五郎 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

りんご ところ ども万一自分があれをほしいと言い出して、母が困ったの処にある人口二万ほどの余市という林檎の産地として有 ら。五郎はその考えで自分を苦しめ、その慾望を圧し殺し名な町であるが、そこにいたのは、ほんの一年ほどであっ てしまった。 た。彼はそこから、この山奥の寂しい分教場へ、多分自ら 好んで移って来たのである。父五助は、近衛師団に属した 「本当に、ほしいもの無いのかい ? 」 母はそう言って念を押した。そして、とうとう父母と五下士官であったが、日清戦争で台湾征討に加わった。戦後 おもらや 郎たちは、その玩具屋の前を通りすぎた。五郎の心の中は休職になると、同僚一一人と誘い合せ、海軍の測量船に勤務 いらだ 焼けるように苛立っていた。言って買ってもらえばよかっして北海道に渡り、そこで小学校の教員になったのであ おそ と思って、その仕 た、という思いと、何やら怖ろしいことが過ぎてよかったる。その時五助は、「静かに暮したい . 事を選んだのだそうだ、ということを、後年母が五郎に語 という思いが、彼の心の中で渦巻いていた。 っこ 0 この時の経験も忘れられない。後年の五郎は、自分は、 ころ 五助が、その「静かな暮しーである小学校教員として数 もうあの頃から、いじけた、あたりを見まわしてから物を ままこ 言うような性質が芽えていたのだな、まるで継っ子じや年勤め、妻をめとり、長女鈴子が出生した頃から、日露の なしか、と思うのであった。 国交は次第に緊迫し、遂に明治三十七年、戦争が勃発し、 その年の夏、五助は、陸軍歩兵特務曹長として出征したの である。 分教場 やがて戦争が終り、栄誉ある金鵄勲章をもらって、再び 家庭に戻ってからも、この「静かに暮したい」という五助 。、ミはげしい戦 どういう理由で父がこの分教場に勤めることになったのの気持には変りがなかったのであろう じん か、五郎は分らない。父得能五助は、日露戦争に出征し、塵の間に二カ年を過し、重い傷を負い、軍人としての勤め そうちょう 旅順の一一〇三高地攻略戦に加わって重傷を負い、特務曹長を果した後には、この「静かに暮したい」という願いは、 なお * きんしくんしよう から少尉に進み、金鵄勲章をもらった。負傷が治ってから一層強くなった、と推定されるのだ。 後、五助は奉天方面の戦にも加わったが、平和恢復の後、 静かだという点では、この徳助沢以上に静かな場所は考 軍を退き、再び以前の職業小学校教員に戻ったのである。 えられない。生徒は三十人ほどで、それが一教室に入って 戦後、はじめて勤務したのは、砂谷村の西の六里ぐらい いるのだから、仕事そのものが「静か」であるかどうかは このえ ほっぱっ せん

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

れ、その廊下の北側は、六畳ほどの北向きの納戸のようなで、あちこちに石が出ているその流れの音が、絶えず耳も とに響く。そしてそれから以後、五郎たち兄弟は、この水 暗い室になっていた。 外から見ると、この家の特徴は窓にあった。西側の板のの音を聞きながら育った。昼間はその川は、五郎たちの遊 こうし 間の南面には、この辺の漁村によく見る細かい格子のはまび場である。蝦に似たザリ蟹というのが、石をめくると下 った硝子窓が二間の長さ一杯についていた。しかし東方のにひそんでいる。二分か三分ほどの小さいのから、二寸ぐ 座敷には、下の半分を上げ下げするようになった、幅二尺らいの大きなのまでいた。また川カジカやゴタロウという 小魚がいて、釣ることが出来た。芳子はこの家へついて米 五寸ほどの、西洋風な、縦に細長い硝子窓が取りつけられ てあった。六畳の書斎の南に一つ、東に一つ、隣の八畳のて、女中として働いていた。 居間の東に一つ、北に一つ、その窓があった。 その家へ越して来たはじめ、五郎は、近所隣の多いこの それは、五助の好みで特に取りつけられたものらしかつ新しい世の中に、しばらく当惑していた。右隣の金子家と このえ た。一一十歳の頃から陸軍教導団や近衛師団に入って、長いは、それ以後一番親しく行き来した。金子の家の中心は、 こと下士官の生活を送り、二度戦争に出、戦後将校官舎にそこの「おっか」であった。その頃四十ぐらいであったろ うか。身体の大柄な、子供のない主婦で、眼の細い面長な も住んでいた五助は、よく兵営などについている、そうい う素朴な西洋風の窓に慣れていたので、自分の建てた家に顔を心持ち仰向けるようにして歩く癖があった。彼女はワ それをつけたのであろう。しかし、この窓は、カのない五キガの臭いがした。秋田から移住して来たのだというが、 郎や鈴子には、上げ下げするのに重くって、大変不便であ半農半漁の生活をしていた。ロやかましい女で、近所の細 君たちも一目おいていた。しかし一番彼女を尊重していた った。それに幅が狭いので光線の入る量も少かった。 のは、その夫である金子の「おどーであった。細君よりも この家へ一家は移って来た。毎晩川のせせらぎが、家の 一まわり小柄な中年の男で、いつも家の裏の崖、 ( それは 暦東の方と南の方から聞えて来る。この辺は山が海にせまっ 五郎の家の裏の崖よりはずっと低く六七尺の石垣になって 供ているので、川はみな流れが早く、この幅一間ほどの小川 なわ わら でも、かなり高い音を立てた。それに豪雨があった時や雪いる ) の上にある草葺の馬小屋にいて、藁を打ったり、繩を 子 消えの季節などには、高さ四尺ほどに築いた石垣を越えて響ったり、またその馬小屋の横で五郎の家の畑と隣り合っ 水が道路に溢れるようなことがある。 ている自家の畑を耕したりしていた。「おっか」は、ほと 6 昼間は忘れているが、夜寝床に入ると、深さ五寸ほどんど畑の仕事をせず、家にいるか近所の家へ話しに歩くか ガラス なんど からだ にお えび がに

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

いる廊下を、父に引きずられて行った。抵抗しても駄目だていたように、五郎には思い出される。彼は、荷物を積ん だ馬車のそばを歩いていたが、疲れたらしいということ ということを感じながら、その時、便所がよほど怖ろしい で、馬車の上へ抱き上げられ、ごとごと揺られながら、進 場所に思われ、手足をばたばたさせて、連れて行かれまい んで行ったことを思い出す。どういう訳か、五郎の徳助沢 とした。 こういう記憶は、その前と後のことは、過去という闇のでの思い出は、日が赤い色の地面を照りつけている場面が ムしあな 中に姿を消していて、その箇所だけが、節穴から洩れる光多い。徳助沢は、小樽に近いという便宜はあるが、農耕地 としては、あまりよい土地で無かったにちがいない。砂谷 のように、ばっと浮き出すのである。 しかしいくつかの、こういう記憶の断片を並べて見れ村もそうである。その辺は耕土が浅く、下がすぐ赤土にな がけ ば、この分教場にいるあいだの五郎に人生がどういう形でっているので、道路や崖はたいてい赤かった。またその赤 映ったかをほ・ほ推定することが出来る。多分父の五助は、土の下は水成岩の黄色い層になって、切り通しなどに露出 その二三年の間に、生涯をこの砂谷村で過すことに心をきしていた。だから五郎の記憶の中に浮ぶ徳助沢がいつも赤 め、土地を買い、家を建てる計画をしていたのだった。し土の道があちこちについているのは自然のことであろう。 かも、その家を建てる場所が、この徳助沢でなく、砂谷村しかし半年も深い雪に閉じこめられるこの山の中にいな の本村であること、また、その家への移転を機会に、教員がら、雪についての記憶がほとんど無いというのは、どう いう訳であろう。あるいは冬のあいだ、幼な児の五郎たち をやめ、砂谷村役場に勤めることになっていたのだった。 それは彼の実生活に対する考えが、徳助沢に来るまでとはは、一切戸外へ出られなかったから、自然と雪についての 印象が残らなかったのであろうか。それともまた、人の記 大分変って来たことを語っている。 「静かに暮す」ことを念願として、この山間の分教場を受憶というものは、人の心と同じように、暖い光と熱との漂 暦け持っては見たものの、子供が一一人三人と多くなり、ことっているところで育ちやすく、長い命を持ち続けるのであ 供に三番目の広が病気がちで、始終山を越えて小樽の医師のろうか。それは次の砂谷村での生活が、吹雪や、雪の夜明 もとまで通わなければならぬことや、上の鈴子が学齢に達けや、雪の消える春の気などに、深くつながれたもので 子 して来て見ると、設備の整った学校や医師のいる人里で暮あったのに較べて、意外なほどである。 たた どういう風にして、分教場の住居が畳まれたのか、とに さなければならぬことを五助は感じて来たのであろう。 ある日、そうだ、その日も赤土の山添いの道に日が照つかく砂谷村へ行く山のなぞえの赤土の道を、何やら箱のよ おそ

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

問題であるが、世離れた、うるさくない世界としては、多谷村は、函館から小樽、札幌を通って奥地に通ずる国道沿 分ここは、五助の気に入ったのであろう。ひっそりした山 いの地であったため、明治三十年に鉄道が通じるまでは、 の間なのに、そこから一時間足らず歩けば、繁華な小樽市この村の道路を旅行者、移住者が多く通った。だから住み へ出られるという便宜もまた併せ考えられる条件になったやすい谷間などは、随分早くから耕作者が入り込んでいた であろう。 のであろう。 後年五郎が、昔のことをあまり話したがらぬ母から聞き五助が教員としてここへ来た時、分教場の付近には五六 出したところによると、この徳助沢の生活は「本当に金が軒の農家が住んでいた。一番近い隣家が、岡島の老夫婦の かからなかった」そうである。五助には、収入としては、家である。この人たちは福井県から移住して来たのだ。老 ほか 多分この山間での生活には不自由をしないだけの月給の外夫婦の間に長男が居り、それに嫁がいた。そして清ちゃん に、軍人の恩給と金鵄勲章の年金とをもらっていた。だかという孫が十一一三歳になっていた。この沢から山越しに小 しん ら、そういう境遇にいる外の教員の倍ぐらいの収入があっ樽へ出る坂の途中には、一一軒の山田家があった。これは親 こだら た。数年後に五助が、砂谷村にささやかながら土地を買戚である。また岡島家から少し向うの杉木立のかげには、 家を建てて引越すことになったのは、そういう生活の中西さんという人が住んでいた。この人は、その頃四十歳 余裕のさせたことであったのだろう。 ぐらいであったろうか。中西さんは「ヤソ」だということ ほお 徳助沢は、多分徳助という男がはじめ開拓した土地なのであった。頭は大分禿げているが、頬の赤い面長の人で、 たるや であろう。この村には、外にも太右衛門沢とか樽屋の沢と時々分教場へ来て五助と話し込んでいた。 かいう小さな谷間があちこちにあって、そこをはじめ開い 「中西さんは学問のある人であったらしいねーと母が後年 た人間の名を推定させるのである。しかし、樽屋の沢には 五郎に言ったことがある。息子や娘は東京や外国にいると 暦樽屋という姓の家が今もあるのだが、徳助沢の開拓者徳助いうことであった。中西さんの家のもっと奥の方には、子 さび 供がどういう人であったか、その人の子孫はどうなっている守の芳子の家があった。そこは大分遠い淋しいところで、 かは、全く伝わっていない。鰊漁業地としての砂谷村が、 一度五郎は芳子について、途中まで薄暗い林の中を歩いて まつまえ 子 維新以前から松前藩の植民地のような形で繁栄していたた行ったが、おっかないから帰ろうと言って戻って来たこと がある。多分そのとき、十三四歳であった子守の芳子は、 め、それに付属した耕作地であるこれ等の「沢」は、やっ ばり明治の初年頃から人が住んでいたのであろう。また砂五郎の守をしながら家へ帰って見たくなったのであろう。 あわ にしん せき

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ひなた その頃、三番目の子の、数え年一二つの広が病弱であったよく透る声で、向うの山の中腹から、谷の底の日向にある ので、母のタミ子はしばしば広を背負って小樽の医者へ通小さな分教場の方に声をかけた。 った。その道を通って、五郎も何度か父に小樽へ連れて行時々山の向うから、船の汽笛がポ 1 ンという間の抜けた かれた。この徳助沢のあちこちに住んでいる農家は、野菜反響を響かせるほか、しいんと静まりかえっているこの山 かご を小樽に供給するので、馬の背に振り分けにつけた籠で、 の中では、人の声は五町も六町も先まで届くのである。ち この山道を越えて毎日のように運んでいた。ある時五郎 よっと間があって、岡島の婆さんの口から出た声が、風の ない暖い空気の中を泳いで分教場の開いた戸口まで届いた は、ふだん彼が遊びに行っている岡島の爺さんと婆さんが、 馬の両側に大きな籠をつけてこの山道を小樽の方へ登ってと思われる頃、二十五六歳の若い細君である五郎の母が戸 行く時、二つの籠の真中の馬の背に乗せられて、「下の山口に現われて、 「はあい、そこへ置いてって下さいやあーと言う。その声 田さん」のあたりまで行ったことがある。 が、波紋のように谷間一杯にひろがって、馬と爺さんと婆 「ほら、五郎さん、ここで下りて家へ帰りなさいな。」 こだら そう言われて、馬の背から下されたが、五郎は承知しなさんと五郎の立っている杉の木立のある「下の山田さん」 かった。、 樽まで行くと駄々をこねた。山の向うには、美のあたりへ届いたと思われる頃、婆さんはこっくりとうな しいやかな町がある。店には色々なものを売っている。ずく。そして、 「ほうら、五郎さん、お母さんが来ましたわいな」と言っ 海があって、大きな汽船が浮いている。そういうこの都会 て、この子を置いて行ったものか、奥さんが来るまで待っ についての記憶が、五郎の心の中に、美しい夢になってい すげがさ、やはん ていてやったものかと思い迷っている。菅笠に脚絆という からだ このまま馬に乗って、山を越えて、賑やかな町へ行きた古風ないでたちの、頭の禿げた身体の大きな爺さんは、馬 い、という心から、日の照った坂道のほとりで、駄々をこを追って先に坂を登って行く。 タミ子は、岡島の婆さんにも困ったものだ、甘やかして ねた。そこまでは五郎は記憶している。後年母が話してく れたところによると、「下の山田さん」あたりから、岡島ばっかりいるから、五郎はますます手のかかる子になっ の婆さんは、母を呼んで迎えに来てもらったそうである。 た、と思いながら、坂を登って行く。泣いている五郎のそ てぬぐい てつこう 「奥さあん、五郎さんがのう。」 ばに、手拭で髪を包んだ上に笠をかぶり、手には手甲をは しわ 福井県から移って来た人である小柄な岡島の婆さんは、 め、足に脚絆を巻いた、色の黒い、皺だらけの顔でにこに ころ だだ ばあ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

鈴子が窓口をあけて、そこにいる若い吏員に、「これお願便局と、それに続いた四五軒の家が、白く潮風に晒されて いします」と母に言われたとおり小さな声で言って、弁当立っている。その郵便局の筋向いの所で鶴田家は飲食店を 開いたのであった。 を差し出す。するとその吏員が、ふりかえって、 「はい、得能さん、お弁当ですよ」と言いながら、受け取五郎の家の東と南を流れている川は、役場の前を通っ る。その時父は、 て、鶴田家の裏手に来る頃は、流れがゆるやかになるとと らんでん 「いや、どうも」とその吏員に言って受け取るのだが、自もに、水の中には白い汚しい物が沈澱している。そこで 川は、海岸通りにけられた橋を濳り、郵便局の裏手で砂 分たちにも何か言ってくれないかしら、と五郎は、いつも 胸をどきどきさせているが、父は、きらりと眼鏡をこちら浜を斜に切って海に注いでいる。しかしその川口は、大時 たび ぐあい へ向けるだけで、鈴子と五郎には何も言わない。 化のある度に、砂の寄せられるエ合で、西北に向ったり、 役場へ入る度に、怖ろしい所へ行くようで重っ苦しくな西南に向ったり、変化するのであった。 さび っているのに、父が言葉をかけてくれないので、五郎は淋五郎と鈴子は、近所の家へ遊びに行かずにこの鶴田家へ しい。しかし、父がその時、「五郎はよく持って来たな」よく遊びに行った。それは、近所の家にはまだ馴染めなか とでも言ったら、とても自分は恥しくって困るだろう、とったが、鶴田家は母の遠い縁続きにも当り、また両家とも 彼は考える。そして、弁当が受け取られると、ほっとした この村へ越して来て新しいということから、特に家と家と 気持で役場の坂を下りて川に沿った道を家へ戻る。 が親しく交際した結果であったのだろう。 ころ その頃のこと、五郎の家の遠い縁類に当るという、鶴田鶴田家には、老人夫婦と若夫婦とがいた。若い美しいお という家が、この村へ越して来た。そこは、役場の下の道嫁さんは、その頃まだ来たばかりで、子供が無かった。道 を更に一一町ほど行って、海岸へ出る角のところである。役路に面した土間には、客が腰かけるような簡単な設備がし にぎ 暦場の辺からこの海岸までの間は、村の一番賑やかな通りてあり、それに続いた座敷は二つほど客用にしてあったよ 供で、菓子屋、雑貨屋、米屋、湯屋、魚屋など、色々な店がうだ。奥の室には家人たちがいた。五郎たちが遊びに行く すそ 並んでおり、通りを隔てて役場と向い合った山の裾には、 と、老人夫婦はことに喜んで、二日三日も泊めることがあ 子 小学校と病院とがあった。海岸通りは、鶴田家のところかった。そして五郎と鈴子は、夕方になると、老母とお嫁さ んに連れられて、役場の近くにある銭湯へ行った。五郎 ら両方へ海沿いにひろがっていて、どーん、どーん、とい う波の音がする。海の景色を通りからさえぎるように、郵は、それまで、いつも家の風呂に入っていたので、その大 たび おそ くぐ おおし

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

は、誰が言い出したのか、そういう時、 郎や鈴子たちと区別なく扱った。しかし、自然の区別は厳 「芳子よさんこ としてあった。五郎はそれをよく知っていた。芳子はよそ はまなしこ の子だけど、貧乏だからこの家に来ているのだ、と彼は信 もら 餅ついて食わせねば じ込んでいた。だから、自分がほかの子供の仲間になっ 馬鹿芳子」 て、はやし立てても、芳子は母に告げロすることが出来な と言って、遠巻きにして、はやし立てた。もう十六歳ほ 。その悲しい芳子の心の急所をあてにして、それを踏み どになっていた芳子は、子供たちより一まわり身体が大き台にして、自分はほかの子供等を喜ばせようとしている。 いので、 それは悪い事にちがいなかった。 「何したって、このわらし ! 」 芳子は身体が大きくっても、子供を負っているから追い と腹を立てて追いかけるのだが、背中に豊を負っているつけない、 という悪童たちの勘定も、ときに間違うことが ので、わーっと走り去る子供たちに追いつけない。 あった。芳子は思いがけない早さで駆け出して、十ぐらい そういう時、いつの間にか五郎は、子供たちの仲間になの男の子を撼まえ、をびしゃんとる事がある。そうい つか り、その「芳子よさんこ」を合唱して、遠くから、からかう時、芳子が自分を捕まえないことが、五郎の心に痛い疵 った。それは悪いことだと、思っていた。しかし芳子なを残した。彼は自分を卑怯だと思うのであった。だが、そ ら、いくらからかっても後が怖わくないし、それに自分がれにも増して、五郎は、村の子供たちの仲間入りをしたか 一緒になって歌いはやせば、子供たちが喜ぶことを彼は察った。そして、それには、これが機会だということが分っ ごと した。そして、そういう機会が重なる毎に、彼は子供たちていた。 に仲間として扱われる度が増して来た。子供たちは、自分若し彼が芳子の側に立って、近所の子等と戦うようなこ こうかっ 暦等と同じような狡猾さや、ずるさや、乱暴さを持った子だとになったらどうだろう。自分が本当はそうしなければな 供と認めぬ限り、仲間と見なさないのである。五郎はひそからぬ事として、五郎は考えて見ることがあったが、ぞっと かわいそう に芳子を可哀想に思った。芳子の家はひどい貧乏で、得能するのであった。若しそんな事をしたら、自分は永久に外 子 家へはじめて来た時は、着がえを一枚も持っていなかっ来者として、この村の子供たちの世界からのけ者にされる た、といっか母が言っていた。それを、母は自分の子と同だろう。そして、この薔薇の垣根の内側にある花壇のあた じように可愛がったり叱ったりして育てて来、家では、五 りから一歩も道路へ出て行けなくなるだろう。そして、こ かわ しか からだ

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

えさしおいわけ は、松前藩の植民地的な漁場であった。江差追分の歌詞にで、「この頃は、鰊漁期で、津軽、南部方面の傭い漁師が おしよろたかしま ある「忍路、高島」というその忍路は、砂谷村の西隣であ大勢入っていますから、その悪い言葉を真似してはいけま せん」と言った。これは毎年学年のはじめにする訓示の言 り、高島村というのは東隣である。その忍路は、美しい さい湾で、今でも付近の漁船の避難港になっているが、昔葉である。それを聞いたとき、五郎は変な感じを抱いた。 はそこに松前藩の運上所というのがあり、大変繁栄してい彼は砂谷村の人たちの言葉は、これでも「南部衆」や「津 たという。運上所というのは、この近海でとれる鰊の何分軽衆」よりはいいのだろうか、と不思議に思った。この頃 なわ やぐら の一かを、税として取り上げる役所であったらしい。砂谷村の往来で、繩の束をかついだり、櫓や板の類を連んだ やまぶどうつる 村も当然その管轄下にあった訳である。高島村というのもり、また石を入れて海に沈め、網をつなぐ為の山葡萄の蔓 ヒで作った直径四五尺もある丸い籠をかついで通る「傭い」 漁業場であるが、そこは、この海岸に冬期に吹きつのる」 さえぎ 西の風を遮るような大きな東向きの湾の一隅にある。そのたちによく逢う。彼等は、 なんだ 「汝達、これがら、どっちやさ行ぐや ? 」とか、 大きな湾は昔は大きすぎて用をなさなかったが、後年は北 海道西岸第一の港湾なる小樽になり、高島村はその防波堤「あいやなあ、なもかも分ねぐなってしまたもな。」 の外側にはみ出してしまった。高島、砂谷、忍路の辺は、 というような言い方をする。それはこの村の言葉と同じ 松前藩にとっては遠隔の地にありながらかなり重要な漁業系統だが、もっと訛りの強いものであることが、やがて五 地であった。だから文化は細々ながら、海岸沿いの松前城郎にも分って来た。松前の福山に育った母の言葉は、この 下の福山から伝わっていて、この付近の漁村には、昔なが村の人たちと同じようでありながら、もう少し訛りの少い らの建築、風俗、言葉などの伝統が残っていた。 ものであった。広島県人である父の五助の言葉は、それと 言葉の系統は青森、秋田、盛岡辺の方言を雑多に含んだ全く違った系統のものである。五助は、ふだんは、軍隊で 暦ものであるが、それ等が混合する過程において、あまり難使ったらしい標準語に近い言葉を使う。 「五郎、そこにあるその盆を持って来い」とか、 供解なものは捨てられたためか、もっと平明になり、哀調の 深い東北訛りを帯びている。 「これ、鈴子、お茶を早く持って来る」という風なもので 子 くちひイ・ 新学期の初めに、頭髪を分け、ロを生やし、たった一ある。 ていねい 人詰襟でない白い固いカラ 1 をのそかせた背広服を着た校しかし来客があると、父は大変物腰が丁寧になり、 長先生が、戸内運動場の壇の上から、色々お話をした中「どうか、まあ、ちいと、お上がりつかわさい」と言い かんかっか 0 ろ わが まね

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

じゅん 9 う この山間の分教場の横には、かなり大きな池があって、 う。目の前に置かれたものの性質に自分を順応させること 半分は葦や蒲で埋まっていた。大きい、と五郎は思った が出来ず、それを自分で思い込んだとおりにいじって壊し めざま が、鶏が自分の肩ぐらいに見える時の感じかたであるからてしまうのだ。大人になってから、彼は懐中時計や眼覚し 五間四方ぐらいの池であったのだろう。その池に五郎は、時計をいじっては、動かなくなると、自己流に無理に動か さいし 長さが一尺もあると思われる美しい彩色の玩具の軍艦を浮そうとして、よく壊した。蓄音器を彼がいじると、いっか べたことを覚えている。その時には、彼より五六歳年長の動かなくなってしまう。たいてい機械には、無理の出来な 少年である清ちゃんがそばについていたように思う。その し弱い個所がある。五郎は、そういう所を、こうすれば壊 ぐあい 軍艦は、彼が思うようにエ合よく浮びもせず走りもしなかれそうだ、こわれるだろうか、こわれるだろうか、とやっ っこ 0 て見て、本当に壊してしまう。彼は色々なものを壊れてし この軍艦のことについて、後年母が彼に語った。町へ行まうまで無理に動かして見る癖があった。 って ( この山間の分教場の正面にある五百尺ぐらいのなだ人間に対する場合にも、彼のそういう性質の現われがあ おたる らかな山を越すと小樽に出るのである。 ) 軍艦を買って来った。言わなくてもよい事、言えばその場にいる人を不愉 たたみ てやった。それは畳の上を車で走るようになっていた。し快にする事を、彼はどうしても、言いたくなる。それを我 ばらくそれで遊んでいたが、五郎は、やがて、石を持って慢していることができない。そういう場面が幾度か後に彼 めちゃくちゃ 来て、それを目茶苦茶にこわしてしまった。びつくりしの生活にあった。 たず て、どうしたのかと訊ねると、五郎は、どうしてこの軍艦軍艦を石でこわしたのは、その性質の最初の現われにち が走るかしらべようと思った、と答えた。それを聞いた時がしオし 、よ、。母にその話を聞いてから、五郎は、幼年時代の 母はあきれて腹も立てられなかった。 記憶を、おっかなびつくり並べて見た。その一つ一つが、 にがわら 暦これは五郎の記憶にないことであった。聞いて彼は苦笑自分の性格の、動かすことの出来ない象徴のような気持が 供いをした。それではその畳の上を走る軍艦を清ちゃんと一一するのである。 人で池で走らせようとしたのだったか、と彼は気がつい ある日、「この人がお祖さんだよ」と母が言った。一 子 た。その話の、何故その軍艦が走るかをしらべようとして人の老人が遠い国から、この分教場へある時訪ねて来た。 こわ しわ 石で壊した、というのも、いかにも自分の性質にちがいな黄色い皺だらけの顔が大きく、身体も大きかった。だが、 い、と彼は思った。彼のは探求心が強いというのと少し違どういう表情をして、何を言ったのか、五郎は記憶してい けん あしがま まん おとな じ

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

り、子供たちの間で交わされる性についての空想の混った 北側の暗い室にいて、時々耳に入る炉辺の言葉から次第に はんじよう 話を何度か聞いた。鰊漁のある間特に繁昌するゴケヤと言事情を理解した。問題は井戸のことであった。金子の家で おしろい しんせき なか われる三軒ほどの家にいる白粉を塗った六七人の女たち、 は、子供がないので、親戚に当る若い夫婦ものを、半ば養 ころ 酔って夜村道を歌って歩く雇いたち。そういうものと、子子のようにして、この頃同居させていた。金子の家の井戸 供たちの話とは結びついて、次第に性のイメージが彼の心は水がよくなかったので、初めから五郎の家の裏の鱶下に がっしよう の中で魔物のように酵した。 ある井戸を一緒に使っていた。冬はその井戸に、合掌形の ある日、十歳ぐらいであった五郎は、台所の土間で、母雪よけ小屋を金子の小柄な「おど」が作った。この若夫婦 がおそろしく腹を立てて、芳子を崙で打っているのを見が隣家に来てから、水を汲みに来るのは、若い嫁の仕事で た。母のタミ子はふだんは静かな人であったが、腹を立てあった。その嫁が病気になったので、三十歳ぐらいの身体 がんじようむこ ると、漁村に育った女の強い性質を丸出しにして呶鳴り立の頑丈な婿がその頃毎日水汲みに来ていた。それを今後は てたり子供を打ったりすることがあった。しかし芳子が打やめてもらう、と母が言い、金子の「おっか」が、よその たれるのを五郎が見たのは、これが初めてであった。芳子井戸へ行くのは不便だし、この土地を売る時から井戸は使 はほとんど母と同じ位の背で、段々太って大人びた女になう約束であったのだから使わせてほしい、と言った。 っていた。芳子はもう、大分前から五郎たちと遊んだり、 しかし、「今度のようなこと」があれば、井戸を使うの 子供たちに馬鹿にされてはやし立てられるような子守では は断る、と母が言った。計舎の人の交渉の特色である根気 なく、ほとんど家の炊事を全部一人でする、役に立っ女中よさで、話はくどくどと夜更けるまで、長く続いた。一一三 になっていた。その芳子を母が打っているのは、五郎には 日経って、芳子は居なくなった。親元へ帰されたのであ おそ 怖ろしいことであ 0 た。芳子は母に打たれながら、抵抗せる。そのあとも、金子では五郎の家の井戸へ水を汲みに来 暦ず、土間を段々便所の方へ退いて行き、手を頭の上にかざ た。しかし水を汲みに来るのは、病気上りの隣の嫁か「お 供して自分を防ぎながら、腰をかがめるようにした。そのあっか」に変った。彼女等は五郎たちに対して、以前とちが と、芳子は台所の隅に坐って泣いていた。 って不愛想になった。それからしばらく経って、その「今 子 母が怒った顔で隣家へ行った。夜には隣家の金子の「お度のようなこと , が五郎に分った。それは母が、客の誰か 7 つか」がやって来て、父と母と三人で長いこと炉辺で話をに向って、その炉辺で芳子の居なくなった事情を説明する していた。炉辺から子供たちが追われたが、五郎は廊下ののを、台所から座敷へ通る途中で五郎が聞いたのである。 ろばた からだ