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検索対象: 現代日本の文学 30 獅子文六集
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1. 現代日本の文学 30 獅子文六集

ないと、気がついた。こんな話は一母からでも、手紙でい って貰うのだったと、彼は、頭をきたいような、恐縮を 感じた。 やがて、真人の下宿の前まできた。二階の真人の居間 呉へ着いたのは、早朝だったが、隆夫は、却ってそれをは、まだ、雨戸が閉っていた。 都合がいし 、と、思った。真人の出勤前に会って、滞在中の ( 眠ているらしい。起すのは、気の毒だな ) 打合せができるからだった。妹の縁談申込みという大役が しかし、近所を一廻りしてくるほど、遠慮のある仲でも あるのは、無論だが、それ以外にも、往途に真人が約束しなかった。 かぎ てくれた軍港見学のことが、心に残っていた。隆夫は、な彼は、玄関の格子戸に手をかけたが、内から鍵がかかっ のぞ るべく、真人の軍務の邪魔をしないで、それらの念願を果ていた。裏口へ廻って、台所を覗くと、起きたばかりらし したかった。 い女主人が、ビックリした顔で、隆夫を眺めた。 ( 寝込みを襲うことになるが、真人なら、宥してくれるだ「谷君は、まだ、起きんですか」 ろう ) 「ほう、此間のお友達さん : : : こんなに、早うから、よう 隆夫は、心覚えの・ハスに乗った。初夏の早い日の出もまこそ : : : 」 げた だだった。呉名物の工員の下駄音も、まだ路上に響かなか女主人は髪や衣服の乱れを直しながら、丁寧に挨拶をし っこ 0 こ 0 山手の或る停留場で降りると、隆夫は朝霧の立ってる河「東京へ戻りに、またお邪魔しました。汽車の都合で、大 に沿って、歩き出した。彼の心が、踊ってきた。それは、変、早う着きまして : ・ : こ 真人に会う喜びでもあり、また恥かしさでもあった。 隆夫は、台所からでも、二階へ上らして貰おうかと思っ 言冫ししが、縁談は、どう切り出したものかなア。 ( 外の話ま、 て、土間へ入った。 海妹を貰 0 てくれーーーなんていえば、真人はき 0 と顔をく「まア、どうしまほ , ーー谷さんは、もう、ここ〈はおられ するだろう。おれだって、そうだ。妹が君を好いちよるんのですが : : : 」 そんなことは、とてもいえん ) 女主人は、気の毒そうにいった。 やすやす 「は ? 」 易々と、引き受けたものの、隆夫は、その役目が大抵で そんなことを、考え続けていたので、門司に着くまで、 隆夫は、なんの退屈も知らなかった。 たいくっ ゆる かえ この なが あいさっ

2. 現代日本の文学 30 獅子文六集

170 彼は、昨夜、妹にどういう手紙を書こうとしたかを、憶山浜で遊んでいた頃の自分に、立ち帰ればいいのだ もろて かっ娶ん い出さずにいられなかった。あれほど嫌わしくなった画の道が、豁然と開けた想いで、彼は、双手を天に差し上げ かっ 仕事が、たった三十分で、こんなにしくーー曽て知らなたかった。もう、こうなれば、 = ダに手紙を書く必要もな 、と思った。 いほど烈しく、執着を喚び起したことを、驚かないでいらし ( いや、やはり、書こう。ほんとに腰の据わったこの喜び れなかった。 を、妹を通じて、両親に知らさなければ : : : ) ( 待てよ : : : おれは、画を捨てる必要は、ないではない か、描きたいものが、できたではないか。描かずにいられ 九 ない美を、見たではないか ) とびら ゆくて ふさ 彼の行途を塞いでいた鉄の扉が、急に、開かれたような「おや、もう、帰ってきたのかね」 気持がした。 巴里堂の宣伝部長は、一週間の休暇をとりながら、三日 軍艦を描けばいし 目に出勤した隆夫を見て、驚いた顔をした。 ( おれは、海を描けばいい。 なが 一つの林檎を、いくら眺めても、美を感じなくなった画 「ええ。病気が、りましたから = 、 : = 」 家は、ほんとの画家ではないかも知れない。しかし、それ隆夫は本気で、そう答えたが、は、人を・ ( 力にする がなんだというのだ。軍艦ばかり描いてる画家は、幼稚低なというような、表情だった。 級で、子供の芸術家かも知れない。しかし、それで、 「君、僕が紹介した旅館が、気に入らなくて、こんなに、 あた 結構ではないか。画家の名に値いしなくても、芸術家の仲早く帰ってきたんだろう」 間入りができなくても、自分で美しいと感じるものを描く 添書を書いてくれた同僚も、そんな風に、気を回した。 のが、天に恥じない仕事ではないか 「いいや、そんなことはないです。旅館も、親切でした 。画家でなくて ( そうだ。画壇なんかは、どうでもいい が、久里浜という土地が、気に入ってね。あんた、いいと も、画を描いてればいいのだ ) ころを、教えてくれましたね」 なま 憖じ、画で身を立てようと思ったのが、間違いの因だっ隆夫は、本気で、礼をいった。 「じやア、もっと、長くいればいいのに。せつかく休暇を たのだ。いや、画家になって、世間を見返してやろうとい そむ う気持が、不純だったのだ。 " 海軍″に背くために、画道貰いながら、延ばすテはあっても、自分で繰上げる奴はな に入った動機が、不自然だったのだ。自分は、再び、天保いよ」 りんご

3. 現代日本の文学 30 獅子文六集

154 躁を、早くれたいと思うだけだった。 「やつばり、勤務しながら、画をやってるということが、 むたぐちたかお 過労になるかも知れないね」 その青年が、牟田口隆夫だった。霧島山の温泉から、突 いささ 些か、慰めるように、鶴原がいった。青年は、鶴原など然、姿を消してしまった隆夫だった。 あまがわ と違って働きながら、画道にいそしんでいるのである。銀天ノ川の ( ッキリ見える、暗い裏通りを、彼は、首を垂 けしよう 座のある化粧品会社の宣伝部が、彼の勤め先きだった。 れて、ひとり歩いていた。 「そうかも知れません」 ( 早く、アパート へ帰ったって、仕様がない : 三畳敷の彼の部屋に待ってるものは、どれもこれも半出 彼は、乾いた声で、答えた。 会話がまなくな 0 てきたので、鶴原は、煙草をポケッ来の、画布や板ばかりではなか 0 た。汚れたシャツや、靴 した トへ入れると、 下や、テレビン油なその臭気ばかりではなかった。一歩部 屋に入れば、無数の毒虫のように、彼に襲いかかってくる 「君、もっと、食うかね」 はんもんしようそう 「いえ、もう結構です」 煩悶と焦躁が、待構えているのである 「じやア、ポッポッ出掛けようか」 駅からアパートまで、八町あった。その距離を、彼は、 かんじよう うかい と、立上って、勘定を命じた。 わざわざ迂回して、寂しい道を選びながらできるだけ、ゆ 「ご馳走でした」 つくり歩いこ。 青年は、店を出ると、礼をいった。 ( ああ、おれは、どうすればいいのだ : うめ 「いや : : : じやア、ここで、失敬しよう。また、遊びにき もう、半年以上も、彼は、そんなことを、呻き続けてい 給え。それから、神経衰弱の療治がてら、休暇を貰って、 た。日夜となく、彼の意識のうちに、解決を待つものが、 山か海へ描きにいったら、どうだね」 犇いていた。彼の顔が、齢よりズッとけてきたのは、東 鶴原は、そういい捨てると、サッサと、駅の方へ歩き出京の生活苦もあったが、それよりも、この煩悶の影響が、 した。彼は、駅の南側の住宅地に、小さなアトリエをもつ大きかった。 ているが、青年の方は、反対の方角の沼袋の、貧しいアパ ( あんなに、おれは烈しい志をもって、東京へ出てきたの ートに住んでいた。 おうだに そうだったのだ。彼が、霧島の黄谷温泉で、上京の荷 たばこ くっ

4. 現代日本の文学 30 獅子文六集

と、ララ子が寄ってくると、 なんですよ。有閑夫人征伐を行ったんですよ。僕は東亜爆 「イヤ、もっと高価なものを持ってきて下さい。ジャンジ裂連盟に属してるんですからね」 うな ャン持ってきて下さい。この辺でナニカ唸って困るんです「わかったわ。千智子未亡人事件のことね。貴方も見掛け よ」 によらない憂国の士だわネ」 にわ と、胸のポケットをポンと叩いこ。 と、俄かにタ / モシクなって、ララ子が″にんじん“に 「まア、大変な景気ね工。ョクョク今年は″にんじん″の寄り添おうとすると、 当り年だとみえるわ」 「まア、お久し振りですわネ」 「僕の関係した事業も愈い成功しました。その代り、随分何思いけんおスミちゃんが、カウンターから出てきまし 苦心もしましたがね工。特務機関として働いたですからた。 きようえっ むく ″にんじん〃の恐悦、目もアテられぬばかりで、 ね。しかし労酬われて、莫大な配当を貰ったから、当分は モロに人世を享楽しチャウです。好きな人に好きな物を買 「お、お、おスミちゃん、ど、どうですかその後は」 って上げたり : : : 」 「ありがとう。それよりも、もっと貴方の手柄話を聞かし と、聞えよガシに、おスミちゃんの方を向いて、言いまて下さいな。いま、蔭で伺っていたら、トテモ面白そうで 、しこ 0 すわ」 「 : : : 好きな人をこんな貧弱な喫茶なそに働かせないで、 ( しめた ! ) と思った″にんじん″。かの銀座の夏の夜に、 こぎれい 小綺麗なア・ハートに住わせてお蚕ぐるみで暮させたいんでおスミちゃんと千智子未亡人が火花を散らした精神的殺陣 おんてき す。その人が承知なら、結婚しても、 しいと思ってるんですを、彼は柳の蔭からスッカリ看て取っている。怨敵千智子 未亡人を征伐した一味と聞いて、おスミちゃんの心境俄か 譜少し血の回りの悪いララ子、これは自分のことかと乗りに変化したに相異ない コリヤ思う壺にハマって来た哩 そう・こう と、彼氏相好を崩して喜びました。 腎出して、 色 「まア親切だわネ。話さえ確かなら、その人だって、すぐ そこで、輪に輪を掛けた千智子未亡人退治のお話。おス 金 あなた 承知すると思うわ。一体貴方なんでそんなに儲けたの、マ ミちゃんが身を入れて聴いてるので、 しい気持にべラベラ サカこの間の宝石密輸事件に関係はないでしようね」 喋ってるうちに、談遂に準禁治産決定のことに至ると、彼 うつむ 「冗談言っちやイケません。国家的事業に働いて得た報酬女顔を曇らせて下を俯いたのは、いかなる心理の作用であ めぐ たた シルク しやペ にわ

5. 現代日本の文学 30 獅子文六集

「でも、僕は : : : 林檎を美しくないというんじゃないけれ鶴原は声を揚げて笑いだした。 どーーーセザンヌの林檎は、どこまでも立派だと思うけれ「そいじやア、君、なんにも、描くものはありアしない ど、自分では、林檎なんか描く気がしなくなってきたんで といわれて、青年は、ハッと思った。 ( そうだ、その通りだ。おれには、なんにも、描くものが 「そんな、矛盾した話ッてないよ、君。セザンヌの林檎が なくなったんだ : : : ) 立派だと思うのは、君が、静物の美を認めてる証拠じゃな しようん いか。それなのに、描く気がしないなんて、どういう理由彼は、悄然として、黙っていた。 「そりや、神経衰弱だよ : ・ だね」 。まア、一盃やり給え」 しぶしふさかすき 鶴原が、徳利をもったので、青年は、渋々、盃を出し 鶴原の調子は、明快だった。 こ 0 「さア、それが、自分でも : : : 」 もちろん あいまいきわ うそ けしき 青年の答は、曖昧を極めたが、嘘をいってる気色はなか 「勿論、画家の危機ッてやつは、一生に一度は、われわれ おそ 第、うきょ っこ 0 を襲うものだ。自分の過去の仕事が、すべて、空虚に見え にお 「真逆、君、静物というものを、否定するんじゃあるまい て、もう、なにをするのも、厭になる : : : 。絵具の匂いを ね」 嗅いでも、ムカムカしてくる : : 。だけれど、そういう経 鶴原は、少し、感情的になってきた。彼自身が、花や果験をするのは、画を始めてから、十年とか、十五年たって つぼ 実や壺なそを、フランスの流行画家が描くように描いてからのことだ・せ。君が、年齢のわりに、優れた腕をもって る、静物画家なのである。 るのは、僕もよく知ってるけれど、もう、危機のくるほ 「否定だなんてそんな : ・ ・ : 。ただ、自分が、描きたくなくど、画業を積んでるとは、思われないんだ。すると、君 なっただけなんですよ。いえ、静物ばかりじゃないんで ・ : 神経衰弱だよ。単純な神経衰弱だよ」 軍 す。ほんとをいうと、人体も、どうも、面白くないんで鶴原は、 ( キ ( キと、推論した。 「そうでしようか」 海す。風景だって、それほど、気乗りがしないんです : : : 」 低い声で、青年が答えたが、腹の中では、画家の危機だ ろうが、神経衰弱だろうが、そんなことは、どうでもよか あしもと った。ただ、足許の土が、地滑りを起したような不安と焦 むじゅん じすべ いっ ! い すぐ しよう

6. 現代日本の文学 30 獅子文六集

てごた 暗に、賛成を求めるように、彼女はあたしを見た。 る。一本参らせようと思ったのに、ちっとも手応えがな ちょっと 一寸、待って下さい。そうなんでも賛成すると思われてい。いつもこの手で、ゴマ化されてしまう。 は困る。 「大都女学校は、女ばかりの学校という所に、誇るべき特 色があると思います。あたくしは、男子教員採用に、反対急に、寒くなってきた。 でございます」 今年の東京は、暖かいというけれど、九州の冬の方が、 しのやす だいだし と、キッパリいって置いた。 やはり、凌ぎ易い。今頃は、宝珠村の家の庭に、橙や、仏 ふく ミツン第ン・スクール 「でも基督教学校ではなし、優秀な教員なら、男女の別を手柑が、金色の実を膨らませているだろう。一寸、帰って みたいな。 やかましくいう必要はないのでござアませんか」 「なんだか知りませんが、あたしは女子体操の教師とし今日はまた、午前中に、三年の時間がある。細川頴子 て、男なんかに負けません」 は、その後、反抗的な態度を見せない。 「あら、あなたのことじやござアませんのよ。あなたの新といって、べつに恐れ入った様子もしていない。相変ら あおじろ 式な教授法には、あたくし非常に感心してるんざアますわず、赭味のある髪を二筋に結んで、蒼白い肌をして、美人 : ただ、 " 大都〃の数学や物理の先生のようですと : : : 」の卵のような顔を、ツンと澄ましている。 と、いって、彼女は、ロを噤んだ。 でも、それでいいのだ。あたしは、ものに拘泥するのは きら あたしは、ハハアと思った。数学は " 欣々女史。、物理嫌いだ。教頭先生が彼女を叱ってくれたから、 ( 多分、叱 化学は″アナ・べラ先生で、いずれも校長派の教員であってくれたと思うが ) もう万事解消だ。彼女も、他の三年 る。どうもこれは小林秀子さんのいった通り、この学校の生と同じように、可愛い生徒なのである。 暗流は、相当激しいらしい。 「皆さん、今日は行進遊戯ですから、例によって、どなた いたずら 子 あたしは、ふと、悪戯がしてみたくなった。 か、ビアノを弾いて下さい」 うかが 信「あのウ、一寸、伺いますが : : : 教頭先生は、何派です体操室へ入ると、整列した生徒に向って、あたしはいっ た。学校が貧乏だから、こういう時にビアノを弾く係りが 「あたくし ? 無論 : ・ : ・厳正中立でござアますわ」 雇ってないのである。 と、いって、ニャリニャリーーとても意味深な顔をなさ「山田さんがいいわ」 か」 しん しゆかん あかみ こうでい

7. 現代日本の文学 30 獅子文六集

156 が心配するかを、想わないではなかった。しかし、自分が合には、彼女の許へ、必ず知らせることを条件として、兄 画家になることを、父親が許してくれるとは、考えられなと妹は、密約を結んだのである。 かった。たとい、許してくれるにしても、あと数か月で卒 はす 五 業する中学を、見捨てて上京することに、賛成する筈はな いのだ。 東京〈行くのも新一、帰校する真人と、同車しないよ が、彼は、到底、二中で学業を続ける勇気がなかった。 うに、わざと、日豊線を選ぶような、気の配り方だった。 軍人組の連中と、再び顔を合わすことだけは、想っても気隆夫は、別府から船で大阪へ出て、初めて、東京行と書い が狂いそうだった。 た汽車に乗った。 ( 三年間、お暇を下さい。きっと、一人前の画家になっ東京駅に着いた時に、彼の懐中には、三百余円の金があ て、帰郷しますから : : : ) った。彼は、旅行案内の広告欄に、一泊一円半と大きな活 彼は、心の中で、両親に、そう願った。実際、その時字を用いた本郷区の旅館に、宿をとった。そして、翌日 は、東京で三年間、一心不乱に勉強すれば、一人前の画家に、上野の美術学校へ、入学願書をもっていったが、募集 になれると、確信したのである。 期でないのと、中学未卒業と、二つの理由で断られた。 くそ ( なん糞 ! ) それともう一つ、両親に対する心の重荷を、軽くしてく 隆夫は、官立美術学校へ入れなくても、問題ではないと れたものがあった。妹のエダだった。彼はエダだけには、 ひってき しゆっぽん ソッと、出奔の秘密を語ったのである。彼女が、日曜日思った。東京は広いから、それに匹敵する私立の学校が、 いくらでもあると思った。果して、″東京美術大学院 4 と に、硫黄谷へ遊びにきた時に、それを語らずにいられなか いう雄大なる校名を、新聞の案内欄で発見した。 ったのである。 ゃなか ところが、彼女は、顔色一つ変えなかった。それのみ東京美術大学院は、谷中のゴミゴミした寺町の中にあっ か、兄の出奔を激励するように、 た。校門もなければ、校舎らしいものもない学校だった。 もちろん * しようかそんじゅく 「兄さんも、男じゃツで、鹿児島にや居辛うごあんどなア勿論、かの松下村塾なそも、そういうものはなかったよう むわわり けいべっ 。そいなら、あたや、二人分孝行しもすで、心配しやだから、一概に軽蔑することはできぬが、二階建の棟割長 なきごえ こうしど はんと、東京イ罷いやんせ」 屋で、ガタビシする格子戸の奥に、赤ン坊の啼声がするの そうぐう その代り、もし隆夫が、東京で非常な困難に遭遇した場は、よほど、風変りな学校だった。 ひま いづろ

8. 現代日本の文学 30 獅子文六集

「おや、それも、買ったんですか」 「おロ取りですわ」 近藤ミチ子が、自慢そうに、答えた。おロ取りの調製「いし は、最高技術を要するだろうから、彼女等が鼻高々である近藤と木村は、また顔を見合わせてから、細川の方を眺 めた。買ったのでも、調理したものでもない のも、無理ではない。 さっき 「先刻、家から届けてくれたんです」 「まア、上手ねえ。よく、こんなに、見事に : : : 」 細川が、事もなげに、答えた。 あたしは思わず感嘆の声を揚げて、細川頴子が、黒塗り さら ひろふた 「細川さん、それはいけないわ」 の広蓋から、皿へ取り分けてるロ取りを眺めた。あたしの かまぼこ あたしは、思わず、ロ走ってしまった。今日はお目出度 郷里の地主の婚礼の時だって、こんな立派な蒲鉾やキント こ・・」と い日だから、叱言は一切いうまいと思っていたのだが ンが出ることはない。 「ああやって、皆さん一所懸命に、お料理をつくってるの 「偉いわねえ、あなた方は割烹の大家だわ」 あたしは、ロを極めて、応レた。ほんとに、感服しちに、あなた達だけそんな事をしてはいけないわ。たとえ、 ふてぎわ どんな不手際なお料理でも、自分達でつくらなければ、意 まったのである。 ところが、近藤と木村は、暫らく顔を見合わせていたと味がないわ」 「だって、先生、去年も一昨年も、こうしてるんです。そ 思うと、 れでも、どの先生も、何とも仰有いませんでしたわ」 ふきだ と、近藤ミチ子が、細川の応援をした。 と、噴笑して、お腹を抱えている。 「他の先生はどうでも、あたしは不賛成よ。それじやア、 「あら、どうしたの ? 」 かまぼ - 、 「だって工、先生 : : : 蒲鉾なんか、東京では、自分でこし家事の練習にもなんにもなりはしないわ。有閑夫人になる けいこ お稽古をしてるようなもんよ」 らえる人はありませんわよ」 子 なるほど、蒲鉾屋という商売がある以上、蒲鉾は買うも「 : ・ 近藤と木村は、キマリ悪そうに、首を垂れた。 信のだろう。あたしも、おかしくなって、笑った。 「でも、その卵焼や寄せ物は、あなた方の手でつくったん あたしは、少し言い過ぎたと思って、気の毒になって、 しいわ。来年 「でも、今年は、もう済んだことだから、 でしよう」 「あらア、先生・ : ・ : 」 は、是非、あなた方でお料理をして頂戴ーー・どんな真ッ黒 しば なが おっしゃ ゅうかん

9. 現代日本の文学 30 獅子文六集

に、あたしを迎えてくれた。尤も、まだ暑いという時候で「あら、それは、校主さんよ」 それで、安心した。、 しくら″宇垣さん″が男性的でも、 はない。青葉若葉の結構な陽気なのだが、体重十八貫のお 桂さんには、円ッこい鼻の頭に、もう汗を掻かせているの芸妓遊びをなさるとは、不思議だと思っていたのだ。 「校主さんだかなんだか知らないが、とにかく、あたし である。 ふさた ア、あんまり偉い人だとは思わなかったね。カチグリみた 「ほんとに、ご不沙汰しました」 「ご不沙汰なんかどうでもいいけど、学校の方は、無事にいな顔をしてさ」 勤めてるのかね。これでも、蔭ながら、ずいぶん心配して「あら、小母さんも、カチグリに似てると思う ? 」 あたしは、同感の士を発見して嬉しくなった。 るんだよ」 「カチグリも、少し虫が食ってる方だよ。あたしア、あん と、お桂さんは、象のように優しい眼を細めた。 小はさんな人は好かないね。男らしくないよ。一緒にいらっしやっ 逢ってみれば、お桂さんは、やつばり、 だ。こんないい小母さんが、チビ君を妓にして稼がせよた細川源十郎さんに、ペ = ペ 0 お辞儀ばかりしてさ」 わるだく うなんて、悪企みをするとは、信じられないくらいだ。あ「細川源十郎 ? 」 すさ たしは、せつかく訪ねてきた用向きが、なかなか口に出せあたしは、驚いて、その名を口誦んだ。 「おや、お信ちゃん、そんなにビックリした顔して : : : お ないで、困った。 「それはそうと、お信ちゃん、あたしはこの間お座敷で、前さん、細川さんと知合いなのかい」 しいえ、ただ : : : その方の娘が、あたしの学校の生徒な お前さんの学校の校長さんという人に、お目に掛ったよ」 そのうちに、お桂さんは、途方もないことをししナ 、、・こしんですの」 きゅうてぎごと こ 0 しかも、ただの生徒ではない。あたしを仇敵の如く憎ん でる、恐るべき生徒であるけれど、そんなことをお桂さん 「まア、″宇垣さんに : にいうのは止めた。 あたしは、開いたロが塞がらなかった。 「へえ、そうかい、細川のお嬢さんを教えるとは、お信ち しいえ、そんな偉い名の人じゃなかったよ」 ゃんも偉くなったねえ」 「ご本名は、関口トクノとル有るんですわ」 と、お桂さんは、ひとりで感心してる。 「そんな名でもなかったね。そうそう、 「でも、小母さん、よく、カチグリさんがあたしの学校に う代議士さ」 ふさ もっと : 北原さんとい うれ

10. 現代日本の文学 30 獅子文六集

3 信子 加えてやろうと思っているところへ、吉岡先生が、校長となったのである。 ちくいちてんまっ イの到着を、知らせにきた。二人は、毎年、 そこで、あたしは、校長の前へ行って、逐一、顯末を報 告した。 寄宿舎の雛祭りに、招待される例なのである。 んの やがて、食堂が開かれたが、ロ取りは、膳に載っていな「そうですか」 こうでい さす と、いったきり、″宇垣さん″は泰然として、苦虫を噛 かった。遉がに″宇垣さん″は、細事に拘泥しないで、ム シャムシャと、他のご馳走を食べたが、 ' , ニャリスト″はみ潰したような顔をしていた。 ささや 妙な顔をして、隣席の吉岡先生と、何か囁き合った。大やがて、電話室へ行っていた″ニャリスト″が、姿を現 方、今年はなぜキントンが出ないかと、訊いたに違いなわして、 「まア、よかった : ・ : たった今無事に、青山の自宅へ帰り い。よほど食い心坊な″ニャリストイだ。 ついたそうでござアますわ」 そのうちに、 おおげさ 「細川さんは、どうしたんでしよう」 と、大袈裟な声を出した。 なにが、″マアよかった″だ。女にあるまじき振舞いを 「細川さんがいないわ」 という声が、寮生の間に起った。 して、舎監に叱責を加えられたのを、根に持って、無断外 見ると、長いテ 1 ・フルに列んだお膳が、一つだけ、主が出をした、寮生ではないか。 ないのである。 「あたくしは、ちっとも、よくないと、思います。細川の あたしは、きっと、細川が拗ねて、自室に引き込んでるような我儘な寮生には、校長先生や教頭先生から、断然、 のだろうと、思った。・こが、 / ナ彼女を探しに行った寮生達懲戒して頂きたいと存じます」 は、息を切らして、帰ってきて、 と、自席から立ち上って、あたしは、思った通りのこと ふだんぎ 「細川さんは、室にもいません。それから、平常着が脱ぎをいった。すると、″ニャリストが、壁を塗るような手 付きをして、 捨ててあって、帽子と外套が見当りません」 フェスチヴァル 「まア、まア : : : 今日は、女性のおめでたい祭日なので と、まるで大事件のように、ご注進をした。 うかが ござアますから、そういうお話は、いずれ、明日伺うこと 「まア、大変だわ : : : どこへ行ったんでしよう」 ″ニャリスト″が、顔色を変えて立ち上るやら、吉岡先生に致しましよう。オホホホ」 んそく と、無理に、笑った。 が驚いた途端に、喘息の発作を始めるやら、大変な騒ぎに ″ニャリスト がいとう なら あるじ ちょうかい つぶ たい娶ん にがむしか