うって、何よ。やつばりおくら むらに伝わったんだし、兼岡なんて、伝統から云っても、 が、云ってるんでしよ」 かん 流行から云っても、これというものは出してないじゃない と、お喜多は、又、疳を立てて、頭を上げようとする。 か。どうせやるなら遠慮なんかやめにして、鶴むらの小紋「おい、おい。寝てなきや駄目だ」 でいきなさるがいい。康吉さんが、そう遠慮されると、大「だって、おくらがあんまりだから」 いっこくもの 冫をし力ないという 亀だって、阿蘇さんと肩を並べるわけこよ、 「いや、あれも一国者だから、自分がこうと思いこむと、 ことになって、話が小面倒になるじやアねえか。鳥羽も一一一ゆずらないので困る」 勝も、あっしはべつに不足はねえが、小紋の兼岡だけは、 「何しろ、あたしより先に、鶴むらの店に雇われてたって しゅうと 当今、鶴むらがあるだけに考えさせられるーーそういうおんで、まるで、姑みたいなつもりでいるんだから」 前、まるで、こっちの肚、見透しの話だ。大亀さんがそう「大きな声を出すなよ。聞いてると、うるさいからーー」 仰有って下さるなら、それじやア一つ、心臓で、手前も一 「いいわよ、聞かれたって。本当のことをいってるんだか 枚、加えて戴きましようか、っていうと、そうしなさい、 らーーー・そりやア、おくらの方があたしより先かもしれない そうしなさいって。私も思わず、胸がドキドキしちまったけれど、今じゃ、あたしの奉公人でしよ。召使いでしよ。 それが、図にのって、主人を主人とも思わないんだもの」 かたぎ 「そりやア大亀さんだって、世の中の動きを見てるわよ。 「でもないさ。あれで、昔気質だから、忠義な処もある。 兼岡なんて、阿蘇さんは無論、鳥羽さんや三勝さんとだっ この頃の若い者のように、うわべはともかく、肚で人を小 げこくじよう て肩を並べりやア、場違いよ。そんなこと、云い出す方馬鹿にしてるよりは、ましだよ。下剋上といって、世の中 おっしゃ はら はら
しつもの通りに、とっとくれ」 の部屋ま、、 何も一月二月を争うことはない、という打算も入ってい こ 0 「そうですか。どうも話がわからないね」 いいながら、おくらは康吉の寝床を まだ、何か・フツ・フッ 「部屋もこの通り手ぜまだから、寝る時だけは、女中たち しいて行った。暫くすると、お喜多たちが、風呂から帰っ と一緒ですよ」 と、念も押した。それから、手代たちを呼びよせて、一て来た気配がした。 人一人、紹介してから、下女のおひでと、一緒に近所の銭さすがに、若い女が入ると、家の中の空気が、ガラッと 湯へ出してやった。 かわって、花やかになるのがわかった。 しばら 暫くして飯炊きのおくらが入って来て、 翌日は、春にはめずらしいくつきり晴れ上った天気だっ 「旦那、あの方のお床はどうするんです」 た。康吉は、冷たい水で顔を洗って、すぐ店へ出ると、お たた、 と、きいた。べつに女房じゃないんだから、お前たちの喜多がもう、起きていて、かいがいしく、三和土に水をう あね くろえり しまめいせん 部屋へ敷いてやってくれというと、おくらは目をほそくしっていた。黒襟のかかった縞銘仙を着て、姉さん冠りにし て、 た手拭のかげから、黒目がパッチリ光っている。 「何ですね、旦那、おもて向きはおもて向きで、何もそん「お早う」 な遠慮をなさるもんじゃありませんよ」 「おはようございます」 と、背中を小突いた。 悪い気がしなかった。帳場に坐って、とにかく今日一 「何も、遠慮じゃない。話ずくでそういうことにきめたん日、最善をつくして見る気になった。すぐ、風呂敷包をも だから、ーーー」 「だって、旦那。向うじゃ、おかみさんになる気で、来た「じゃあ、いってくる」 んでしよ」 「まあ、朝ご飯は」 「帰ってからだ」 康「さあ、どうかね」 ひょいと、自転車にのる身体が、いつになく軽かった。 皆「いやですね。そんな、あいまいな話ってありますかよ。 くらまえ べっぴん 悉 でも、きれいな方ですね。あんな別嬪は、見たことがあり銀座通りを真すぐに、浅草の蔵前の、そこの染物工場へ、 染ものの出来上りをたしかめにゆくのであった。十中八、 ません」 「おくらも、今日は御上手をいうね。まあ、いいから、こ九、まだ、とおもっていたのが、もう、染め上っていて、
「そうなんですってね工、随分、ひどい、お客さんもあれ 「いえ、なに。 急ぐこっちやアござんせん」 ばあるものね、伊助にいわせるとそこが商売のむずかしい 「そうかい。そんなら、私にまかしなさい」 所だっていうけれど、あたしはそうは思わないわ。そのお 「へい どうも相すみません」 かみさんが、因業ですよ」 あが がまち と、ペこペこ、上り框に手をついて、やっと、にげるよ「恐れ入ります」 うに外へ出ると、額に一ばいの汗だった。 「でも、とても、いい帯なんで、私、自分でしめたくなっ それから一週間ばかりというものは、康吉は、稲川の店ちゃったんですよ」 にいても、外を注文とりに歩いていても、気が気ではない のであった。しかし、うつかりいけば、又伊助に、ガミガ 「お父さんにお話しして、買って戴くことにしましたの」 し、、 いわれるのにきまっているので、遂、閾が高くなる。 「ほんとでございますか」 すると、或る日、梅村から稲川の店に電話があった。 「ほんとよ。お父さんも、そりやア、康吉さんが可哀そう 出て見ると、聞きなれぬ女の声だ。 だし、それに、これだけの帯なら、掘り出しもんだからっ 「あの、康吉さんですか ? 」 「へい、康吉でございます」 「すみません、ありがとうございます」 らようだい と、答えながら、康吉は、嬉しさに胸が一杯になった。 「じやア、すぐ、来て頂戴。伊助が、一度康吉さんにかえ あらた して、更めて、私が買うことにして貰いたいんだそうです 女の声はあきらかに、梅村の一人娘、お喜多の声にちがい から」 なかった。 しゅちん 「あの、伊助から聞いたんですけれど、繻珍の丸帯のこと「へい 電話を切ると、康吉は大いそぎで、店先から自転車を走 吉で、康吉さん、大へんお困りなんですってね」 らした。 なみだ 明「〈い、行届きませんで、何とも相すみません」 泪に濡れたまっげのせいで、川向うの灯がいつもよりポ 皆「伊助は、どこかへ振向けてはどうかっていいますから、 一寸見せて貰ったんですよ。とてもいい帯じゃありませんウッとかすんでいた。うすく匂いのある春の川風が、袖か うまや ら入って、背中をふくらました。外手町から厩橋をわたっ か」 「へい 仕立をまちがえてしまったもんですから」 て、蔵前の通りを真すぐに、自転車は浅草橋に向った。宙 いんごう すいぶん そとで そで
ない」 しよう」 「でも、これからの革命には、宗教的な信念より透徹した 思いがけない奇襲にあって、英子は面くらった。 論理が必要でしよう」 「とんでもない」 「そう云われると一言もないんだけれど、自分なんか、あ「ホホホーー巻村さんの影響がありすぎる」 んまり自由にすると、危険なのよ。迷ったらおしまいだし「あら、いやだ」 ちょうはって、 ね。スタイルにしても、挑発的なものは、全然避けたい 「でも、あの人は悪党よ。階級的裏切りも、ほどほどにし の。少し官僚的かしらね」 てもらいたいわ。あの人の知識階級論なんて、ヘドが吐き 「少しどころじゃないと思うわ」 たくなる。あれこそ、イカサマで、ニセモノで、全く処置 「だから、それはテスト・コースなの。今に脱皮してみせなしだわ」 るつもり : : 一応中央委員事務見習だもの、ホホホー 「それほどでもないと思うわ」 じちょう あばたえくほ と、布原は自嘲した。たしかに、この頃の布原は、白の 「そりやア菊面も笑窪だからね : : : ・フロレタリア 1 トを認 ねずみ プラウスに、鼠のタイトのスカートで、口紅もつけなくなめないで、知識階級の再生産なんて、およそナンセンスじ った。質素を通りこして、無色無味を思わせた。そうかとやないの。あれこそ、・フチ・プルの悪魔的テマゴ 1 グだと 思うと、男のように股をあけて走った。人前で、欠伸をし思うわ」 せき めちやめちゃ たり、咳ばらいをして話し出したりした。しかし、ウエス 「おタマにあっては、減茶減茶ね」 トのくびれあたりには、女らしさが充分にあった。乳房も「怒った ? 」 、え。でも、人のことを、そんなに云うもンじゃない 盛り上っていた。彼女はっとめて中性を装おうとするが、 と思うの。同じ時代の中で、思想の悩みがあるのは、われ それは擬態であった。 人ともでしよう」 イ「恋愛だってするときがきたら、するつもりよ」 「やつばり、あなたは巻村さんに惚れてるンだわ」 と、布原は云った。 ネ 「それなら、見直すわ。この頃のおタマは、恋愛なんて否「もうよしましよう。今夜は : : : 明日、頭をクリャーにし 定してるみたいだもの」 て考えるわ」 「そうね。現代は否定的だわ。小説を追放したようにね英子は、涙をうかべていた。巻村をニセモ / と云われた ・ : 片森さんがデモに参加しないンだって、恋愛のためでから口惜しいのではない。布原が、よく知らない筈の巻村 あくび くや
ようなことはないのね」 出した。 と、お喜多はきいた。この先き又、いっ逢えるかとお「誰だっておめえ、十年以上、行方が知れざア、死んだも もうと、康吉の手前をはばかってはいられない気持だっ同然だ。そいつが、生きてたんだから、胆を消すわけだ」 「ほんとですか、お父つあん」 「うん。今もいう通り、あの家だけは、世話になってる お喜多も、目をまるくしている。 が、くらしの方は、まあ、どうにかやってるんだ」 「まあ、はじめつから話さねえとわからねえが、この間 「そんならいいけれど、お父つあん、少し、窶れたようね、祇園の通りでもって、ひょっくり、 与助にあったん で、あたし、心配だわ」 「そりやア、おまえ、老人だもの。 いつまでも、然うビン 「ふうん」 シャンとはいかねえさ」 と、お喜多が、いつもする鼻を鳴らした。 が、あたり前のことをいってても、声の調子や抑揚のせ「店を出てから、上方をうろついてるたア聞いたが、何を いかして、市五郎の話振りは、哀れっぽくきこえて仕方がしているのかと思ってきくと、南座へ入れる弁当の仕込み こうせん なかった。 のようなことをやって、ロ銭を取ってるらしいんだ。で あいかわらず はんてん 次第に、夕暮れてくると、吉田山の方がボウッと藍色にも、不相変、にやけた絆天なんぞ、ゾべロと着ながしてい かすんで、えもいわれぬ京の眺めであった。 やアがった。向うじやア、すっかり、なっかしがって、 「時に、珍しい話があるんだ」 ろんなことを、聞きやアがる。うるせえと思ったが、立話 * い。もばう 市五郎は調子をかえて康吉の方へいった。 もなんだから、丁度、飯時だし、芋棒へ入って、簡単に食 「何でございますー べながら、お互いのニュースを交換したわけなんだ。そう びつくり 吉「吃驚しちゃいけないよ。伊助のいる所がわかったんだするとおめえ、伊助が、生きてるというじゃないか」 「驚きましたね、どこにいるんです」 「東京だ」 悉「ええツ」 驚いちゃいけないと前置きをいわれたが、これには驚か「へえーー」 い、しに 「何故、今まで、生死を知らさねえんだと思うだろう・と ざるを得ない。震災で死んだとばかり思 0 ていた伊助が、 どうして生きていたのであろう。康吉は思わず半身をせりころが、聞いてみると、それも道理だ」 やっ めりはり・ あいいろ
352 てんとう すとぎは左を攻めて右をあけ、敵を誘い込む隙を見せなけざ、覚えておいて損のねえもんだ、いいか、本末を顛倒し ればならず、やはり、二拍子で極る手である。それだけちゃいけねえぞー・ー捲落しを覚えたら、こんどは肩透しに すくいな に、はずみがかかって、うまくいけば、敵は防ぐ術なく、 いかねえで、掬投げの工夫にいくのが分別だそ。わかった 水際立って料理することが出来るのである。その代りカだ か」 けでは駄目で、角力の勘所をおさえてかからなければなら と、新七は説教した。それからいろんな手の話になった ない。自分から仕かけていって、敵がこらえるところを、 カ すかさず捲くこともある。下手から捲き、上手から突落し「旦那は昔は網を打ちなすったそうだが、網打って手は、 て、一一手が複合してきまる場合も、よくあることである。 やつばり投網の形からきたもんですかね」 或いは右手を捲きながら、左上手で、敵手の肩をぐっと押などと訊かれて、新七はすっかり御機嫌で、伊賀響を相 えるようにすると、一段とあざやかにきまることもある。手にすっくり舟のヘさきに立った思い入れで、縁側で網を 捲落しの得意の力士に会うと、いくら用心していても、つ打っ形をして見せた。あとにも先にも市子は父が網を打っ うかうかその手に乗ぜられることが多い 姿を見たのは、この時の一度切りであった。しかしそれに 伊賀響は捲落しの要領を体得するや、角力が見ちがえるは一種の名調子があり、二つ三つと勢をしぼっておいて、 わぎ かた ようになって来た。之と連絡ある技として、突落しや、肩矢庭にさっと高く、切ってはなす手先には、まるでほんと 透しもうまくなり、チョン掛や、とったりの如きも習い覚うの網が、空にきれいな目を描いて、又、瞬間に消え去っ えた。すると又、新七が理屈をいって、 たような錯覚を見せるのだった。市子も伊賀響も、しばら くはポンヤリして、新七の高くあげた手先から、やがて、 「あんまり、技を覚えると、こんどは角力がケレンになっ 火色にくすんだ冬空の方を眺めていた。角力の方での網打 て、小さくなる。それじやア天下の大力士にはなれねえ。 角力だって網打だって同じだが、技は技、態度はあくまでというのは、本場所ではめったに見られない奇襲の手で、 正々堂々といかなくっちゃ駄目だ。引いたり、透したりす敵の出鼻を利用し、その利腕を泉川のように両手で抑え、 ひね うっちゃ しよせん るのは、所詮、奇道だ。やつばり、何てっても前へ出るエ自分の腰を捻りながら、打棄るように投げるのである。 しかし、伊賀響が慚く芽を吹いて、十両にもなり、改名 夫をしなくっちゃいけねえ。捲落しゃ肩透しを得意にする ようじゃ、本当の角力取とはいわれねえ。ただ、おめえみもして、前途を嘱望されるようになったころ、新七が、ポ たお てえに、角力のコツのわからねえものには、捲落しなんッカリ斃れてしまったことは、前にも書いた通りである。 す、
「なアに、私も昔は、気むずかしやでは、人様に負けない と、挨拶する。 もらノ - っ′、 「鶴むらの康吉さんか。遠い処をおはこびで御苦労さん方だったがね。耄碌して、耳が遠くなったんだろう。はは はは」 だ。まあ、もっとこっちにお入んなさい」 げん ところ 「はははは」 阿蘇氏は見た処より若い声で、又、威厳のある居住いに こ入ろう と、顔を見合せて笑ったが、この辺で一つ用談冫 くらべて、存外、やさしく、世話にくだけた調子で云う。 かいちゅう と、康吉は懐中から手拭を出し、チンと空鼻をかんだ。 「へい。それじやア遠慮なしに、すすませて戴きます」 「時に先生。こんどの初風会のことでございますが、昨 「さア、どうそ。どうそ」 ふすま 日、大亀の長兵衛さんにも逢って参りました」 康吉は室内に入り、膝をついて襖をたてた。 「そうですか。何て意見でしたか」 「何遍伺いましても、いつもそう思いますんですが、この 辺は青々しておりまして、私共の住んで居ります日本橋界「へい。長兵衛さんの御意見では、阿蘇先生のような大家 中の大家といわれる方と、自分達が並んで、五名家とか何 隈なんそにくらべますと、全く別天地でございますな」 うた 「ところが、康吉さん。御覧の通り、竸馬の日にはたまりとか謳うのは、まことに身の程知らずだから、こりやアや はり、阿蘇先生だけを別格にしなくっちやアと、しきりに ませんよ。もう、朝からひっきり無しの人通りだものね。 これが春秋一一回、八日間ずつあるんだからーー・でも、それ云っていましたが、そりやアもう、こ 0 ちで、別格にしな くっても、世間で先生を、我々と一緒に見る筈はないんだ にぶつからないと、まあ、静かは静かだね」 えら し、第一、こんどのことは、先生のお胸にあったことを、 「ほんとに驚きました。豪い人出なもんでございますね。 じゃま 康吉がまとめたようなものなんだから、ここは一つ、みん では、その間は、御仕事の御邪魔でございましようね」 「なアに。私のは、その方は一向平気でね。自分の身内なして先生に甘えて、よろしく御引立を願おうじやアない かってね」 吉 に、取りこみがあるとか、病人が出たとかなると、やつば り仕事が手につかなくなるけれど、往来が騒々しい位で「うまいところをいいましたね、 皆 「へい。それでやっと、長兵衛さんも気がはいって、お召 は、何ともないね」 悉 「へえ。そうでござんすかね。手前なんそは修業が至りまの方は一切引きうけてやる 0 てところへ、連びました」 せんので、ラジオが鳴っててもうるさがる方でございま「そうかい。それは御苦労さんでした。どんなものを出し てくれるつもりかしらね」 びゞ 0
から、腹をたてると、恐いんです。その代り、ふだんは、何はともあれ、こちらさんの料簡を伺ってみてからのこと すなお 猫のように、柔順な坊ちゃんでね、大きい声なんかしたこと、金森さんをいいなだめて、飛んで参ったような訳でご とはないんですけれど、気性は竹を割ったようで、まことざんす。一体、先生は、金森の坊ちゃんと、知加ちゃんと の深いわけを、知ってなすったことなんでございましよう に、海国男児らしい坊ちゃんです。まあ、お待ちなさい。 ねー 話はまだ終ってはいませんから」 ゴクリと唾をのんで、矢木律は、うす汚ないハンケチ 「むろん、知っております」 えり 、よぎ むく で、襟の汗をふき取ったが、 と、余は、虚偽を以て、酬いた。実の所、いろいろ臆測 「何しろ、相手がいけませんや。部隊長といえば、いくらはしていたが、かく、明瞭に、金森氏と知加の関係を告げ しか 云い分があろうと、筋が立とうと、こりやア、軍紀に照ら知らされたのは、初耳である。然し、余が、真実の通りを して、処分されるのは当然でしよう。重営倉ぐらいならい いえば、知加の立っ瀬はなく、又、余にとりても、特別の いが、正式の軍法会議にかけられて、まかりまちがえる利益はなし。かかるが故に、余は虚一言を吐いて、知加の立 と、銃殺もんだという騒ぎです。それもみんな、事の起り場を、まもる外に、手はないのである。 「それなのに、どうして、知加ちゃんを引っぱりこんだり は知加ちゃんのためだというので、金森さんでは、容易な なさるんですー らぬ事件です。私の家でも、三男に召集令が参りまして、 取りこみの最中でしたが、金森さんから、火急の用件とい 「いや、それを知っておればこそ、家において、金森氏の うので、いって見ると、これこれ、こういう始末だが、お帰還まで、この人を預かっているのだがーー」 律さん。若し、二郎に万一のことがあったら、どうしてく 「ふん。うまく仰有るよ。先生の手がついているから、こ れる。私達とすれば、大事な大事な二郎の敵だ。お知加はの子が逃げて来たんじゃありませんか。子供だけだと思っ この子には、もう親はなくって もとより、こちらの先生だって、ただは措けない。生かして、馬鹿におしでない。 も、親類縁者もあれば、私だって、ついています。それに ては措けない、という剣幕でござんす。私も、どうしてい せがれ いかわからず、ただ、平あやまりにあやまりましたが、そ金森の旦那からいえば、倅の嫁になる子だから、話もつけ らら んなことで、埓のあく話ではござんせん。そうかといつずに、勝手な真似は、ゆるしませんよ」 「では、どうしろと仰有るのだ」 て、坊ちゃんは、遠い所にいることだし、助命運動をした きわ 余は、ようやく、話が、掛合いの段階に入りたるを感 くとも、とても及ばぬ願いではあり、私も進退谷まって、 こわ おっしゃ
略にのって、店を手放すなんてーーそれも、買手というの「康吉は、その代り、梅村へ入って、又、手代からやり直 がたき が、いわば商売仇の梅村んとこの使用人だそうじゃありまさせるーーーそういう話になったんですー * えり せんか、私も一度、その伊助という爺さんを見たことがあ「畜生 ! あいつめ、とうとう、襟につきやアがった」 ぎようそう ふんぬ * やぐらわたし りますよ。白い眉を。ヒンビンさして、とんと矢ロの渡の頓と、お兼は、また、憤怒の形相になった。 兵衛じやアありませんか。人前もかまわず、鼻薬ばかりさ「いや、そういうわけでもないさ、お兼さん。康吉だっ しているし、ほんとに好かない奴ですよ」 て、ありようは稲川さんに、余生をあんのんに送らせたい くら威張っても、 と、剣もホロロの挨拶であったが、い のが一心だって、この間も涙をながして、いうんですよ」 そらなみだ 現実の前には、お兼も段々に、強情を折らなければならな「何アに、あれのはみんな空涙さ。そんなペテンに、誰が くなった。現に松川屋には、預かりものの外にもいろんなのるもんですか。みんな、あいつが、自分よかれで書いた とド一こお 狂言ですよ。ああ口惜しい」 ものが入っていて、利子も滞りがちであった。 かなきりごえ と、お兼は金切声をあげたが、さすがに松川屋の手前、 「康吉も、自分じゃ駄目だと知って、松川屋さんに口を利 かせるなんて、あいつもいよいよ悪がしこくなりやアがっ傍のものをとって投げる真似も出来なかった。 そのうち、一一度三度と足をはこぶうち、話は、予定通り たもんだ」 て、ぎ すすんだ。売値と買値の交渉もどうやら、適宜に落ちつく と、お兼はこめかみをビクビクさせて口惜しがった。 「そうして、伊助さんが買って、康吉はどうなるんでしょ模様であった。康吉は、手を合わして神に祈り、どこにも きず 創のつかぬ解決を願った。 う」 と、少しお兼が折れて来たので、松川屋は一生懸命だっ話が切出されてから二月目に、ようやく手打になった。 かすかべ 稲川夫婦は、お兼の身うちのいる粕壁の方に小さい家を借 た。 しんぞ 「決して、お新造、この家を康吉さんの自由にやアさせねりて、病気を養うことになった。ただ、稲川という屋号だ 工んだ。伊助さんて人はね、康吉みたいな、小ずるいのはけはどうしても譲るわけにはいかぬという、お兼の感情論 嫌いだって、云ってなさる。だから、自分は、康吉は使わに且まれて、結局、屋号は、伊助の姓をとり、飛田屋とい ね工。一人で切り廻して見せる。稲川という屋号もそのまう名に替った。康吉は身銭を切って、松川屋から一切の質 入品を受け出し、帳簿と現物の事務引継を完了した。思い ま継いでもいい もよらぬものまで、松川屋には入っていた。みんなお兼 「それで、康吉はどうなるの」 みに てうら