けでもあるまい。手術でなければ、自殺未遂である。男にでもない男の方は、心がたじろぐ。先生はまた盃をさし 0 なき た。女は一度受けた盃を置いて、コップを取った。 斬られたか、自分で突いたか、れにもせよ何年か昔に、 いろこいざた 「あたし、これで頂くわ」と言う。 色恋沙汰のもつれが有ったに違いない。 よし、と先生は思った。これで飲んだら泣き上戸になる 小泉さんはふと、興ざめるものを感じた。この女のその だろう。飲むだけ飲ませて、泣くところが見たい。先生は 時の恋がどのようなものであったにもせよ、首筋の傷跡は 何かしら卑しい。そう思って見ればお須磨さんの美しさ残酷な気持になった。お須磨さんは半分ばかり注いでもら も、知性にみがかれて築ぎ上げられたものでもなく、高貴って、眼を閉じたまま上向きになって、ひと息に飲んだ。 わば偶然の飲み終ってコツ・フを下に置き、赤い唇を舌で甜める。眼っ な性格からあふれ出たというものでもない。い 美であり、努力のない美である。これを天性の美と言ってきが鈍くなって、息づかいが荒い。手をのばして先生の煙 ひと は言葉が過ぎる。偶然の・ ( ランスにすぎないのだ。時とし草をとり、一本くわえて火をつけると、独りごとのよう て、天は偶然にして、人間のあらゆる努力よりも更に美しに、 いものを造ることがある。雨後の虹のごとく、シベリヤの「あたし、男は恨みがあんのーと言った。 、よっこう この美しさといい、首筋の傷跡といい 極光の如く、夏のタ焼けの如きものがそれだ。お須磨さん の美しさもまた、雨後の虹の如くはかなくして空虚なるものは多分本当であろう。 のであろう。顔をそむけた彼女の姿態のなかに、崩れるよ「どんな恨みがあるんだね」 うな一種の危うさがある。花粉を求めて赤い花びらを、わ「そりや、とてもとても : : : 」と女は眼をつぶって首を振 しゅうち ざと少しばかり開いたチ、ーリップの花の、羞恥と誘惑とり、「いくら話したって、誰にも解りやしない そのまま女のからだが倒れて来た。小泉さんは両手で抱 がある。真実と虚偽とがある。先生に取られた右の手を、 逃れようとするでもなく、放すまいとするでもなく、意味き止める。すがりつくようにして女は身をよじったと思う ありげな中途半端のかたちにして置いて、くねらせた肩のと、いきなり着物の上から先生の肩に噛みついた。飛びあ がるほど痛い。あわてて彼女のからだを突きはなすと、女 かげから、じっと上眼づかいに小泉さんの顔を見据えた。 この次に男が何をするかを、本能的に直感しようとする眼は食卓に両肱をついて、崩れた姿勢を支えたまま、 ・ : あたし、 「先生、浮気でしよう ? 浮気でしよう ? つきである。子供にめられた時の猫の眼つきだ。 そういう真剣な眼つきをされると、もともと大して真剣本気で先生を好きになったら、どうする ? ーと、眼を据え ひじ 、男に恨みがある
打ち眺めて居たって、詩は出来るかも知らんが、釜の飯は君にも聞かせるために雄弁をふるった。 焦げるですよ。ええ。家庭なんて所はね、飯を食うところ「だってお前・ ーと小泉さんは顔を上げた。「美代子 であって、詩をつくる所じゃないですからねえ、全くさ。 は、福沢君の方はどうなんだ」 ・ : 」と鴨井助教授はついに毒舌の一端を示した。 恒子夫人は編物の手を休めて溜息をついた。何という間 「ああそう。あなたがそういうお考えなら安心だわ。でも抜けな亭主だろうと思う。鴨井さんの前でそれを言った そのひとね、決して不美人じゃないの。可愛い顔よ。近代ら、万事ぶち壊しになるにきま 0 ているではないか。小泉 的って言うのかしら。明るくってね、そりや利ロな娘よ。 さんは馬鹿正直だから、そっちを伏せて置いてこっちの話 それこそほんとに眼から鼻へ抜けるような : : : 」 を進めるなどという器用なことは出来ない。夫人で見れば 「ほう ! 眼から鼻へねえ」 胸中にはいろいろと複雑なものがある。福沢君に貸した金 「ええ、そうよ」 はまだ二千円残っている。良人は知らない。福沢君のつか 「眼から鼻へねえ。 : 眼から鼻か。 ・ : だけど、そんなまえどころの無い性格にはほとほと手を焼いたかたちで、 所が抜けてもいいのかなあ。変な顔だろうなあ」 これ以上彼と美代子との関係に深入りしたくはない。いわ こわ 「まじめな話よ ! 」と夫人はまた叱った。 ば少しばかり福沢君が怕くなったのだ。 するとそれまで、負けそうな碁を考えていた小泉さん それともう一つ、もっと複雑な気持もある。福沢君で失 が、これも気の抜けた声で、 敗した彼女は、良人から疑いの眼で見られることが何より 「お前、誰の話をしてるんだいーと言った。 も怕い。美代子を福沢君に結びつける努力には、そういう 「誰ってあなた、美代ちゃんのことよ。鴨井さんならちょ危険を伴う。美代子を鴨井君に結びつける仕事は、良人の うど良いと思うの。あの子はさばけてますからねえ、初婚疑惑を先廻りして食い止める手段になるかも知れない。深 ばうえんりよ 命の人でなくてはだなんて言わないでしよう。すこし小柄謀遠慮である。しかしながら女性は生れながらにして深謀 革だけど丈夫ですし、とても色が白いのよ。あなたは知らな遠慮の天才であ 0 て、恒子夫人のような暢気な女性でも、 うらやま 青いでしようけど、からだなんかまっしろ。羨しいくらい何の努力もなしにこれだけの考えが自然にうかんで来る。 よ。あんな利ロな子ですから、鴨井さんには打ってつけで天は男性に対しては身を守るための力を、女性には智恵を 冖ー すわ。年は十二三違うわけですけど、今はそれくらい 授け給うた。恒子夫人の深謀遠慮は、人が悪いのでもなく こうかっ 何でもないでしよう、と夫人は良人に聞かせながら、鴨井狡猾なのでもなく、弱きものが天から授けられた護身の智
「顔色が悪いぜ」 まえにウォ ングアップだなんて言ってやがった」 彼女ははツとして兄の眼を見た。兄はすぐに眼を反らし「偉いもんだねー 「あいつには叶わねえや」と言い残して根本は手拭を肩に こご 「凍えそうなの。とても静かな晩よ。、、 しし月」 かけ洗面所へ出て行った。 兄は根本の盃をうけて飲んでいる妹をじっと見ていた。 竹内は煙草を咥えてみたが吸う気にはなれなかった。 兄妹の敏感さで彼は妹の上に何かがあったらしいことを感食堂は雪の反射をうけて天井までまっしろに光ってい じていた。恭子はすぐに兄のそうした気配を知り、反抗すた。小谷野はもう雪をつけて白い息をはきながらはいって るようにロった。 来た。 「兄さんの百姓、どうなったの ? 」 ここではじめて顔を合わせたとき、恭子は鋭い視線をじ 「結論がっかねえんだよ、頑張りやがって ! 」と根本が怪っと竹内の顔にむけた。まるで彼の考えていることを見抜 しい口調で言った。 こうとするようであった。竹内は眼を細め放心した顔つき いなか すべ ゅううつ 「わたしも田舎へ帰って百姓しようかなあ」 でゲレンデを辷りまわる人々を眺めていた。憂鬱そうに沈 彼女はそういう弱気に陥ちこみそうな自分を一筋に嫌悪んだ暗い表情であった。すると恭子は腹が立ってきた。竹 していながら、思わずそうロに出してしまった。 内の憂鬱は責任を回避しようとする意図を示しているよう 根本が夜史けに響きわたる大声で笑った。 に思われた。しかし彼女は竹内長太郎に責任をもたせ、結 婚を要求しようとは思っていなかった。 みそしる 根本の声で竹内が眼をさますと、窓を閉ざした積雪の上 この山の上で蜆貝のはいった味噌汁は、珍しい気がし すみすみ からぎらぎらとはげしい日光がさしこんで、室の隅々までた。小谷野と根本とが一番元気に食った。 かったっ 草も明るかった。根本はズボンに足を突っこみながら濶達な「今日は一つ向うの山のうんと上まで皆で行って見ない 青言い方をした。 か」と小谷野がはちきれるようなはずんだ口調で言った。 慧「起きろ起きろ ! べら・ほうなスキイ日和だ。今日は日に「あすこから一気に降りて来たら愉快だよ。処女雪だ。本 焼けるそー 当の処女雪だよ。一本のシュ・フールもないじゃないか」 「みんなどうした ? 恭子は顔を伏せて茶碗をとり上げた。今では一本の鋭い 「支度してるよ。小谷野はもう出て行ったらしいや。朝飯シ、・フールが自分の体を貫いているように思われ、本能的 びより けんお しじみ くわ ちやわん
223 えんてい 崖つぶちに「貯水池堰堤築造地・水根峡ーと書いた立札が ななめ 斜に立ててある、そこを曲ろうとしたときであった。 内の技術部 不意に赫とはげしい光が彼の眼を射た。小河 翌々日の朝、起きるとすぐに坂部の龍三は手まわりのも 出張所から氷川の建設事務所へ帰って行く技師たちの自動 のを小さな風呂敷に包んだ。 車であった。正面から前燈のぎらぎらした光を照射される 「お前、どこか行くのかい」 むす ( と利八は眼が眩んで、あわてて道を避けた。そこは崖の出 母親が心配そうに言うと息子は、ああと濁った返事をし ひなた 鼻であった。自動車は警笛を鳴らして眼の前に迫って来 た。それから日向の畑に立ってのんびりと山々を眺めてい た。彼はもう一歩左へ寄って「水根峡」と書いた立札に左 さき る勝太郎おやじの前に行き帽子をかぶりながら言った。 手を支えようとした。立札は根元を五つ六つのごろた石で 「おとつつあん、俺あひとっ東京へ行ってみるからなあ」 支えてあるだけであった。それはひとたまりもなく傾い 「ふむ、東京へ行って何をするんじゃ」 た、と同時に支えを失った利八の上半身もよろめいた。運 おやじは別段意外な顔もしなかった。 転手があッと激しくさけんだ。利八のからだは「水根峡ー 「職工か何かやって見る。きまったら迎えに来るからな」 の立札を握ったまま前燈の光の中でくらりと一つ廻って消 ふむ ! と父親は鼻で答えた。引き止める気は少しもな えた。運転手が駈け下りて崖つぶちに這うようにして下を じよう いようであった。つい二三日まえ、 だんがいやみ 覗いて見た。まっすぐに切り立った十丈ばかりの断崖の闇 とうとう 「おとつつあん、嫁をもらってもいいかい」と龍三は少し の底に多摩川はほの白く泡立って滔々と鳴っていた。 赤くなってぶつきら棒な言いかたをした。その女が居なく 技師は運転手に命じて大急ぎで二三丁の下流まで車を走なったことも分っていたし、それに百姓がどんなにつまら たた らせた。そして百姓家の戸を叩いて助力をもとめ危ない細ないものであるかもよく分っていた。そのうえ立ちのき料 村道をつたって谷へ降りて行った。 が手に残る予定もなかったのだ。おやじは腰のうしろに両 の技師の一人がまず岩にせかれながら流れて来た立札を拾手をまわして、しなびた女房のしょ・ほしょ・ほと心配そうな った。間もなく堰堤の底になる岩と岩とのあいだから水び眼つきを笑みを含んで見かえし、まあ、やって見るもよか 日 たしになった利八の死体が発見された。 ろ、と言った。 彼のふところからは布の財布に包んで首から下げた七百龍三は風呂敷包みをぶらぶらさせながら坂道を下りて行 さったば 五十円の札束が出た。それから安江の雇傭契約書が出てきった。 くら あわ さいふ こよう
まっしようて、 ういう気持があるから吾々の生活が不安定だったり末梢的れた。 になったりするんだ。しかもそういうあわただしい生活か あちこちで棚からスキイをおろしワクスを塗っている人 らは君、生涯人間らしい幸福を掘りおこすことは出来んとがあった。いい よよ雪がちかいのだ。小谷野が俺も塗って 思うんだよ。そういう意味でね、敢えて下積みの生活にはおこうと立ちあがると、結局みながそれにならってスキイ いり、それに甘んじて行く事によってね、却って個人的にを解いた。まだ夜明けの四時くらいであった。 は安定した、人間らしい生活ができると思うんだー 水上温泉まで来ると駅のあたりに残雪があって、溪谷の 「東洋的なさとりの境地かねー むこうに温泉宿の赤いネオンが見えた。彼等は足ごしらえ 「うむ、そう言っても、 しいかも知れん」 をなおし、最後の煙草を咥え、寝不足の赤い眼をしながら ゅびそ 「百姓したければやるもいいさ。しかし二年と経たないうもすっきりと頭が冴えて、元気だった。湯檜曾をすぎ、そ くぐ ちに君は食えなくなって、また東京へ職をさがしに来るだれから長いトンネルを潜った。 ろうよ。その時になったら君は始めて謙虚な生き方とはどそのトンネルを出ると、突然に七八尺の雪が山と溪谷と んな事かがわかるよー を埋めて、暁の細い三日月の下で凍ったように光っていた。 いび、 鼾をかいていた根本が眼をさまして言った。 「おい、高崎はまだかい」 岩原のヒュッテまでは雪のなかをほとんど二時間ちかく 「三十分も前に過ぎたよ」 も歩かなくてはならなかった。中里駅に降りてみると、雪 ともしび 「ああしまった。高崎の駅にはうまい蕎麦屋が出ているんに埋めつくされたまばらな家々からは一つの灯火も見え まんもく ず、満目の雪原にふみ迷うた気持であった。ヒュッテの若 らようらん すると恭子が眼をさまして窓の外をのそき、まだ雪がない衆が出迎えて、提灯をもって先頭に立った。凍るような 草いと言って、つまらなそうな顔をした。竹内は段々に歯が風が、枝の雪を吹きおとした。村人が踏みかためた細い雪 青痛くな 0 てくると言 0 て、仁丹をしきりに噛んでいた。 道を彼等は一列になって歩いた。月が落ちて空は急に曇っ 慧窓の外には細い三日月があって、星は少いが空は明るかていた。ときおり烈風に乗った粉雪がさっと眼のまえを吹 った。赤城山が黒い尾根を見せてうしろに動いて行き、村きすぎた。山の雪国の季節の荒々しさが思われた。足もと ざとの深夜の静けさのなかを汽車はひた走っていた。白い は暗くて細い道が見定め難く、恭子は幾度か柔い雪のなか ひざ 水気で窓がすっかり曇っているのに、外気の冷たさが思わに膝をついた。そのたびに後にいた小谷野が手を貸して引 かえ みなかみ くわ
あるに違いない。そのうえ少しゃぶにらみだ。右の眼の見他人に帰る。いわんや犬飼武五郎のごとき、縁など有ろう はず 当がいくらか狂っているので、何を考えているのかわから筈もない。だから先生は怒りを押えて、却っておだやかな ない。彼は顔の汗をふいて、急ににつこり笑った。ゃぶに微笑を見せた。 くちびる らみが笑うと奇妙な現象が起る。唇は笑っているが、眼は「冗談じゃないよ君、僕は生れつき百姓はきらいだから 笑わない。だから怒りながら笑っているように見える。表ね。球根の栽培なんか、やらないよ」 しゃれ 情が分裂するのだ。分裂したままで犬飼は、 小泉さんの洒落が、相手には、通じなかったらしい。真 「近日中に一度、是非お邪魔させていただきます」と言っ面目な顔をして、「はあ : : : 」と答えた。それから急に、 こ。 また例の分裂的な笑顔になって、 「ああ、どうぞ」と先生は答えた。本当は来てもらいたく「近いうちに総選挙がありますが、先生は今度立候補され ますか」と言った。 ないが、師弟の義理で仕方がない。 とっぴょうし 「一度、お話をうかがし冫 、こ、参上しますーと彼はもう一度言うことが一々突拍子もない男だ。右の眼の焦点が狂っ くりかえしてから、「近頃は、トウの方で御活躍のようでているばかりでなく、頭の見当も狂っているらしい 「いや、選挙なんか、やる気はないねー すな」と言った。 じばん 「トウ ? : : トウというのは ? 」と小泉さんが問い返す「そうですか。惜しいですな。地盤はどちらですか」 「地盤も何もないよ」 と、犬飼は再び分裂的な笑い顔になって、 ・ : もし立候補されるようでしたら、地盤をゆず 「共産党の方が、大分、おいそがしいんじゃありません「はあ。 ってくれる人物を僕は知って居りますからね。いつでも御 かーと一一 = ロった。 相談冫 こ乗りますよー それを聞くと先生は、むらむらと腹が立ってきた。 命しかし、こんな行きずりの男に向って本気で腹を立てる「いやいや、そんな野心はないよ」 革まど、小泉さんも若くはない。十何年かまえに大学の教室「しかし先生、立つなら今度ですよ。自由党が弱いですか しよせん 青で、歴史の講義をして聞かせたことは有るらしいが、所詮らなあ。チャンスですよ」と犬飼は自分の勝手なことばか は縁なき衆生である。袖すりあうも他生の縁という言葉はり言う。相手が何を考えて居ようと、彼の知ったことでは あるが、どこをどんなに擦りあっても縁のないものは縁がないらしい。迷惑なはなしだ。あげくの果てに、 ないのた。十年連れ添うた夫婦でも、縁がなければ別れて「立候補されるとすれば、やはり共産党ですか」と言っ おさ かえ
いたずら 彼の顔をうち、頬に融け流れた。彼は痛む歯をくいしばっ い悪戯もやりかねない女なのだ。隙を見せ、誘いをかけて て懸命にの・ほって行った。もうすっかり朝になっていた。 おいて、その手に乗ってきたと思うととたんにひらりと身 ひるがえ 崖をの・ほりつめると、いま歩いてきた村落が眼の下に灰を翻して、軽蔑的な笑いをうしろへ投げつける。そうい 色に・ほかされ、ゆるやかな上りの傾斜のずっとむこうにヒう事もしかねない女なのだ。それは彼女が人ずれがしてい 、ツテの急な屋根が見えて、屋根の上で赤い旗が吹雪にふるというのではなくて、そうまでして優越を感じたがる性 きまくられていた。ここは遮るものもない吹き晒しで、真質なのだと彼は思っていた。 やますそ 横に吹きつける雪に眼もあけられないようであ 0 た。恭子山裾の広大な雪の斜面のなかにただ一つぼつりと立って まんもく はつかれ切って幾度も雪の中にころがった。こうして満目 いるここのヒュッテは、一階をすっかり雪に埋めつくされ えんじ の雪のなかに来ると彼女の臙脂の帽子や空色のスウエタアて、客はみな二階のヴェランダから出入りしていた。屋根 は不思議になまめかしくて、平素の恭子とも思われないを まの上の太い煙突がもくもくと雪空に煙を吐いているので、 ( ろが どしおらしい女に見えた。殊に彼女が転るたびに起きなやこの家のなかの温かさが思われて気があせった。一行はよ たど んでいる姿はむしろ痛々しくて見ていられないようであつうやくそこまで辿りつくと、スキイをぬいでざくざくと雪 の中に突っ立て、重いリュックサックをどさりとおろし しらかば 「そうして転んでいるとまるでカチ、ーシャだよ」と根本た。一本の白樺が雪の上に枝を出しているほかは、山の下 が大きな声で言った。 までつづく電柱の列があるばかりであった。吹雪は細い一一 「これがカチューシャならネフリュードフが可哀想だ」 本の電線の下をま横に潜ってから右手のふかい谷に吹きこ 竹内はそう言いながら手を握りあって引きおこした。起んでいた。 ささや き上るとすぐに彼女は手袋の雪をはたきながら囁いた。 竹内が眼を細めてこの景色をながめていると白井浩治が 彼の肩を叩いた。 草「ネフリ、 1 ドフ、歯はなおった ? 」 青竹内長太郎はふと胸にひびくものを感じた。彼をネフリ 「歯はどうした」 慧「一ードフと特に呼んだのは、やはり恭子の気持のなかに彼竹内は恭子からアス・ヒリンを貰 0 たところを白井が見て の求愛を受けようとする気持があって、不用意にそれを口 いたのではないかと思って、ふと顔を伏せた。 にしたのではなかろうか。しかし彼は急にはそうと信じ切 ることができなかった。この女はどうかすると随分きわど
「よし、眼が見えたらもう治ったようなもんだ。軽度の脳高杉は木のべンチの上に横になった。根本は酒を一本も 貧血。仁丹をも 0 と飲め。茶屋まで帰ろう、 らって彼に飲ませた。 「根本、足をはなしてくれ。起きられねえ」と高杉が言っ 三人の先客があって弁当を食っていた。三人とも東京の こ 0 商人らしく、茶店の老女と声高に話していたが、そのうち 恭子は兄にむかって、馬鹿なことをするからだと眼を青に大島へ来たからには大島節を覚えて帰りたいもんだと言 くして怒った。それから竹内は高杉に肩をかして、歩きに い岩石のうえをよろめきながら渡って行った。根本と小 「歌いましようかね。私はうまくないんだがーと老女は言 谷野とが両側からそれを助けた。 って、気軽に歌った。ちがさき沖まで見送りましよか、そ 「高杉さんは船の中にいるときからもうおかしかったのれから先は神だのみという歌であった。枯れた沈んだ声に よ。神経衰弱なんだから。気をつけなくちゃ駄目じゃない 哀調をおびて、この土地の匂いが感じられた。 えりあ 高杉はオーヴァの襟に顎をうずめ、顔の上に帽子をのせ 白井は妹に文句を言われながら、ふと高杉は死のうとして眼をつぶったまま、べンチに寝てこの歌を聞いていた。 ていたのではないかと疑ってみた。帽子を投げたとき、そ一瞬にして、恐るべき死の誘惑からのがれた後には、なお れをまるで落ちて行く自分自身の姿のように感じて恐怖にもこの肉体に残っている生命が不思議に透きとおったもの たえられなかったのではなかろうか。彼は前から自分の死に感じられて、弱りはてた心の底からたらたらと涙が流れ の近いことを考えていたらしいから、この疑問が或いは当た。老女の歌はなおもつづいていた。もしもあの時に脳貧 ほっさ っているかもしれない。そうとすればあの帽子は高杉の命血の発作が彼を倒さなかったならば、彼は自制の力を喪失 して火口のなかによろけこんでいたかもしれなかった。い を救ったことになる。 彼等はそこから近いところにある火口茶屋へ行って休むまもなお肉体と生命とが二つにわかれていて、まだ続いて ことにした。高杉は杖をかりて自分で歩いていた。竹内が いる生命を肉体が眺めているような気がしてならなかっ 彼の腕を抱いてつき添って行った。 た。彼の頭をのせているべンチにごうごうと火山の地鳴り 火口茶屋は土間に二三脚の椅子をおいて、土産ものの木がひびいていた。 ようかん 彫人形やパイプや羊羹などをならべていた。茶店の婆さん誰かが胸のうえに組んでいる彼の手に触れた。 しおせんべい はみなに番茶を出し塩煎餠を出した。 「あら、こんな冷い手をしているわー っえ ばあ
まするには、前二回の犯罪と今回の犯罪とは、全くその性 川地は一息ついてじっと眼を閉じた。法廷はしんと静ま 質を異にし動機を異にしたものと思われますのでありまって、一一十人にあまる傍聴人も身じろぎもしなかった。川 わず す。前二回の犯罪は、ただいま官選弁護人より申述べまし地はやや蒼白く緊張した顔をして僅か三尺はなれた眼のま えりくび たように、前夫奥村慎太郎に対する反抗の意味をもったもえに坐っている酒巻美代のうなだれた襟首に眼をおとし のでありました。被告自身が私にむかって、男にすてられた。それから、決然として沈んだ声になった。 子供をかかえてまともに生きて行く気になれないという意「私は、被告に親切でありすぎたのであります。或いは被 こんこん びばう 味の述懐を述べたこともあります。私は懇々と説論を加告が美貌であり才気ゆたかに、教養もある女であったこと え、その考えの間違いを指摘して改心を求め、被告もまた によって、思わず親切を示しすぎたかも知れません。被告 かいしゅん どうせい よく理解して改悛を誓ったのであります。そこで私は多忙が以前に同棲していた奥村慎太郎は、私とは大学の同級生 な公務の中から被告の就職口までも探してやり、また経済でありました。はじめ、私は友人の罪を償 ' ってやりたいと 的な世話までも致し、むしろ官憲として誤解をうけはしな いう気持になりました。しかし、奥村が私の友人であるこ いかと思われるところまで保護を加えた次第であります。とを、今日まで被告には知らせませんでした。被告は私の 被告が二度目に警察を出されて、ジ ' ン・シルヴァ商会親切を誤解して、私が被告を愛しているのだと思 0 たかも につとめていたころは、たしかに本心から改悛してお 0 た知れません。被告は、私のいうことだけはよくきくように と私は信じております。その改悛した被告が、何故に三度なり、私の忠告に従 0 て、嫌 0 ていたっとめをもする気に 目の罪を犯したか。この辺の複雑な心理について十分なるな 0 たのであります。 御理解を願いたいと存じます。 私が被告をダンスホールに就職せしめたとき、私は自分 私は、当法廷に特別弁護人として立とうと思ったとき、 の感情を考えて多少は恋愛におちいる危険を感じました。 集あるいは官職を棄てなくてはならなくなりはしないかと、それ故に被告の就職と同時に交渉を断 0 たのであります。 考えました。現に唯甼も、これから先に申上げてしまえすると間もなく被告はホール内において窃盗事件を起しま 転ば、辞職しなくてはならないかも知れぬと思 0 ておりました。それは金がほしかったのでもなく、生活に困ったか ムちん す。しかしながら、被告酒巻美代の生涯をこの浮沈の際にらでもなく、ただ事件を起したいから起したに過ぎないの 救い上げることが出来るならば、官職を退くこともまた辞であります。被告は当時の心境を語って、私はうんと悪い しない考えをもっております」 女になってやるのだ。まともに暮らしていたら奥村慎太郎 あおじろ
上げるのであった。それが彼等を感傷に誘い落着かない不「まあ ! どうなさいました」 安な気持にさせるのである。作太郎もまた杖を止めて向い 「市平さんはおいででござんすか」と彼は気力を失った声 せ がまちりようひじ の山々を見上けた。あの山はあそこまで水びたしになる、 で言ったがそのまま激しく咳き込んで上り框に両肱を突き うずくま この山はこの辺までと眼ではかりながら、突然これらの山膝を折って土間に踞った。 なっか 山に言い知れぬ懐しさを覚えて来るのであった。七十年に老妻はあわただしくランプを置くと良人を呼びながら彼 ゆかたすそ 達する彼の生涯の一日としてこの山々を眺めない日はなか の肩を抱いて助け起すのであった。浴衣の裾をからげるよ った。明治維新の騒動もこの山の中で聞いた。幅三尺の危うにして市平と息子の市之助とが奥から走って来た。 うい崖の上の小路を普門寺で開かれる寺子屋まで毎日かよ かかえるようにして牀の上に横たえられた作太郎はやが しず そうしつ って行った。あの頃から少しも変らない山の姿である。よてひとしきり発作が鎮まると、老年と病弱とに気力を喪失 くも続いて来た自分の命でありよくも変らないで来た山々した眼を上げて市平の顔をながめ、限りなくさびしげな調 つぶや である。この山がこのままである限り自分の生涯も平和で子で呟くのであった。 ちょっと あるように思っていた。その山がもう無くなる、湖底の凹「市平さん、わしはただ心配で心配で、あんたに一寸だけ ひのきは 凸に過ぎなくなる、そして檜の生えた小さな島が湖上に浮会って見たかったんじゃ。あんたはしつかりしてくれにや ぶというのだ。そうなった風景を想像して見ると作太郎はいけん、みんな、頼りにしとるのはあんただけじゃ がんじよう 自分も死ぬ時期が来たのだと思わないではいられないので市平は七十になるとも思われない頑丈な体を前こごみに わがままえいじ あった。 して作太郎の顔をのそきこみながら、我儘な嬰児をいたわ 村長の家には村でただ一つの木造洋館がついていて、青るようにただうむうむとうなずいていた。 ペンキ塗の六畳一室、それが彼の応接間兼書斎であった。 作太郎は四五丁の道に息を切らして杖にすがりながら真暗 な玄関に立った。すると奥の方から明りが射して来て村長本 寸長の話によれば、六月末に上京して水道拡張課長大野 えんてい の老妻が台ランプを持って出迎えたが、あッとはげしく息基寿に会ったときに彼は、堰堤を水根沢にすることは真実 を呑んで立ちすくみ、ランプを高々とかかげた下から恐怖である、内務省の命令だから致し方ないと言ったそうであ みす つごう の眼をじっと見据えた。幽霊を見たような気がしたのである。また、最近に工事認可が下りる都合になっているから いっさし 年内に一切の結着はつけられる予定だと言ったそうであ とっ こみら おう ひざ おっと