た・何かしら興ざめたような気持である。アメリカ製を看 胸が痛むのだ。大学教育というものにも批判すべきものは 板に彼は商売をやっているらしいが、つい数年まえに彼も 少なくない。大学組織に至っては更に言いたい事が多い。 しかし学生たちは真面目なのだ。・フルジョアののらくら息またアメリカの為にひどい眼に会わされた筈なのだ。彼が 子はともかくも、アル・ ( イトをしてまで勉強しようという貧しきアル・ハイト学生となったのも、アメリカに敗けたた 学生は、彼は彼なりに真剣なのだ。よれよれの学生服、無めかも知れない。歴史というものは皮肉なものだ。織田信 まおまねとが しようひデ 精髭 0 のびた暗い表情、骨が尖って、淋しげな眼つき。長の妹お市の方は、浅井長政の夫人となったが、信長は浅 井を亡・ほしてしまった。彼女は子を連れて柴田勝家の夫人 未来にどのような希望を描いているのか。 先生はそっちの方へ近づいて行った。ポケットに何程のになったが、今度は豊臣秀吉が勝家を亡・ほしてしまった。 金もはいってはいない。しかし何か買ってやらずには居らお市の方は自し、十七歳の茶々は、二度までも敵となっ よどぎみ れないのだ。先生の息子は金貸しをやって、悠々とキネマた秀吉に養われる身の上となり、やがて秀吉の側室淀君と 、のう を見たり酒を飲んだり、担保の蓄音器を鳴らしたりして遊なった。昨日の敵、今日の良人。社会の動揺がはげしい時 んでいるが、この学生はそれほどの才覚ももたない不器用には、とかく有り勝ちなことであり、平凡なことであるか まこの学生がアメリカ物資を売りながら、 も知れない。い な青年らしい。台の上にはきれいな紙に包んだチョコレー とが ここうしの かみそり わずかに糊口を凌いで勉強しているのを、咎め立てするに ト、ガム、安全剃刀、練歯磨、靴墨などが並べてあった。 も及ぶまい。先生はなるべく寛容な気持になろうとっとめ 小泉さんが立って見ていると、 「一ついかがですか。全部アメリカ製の上等品です。このながら、駅にはいって切符を買った。しかし寛容とは一体 靴墨、よく光りますよ。日本品とは比べものになりません何であろうか。それは一種の妥協であるかも知れない。寛 いらまっ です。ほんの少し付ければいいんです。ですからとてもお容な心の底に一抹のさびしさが残るのは、妥協した自分に つりかわ 命徳用です。どちらさんでも喜ばれますね。百六十円が普通対する一種の不満みたいなものである。先生は吊革につか ちんうつ 革ですが、特別に十円お引きして置きます。銀座の方では大まって、沈鬱な気持で揺られて行った。 日新大学の校門をくぐるのは、もう何年ぶりだかわから てい百八十円で売って居る品です。いかがでしよう、お一 青 つ。アメリカ製の上等です」と、馴れた口調でまくし立てないほど久しぶりだ。戦災を受けなかったこの学校は、お よそ以前と同じ姿をしているが、小泉さんの感覚にふれて 小泉さんはポケットを探って金を払い、靴墨を一つ買っ来るものが、何かしら違っている。校門からうねりながら ゅうゆう
か ? そんなことは考えてはいない、追い立てられてどこると皆で一つずつつまんで、市平はその残りを自分で紙に くるみ、「さ、お前の娘たちにお土だ」と言った。 まで行ったところで、現在よりも失うものは何一つなくな 包みを持って役場の前の石段を下りながら利八は唇が ってしまったのだ。 ムる 慄えてならなかった。村長の思いやりは有難かったが、人 「水道の方で何とかしてくれるだろうー の情けを受けなければならなくなった自分がたまらなく悲 それはもはや浮浪人の感情であった。 倉崎利八はそこまで行ってはいなかった。不平の多い彼しくて、涙のためばかりではなしに眼の前が暗くなった。 つりまし みら その帰り途であった。南部落へ渡る釣橋の上で彼は村の の性格はどこまで追いつめられても不平を失わなかったか ぞうり しろたび ら、放浪者じみた無反省まで落ちてゆくことができなかつ者でない人に会った。白足袋のフ = ルト草履に黒の夏羽織 じ せんす た。けれどもその不平の多い性格は追いつめられれば自棄を着て扇子を持ち髪を角刈りにした中年の男であった。そ 、ようばう れが向うから馴れなれしく声をかけてきた。 的な兇暴にはしりまたは不正を犯し得る危険をもってい ちょっと 「今日は、お暑いですな。あの一寸おたずねしたいんです ・、、私はこういうもので・ 夏の末のある日、利八は役場へ金を借りに行った。もう 四百円も借りたのだし返せるあてもなくな 0 てしま 0 た今彼は紙入れから名刺を出した。紙入れには紙の束がぎ では是非とも貸してくれとも言えない気持であった。村長ゅうぎゅう押しこんであるのが見せびらかすように彼の眼 しゅうせんや は金庫を開けて見せてくれた。すっからかんであった。役に見えた。名刺には東京の周旋屋の名が書いてあった。実 とどこお 場員の月給も去年からは三割もへらして、それさえも滞は私は東京からこの村の質朴な娘さんたちを雇ってお世話 っているという話であった。税金はまるで入らないし陳情したいと思って来たのだが心当りの娘さんはないだろう 費調査費はかかるし村民への貸金は増える一方では役場もか、東京では女中に困っている、その他カフェ女給、事務 村たまったものではない。それでも利八は事務室の中に一時員、手内職、家政婦、女にはいい仕事がうんとある、心当 もら りがあったら紹介して貰えまいかという相談であった。利 の間も腰かけていた。借りられると思って来たわけではなか 蔭 っこ守、、、 よ、よ駄目とわかればもうどうしていいか見当八はすぐに安江と澄江とのことを思った。けれども頭を振 日 ってこう一一 = ロった。 がっかないのであった。 そうして彼がいつまでも帰らないでいると、村長は小使「みんな女工に行 0 てしまいましたからな = = , 」 の爺さんに五十銭渡して駄菓子を買いにやった。買って来「ああ、左様左様、女工さんもいいですな。ええと、南の くらびる
村八重子。偶然の同姓であろうか。そうとは思えない。慎 「まあいい。子供を飢えさせるのは可哀そうだ」 太郎の現在の女房であるに違いない。 鹿野は金を握って出て行った。 くわ 司法主任はもう一本の煙草を咥えてから、机の脇の火鉢この推察が当っているならば、酒巻美代は別れた男の妻 すり に両手をかざした。「椿姫」をすらすらと読んだあの女のと知って掏摸を働こうとしたのであろうか、知らずにやっ たことであろうか。 声と、一種知的な表情のひらめきとが眼に残っていた。 夕方、鹿野刑事の報告が来た。 警部補は何ともいえない複雑なものを感じて、ゆっくり と立ち上った。あの女は軽率に処罰すべきではないと思っ 一、素行、通常。 一、経済状態、不明。時に親または他の肉親より小額の送た。むしろ彼女を現在の貧しさから救い出してやることの 方が、当を得た処置であるに違いない。友人が彼女を生活 金ありたるものの如し。質屋にはよく出入せる由。 つぐな 、ゆうら 一、余罪、調べ当らず。前科は無きものの如し。 の窮地におとしこんだ、その償いをしてやるということも いかるが ものべ 、わま、男性の共同の責任において彼 一、原籍、京都府何鹿郡物部村。番地不詳。原籍地に実母意義があるだろう。しを の女性を救う必要があるのだ。 生存。父は死亡。 じゅんばく 川地英三郎はまだ純朴な青年の情熱を持っていた。警察 一、年齢、一一十六歳。 一、以前に同棲せる男は現在大森区新井宿二一番地に居に入ってから世間の暗黒面をずいぶん見ては来たが、そう まひ いう社会のはげしさに感情を麻痺させられてしまわないう 住。奥村慎太郎。日東生命保険会社外務社員。 報告書を読み終ったとき川地主任は思わず唸り声をあげちの、学生時代の純真さを残していた。酒巻美代を助けて ほおづえ やりたくなったのである。英文タイプライターも出来ると て、テー・フルに頬杖をついた。 、うし才はじけたところもあるようだ。このまま罪の淵に 以前に同棲せる男、奥村慎太郎。これは昨夜も忘年会にし 集出席していた法科のクラスメートに違いなかった。勤務先おとしこんで前途の生涯を暗くしてしまうことは惜しまれ 哢も符合している。年齢も違いない。 転して見るとあの女が抱いているのは奥村の子供であろ彼は自分で留置場〈降りて行 0 た。 う。奥村が現在の酒巻美代の有様を見たならば何というだ鉄格子のあいだから中をのそいて見ると、女は年の暮れ の寒さに、胸に眠っている子供の上にかぶさるようにかが ろうか。 とりはだ が、川地はすぐに今朝の被害者のことを思い出した。奥んで、眼を閉じていた。頬の皮膚が鳥肌立って、青ざめて ムら
つまさきあが などというものは、案外平凡なものであるかも知れない。 爪先上りになる石だたみの道を歩きながら、何が違ってい 繝るのだろうかと考えて、ようやく解 0 た。杏の並木が大もともと人間というものが、案外平凡なものであるのだ。 ぜん きくなったのだ。あの頃はまだ植えて間もない若木で、一 褐色のタイルを張った教授室の建物は、旧態依然として 本ずつ木の柵に支えられていたのだが、今は三間ばかりの完全に昔のままだった。靴の泥をこする鉄網までがあの当 たけ 美しい背丈となって、深緑から黄葉に移ろうとする初秋の時の物である。三つばかりの階段をあがって玄関をはいる 微妙な色をたたえている。それだけの歳月が経ってしまっと、古巣へ戻った気になった。まるでいま、授業を終って さつかく 帰ってきたような錯覚を感ずる。一人の若い教師とすれ違 たのだ。 めがね った。眼鏡をかけ、縞の服を着て、明るい愉快そうな顔を 学生たちがうようよしている。階段に腰をおろしてノー トを開くもの、芝生に横になって煙草をすうもの、キャッしている。人柄から察するに法科の講師か何かであろう。 チボールをしている者。誰ひとり小泉さんをふり向いて見向うは小泉さんを知らない。黙って通りすぎて行った。若 ようともしない。それもその筈だ。あの当時の学生はみない先生たちに、古巣を奪われてしまったような気がする。 卒業してしまって、いま居る学生に顔見知りの者は一人も階段をあがって、廊下を右に曲る。突きあたりが総長の 部屋だ。床のリノリュームが穴だらけになっていて、私立 いないのだ。 政治科の教実文科の教室、ひとつひとつの窓に思い出大学の経営も楽ではないらしい 、れい がある。文科の建物は塗りかえたらしく、灰色が馬鹿に生正岡総長は半白の髪を綺麗に分けて、文部省から来た書 生しい。歩いて行くうちに小泉さんは胸の中が熱くなって類を老眼鏡をかけて読んでいるところだった。小肥りでは あるが、顔色がよくない。何年もまえから肝臓がわるいの きた。永い年月のあいだ、心に鬱積していたものがある。 年齢が進むにつれて、歴史を見る先生の眼にも変化があっ だ。気力が衰えたのもそのせいかも知れない。小泉さんの た。日本の敗戦、被占領国人民の境遇。朝鮮の戦乱と日米顔を見ると、眼鏡をはずしながらひとりで三度も四度もう の講和。身辺に起った事件の重大さから、古い歴史上の事なずいた。 ( わかっている、わかっている : : : ) と言って いるみたいである。それからゆっくりと椅子を廻して立っ 件に対する価値評価も変って来たように思われる。日本と いう国家、日本史という歴史の意義も、新しい眼で見直さた。 れなくてはなるまい。それを、学生たちにむかって話して「久しぶりですね。一度会いたいと思っていたところだっ 見たいのだ。学生と一緒になって考えて見たいのだ。歴史た ! 」 こぶと
くず ゲレンデの全景を一眼に見わたせる食堂の窓ちかく坐っが一つ崩れると立て直すだけの柔らかさも融通も利かなか て、彼等は朝の食事をした。風はやや静まって空も明るった。彼は皆から離れてずっと山の方へ歩いて行き、そこ み、はげしい雪の反射に食堂のなかは眼もくらむようであから独りで滑降してたのしんでいた。彼の遊びぶりには一 った。五六人の外国人がレコードをかけたり珈琲を飲んだ種の孤独な性格があった。 りしていた。 そこへ行くと、竹内長太郎はいつでも白井や恭子のそば 「こうなるとじっとして居られないー と独りごとを言っにいて、今度はクリスチャニヤだとか、今度はスビードタ す て、小谷野英資が先ず煙草を棄てて出て行った。すると白 ーンだとか理屈を言いながら、ロうるさいスキイをやって 井恭子がすぐに後を追うた。 いた。彼の技術は自己流で形は悪かったが、一通りはどん 「休んでいたんではスキイに来たことにならんものね。能な技術の真似でもやって見せる器用さをもっていた。白井 率的に遊ぶわ」 浩治は、「君のスキイは天才的だよーと皮肉な評を与えて 「俺は午前中は寝ることにしようかなあ。ゅうべは寝不足 いたが、たしかに彼の才気ばしった性格があった。小谷野 はず ふら・、い だったからね」と、一番よく寝た筈の根本が言った。 の方はむしろ無器用な風采の努力家であった。白井浩治は 竹内はそれを聞くと根本の家庭生活のゆたかさを思うて極めて横着なスキイヤ 1 で、転ぶとそのまま雪の上に両足 うらや ゅうせん 羨ましい気がした。ここへ来て悠然とスキイもしないで眠をなげ出して、悠々と一本の煙草を吸おうという方であっ せいたく ろうというのは一番の贅沢であろうと思った。 た。彼は理論的には一番くわしくて、斜滑降は山足を浮か やがて根本プリンスは独りひる寝にはいり、皆は雪の斜して五寸ばかり前へ出し、谷足にウェイトをかけて、回転 面に出て行った。ゲレンデには三四十人のスキイヤーが水にうつる時には谷足を半制動にして山足にウェイトを移 し、それから全制動になり : すましのように黒い点々になって辷りまわっていた。 ・ : という風な理屈をならべる 小谷野英資のスキイは彼の性格をそのまま現わしてい 男であった。 、ようじん た。一種実直な熱心さで、滑り降りては忙がしげにの・ほり 恭子は雪のなかに出ると一種強靱な生活力を示した。彼 また降りてはのばって飽くことを知らないという風があっ女はまるで疲れを知らないという風であった。小谷野ほど に忙しい熱心さはないが、どこへ行ったかと眼で探してみ た。彼は独りで楽しんでいたのだ。丁度彼が、「やるより 仕様がない」と言って懸命に勉強していたと同じ態度であると、休んでいることはなくてきっと丸い腰をかがめ太い えんじ った。彼の滑降は形正しい姿勢を示していたが、その姿勢ズボンに風をうけながら、臙脂のペレが一線を曳いて谷へ 、わ
気が変になるのも当り前だという者もあった。そうし 「あんたはええ。村の人と違って気が楽じゃ」 おしよう 「左様 ! 」和尚はまた強く同意した。「住み騨れると執着て噂をする人々は人類の罪を一身に引き受けて十字架につ しようそう ぼうず いたクリストのように、自分達の不安と焦躁とを一身に背 が出ますな。昔の坊主は一所不住といったもんだが、私な 負うてくれた者が作太郎であるような気がした。彼等は物 どはやはり住みついて執着が出ましたなー いつまでも諦めきれないで愛惜の心を痛めている自分の狂おしく見える作太郎を警戒の眼で見ながらしかも身近な 態度は一所不住を教えた仏法の精神から見れば迷妄の凡愚ものを感じていた。そしてまるで彼等の悩みは作太郎とい のはてであろうかと作太郎は疑って見た。そう思ってみれう犠牲によって取り払われたかのように自分たちの不安を ばこの風来坊めいた愚溪の楽々とした生活態度も却 0 て悟口にすることを忘れはじめていた。生活の惰性が彼等の感 りきった人間の安住の姿のようでもあった。人生に安住す情を不安のうちに安定させて行ったのであった。 るためには古い生活を愛惜することも許されないのであろそうしてこの減亡の村にも秋の祭りの季節が来た。 きんみたけ さかん 祭りの盛なのは原の温泉神社と河内の金御嶽神社であっ うか。作太郎にはやはり悟りきれない気持であった。 えんぎ それからのち作太郎の病み衰えた姿は村のあちこちで見た。殊に古い縁起を伝えられている金御嶽神社の秋祭りは にぎ かけられた。ある時は温泉神社の石段に腰をかけて石垣の賑やかであ「た。これは第一一十七代安閑天皇を祀る神社で ざおう えんぎ 下から湧いて来る湯の音を聞いているのを湯を汲みに来た古式観音立像とか延喜時代の蔵王像武神像など一一十数体 鶴屋支店の女中やうどん屋の女房などが見かけた。ある時の古代彫刻を宝物としている。平安朝の頃には栄えていた あしかが は川向うの南部落に渡る針金で釣 0 た危ない木橋の上に立であろうと察しられるし、足利末期には地方人の篤い信仰 やしろ 0 て川を見下しているところを倉崎利八の娘が柴を背負「を捧げた社ともいわれているが、これもまた百メートルの て通りかかった。その時作太郎は近づいて来る安江をじっ水底に沈む予定であった。 みつ と眼を据えて瞶め、通り過ぎてからもいつまでも見送って「お祭りも今度でおしまいだ」 いるので気味が悪かったと安江は父に話した。また或るとそうした人々の多少の感傷のうちに祭りの夜は来た。小 あんどん 、ある時は彼が学校の生徒たちが捧げた角行燈が街道から本殿の前までの きには谷に下りて水を眺めていたともいし あめ ほおず、 十数年助役をしていた役場の柿の木の下に立って、熟しか細い急な五十段の石段の両側を明るくして、飴屋や酸漿屋 が屋台をならべていた。二人しか並んで通れない狭い急な けた柿の実をじっと見上げていたということであった。 作太郎さんは気が変になったのではないかという者もあ石段には村の女房や子供たちが一ばいになって上り下り ばんぐ うわさ
彼の期待していたのは輝かしい恋愛の完成であった。勝が眩んだ。もしも彼女が心を傾けて彼に寄り添うて来たと はす 1 利の平和であった。しかし恭子は彼に何ものをも期待してすれば、竹内は生命の高揚を感じ得た筈であった。結婚生 はいなかったのだ。 ( わたし、何とも思っていないのよ。活を支えることがどれほど困難であっても、彼は精神の安 あんたも忘れた方がいいわ ) : : : 彼女はそういう陥し穽をらぎを得たに違いない。 用意しながら彼の誘惑を待っていたのだ。 彼は半身を起して、降りて来た斜面の上を見あげた。意 とか 竹内は納屋の外に立ってスキイを穿き、両手に手袋をは外なほど遠くにヒュッテの黒い尖った屋根があって、黄色 めた。斜面がどっちに続いているかも見えないほど雪が降い幾つかの窓が明るく並んでいた。見わたす限り灯の見え りみだれていた。頭の上からほのかな黄色い明りが射してるのはそこばかりで、まわりはただ暗々として冷え切った あおむ ぼうさっ いた。彼は仰向いてしばらく窓を見ていた。ここが食堂に死界であった。彼は自分の肉体の下に謀殺せられた精神の もんし なっているのを彼は知っている。窓の中では恭子も根本も死体を感じ、その悶死した心の冷たさに手を触れる気がし 温いすき焼きを楽しんでいる。しかし笑声も何も聞えては た。これが二十数年のあいだ養い育ててきた彼自身の、分 来なかった。 裂し破壊された姿であった。耳の中で雪が融け、鼻から頬 しずく 彼は身をかがめて斜面にむかった。新雪にスキイは深くを流れる冷い滴があった。今ではこの冷酷な自然がむしろ うずまって、速力はまるでなかった。ゆるやかに、深い乱こころよかった。肉体的な苦痛がいくらかでも心を休ませ のろ れたシュ・フールを残して、彼のからだは斜面を降り、横ざてくれるようであった。彼は彼を憎み呪うてみた。彼はス まに吹きすさぶ雪片を全身にうけた。涙が流れ、眼を閉じトックを突いて再び立ち上った。斜面の下はゆるやかな谷 た。やがてからだの平衡を失い、やわらかくもぐるほど深あいになっていて、ずっと下まで続いていた。傾斜がゆる く倒れた。首筋にも手首にも、雪が融けて流れこみ、肌の いのと新雪の深さとで、スキイは滑らなかった。 ひざ 冷えるのが感じられた。恭子を怨む気はなかった。あれが彼は背を丸め腰をかがめて、深い雪に膝の上まで埋まる 自分の本当の姿であったと思った。しかも彼の持っているのに歩きなやみながら、一歩一歩下の方へ歩いて行った。 くつじよく ふぶき 肉体に、彼女から受けた屈辱が忘れられなかった。彼女は吹雪が帽子の雪を払ってひゅうひゅうと鳴っていた。彼は まるで彼を軽蔑して、精神の高みにあって竹内を見おろし死んだ高杉のことを思った。高杉が可哀そうでたまらなく ていた。 ( わたし、何とも思っていないのよ : : : ) 竹内はなった。あるいは自分が可哀そうであったのかも知れな 自分が人間社会のどん底に落ちてしまったことを感じ、眼 い。彼は幾度もころび、そのたびに頬を雪に伏せて冷やし へいこう おとあな
空に向いた窓には落葉の匂いが流れこみ、はるか下の方にスの窓に顔をすり寄せて息を殺していた。男は駅前の階段 くだ け」、・ゆら - 溪流が白くたぎっていた。周旋屋の男は砕けた調子で元気の下まで来ると立ち止って安江を待ち何か話しかけてい た。安江は返事をしたようには見えなかった。 よく二人を迎え、すぐに酒を命じ安江には軽い食事をとっ てくれた。 男は駅の売店の前に立って小さな包みを買った。土産も それから間もなく男は眼で合図をして立ちあがり利八をのであろうか。戻ってくるとその包みを安江の前にさし出 連れて廊下の隅に立った。利八はそこで残金七百五十円をした。彼女は黙ってそれを受けとるのであった。そして男 受取り雇傭契約の形式になった書類をとりかわした。そしの後について駅の階段を上って行った。利八はもう一一度と て男はこのまま安江には何も言わないで帰って呉れと言っ安江に会うときはないような気がしてならなかった。彼女 た、その方がさつばりして却って娘さんの方もいいものだの幼い頃からの印象的なことが急に眼の前一ばいにひろが ものな って来た。愛情と後悔とが両側から胸を圧して感情はしび と物馴れた云い方をするのであった。 利八は安江を残して旅館を出るとそのまま駅前の氷川行れたような空転をつづけているばかりであった。 き・ ( スの発着場までゆっくり歩いて行った。そこには今度不意に車に入って来る足音がしてばっと電燈がついた、 出る・ ( スが一台置きつばなしになっていて、車の中には運運転手が乗りこんだのであった。氷川ゆきと女車掌が華や かな声で言った。エンジンが唸り車は動きはじめた。利八 転手も居らず、灯もついてはいなかった。利八は真暗な・ハ スの一番隅にそっと腰をおろした。ふところに七百五十円は座席の上に顔を伏せてはげしく泣いた。 かす が分厚な重みをもっている、微かな酒の酔い、疲れきった氷川に着くと彼は居酒屋に入ってしたたかに酒を飲ん おく 神経の絶望的ないら立ち、像の従業員だまりで運転手や女だ。早く酔ってしまいたい、早く自責の心から逃れたい臆 びよう にぎや 車掌たちが賑かに笑う声がしていた。すると彼は明るさを病さで一ばいであった。それから二里半の道を足もとを乱 失った自分の心に気がつくのであった。車はなかなか出発して帰って行った。 しなかった。 山峡の街道はまっくらで人通りもなく、道と道の下の谷 かくあんどん 向うの暗い道に立った角行燈のなまめいて赤い下をセル水とだけがほのかに白かった。もはや何も考えず何をくや 力い」ろ′ のモジリ外套を着た周旋屋が歩いて来るのが見えた。そのんでもいなかった。ただ酔いしびれた頭の中から悲しみだ 男から一一一歩ほど遅れて風呂敷包みを一つ持った安江が曳かけがじりじりと汗のように滲み出てくるのであった。 そうして漸く水根沢までふらふらと歩いて来た。山鼻の れるようにうな垂れてついて来るのであった。父は暗いノ こよう かえ ようや のが
げて走っていた。このトンネルのむこうには、もう春があらようやく見ひらいている竹内長太郎の眼に、やがて小さ Ⅱたたかく開けているはずであった。長いトンネルは、冬とく。ほっりと、トンネルの出口が見えた。それはまだ小さな 春との境をなす、闇であった。彼等は歌をやめて、じっとかすかな目標にすぎなかったけれども、日光の明るさに満 息をひそめていた。卒業期の暗いトンネルの中で、彼等はちて、きらきらと輝いている春であった。 何かを模索していたのだった。青春の終りを感じ、迷うて いた。しかしこのトンネルを抜けた向うには、梅の咲いた 里がある。吾々にも新しい春があろうではないか ! 彼等 は一様にそれを感じていた。あるいは、今迄とは違った春 であるかも知れない。今日までは他人の造ってくれた花園 の生活であった。エデンの園であった。これからは額に汗 す、 して、手に犂と種とを持って、みずから花園を造り住まな くてはならない。それも夢かも知れない。しかしこの夢だ けは失いたくなかった。白井は百姓をするつもりであっ た。しかしこの百姓は、花園を造って、そこに住む日を夢 みていたかも知れない。トンネルの闇はまだ続いていた。 けれどももう春は遠くはない。この闇の中にさえも近づい て来る明るい春の気配があった。待ち切れなかったのであ ろうか、竹内長太郎は痛む足を浮かしたまま、立って窓を あけ、顔をつき出した。 「出口が見えて ? 」と恭子は彼の背に手をかけて言った。 「まだ見えんね」 闇を行く汽車の中にじっと坐ったまま、みなは息を殺し て待っていた。いら立たしく、息苦しかった。けれども、 もはや雪国は遠くなっていた。そして、風にさからいなが
もこごえているのではないだろうか。 る子供の頭に、鳥肌立って寒々とした頬を押しあてるのだ そう思ってみると、職責をはなれた個人の愛情が湧くのった。 であった。罪は罪として、憎むべきは憎むとして、ただ若 い一女性の人生に敗北した姿が、何とも言えない悲しみを もって考えられ、後悔が心を痛めた。 あくる日、酒巻美代は、子供を母屋の老婆にあずけてお まだ何か遺書のようなものでもあるかも知れないと思っ いて、以前につとめた事のあるジョン・シルヴァ商会を訪 て、例の風呂敷包みをさがして見ようと立ちあがると、と こうしど ねて見た。すると、意外にも事はすらすらと運んだ。 たんに表の格子戸が忍びやかに開いた。帰って来たのであ 現在働いているタイビストは、最近に結婚するので、あ と一週間以内に代りの者を探そうと思っていたところだ すると、川地は急に元の冷たい心に返って火鉢に坐ってと、シルヴァ氏は紅茶などをすすめながらにこやかに言っ しまった。 「遅くなりまして、御免なさい」 「あなたは、やめる時にサラリはいくらでしたかねえ」 あいさっ セプンティファイプ 障子の外から美代は忍び声で挨拶し、そっと室にはいっ 「七十五円でしたわ」 て来た。 「ああそう。では七十五円で入ってもらいましよう。少い 「どこへ行って居たんだ」と、思わず声も荒かった。 ですか ? 」 「何かいい仕事でもないかと思って、心当りを歩いて見ま「い いえ。結構ですわ」 したの。駄目でしたわ」 「あなたの都合のいい時から : : : 明日からでもかまいませ それから紙包みをかさかさと開いて、 ん」 ー , ・サンキュ 集「こんなもの、いかが ? おみやげのつもりなの」 「どうも有難う。では明後日から参りますわ」 きようぎ くりまんじゅう 見ると栗饅頭が五つばかり、みすぼらしく経木の中に包シルヴァ氏は大きな紙入れを開いて、十円紙幣を三枚出 した。 転まれて並んでいた。 「お茶をいれてさしあげましようか ? 」 「服をこしらえなさい。少しだけど : : : 」 8 「いいから寝たまえ」 シルヴァ商会は昔よりももっと景気がいいらしく、事務 さびしそうに彼女は顔をそなけ、眠たげな眼をあけてい室も一室だけひろくなっていた。暖房のあるビルディング とりはだ おもや