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検索対象: 現代日本の文学 30 獅子文六集
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1. 現代日本の文学 30 獅子文六集

近いお齢であるし、それに、そう申しては失礼だけれど、 お引受け致しますわ」 あまり特色のないお方なので、教員室でもご交際は薄かっ あたしは、階段ぐらい、幾つあったって、辟易しないか しとね なら たが、今度は、同じ舎監室で、机も褥も、共に列べることら、キツ・ ( リと、そう答えた。 になったのである。 「そうですか。それで、助かりましたよ。でも、あんまり んそく 「あたしは、喘息が持病でしてね」 安心なさらんで下さいよ」 おっしゃ と、あたしが入舎した晩に、吉岡先生が仰有った。 と、吉岡先生は、奥歯に物が挿まったようなことをい 「この、喘息というものは、運動が何より禁物なんですう。 よ。そこへ行くと、あなたは、まだお若いし、担任は体操「おや、一一階を受持っと、なにか油断できないことでもあ でいらっしやるし : : : 」 るんですか」 あいさっ と、吉岡先生は、最初の挨拶に、喘息の話ばかりなさ「いし 、え、そんなことはありませんが、この前の舎監の渡 る。あたしは、妙な癖の人があったものだと思っている辺先生も、一一階の係りをなさって、三月でお逃げ出しにな と、やがて、 りましたからね」 「ですから、なるべく、階段の昇り降りをしたくないんで どうも、話がヘンだ。渡辺先生は、裁縫が担任で、とて すがね。小宮山先生、あなたに、一一階を受持って頂きたいも気の弱い、温和しいだったが、それにしても ひそ んですよ」 あたしは、声を潜めて、訊いた。 「二階と仰有いますと ? 」 「すると : : : オ・ハケでも出るんでしようか」 「この寄宿舎の習慣で、舎監の受持ちを、そういう風に分「フヘッ、へへツ、ヘッへ」 くず けているんです。二階の寮生の方が、十人も多いから、骨吉岡先生は、奇妙な声を立てて、笑い崩れた。その後 は折れますが、その代り、階下受持ちの舎監は、炊事や衛で、ゴホンゴホンと、をなさ 0 た。喘息持ちは、まんざ うそ 生の監督の責任がありましてね。まア五分五分みたいなもら嘘でもないらしいが、どうも気味のよくない笑い方であ んですけれど、なにしろ、あたしは喘息持ちだもんですかる。 と、話は、また喘息に戻る。 やす 「ええ、お易い御用ですわ。一一階でも、三階でも、平気で「先生、お早うございます」 おとな はさ へきえき

2. 現代日本の文学 30 獅子文六集

165 海軍 人のことを、想い続けた。 儀さんは、胡散臭そうに、隆夫を眺めていたが、同僚の添 「終点でございます、どうそ・ : : こ 書を読むと、気軽な声で、 あわ 車掌に注意されて、彼は、慌てて、・ハスを降りた。 「どうぞ、お上りになって : : : 。夏場の外は、まア休みで ガランとして、人気のない、海水浴休憩所の前だった。すから、お構いはできませんよ」 よしず からかみ ″海の家と書いた白布が、半分破れて、葭簾の囲いに、 と、二階へ案内してくれた。二階の部屋は、唐紙が取り プラ圷 0 ていた。海は、すぐ正面に、青紙を 0 たよう払 0 てあ 0 て、空家のようだ 0 た。 に、凪いでいた。 「夏に、東京の小学校の生徒さんに、貸切ったままで、跡 静かというより、間の抜けた感じの海岸だった。浜沿い片づけもしてないんですよ。どれでも、好きな部屋を使っ の街道にも職んど、人が歩いていなかった。隆夫は、途方て下さい。じきにお午の支度をしますよ」 しばら たたず お内儀さんは、一人で、べらべら喋って、下へ降りてい に暮れたように、暫く、海を眺めて、佇んでいた。 っこ 0 「久里浜館という旅館は、どこですか」 あかちゃ ようや 彼は、漸く、浜に遊んでる子供を見出して、訊いた。 隆夫は、疲れ果てた旅人のように、赧茶けた畳の上へ、 「あすこじゃねえか」 ゴロリと横になった。窓からは、海が見えずに、同じ色の さるまた 夏が去っても、猿又一つの子供は、わかり切ったことを広い空だけが展がっていた。 ゅび 訊くなという調子だった。指さした方角に、縦通りがあっ 四 こ 0 ら・、 - く もう、静養の希望を、失ったかのように、彼は、元気の落樊たる隆夫の心を置くのに、荒れ古びた久里浜館の二 ない足取りで、その町へ入った。角から三軒目に、久里浜階は、って、好適だ 0 たかも知れなか 0 た。 館の看板が眼についた。二階建ではあるが、粗末な、荒れ彼は、赧茶けて、波を打ってる畳の上に、終日、臥転ん 果てた家だった。旅館というよりも、大きな一飯屋のよでいた。開け放った窓から見える秋の空が、紺青から浅黄 ていさい うな、体裁だった。 に変り、に燃え立ってきた。すると、電燈が点い あっけ 「ご免なさい : : : 」 て、呆気なく、日が暮れてしまった。 と、声をかけても、台所から、お内儀さんが姿を出すに客がないので、風呂は立てないが、近くに銭湯があると おっくう は、よほど時間が掛った。漁夫の妻のような風をしたお内いう話だったが、彼は億劫で、その気になれなかった。 ま うさんくさ しゃべ せんとう ねころ

3. 現代日本の文学 30 獅子文六集

かばん 「はア、それでしたら、お桂さんの家を、訪ねてみます」間がないから、構内タクシーを、雇ってあげるわ。鞄もあ ・ : それから、明日の朝 るし、自動車の方がいいわよ。 「誰 ? お桂さんて」 「父の徳妹です。芝区新橋二丁目十八番地というところには、十時キッカリに、新橋駅の表ロで、待ってて頂戴。 いえ、大丈夫よ。すぐ、わかるわよ」 住んでおられます」 かんじよう と、急に、ソワソワして、勘定を命じた。 あたしは、時々父の代筆をして、お桂さんに手紙を書く あんしよう ので、番地を暗誦している。父も、東京へ落着いたら、一 みやげかきようかんことづ 度訪問しろといって、土産の柿羊羮を言伝かっている。お 桂さんは、子供の時から、東京へ出ていて、今では、なか「二丁目十八番地なら、この辺ですね」 ひょうさっ ゆる なか成功者なのだそうだ。、なんで成功しているのだ 運転手は、車の速力を緩めて、町角の標札を、覗き込ん か、あたしはよく知らない。 からすもり 「新橋二丁目ですか「烏森ですね。あの辺なら、とても便「なんていう家です ? 」 はっとりけいこ 利だ。その上、惻るなところでね」 「服部桂子」 と、吉田氏が、ニャニヤ笑ったら、 やがて、車が駐まって、運転手は面倒臭そうに、ドアを 「あなた、そんな場所を、どうして知ってらっしやるの」開けて、煙草屋さんの店へ、入って行った。 と、秀子さんが眉を逆立てた。これは醜態である。いや「わからんそうです。ともかく、ここが、十八番地ですか しくも帝都の女性たるものは、もっと自制心がなければい けない。 戻ってきた運転手は、そういって、あたしの鞄を、地面 「おや、もう十時過ぎた。君、早くしないと、正午までにヘ降し始めた。 逗子へ行かれんよ」 田舎の運転手なら、家の中まで荷物を運んでくれて、お かわ 子 ひるね 吉田氏は、身を躱すのに、慣れてるらしい。秀子さんは茶を飲んで、世間話をして、それから、縁側で昼睡をして ゆくが、東京は、万事、いやに気の短いところだ。 信すぐ釣り込まれて、 「あら、ほんと : : : 。信子さん、実は、今日は日曜なの さて、あたしが、鞄と共に取り残された往来は、自動車 で、あたし達、逗子の友達の家へ、遊びに行く約束があるがやっと通ったほど、狭くて、同じような建築の、小綺麗 なら の。あんたを新橋まで送ってってあげたいけれど、もう時な二階家が、ギッシリ列んでいた。どの家の二階の雨戸も おろ こぎれい

4. 現代日本の文学 30 獅子文六集

康地であるから、伝染病は少いので、その病院は一向繁昌 たんま ″宇垣さん″は、突然、意外なことをいい出した。 しなかった。田圃の中に、寂しそうにポツンと建っている のを、あたしは、女学校へ自転車で通う途中に、毎日眺め さぞ 「ただ、相当、骨の折れる役目でね。どの先生もお逃げにた。あんな殺風景な家屋に住んだら、嘸やりきれないだろ なるのです。最近も、一人おやめになりました」 うと、思っていた。 けんか しいえ、あたくしは、逃げません。寄宿舎に、夫婦喧嘩盟らずも、あたしは、校長先生のお世話で、その避病院 はございませんでしよう ? 」 ではない、寄宿舎へ起臥する身となった。でも、ちっ 「なんですって ? : ともかく、ご希望があれば、明日 とも、やりきれないなぞとは、思わないのである。畳は からでも、お願いしたいですね。食費室料は、勿論、りり切れてるし、壁に雨浸みの痕があるけれど、秀子さんの ません。その代り、舎監手当は、毎月三円しか差上げられ家の四畳半より、どれだけ住心地がいいかわからない。 ません。よろしいですか」 「相当、骨の折れる役目でね。どの先生も、お逃けになる よろしいにもなんにも、あたしは、 " 宇垣さん。の首ツのです」 うれ 玉に、齧りつきたいほど嬉しかった。 と″宇垣さん″は仰有ったけれど、骨が折れたり、肉が 痺れたりしたことは、まだ一度もない。舎監なんて、たい のんき もったい へん呑気な役目だ。これで手当を三円頂いては、勿体ない くらいである。″宇垣さん 4 は、きっと、あたしに油断さ おど せまいと思って、お嚇しなさったに違いない。廊下に沿っ て、八畳の間が、二階に七つ、階下に五つある。一間に三 人の寄宿生を収容している。しかし、階下は、舎監室と むか 子 寄宿舎は、運動場を挾んで、校舎と対い合っていた。 事務室に、二間使っているし、休校中の生徒もいるので、 信対い合 0 てはいるけれど、まるで、双葉山と小学校の楓寄宿生の数は、全体で、一一十八人しかいない。階下に九 撲選手が、土俵へ上ったようなもの一である。こんな貧弱な人、二階に十九人いるのである。 寄宿舎は、減多に見られない。宝珠村に近い、 z 市の避病寮生の数が少いから、舎監も、僅か二人である。地理の 院に、よく似ている。あたしの生まれた地方は、非常な健吉岡フサ先生と、あたしだけだ。吉岡先生は、もう五十に か」 はさ もちろん しび おっしゃ おきふし なが

5. 現代日本の文学 30 獅子文六集

てるくに 錦江湾の水も、もはや「飽くまでも青い」わけにはい 中、照国神社、南冊神社、東郷墓地 : むたぐちたかお かなく、重油や汚がよどんでいる。不変なのは、お 主人公・谷真人は、親友の牟田口隆夫と、しばしば ミ ~ らじま そらく対岸の桜島だけであろう。 海辺で遊んでいる。 しもあらた 「二人は、雨が降らないかぎり、浜へ出て遊んだ。天私たちは、谷真人の生家がある下荒田町をも歩い ちんじゅ 保山海岸、与次郎ケ浜 , 、・ー一、一一町歩けば、を含し、そこの鎮守である荒田八幡宮にも詣「た。しかし、 きんこうわん そこからはもはや、谷真人にまつわる雰囲気は、どこ んだ白砂と、老松と、飽くまでも青い錦江湾の海と、 にも感しられはしなかった。 そして、悠久の煙を吐く桜島が、二人の目の前に展け た。その頃は、まだ天保山温泉も発掘されす、観光道私は、自分の少年時代に読んだ主人公の故郷が、い なりら 路というものも築かれす、島津斉彬の水軍が栄えた時まはすっかりかたちを変え、それとともに主人公自身 代と、少しも変っていなかった。砂浜はどこまでも広をも遠い忘却の底に埋めてしまった二十数年間の日本 あゼん 子供達がいくら転がっても、転がりきれなかった。の変転に、むしろ唖然とする思いであった。 ぶぜ 私はかなり憮然たる面持ちで、谷真人が通った県立 緲と浜タ顔の花が咲き、石を投げ、松の枝を折「 ても、誰も苦情をいう者がなかった。子供達の手は、二中へと車を走らせた。谷真人 ( 実在の人物としては こよなく美しい自然だけだった。天下の美景といえる、横山正治少佐 ) の母校は、いまは甲南高等学校と名を かえている。しかし、車が、この聞き馴れぬ校名を掲 薩摩潟の自然だけだった」 作者はそう叙景しているが、この小説の生れた時かげた校舎の前まで来たとき、私にはここだ、という直 ら三十年近く経ったいま、風景はほとんど変わりはて感があった。 その 「上ノ園町にある二中の校舎は、新築したばかりで、 てしまった。白砂と青松はかろうして面影を残しては いるものの、広いはすの砂浜は埋めたてられ、無愛想な近代風様式の堂々たる三階建てだった。鹿児島という ・わむ ところは、学校や役所の建築に、妙に、金をかけるの 護岸工事がすすめられている。谷真人が転がりれた である」 であろう場所は、にわか作りの野球場になっており、 と作者の記している、その三階建て校舎が、戦災を そのすぐ傍らにある砲台あとも、落莫のかげをとどめ 免れ、そのまま建っていたのである。中央玄関の前に るだけになっている。浜木綿も浜タ顔も、いまはない。 と、フ ~ ) う 0 ひら

6. 現代日本の文学 30 獅子文六集

二時に、特別攻撃隊の偉勲は、大本営発表になっていて、秘していたんだ」 報道部の部屋に帰った時、飛田中佐が、シミジミとした 三時からは、海軍省発表の分なのだった。 時計が、三時を指すと、機械のように正確に、大佐の肥声でいった。 のど ったや、参謀章をつけた飛田中佐以下の姿が、記者室に隆夫は、眼よりも、喉の中から、涙が籠み上げてくるよ うな気持で、一言もいえなかった。 現われた。 くさむら 「谷は、立派な軍人だったな : : : 立派な死にかたをし 叢に風の渡るような、動揺が聴えた。 「昭和十七年三月六日午後三時、海軍省発表 : : : 」 うつむ 突然、飛田中佐の静かな声が乱れて、首が下を俯いた。 重みと渋みのある大佐の声が、廊下まで響いてきた。 特別攻撃隊に対し、連合艦隊司令長官から下された、感堪らなくなった隆夫は、声を揚げて泣き出した。子供の ようこ、 冫いつまでも、咽び声が止まらなかった。 状の全文が読み上げられた。 「どうしたんだ、君 ? 」 ( 実際、感状ものだ。こんな、壮烈な武勲はない そば しよくたく うなず 同僚の e 嘱託が、隆夫の側へ飛んできた。飛田中佐は目 隆夫は、心の中で、頷いた。 やがて、大佐は、声を更めて、次の文章を読み上げた。顔で、合図をした。は、隆夫を懐きえるようにして、 「 : : : 特別攻撃隊員中の戦死者に対し、昭和十六年十二月彼の狭い仕事室へ連れて行った。 「そうか : : : 君は、谷少佐の親友だったのか」 八日付特に左の通り、二階級を進級せしめられたり」 他の嘱託も、続いて隆夫の部屋に見舞いにきたが、彼 ( え、一一階級進級 ? ) テープル ざら かす 隆夫の驚きと共に、記者達の嘆声も、幽かに聴えた。進は、絵具皿の散らばった卓の上に、突伏したまま、背に波 級制度が改正されて、初の二段跳びだったからである。隆打たしていた。 おとな 真人の死が、ただ悲しいのではなかった。あの温和しい 夫は、大きな喜びをもって、それを頷いた。 ゅあさなおし 真人が、火のような激しい武勲を建てた感動と、真人がそ 「任海軍中佐湯浅尚士・ : ・ : 任海軍少佐谷真人 : : : 」 れほどの男とも知らず、狎れ親しんでいたことの悔いと、 海隆夫は、として、わが耳を疑 0 た。 また、それほどの男を親友にもった喜びとーー万感が胸の 八 中に激して、彼を泣かしめるのだった。 あまり、彼の泣き方が烈しいので、同室の一一人の嘱託 「君に知らせると、画が描けなくなると思って、わざと、 た

7. 現代日本の文学 30 獅子文六集

ないと、気がついた。こんな話は一母からでも、手紙でい って貰うのだったと、彼は、頭をきたいような、恐縮を 感じた。 やがて、真人の下宿の前まできた。二階の真人の居間 呉へ着いたのは、早朝だったが、隆夫は、却ってそれをは、まだ、雨戸が閉っていた。 都合がいし 、と、思った。真人の出勤前に会って、滞在中の ( 眠ているらしい。起すのは、気の毒だな ) 打合せができるからだった。妹の縁談申込みという大役が しかし、近所を一廻りしてくるほど、遠慮のある仲でも あるのは、無論だが、それ以外にも、往途に真人が約束しなかった。 かぎ てくれた軍港見学のことが、心に残っていた。隆夫は、な彼は、玄関の格子戸に手をかけたが、内から鍵がかかっ のぞ るべく、真人の軍務の邪魔をしないで、それらの念願を果ていた。裏口へ廻って、台所を覗くと、起きたばかりらし したかった。 い女主人が、ビックリした顔で、隆夫を眺めた。 ( 寝込みを襲うことになるが、真人なら、宥してくれるだ「谷君は、まだ、起きんですか」 ろう ) 「ほう、此間のお友達さん : : : こんなに、早うから、よう 隆夫は、心覚えの・ハスに乗った。初夏の早い日の出もまこそ : : : 」 げた だだった。呉名物の工員の下駄音も、まだ路上に響かなか女主人は髪や衣服の乱れを直しながら、丁寧に挨拶をし っこ 0 こ 0 山手の或る停留場で降りると、隆夫は朝霧の立ってる河「東京へ戻りに、またお邪魔しました。汽車の都合で、大 に沿って、歩き出した。彼の心が、踊ってきた。それは、変、早う着きまして : ・ : こ 真人に会う喜びでもあり、また恥かしさでもあった。 隆夫は、台所からでも、二階へ上らして貰おうかと思っ 言冫ししが、縁談は、どう切り出したものかなア。 ( 外の話ま、 て、土間へ入った。 海妹を貰 0 てくれーーーなんていえば、真人はき 0 と顔をく「まア、どうしまほ , ーー谷さんは、もう、ここ〈はおられ するだろう。おれだって、そうだ。妹が君を好いちよるんのですが : : : 」 そんなことは、とてもいえん ) 女主人は、気の毒そうにいった。 やすやす 「は ? 」 易々と、引き受けたものの、隆夫は、その役目が大抵で そんなことを、考え続けていたので、門司に着くまで、 隆夫は、なんの退屈も知らなかった。 たいくっ ゆる かえ この なが あいさっ

8. 現代日本の文学 30 獅子文六集

雪のように校庭を照らしている。お蔭で、校庭に細川がい 夢中で、あたしは、廊下を駆けだした。突ぎあたりの理 ないことが、一目でわかった。 化学教室の、廊下に面した窓が、閉め忘れてある。そこか あたしは、ドアを開けて、校舎の中に踏み込んだ。とたら、瓦期が流れてくるのだ。 んに、眼隠しをされたような闇になった。プーンと、埃の鼻を抑え、ロを塞いで、あたしは、教室へ跳び込んだ。 匂いが、鼻を打った。古びた廊下の板が、ギシギシ鳴っ なによりも先きに、実験台の瓦期の栓をとめ、外窓を開け た。昼間は、それ程とは思わないのに、夜の校舎は、百年放して、教壇の下を見ると、思わず、声を揚げたーー月光 からだ も人の棲まない廃屋のようだ。とても、もの凄い。どこの縞を浴びて、白いパジャマを着た軅が、長く、横たわっ に、泥棒が隠れてるかも知れないし、ことによったら、オてる。 ・ハケだって 階下の教室を、事務室まで、あたしは、懐中電燈を照ら 十六 して、残らず見て回った。どこにも、細川の影を、探し出 せなかった。仕方がなしに、二階へ昇った。 二階は、月明りが射し込んで、いくらか、気丈夫だっ のぞ た。だが、教室の机の下まで覗いても、細川の姿が、見当 とうとう らないのである。あたしは、到頭、最後の教室まできてし ああ、驚いた。心配した。草臥れた まった。そこも、徒労に了って、廊下へ出ると、あたし グッタリと手足を伸ばした細川頴子の体を、自動車に乗 は、幽かに流れてくる、異様な臭気を嗅いだ。 せて、校門を出る時には、あたし自身が、生きた気持はな ( なんの、臭いだろう ) かった。それでも、四谷の大病院では、吉岡先生が電話 たちどま あたしは、佇立って、鼻を蠢かした。 で予報してくれたので、深夜に拘ず、すぐ手当を始める ( おや、兀期の臭いだ。どうして、こんなところに、瓦撕準備ができていた。 が洩れて : : : ) あたしは、護婦さんのお手伝いをして、酸素吸入をか A 一つま・ 小らしでい あたしは、小首を傾けたが、咄嗟に、これから見に行こけたり、心臓部や足に芥子泥を賰ったり、立ち通しで働い うとする、理化学教室のことを思い浮かべた。あの教室に は、実験用の火力に使うために、瓦期を引いてある。 暁の三時頃になって、細川の脈も呼吸も、次第に、持ち にお にお はいおく うごめ ほ - 一り こ 0 おさ ふさ くたび せん

9. 現代日本の文学 30 獅子文六集

寮の この複雑怪奇な大都女学校へ、飛び込んだのが、間違いの「駄目ですわ、そんな姑息手段をとったって : さっき なま 、と 源だったのだ。憖じ、東京へなんか出て来ないで、宝珠村寮生達が、先刻、廊下で泣いてましたわよ」 きようべん あたしは、この際に及んでも、策略で切り抜けようとす の小学校で教鞭をとっていた方が、お国のためにも、自分 しやくさわ る校主派の態度が、とてもに障った。 のためにも、本分を尽せたかも知れない。そう思ったら、 「なんにしても、困るのは、あたしですよ。あんたに去か あたしは、急に郷里へ帰りたくなった。父母も待ってるだ ろう。仏手柑も色づいてるだろう。事情が事情だから、信れると、あの厄介な二階の寮生も、あたしの受持ちになる んそく し、寒さに向えば、喘息も起ってくるし : ・ : こ 念の信の字に、申訳が立たないこともない。 喘息まで、あたしの責任にされては、やりきれない。誰 ( ただ、チビ君のことだけが、心残りだけれど : : : ) あたしは、それを考えると、トランクへ書物を詰める手も、彼も、勝手なことばかりいってる。校主や " ニャリス おうちゃく も、自然に、鈍るのだった。 の横着は、いうまでもないが、同志会の父兄だって、 「まア、小宮山さん、一体、どうしたっていうの : : : 」 学校の経済状態にはンツポを向いて、反対運動の気勢ばか と、吉岡先生が、舎監室へ入ってきた。協議会が、やっ り揚げているのは、自分勝手だ。細川源十郎に至っては、 と済んだのであろうか。 一切を解決する権力もカも握 0 ていながら、正義を擁護 「辞職したから、郷里へ帰る気です」 しないで、自分の娘の告口に左右されてる。みんな、自己 「まア、気の早い この際、辞職なんかしちゃ、損での利害ばかり考えてる連中だ。気の毒なのは、″宇垣さん″ そろ すよ。校長先生がお辞めになるといわれたので、あれかと生徒だけだ。東京には、こんな人種ばかり揃ってるとす ら、協議会も、スラスラ連んで、どうやら、円満に解決しると、あたしは、やはり、九州に帰った方がいい そうなのよ」 「あら、小宮山さん、点検の時間よ」 「勝手にスラスラ、解決するがいいですわ。あたしの関係ふと、あたしは、吉岡先生の声に、もの想いから醒め 子 したことじゃありません」 た。なるほど、八時半である。まだ、寮の屋根の下にいる 信「そんな、無茶をいわないで : 。協議会が解散した後間は、あたしも、舎監の義務がある。 で、校主さんを中心に、教職員が相談したのよ。とにか あたしは、荷作りをめて、二階へ昇って行った。いっ く、上級生の奮をめるために、週末から、一週間の修もの通り、星寮の廊下に、十九人の寮生が、ズラリと列ん で、待っていた。あたしの役目は、寮生の数を調べて、 学旅行をさせてね、その間に : 0 ー一 1

10. 現代日本の文学 30 獅子文六集

て歩いた。いい 忘れたが、二階の七室を、星寮といい、階白い顔は、一層大人びて見えて、真ッ直ぐに通った鼻筋、 ひとみ 下の五室を花寮というのである。なるほど、星だから上に引き緊った唇、さては射るような鋭い瞳まで、いよいよ小 りくっ あり、花だから下にある。いかにも理窟ッぽいところが、憎らしい印象を与える。彼女は、まだ三年なのに、同室の ぎゅうじ たから あき ( 宇垣さん。の命名たる証拠だ。しかし、寄宿生達には宝上級生をスッカリ牛耳 0 ているばかりか、星寮全体でも、 塚ファンが多いから、勝手に、星組だの花組だのと、自称指折りの勢力家だと聞いて、あたしは驚いたり、呆れたり していたところなのである。 しているのである。 だが、彼女の今の返事は、聞き捨てにならない。 第一室、第二室、第三室 : : : どれも別に異状はなかっ かみくず 「したくない 、とは何事です ? 」 た。尤もあたしは、紙屑が一つ落ちてるぐらいは、大目に 「でも、したくなければ、仕方がありません」 見ることにしている。 だが、第四室を覗き込んだ時には、アッと驚いた。三人と、どこに風が吹くかというように、彼女は答えた。 かんよう これが、細川の慣用手段だ。チン。ヒラの癖にしとって、 の若い女が、終夜吐き散らした寝息が、まだ生温かく残っ ていて、掃除はおろか、窓を開けた形跡もない。しかも、教師を焦らせたり怒らせたりして、意地悪く見物しようと りようけん いう量見らしい。先学期は、あたしもこの手にかかって、 中央には、乱暴に撰ねのけた夜具が赤い裏を見せたまま、 カッと逆上して、ロが利けなくなったが、今日は、こっち 敷き放しになってる。 ちんゅう も用心している。由来、九州女子は、イザとなれば、沈勇 「誰ですか、これはー」 を発揮するのだ。 こんな不行儀を見ては、あたしも、黙っていられない。 「そうですか。では、あたしも仕方がないから、あなたか 第四室の三人は、顔を見合わせていたが、 「あたくしです」 ら正当な理由を聞くまで、ここで待っことにしましよう」 ぎわ と、一人が、勇敢に、名乗りを上げた。それは細川頴子そういって、あたしは、廊下の窓際に出ていた椅子に、 子 である。 腰をおろした。 生徒達は、黙ってる。あたしも、黙っている。時間は、 信「な・せ、時間までに、お掃除をしなかったのですか」 「したくなかったからです」 遠慮なく過ぎてゆく。あたしは椅子にかけて、長期戦の態 平然として、彼女は答えた。 勢を整えてるが、彼女達は廊下に直立してるのだから、そ きさらぎ 細川頴子は明けて十七になった。その所か、彼女の蒼の点は不利だ。春まだ浅き如月の、午前七時前の寒気は、 もっと なまあたた えいこ あお しろ