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検索対象: 現代日本の文学 29 石川達三集
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1. 現代日本の文学 29 石川達三集

青色革命 また ように股をひらいて立ちどまると、相手を見上げる姿勢に なって、 「小泉先生じゃないですか。お変りもなくて結構です。そ の後はどうも、貧乏ひまなしで、すっかり御ぶさたを致し て居ります」と、独りでべらべらしゃべる。「僕、おわか りになりませんか。お忘れになったでしような。昭和十六 年の卒業生です。丸山英吉や佐倉民雄なんかのクラスです 「ああ、そうだったかな。どうも失礼 : : : 」と先生はにや りとした。この男のどこを見ても、史学科を卒業した文学 士らしいおもかげはない。 しり 相手はズボンの尻のポケットから黒いよれよれの手帖を 向うからやって来た男が、不意に眼のまえで立ちどまつ出して、その中から名刺を一枚とってさし出した。大型の て「先生 ! 」と言った。見たことのない男である。一一十間名刺に大きな活字で ( 犬飼武五郎 ) と印刷してある。いま も向うに居るときから、変なやつが来ると思って小泉さんまで尻のポケットにはいっていたので、名刺には犬飼の尻 は見ていた。丈が低くてずんぐり肥っている。いかにも力のぬく味が残っている。いやな気持だ。その名刺には三行 こうがんむち ばかり、こまかい活字で肩書がついている。 がありそうで、精力的で、肩が四角ばっていて、厚顔無恥 ( 日本国民民主化連盟主事、関東同志会事務局次長、日本 という感じの男である。年齢は三十をいくらも出ていない だろう。茶色ズボンに、白と茶のはぎ合わせの靴をはき、選挙新聞論説主任 ) はんそで これだけ肩書があるのだから、相当傑い男かと思うと、 半袖シャツで上着はきていない。真新しいパナマ帽をかぶ おりかばん り、はち切れそうにふくらんだ折鞄をもっている。こうい案外そうでもないようだ。灰色によごれた ( ンカチを出し う風態の男は、土地プローカーか三百代言か選挙運動員てしきりに汗を拭いている。襟も脇の下も胸のあたりも、 か、とにかく他人のふんどしで稼いでいる男にちがいな汗でびっしよりだ。よほど汗つかきであるらしい。肥った たかんしよう 。どうも好きになれないタイプだ。それが立ちふさがる男には多汗症というのがよくある。犬飼武五郎も多汗症で かせ ひと えら

2. 現代日本の文学 29 石川達三集

らようど 「あら、だから恰度いいのよ」と美代子が話の腰を折っ自分のセックスのおかげで無事に生きてるんですよ。 た。「 : : : だってねえ、女が男よりもっと進歩的で利ロだその証拠には、新聞の身の上相談を読んでごらんなさ 。良人が戦死して、子供を二人かかえて、食って行けな ったら、男が困るでしよう。女は少し馬鹿で少し封建的だ から、男が威張っていられるのよ。そんなことを言うと、 いから再婚したと書いているじゃないですか。結婚という しやく 女がみずから卑下するみたいでだけど、本当はそうなののは経済的打算なんだ」 よ 「だって、母性愛は打算でも何でもないわ。母性愛は尊い 「そりやそうかも知れませんがね : : : 」と鴨井君は美代子ものよ」と恒子夫人がとうとう抗議を発した。「母親の気 の方に向き直った。美代子は笑いながら酒の燗をあたため持なんて、男にはよくわからないわー ている。 「そうですなあ」と鴨井君は軽く受けながす。「 : : : 母性 ・ : ところで、愛情とい 「少しぐらい馬鹿でも封建的でも、まあ、我慢しますよ。愛か。立派なもんです。全くね。 そのくらいの我慢なら僕だって出来なくはない。しかしうものを少し分析いたしますと、相手の個性を知って、そ ね、女が何よりも大きな取り柄にしている一枚看板は、愛の個性を愛するのが愛情でね。個性と関係なしに相手の存 情ということですよ。良人を愛し子供を愛し、愛情によっ在だけを愛するのは本能というんですね。女房が亭主を愛 て温い家庭をつくるということなんだ。ところがその一枚するのも、母親が子供を愛するのも、大部分は本能でね。 看板がね、全部うそさ。嘘なんだよ小泉さん。 : こちら本能が尊いというのならば、母性愛も尊いです」 の夫人に御馳走してもらいながら悪口を言うわけじゃない 「このひと、じやじゃ馬ねーと美代子がすかさずに言っ が、女房が亭主を愛するのはね、亭主が他所へ行ったら困た。すると小泉さんは、 るからなんだ。自分の保護者を自分から離れさせないよう「じやじゃ馬は嫌いか」と問いつめる。 命に、引きつけて置くためなんだ。ちょうど中世紀のフラン「嫌いじゃないわ。大ていの男って、みな少しずつじやじ ナイト 革スや英国の貴夫人が騎士を手なずけて居たようなもんでや馬よ」と美代子は平気で言う。「 : : : だけど、男のじゃ ね。だから女の愛情っていうのは打算ですよ。ちゃんと計じゃ馬って、可愛いわね。安心して、女に甘ったれてるん 青 算しておいて、愛してるんだ。それには良いづに、セッじゃないかしら。男の人も三十五六から四十くらいになる 幻クスというものが有ってね、神様も皮肉だよ。だから、無と、女の悪口を言いたがるものなのね。女は笑いながら黙 って聞いていればいいのよ。いくら悪口を言ったって、結 礼な言い方を敢てするならば、世界中のあらゆる女性は、 あえ かん

3. 現代日本の文学 29 石川達三集

男が男臭くないというのは、葱が葱臭くないのと同じ 方まで、ていねいに掃き清めながら、息子たちを共産党に 連れ去られる恐怖を感じた。一難去 0 てまた一難。順平はで、尠だ物足りない。何となく腹が立つ。いじめてやりた この次には、共産党で警察に引っぱられるかも知れない。 い慾望を感ずる。今では美代子との結婚など、夫人は問題 篤志は平気で歌いつづける。この青年は共産党に負けない にしていない。それほどこの男を軽蔑しているのだ。思う 、ようじん だけの強靱な個人主義を持っているらしい。母は何となようにならないから、軽蔑することになったのかも知れな く、この子の方が頼りになるような気がした。 二階の掃除をすませて階段を降りてくると、洋間の扉が「髭なんか剃って、どちらかお出かけなの ? 」と忙しく箒 ほろ・、な ) あいていた。箒を曳きずりながら入口からのぞいて見るを動かしながら言った。 ろく と、福沢君は机の上に丸い鏡を立てて、碌に生えてもいな「さあ、行こうか行くまいかと思ってるんです」と福沢君 ひげそ い髭を剃っているところだった。 は鏡の前に首を伸ばして、間ののびた返事をした。 「ついでだからお掃除して上げましようか」と夫人は部屋「いっかのお金、早く返してもらわないと、困るのよ」 「ああ、あれね叔母さま、済みません。ほんとに僕、わる の中を見まわす。すると福沢君は白い泡をつけた頬を長く いと思ってるんですよ」 して、 「あら、叔母さま、姉さんかぶりなんかなさって、ずいぶ「わるいと思ったら早く返してよ。とにかく私んとこは、 ん可愛いのねえ。とおぐらい若く見えますよ」と言った。先生は失業者で、ぶらぶらしてるんだし、子供たちのお小 おどろ 夫人はもう馴れているから、そのくらいのお世辞に愕き遣いにも困るのよ」 はしない。 この男がお世辞を言うときには、何か腹の中に「ええ、わかってます。ほんとに相済みません。だから ずる 狡い計画をもっているのだから、気をつけなてはならな僕、教科書のおはなし、先生にお引きうけ願いたかったの かえり になあ」と福沢君は省みて他を言った。 。聞えないふりをして、黙って本棚にはたきをかける。 二階の子供たちと年齢はさほど違っていないのに、この洋 小泉さんは例の教科書の件を、あれから四日目に、断乎 間にはなぜか、あのけだもののような男臭さが無い。と言としてことわってしまった。渇しても盗泉の水は飲まず、 って女臭いわけでもない。福沢君が中性みたいな男だか菱刈博士と一緒に仕事をすることをいさぎよしとしないの ら、部屋の空気までも無味無臭の中性であるのかも知れな ちょうゼい 「ほんとに困るのよ。一一三日うちに返して頂戴」と夫人は あわ ねぎ けいべっ とうせん だんこ

4. 現代日本の文学 29 石川達三集

空に向いた窓には落葉の匂いが流れこみ、はるか下の方にスの窓に顔をすり寄せて息を殺していた。男は駅前の階段 くだ け」、・ゆら - 溪流が白くたぎっていた。周旋屋の男は砕けた調子で元気の下まで来ると立ち止って安江を待ち何か話しかけてい た。安江は返事をしたようには見えなかった。 よく二人を迎え、すぐに酒を命じ安江には軽い食事をとっ てくれた。 男は駅の売店の前に立って小さな包みを買った。土産も それから間もなく男は眼で合図をして立ちあがり利八をのであろうか。戻ってくるとその包みを安江の前にさし出 連れて廊下の隅に立った。利八はそこで残金七百五十円をした。彼女は黙ってそれを受けとるのであった。そして男 受取り雇傭契約の形式になった書類をとりかわした。そしの後について駅の階段を上って行った。利八はもう一一度と て男はこのまま安江には何も言わないで帰って呉れと言っ安江に会うときはないような気がしてならなかった。彼女 た、その方がさつばりして却って娘さんの方もいいものだの幼い頃からの印象的なことが急に眼の前一ばいにひろが ものな って来た。愛情と後悔とが両側から胸を圧して感情はしび と物馴れた云い方をするのであった。 利八は安江を残して旅館を出るとそのまま駅前の氷川行れたような空転をつづけているばかりであった。 き・ ( スの発着場までゆっくり歩いて行った。そこには今度不意に車に入って来る足音がしてばっと電燈がついた、 出る・ ( スが一台置きつばなしになっていて、車の中には運運転手が乗りこんだのであった。氷川ゆきと女車掌が華や かな声で言った。エンジンが唸り車は動きはじめた。利八 転手も居らず、灯もついてはいなかった。利八は真暗な・ハ スの一番隅にそっと腰をおろした。ふところに七百五十円は座席の上に顔を伏せてはげしく泣いた。 かす が分厚な重みをもっている、微かな酒の酔い、疲れきった氷川に着くと彼は居酒屋に入ってしたたかに酒を飲ん おく 神経の絶望的ないら立ち、像の従業員だまりで運転手や女だ。早く酔ってしまいたい、早く自責の心から逃れたい臆 びよう にぎや 車掌たちが賑かに笑う声がしていた。すると彼は明るさを病さで一ばいであった。それから二里半の道を足もとを乱 失った自分の心に気がつくのであった。車はなかなか出発して帰って行った。 しなかった。 山峡の街道はまっくらで人通りもなく、道と道の下の谷 かくあんどん 向うの暗い道に立った角行燈のなまめいて赤い下をセル水とだけがほのかに白かった。もはや何も考えず何をくや 力い」ろ′ のモジリ外套を着た周旋屋が歩いて来るのが見えた。そのんでもいなかった。ただ酔いしびれた頭の中から悲しみだ 男から一一一歩ほど遅れて風呂敷包みを一つ持った安江が曳かけがじりじりと汗のように滲み出てくるのであった。 そうして漸く水根沢までふらふらと歩いて来た。山鼻の れるようにうな垂れてついて来るのであった。父は暗いノ こよう かえ ようや のが

5. 現代日本の文学 29 石川達三集

「どうも、いつまでも揉めて居りますな、こりゃあまだ永「かっきり一一年の契約で、差引きなしの手取り八百円、ど うです」 引きますよ、訴訟というものはもう永いもんでしてね」 しゅん 男は馴れた様子で手をたたき酒を云いつけた。すっかりその金高に釣られてしまった。金額の大きさが彼の逡 自信のあるものごしで、心の中を見透かされているように巡をカ弱くしたのであ 0 た。実を言えばこの前この男に会 利八は物怖じした。話の受け答えも碌々しない彼にすすめ 0 たときからもっと纏ま 0 た金のはいる話を聞いてみたか ようや らようし った。良心と貧困との永い永い戦いであった。戦いに負け て男は三本も銚子をかえ、それから漸く用件にはいって、 くちびるか 決心はっきましたかと問うのであ 0 た。すると彼はえきたとき利八は自棄的に唇を噛んで契約書に署名し拇印を らない口調でやはりやめましようと答えた。いま急に奉公捺した。そして手付金五十円を内ふところに押しこんだ。 に出して見てもはじまらない、立ちのきの時は無一文にかそのほかに男は五十銭銀貨を四枚とり出した。この村では わりはない、また月々五円や七円の送りではどうにもなら困る、明日の夕方、御嶽駅の前の某という旅館まで連れて つぶや 来てくれ、これは足代だ、というのであった。 ないと利八はぶつぶっと呟いた。 ごもっと その日の暮れちかく、安江が山から帰って来るのを待っ 男はじっと考えこんでから、御尤もですなと言った。そ れからちゃぶ台の上に乗り出して顔をのそきこんで囁くのて利八は明るい表情をつくり元気な声を装って言 0 た。 「安江、お前な、済まんが東京へ奉公に行ってくれ」 であった。 「私はこれは親身になってお話しするんですがね、決して安江は眼をみはって父を見あげ、どういう奉公なのかと おすすめできる事ではないが、それまでお困りならば娘さ訊いた。お前は知るまいが東京には派出婦人会というもの ーもら しまら んに物く辛抱して貰ったらどうです。辛抱と云ってもそんがあって仕事は女中のようなものらしいが給銀がなかなか しいそうだ、よく頼んでおいたから是非行ってくれと利八 なに辛い仕事じゃありませんよ、今はちゃんとした規則が じようせつ やかま あって喧しいですからね、そりゃあ待遇だって立派なもんは饒舌になって言いつづけた。彼女の反抗する余地はなか です」 そこまで言って男はじっと利八の様子を見ていた。反抗安江は父の明るい顔つきに瞞された、父がこんなに喜ん の気構えがなかった。彼は自分を承知させることに苦しんでいる話ならばとおもった。 でいたのであった。それを見究めると相手は一気に力強く「晩まで考えさせてよ」と彼女は答えた。 まずしいタ飯を済ませると安江は家を出て行った。龍三 押しかぶせるように言ってのけた。

6. 現代日本の文学 29 石川達三集

ぶ飲む。客を客とも思わぬ乱暴なふるまいだ。 りどさりと座敷を出て行った。 「そうか。 ・ : それじゃ、あとで一つお見舞いに行ってや 小泉さんは反対側の障子をあけて廊下に出ると、冷たい ろうかな」と先生が独りごとを言うと、女中は、 板を踏んで鍵の手になった廊下の角を曲り、その突き当り 「余計なことだわ。行ったりしちゃ駄目よ」と、叩きつけの手洗い場へ行った。手洗い場には奥の庭に向いた丸窓が にら せん るように言って先生の顔を睨んだ。何を怒っているのかわ切ってあって、窓の下に水道の栓が出ている。そこに立っ からないが、お須磨さんに対して余程腹に据えかねることて手を洗いながらふと庭を見ると、庭の向うの小部屋に明 が有るらしい るく灯がともっている。先生ははっとなった。このまえ連 先生は興ざめた気持になって、飲みたくもない酒を飲れ込まれたお須磨さんの部屋である。 む。思えばお須磨さんの色香に迷わされて、この料亭に通障子にはまった硝子を透して、部屋のなかの様子が少し ってきたことも幾度であったろうか。最初の印象から思えばかり見える。長火鉢がある。そのそばに赤い大きな花模 ば、こちらがその気になりさえすれば直ぐにも何とかなり様の夜具が敷いてあって、その夜具の盛りあがったエ合か そうな、誘う水あらば去なんとそ思う風情が感じられて、 ら察するに、彼女は風邪をひいてそこに眠っているに違い つい迷い込むことになったのであるが、何とかなりそうに ない。夜具は半分ばかりしか見えないが、何とも言えない 思われて、案外何ともならないのだ。もしも彼女に本当のなまめかしい雰囲気が流れている。先生は胸がときめい 愛情があるのならば、たとい風邪をひいて熱があろうとて、頭に血がの・ほるような気がした。するとその時、廊下 たんぜん も、起きて来るのが当然であろうし、起きられない程の病の向うから丹前を着たずんぐりした男の黒い姿が現われ て、お須磨さんの部屋の方へ歩いて来た。 ならば、失礼ですがちょっと部屋までお越し願いたいと、 女中に言いつけてでも、ひと目逢いたがるのが普通であろ 男の顔は逆光線になって、見えない。丈の高くない、肩 いっしようびん くわ 命う。して見れば、こちらは思いつめて通って来るのに、 の張った男だ。左手に一升瓶をぶら下げている。咥えてい 革野の小町は案外何とも思 0 ていないのではあるまいか、なた煙草を庭石の上にすてて、男はためらう色もなくお須磨 どと、先生はあらぬ疑いに心を砕き、胸のふさがるようなさんの部屋の障子をひらいた。障子のなかから明るい光が 青 気持を味わっていた。 流れて、部屋にはいろうとする男の顔が照らし出された。 行やがて女中は手酌で一本の銚子を飲みつくし、 大飼武五郎である。 「酒持ってくるわね」と立ちあがり、太い腰を振ってどさ障子は一瞬にして閉まった。丹前を着た男の足が、赤い ガラス

7. 現代日本の文学 29 石川達三集

「なに言ってるのよ、美代子。せつかくビクニックの約束「熱海は遠いわ」と考えるようなふりをすゑ福沢君は熱 しておいてさ。映画なんかいつだって見られるじゃない 心な顔で、 「遠くないよ。たった二時間じゃないの」と言った。 「日帰りには忙し過ぎるわ」 「じゃ、どこへ行くのさ」 「遅くなったら泊ったっていいのよ、僕は」 「だからそれを相談してるんじゃないの」 「明日のおっとめは ? 」 「そうよ。だから早くきめなさいよ。あんたがきめないか ら悪いんじゃないの」 「遅刻したってかまやしない。 一日ぐらい休んだって大丈 「きめない訳じゃないのよ。昨日から僕、うんと考えたん夫よ。美代子の会社、大丈夫 ? 」 ほこり だけどさ、東京の近処なんて碌な所が無いじゃないか。埃そこまで男の言葉を誘い出しておきながら、 、たな 「駄目 : : : 」と美代子はにべもなく答えた。「熱海なん つぼくて、汚くてさ、電車は混んでるしさ、 うま 「そんなの、私のせいじゃないわ」 て、古い手ね。女の子をたぶらかすのに、何かもっと巧い 「そりやそうだけどさ。だから僕ね、少し遠いけど、熱海考えは無いの ? あんたも案外ぼんくらよ」 だっていいと思ったのよ。熱海なら、少し俗化してるけ「あら、 : : : 美代子なにか誤解してるのね」 ど、山の手の方は静かだしさ、久しぶりにちょっと良いな「誤解 ? : : : ほんとに誤解 ? : : : ふふふふふ。弁解するこ と思っていたんだけどねー とないわ。男の考えることなんて、大体そのくらいのとこ 、ト - 第ノ J ら・ほ この提案が成功すれば、第一の橋頭堡ができる。この橋ろよ。案外男って、単純ね。ちょっと好きな女ができる 頭堡を足場にして、浸透作戦を展開するのは、さほどむずと、猫も杓子もすぐ熱海じゃないの。始めは日帰りだとか かしくはない。美代子の感情のなかに最初の樶を打ちこ何だとか言 0 てね。お酒を飲んで、遅くな 0 て、仕様がな ひ、よう み、二番目の杭を打ちこみ、次第にがっちりした足場を組いから泊ろうなんて。卑怯よ。そんな胡麻化し、嫌いさ。 かくらん み立てて、相手が油断しているあいだに、内部攪乱工作の男って不潔ね。女を可愛がるのに、のことしか考え 準備を完了してしまう。相手が気がつく頃には、もうこっていないのよ。そういう人、わたし軽蔑するわ」 さすが ちの物だ。 ・ : ところが美代子は流石に男たちと同じ職場折角の橋頭堡が怪しくなってきた。浸透作戦も刃が立た で鍛えられて来ただけに、そんな単純な甘言には乗らな ない感じだ。 。綺麗な笑顔を見せてくすくすと笑った。そして、 「ちょっと待って、美代子・ : : ・」と福沢君は赤くなって相 、れい ろく しやくし けいべっ ごまか

8. 現代日本の文学 29 石川達三集

けでもあるまい。手術でなければ、自殺未遂である。男にでもない男の方は、心がたじろぐ。先生はまた盃をさし 0 なき た。女は一度受けた盃を置いて、コップを取った。 斬られたか、自分で突いたか、れにもせよ何年か昔に、 いろこいざた 「あたし、これで頂くわ」と言う。 色恋沙汰のもつれが有ったに違いない。 よし、と先生は思った。これで飲んだら泣き上戸になる 小泉さんはふと、興ざめるものを感じた。この女のその だろう。飲むだけ飲ませて、泣くところが見たい。先生は 時の恋がどのようなものであったにもせよ、首筋の傷跡は 何かしら卑しい。そう思って見ればお須磨さんの美しさ残酷な気持になった。お須磨さんは半分ばかり注いでもら も、知性にみがかれて築ぎ上げられたものでもなく、高貴って、眼を閉じたまま上向きになって、ひと息に飲んだ。 わば偶然の飲み終ってコツ・フを下に置き、赤い唇を舌で甜める。眼っ な性格からあふれ出たというものでもない。い 美であり、努力のない美である。これを天性の美と言ってきが鈍くなって、息づかいが荒い。手をのばして先生の煙 ひと は言葉が過ぎる。偶然の・ ( ランスにすぎないのだ。時とし草をとり、一本くわえて火をつけると、独りごとのよう て、天は偶然にして、人間のあらゆる努力よりも更に美しに、 いものを造ることがある。雨後の虹のごとく、シベリヤの「あたし、男は恨みがあんのーと言った。 、よっこう この美しさといい、首筋の傷跡といい 極光の如く、夏のタ焼けの如きものがそれだ。お須磨さん の美しさもまた、雨後の虹の如くはかなくして空虚なるものは多分本当であろう。 のであろう。顔をそむけた彼女の姿態のなかに、崩れるよ「どんな恨みがあるんだね」 うな一種の危うさがある。花粉を求めて赤い花びらを、わ「そりや、とてもとても : : : 」と女は眼をつぶって首を振 しゅうち ざと少しばかり開いたチ、ーリップの花の、羞恥と誘惑とり、「いくら話したって、誰にも解りやしない そのまま女のからだが倒れて来た。小泉さんは両手で抱 がある。真実と虚偽とがある。先生に取られた右の手を、 逃れようとするでもなく、放すまいとするでもなく、意味き止める。すがりつくようにして女は身をよじったと思う ありげな中途半端のかたちにして置いて、くねらせた肩のと、いきなり着物の上から先生の肩に噛みついた。飛びあ がるほど痛い。あわてて彼女のからだを突きはなすと、女 かげから、じっと上眼づかいに小泉さんの顔を見据えた。 この次に男が何をするかを、本能的に直感しようとする眼は食卓に両肱をついて、崩れた姿勢を支えたまま、 ・ : あたし、 「先生、浮気でしよう ? 浮気でしよう ? つきである。子供にめられた時の猫の眼つきだ。 そういう真剣な眼つきをされると、もともと大して真剣本気で先生を好きになったら、どうする ? ーと、眼を据え ひじ 、男に恨みがある

9. 現代日本の文学 29 石川達三集

としか思われない。 「なぜだ」 それから女は例のノートをばらばらとめくっていたが、 「言ったって男には解らないでしよう・でも、まあ言うわ 「ほかのは見せられないからねと笑って、中の一枚をびね。 : まともに生きているくらいなら死んだ方がいいと はくじよう りびりと引き破り、 思うのよ。そうでしよう。薄情な男に逃げられて、子供を 「怒っちゃいやよ」といいながら川地の眼のまえに突き出かかえて、まともに生きる気になれるかしら。私だって前 ずいぶん した。それを手渡してしまうと、身をひるがえして炬燵にには随分まじめに考えていたの。でも、馬鹿くさくなっち もぐりこみ、布団に顔を伏せた。笑いをこらえているようやった。せいぜい一所懸命になって子供を育てて見たとこ であった。 ろで、それが何になるの ? 私が立派に子供を育てたら、 いたずら しかし、今はこの女の悪戯な詩を読んでいるべき場合であの男はやつばり平気な顔をしているわ。私がうんと悪い 日地は靴をぬいでずかずかと上り込んだ。紙片はことをして、うんと困った女になって、うんと貧乏してや ポケットに押しこみ、女の肩をぐっと引き起して、きびしれば、あの男だって少しは良心に辛いだろうと思うのよ。 刑務所なんて、平気さ ! 出られないっていうだけでし 「おい、お前は勤めたくないのか。なぜわざと警察に手数よう。出たいと思いさえしなければ借金とりも来ないし、 をかけるんだ」 ・ : 飯の心配もないし : : : ね ! 酒巻美代は笑いをこらえて答えた。 私に罰を食わしたって何にもなりやしないわ。罰だと思 ごめん 「御免なさいね。でもわたし、そんなに悪い女じゃないのわないもの。性根が曲っちゃったのよ。この性根を直して くれる御親切があるなら、まずさきに奥村慎太郎を刑務所 へ入れて下さいよ。なぜ私が悪いことをするかっていえ 「なぜちゃんと勤めて立派に生活を立てて行こうとしない んだ。」 用事が大変に怒っている。お前がそんなことをしてば、あいつが平気で生きているからなのよ。わかって ? いては私の立場はない。どんな重い処分を受けるかわから本当は私はそんなに悪い女じゃないの。 ないんだぞ」 これだけいってもまだ私を引っぱって行くつもり ? そ れでもいいわよ」 「平気だわ」 「来たまえ」といって川地は立ち上った。業を煮やしたと 「平気だ ? 」 いう気持であった。このままかかり合っていてはやりきれ 「そうよ。私はわざと貧乏してやるの」 ふとん ~ 」うに

10. 現代日本の文学 29 石川達三集

いですしねえ。あらゆる点から見て、僕なんか美代子に求 る男の姿をじっと見まもりながら、 婚する資格ないかも知れませんよねえ。そりや、僕、わか 「美代ちゃん、今日は遅いのねー ってるつもりなの。だから美代子がその点で、いやだって と言った。 言ってくれるんたったら、僕、あきらめるより仕方がない すると福沢君は顔をあげて、 ああそうね。でも、来るかどうかわかりのよ。 「美代子 ? ・ : でもね、あの子のはそういうんじゃないんですよ。だか ませんよ」と言う。 けんか ら僕、腹が立つんです。今日、もしやって来たら、喧嘩ふ 「約束しなかったの ? 」 つかけてやろうかと思ってるんです」と乱暴な口を利い 、え、別に」 ーそれから夫人は思い切った。 「でも、きっと来るわ。 真剣になってしゃ・ヘると、瞼のあたりに紅味がさして、 て、「まだ、本当に婚約しないの ? ーと言った。 うたまろ 福沢君は顔を上げ、肩をすくめて、うふふふと笑いなが歌麿えがく湯上りの美人のようだ。恒子夫人はうっとりと おっと みとれていて、彼の話の方はうわの空になる。良人のこと ら、手のひらに黒い種を吐き出した。 「駄目よ、叔母さま、あのひと : : : 」と、長ったらしく語ならば裏も表も残さず知っているが、そのほかの男という ものを夫人はまるで知らない。世の中にはこんな男も居た 尾を曳いて言う。 のかと思う。良人ひとりを守って二十数年を過し、これか 「あら、何が駄目なの ? 」 ・ : 」と相手は西瓜の匙を置いた。「美代子ら先もこのままで老い朽ちて行くのかと思うと、少しばか 「だってねえ : ・ りいらいらする。それも更年期の心の迷いであるかも知れ って、誠意無いの。そりや先生や叔母さまに対しては誠意 せんぜん : : : 」 があるでしようよ。僕には駄目なの。・ 「一体、美代ちゃんが、あなたに何を言ったの ? 」 命「あらどうして ? ー 革「どうしてって言われると、僕、ちょっと困るなあ。ま「要するにね、美代子は僕をからかっているのよ、叔母さ あ、そりやね、美代子はあんなしつかりしてますし、仕事ま」 青 だって男と同じに出来るし、理想が高いですからねえ。僕「何をでたらめばかり言ってるの ! 」 、え。そうなのよ、叔母さま。本当にそうなの。それ みたいな青一一才のおっちょこちょいでは、喰い足りない所「いし もあるんだろうと思うんですよ。僕の月給だってとても少がわかったもんですから、僕、もうあの子と、本気ではな だめ まぶた あかみ