とんま 鴨井君は三枚の写真を、しかつめらしい顔をして眺めて 客を引きつけて置くんですよ。先生みたいな頓馬はすぐに しーカ 引っかかって、どうしてももう一度行きたくなるでしょ う」と鴨井君はひどいことを言った。「そういう頓馬が七「うむむ : : : こりや奥さん、駄目だ。願い下げます」と言 はんじよう 八人居れば、あの初島という料理屋は商売繁昌だ。泣き上った。 しゃれ 戸なんて洒落たことを言やがって、ふん、腹の中じゃ舌を「あら、お気に召さないの」 しよう 出して居ますよ」 「召すも召さんもないです。こういうモダン・ガールは性 に合わんです。大体僕を置き去りにして逃げて行った女房 「そうかい ? 」と先生が首をかしげた。 「そうですよ。悪いことは言わんから、もう止しなさい」というのが、概してこのお嬢さんみたいな女でしてね。爾 「しかし、そうと聞いたら、もう一度行って、正体を確め僕はモダン・ガ 1 ルは一切敵だと思っていますよ。僕は て見たいな。やつばり金を貸してくれーと小泉さんは聞き封建的男性でしてね、封建的な家庭が大好きなんだ。男女 同権なんどと申すのは沙汰の限りですよ。だから僕はアメ 分けがない。 「いや、金はよしましよう。奥さんから怨まれるのは僕リカなんか一生行ってやるまいと思ってるんです。やつば だ。とかく世間の女房というものはね、浮気をした亭主をり昔のトルコだとかエジ。フトだとか、昔の支那だとか、 めかけたくわ 怨まないで、金を貸した他人の方を怨むもんだ。よく出来ああいうのが良いなあ。金のあるやつは何十人の妾を蓄え こうきゅうかれし ていますよ、全く : : : 」 て、飼い殺しにして言うことを聞かせとる。後宮の佳麗三 恒子夫人が写真をさがし出して、戻ってきた。内証ばな千人などと言ってね。封建時代に限るですな」 じようぜっ 鴨井君の饒舌を聞きながら、この人は女ぎらいみたいな しは中絶して、二人は何食わぬ顔で、碁盤の上の石をざら 事を言っているが、本当は女に対して慾がふかいのだと恒 ざらと崩す。その碁盤に夫人は三枚の写真をならべた。 命「これね、小泉の姪になるんですよ。主人の母の妹の子で子夫人は思った。二人は坐り直して第一一局目を打ちはじめ 革 すから、叔母の子になるわけね。あら違うわ、姪と言ってもる。夫人は小さな声で、 おっしゃ 「あなたはそう仰言るけど、この子、とても封建的よ」と 青従妹の子ですよ。叔母の孫だわ。そうですわね。あなた」 「そんなこと、どうだっていいよーと先生は面倒くさそう言った。ついさっき、近代的だと言ったことはもう忘れて いる。相手は碁を打ちだしたので、 9 に言った。頭の中はお須磨さんの事で一杯になっているら 「ああ、そうですか」とうわの空になった。 さた
洋間の福沢君が荷物をまとめて、朝のうちにトラックをた。 呼んできた。美代子のアパートに転居して、ささやかな新何だか擽 0 たい気持で夫人は金を受取る。この二枚の貸 トっこう むこ 世帯をつくるのだと言う。何だか婿に行くような恰好で、金のために、どれほど息苦しい思いをしたかしれなかっ 恒子夫人は見ているとおかしくてたまらない。彼は甲斐甲た。福沢君はそんなことは一向考えてもいないらしい。煙 斐しく荷物をはこび出し、人夫に指図したりして、なかな草に火をつけて、けむたそうな顔をしながら、 ひろう か楽しそうだ。結婚式も挙げず、披露もせずに、一一人の相「それからねえ叔母さま : : : 」と言った。「僕ね、大事な 談がまとまればその日からでも新世帯が持てるという近ごことで、叔母さまに教えて頂きたいことがあるんです」 ろの若い者のやり方が、あまり簡単すぎて夫人には賛成で「何なの ? 」 きない。夫人の考えでは、結婚ということは一生に一度な 「あのね、こんなこと、少し恥かしいんだけど、でも、思 んだから、やはり立派に式をあげなくてはならないと思い切って言います。あのね : : : 産児制限の方法を教えて下 。美代子たちにとっては、結婚は一生に一度とは限らなさい」 いし、従ってそれほど重大なことでもないらしいのだ。 「馬鹿ね ! 」と言って、夫人は赤くなって笑った。「そん かつばうー 夫人は割烹着のまま玄関に立って、見物していた。 なこと、美代ちゃんが何だって知ってるでしよう」 「美代ちゃんは手伝いに来ないの ? 」と訊くと、福沢君は ・ : でも、そんな事 「そうでしようか。知ってるかなあ。 明るい声で、 って、恥かしいですねえ」と福沢君は笑った。 「ええ、お勤めがあるから来られないのよ」と言った。 そんな恥かしいことを、今の青年たちは平気で言えるよ 仮にも自分の良人が転居して、しかも今日から新世帯がうになったのだ。夫人はまたしても、世の中も楽になった はじまるというのに、平然としておっとめに行き、いささものだと思う。 から かも心を動揺させていない美代子という娘の図太さに夫人荷物の上に乗って福沢君が行ってしまうと、夫人は空に かんたん は感歎せざるを得ない。 ( 世の中も楽になったものだ : : : ) なった洋間にはいって見た。家具は古びて、カ 1 テンは破 荷物が大かたトラックに積まれてしまうと、福沢君は夫れている。修繕をしなくてはならないが、部屋代の収入が 人の立っているところへ来て、ポケットから二枚の紙幣を今月からは無くなるのだ。夫人は・ハネのこわれた椅子に腰 つまみ出した。 をおろして、しばらくのあいだ、この部屋に残る福沢君の 「叔母さま、これ、永いあいだ済みませんでした」と言っ体臭を、静かに呼吸していた。
なこうど てしまった。多くの場合、結婚式の仲人をやりたがるの 「それがね、美代子のことなの」 ずる は、良人よりも妻である。もしも恒子夫人が、福沢君と美福沢君はそういう狡さを持っていたのだ。恒子夫人の一 代子との関係について、しきりに知りたがったり忠告した番喜ぶ、一番聞きたがる話題をあたえて、この初老期の女 がったりするのが、女性が先天的に与えられているところをわくわくさせる悪智恵をもっているのだ。 の媒合の本能によるものであるならば、小泉さんが少々注「美代子がどうしたの ? 」と夫人は乗り出す。 意を与えたぐらいのことでは、このおせつかいは止められ「あのね、今日、十一時かしら、十時半ころかしら、僕の ないわけだ。夫人は一個の梨を果物皿にのせて、福沢君の会社に電話をかけて来たのよ。それだけでも変でしよう。 退屈をなぐさめるために廊下をわたって行った。彼の部屋いままで一遍たってそんなこと無かったんですものねえ。 を訪ねてゆくことが、何かいそいそと楽しかった。決して ・ : それ、どうお思いになる ? 」 福沢君に恋愛を感じているのではない。ただ福沢君と美代そこまでいいながら、電話の内容は聞かせない。聞かせ 子との事件に、この上もなきスリルと、尽きざる興味とをないで、女をじらせている。夫人は人が好いから福沢君の 感じているだけである。その尽きざる興味が、自分の媒合策略がわからない。 本能に基づくものであるかどうかを、彼女は知らない。 「何か、急な用事でもあったの ? ー くらびる ところが福沢君の方は、夫人がいらいらするほど美代子福沢君は眼のふちをぼっと赤くして、唇だけで笑った。 に対しては積極性を示さないくせに、神経だけは鋭敏であ唇のかたちが処女のように優しい。ゆっくりと梨を二つに る。この叔母さまが、何に興味をもってたびたび自分の部割り、四つに割り、さんざん相手を待たせてから、 屋をたずねてくるか、そのくらいの事はちゃんと解ってい 「あのね、もしかしたらね、美代子は心境が少し変ったん た。だから恒子夫人が彼の前に梨の皿を置き、向いあったじゃないのかと思うのよ」と、どこまでも結論を引っぱ 椅子に腰をおろし、沁みこむような眼つきでにつこり笑っる。「 : : : 心境が変ったのでないとすれば、やはり僕をか たとき、すかさずにこう言った。 らかうつもりなのかしら。その辺がまだよく解らないんで ひと 「あのね叔母さま。僕、いま、独りで考えていたんですけすけどね、要するにその電話というのはね、明日ね、もし ぐあい ど、ちょっと変なエ合になって来たのよ。聞いて下さお天気だったら、二人で。ヒクニックに行かないかって言う る ? 」 の。だから明日までに、行く先を考えておいてくれって言 ほんね うのよ」と、ようやく本音を吐いた。 「何が変なの ? おっと ぎら
しょ ) 「仕様がないわね。これから少し、私が家事を仕込んであ だ」と客も靴をぬぐ。 訂座敷にはもう食卓が出来ていた。二人の息子たちは茶のげるからね」と言って、丼をかき廻しながら台所へ引きあ 間で先に飯を食っている。先に食わせて追っ払うつもりらげた。 やがて小泉さんが和服に着かえて座につくと、恒子夫人 かつほうぎ 恒子夫人は甲しい割烹着すがたで、白い腕を肱まも割烹着をとって出てくる。改めて簡単な挨拶がある。 でむき出しにしたまま、悪戦苦闘している。自分ひとりで「それからね鴨井さん、こちらは並木美代子と言いまして 計画した今夜の見合いを、何とか巧みにやってのけようとね、主人の姪に当るものなんです。なかなか利ロな娘で、 りんりん いうわけで、勇気凜々、台所じゅうを四角八面に動きまわ男まさりみたいですけど、でも優しいところ有るのよ」 っている。女というものは、こういう時に最も高貴なる生「あら、わたし優しいなんて言われたの、始めてだわ」と き甲斐を感じ、最もはげしい生命の燃焼を感ずるものらし彼女は折角の夫人の好意をぶちこわしてしまった。 い。鴨井君にして見れば、大きにおせつかいな話だが、恒「おい美代子、気をつけて物を言えよ。叔母さんは何も只 たも 子夫人はおせつかいとは思わない。神の選び給うところのでお前に御馳走するわけじゃないんだ。今日はお前と鴨井 配偶者を、神の意志によって結び合わせる、崇高なる使命さんとの見合いだぞ。まかり間違えばお前は、鴨井美代子 を代行しているようなつもりだ。だから非常なる誇りをもになるかも知れないんだ」と小泉さんはあけすけに、夫人 しゃべ の作戦計画をみな喋舌ってしまった。 ち、顔は生き生きと輝いて、いつもの倍ぐらいも美しい どんぶり 丼の中をかきまわしながら、その丼を持ったまま台所か「あなた ! 大きな声、よしなさいよーと夫人が言う。洋 はな 間には福沢君が居るのだ。二千円の貸しはまだそのままで ら顔を出して、若い華やかな声で叫んだ。 「あなた、あなた ! すぐに着物を着かえて、坐って頂戴ある。 したく ね。もう全部お支度が出来ていますからね。わかりました「どうもそうらしいと思ったわ」と美代子は含み笑いをし ・ : それから美代ちゃん、鴨井先生にまずおしぼりをながら、「だけど、大丈夫よ。わたし鴨井美代子にはなり ね。 ね。それからおいしいお茶をさし上げて、それがすんだらそうにもないから : : : 」と、ぬけぬけと言った。 さかず・き かん 鴨井君は杯を持ったまま大声で笑った。 そろそろお燗の支度よ」 「お燗の支度なんて、どうするの ? わたしやったこと無「どうです奥さん、もう僕は落第してしまった。よくよく たらま : ・しかし美代子さん、あなた いわーと花嫁候補は忽ち馬脚をあらわす。夫人は、 見どころが無いと見える。 ひじ あいさっ ただ
夫人はそれどころではない。 に、親に反抗するように出来ているんだ。人民は運命的に 「どうしたらいいんでしよう」と眉をひそめた。「また共政府に反抗し、女房は亭主に反抗するのさ。それから、生 産党で引っぱられたりしたら、わたし嫌だわ」 徒は先生に反抗し、社員は社長に反抗し、労働者は資本家 嫌だとか好きだとかいう話と、話が違う。それを、 ( わに反抗する。つまり被支配者が支配者に反抗するというの たし嫌だわ ) という如何にも女らしい感情的な言い方をしは、これは当然のことであって、またそうなくてはならん たこの妻を、先生はふと可愛いと思った。いい年をからげのだよ。多少のつまずきも有るし犠牲もあるが、有っても いいさ。その儀牲を払ってこそ、社会の発展もあれば革新 て、まだそんな可愛い感情が残っているのだ。すると先生 あまじゃく は天ノ邪鬼だから、わざと意地のわるいことが言いたくなもある。今日までの世界中の歴史はお前、見方によっては とら・とら′ る。 ことごとく反抗の歴史だ」と先生は滔々として弁じた。ま おどろ 「ほって置け、ほって置け。心配することはない。共産党るで先生がみずから共産党になったようである。夫人は愕 でも何でもいい 。やりたい事をやらせてやる方がいい。親いて、 があまりうるさく監督して、やりたい事もやらせないでお「あなた、今日は言うことが少しおかしいわ。いつもと違 くと、金貸し株式会社みたいな事をやるんだ。共産党はわうのねーと言った。 るくないよ。とにかく青年たちが世界を相手に大きく物事「あたりまえさ。毎日同じことを言って居られるかい。時 かま 、ことだ。少々親に反抗したって構には違うことも言いたくなる」と、手がつけられない。 を考えるというのはいし かみそり ばくぜん わんよ」と先生は剃刀をなげ出して、タオルでごしごしと恒子夫人は割り切れない気持のままで、漠然と坐ってい あごム る。小泉さんは更につづけて、 顎を拭いた。 今日は言うことが何だかおかしい。恒子夫人はしげしげ「他人に反抗するとともに、自分に反抗することが出来た と良人の顔を見た。意地のわるい顔をして、にやにや笑っら順平も一人前だ。本当はそれが一番むつかしい。俺なん あんじよ ている。 かも平穏なる家庭に晏如として暮して居るんじゃ、仕様が ない。順平の真似をして、ひとっ共産党でも勉強するか 「親に反抗したって、かまわないんですか」 「かまわんよ。親の言うことを何でも聞いているような息な」と言う。 ろく 子は碌でなしだ。反抗するのが当りまえで、そこから進歩夫人は思わず笑った。 もあるし発展もあるんだ。大体、子供というものは運命的「何を馬鹿なことを言ってらっしやるの」
こぶと 親子のあいだのちぐはぐな会話を冷然と眺めていた小肥順平は身支度をするために、すたすたと二階に上って行 いあっ りの男は、、 った。それを待っていたように、恒子夫人が唇をふるわせ しつの間にか威圧するような巨大な感じになっ てすすり泣く。二人の刑事は黙って顔をそむけた。 て、小泉一家四人の姿をずっと見わたしてから、 さすがに順平は、行くときまったら悪びれた態度は見せ 「いや、何も御心配なさることはありませんよ」と太い声 たず なかった。支度をして二階から降りてくると、刑事たちに で言った。「ちょっとした事件で少しお訊ねしたいことが 有りましてね、今から御一緒に行って貰いたいと言うわけ向って「お待たせしました」と挨拶し、土間に降りて靴を はいた。はき終ると、 です。大した事じゃありません」 「あの : : : 」と恒子夫人は再びせつない声を出した。 「お母さん、心配せんでもええよ , と急に大人びた言い方 ・ : 多分、僕たちの会社のことで、 「 : : : 実はこの子は今から、入社試験を受けに行くところをした。「大丈夫だ。 なんですけど、大事な試験ですから、今日の夕方か明日ま何かしらべられるんだろうと思うけど、心配してくれんで でお待ち頂くというわけには参りませんでしようか。就職ええからな」 試験を受けに、今から出かけるところなんですけど、何と そのまま、あとをも見ずに玄関を出て行く。恒子夫人が かお願いできませんでしようか」 追いすがって出ようとするのを、先生が腕をつかんで引き 「なるほど。 : ・しかし、お気の毒ですが、エ合が悪いで止めた。夫人は唇をふるわせながら、 すな。嫌だとおっしやると、いろいろ面倒なことになりま「共産党のことじゃないでしようかーと言った。 すからな」 「馬鹿な。そんな事じゃないーと先生は言下に打ち消す。 おど 肥った刑事は脅すような言い方をした。他人の不幸を見しかし、その他の何が原因であるかは解らない。 ても心を動かさないだけの、永年の修業を積んで来た男で茶の間に戻ってから、今度は篤志が問いつめられる番に あるらしい、恒子夫人は祈るように両手を胸に組み、順平なった。お前は何か知っているだろうと母が問う。息子は ぎようし は足もとの床の一点を凝視している。六人が六人ともしば杲けた顔で、なんにも知らねえと答える。そんな筈はある らく身じろぎもしなかった。そのとき小泉さんが決然たるまい、二人でお金を貸していたんじゃないかと問う。だっ 口調で、 て悪いことなんか一遍もやらねえよと息子は言う。何か心 したく 「順平、すぐに支度をして、御一緒に行きなさいーと命令当りはないかと母はいら立つ。息子は何も心当りなんか無 いと云う。こんにやく問答で、どこまで行っても結論が出 あいさっ
彼等の新しい時代を築いて行くであろう。先生自身が、小 だ。先ず先ず、これがささやかな自祝の乾杯である。怠惰 さな過去の歴史として取り残されて行く。それでいいのなる数カ年の生活を放棄して、明日からまた心魂を刻む学 徒の生活だ。いたずらに時勢の変化を歎くまい。時勢は常 階段に静かな足音がきこえて、やがて忍びやかに書斎のに変化してゆくものだ。その変化のなかで生きて行くのが 扉がひらいた。ふりかえって見ると、おだやかななかに一 ( 生きる ) という事であろう。生きることは闘うことだ。 脈の明るい微笑をたたえて、恒子夫人が入口からのぞいてこの時代がどんな時代であろうとも、その時代の流れの外 に居るわけには行かない。流れのなかにはいりこんで、首 まで浸されて、浮ぶなり沈むなり、ともかくもやって見よ 「あなた、お食事よ」と忍びやかに言う。新妻のように、 ようや うではないか。おやじは漸くその気になったのだ。吾が息 楽しそうな、秘密つ。ほい言い方であった。 うなず 先生は冷たい表情のまま、黙って肯く。すると夫人は近子ども、女房ども、一緒にやって来い。失業が何だ、イン フレが何だ、明日の生活がどうなるか、明日の日本がどう 寄って、珍しいことに良人の肩に手をかけた。 「あのね、・ヒールを買って来たの。お祝いに、・ : ひとつなるか、貧弱な一学究にはそこまでは解らない。解らない けれども、とにかく人間の造った人間の世の中だ。生きて おやんなさいよ」 行けないわけのものでもなかろう。 ( お祝い ) と夫人は言った。先廻りして喜んでいるのだ。 先生はそれどころではない。学者としても、個人として先生は別に二つのコップを出させて、息子たちにもビー こころづか も、これから先に苦労は多い筈だ。しかし女房の心遣いもルを注いでやった。先生自身の再出発であるのみならず、 嬉しいし、・ヒールも飲みたい。何かずっしりと重くなった息子どもにもこれから再出発させようという、ひそかな父 の覚悟のしるしである。順平のいぶかしげな表情にむかっ ような心を抱いて、小泉さんは階段を降りた。 二人の息子たちは食卓に坐って父を待ちながら、米国のて、恒子夫人はにこにこしながら、 くちばし 極東政策がどうの、鉄のカーテンがどうのと、黄色い嘴「お父様はまた、大学に出られることにきまったのよ」と で生意気なことをしゃべっている。恒子夫人はとりあえず説明した。すると篤志が首をかしげて、 かわいそう 一本のビ 1 ルを抜いて、先生のコップに注いだ。 「おやじ、可哀相だなあ : : : 」と言った。 「よ ! 今日はビールだ」と篤志がにやりとした。 何か、肺腑を突くような鋭い言葉であった。 あわ 先生は白い泡の立っコップを挙げて、堂々と一息に飲んそのとき廊下の外に人影が動いて、やさしい女の声で、今
だんな た何か下心があるかも知れない。 「 : : : その奥さんがね、旦那さまは官吏ですから、せい・せ 「だって : : : 」と恒子夫人は浮かぬ顔をした。「そんな事い二万円かそこいらの月給なのよ。そのくせ奥さんたら、 毛皮のオーヴァ、ダイヤの指環、凄いフランス・スタイル をしたら、うちの先生からわたし、叱られるわー 「ご冗談じゃ、ありませんよ」と青年は寄りそうようにしの洋服なんか着ちゃって、どこか出かけるって言えばきっ すし て耳もとにささやく。「先生に内証で、黙ってお買いになとハイヤを呼んで行くのよ。夏は一カ月ぐらい逗子の貸別 ったらいいじゃないですか。もうかったら黙って貯金して荘で遊んでいて、冬は北海道までスキ 1 に行くの。 置いたらいいんですよ。叔母さま案外気が弱いのね」 それがさ、全部、株。 : : : 自分ひとりでよ。旦那さんは ふふんと耳もとで笑った。笑われると何だか変な気持毎日こっこっ電車に乗ってお役所通い。そして二万円の月 だ。良人に内証で少しだけ買って見ようかと思ったり、勝給。奥さんは朝のうちに株屋へ二三度電話をかけて、それ 手のわからない事はやめた方がいいと考えたり、だけど本だけで月々二三十万もうけるらしいの。その奥さんはね、 ちゅうちょ 当に生活に困るのだからと思い返したり、優柔不断、躊躇もう少し儲けたら御主人のおっとめをやめさせて、熱海あ しゅんじゅん 逡巡、なかなか決心がきまらない。善良で貞淑な女房であたりにホテルを建てるんですって。凄いじゃないの。言っ ちゃ悪いけど、女の細腕でさ ! 」 ればあるほど、こういう時の決断はつかないものらしい 「じゃ、叔母さま、ちょっとおかけになって。僕、本当の恒子夫人は・ほんやりして、夢物語を聞いている気持だ。 はなしをしてさし上げますー 福沢君はにつこりして、一層椅子をちかづけた。 ひざ・つめ 夫人の決心がっかないと見て福沢君は、膝詰談判をする「ねえ叔母さま : ・ : ・」と、ささやくような小声になる。 つもりらしい。夫人は気迷いながら椅子に坐らせられた。 「 : : : 僕、思うのよ。女が、良人に養われるなんて、もう 「僕の知ってる人で、ある官吏の奥さんがいるんです。年古いですよ、ほんとに。そんな時代じゃありませんよ。女 きれい は三十ぐらい : : ・三十二三になるのかしら。綺麗な人ですは女で、自分に適した、自分にもやれるような方法で収入 から年がよくわからないの。でも三十一一三になるかも知れを得て暮すべきなのよ。そりやね、美代子みたいなお勤め ませんね」 も結構よ。だけど女房が外へおっとめに出るんじゃ、家庭 めちやめらや まあこの人は、どうしてそんな女の人を知っているのかは減茶減茶でしよう。どうしたって家庭で出来る仕事ね。 しら、と夫人は余計なことを考えた。福沢君はかまわずにそうして自分は自分で生きて行けるだけの収入がなくて しやべる。 は、本当の男女同権も男女平等も考えられないと思うの
うな行動は取れんじゃないですか。今後の激しい時局に耐 「一体どういう話なんですの ? ーと夫人は事のいきさつをえ得る生活の型式は、どうしたって個人という単位に立ち 知りたくなった。 戻らなくてはならんです」 あいづち 「なあに。ちょっと彼女をからかって見たんですがねーと「そういう考え方も有り得る」と先生が相槌を打った。 あぐら 鴨井君は胡坐をかいたままで煙草を咥えた。 「格別新しい考えでもないね。昔の盗賊だの地方武士だの けんこんいってき 「からかうにしては執拗いね。四遍も出かけて行ってからが乾坤一擲の大仕事に立ちむかう時には、先ず女房を叩き こうう り・ゅろ′ほら - かうというのは、からかいの範囲を逸脱しているようだ斬ってから出かけて行ったというのはそれだ。項羽が劉邦 よこやり * あいきぐびじんじふん な」と小泉さんが机のむこうから横槍を入れた。 に敗れて垓下に囲まれたとき、愛姫虞美人が自刎して死す 「いや。あのくらい利ロな女になると、一度や二度では正というのも、それかも知れん。君みたいな大志を抱くもの 体を見せない。やはり四遍というのは良いところです」とに家庭は要らんな」と怪しけな説を吐いた。 鴫井君は変な理窟を言う。 「要するにその通りです」と鴨井君はぬけぬけと言う。 「でも、本当は結婚しようかとお考えになっていたんでし「しかし、求婚された時の女の姿というものは面白いです な。たのしめますよ。並木美代子君は利ロな女性だが、や よう ? と夫人は追及した。そうでなくては話が面白くな いのだ。 つばり只の女だった」と怪しからぬことを言った。 「御冗談でしようーと助教授は天井に向って煙草のけむり恒子夫人はいささかむっとしたらしい を吐く。「 : : : 僕は結婚はきらいですよ。家庭なんてもの「ずいぶん女を馬鹿にしてらっしやるのねー はマンネリズムでね、昔から申すように、結婚は人生の墓「いや、そういう訳じゃないです」 、え、馬鹿にしてらっしやるわ。でも、美代ちゃんだ 場ですよ。僕は反家庭主義です。家庭という生活型式は人「いし よろ って、案外あなたをからかって居たのかも知れないのよー 類の進歩発展をさまたげるものですね。宜しく夫婦関係な 「そうですか。そうでもないでしよう どというものは廃止して、すべての人間は個人に還元すべ きだと思いますね。殊に世界情勢がますます急迫し、米ソ 、え、あの人は散々あなたのことを笑って居たわ。結 しのぎけず 二つの勢力が地球のあらゆる表面を舞台にして鎬を削ろう局あなたが馬鹿にされたのよ」 という御時勢に、夫婦だの家庭だのという動きの取れない 「なに、女なんてそういうもんです。自分が男を馬鹿にし 泥沼に足を突っこんで居たんでは、いざという時に思うよ たと思ってうぬ惚れているんですよ。内心は案外さびしい
さんま ・ : 近ごろの娘はみんな偉い」 馬鹿はない。秋刀魚だって十一月なら結構だが、翌年の四「うむ : : : 美代子は偉い 0 みりんば 月ごろになれば、店で売ってるのは全部味醂干しだ。美代と言った。食べる方が忙しいので会話は極めて短い 子だって、買い手が気に入らん事もあろうけれど、いつま「わたし、何が偉いの ? ー でも生意気を言ってると、味醂干しになって、三枚いくら「偉い : とにかくな、昔とちがって、考え方がはっき ということになるそ。女はなまざかなみたいなもんでね、 りして来た。・ ・ : 立派なもんだ、うちの叔母さんなんか、 いきが悪くならんうちに売ってしまわなけりゃならん。腐美代子にくらべたら、煮えたか煮えないのか、 ・ : てんで りそうになったら或る程度は投げ売りもしなけりゃなるまわからんような、らしいもんだったよ。 : : : 今日の西 と、段々ひどいことを言う。 瓜、うまいね。 ・ : 本当だよ。そりや嫌らしいもんだっ た。こっちが恥かしいのを我慢して、実に熱心に求婚する 「いいかげんになさいね ! 」と夫人は本当に怒りだした。 「美代ちゃん気にしないでね、叔父さんは仕様がないんだのに、横を向いて草の葉をむしったりしながらね : 「あなた ! ・ : 」と夫人はまた叫んだ。「何も私のわるロ から : : : 」 おっしゃ 「余計なことを言うな。俺はこの子が可愛いと思うから忠まで仰言ることないでしよう ? 」 告しとるんだ」と先生は、、 しささかも反省の色を示さな先生は女房を無視して、 。「赤の他人ならこんな事は言わないよ、叔父さんだか「草の葉をむしったりしながらね、え ? おかしいじゃな らこそ、言いにくい事も言ってやるんだ。なあ美代子、そ いか。 ( 結婚なんて、あたし、迚もだめですわ ) だって だめ かかあでんか うだろう ? と、今度は恩に着せた。 さ ! その駄目なのが、一一三年も経ったら完全な嬶天下 「本当にそうよ。私もそう思うわ」と美代子は笑いながらさ。え、女の猫かぶり。 ( 初めは処女の如く ) というのは だっと 言う。「でもねえ、私は売れ残っても味醂干しはいやよ。 この事だ。ちかごろは脱兎の如しさ。とても俺にはつかま 売れ残ったら腐ってもいいの。腐っても鯛ということだつらないね。あははは」と笑った。 て有るでしよう」とへらず口を利いた。 恒子夫人はたまりかねて、話題を外らす戦術に転じた・ 恒子夫人は急いで台所から、西瓜を切って来た。あまり「あなた、そんな余計なことより、美代ちゃんが来たら何 か用があるって言っていたでしよう。何ですの ? 」 良人が毒舌をふりまわすので、食わせて置けばしゃべらな いだろうという戦術である。小泉さんは人がいいから、す「うむ、そうだ。美代子に頼みがあるんだ」 さじ ぐ戦術に引っかかる。さっそく匙をとって食べながら、 「あらそう ? 儲かる事だったら何でもお引きうけします えら とて きわ