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検索対象: 現代日本の文学 29 石川達三集
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1. 現代日本の文学 29 石川達三集

しゅうしゅう 砕けて収拾のつかない自分の心の乱れが、久しぶりに新安物を買ったんだろうと軽蔑したような言い草だ。そのま ま煙草入れをそこに置いて、小さなネジ廻しを取り上げ、 鮮な溜息になった。 べっこう ふところの中に鼈甲のシガレット・ケエスがある。十四右の眼玉に拡大鏡をはさんだ。問題にならんという態度で 五年もまえに神戸で買ったものだ。近ごろはちっとも使わある。先生が黙っていると、 ひきだ 「傷だらけですなあ。大分古いんでしようーと言う。先生 なかった。それを先生は机の抽出しの奥から探し出した。 坂を下り切ったところに駅がある。先生は広場を横切っは返事をしないで、みみずく時計の眼玉の無気味な動きを て、狭い賑やかな商店街にはいった。その通りの店の切れ見ていた。するとまた、 「黒い斑がもう少しすくないと良いですが、こりや、あま るところまで行って、もう一度引返す。ようやく見当をつ けて、一軒の時計屋にはいった。中年のしなびた男が置物り良い品じゃないですよ」と言った。 のようにじっと坐って、電燈の下で時計を直している。彼先生は黙っている。この男と余計な口を利けば、お須磨 をとり囲む三方の壁の上で、数十個の柱時計の振子が一斉さんの美しい幻が消えてしまう。しかしこれが高く売れな に光りながら揺れている。みみずくの型の時計が三個、六ければ、お須磨さんに会いに行く金がない。ふところには つの白い眼玉を左右に動かす。硝子のケエスに宝石、装身百円紙幣が三四枚しか無いのだ。時計屋は、 具などが並んでいる。 「二千五百円でどうですか。それでも勉強ですよ。何なら 「これを売りたいんだがねーと先生はシガレット・ケエスほかの店で聞いてごらんなさい」と顔を上げないで、無情 まぶた こんせつ を取り出した。時計を直していた男は顔を上げた。右の臉な言い方をした。小売商人という人種は、売るときは懇切 ていねい で器用に押えていた黒い拡大鏡を、ぼろりと手のひらに落丁寧みたいだが、自分が買う立場になると、冷酷無惨な顔 して、 をする。 金を受けとって時計屋を出ると、暗い横丁から横丁を通 「はあ、鼈甲ですか」と気のない声を出した。 「いくらぐらいの物かねー って、小泉先生は料亭「初島ーの玄関をはいった。二階座 男は坐ったまま、痩せて指の長い手をすっと出した。敷で三味線の音がしている。 中庭に面した四畳半に案内されて、酒をもらう。お須磨 草入れを受けとってばんと開く。ばちんと閉ざす。また・ほ えり さんは紫のこまかい縞の着物をきりりと着て、白く長い襟 んと開いて、人差し指で一一三度はじいた。 「甲が薄いですな。大したことないですーと言う。お前は首のあたりに何かただならぬ憂いをたたえていた。ひやや にぎ ガラス いっせい くび しま

2. 現代日本の文学 29 石川達三集

236 せみ りかえり、眼を半眼に閉じて蝉の声を聞いている。 女性的発声法である。「まあ、見事な西瓜ですねえ。僕に 「何をしていらっしやるの ? 」と夫人はきいた。きくべきくださるの ? 嬉しいな。だけど、いつも頂いてばかりい 必要もないのに、ちょっときいて見たのだ。一種の偵察でて困っちゃうなあ。どうも有難うございます。冷たいんで ある。小泉さんはねむたげな眼をひらいて、 しよう ? 僕、さっそく頂きます。ま、叔母さまお掛けに 、すうあん 「何もしとらんよ。胸中の風雲を聞いて天下の帰趨を按じなって。いまやってるラジオ ししてすよ。・ハリのシャン ソンなの。聞いてごらんなさい、僕、いままで、うっとり て居るところだ」と解らんことを言った。 お三時にはまだ早いが、恒子夫人は待ち切れなくなっして聞いてたところなんですよ」 た。あまり冷たくはないが、西瓜をひときれ切って盆にの 人のもてなし方、身のこなし、行きとどいて、一点の隙 とびら せ、廊下を通って福沢君の部屋の扉をたたいた。 もない。部屋のなかは整然として、女の部屋でもなかなか 返事がきこえて、扉は内からひらいた。恒子夫人がぶるこうは行くまい。ペッドにはきちんとカヴァをかけ、机の ッと身ぶるいが出るほど、福沢君は美男子である。白いゅ上は整理され、灰皿のガラスまで磨き立ててある。いそが るやかなズ・ホンをはき、網のような生地のシャツを涼しげしく立ち廻って恒子夫人に椅子をすすめ、自分は西瓜の匙 に着て、猫のように軽々と、しなやかである。美男子と言をとってにつこり笑った。 っても獄門台に似合うような、苦み走った渋い男ではな「叔母さまって、良い人だなあ。御親切が身にしみます まゆ 。色が白くて、三日月形の美しい眉をして、少し眼尻のよー 、れい うりぎね あがった綺麗な一重まぶたで、瓜実顔の鼻筋通り、唇は赤歯の浮くようなお世辞た。夫人はそんなお世辞に瞞され かつら くて小さい。文金高島田の鬘をかぶせたらそっくり、そのはしない。 この男の言うことは信用できないぐらいのこと まま古風な花嫁に見えるだろう。それほど日本の伝統的なはわかっている。しかし、お世辞みたいだけど、半分ぐら 女性の容貌が、彼において再現されている。 いは本心から喜んでいるのだろうと思う。彼は五尺六寸も せたけ 女というものは不思議な二重性をもっている。男らしい 背丈があるのに、女の言葉をつかう。最初のころはそれが 男には魅力を感ずるが、女らしい男にも魅力を感ずる。歌でたまらなかった。ちかごろは奇妙なやわらかさと温か 舞伎の女形が女に人気のある理由はそこにある。恒子夫人さとが感じられて、この人は心のやさしい人なんだろうと 思う。こんな人の奥さんは、きっと親切にしてもらえて、 は西瓜の盆を手にしたまま、危うく入口に立ちすくんだ。 ぎようさん 「ああら叔母さま ! ーと福沢君は仰山に叫んだ。声までが仕合せだろうという気がする。うまそうに西瓜をたべてい ていきっ す

3. 現代日本の文学 29 石川達三集

ちょうし ・ : ね ! 」と言いながら、先生 うにして軟かく先生の手を取った。そのまま、あでやかにてお銚子ひとつでも。ねー の手をとって引っぱり上げた。 下から見上げる姿勢になって、 「毎日毎日お待ちしていましたのに、ちっともいらして下女に手を曳かれながら、先生は廊下の角を二つばかり急 さらないで、一番都合のわるい日にいらっしやるのね。意ぎ足で通りすぎた。騒然たる絃歌のなかを游いで行くよう 地わるだわーと恨みをこめた眼でじっと小泉さんの顔を見であった。廊下を曲った突き当りに、硝子障子のはまった 六畳の間がある。長火鉢と紫色の絞りの座ぶとんと鏡台と たんすこくたん 先生は全身の血液が逆流するかと思われるような、不思桐の簟笥と黒檀の茶簟笥を置いた、女臭い部屋だ。これが 議な感動を覚えて、思わず握られた手を握りかえし、お須お須磨さんの日ごろ起き伏しする秘密の部屋である。先生 ようえん はらずもこの部屋のなかへ曳きずりこまれた。 磨さんの妖艶な顔を上から見おろす。かなり酔っている。 す びたりとうしろ手に障子を閉めて、女はそのまま小泉さ 酔った眼がとろりと鈍くなって、隙だらけだ。抵抗しない とっさ ばかりか、待ち受けているような眼つきである。誰も居なんの肩に倒れかかり、先生 ! 嬉しいわ、と言った。咄嗟 に、小泉さんは身をよじって、両手でお須磨さんの肩をか ければこのまま掻き抱いて、何とかせずには置けないよう な気持であるが、下足番の爺さんが僅か五尺の所に立ってき抱く。ふわりと、両の腕のなかで崩れるように軟かいか 鼻水をすすっている。 らだだ。ようやく思いが叶ったようで、全身に血がたぎ 「そうか、では仕方がない。また来よう」と先生は未練をる。すると廊下に足音がして、女中がやってきた。一本の こづくえ 銚子につまみ物を添えて、それを小卓の上になら・ヘなが こめて言った。 「困りましたわねえ。じゃ、今度はいっ来て下さる ? 」とら、松の間の客がもっと料理を出せというが、どう致し ましようか、と言う。お須磨さんは急に事務的な声になっ お須磨さんは肩をくねらせた。 て、かますの干物か何か無かったか、板前さんに訊いてご 命「また、一一三日うちに」 らんという。そこへまた別の女中が来て、明日の五時から 革「本当ですか ? お待ちしていますよ」 十五人の宴会の申込みだという。その話をかたづけるとま 「ああ本当に来るー 「きっとね」と彼女は泣きそうな声を出したが、急に立ちた別の女中が来て、しょちょうさんがお帰りだという。 お須磨さんはしょちょうを見送りに出て行った。警察署 あがって、「ちょっと、そのまま、ちょっとお上りになっ て。このままお帰りになっちゃ駄目よ。私の部屋で、せめ長だか税務署長だか出張所長たかわからないが、とにかく わず みれん げんか ガラス

4. 現代日本の文学 29 石川達三集

「どこから引っぱって来たね」 ートだよ」 「東京デパ 「ふむ。あそこは多いな。掏摸の稼ぎ場だね。年末は殊に ひどかろう : : : 」 あくび 「そうだな」と中年の警官は欠伸をした。 けいか、 「今夜からずっと正月まで非常警戒だってな」と鹿野が煙 たた 管を叩いた。 「そうかい。寒うてやり切れんな」 「おいおい、そこの女 [ と鹿野は軽蔑的に呼んだ。「ちょ ぞうり れんぶじよう 練武場の上段の神棚に向って一礼してから板裏草履を突っとここへ上れ。お前は何を取ったんだ」 つかけると、鹿野刑事は板張りの廊下に足音も荒く刑事部女は上り框に腰をかけた。見るとまだ一一十五六にしかな ほおくちびる もど らない、顔立ちの良い女であった。左頬の唇のわきに大 屋に戻って来た。 せんじようてき がまら 中年の警官が上り框に腰かけて茶をすすっており、そのきな子があって、それが不思議に煽情的であった。 傍に子供を抱いた女が立っていた。一見して貧しい服装を「ふむ、こりゃあ美人だね。掏摸には惜しいや」 「買物をしている女のハンド・ハッグを取ろうとして、店員 ていたが、彼を見た眼の色には恐怖の表情がなかった。 あご たたみ 「何だね、これは」と鹿野は女を顎でしやくりながら畳にに見つけられたんだよ」 ひばちあぐら ・ : おい、お前、名前 上り、湯のたぎっている大火鉢に胡坐をかいて、小机の上「ふむ。虚栄心からの出来心かね。・ きせる は何というんだ」 の煙管をつかんだ。 すり 女は胸に抱いた満一歳ぐらいの女の児の頭を撫でてやり 「掏摸だよ」 ながら、答えようともしなかった。 「ふむ。 : : : 年末だからな」 「おい、返事せんか。名前は何というんだ」 鹿野は気にもかけずに柔道着を脱ぐと、十二月の寒さに はだ 肌からは汗の湯気が立っていた。ごしごしとタオルで拭「返事をせんか ! 」と警官もいった。 い、裸のままで一服つけてから、落着いて女を見かえっ女はきらりと青い眼で鹿野刑事を見た。 8 転落の詩集 かみだな かせ

5. 現代日本の文学 29 石川達三集

「ほう。君も相当のポーナスだろう」 「冗談じゃない ! 借金を半分ぐらいしか払えんのだ。正 「ちょ 0 と訊きたいんだがね : : : 」 月が越せんそ。五十円ぐらい貸さんか」 女は眼を上げて何か・ほんやりしていた。 川地は少したじろいで笑った。 「奥村八重子というのは奥村慎太郎の妻だろうね」 ひざ 「時に、用事って何だね」 女は膝をゆすって顔をそむけた。 「うむ、ちょっと訊きたいことがあってね」 「お前は知ってるんだね ? 」 じんもん 「変だね。訊問かい ? だから警察官を友達にもつのは考 「余計なことを調べなくてもいいじゃないの ! 」 えものだよ」 鋭い返事が鉄格子のあいだから飛びかかって来た。蒼白 奥村は冷えた両手をこすり合わせながら笑った。 い女の眼が怒りに燃えていた。 川地英三郎は熱い飲み物を取ってから、ロを切った。 あくる日の午後、川地英三郎は銀座に近い洒落た契茶室「このあいだの事件だがね : : : 」 にはいっていた。ひと通り客席を見まわしてから、喫茶室「事件て何だ。忘年会かい ? 」 につづく画廊に並べられた油絵の展覧会をゆっくりと見て「いや、あの掏摸のことさ」 回った。美術 : : : こういう世界が彼には珍しかった。芸術「掏摸 ? スリって何だい」 にしたしむ人達というものが、人生の、輝きに満ちた日向「おや ? 君は何も聞いていないのか」 うらや で生活しているように思われ、羨ましかった。もしも自分「知らんね。スリがどうしたんだ」 えいたっ が絵を描いて一生を送れるものならば、出世も栄達もほし 川地は悪いことをいい出したと思った。彼の妻は良人に くはない気がした : 何もいっていないのだ。して見れば奥村八重子は酒巻美代 すわ 再び喫茶室に戻ってテープルに坐るとすぐに、奥村慎太を前から知っていたのではなかろうか。良人の前の女のこ えり かばん 郎が大きな鞄をかかえ、オーヴァの襟を立てて入って来とを口にしたくないので、何も話さなかったのであろうと 察しられた。 「やあ、このあいだは失礼。あれからまた銀座へ出てね、 でハンド・、ツ 「実はね、このあいだ君の奥さんがデ・ハート 秋元と広瀬と三人で飲んだよ。広瀬は景気がいいらし グを掏られかけてね、犯人はつかまったんだが : : : 」と彼 ね。ポーナスだって千円ちかく入ったらしいそ」 は一応の事情を説明した。 しゃれ あおじろ おっと

6. 現代日本の文学 29 石川達三集

これは本心からの悪人ではあるまいと川地は思った。そにがくりと肩を落してふり向いた。 して「椿姫」を読みふけっている女を眺めながら一本の煙「そのことは訊かないで置いてよ」 草をくゆらした。この女が悪事を働くことの根本的な理由「そうか。 : で、お前のうちはどこだ ? 」 がどこにあるかを知りたく思った。それはただの貧しさか「春光荘というアパート。 ・ : そのうち追い出されるわ、 らではあるまい。貧しさのために悪事を働く女は、警察で大分溜めたからね」 もっとびくびくしているはずであった。酒巻美代の一種ふ「春光荘というと ? 」 ひんみんくっ てぶてしく腹を据えた態度には何かもっと深い犯罪理由が「谷町。貧民窟みたいなところ」 ありそうに思われた。 「ふむ。 : では、、いから部屋へ帰っておれ」 「お前、別れた良人と何年ぐらい一緒に暮したね」 と川地は部下を呼んだ。 美代は「椿姫ーから青い眼をあげてじっと彼を見つめ、 「何だ、帰してくれないの ? 」 再び眼を伏せると、興味なさそうに、 「もう少し調べることがあるから帰せない」 「十一カ月」と答えた。 「調べたって何も有りやしないわよ」 どうせい 「正式の結婚かね、それとも同棲かね」 警官は彼女の肩を押して留置場へ連れて行った。 、た はたん 「恋愛から同棲へ、それから破綻。有り来りの筋よ」 川地主任は鹿野刑事を呼んだ。 ばたりと「椿姫ーを閉じ、顔をかしげていった。 「今の女だがね、谷町の春光荘ア。 ( ートというのが住所 「煙草、一本いただけません ? 」 だ。名は酒巻美代。以前にある男と同棲したことがある。 そこう 警部補は黙ってチェリーの箱を押しやった。女は契いっ素行と余罪の有無とを調べてくれたまえ。序に相手の男の すじよう けると箱を押し戻して、 素姓がわかるとなお工合がいいね」 わがまま ごめん 「我儘ばっかりいって、御免なさい」と微笑した。笑うと「はあ、わかるでしよう。調べて見ます」と鹿野刑事は一 妙に素直な表情であった。 礼して引き下ろうとした。 「子供はお前の籍に入っているのかね」 川地は呼び止めて小銭をポケットから出した。 、え、無籍ものよ」 「小使にいってね、コンデンスミルクを買わせて、あの赤 「うむ、それはいかんねえ。父親の名は何というんだね」ん坊にやるようにしてくれたまえ」 酒巻美代はしばらく答えないで煙草を喫っていたが、急「しかし、そうまでしてやることはないでしよう」

7. 現代日本の文学 29 石川達三集

る。まるでこの初老の女をわざと昻奮させて、夫人の缶 「どんな訳 ? 言ってごらんよ」 ぐあい 本能を楽しんでいるようなエ合だ。夫人の方は騎虎の勢い「僕、本当に美代子が好きなのよ、叔母さま。結婚したい で、もうあとへは引けない。 と思ってるの。ですから、出来れば熱海だって日光だっ 「あなたは女の気持がわからないのねえ」と夫人は深刻なて、連れて行きたいのよ」 ためいさも 溜息を洩らした。取って置きの秘密を、こっそり教えてや「行ったらいいじゃないの」 りたくなったのである。 「それがねえ、行けない訳があるんです」 「だから、どんな訳があるの ? 」 「美代ちゃんはね、ロでは何とかかんとか言って居ても、 福沢君はまた眼のふちを赤くして、 結局はあなたが積極的に出てくれることを望んでるのよ。 あなたがちゃんととつつかまえてしまえば、あの人だって「実はね叔母さま、本当のことを言いますけど、僕ね、 言うことをきくつもりなのよ」と、彼女は眼の中に不思議ますっからかんなの。洋服をこさえたもんで、全然お寒い な輝きを見せながら言った。自分では重大なる軍事上の機のよ。こんな事を言っちゃ、本当に悪いんたけど、月末ま 密を洩らしてしまったつもりである。福沢君は意外にも当で、叔母さま僕を助けると思って、貸して頂けません ? りまえな顔をして、 恩に着ます。本当よ。明日のビクニック、、 しわば一生の大 「そりや解ってますよ」と二遍ばかりうなずいて見せた。事ですから、もしうまく行ったら僕たち生涯恩に着ます えら 「美代子だって二十八ですからねえ。偉そうな事を言ったよ。ねえ、お願い出来ません ? 」 って、売れ残りでしよう。本当はとてもいらいらしてるの しまったと思ったが、もう遅い。言葉の行きがかりとは しか よ。そりや僕、よく解るの、僕がその気になりさえすれ いえ、叱りつけるような口調で熱海行きをすすめて置い いや ば、言っちゃ悪いけど、簡単よ、叔母さま」 て、今となっては金の相談を嫌だとは言えなくなった。何 わな 恒子夫人はむっとなった。それだけわかって居るのならのことはない、この青一一才の罠にかかったようなものであ ある ば、何も女心の秘密をしゃべって聞かせることはなかったる。或いは福沢君は、最初からそのつもりで、散々に夫人 のだ。 を焦らしておいて、まんまと罠にかけたのかも知れない。 「それじゃ、な・せあなたは愚図愚図してるの。いやな人ね夫人は小さな声で、 「いくら有ればいいの ? 」と溜息をついた。 「それがねえ、ほかにもいろいろ訳があるのよ」 「五千円お願いしたいの。あとは僕、持っています」

8. 現代日本の文学 29 石川達三集

「ああ。君の友情におまかせするよ」と彼は巧みにいっ 今宵を留置場に眠る。 たま はいけ・ん 3 た。「なるべくあれに良いように計らってやってくれ給え。 佩剣の冷やかな音に怯えつつ母は歌う : ・ たのむよ」 坊やは良い子だねんねしな。 たいげんそうご もしもこの母に悪運つよく 酒を飲んで騒ぐときの大言壮語にも似ない卑屈な眼の色 明日、釈放されて街に出たならば が、川地には不快でならなかった。 百円入りの財布を見事手に入れて 街々の貧乏人どもを尻眼に 署に帰って自分の机に坐って見たが、さて彼女をどうし 銀色の自動車を駆って ていいかがきまらなかった。釈放と称して町へ放り出して セントラルホテルへ泊りに行こう ! やればそれで済むことはわかっていた。しかしそれで済ま ないのは彼の正義観であった。奥村の無責任を不快に思う だけに、彼は無責任が出来なかった。 川地は微笑して「うまいもんだね」といったが、笑うど たばこくわ 煙草を咥えて保護室をのぞいて見ると、酒巻美代は着物ころではなくてむしろぎくりと胸を突かれた思いがした。 すそ の裾で足を包んで寒そうに坐っていた。子供は畳の上を這 この女の中にある鋭い反抗の精神はもはやこれまでに進ん よだれ い回って涎をたらしていた。 でいたことを知ると、自分の手には負えないのではないか 「寒いだろう」と立ったまま声をかけると、美代は刑事かという気がしたが、その一方では、こんな悪い考えを書い ら借りたらしい鉛筆で何か書いていたが、微笑と一緒に彼た紙を平然とっきつけて見せるところに、実は詩の文句と うんでい の方へさし出した。 は雲泥の差をもったある美しい精神を抱いているのではな こんな文句が書いてあった。 いかとも考えられた。 彼はさつぎの喫茶室で奥村を待つあいだに絵を見て来た すり 掏摸の歌 美代 ことを思い出した。芸術を愛する心は明るい心ではなかろ うか。人生に希望をもち、または人生を純真に生きようと 盗りそこなった財布には する心ではなかろうか。 五十円も入っていたかも知れない。 温かい牛乳とカツレッとの幻は消えて 掏摸の犯人が詩を書くというのは意外であった。しか じらよう し、あるいは落ぶれた姿の自分を自嘲する気持なのかも知 飢えた母子は さわ はか ひくっ おび しりめ

9. 現代日本の文学 29 石川達三集

418 は平気でいられるだろうが、私が悪い女になれば良心が痛って、今回の犯罪を解釈すべき最も重要な手記であると信 むだろうと申しております。しかしその一方には、もう一ずるのであります。よって、多少お聞き苦しい点もありま 度悪いことをして警察に曳かれ、私に手数をかけたかっすが、次にこの手紙を読んで見たいと考えます」 た、私を困らせることをもって喜びとしている気持があっ 川地は内ポケットから封を切った手紙をとり出した。判 たように見かけられるのであります。 事は身じろぎしてじっと眼を据え、検事はおもむろにテ 1 ひじ おんびん 私はこの時の犯罪をも穏便にはからいました。むしろ越・フルに肱をついた。川地は一瞬間ためらった。あまりにも 権であったかも知れません。私はいまここにこの事を告白あきらかに彼女の心情を人々の前に公開することに、一種 して処分を待つものであります。私はたしかに被告に対したえられない気がしたのであった。それから少し涸れた声 になって読みはじめた。 て愛情を感じておった。それを極力抑えておったのであり ます。 一一度目に釈放された被告は、アート ′を追い出されて、 川地英三郎さま 私の宅にやって来ました。寒い夜のことでありました。私 いま私はあなたのお傍をはなれて、遠い町へ来てしま は別室に被告とその子供を泊めてやりました。私は極力冷 いました。明日か明後日のうちに、もっともっと遠い世 やかなあしらいをしました。そして翌日は兄の宅に泊っ 界まで行くつもりでおります。丁度はるかな空にかかっ て、被告との同宿を避けたのであります。避けなくては私 た美しい虹のように、近づくことの出来なくなったあな なっか 自身の気持が傾いて行きそうで危険を感じておったからで たの俤を、美代は懐しく思い出します。でも、お別れ あります。 してしまったことが何かしら嬉しいのです。 三日目には被告はシルヴァ商会に自分で職を見つけて、 美代はまた悪いことをしました。あなたはこれつきり しえ、そ 私の不在中に転居して行きました。私には新しい住所は知で美代を見放しておしまいになるでしよう。い、 らせてよこしませんでした。 れより先に私の方からあなたを見放したかったとお伝え そして、突然今回の事件を知らされたのであります。 しましよう。あなたはどこまでも司法主任さんでした、 さび ところが、この事件を知った翌日、被告が逮捕される前 立派なお方 : ・ 。でも、美代の眼から見ると淋しい方で 日に吉田の姉夫婦の家で書いた手紙が私の所へ送られて来した。もしもあなたがフアビアンのような情熱をもって とろ ました。それは死を決した被告が真情を吐露したものであ らしたなら、マノン・レスコウのような悪い女ですけれ おさ

10. 現代日本の文学 29 石川達三集

114 「どうも、あいつらのやってる事はわからん」 っていた。急激な病気がなおったあとのようであった。落 「どうしたんだねーと小谷野ははじめて遠慮ぶかく言っちるところまで落ちたあとは、却って新しい出発が新しい 力によって始められつつあった。むしろ彼は嬉しそうであ 「僕にもわからんがね、恋愛していたんだろうな」 った。それが白井や根本や恭子の眼には、無理に明るさを 見せているのではないかと疑われもしたが、彼を仲間のう 「それが何かもつれたんだね。い・ すれ理由は簡単だよ。しちに取り戻し得た感激が、あたたかい涙をもって心に沁み かし、竹内ってああいう男だったのかな」 た。足の方は軽い凍傷であったが、手首は大したこともな おどろ 「愕いたねー 「愕いたよ。あいつはもっと懐疑派で、あんな思いつめた食事を終ると宿の昨夜の青年は、下山する彼等のため 事がやれるとは思わなかったがねえ」 に、米俵や青菜などを里から運ぶための小さい橇を貸して 「人間って、こわいね」と小谷野は心からおびえた言い方くれた。一行は竹内をこの橇に乗せて、照りさかる朝の日 をした。自分にはとても出来ないというような言い方であ光のなかを出発した。 ほうたい った。彼は竹内のペッドの横にうずくまり、繃帯を巻いた「いざり勝五郎だねーと竹内は明るく笑った。すると橇の 彼の手を取っているであろう恭子の姿を想像してはいなか綱をつかんでいた根本がすぐに応じた。 ったろうか。スティームのパイプがじいじいと鳴って、よ「勝五郎なら俺が引っぱるてはねえや。おい、初花、君の ほど夜が更けたようであった。 役たよ」 恭子ははにかんで橇の綱を小谷野と一一人で握った。雪の まんもく あくる日の朝はうららかな天気になって、満目の銀世界上を橇は気持よくすべり、大きなスロープを降りきると、 は日光の反射で眼もくらむほどであった。はるかに遠い村昨夜の崖の下あたりでは、日光をうけた杉の枝々が、雪塊 里がくつきりと墨絵になってうかび、この山腹をとりまくをふるい落しては、ばさばさと起きあがっているのであっ りようせん た。この山にもやがて雪解けの季節がはじまる気配が感じ 峰々の稜線が刃物のように鋭く青空に迫っていた。 かんき 竹内はすっかり元気になって、皆と一緒に朝の食卓につられ、風も凪いで寒気はずっと和んでいた。東京はすっか みそしる き、味噌汁をすすった。昨夜のうちに、彼はその憂鬱を払り春になっているに違いない。 ふうぼう いおとしてしまったように見え、元の彼の風聿がよみがえ杉並木のあいだの急な傾斜を、竹内の乗った橇はするす そり