伊藤整 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

芸術院賞授賞式の日後列中央整その右どなり中村光夫 ( 昭和 42 年 5 月 ) わいせつ ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」が、猥褻文書と して検察庁に起訴された。今までいつも争いを避けて町 来た伊藤整にとって、全く思いがけない不幸な災厄で あった。しかしこの場合、文学の自律性、芸術性の立 場から引くことはできない。伊藤整は文学の尊厳性を 守る闘士として、実に糒り強い、巧妙な、不屈なたた かいをたたかった。誰が被告になったとしても伊藤整 みごと ぐらい見事にたたかえた者はいなかったろう。どんな ・ーうなん 時も冷静に家 」殳にしかも柔軟に論理を尽して反論した。 そのためには「伊藤整氏の生活と意見」というからめ ふうし 手からの刺作戦も行う。そして「裁判」という詳細 かっ堂々たるドキュメントも記録する。この裁判は文 ひと 化史的には見事な勝利であった。全文壇が伊藤整の人 柄に味方し、あらゆる援助を行った。 このチャタレイ事件は伊藤整を大きく成長させ、引 「込み思案の彼をして、社会正義のための実行者に 貎せしめた。軽妙な文明批評「女に関する十二章」 そしてチャタレイ裁判の本質を描き、芸術と社会の関 係を追求した「火の鳥」などで伊藤整プームが起り 超ベストセラー作家になった。 第、カや↓・ 杉並区久我山に移った伊藤整は、工大の英語教師を 続けながら、戦後文学の中心的存在として八面六臂の 活躍を続ける。特に長編「氾濫」は、急に流行作家、社会

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

せす、酒も飲ます、まるでサラリ ーマンのような謹厳 で実直な生活を持ち、勉強家であったため、文士とは 肌合いの違うウサン臭い異端者として敬遠されていた のだ。伊藤整はその蔑視にえながら日本の文壇の本 を質をじっと眺めていた。日大芸術科の講師や出版社に っとめながらも生活は苦しく、その点では上林暁など 中央線沿線の貧乏文士と生活的な親近感があった。 北海道の妻の実家に疎開し、べニヤ板工場に勤めな がら終戦を迎えた伊藤整は、北大の講師となったが、 昭和一十一年九月辞任し、上京する。そして二十二年 右ローマサン・ピエトロ寺院の前で長女桃子 ( 左 ) と整 ( 昭和二十六年 ) 左古書展にて ( 昭和三十八年 ) 南多摩郡日野町の新居に移り、長編小説「鳴海仙吉」 をさまざまの雑誌に分載しはしめる。それと同時に長 , 学物編評論「小説の方法」を書きはしめる。「鳴海仙吉」 と「小説の方法」は伊藤整にとって画期的な仕事であ るばかりではなく、日本文学史上、不滅の傑作と言っ ても過一一口ではない。 この二作によって伊藤整は、日本 の現代文学のもっとも先駆的な中核となり、 「小説の 方法」にはじまる " 伊藤理論 , は近代日本文学の原理 論となり、戦後文学の方向を主導した。どんな伊藤整 ぎらいの文壇人も「小説の方法」にはしまる伊藤理論 の画期的な意義だけは認めざるを得ぬ を かっき かんばやーあかっき きんげん

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ていた胸苦しくなるまでの感傷を、はるかに素晴しい たとい、フことは、何よりも一一一一口表現とい、つことに重き 8 を置くことにほかならない。思想や人生体験が先にあ 言葉で歌い上げているのだ。こういう詩を自分もっく かんばらあり り、それを世に伝えるため文学を書きはしめたのでは りたい、それが少年伊藤整の夢になった。彼は蒲原有 ろふう 明、三木露風、北原白秋などの詩をむさばり読む。そ なく、藤村などの詩の言語芸術の素晴しさに感動し文 して藤村の次に彼の心をとらえたのは、新進詩人の萩学をはしめたのだ。伊藤整の文章に対する美意識や神 むろうさいせ、 原朔郎であり、室生犀星であり、百旺宗治であった。 経の鋭敏さはここからはしまる。そして北海道の風土 特に犀星詩の直截で平易な言葉使いによる鋭角的な抒や人間は、短歌や俳句などの伝統的短型詩より、近代 情、朔太郎の近代人の憂愁と異常感覚を表現したロ語詩で表現するのに本質的に向いていたのである。 しかし伊藤整は詩や文学に夢中になったからと言っ 詩に大きな影響を受けた。「中学の三年四年五年と、 僕は藤村以後の日本の新しい詩や西欧の詩の翻訳に熱て、学業を怠けるようなことはしなかった。逆に詩に 中し、当時のもので読み残したものはいくばくもない 夢中になったから、なおさら勉学にも努力を注ごうと まじめ する。こういうところが伊藤整の真面目でユニークな、 であろ、つ」と「自伝的スケッチ」の中で自ら一一一〔、つほど ほうとうぶら、 の打ち込み方であったのだ。そして大正九年、中学四あるいは長男的な生き方である。放蕩無頼の文学青年 になることを自ら許そ、つとしないのである 年生のときから読むだけではなく自分で詩をつくりは 大正十一年、十七歳の時、伊藤整は小樽高商 ( 現在 じめた。大正十年中学五年の時には級友の石島三郎と ふみえ の小樽商大 ) にきわめて優秀な成績で合格する。当時 ともにがリ版の詩誌「踏絵」を創刊し、三号まで刊行 の小樽高商はその斬新な教育と就職率のよさで全国的 している。伊藤整はおとなしい優等生から文学青年、 詩青年の道を辿り出したのである。 に知られ、地元よりも、日本各地から実業をめざす優 小説には余り興味が持てす、ます詩に熱中し、詩か秀な青年が集って来た秀才校であった。伊藤整は塩谷 ート・コースへ進 村きっての秀才、知識人としてエリ ら文学的出発を遂げたということは、伊藤整の文学を 考える上で重要である。伊藤整自身最後まで自分の本んだのである。伊藤整自身、本心は究極的に詩人を志 質は詩人であると考えていたようだ。丸谷才一も指摘望していたに違いないが、同時に秀オとして家名をあ しているように、詩によって文学的に開眼し、出発し げ、父母を安心させようとする立身出世の野心に燃え わらさくころう はぎ ざんしん

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

左昭和四十四年、整 が入院していた東京・ 豊島区の癌研付属病院 下整が、晩年創 立に心血を注い 東京・目黒区駒場 の日本近代文学館 氾監 變容伊藤整 右晩年の三部作「氾濫」 ( 昭和 年新潮社 ) 「発掘」 ( 昭和年新潮 社 ) 「変容」 ( 昭和年岩波書店 ) 伊藤整 1 物第一 0 る、齢とった女にも経歴が蓄積された美と魅力がある と、大胆に老年の新しい境地を開拓した小説であった。 伊藤整はここから、「年々の花」「三人のキリスト 者」を経て、エゴイズムや性を超えた、生命の力を、 絶対の救いをめざしていたに違いない。それを果せす して六十四歳、業半ばで急逝した伊藤整の無念を思う と、ばくはくやし涙にくれる。伊藤整こそ、老年の現 代文学をつくり出す唯一の文学者であったのだ。 伊藤整は日本における最初の現代文学者であった。 古い文士や小説家を否定、捨象し、現代社会の実務の あ。 垢にまみれながら、しかも純粋な芸術をめざしたもっ とも知的で、努力家で、しかも詩人の魂を失わなかっ せんくしゃ 新しい文学者の姿勢を、生き方を示した先駆者で あった。そして″伊藤理論と「鳴海仙吉」あるいー 晩年の三部作は現代文学の基礎を築いた作品として文 学史に永遠に遺るに違いない 付記本巻に使用した写真その他の資料収集に関し、 ご協力いただいた、生沢朗、沢田斉一郎、瀬沼 茂樹、田居尚、竹田正雄、田沼武能、長尾重武、 益田義賀の各氏、・および北海道新聞社渋谷四郎 氏、小樽商大室谷賢治郎氏、同鈴木三重子氏、 日本近代文学館字治土公三津子氏に感謝します。 なお、写真の著作権は極力調査しました。

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

こ第 沢田さんが語る。「この場所は伊藤くんにも喜んで貰 えると思います。この道はもとの国道でしてね。ここ を鈴を鳴らして馬車が通ったものです。伊藤くんはこ こを散歩して詩想を得たに違いないし、伊藤くんのお 父さんもここを通り、あの役場の裏手へ出る道を毎日 通っておられたのですからね。何しろお父さんは他人 のために印をついてそれのことで苦労した人ですし、 の渡 宀豕にる 思出のところです」 の手 かんばく こ人て 坂下さんは道ばたに生えている靃木をさしていう 「これは逃げだした馬がトゲがあるので立ち止まると は家走 時、が いうので植えてある李の木ですよ」 ゅうひ おしよろみさき 当在線 現号 「夏になるとタ陽がちょうど忍路の岬のところに沈む じっ じまん のが実 , ーいい眺めなので、昔から伊藤くんも自慢にし のた道 谷い国 ていましたよ。あそこの高いところに見えるのが丸山 塩てを というのですがね、伊藤くんらと登って火を焚いたの らの が、ちょうど関東大震災の前でしてね。そのノロシが ちあん ゼんちょう つめ、町知安あたりまで見えましてね。震災の前兆だったとい うわさ 通をり谷 う噂でした。それをきいて、黙っておれよ、なんてい へ根な塩 ちやめ 商垣く市 うような茶目なところもありました。あれで伊藤くん 高のな樽 樽ら薇も はスキーなどいっ正式に習ったか、それとも頁の ) 一口メ一し。し 小ば薔根の がに垣冬人だから理論づけるのがうまかったのか分りませんが、 整囲、真『スキー教本』みたいなものを出したはすですよ。 周り 右 上 私や伊藤くんの小さい頃は、このへんのニシンの はん ころ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

理由でそうなったか、なせ沢田さんがそれをいわれた のか忘れてしまったが : 沢田さんも名教師、名校長として親しまれてきた人 である。長橋小学校の校庭に雪まつりを企画し、それ が札幌雪まつりのヒントになったという。そういう沢 田さんでも思い立って上京し、日大芸術科の映画科に 入った。当時伊藤整が教えていたし、芸術科は変った 学校だった。それにしても沢田さんが東京へ出たとい うことには、やはり田舎教師として満足できぬものか おもしろ あったのだろ、つ。そ、つい、つことは面白いことではある まいかビールを飲む、っち、伊藤さんが「首をくくる より仕方かない」といって泣かれた話が出た。 私どもはこうして別れたが、三ヶ月後に伊藤さんを 失うとはあまりに早すぎた。 あさりがわ その日はさすがに疲れたので、車を拾って朝里川温 泉へもどった。この夜どうして過したか、おばえてい 裏手の川の瀬の音が高かった。その日の朝女中 はんらん に川のことを話すと、数年前にこの川が犯監して家が 流されたことがあったときいた。明日、私はとにかく 五号線を蘭島、余前を通「て加気に行き、それから羊 蹄山の應を左へ折れて京極まで足をのばし、妻の親戚 浅岡氏を訪わ、そこで一休みして、伊藤氏夫人の実家 のある田生まで赴き、出来うれば、伊藤整出生の地、 おしよろ 小樽忍路の浜

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

1 範を出たあと小樽の堺小学校に赴缶し二十数年っとめ じようず 校長になった。話が上手で、小学生に童話をきかせて やったりして小学校で一番人気があった。 補習学校の宿直室で整がマンドリンをひき、堺小学 校の宿直室で沢田さんが歌をうたい、それをひそかに 聴いていた交換手が「今日はうたわないんですの」と催 促したので驚いたと小説の中で楽しく語られている おそらく沢田さんとは誰もが楽しくなるのであろう。 沢田さんの言葉「伊藤整文学碑のことで伊藤くんか しさフだく らようやく承諾を得たのだが、伊藤くんには悪いが、 病状もあまりよくないということたから、どうしても われわれが元気なうちに仲間で文学碑を塩谷に作り、 伊藤くんをその前に立たせて除幕式をやりたいと思っ ています。伊藤くんはああいう人だから、文壇というと 屋 ころはそ、つい、つことについてはウルサイところである し、自分もきびしくいってきた方だから、生きている 張 見うちは止して貰いたいといっていましてね。病気をし 鰊て気が弱くなったか分らないが、最近ようやく条件っ る きで承諾してくれたのですが、そのときの手紙は大事 あ にとっておきます。百万以下でやってくれ。 ( 工事費 町 はあとで百八十万円ときまった ) 昔の仲間以外から金 谷 塩を集めないでくれ。えらい人や文筆家から金を集めな

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

現代日本の文学 伊藤整、集 32 文学紀行Ⅱ小島信夫 評伝的解説Ⅱ奥野健男 監修委員編集委員 奥野ロ 端成 尾崎秀樹 ーー姦不ーノ 伊藤整集 伊藤整集 青春 典子の生きかた 幽鬼の街 生きる怖れ 生物祭 子供暦 雪明りの路 32 ニトッ卩 . 小樽市塩谷町後方左手に白く見えるのが国道五号線 ( 「雪明りの路」 ) . 「← 1 ノ 2 6 4 6 5 2 ー 1 0 0 2 I S B N 4 ー 0 5 - 0 5 0 2 4 2 ー 9 C 03 95

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

伊藤整文学アルバム ( 竹田正雄氏撮影 ) 奧野健男 伊藤整は、明治三十八年 ( 一九〇五年 ) 一 月、北海道松前郡炭焼沢村 ( 白神村、現在は 松前町 ) に生まれた。白神村は本州青森県津 たっぴ 軽半島の突端、龍飛岬からもっとも近い対岸 0 であり、よく晴れた日など龍飛岬から白神村 のしている洗雇物まで、見えるほどだ。松 月 前藩時代から内地人によって、ひらかれてい 年た地方で、鰊などの場として栄えた。ここ 和に伊藤整の母、タマの実家のある鳴海家 はかなり昔から師として移り住んでいたの てだろう。父の伊藤昌整は明治四年、広島県高 あわや 田郡粟屋村の伊藤彦五郎の六男として生まれ みよし 自 ている。広島県の山中、三次市に近いところで の 山ある。下士官養成所を出て明治二十七年、八 久年の日清戦争に陸軍の職業軍人として出征し 戦後予備役に編入された。そして明治三十四 京 東年、海軍水路部臨時測量員として測量船に乗 評伝的解説 449

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

0 。ヾ ら卒業してから一流会社につとめるという条件でまだ 父に許してもらう可能があったからであろう。しか 4 しそれと共に伊藤整自身、もし詩人、文学者としてた てなくても、いや詩人として生活できないときでも実 業人として生きて行けるという慎重な計画があったに いない。なにしろ石橋を叩いてしかも渡らないはど 用心深い伊藤整のことであるから。またこの頃から東 大、早大、慶大などのオーソドックスな文学部にある はんこっ 反感を抱き、傍流から独力で世に出たいという反骨精 神が働いて居り、敢えて苦手の簿記などがある商大に 進んだのかも知れない。それにしろ天下の東京商大に 合格しながら、三年計画のため休学し故郷で稼いでく るというのは伊藤整でなければできない行動である これも人に迷惑をかけたくない、人の迷惑もかかりた すす帋寺を物ッえ々 くないという彼の西欧個人主義的な合理主義の考えで あり、通常の文士の他人に迷惑をかけてもどうにかな 和 るという放浪精神と全く反対である 詩集「雪明りの路」をいちはやく認め支持した三好 書 イ鶩酌俥 ま↑を朝ま ~ ー歴達治は当時の伊藤整のことを回想し、「全く不思議な 一、す罸 吉廴対をを← ~ の当 の人物だった。ばくのところにあいさつに来たとき、商 大に合格したが、金が足りないので一年間故郷で働し てくると一一一一口った。ばくは東 ~ 泉にいればど、つにかなるか らと言ったが、ど、フしても帰るとい、つ。そんなことを 上左より蒲池歓一福田 清人整 ( 昭和十六年ころ ) 東京和田本町にて畑仕事中の 整 ( 昭和 17 年瀬沼茂樹氏撮影 )