っているのをまざまざと見る」ようになった。 ん、自分がそういう場所で経験したことで、こんなこと言 つてはならないのだ、と作法とか礼儀とかいうもののためそして、こんな苦しい目に逢って、この主人公はどうな ところ むす に、無いものにして心の奥にしまっていたものを、この作るのだろう、と典子は思い、理解するに難かしい処も熱心 者は、好んで前の方に引っぱり出している。ことにシュワに読んで行った。夕方出かけて行ったマダムが遅くなって ルッという遊び好きな人間が出て来ると、死者のための哀から、裏の戸を開けて帰って来た。 とう 「おや、まだ起きていたの ? 典子さん」と室の外から声 悼などというのは馬鹿らしいことで、我々は楽しく暮すた をかけた。 めにこうして生きている、とその男は言っているようだ。 皆が心の奥に隠しているものを、一体何のためにこの作者「ええ、本を読み出したら眠れなくなってしまいました の」と典子は答えた。 はこうして表面に引っぱり出すのだろう。人にいやらしい 思いをさせるためなのだろうか。 「そうお」と言って、典子の室の前に立っていたが、「開 しようさっし ふすま 典子は、その薄い小冊子を、その夜自分の室に持って行けてもいい ? ーと声をかけて、襖を開けるなり、けばけば って、床にはいってから読みつづけた。その小説は、葬式しい外出着で典子の枕もとにべたんと坐った。少し酔って うる の場面から一転して、主人公イヴン・イリッチの生涯のこ いるらしく、煩さそうにほっれた毛を掻きあげながら、 かんり とを述べてあった。官吏の息子で、才能のある青年イヴ「今日も谷さんから、話があったのだけど、こないだ来て ン・イリッチは、学校を出ると、平凡に予審判事として世た砂田さんね、あの方、奥さんがいないのよ。子供が二人 に立ち、普通の勤務をし、交際をし、結婚をし、子供を設いるんだけど、家を見てくれる人がいるんだって。ええ、 けて、四十五歳まで判事として働いた。そのうち、イヴ家政婦よ。女中が一一人いるんだけど、その監督をしなが からだ ら、子供の世話もしてほしいし、客の応対も多少はしてほ ン・イリッチは身体を悪くし、その病原がはっきりしない しいんだって。あんた、どう ? 行って見る気はない ? ながら、次第に衰弱して来た。すると細君の「プラスコー ヴィヤ・フヨードロヴナが他人や夫に示す外面態度は、まあんた、女学校を出ているんでしよう。あんたのことを訊 、て、たそうよ。」 るでこの病気の責任者がイヴン・イリッチで、この病気としし いうのも、つまり自分 ( 細君 ) を厭がらせる新しい手段に 「さあ」と言って、典子は本から顔をあげ、マダムの方を 過ぎない、といったようなエ合で、」病気で寝ている夫をじっと見た。自分をここに置きたくないのか、と思った。 うとんじはじめた。イヴン・イリッチは「自分が死にかか相手は典子に好意を示してやっているまともな顔をして、 すわ
夢見る少女の青白い顔をうめ、さめざめと泣きくずれてし がり、すべてのものにつながっていて、考えればみな締め ほお 2 まった。川波はしだいに彼女の髪をおおい、耳や頬をおおくくりがっかなくなるのですよ。これはどういうことでし ゆり子の姿はやがて暗いせせらぎのなかに消えてしまよう。こういうことが、これから後も無限にふえ、積みか さねられてゆくのでしようか。どの一つの出来事も、それ とうかね、・こ、・ ナしふ動揺しているというところだがを忠実に考え、誠実に結末づけようとすれば、命を賭さな ね。」と川のせせらぎが、またしゃべりだした。 ければならないようなものばかりです。それらのものをみ 「ところで、君はまだまだいろんな感懐をいだいているよな、僕は中途半端に生活し、中途半端にしか考えてきませ うだね。つぎにはどの女に会いたいかね。ほら、すぐこのんでした。それが今僕を責めさいなみます。だが、そうし しののめ 坂の上の東雲町にいたあのひとかね ? 今だって思いだすて生きてくるよりほかにどういう方法があったでしよう ? しゃなしか。君はその後、あの人がどうなったかは、ちつもし生活の一片ごとに誠実であろうとしたならば、僕は命 とも知っていないんだろう ? それとも君がこの川にそっを百持っていてもたりなかったでしよう。こういう考えは て、緑町の水車のあたりまで後をつけたあの目の黒い女におかしいでしようか ? 言ってください。僕はどうすべき なのでしよう。悪鬼どもがあらゆる街角で僕を待ちふせて しようか。いやはや、君は一体どんな人間かね ? きりが な、じゃないか ? 」 います。僕はもう前へ進みえないような気がするのです。」 川のせせらぎは大口をあいて笑いだした。 いや長いあいだのことです。僕だってそうだらしな あはははは。でたらめに生きてきた人間が、昔でた いほうじゃありません。決してそんなでたらめじゃなかっ たのです。そうですよ、ただ、何の交渉もなかった人へのらめに生活した街へ戻ってきて、今になってまじめに考え 関心が、いま十年の後にかえって強く残っていることがあようとしたって、どうにもならんじゃないか。あははは は、亠めはははは。」 ってみずから驚いているんですよ。こういうものでしよう か。僕はまだこの後も長く生きなければなりません。それ彼は私の言うことを相手にせず、いたずらに笑い声をあ なか なのにすでに過ぎた人生の半ばの生活だけからでも、僕のたり一ばいにひびかせるばかりであった。そのとき白い絽 おうのう 懊悩は数えられぬほど生まれています。それらの責苦に私の夏衣をきた肥った中年の女が川の波に浮かびでた。 だから私がよく言ってあげたじゃありませんか。 は耐えることができそうもないのです。そのなかのたった 一つをも、僕は片づけられそうもない。意味は八方へひろ Take life easy. って。そうしたならばあなたは、そして せめく ムと
のよ。」 る子に見られていると思ったが、当のてる子は平気で、鈴 「じゃ、なぜ、こんなこと習いはじめたの ? 」と典子も釣谷の顔をちらと見たきり、そばに立っている。典子はこの り込まれて、ぶしつけな訊きかたをした。 二人を紹介したものかどうか、と思いまどっていた。 「私、どうもね。男って、女をやつばり何か小さな仕事に 「私たち食事に行きますの」と典子が言いわけをするよう 縛りつけたいのかしらね。私なんかに合うような仕事を捜に言った。 してもないのよ。私はどこか女工の工場の監督か、大きな「食事 ? 僕はすまして来たのだけど、あの向うの角にい さしず 食堂の女の子たちの指図をしたら面白いと思うんだけど、 い店が出来たから案内しよう」と言うと、鈴谷は、てる子 そんな仕事をするには年が若いって言うのよ。」 には眼もくれず、先に立って歩き出した。大きなビルディ 「うふふ」と思わず典子は笑ってしまった。だがてる子はングの地階にグリル風に料理場をかこんで、高い棲り木の まるいす その笑いに応じないで、真顔のまま「あんたは、私よりもような丸椅子に腰かけて、二三十人も並べるように作っ しつかりしてるかも知れない。あんたは人がいない所でもた、この辺の勤人相手に出来た食堂があった。向い合って 仕事をしたり考えたりできそうね。珍しい人よ。きっとそテー・フルをかこむ席も三四十あった。もう真夏で、地下室 うだ。私なんか、誰か相手がいないと、何も出来ないの、 は自がこもって、むっと ~ かった。 しゃべ 人に見てもらったり、人に喋ったりしていないと生きてい 「久しぶりに逢ったんだから僕がおごろう」と言って、鈴 ないような気がするんだもの。」 谷は典子たちのために軽い食事を注文し、テー・フルに向い すわ 「そう ? 」と典子は眼をきらきらと光らして「じゃ、私、合って坐った。 あなたの相手になってあげる。」 典子は、てる子を鈴谷に紹介した。てる子はこんな見も 典子は、今までに知っている女の中で、このてる子が一知らぬ男になんか興味はないというように、せっせっとも 番生きているひとだ、と思った。そうだ、この人は生きてのを食べていた。それが何となくはにかんでいるようで、 こつけ、 いるのだわ、と思うのだった。典子がある日、昼食にてるふだんのてる子に似合わず、滑稽であった。 子と外へ出ると、鈴谷に逢った。 典子は鈴谷といても前より落ちついていられた。この人 みうら 「おや [ と言って鈴谷は近づいて言った。「大分覚えたか はどういう人なのだろう、という好奇心が、にわかに身内 に湧いて来た。だが、どう言って、それを何から切り出し 「え ? ーと訊きかえして典子は、ばっと顔を赤らめた。てて言ったらいいのだろう。 とま
も叔父をも、一緒に腹立たしくするのであった。孤児とし僕と君は他人だろうか。でないかも知れない。でなかった て育って来たこの娘の悲しみが、いま叔父には形のはっきら ( 君は怒るかも知れないけど ) どうだろう。どうすれば りしない何か感情的なきっかけで嫁になんか行かない、 いいのだろう。僕は君の生涯が気がかりで仕方がない。僕 人でいるという叫びのような言葉に受けとられ、流れて行の見ていられるのは、君の生活のほんの一時期にすぎない うず き場のない渦になって、ぐるぐる巻いているのがわかつだろう。僕は、君が他人だ、他人だと自分に言いきかせて た。だが、それをどうすればいいのだ。典子自身が、それいる。それでも病気の方では、そうでないと言う。 ところ を叔父の手のつけられない処まで、持って行ってしまうの 「ああ書くのが疲れる。僕はそう長いこと君の身辺にいは だ。そっとしておくより仕方がない、という態度で、叔父しないから、僕のことは別にして今まで叔父さんの家に育 は座を立って行った。 って来た娘として、あたり前に生活して行ってほしい。僕 の願いはそれだ。僕だって案外元気になるかも知れない。 その翌日速雄から手紙が来た。 「君の帰ったあと、僕は急に不安になった。それは君の生そうすれば、その方が一一人にとっても幸福だ。 やこんなことを ぎかたのことだ。何か急に思い切ったことは、しないよう「僕はこんな手紙を書いたことがない。い にして下さい。そんなことを思うときがあっても、普通の言ったこともない。僕はこういう自分の弱いところを君に 顔をして、普通の娘さんのように生きて下さい。考えて見知らせたくないのだが。」 ると、僕は、君を圧えつけるようなことばかりいつも言っ速雄の手紙はこういう変な処で終っていた。それを読む ているような気がする。しかし、僕はそうしないではいらと、一週間逢わずにいる速雄のことが、手をのばせば触れ れない。君は・ハネ仕掛けの人形みたいな人だから。 る処にいる人のことのように気になって来た。まるで自分 うず 「今日は少し熱がある。気がついて見ると、僕は君のことが何日も速雄のことを考えていなかったような心の疼きを きばかり考えて生きているようだ。君を呼吸しているよう覚えた。あの時から典子は、何かに絶えず駆り立てられる に、絶えず君のことを考えている。今日あたり来そうなもように、その日その日を過していたのだった。そうだ、そ の 子のだ、などと思う。僕は君と他人でとおそうと努めた。僕うだ、と自分で自分に速雄のことを言いきかせ、その自分 には病気という父祖伝来の身内がいる。僕はそれに、何事の声の大きさに驚くようだった。その日彼女は飛び立つよ でも相談して生きているわけだ。いまその病気のやつが、 うに療養所に駆けつけた。 僕の裏切りを責めるように、僕に重くのしかかっている。 速雄は、一週間のうちに眼に見えて痩せていた。高い鼻 おさ
をもらって、典子は長い廊下を歩いて行った。白いマスクんでもかまわない。ただ昻まった自分の気持を托せる言葉 をかけて急ぎ足に、快活に行きすぎる看護婦がいる。汚れが手近にあればそれを使う。 たふだん着のまま、自分が病気になってでもいるようにの だが速雄は典子のその調子に乗って来なかった。まじま つきそいにん ろのろと沈んださまで歩く付添人らしい中年の女がいる。 じと典子を見ているだけである。たった一週間なのに、 から 空の寝台車を一一三人で押して来る看護婦たちが、みな赤いと、思いせまっているのが、自分なのか速雄なのかわから ほお 頬をして、生き生きと見えるのが典子の眼に残った。 ずに典子は眼の中がうるむのを感じた。 扉を押して入ると、がらんと天井の高い室であった。寝速雄は自分の興奮から、。ほとりと落ちたように、やがて 台が二つ並んでいた。右手にいる速雄が、読んでいた書物身体をぐったりとし、一段低いところへ落ち込んだように なってから言った。 から転じたような、妙な注目力の籠った眼をすぐこちらに たた 向けた。その眼つきで、典子は、速雄が扉を叩く音のする「やあ、いらっしゃい。みんな元気でいる ? 」 たび 度に、誰かを待っていたのだということがわかった。その典子は叔父や叔母や清子のことを、一とおり話した。速 おお 期待が自分に蔽いかぶさって息がつまるようであった。し雄が知っていることと、少しも変っていないのだが、変っ にら ばらく立ってその眼を睨むようにしていたが、気分を変えていないと確かめるだけでも、彼は手応えになるらしかっ るときにいつもするように、典子はぶるっと髪の毛を揺すた。 さきごろ かいわい ぶると、自分の表情を変えて、明るいあどけない笑いを浮先頃までいたその下町の界隈に自分の生活やいのちを置 かべた。 いて来た、とでもいうようなすがりかたである。一とおり 「どうですの ? もっと早く来ようと思ったんだけど、何聞いてしまうと、 吮だかごたごたしてたのよ。」 「そうかい。そりやよかった。」 きすらすらと嘘を言えるのである。よどんだような、あて「どう ? ここは ? 」また典子が訊いた。 そのとき、隣の寝台で人の起き上る気配がして、典子の ののない何日かをぼんやり過していただけなのに、と自分の 子 ことを反省したが、そんなことを細かく言えそうもない背後で男の、かすれた声がした。 典 あきら し、言ったって仕方がない、と諦めているのであった。こ「津田さん。ヴェランダへ行って来ます。」 引ういうとき典子のむは、はずむ。生き甲斐というか、命の 「はい」と速雄が、そっちを見ずに答えた。 燃焼というか、かあっとなる。言っている言葉は嘘でもな あんな人、起きて行っていいの、という色が典子の眼に よ 0 たく
た丸い目玉をむいて、無数に数がふえ、壁と言わず、柱と右に振って否定するだけであった。そいつは、にやりと笑 かっころ・ って奇妙な恰好にからだをひねりながら向こうへ泳いで行 言わず、窓の曇りガラスの表にまで、によろによろと這い あふ まわりはじめた。いかかなんかの群来のようにあたりに溢った。 れ、お・ほれるのであった。それらは密集して息苦しく立ち 僕をおぼえてませんか ? 」その後から来たもうすこ こめ、生きがたいまでに息づまった気分にした。それらはし小さなやつが聞いた。 みな、骨なしのぐにやぐにやしたからだで、かたつむりの 僕を知りませんか ? 」 ねんえ、しつ 僕は ? ような粘液質のものを引きずって泳ぎ、それからは銀色の あたいは ? 」 燐光を発した。あたりはそのために乳白色に明るくなり、 僕は ? 」 うっとりとしびれるような酔いが行きわたった。ここで眠 さっとう ってはいかんと思い、階段のようなところを手さぐりでな泳ぎまわっていたやつらが一度に私のほうへ殺到し、私 かいこ でながら、私はその家の狭い戸口を通ってさっきの路地へをとりかこんで、蚕か毛虫の顔を思わせる気味のわるい顔 はいった。そこのふくらんだような景色のなかには人影はを空間にぎっしりと並べ、三つに割れる歯のない口を開い なく、例の奇妙な生きものが海底の徴生物のように一めんて、てんでに自分を知っていないかと私につめよった。そ に泳ぎまわっているだけであった。細かなやつは霧のようの恐ろしさは総身の毛穴があわ立つようであった。逃げよ うにも、すきまもなく密集した彼らを、手やからだでさわ に膝のあたりまで埋めて地面を流れてゆき、大きなやつほ りながら、分けたり踏みつぶしたりしなければならないと ど周囲の軒やアーチのような屋根の凸凹のあたりを尾を振 いう恐怖が先に立って、身動きもできない羽目になった。 りながら、私のほうをぎよろぎよろとにらんで這いすすん でいた。とうとう、その中の一ばん大きなやつが、私のほ私は絶体絶命になり、生涯の勇猛心を振りおこし、目をつ うみばうず ぶって彼らの群れに突入した。私はかき分ける手の先で彼 うへ海坊主のような奇妙な顔面を突きだして話しかけた。 らの皮膚がやぶれて内臓がどろどろと流れ出るのを感じ 私はもう逃げるにも逃げられなかった。 しわ どうです、僕をおぼえてないですか ? 僕はさっきた。彼らの皺のあるぬるりとした皮膚が私の首や胸にさわ から、もう言葉をかけてくれるか、もう言葉をかけてくれって過ぎるのを感じた。足でかぎりなく彼らを踏みつぶす るかと、あなたについてやって来てるんですよ。」 のを感じた。生きなければならない、ここを過ぎて生きな 私は恐ろしさのあまり口もきけなくなって、ただ頭を左ければならないと私は思っていた。 りんこう ひざ でこばこ
る彼の態度は愚の骨頂だね。君にもその危険はあるんだぜ」に見えない不吉なものがっきまとっているようだった。そ ためら 武光は憑かれたようにロ達者になっていた。その暗がりれは善悪の判断が自らを恥じてその前で躇うような運命的 で喋っているのはふだんの武光でなく、彼の内部に住んでなものに感じられた。 くっ ていさい いる別な人間のようにも思われた。それは理論の体裁はな藤山は靴の音を立ててこっこっと後からついて来たが、 していたが、理論でないものがその上からまざまざと見えこの男にしては珍しいことに一言も口を掩まなかった。自 るような言葉であった。その本能的な主張が信彦を圧迫し分のふだんのお喋りと武光の話とは全く性質のちがうこと 」 0 を知って、その中へ飛び込む危険を慎重に避けているとい かっこう 「それは君の信念だろう。だが僕には君がそれで生きとおう恰好だった。 せるとは思われない。それは君が単なる空想家だというこ やがて次の明るい通りへ出た。そこはもう場末に近く、 とだ。男なら誰だって君の言ったようなことは本能的に感古着屋だとか、古風な商人宿だとか、蹄鉄屋などが郊外の じている。しかし我々は何千年か前にそういう社会を棄て農村から入って来る客のために並んでいる軒の低い町なの てしま 0 ているのだ。それは怖ろしい考えでもあり、ぼであ 0 た。そこのある路地を、先に立 0 て歩いていた藤山 美しい考えかも知れないが、現実の僕等の生活には縁がな がのぞいて、武光の方をふり返った。せまい路地は案外明 いと思うな。第一、君はそう強くないよ。その信念で生きるく電燈がともり、人影がぞろそろと動きまわっているの とおせるぐらい強くはない、と僕は思う」と信彦は言いな だった。信彦は思いあたった。そこはこの街特有の魔窟だ がら自分が何か倫理的な悲鳴のようなもので、暗い獣性に ったのだ。もともと後方の平地の農産物の輸出港として発 抵抗しているように感じた。 達したこの港町は今では海港としての地位が大きくなり、 ところ 「僕はしかし、そういう処へ追いつめられて生きている。次第に商業都市に変りかけてはいるのだが、農民や船員の 春まあ一種の救いみたいなものさ。あはは」と武光はあたり接触面に出来たこういう特殊な場所が、根強く残っている ふとう に響く大きな笑声にまぎらした。「野蛮さをたのしんでなのだった。埠頭近い海岸通りにはまた別種の魔窟ができて いて、そこは街の中心に近いので、信彦も通りがかりに、 んか居やしない。追いつめられたものの持っ最後の意見な 青 明けつばなしに街の人を呼んでいる女たちを見かけたこと んだね」 じらよう 四その声には冷たい孤独の感が、自嘲の調子と入りまじつもあるが、この場末の魔窟は名前ばかり聞いていて見るの ていた。それは信彦を沈黙させた。武光という人間には目は初めてだった。 しゃべ おそ ていてつ まくっ
はせず、ただ笑いつづけ、典子が別な世界の人だとでも言た練習問題を打ちはじめる前に典子の方をのぞいて見て、 うように、関わりのない顔つきになっているのであった。 「あら、大分はかどっている」と独りごとを言うのが癖で あかねにあ 0 た世界に、もう典子は戻 0 て入 0 て行こうとあ「た。典子より一カ月ほど前に入 0 たのだが、すぐ典子 しても行けないような気がした。すると自分が、今までど はてる子と同じぐらいの速さで打てるようになった。 うして、こんな窒息しそうな世界に生きていたのか、わか「あなた速いねえ」と、てる子はぶ 0 きら棒に言うのだ。 らなくな「た。そこは、どうしても入 0 て行けない、狭「私 ? 」と典子は後を向くが、てる子は特別話をしたいと 、苦しい洞窟のようなものであった。 いう風でなく、言いたいことを言ってしまうと、また自分 うつむ 典子は、そうすると、一日も早く、タイプライターを覚の仕事の上に俯向いているのだった。そして、また顔をあ え込んで、安心したくなった。あの洞窟でないところに、 げて、おや、何か用という表情をする。 自分の生きる足がかりを得たいのであった。まわりにある「私はね、駄目なのよ。とても、こういう細かい仕事に向 娘たちは、種々雑多で、三十をすぎたような女もいれば、 きやしないね。でも折角払った授業料が惜しいからね」と 女学校〈行けない十五六歳の少女が知らない字をそ 0 と字言「て、また相手の返事を待たず、タイプの上に目をよせ 引で引いて覚えながら、覚東なく、・ほっぽつ打っているよて独り言のように言う。 まっすぐ うなのもいた。だがそこでは、どの女も真直に、駆け足で 「ちえつ、しようがないや。また落しちゃった。」 もするように前の方を見ているのであった。気持の持って 男みたいだ、と典子は思った。しかし顔は言葉とは別 行き場がなく 0 ても、教習所では、打ちあけるような相手で、目が細く、喋りながら笑うときは靨を浮かばせて、少 を捜さず、用がすめば、さ 0 さと自分の別な生活の方に戻女のような可愛らしい顔になるのだ。てる子は、ち 0 とも 吮 0 てしまうという風であ 0 た。それそれが、ここの生活典子のことを訊こうとしないが、自分のことは喋るのであ きを、今までの生活から次の生活への橋渡しとして、ほんの った。自分だけが生きている人間で、外はみな、影のよう の一時のこととして考えているらしかった。 なものだ、とでも思っているのか、と典子は思う。そして 子 典 それでも、性格として、人の集った中ではじっとしてい典子の方では、相手が喋っているあいだ、だまって顔を見 られない女がいた。誰にでもにこにこして話しかける市橋ているのであった。 てる子という丸顔の三十歳ぐらいの女がいた。そのてる子「私なんか、ここにいる女の子たちを皆使わせて、何か仕 は典子のすぐ後の席で、典子の後から入 0 て来て、渡され事をさせると、巧いのだがなあ。私や、使われる柄でない ちっそく せつかく ひと
で、文字になんかならないと思うようなことだけが書かれ ハットをおもちゃにしながら、通り道になった室で彼を待 てあるのだ。 っていた。こざっぱりと優美な、しかも巫山戯たような、 変な本だ、と思い、また読み進んだ。難かしい書き方だシ、ワルツの姿を一目見ただけで、ビヨートル・イワーノ が、ゆっくり読むとはっきり分った。 ヴィッチは気がせいせいした。ビヨートル・イワーノヴィ 「死人はすべての死人と同じようこ、、、 冫し力にも死人らしッチは悟ったーー彼はシュワルツはこういうことを超越し せいさん く、こわばった四肢を棺の底敷に沈めながら、格別重たそていて、悽惨な印象にも決して心を動かさない。彼の様子 うに横たわっていた。永久に曲ってしまった首を枕に載はこんなことを語っていた。『イヴン・イリッチの葬式と はげ わすみ せ、落ちこんだこめかみのあたりに禿のある黄色い鼠のよ いう出来ごとも、不断の秩序が破壊されたと認める充分な ろう うな額と、上唇へのしかかっているような尖った鼻をいか根拠には、断じてなり得ない。 つまり今夜下男が新しい蝋 にも死人らしく目だたせていた。彼はすっかり変ってしま燭を四本立て並べる間に、歌留多の封を切ってばらばらと いえど って、ビヨートル・イワ 1 ノヴィッチが最後に逢った時か鳴らすのは、何者と雖も妨害する権利がないのだ。全体と ら見ると、また一そう痩せていた。しかしす・ヘての死人のして、この出来事が今晩愉快に過す邪魔をする、などと考 える理由は少しもない。』」 例に洩れず、彼の顔は生きておった時よりも美しく、第一 もっともらしかった。その顔には、必要なことはしてしま人間が死んだ場面を、こんな風に遠慮なく書いたものを った、しかも立派にしてのけた、とでもいうような表情が典子は読んだことがなかった。不安になって来た。自分は おか あった。そればかりでなく、この表情の中には、生きてい速雄のことを、何か神聖な、犯すことができないもののよ る者に対する非難というか、注意というか、そんなものが うに思っているのに、そこへも、これを書いた人はどしど 感じられた。この注意の表情が、ビョ ートル・イワーノヴし踏み込んで行っている。「生きておった時よりも美しく ふにあい カ ィッチの目には、場所がら不似合のように思われた。少くと書いているから、死というものを美化しているのかと思 生 の も自分には関係のないような気がした。彼は何だか不快にうと、すぐそれに続いて「第一もっともらしかった」と書 子なって来たので、もう一度せわしげに十字を切ると、余り いて、ふざけたようにしている。それでいて、美しい、と はしたないほど慌しく ( 彼は自分でそう感じた ) くるり いう言葉と、もっともらしい、という言葉を二つ使って、 きびす と踵をめぐらして、入口の方へ行ってしまった。シュワル いかにも死人の顔つきらしいものを描いて見せている。変 まわ ツは両足を大きく踏んばって、後ろへ廻した両手でシルクなものだ。こんなのが小説というものなのかしら。ふだ ひたい あわただ かん むず
160 厭わしかった。じっとしていたかった。美耶子と逢い、す が悪い人間であったと信彦は思った。 べてを確かめられる時までは、ただ無為のなかに、外界と その意識の後味のようなものは、醒めてからも続いてい て、それが、起きあがる気力を彼に与えなかった。昨日の交渉のない処に身をおきたかった。 ところ ことを、自分が貧血を起して草に寝ている処へ、庄司が医その時玄関の開く音がした。何でもないそのことに、彼 ぶどうしゅ ははっと聴き耳を立てるのだった。さよ子が台所から出て 務室の葡萄酒を持って来て飲ませてくれたことを信彦は思 い出した。一層その意識はなまなましくなり、己れのこの行って話をしているようだった。その来客の気配が、ぞっ と全身にわたる寒気のような緊張を与えた。女同志のもの 心弱さを踏みつぶし、立ちあがって人との間を歩くのが、 の言いかたが、異様に鋭くなった彼の神経に伝わって来る 自分にはできないような気がするのであった。 ような気がした。 美耶子から便りがないということが彼を気弱くして た。その減入りかたは自分でも説明がっかないほどのもの階段を上って来た。 ムすま であった。自分に外の世界全部を棄てさせた人が自分を顧「神津さん、お客様ーとさよ子が襖のかげで言った。「お みなくなったとでも言う、生存してゆく意味を失った人間客さまですよ」と繰り返して、さよ子がくつくっと笑いを しび わび の侘しさだった。それでいて、幸福だという気持をうち消洩らした。信彦は全身が痺れるようで起きられないような ふとん すわ はる すことにはならない。以前よりも遙か高い所に浮いている気がしたが、蒲団の上に坐り直ると、 という感じは絶えず自分についてまわっており、そのため「いま起きます、待って下さい」と言った。 しばら ごと 「じゃ、私の方で暫くお待ちになって下さるといいわ」と に、周囲との距離がすっかり変っていた。人に逢う毎に、 以前いた処へ仮りに足場をつくって、そこへ来てから物をさよ子が言った。 「ええ、ありがとう」と言う声は美耶子だった。 言ったり、行動したりするということは、ひそかに彼を一 ごうまん 種の傲慢な気持にさせるとともに、ひどく疲れさせた。目素早く着物を着、蒲団を片づけると、窓を一杯にあけ まいを誘い出すようなその疲労感は、新らしく移って来たた。日光が照り輝いていた。それがまぶしくって目を向け 撼まり処もないその高所から落ちてゆき、しかも落ちながられないような気がした。 おびや 「ちょっと顔を洗って来ますから、僕の室へ入って下さ ら何も気づかずにいるのかも知れないという脅かすような おお ふすま い」と襖越しに言って、階下へ降りた。彼の食事は覆いを 気づかいを絶えず与えた。そういう色々な観念と戦うため したく かぶせて支度してあった。顔だけ洗うと彼は一一階へ戻って に今日も起き出して生活の中へ入ってゆくということが、 おの