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検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

友よ何も話し合わないことだ。 もうなにもね こんな不確かな信用のならない ともすれば 皮肉や嘘になってしまう そんな神経質な 化物みたいな言葉を使わないことだ。 そして我々の この日の光に輝いている 自分の言葉にさえ欺かれ易い考を きずつ 空気や土や街や人の顔や木々やに向って お互に傷け合うまい。 俺の頭は・フリキ板をみつめる様に みんな自分自分の沈黙と孤独に帰ることだ。 げんわく すっかり眩惑されて 視界がぎらぎらと写って来るばかり。 気軽さ 俺は何かに掴まらなければ。 一生懸命何かをやって いったいこの輝いている現象が何の意味をもってるのか なる程それは一つの生き方でしよう。 俺の足場をどの辺におくのか。 何もかも周囲を茶にして みんな捜さなければいけない。 さて自分に何の自信があるのでもない 何でも良いからしつかりしたものをまなければいけな幾時間しゃべり通しても 自分をなくする心配なんかした事はない様な 言葉を撤きに歩いている様な 瘠せて気取屋でないのにおしゃれで 友人の服装はいちいち批評して そして自分で感心し 仲間のものには からす 毎日の鴉か雲の変化位に思われている男。 軽蔑されていて いつも皆を愉快に笑わせる なるほどそれも一つの生き方でしようね。 おれ 一 = ロ葉 つか けいべっ あぎむ やす

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

4 えるが、また作者にとって好ましい女生を造型したと も言え、今日の読者にも共感させられるところが多い だろう。この時代は支那事変は長期化し、太平洋戦争 ばつばっ きび 勃発の直前であり、政府の思想、言論統制は厳しく、 文学者のもっとも生き難い時代であった。伊藤整はこ ういう激動の時代の文学者の日常生活や考え方を客観 じようぜったい 的に書き記して置こうと独特の饒舌体の手記とも一一一一口う べき「得能五郎の生活と意見」「得能物語」を書きは 右昭和三十三年新宿にて左よ じめる。自己を戯画僊し、英国流のユーモアで文学者 り整田辺茂一 ( 田沼武能氏撮影 ) のみじめで小心な暮しを、外から見るように描く。 さかて わば私小説を逆手にとった小説で、副主人公桜谷多助 上アメリカ滞在中、ナイヤガラの を登場させ、秘かに文学者の内面をも告白させている。 瀑布をみる ( 昭和三十五年ころ ) 幾分トリヴィアリズムに陥ってはいるが、杉並区和田 左原田康子の「挽歌」推薦文原稿本町に妻と二人の息子と共に住む三十代の文学者の生 活がディテールまで描かれていて貴重な記録である 第ソト十 デュアメルの「サラヴァンの生涯と冒険」と同じよう な日本には珍しい知的小説と言えるだろ、つ。 しかし戦前の伊藤整は、中央線沿線に住む文壇の傍 流の貧乏作家であった。文学に無縁な商大出身でしか ( イダーて一な第内考みと 。、新第も西洋の最新の文学思潮や方法の紹介者として登場し 日本の近代小説の伝統とは異なる小説を書きはじめた ため、そして余りに頭がよく器用で詩、評論、翻訳、 小説など多方面に活躍したため、また文壇的な交際を ひそ

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

馬 喰 整 の 他の作品からもまた「鳴海仙吉」にマリ子とユリ子と して書かれていることからも、伊藤整がある美しい姉 妺に心奪われたのは事実のように思える。そしてまだ 幼い妹娘にロマンティックな幻想的精神的な愛を抱き ながらも、積極的で美しい容姿をもった姉娘と逢びき を繰返し、肉体的関係にまで進んだことが繰返し、作品 に書かれている。潔癖なぐらいの倫理感を持ち美しい けんお プラトニックな恋愛を愾れ、肉体的関係を嫌悪してい おち、一 た彼が、少女と簡単に肉体の関係に陥込んでしまった。 これは伊藤整にとって生涯の罪悪感になるとともに、 ー , しものだという 人間というものは肉体的な本能こよ号、 人生観の基調のひとつにもなる。どうしても女性を性 的な目で見てしまう。そしてそういう自分の卑しい、い 情を嫌悪する。この初恋と言える姉妺の場合、両方に よく思われようとし、妹の方をより愛しているにもか かわらす、姉との関係がするする深まってしまったこ とに、伊藤整は自分の中にずるさ、囃さ、便宜主義 右年年昭右昭青房 書を見出し、嫌悪するのである。 出 上和社和村 , 」 伊藤整は恋愛の相手である女性に、自分が詩をつく 昭ャ昭と房た房河 紙 ( チ ( 街書か書年っていることも、文学や芸術の話もしなかったと一言う。 一き出 3 彼女はそれらとは別の世界に生きている人間だと考え 、第 ( 本夜ゲ果第生河種 行冬 昭 たからだと「雪の来るとき」に書いてある。何かトー 単「テ喰社年子年 版りン馬潮Ⅱ典 マス・マンの「トニオ・クレーゲル」の詩人の運命を 初よイ「新和「和春 みをま 461

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

きず の事は、五郎の心に消しがたい疵をつけた。自分が良心のさい子たちを庇護するのであった。 くつじよく 聟命ずる通りのことを為し得なかったという屈辱の念を彼の 五郎がこういう子供たちの社会のありかたに気がつい ころ 心内に植えつけた。 て、自分の方からその仲間に入ろうと努め出したこの頃、 この村は、外来者を排撃する気風が、とても強いのであ彼は小学校に通いはじめていた。それまでは、彼は家と家 ほとんど無 った。元来植民地なのだから、そういう気風がなさそうなの周囲の母の眼の届く範囲から出歩くことが、 ものであるが、しかし、最初の定住者たちが、漁業権や土くて済んでいたのであろう。学校へ朝夕一緒に通うことで 地所有権の下付願いの運動などをするに当って優先的な気同級生の仲間が出来、次第にその仲間の制約を受けること 持や独占的な気持を抱いたことがあったのだろうと推定すになったものらしい 学校は海岸から三町ほど離れ、山の下にあった。村の通 れば、植民地なるが故に、そういう気風の強いことも、う すみ りからちょっと引っ込んで、かなり広い戸外運動場の隅 なずかれる。 五郎の家のあたりは、「新吉原」と呼ばれていた。多分に、鍵の手に校舎が建っている。校舎の海岸寄りの端に 以前は、この川沿いの地は葦が一面に生えていたのであろは、冬と雨天の日に五百人の生徒がどうにか遊べるぐらい う。そして、川下の役場や学校のある辺は「吉原」と言わの講堂兼戸内運動場があり、その横に校長先生の住宅が付 みさ、 れ、海岸のうち、川口の郵便局辺から北の方に岬をなしていている。戸内運動場とそれに続いた校舎の半分は、かな まつけま 伸びている辺を「澗」と言い、南の方に伸びている海岸り古びている。古い方の校舎は、一一三十年は経っていたの を「文庫歌」と言っていた。文庫歌というのは、宛て字であろう。それが明治末年頃のことであるから、この校舎は にしん で、村の人たちは、多分アイヌ語なのであろうが、・フンガ明治の中頃に建ったのであろう。砂谷村は、幕末前から鰊 ダと呼んでいた。その各部落の子供たちは家続きなのにか漁業地として開けていたところなので、学校の設備なども 、つすい かわらず、たがいに排斥する気風が強かった。ことに生粋割合早くから出来ていたのであろう。鍵の手に曲った奥の の漁業家の部落である鮱澗と・フンガダでは、よその子供が方は建って数年ほどと思われ、新しい建物であった。 使いに出かけたりすると、途中でその部落の悪童たちが捕この村へ越して来た次の年から鈴子はこの小学校へ通い したく まえていじめるのがきまりであった。他の部落の子供が通出した。五郎はその翌年一年生になった。学校へ行く支度 もめん るのを、そのまま見のがさないような意地の悪さは、またと言っても、本を木綿の風呂敷に包んで斜に背負うという はかま だけの身支度で、袴をつけるのは式のある日だけであっ 一種の団結力でもあって、一度仲間に入ると、強い子が小 ゆえ はいせき つか ひご

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

河出書房刊 「伊藤整全集」全 14 巻 ( 昭和 30 年 ) ! 囈享卩 い詩人の肯像 伊藤整 / 物第 長第自備小説 夢と第愛と ~ にいろどられた . を の・められた青をの自書強を . 大正ま から昭和初年にかけての社をと文第の 動きの中に強・当ル青・自小説 . 刊 ひさし 社 目を感していた人には、過度の倫理感から解放され、は 左より整田居尚 潮 新崎昇 ( 昭和三十二年 ) じめて自分の考えを自由に表現できるとほっとした。 年 しかしそれと共に大きな政治や権力の前にいかに知 識人は無力で、だらしなく醜いかを知らされ、迫って くるファシズムや軍国主義の風潮におののく。そして 文学的には、転向者を含めて、十九世紀的な知識人や 思想、文学に対する懐疑と批判がはじめて内面の声と しやっえん して作品化されるようになった。光栄ある近代が終焉 し、未知の現代という時代に突入しつつあることに気 がっき、内的必然性をもって自己を賭し新しい文学方 法を模索しはしめる。高見順、太宰治、中野重治、島 木健作、坂口安吾、三好十郎、石川淳等々の気鋭の文 学者たちが、あいついで新しい自己追求の小説を書く 伊藤整の「幽鬼の街」もそういう時代思潮の中で書か れたのだ。彼は知識人の卑少さ醜さを追求し、そのひ とりである自己の徹底的否定破壊をこの作品でめざし たのである せいゼっ て この凄絶なカタルシスを行、つことにより伊藤整はひ 院 とつあきらめに似た落着きを得た。 「理一目 .3A 」い、つもの 大昭 は絶対に実現とい、つことを目あてにしているのではな いのです。そんなのは野心です。僕はただいつでも理 想の方へ顔を向けて生きているだけです。でなければ ャ央 シ中死んだ方がよいのです」という告白は、まのあたりマ 472

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

たた 突然その音に叩かれたので 起き上って窓をあけて見ると 街の黒い屋根の向うは 真赤な粉を吹いて火がついているのだ。 だが私はこんなふしぎな街を見たことがないので とても信じきれないでいる。 これはきっと何かの絵なのだろう。 都会はこうして真夜中でも高い塔に しようぞく 不眠症な黒装束の監視者がいて すぐぎゃんぎゃんと あの不吉な音を響かせるものだから その度私は夢をぬぎすてて むくりと起き上らねばならない。 十一月 ああ街に降った雪は 路今日はもう踏み固められて消えない。 恋びとよ 明 お前のあつい思いも私を黙らせ 雪 雪の冷たい十一月に感ずるのは あの素直な孤寂への思慕だ。 昔の姿がひたすらに思われて たび ひごろ 今日日頃私の心は冷たくさみしいのだ。 恋びとよこいびとよ おも お前の想いにそむいて私は冷たい目で雪をみつめてい ねわたしにそれを返してくれないか 私が昔の十一月に持っていた気分へ帰るのを赦してくれ 、、 0 チーし、刀 私のやさしい恋びとよ 私はそれをお前にもとめる。 十一月の街でふと感じた気分を捕えようとして 私は涙ぐましい焦慮を感ずるのだ。 ああ恋びとよ だめおまえの手はあんまり暖い 雪の来る朝 雪のやって来た朝 私は小児のように おこな 自分の行いについてうなだれる。 ささや 斯うして年ごとに来るのだと雪は囁く。 だが私は愚かで来るという日の今日まで まゆ 眉もあかるく心も清純な 私の母の私の昔のうばの ゆる

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

帰ろう古い京都の寺と塔と橋と ひとの美し い私に気付いていない街から 静かな島々を浮かせる内海から。 い、まはただ、も、フ〕師る、いにか 0 り・。 九月に入れば空気のつめたい国へ椒檎の 実っている畑へ 心おきない村の仲間へ ああ汽車に二夜津軽の海を越えた所に なっかしい緑の国がひろがっている。 ( 「雪明りの路」中「京都」 )

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ていた胸苦しくなるまでの感傷を、はるかに素晴しい たとい、フことは、何よりも一一一一口表現とい、つことに重き 8 を置くことにほかならない。思想や人生体験が先にあ 言葉で歌い上げているのだ。こういう詩を自分もっく かんばらあり り、それを世に伝えるため文学を書きはしめたのでは りたい、それが少年伊藤整の夢になった。彼は蒲原有 ろふう 明、三木露風、北原白秋などの詩をむさばり読む。そ なく、藤村などの詩の言語芸術の素晴しさに感動し文 して藤村の次に彼の心をとらえたのは、新進詩人の萩学をはしめたのだ。伊藤整の文章に対する美意識や神 むろうさいせ、 原朔郎であり、室生犀星であり、百旺宗治であった。 経の鋭敏さはここからはしまる。そして北海道の風土 特に犀星詩の直截で平易な言葉使いによる鋭角的な抒や人間は、短歌や俳句などの伝統的短型詩より、近代 情、朔太郎の近代人の憂愁と異常感覚を表現したロ語詩で表現するのに本質的に向いていたのである。 しかし伊藤整は詩や文学に夢中になったからと言っ 詩に大きな影響を受けた。「中学の三年四年五年と、 僕は藤村以後の日本の新しい詩や西欧の詩の翻訳に熱て、学業を怠けるようなことはしなかった。逆に詩に 中し、当時のもので読み残したものはいくばくもない 夢中になったから、なおさら勉学にも努力を注ごうと まじめ する。こういうところが伊藤整の真面目でユニークな、 であろ、つ」と「自伝的スケッチ」の中で自ら一一一〔、つほど ほうとうぶら、 の打ち込み方であったのだ。そして大正九年、中学四あるいは長男的な生き方である。放蕩無頼の文学青年 になることを自ら許そ、つとしないのである 年生のときから読むだけではなく自分で詩をつくりは 大正十一年、十七歳の時、伊藤整は小樽高商 ( 現在 じめた。大正十年中学五年の時には級友の石島三郎と ふみえ の小樽商大 ) にきわめて優秀な成績で合格する。当時 ともにがリ版の詩誌「踏絵」を創刊し、三号まで刊行 の小樽高商はその斬新な教育と就職率のよさで全国的 している。伊藤整はおとなしい優等生から文学青年、 詩青年の道を辿り出したのである。 に知られ、地元よりも、日本各地から実業をめざす優 小説には余り興味が持てす、ます詩に熱中し、詩か秀な青年が集って来た秀才校であった。伊藤整は塩谷 ート・コースへ進 村きっての秀才、知識人としてエリ ら文学的出発を遂げたということは、伊藤整の文学を 考える上で重要である。伊藤整自身最後まで自分の本んだのである。伊藤整自身、本心は究極的に詩人を志 質は詩人であると考えていたようだ。丸谷才一も指摘望していたに違いないが、同時に秀オとして家名をあ しているように、詩によって文学的に開眼し、出発し げ、父母を安心させようとする立身出世の野心に燃え わらさくころう はぎ ざんしん

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

「おれはね。おれはね、きっと一本の細い道を見つけるかた菓子をもらうのを予期していた子供のように。 も知れない。すれすれに私小説と象徴詩の間を縫って行け二三日して、私が学校から戻ると、母屋の台所から下宿 いたず・り そうなんだよ。技巧にまぎれて認識と抒情の綱渡りをすの主婦が下駄をつつかけて出て来て、少し悪戯つ。ほい笑い を浮べて言った。 る。分るかい。おれは超現実主義なんか信じゃしないよ。 体験、生きる冒険だけが手がかりだよ。おれは早瀬を嫉い 「お客さまですよ」それから声をひそめて、「女の方よ。 たさ。それはそうだよ。だけど、恥しいってひるむことがどうしても今日お目にかかりたいと言うものだから、室へ あるかい耳し しし、こと、痛いこと、それはして見る必要があげておきました」 じみ あるよ。」 心当りがないまま室に入ると、地味な紺色の洋装をした すわ 若い女が坐っていた。ちらっと私を見上げ、はにかんだり 「必要 ? 」と私が言うと、 おく 「そうさ。右へも左へも動けない。何でもいいから前にあ臆したりせずに、軽く頭を下げた。全然化粧しない、色の おど るものに躍りかかる。おれは小説を書こうとして見たが、浅黒い丸い目鼻立ちのはっきりした顔が、頭のいい女だと いう感じを与え、私は圧迫されるような気がした。 駄目だね。おれは詩を書いた方がいいかも知れない」 「分った。ランポオだよ、君の考えてるのは」 「鵜藤さんでいらっしゃいましようか ? 」 「うん、そうかも知れない : 「ええ、鵜藤です」 そう言ったあとですぐ、私は、また自分のことをさてお「あのう、小橋さん、この頃、こちらへお邪魔しませんか いて、友人のために考えてやり、解説してやっているいっしら」 いえ、ちっとも」 もの自分に気がついた。そうかも知れない、と彼が言った「い とき、その言葉にある震えるような喜びの調子を私は聞き「自分の名前も申し上げませんで失礼ですけど、もしあの けんお れのがさなかった。いつでもおれはこうだ。私は自己嫌悪で方がいらしたら、いつもの所へいらしてはいけない、と申 る黙り込んだ。どこまで行っても、いつまでも他人の意志をし上げて下さいませんかー き 推しはかって、エ合よくそれを解説してやっているばかり私は、まごっいたが、すぐ理解した。小橋は追いかけら 生 だった。友人たちは、私の所へ、慰めや励ましをほしい時れているらしい。その理解と共に、こんな女があの運動の 7 だけやって来る。私には何も慾望や願いがないとでも言う中にいるのかという驚きを感じて、おし黙っていた。その ように。満足すると彼等は行ってしまう。私から気に入っ頃は日本のマルキシズム運動が最盛期を過ぎた頃で、男の ごろ おもや

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

涙がじくじくとあふれ出るのであった。恐ろしいのは、このような土色をしていた。これは、この土地の人間ではな の破減にあるのではない。泥まみれになりながらも、なお いそ、と私は思った。東京で一度何かの会で出会った人間 も生活がつづいているということ、意味の失われた生活ののようにも思われた。 なかでも人は生き、子供は育たねばならないということ 君はもう東京へ帰るつもりかね ? 」とその男は親し だ。私は彼女の背中でゆられながらがくんがくんと動いて むぞうさな口をきいた。 いた赤毛の子供の顔を見なかったことを思い、ぞっとする ーーええ、もうここもいやになったので、帰ろうと思う ほど巨大な宿命の槍に身をつらぬかれるのを感じた。びしのですが。」 よびしょに濡れた市場のわきのコンクリイトに涙がしたた 失礼だが、君の郷里はどこかね ? り落ちたけれども、その甘ずつばい涙の味なんかは、この え ? 郷里 ? 郷里は北海道ですよ。」 事実の恐ろしさにくらべれば何でもないことだった。 あはあ。ふむ、北海道も郷里になるかな ? 」 ざっとう 私は市場の雑沓のなかからまた公園館の前へ出て行っと言いながら、彼はまた、じっと私の・ほう・ほうと伸びた、 た。すでにタ暮に近く、映写がはじまっているのであろちちれた髪を見まわした。 う。入口の正面にある白くぬられた映写室から、ちかちか ふむ、そうですか、北海道ですか ? ところでこれ する白い光がもれていた。私は追いたてられるような思い は余談ですが、アイヌというのは毛がちちれているのです で絵看板を見あげ、そこに全身よりも大きく描かれてあるか ? ー くちびる ・ ( ール・ホワイト嬢の顔を、その弓形の唇を見ていた。私 そうですね、ちちれているようですね。」 はつかっかと切符売場の窓口に歩みより、そこにさっきか なるほど。ではやつばり人種がちがうのですね。 ひじ やまと ら肘をついて中をのそいていた男を押しのけて切符を買おや総じて大和民族の髪というのはですな、その切断面が丸 街うとした。するとその男は私のほうをぐっとにらみつけ、 いのですよ。だから一本の髪の毛をとって光にすかしなが こより の 私の身なりを見まわした後、帽子をかぶらずにいる私の髪ら、紙撚のようにまわして見ても、その太さはどこにも変 化ないですな。ところが、外人のちちれている髪の毛をと 幽に目をやって、これだ、というような顔をして、しばらく 目を動かさないのであった。 ってですな、いや、あなたのように大和民族でありながら かすり 私はその男に見おぼえがなかった。黒い絣をきた丈の高 パアマネント・ウェ 1 ヴをかけている人は別ですよ、ほん い目のぎろりとした好男子で、骨太の手や顔は南洋の土人とうのちちれた毛を切断してみるとその切り口はかならず やり たけ