行った。 「じや言いましようか ? 」 青い着物の地が強いぐらいに反映している美耶子の横顔「何だい ? 」 おしろい を見て、彼は、いつもより白粉を濃目につけているように 「沖さんの晩のこと。」 よみがえ 思った。全部が甦った。これが美耶子だ、彼女が全部此あの夜のさよ子の泣き顔が眼に浮かび、信彦は慌てた。 せつ だめ 処にあるのだ、と切ない気持になった。 「駄目、駄目。あれは駄目。」 あいさっ 美耶子は別に挨拶もせず、 「いや、言う。」 「随分遅い朝なのねえ」と笑った。 信彦は理由もなく、あの日のことを伏せておきたかっ 信彦よりも、そばにいるさよ子の方がその調子に素直にた。さよ子が泣いたということが、異常なことで、そんな 乗り、形ばかりの肩揚げのついた子供っぽいネルの膝に両所まで美耶子には言ってならないと思われたのだ。懇願と そろ しっせき 手を揃えておいたまま、 も叱責ともわからない強い目つきになっているのが自分で しばら 「ひどい寝坊なの、神津さんたら、それに夜更かし。でももわかった。それをさよ子は暫く見返していたが、やがて まぶた この頃そんなでもないかしら」と、自分の気持をどの辺に瞼をそっと伏せ、膝の上に並べた自分の手を見た。 定めていいのかと惑っている信彦にかわってのように言う「どういう事なの ? ね、教えて下さらない ? 」と美耶子 のだった。 はさよ子に向けた笑顔を信彦の方に移したが、その笑い顔 きつもん 「あら、そうお ? 私、監督に来たの、今日は。ちっともの中で目はきらきらと詰問的に鋭くなった。さよ子はすこ しょげ 頼んでおいた仕事がはかどらないんですもの」という言葉し悄気たように膝の上の白い指を並べては伸ばして見、首 の調子とはちがって、美耶子は笑わない顔であった。 を前につき出すようにして笑っているだけだった。 「ええ、この人、そりや怠け者だと私思うの。だけどあん「沖君の居所が分らなくなったのですよ」と信彦が言う と、 春まり悪口になるからよすわ。」 美耶子の眼がちょっとの間、じっと信彦に注がれ、信彦「あ、あの女の人のことですか」と美耶子は何となくその がそれに気をとられたので、さよ子の言葉は反響がなくそ事件を知っているように答えた。それでその話は立ち消え 青 こよっこ。 こへ漂って消えた。それが信彦に痛かった。 「悪口なんかに驚かないからいい」と信彦は、表情を変え美耶子は ( ンド・ハッグから少量の校正をとり出して信彦 ることは間に合わず、言葉だけでさよ子に応じた。 に渡した。それは本の最初の部分の欄外に入れるために信 ひざ あわ
の動揺のリズムに身を任せるうちに、 「私は、実質が 何であるか分らないが、自分に近づいて来る不安定な 校未来の生活に対する布れのようなものと、過ぎた幼年 中時代のいろいろなものの追憶と、自分の青春の時が一 長 刻一刻と失われて行くという意識の与えるかすかな傷 現 みが、心の中にむらがり起こるのを感した」とある。 校 もともと好きであり、テイチアノの「白衣の女」の 学 イメージと重なって理想の女として印象のあった浅田 中 樽子が、高峰と笑い興しているのを眼のあたりに見て、 立重田根見子の方に一層心が傾斜して行くさまが、磯の 香のように青春の匂いを漂わせて次のように、書かれ 1 レ ている。 務 勤 「そのとき私は、急にあの橙色の、しめったような膚 をした余市町の重田根見子のことを思い出し、また彼 整 女の西洋菓子のようないを思い出し、その重田根見 業子が生き生きと自分の心を私に伝え、私もまた手紙で 卒 それに応していることを、ほとんど生理的なナマナマ 商 高しさで考えた。自分には、自分を愛している少女がい る、と私は心の中で言った。すると、重田根見子の大 はかますそ きな目や、その橙色の膚や、その袴の裾から見えた白 年 い足袋や、みんなが女性の現実の魅力となって、一度 さっとう 正 に私に殺到した。重田根見子が女であり、肉体を持っ 大 ていることを、私は目が覚めるように、現実の味気な あじけ はだ
くわ に眠を細めていたが、煙草を銜えたままロの反対の隅かけたが、ふと信彦は気が変り、美耶子のぎっとなっている だめ ら、聞きとりにくく答えた。 態度に、ぶつつけるように「駄目なんですよ、あの男は。 「染色をやっている高等工業学校の生徒がそんなことを言人に与える抵抗をたのしんでるんですよ」と言った。きら から っちゃいけないよ。あれが黒なもんか。日本の昔からなるりと美耶子の眼が自分に投げられたと思いながら、彼は辛 ( ん 紺だよ。」 子のよく利いたサンドイッチを食べた。美耶子はまだ沖を にらむようにして見ていた。 彼女は気をつけて本を片付けながら、皆がとり巻いてい る大きな机の端に盆をおいた。 「おい沖君、美耶子女史が、言うことを聞かないといって ぎようぎ 「ごめんなさい。召しあがりものを持って来ましたわ」と御立腹だ・せ」と、がっしりした身体を行儀よく制服に包ん ナわ 言い、美耶子が教授の方へ盆を押しやるのを信彦は横からで、きちんと坐った武光が沖の方を見ずに太い声を出し す、 見ていて、その着物が深い紺へ薄のような黄色の筋を縦横た。 つむぎ ようや に散らした紬の一種であることがわかった。 「あ、腹が空いてなかったものですから」と沖は漸く画集 「それでは、サンドイッチでも食べましようか、諸君」とを閉じて腰をあげた。沖は彼の方を立って見ている美耶子 ところ まえかが たいせ、 す を避けるように前屈みになって椅子や本の堆積の間を机の 細谷教授は言って、離れた処にいる沖と信彦の方を見た。 「はあ」とすぐ中央の机に近よったのは信彦であった。沖ところまでやって来た。髪が乱れていて、眠たいような顔 はじっとしていた。沖は自分流の沈黙のなかにいる時は、 になっていた。脊が低くはないのだが、美耶子の前をとお 容易に外部からの言葉で動かないのだが、今日のそれはこるとぎ、屈んだ姿勢のせいか彼女よりも低く見えた。 「君はこの頃熱心に描いているそうですね」と細谷教授が れから言い出すことを意識してのことのように思われた。 沖の方を見て言った。教授は美耶子によく似た顔だちだ 「神津さん、沖さんを呼んで下さいな。なかなか動かない ゅううつ 春方ねえ」と美耶子は沖の方を見ながら信彦に言 0 た。聞えが、色が黒いので、ちょ 0 と見には憂鬱に神経質に見え るぐらいの声であった。立って沖の方に眼をやっている彼る。しかし教授の瞳は明るくあけつばなしの性質を現わし のど 女の姿は、腹を立てたようにきっとした処があって、喉かていて、この人の前では悪い考を抱かないように人に強い 青 ら顎のあたりが、机の中央にあるスタンドの灯を下から浴るところがある。 しか びて白く浮き出した。 「ええ、然しどうも絵が変りかけているので、色々なこと きら 「絵描きというものは規律が嫌いなんですね」と説明しかで困ってるんです。あれですね、細谷先生、僕はこの頃に えか
87 青春 しげ らしいのが、自分に生理的な刺戟を与えるのに驚いた。そ「僕に今度の先生の本の註や校正をまかせるのは、いけな れは正に嫉妬であった。この女性をこんな風に怒らせる藤いって言ったつもりだったんでしようねえ。」 山に不思議な嫉妬を感じた。そういう感じかたが、病的な美耶子の顏はばっと赤くなった。だがそれが顔に現われ のではないかと反省もさせられたが、それはぐっと不愉快たときはもう恥らいでなく怒りのようなものに変ってしま なしこりになった。頭がいいというよりもその鋭さを鼻さっていた。 きに突き出しているようなあの藤山が、いま自分と美耶子「神津さん、私あなたに言っておきますが、私は決して庄 とのこうして話し合っている場面まで予定して喋っていた司さんのことを自分の方に引きうけて恥じているのではあ ような気がするのであった。怒りは愛情の別な現われかもりませんの。あなたは何故自分の気持をかくして、藤山さ 知れませんね、と言ってみたい不愉快な衝動を彼はぐいとんなんかに色んなことを言わせたりなさるの ? 私、庄司 押さえつけた。 さんを恥じる義務はすこしもありませんのよ。あなたがあ 「あなたはどう思っていらっしやるんです ? 」と美耶子がの人のことを言うのを私に遠慮なさるのは、あまりいいこ 言った。 とでないと思うわ。」 「何をですか ? 」 美耶子はそう言ってしまうと、まだすこし赤味の残って 「庄司さんのことを。昨夜一緒に帰って、あの人なにか言 いる顔で、弟をたしなめるように笑って見せた。信彦はど ったんでしよう ? 」 ぎまぎした。だが急にそのとき腹が立って来た。多少の卑 込よう 「言うには言ったけど、とりとめのない事ばかりだったん怯というものが、自分のなかにあるにはちがいないが、女 まぶ です」と言いながら美耶子の顔を見ると、彼女は変に眩し性、それも美しさでもって周囲の人間の言葉や動作になに そうな表情をした。 かを強いている女性は、人間を正確な心理や言葉から追い 「とりとめのない事って、あの人いつもそうなのよ。でものけるのだ。信彦自身も自分の気持から追いのけられて美 何か言ってて ? 」 耶子に対していた。そういうとき、うつろになり、礼節と 信彦は昨夜の印象を言ってはならぬと思っているのだ謙譲のなかで不正確に動いていた自分を、美耶子が空中か うかが が、若し言って見たらどうなるかと自分の内心を窺うようら飛び降りた鷲のようにばっと打ったのである。そういう ばくせん にして見た。しかし昨夜の庄司の話の印象は漠然としてい形で自分が不意を衝かれたことが、・ほんやりとではあるが とら て捉えどころのないものであった。 信彦に腹を立てさせたのであった。それはむしろ美耶子の しっと しゃべ わし ちゅう
9 典子の生きかた 「はい」と言って典子はそれも裏がえして・ハタを塗り、手 早く左手にハンカチをとって、眼をおさえた。 「ああ煙ったい。ねえ、とってもいい子なのよ。私、好き にな 0 た。叫らしい子で、すぐ私になついたわ。お母さ んのない子って可哀そうね。誰もお話を聞いてやる人がな いのね。」 典子ははっきりした声で言った。まだ焼く。 ( ンが六枚ほ どあった。大丈夫だわ、変な顔は見せずにすむわ、と典子 は思い、ガスの上で眼をしばたたいた。
んがえ 雷公 ? 」 ヨシ子、汝の家の婆まだ生ぎでるがや ? 」 ふん、すったらごど。あの人あ、いま十勝のほうに 彼女はびつくりして、私の顔をまじまじと見ていたが、 いで、農検の検査員で、よくってるどさ。」 しだいにその目に涙がたまり、ガラス玉のように盛りあが えんどう っこ 0 彼女はテエ・フルのはしに落ちていた豌豆を指先ではじき おら。どうすべ、つとむさんでねが。なんもわがんとばした。 おや、おまえさんだって、チャ子に惚れでだべさ。 ながったもんだ。久しぶりだねえ。村さ寄らながったの おらだきや、ちゃんとお・ほえでるよ。」と言って彼女は私 げ ? 」 さかずき の杯をとり、ひとりで飲みはじめた。 うん、まだ行がねんだ。」 っとむさん、おれチャ子になってやるよ。ね、ゆっ おら家のばばも死んでしまったよ。死んでがらだっ くりして行ったえの。おれ、チャ子になってやるよ。チャ て、はあ、五年、そんだ、六年めだよ。」 * てうり そうが。おめえんだの婆にはよく世話になったつけ子は天売さ売られで行ったんだよ。知らねがべさ。天売ま な。死ぬ前に一度ゅぎ会って、甘えもんでも、うったげ食で行ぎ会いに行ったえの。天売だよ、ああ、てうりのチャ わせでやりたがったな。それでおめえ、 いつがらここさ出子だ、てうりのチャ子だ。」 でるんだや ? 」 彼女はひょろひょろと立ちあがると、にこにこ笑いなが 三年前がら。その前には函館で宿屋の下女してだら両手をそろえたまま、あちこちと振って踊りだした。見 めいてい ているうちに私はひどく酩酊してきた。 の。男にだまされだのさ。」 からだ持づが、からだ ? 」 チャ子のはなしこ聞きたいが、あら聞きたいが ? 、・こってうりの話こききたいが、こら聞きたいが ? 」ヨシ子は踊 あいさ、食うだけ食っていられれば、どごにしオ 街て同じごったもん。どうせ村にいだがで、この何年てご りながら私のまわりをまわりはじめた。 にしん の おれ、酔ったえんたなあ。」と言って、私はテエ・フ と、鰊一匹もとれねってんだすけ、どうしようもねがペ 幽さ。婆さえ死ねば、行ぎ会いたい人もいねし、ここにいるルの下に足をつつこんだままあお向けに倒れた。天井の節 のば村の者に知られたぐねど思うだげで、ほかにや大した穴や雨だれの模様がぐるぐるとまわりだした。しだいにそ しつば れらはとかげのように、頭部が丸くて長い尻尾を振って泳 苦労もねえさ。どうせ死ぬどぎや同じごったもんね。」 ヨシ子、てめ、雷さんになれでだっけな。どしたばぎまわるえたいの知れない動物の形になり、ぎよろりとし とから
す内密なものとして、白く燃えあがるような想念を、美耶「あら、いらっしゃい。 私の手紙着きまして ? 」と扉を開 ささや 子の肉体と、彼に顔をよせて囁くような姉のそれに似た愛くとすぐ彼女が言った。そして靴を脱ぐ信彦のわきに膝を 情の期待との中で育てあげていた。いまその美耶子から現ついて坐り、 実に手紙が届いてみると、たった四五日逢わずにいた彼女「どうしていらっしやらなかったんですの ? 」と信彦の横 ろうばい が、自分と逢う約東を持ってこの世にいたことに驚くのだ顔を見て言った。見すかされたように狼狽し、頬が赤ら った。彼女はいない、あの川に近い狭い道で彼に自分を開む。そういう自分が子供のようで、立たしくなり、言葉 いて見せたように思われた美耶子は実は架空の存在だと言 がうまく出て来なかった。 っても、夢想に生きていた信彦はそう驚きはしなかったろ「兄さんは今日早く帰って来ているの」と書斎へとおしな おさ う。彼が夢想の世界で彼女に対していた切迫した気持を、 がら、美耶子は信彦の心のゆらぐ先をいちいち抑えるよう しお 現実の美耶子にぶつつけて水を浴びたように萎れかえるの に言い、しかもみな、さり気ない形であった。 が怖ろしかった。細谷教授の時間に出ていながら、教授の着物に着かえて書斎に入ったばかりらしく、外字新聞の ところ 目の届くような処に身をおくことを避けていたのもその気封を切って堅い折目をひろげていた教授は、信彦を見る 持の連続であった。 と、 公園をとおって行くと、すっかり青葉の世界になってい 「やあ、いらっしゃい。どうしたかね君、学校でもなかな にれ た。楡は幼児の指のような太い芽を不器用に並べただけだか逢えないし、そう言おうと思っていた処だが、大分たま かたわら が、桜の青葉はかなり大きく拡がっている。この地方特有っているんでね」と傍の机に積まれている四五通の校正 からまっ まっげ の落葉松が色素そのもののような淡い緑の、睫毛に似た葉入りの封筒のことを言った。だがすぐ話はほかのことに飛 さ、ら を開いている。そういうものに目を曝しながら信彦は気持び、引き伸ばしてない先日の写真を持って来て見せた。そ 春に余裕を持とうとするのだが、心はただせかせかと胸の高うして教授と話をしていると、この家へ来たことも、美耶 い部分に暑苦しくこみ上げて来ていた。 子に逢ったことも、何の変った意味もない以前のとおりの のぞガラス ベルを押すと、玄関の扉の覗き硝子に映った顔は美耶子事にすぎないのだ。總がそうである以上、意味はいつで 青 であった。ちっとも変りのない、眼のきつい表情が他人のもその外貌と同じものになってしまう。若し当事者にその ようで、とつつきにくく、それでいて、同じその人だと思意志さえあれば、外貌と本当の意味のあいだを現実は自由 うと、すっと心が静まって楽になった。 に飛びまわれるのだ。どこをとって示されてもそれが現実 ひろ
だめ 面白いわねえ、とか、本当にそうだわ、とか、駄目よ、そ 砂田について縁側づたいに行くと、鍵の手に曲った一番っとしていないと、など反響が出て来ないのだ。森にむか 端の室が子供部屋であった。十畳ほどの板敷きの、日当りって、おーいと木魂を叫ぶのに、そこからは何の反響も生 すみ のいい室で、その両隅の窓下に、小さな椅子とテー・フルがれないときのつまらない 、うつろな感じがこの子供たちの ひとそろえ 一揃ずつ置いてあった。真中には、低い大きな丸テー・フルまわりに漂っている。子供の生活がここでは一重なのだ。 ひろ があって、その上こ、 、つ・ま、本やら玩具やらを拡げて兄誰かがこの子供たちのまわりにいてやらなければいけない 弟は遊んでいた。そこへ父親と典子が入って来たのを見るのだ。 すて、 と、二人の子供は追いつめられた獣のように、観念したら「あら、このお部屋素敵ね」と典子が小さい子に言った。 しく、すっかり穏和しくなった。 その子は眼を丸くして、びつくりしたように典子の顔を 「さあ、正治と裕や、この方が今度家へ来て下さる津田先見ていたが、 ごあいさっ 生だよ。御挨拶なさい。」 「ねえ、僕ね、こんなもの作ったんだよ」と言ってポケッ 、びがらざいく 一一人は、おどおどした顔で立ちあがって、びよこんとお トに手を差し込むと、黍殻細工の小さな子を出して見せ こ。 辞儀をした。 「これが正治といって十一歳の四年生。こっちが裕と言っ 「あら、お上手ね。手工の時間に作ったの ? 」 て八つの二年生ですよ。このテー・フルに一つ先生の椅子が と典子はその子の顔のところまで頭を持って行ってきい いるのですね。さあ正治、向うのお父さまの室から一つ椅た。 子を持っておいで。」 「ううん、学校でつくったのは飛行機さ。これはちがうん 「はいっ ! 」と正治は、初めて解放されたような勢いのい だよ。これはね、あのね、家へ来てからお兄ちゃんがお家 きい声を出し、縁側へ出て行ったが、大きな背のついた椅子を作ったときにね、僕よりもずっとずっと大きいお家だっ のを、うんうんとふんばって持って来た。 て言うもんだからね、そんなら僕、梯子を作って屋根に上 子 もっとここへ誰かが来る筈だ、と典子は、・ほんやりそんってやるって、これを作ったのさ。」 典 なことを考えていた。父親がいて、子供が二人いる。しかそこまで、もどかしげに裕は言った。 3 し、それつきりであった。母親という形では、誰もそこに「あら、どんなお家なの ? これをかけての・ほるお家っ 現われなかった。子供たちが騒いでも、それで誰からも、 て ? 」 おとな はず じよう じようす こだま
ばくぜん ていないという漠然とした考えにすぎなかったが、その時とは両方で避け合ってでもいるように、殆んど顔を合せる てつぶら ことがなかった。逢ったときはきまって彼女は鉄縁の眼鏡 1 からこの考えは信彦につきまとった。 美耶子との恋愛には何処にも出口がないのだ。それはこをかけ、その下から、今まで見たこともない静かな眼つき を見せた。夜はよく外出していることがあった。 の恋愛の内容でなくって、外側の事情にすぎなかったが、 永続し得ないすべての条件をそなえていると、彼はひとっ美耶子と逢っていて、これが恋愛か、恋愛とはこういう ひとっそれを指折る気持で数えた。年齢の相違、庄司といものでない筈だったという意識が次第に信彦の内心で強く しようがい なった。それでいて、彼は衝動的に、熱病のように、一刻 う大きな障碍、学校を卒業してからもう三年大学へ行こう なかまら も美耶子を忘れていることができないのだった。 とする信彦の気持、このせまい田舎街での風評の厳しい かぶ おもわく ある日信彦は街で沖に逢った。同じハンチングを被って 枠、細谷教授の思惑、それにさよ子と同じ宿にいるために 起る心理的な痛々しい触れ合い。すべてが美耶子と自分の向うから歩いて来る沖を見たとき、信彦は遠い過去の世界 あお よみがえ から甦った人間に逢ったような気がした。沖はすこし蒼 恋愛の外部への出口をふさいでいるようにしか思われなか った。それらは皆越えられるものかも知れない。それなのざめて見える顔に以前と同じ笑を浮かべて近より、 に美耶子は、信彦に口をつぐむことを命じ、外部への積極「随分逢わなかったな」と信彦が言うと、 的な態度をとろうとしていない。それは、その障碍を避け「随分って、半月ばかりじゃないか」と静かな声で答える ようとすることなのではないか。そこまで考えると信彦はのだった。 怖ろしいものにつき当っているような気持になる。 「そんな気がするんだよ」と自分をふりかえって信彦も笑 自分の命の残りの時間をおしはかる病人のように、信彦った。 はそのことを考えまいとし、明日すぐ美耶子に逢えるとい 「昨夜武光に逢って、あの次の日に君たちが僕を捜しまわ もぐ う意識の燃焼に眼をつぶって潜り込むのだった。性急に激った話は聞いた」と沖が言った。信彦は武光や藤山に逢う おそ しく身を燃やせば、怖ろしいことは消えさるような気もすことを避けているせいもあったが、この一二日、科のちが るのであった。 う武光に逢っていないのだった。 「じゃ、みんな聞いたんだね」と言うと、 「うん」とうなずいた。 十日ほど、幻覚の中を歩いているようにすぎた。さよ子沖が誘って近くの契茶店に入った。 わく はず
うず はこくりと点頭いた。 いたけれども、彼は走ることをやめなかった。なぜまっす 「じゃ、私遊びに行くわ、明日あたり」と言うと美耶子はぐに後を追いかけず、遠いまわり道をするのか我ながら分 ところどころ いたずら につと彼に笑顔をして見せ、処々に灯のついた公園の暗らない。それは美耶子を驚かそうという悪戯気でもあり、 い道を急ぎ足に去った。 恥しさの一つの形のようでもあった。それに精一杯走ると こだち ひとりになると、急に美耶子がなやましい存在になって いうことに気持の安まる何かがあった。木立の中に細い道 甦り、彼の心をしめつけた。もう一度彼は自分のものとが続き、その先は片側が住宅地で反対側が公園の外側の木 しての美耶子を確かめたくなった。その衝動がつのると、立になっている道が続いた。子供たちが四五人街燈の下に たけだけ 自分の目が夜の闇のなかで光り出し、獣のように猛々しく集って、夜になっているのに遊んでいた。ステッキを持っ 身構えるのがわかった。いま、それを確かめなければ、彼て散歩する男や、女づれで歩いているものもいた。その人 いらず の手の中にあった美耶子は空の幻影で、再び引きもどす機人の側を信彦は、自分が実在の肉体でない風のような一途 おそ わしづか 会がなくなるような不安が、怖ろしい強さで彼を鷲みにの気持で駆けて行った。駆けているうちに歩数に合せて規 則的に息をつけるのが快かった。 し、抑制も転換も考えられない絶体絶命のものになった。 その衝動のままに動き、それのみに従わなければ、息が絶その先には小学校の運動場の柵に沿って、三角形にまが えそうで、それはちょうど、深い水の底から日の光のきらった道があった。もどかしく、運動場をつぎきろうとして めいている水面へただ一思いに浮か・ほうとする腕きに似て 門を見るのだが、閉めてあった。それを押して見る余裕も かえり いた。自分を省みるいつもの癖に自分をゆだねる余裕もな なく校舎の端にとつついた。もう一直線の道が一丁ほどあ いうちに、彼は公園の下をめぐってゆく遠まわりの道を一るばかりで、美耶子より先になることは明らかだった。砂 あしおと 散に駆け出していた。 利を踏む自分の跫音が暗い木立に反響した。 駆けながら、恥しいと思った。別れるとすぐ先まわりし 息をはずませたままその十字路にある街燈の下に立っ て、家の近くで彼女を待ち伏せる、その子供らしい行為をて、じっと耳をすませていた。通る人はない。枝の中でと はばた 彼女は笑うにちがいない。別れるまでは衝動に負けるほかきどき鳥の羽搏く音がし、離れた街から汽車の車輪の軋り には碌にものも言えないほど弱気でいたくせに、ちょっとや、自動車の警笛、人の呼声などが響いて来る。夜は特に みさかい の間にもうそんなに我慢なく見境もないことをする。それ静かなその暗い道をいま美耶子の歩いて来るのがあり得な すみこた を恥しいと思う念が、焼くような痛さで、心の隅に応えて いような気もする。急いでいたのだな、とちらと時刻のこ よみがえ やみ