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検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

びろ ちゅう おっしゃ 彦が書き、細谷教授が加筆した註の校正であった。拡けるい人だってあなたも仰言ったでしよう。」 しゅせき とその中に白い用箋が一枚入っていた。美耶子の手蹟であ「あら、うそ、うそ。そう言って見ただけなの。い、 よ、神津さん。私この方大好きなの。だから神津さんにあ った。美耶子の手紙であった。素早くそれを信彦は頁の間 へ押しこんで、机に放り出した。美耶子はまだハンド・ハッげて下さらないと私困るわ。」 くず グをのそいていたが、カビネ判ほどの写真を一枚とり出し美耶子の笑顔は大きく華やかに崩れた。開く花のような てさよ子の前に置いた。それは。ヒクニックの日、細谷教授感覚的な美しさだった。そういう開けつばなしな笑顔の美 がとったものの引伸しだった。 耶子を信彦は殪んど見たことがなかった。さっきからの彼 「あら、ありがとうございました」とそれを手にとってさ女の態度は、無理な表情がついてまわっていたが、今度は よ子は赤い顔をした。制服のさよ子を真中に武光と藤山と本当にたのしく笑ったという感じがした。 ひぎ が写っている。それを自分の膝に裏がえしに置くと、美耶「そうねえ、じや見せてあげるわーとハンド・ハッグを開い 子の顔をのそくようにして、 て、 「まだあるんでしよう ? ほら、あなたを川の岸でとった「これ私ーと言って、大写しになった自分の写真を三人の の、それから神津さんとお二人で歩いて来るのをとった真中へ、自分の方を向けておいた。 「まあ、素敵」と信彦がちらと眼をやったときは、さよ子 「だって、あれ私のですもの」と美耶子が逃げを張る大人が顔にくつつけるような近くへ持って行って、眼をちらち つぼい笑顔をした。 らとしかめて眺めた。 「あら、あなたちか目なのねえ」とさよ子を見て言いなが 「でも一枚は神津さんのよ。ね、持っていらしたんでしょ う ? 」と、美耶子がロの止め金をおさえて膝の上に持ってら、美耶子はあとの一枚を信彦にだまって差し出した。左 かば いる樺色のハンドバッグに、眼をやった。 手に川の水が光って見える土堤を美耶子と信彦の歩いて来 ようがさ 「持って来たんだけど、私、神津さんにあげたくなくなつるのが写っている。洋傘をさげ、きつい眼つきでうっす人 たの。やめにしておきますわ」と美耶子はおなじ笑顔で言の方を見ている美耶子の顔は少し痩せて見えた。信彦は暗 しん ったが、何となく芯のある笑いのように信彦に見えた。 い侘しい顔になっていた。 「どうしてですの ? 」 「ええ、私」とさよ子は言ったが、美耶子への返事はその たたみ からだ 「だって、この人怠け者でしよう。それに何だか、いけなままにして「そっちは」と畳に手をついて身体を伸ばし、 おとな なが

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

114 けの問題にして美耶子に答えたのである。 美耶子はにつと笑って、信彦に向けていた視線をそら「芸者をしていたらしいのです。それで今まで寄宿舎にお し、 いてたのを今度引きとった。そんな話です。」 「そうなの ? じゃそれでいいじゃありませんか」と信彦「無邪気だと思うわ。普通の少女は無邪気さや潔癖さを一 番外側においてるけど、あのひとは内側においてる。だか を突っぱなした。まだ美耶子は笑っていた。 「どうしてそれでいいんですか」と思わず信彦は突っかから、あの人の外側に現われるのは普通のひとの一番内側の あいまい った。ロで説明するにはあまりに曖昧なことであったけれこと。そんな風に言うと神津さん思いあたらない ? 」美耶 ども、美耶子にちゃんとそれを受けとってもらいたかっ子は熱心に、ゆっくりと言った。 た。というよりは、彼女の笑ってすましているその中味を「そういう風に言えば、あの人のことが一応は解釈されて 聴き出したかった。こういう話題で、彼女と再びこんな細るようだけど、すこし行き過ぎるようにも思うなあ」と信 かい処へ入って来られないとも思われたし、美耶子ならば彦は素直に彼女の言葉をとって考えようとした。だがそれ てごた では今意気込んでいた自分の気持がはぐらかされて用もな ぶつかれば手応えがあると思った。 「そんなことじゃないんです。僕がびつくりしたと言ってい処へ引き込まれると思い「だけど、少し理論がとおりす も、まあ一応は僕が悪いとすればそれで片付くというだけぎて、あの人は相変らず残っているようだなあ。それじゃ のことなんですが、少しも片付きはしないんですよ。多分さっきは何で笑ったんです」と彼は頭をあげて自分のあと から歩いてくる美耶子をふり返った。 女の人には女同志では見せ合わないものがあって、それが 男性にむかってだけ、突然示される。僕の言葉にのせる「私、笑って ? 」と美耶子はにやにやした。 と、どうも変になるんですが、そういうものがあるのでは「ええ、笑ったじゃありませんか ? 、と信彦は自分がさっ きから持ち出そうとしているのを美耶子がうやむやにしょ ないでしようか ? 」 おっしゃ 「じや神津さん、私にあの人が分らないと仰言るの ? そうとしているのだとやっと気がついて、少し腹を立てて歩 りやそういう人もありますわ。でもあの人なら、まるで内みをとめ、美耶子にまっすぐに向った。 いえ、笑いやしなくってよ」と美耶子は身体を斜にし 側を外側にして生きているようなものですわ。だから私、 正直すぎて、痛々しいのよ。何だか無理だわ、あの人の生て道をすり抜けようとした。その微笑を浮べ、陽を一杯に ししよう きかたは。姉さんは三味線の師匠だって言ってたでしょ浴びた美耶子の顔を、美しいなとちらと思ったとき、彼は からだ

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ばくっと信彦の手の写真をとりあげた。すぐ坐りなおし、 まじと目を注いだが、さよ子がすっかり別人になっている それを眼のそばへ持って行ってさよ子は見ていた。彼女がのに驚いた。ほの・ほのとした娘らしさはなくなっていて、 かたく それをじっと見ているのが信彦に息ぐるしくなって来た。 理智的に、すこし頑なな感じのする顔だった。ずっと大人 自分よりも美耶子の息をひそめた気配がじかに届いて来るになって見えた。 ようだった。 「あら、その方が似合いますわ。すっかり大人ですわ」と ひっそりとなったその空気のなかで美耶子が紙の包みを美耶子が言った。その声に驚きの調子が籠っていた。 とり出し、 「この方がはっきりするのよ。この方がはっきりするの 「これ、今までの分のお礼ですって」と静かな声で信彦によ」とさよ子は美耶子に見られながら靴下で畳を踏んで後 ふすまところ 差し出した。 向きに退き、襖の処でくるりと向きをかえると、そのまま 「あ、そうですか。ありがとうございました」と信彦はぎ廊下へ出て行った。信彦の顔を一度も見なかった。美耶子 ごちなく言い、冷たい風のようなものが自分と美耶子とのは信彦を、ちょっとその間燃えるような目で包むように見 間に流れるのを感じた。その儀礼的なやりとりの中で、黙ると、につこり笑って、そしらぬ顔になり、さよ子に従っ ってさよ子は写真を畳に置いたが、質がちがい、程度がやて室を出た。 や似ている沈黙が奇妙にその場に漂って入れまざった。 畳の上には一一枚の写真がむき出しに置いてあった。美耶 「お天気がいいから遊びに出かけません ? ーとその空気を子がひとり大きく写されているのは美しかった。それは彼 はらいのけるように美耶子が言った。「神津さんは忙がし女がこの室に坐って動かないというような感じをそこへ残 いでしようから、私たち一一人でどこかへ遊びに行きませんした。 か ? 」 信彦は校正刷の中にはさまっていた手紙を出して読ん はす 春「ええ」とさよ子はちょっと考える顔つきになったが、 だ。公園の西端れの分れ道の処へ明日の一時頃に来てほし 「じや私、着替えて来ますわ」と信彦を避けるように美耶 、とだけ書いてあった。その紙切れを手にしたとき、信 子の方だけをじっと見て言った。 彦は美耶子と自分との関係は本当の恋愛とはちがう、とい しばら 青 暫くして出て来たさよ子は、制服を着ていたが、細い鉄うことをふと嗅ぎわけたような気がした。はっと思い当っ 縁の眼鏡をかけ、どう ? というような顔で美耶子を見てただけで、何故なのかは分らなかった。青春というものが 笑った。信彦は初めて眼鏡をかけた彼女を見るので、まじ本能的に恋愛に期待していたものを、美耶子が自分に与え よら すわ てつ

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

彦は横にある美耶子の身体をぐいと向き直させた。白い顔 。それに細谷教授にいつまでも黙っていることも良心的 ムく が少しの驚きの表情も浮べずに真直に彼を見ながら大きくに耐えがたくなるのは分っている。情感だけで心理的な脹 なった。混乱している自分を獲物のように楽しむ眼だ、とらみの世界を思い描いていた間は、こういうことが起った 信彦はちらと思った。 としても、その成り行きは自ら決まる遠い世のことだっ 目の下の町の方がまだ明るいのに、足もとが暗くなった た。だが今はもう既に道はその障碍へ真直に向っていた。 坂道を下りてゆくとき、美耶子は信彦に担まり、躓きそう美耶子が言うように何事もひとりで運ぶだろうか。年上の になって笑いこけた。信彦には彼女の笑うのが不謹慎に響彼女に、そういうことの総てをもたれかかっていていいの だろうか。彼女の判断は、今になって信彦の見当のつかな 「あのひと、ほらさよ子さんてひと、私のこと何か言ってい性質のもののように思われて来る。それが全部自分の行 手に、出口も見つからずに立ちふさがっている障碍で、そ いて ? 」手をつないで歩きながら美耶子が言った。 「何も言ってやしません」神経が不思議な新しさで一杯なれのどこを乗り越すべきか、どこを迂廻すべきかも見当っ かないままだ。こんなに美耶子に近く身をおきながら、信 のにその自分の身体を遠いところに空に浮んでいるように 不安であった。その不安は美耶子には通じないことだっ彦は孤独で棄てられている思いがする。 た。信彦は言葉少く答えることで、そんな身体の調子から「来てもいいけど」と信彦は暗がりで美耶子に届かないの 来る不安を抑さえていた。それに事実さよ子はほとんど美に、当惑した笑いを浮かべて言った。「僕先生に言わなけ ればならないかしら。」 耶子のことを言わなかったのだった。 しばら 「そう ? 私こんどあなたの処へ遊びに行って見たい」彼美耶子は暫く答えなかった。 女はうきうきした調子で言った。 「そう、それね。暫く私のするとおりにさせておいてね。 春信彦は、まだ色々なことは考えなくっていいんだと自分今までとおんなじにしていてくれなければ駄目よ。ね、き に説得するような気持でいるのだが、美耶子にそう言われっとよ」と、ちょうど公園の端についている電燈の下で彼 卩お てみると、もう次の一歩から事は分らなくなっているの女は言った。言いながら、近づいて両手で信彦の頬をおさ 青 だ。さよ子には隠しようがない。それを成りゆきに任せてえ、子供にさとすように、しかし目には思いがけず真剣な しいものかどうかもきめずに、美耶子を自分の処へ来させ色をうかべた。今までの事全部よりも、その約東の方が大 ることも判断できない。美耶子の態度は何となく危つかし切だとでもいうようであった。顔をおさえられたまま信彦 まっすぐ えもの つまず しよろ・カい

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

アッシュの杖を突いていた。リュクサックを背負い、水筒上半身を低目にする変な挨拶をしてにこにこ笑った。信彦 おと の知っているところでは、それは映画で西洋人の子供が大 も肩にかけているので、ものものしかったが、姻何にも、 かっこう 人の前でする挨拶の一種だった。女学校でそういうことを 学校の教師らしい間延びしたユウモアがその恰好にあり、 させるとも思われなかった。美耶子よりも一一寸もさよ子が 自分でもその間延びした味を楽しんでいるように見えた。 たずさ だが教授と一緒に来た美耶子は晴雨兼用の洋傘を一本携え低いように見えた。美耶子も釣りこまれるように、 しゃべ 「どうそよろしく」と長身をすこしさよ子の方に折り屈め たきりの和服で、武光と藤山の方を向いて何か喋ってい た。見とおしの利く大通りからでなく、斜に駅へ出る近路て笑顔になった。 を抜けて不意に信彦とさよ子がそこへ現われたのだが、美武光、藤山、信彦の三人は教授と並んで腰かけたので、 耶子は信彦たちを見つけてから武光たちの方を向いたよう自然にさよ子は美耶子のそばにとり残され、窮屈そうに両 腕をし・ほるように合せて、スカアトの上に伸ばしていた。 に思われた。 たび 端の方に立っていたものものしい姿の細谷教授に信彦は美耶子がぼつりぼつり何かを言う度に、うなずいているの ていねい あいさっ が信彦の眼に入った。 挨拶した。さよ子が丁寧に腰をかがめて、 さいわい 信彦たち四人も幸に晴れて風もない天候のことなそ言 「どうそよろしく」と頭を下げた。 ってしまうと、格別話すこともないのだった。まだ沖が来 美耶子と話しながらこちらに眼を走らせた藤山が、につ はず と歯を見せるのとともに、武光も美耶子の肩ごしに乗り出る筈であった。 「もう改札まで十分しかない。切符を買ってしまおうか」 すようにしたので、誰にともなく、 ガラス 「この人、辻さよ子さん」と信彦は言ったが、すこし声がと背後の硝子戸越しに出札ロの人だかりを見ながら武光が うわずった。さよ子が三人の方にまた同じように深く腰を言った。「沖の切符はどうしますかねえ ? ーと言葉は教授 春めた。美耶子のふり返ったのは、ゆっくりで、さよ子のに対してだったが、武光はきらりと光る眼で信彦を見た。 あの日以後十日ぐらい信彦は沖に逢っていなかった。学 頭をあげるのと一緒になった。さよ子はそれつきり改めて 校で逢った武光や藤山には大体のことは話しておいたが、 美耶子に頭は下げなかった。 青 「細谷先生、藤山君、武光君、細谷美耶子さん」と皆のっそれは構わない方がいいというぐらいの意見しか彼等から は得られなかった。 んと立った中で赤くなりながら信彦が紹介した。 美耶子を紹介されたとき、さよ子は膝をちょっと折って「さあ」と信彦は武光と顔を見合わせて言った。来ないよ みやこ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ようがきひも 通せんばうをして彼女の両の肩をおさえつけた。 ほっとして振りかえると、少し遅れて美耶子は、洋傘の組 「笑ったじゃありませんか」と彼は眼をつぶったような気に指をとおしてぶらんぶらんと振りながら考えごとをする 持で、がくがくと美耶子の身体を揺すぶっていた。 ようにゆっくりと、真中のんでいる道を歩いて来た。 手首にとおしていた弁当の入った鞄が美耶子の乳のあた道は今度は本当に川岸に出た。冷たい風が濁った川面を りにつき当った。自分が美耶子の身体をつかんでいて、し渡って、まっすぐに信彦の顔を吹いた。川の向う側は一面 うそ りん かもその身体がこんなに軽々とゆすぶられるのが嘘のようの林檎の花だった。 であった。 「おうい」と左手から呼ぶので、見ると一町ほどの先の川 すわ うわぎ 、え、あなたの見まちがいよ」と揺すぶられながら美岸の芝草に皆が足を投げ出して坐っていた。さよ子が上衣 耶子が信彦をおし静めるようにゆっくりとした言いかたをを脱いだらしい白いセエタの腕を高くあげた。皆の視線が した。すぐ鼻さきにある白い顔の、きらりとした眼を見た息づまるようで、声が出せず、信彦は片腕をあげてそれに と思った瞬間に、信彦ははっとして手を離した。厚・ほった こたえ、美耶子の方をふり返りながら待っていた。 い指にあまるような肩の肉を担んでいた感じがした。 「遅いぞう」と藤山が両手を口にあてて言った。そのあと 「どうして、そんなにそのことを気になさるの ? 変ねに皆の笑声が続いた。 え」とその位置を動かずに美耶子は落ちついた口調で言っ皆の方に近づいてゆく途中で、美耶子は信彦の方を見ず た。だが言っているうちに信彦の眼のなかの測とした彼女に低く言った。 ほのお おお の顔の白さが、すうっと薄い焔のようなもので被われた。 「私が笑わなかったと言ったらば、笑いませんでしたね、 細かい表情などは見ることもできず、ただ美しい紅潮ののとすぐ納得するものなのよ。」 ばってくる彼女の顔を、あり得べからざることのように信信彦は皆の視線のなかを何気なく歩いているのがやっと 春彦は網膜に焼きつけた。 で、返事をすることができなかった。また間をおいて美耶 「ごめんなさいよ、僕は」と言ってくるりと向きなおって子が言った。 顔をそむけながら「でも笑 0 たんです。美耶子さんがずる「だけど気にかけなく「てもいいの。私怒ってやしないか 青 いんですよ」と言うと、信彦は彼女の顔の紅潮が自分のこら。」 あわ おおまた くぼ とだったように慌て、それから逃げるように、大股に歩き美耶子は木の枝や道の凹みをさけて、信彦とおなじ歩調 出した。暫く行 0 てつき当りに川が見えたところで、少しで歩いている。 かばん

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

とを考えた。 で、まわりはただ闇であった。一番悪い場所なのだ。彼女 やがて静かに砂を踏む音がした。美耶子の草履の音らしは信彦の両袖に手をふれて撫でるようにしながら、 。闇の中に美耶子の黄色い着物が浮き出した。跫音を忍「またね , と言った。 ばせて歩いて来るようだった。明りの下に立っている信彦それから、 の反対側の方を通りすぎようとした。 「あのね、しつかりしていてくれないと困るのよ。人に気 「美耶子さん」と信彦が声をかけた。ものを言ってみるとづかれないようにね。今までと同じことにしていてくれな 自分の息がまだととのわないのが分った。僕ですよ、と言 いと私困るのよ。ね、よくって ! 」と言った。命令的な調 おうとしたとき、ぎよっとした形で立ちどまった彼女は、子であった。信彦はしょげた。だが、それを言っているの すぐ彼だと認めた。 は美耶子であった。間違いがない。自分を駆り立てた不安 な衝動に、そら見ろと言ってやる気持になった。 「あら」と言ったまま、彼女はそこから近づかなかった。 それから静かな声になり、 彼は素直にうんと点頭いて見せて、 「どうしたの、神津さん」と歩み寄って来た。 「僕帰る」と言い、くるりと後を向いて彼は街の方へ歩き 「美耶子さん、国へ帰るって、帰るつもりなんですか」と出した。後で美耶子が立って見ているようだった。 走ってまだ激しい気持がその言葉に乗ってしまったような 強さだったので、言ってからこんなことを考えて来たのだ ったかと自ら疑った。 下宿に戻ると、階下の主婦が武光と藤山が来て上ってい すわ 「あら、言って見ただけよ。帰りやしないわ」と笑った。 ると言った。信彦は一一階へは上らずにそのまま坐って食事 信彦も言葉が出ず、頼りなく笑った。それでもすべてがをした。味はないのだがいくらでも食える。空腹たという 春満ち足りるような気がした。美耶子は信彦に寄り添って、訳でもなかった。食事をすますと、やっと落ちつきができ ふとあたりを見まわし、彼の上着の釦を人差指で押しなが ら、 武光と藤山が彼の室でさよ子と話をしていた。珍しくさ よ子の姉もいたらしいが、出て来なかった。寝ているよう 「逢いたかったの ? ーと言って笑った。 にぎ うなず 信彦も、うんと点頭いて笑い、じっとしていた。だが美な気配であった。三人は賑やかに話し合っていた顔をあげ 耶子は、またあたりを見まわした。そこだけが明るいのて信彦を見た。 こ。 そで

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

けん でないとは言えない広い領野がそこにある。しかし思い惑の白く光って見える顔が、一間ばかり目の前に迫り、息づ しばら あんど まるように信彦におおいかぶさるように感しられた。 1 ってその中間にいるものには、暫くも安堵がないのだ。 信彦は教授としばらく話していたが気持が定まらず、校「私、散歩に出ていた処なの」と信彦の持っていた校正の 正は家ですることにして、暫くしてからその封筒を持って束にちらと眼をやって美耶子が言った。彼女がものを言う 辞し去った。そのとき美耶子は出て来なかった。 と、信彦の心は苦しいまでにかあっとの・ほりつめていた圧 公園を抜けてゆく並木道の中程までゆくと、美耶子が向迫感からやや解放され、次を待っ不安にまたよろめくので あわ うから歩いて来た。新樹の緑のなかに黄色い着物が浮き出あった。彼女に答えようとする言葉がいくつか慌てて我先 して、先刻逢った彼女とは違う人間のようだった。信彦がにとロもとまで出て来るのだが、どれも美耶子がいま待っ それと気のつくずっと前から彼女は彼を見ていたらしかっているらしい言葉ではないのだった。水面に浮いて来た材 とっき いとま た。彼は咄嗟にどんな表情も浮べられず、心をきめる暇も木のようにそれらは信彦の性急な心の乱れに叩かれてまた ないのに距離はぐいぐいと近づいた。彼女に対して抱いて沈んで行った。そのとき信彦はにつと笑った。思いがけず いた情感を自ら信じられない弱さが、彼をためらわせた。 その笑いが言葉の選択の頼りなさから彼を救ってくれた。 だが彼は本能的に近づいて来る美耶子がなにか光のような「今日は先生に叱られるような気がしていたんですよ」と あム ものに溢れているのを感じた。彼女は自分の中に漲ってい あても無い言葉がその笑顔に続いてすらすらと出て来た。 るもののために、できるだけ身体の動きを少くし、こ・ほれ美耶子は笑わなかった。っと手を差し出すと怒ったよう ないように、そっと歩を運んでいるように見えた。その満な身ぶりで校正の束を信彦からとりあげ、それを両手で帯 おそ ちあふれた態度は、殆んど信彦を怖れさせた。自分の判断のあたりに持って両端から押すようにした。 しゅうちしん を信ぜず、情感にまかせて羞恥心を踏みつけてしまうこと「あれから何をしてらして、毎日 ? 」 も出来ぬ今の状態のまま、その美耶子に近寄るのが、罪悪「学校へ行っては帰っていただけです。昨夜沖に逢いまし のように思われた。 た。酒を飲まされて困ったですよ。」 だがその美耶子を見ていて歩く数歩のあいだに、信彦の信彦は自分の言葉が意味もなく出て来ては飛びまわるの たか 内部には、二重にも三重にも押しこめられていた彼女へのに慌てはじめた。その言葉とは別なもので胸は不安に昻ま 情感が、あたりを見まわすような要心ぶかさで湧き出してり、自分のものではないような歩きかたになるのだ。美耶 来た。だがそれが彼の全部にゆき渡らないうちに、美耶子子は沖のことにとり合わず黙り込んだ。すると信彦の息苦 みなぎ しか とこら

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

あの時美耶子は自分に何を伝えようとしたのだろう。自分のこういう情感なんかを受け容れてはいないのだ。美耶 分が美耶子にしたことは何だったのだろう。信彦は何度も子の存在が信彦のなかで情感的に強くなるだけで、彼自身 何度もくり返してはそのことを考え、またあの時の美耶子の頭もそれを信じようとしないのだ。 の言葉と行為とを、一つ一つ考え直した。それは大きな意すべてが架空の推移だ。青春の情感にとっての事実とし 味のあることのようでもあり、また自分だけが感じとったて、たとい自分が目で見、手で触り、耳で聞いたことにし 幻覚のようでもあった。きらきらと光 0 て彼を見つめた美ても、それが外部では事実として通らないのだ。信彦にと 耶子の目や、別れしなの疲れた蒼ざめた横顔を彼は思い出ってどんなに真実なものであっても、黙殺され、無視され した。なぜさよ子は自分にそっけなくするのだろう。何かる。青春の世界で真実であることは、世間の規矩からは単 が本当に自分と美耶子、美耶子とさよ子の間にあったのだ なる瑕疵と見なされ、それを見ないふりをするのが礼儀で ろうか。そしてその実体がどうしても分らないまま、信彦あり、また正しい生き方だとされる。そういう形になって はぼんやりと時を過ごすことにした。何かがあるのなら現いるのだ。美耶子だ 0 て、その大人の世界にするりと入り われる。ないのならそれも分るだろう。それが彼の得たた こんでしまえば、あら、そんなことあって、という驚きの った一つの理解であった。 一つの表情でもって信彦を突っぱなすことは何でもないの 細谷教授の著書の校正が暫くとぎれていて差しあたり彼だ。その空しい期待が信彦の胸に苦しく甦 0 て来る。 女に逢う折もないのだが、今度逢 0 て、なにか意味ありげ昨夜見たあの十歳ばかりの少女の姿だけが何かの象徴の に昨日のことをとって自分から話しかけたりしたならば、 ように妙にむに残るのだ。武光の残忍な言葉づかいがま びつくり 彼女は吃驚し、あれだけのことから特別な印象を引き出した、その横嬉さで生き生きと信彦に通じて来る。しかしそ た自分は、とりかえしのつかない恥かしい目に逢う。それれですら、青春の生活の中での一つの仮定にすぎないこと 春 ぐらいのことなのではないか。だがいま独りでいると、そを武光自身も気がついている。だから女の群棲しているあ の推理の淡さとは別に、美耶子の存在が自分全体を包み、 の路地のことなど、今日学校で逢っても藤山も武光も素振 のきま 隙間もなく羽がいじめにしているような熱つ。ほい情感が氾 りにも現わさないのだ。そういうとき彼等はもう世間人の 青らん 濫する。でもそれは彼女には全く通じないでいることだ。顔を便利なものとして身にまとっているのだ。そこへさえ ガラスびん またしても信彦は自分をとり巻いている若さという硝子壜飛び込んでしまえば、もう安全なのだ。そういう生きかた のような容れものが感じられた。美耶子は離れていて、自を本能的に撼んでいるのは藤山だ。武光はこちらから突っ そよ

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

「そりやそうだよ」と藤山のあとから歩いていた武光が怒「だって僕は何でもないんですよ。そんなら連れて来てや ったように一一 = ロった。 らなければよかった」と彼はすこし美耶子に甘えるような ひも 信彦が靴の紐を結び直して急ぎ足に追いかけると美耶子心持で言った。 がすこし歩き疲れたように立ちどまっていた。 「私、あの人好きよ。こんど遊びにつれて来て下さいね。 こわ 「疲れましたか ? 」と言うと、 だけど男ってああいう女のひとが怖くないかしら ? 」 ほこり いえ、そうじゃないけど。この小道の方が埃が立たな「そうですねーと信彦は釣り込まれて言った。「怖いと、 すそ くっていいようねえ」と自分の裾のあたりを見まわした。 うことはないけど、びつくりさせるようなところがある」 ひとりごと 藤山たちの三人はかなり早く歩いていて、時々前方に見えと独語のように言った。 るのだが折れ曲るとすぐ見えなくなり、なかなか追いつけ「びつくり ? 」と美耶子が暗いところでのように大きな眼 ゃぶ なかった。藪のかげに時おりちらっと濁った広い河の面がっきをした。「あら神津さんそんな目にあったの ? 」 見え、また遠ざかるのであった。 信彦はみるみる自分の顔の赤くなるのが分った。そんな にお まず 「ああいい匂い」と言って、美耶子が立ちどまった。そこ事じゃない、と言おうと思ったが、弁解が一層拙い混乱に いけがきすもも の生籬は李で、小粒な白い花を一杯につけており、あたり なることがわかったし、思わず出た自分の言葉が美耶子の 一面に激しい匂いを撒きちらしていた。 内心でちゃんと落ちつけばやがて理解されることだと思 、美耶子の視線のなかでじっとしていた。 「李ですね、こいつは」と信彦が言った。 たけ 「私この匂い好きーと人の丈よりも少し高いかと思われる「で、びつくりした自分の方が悪いとお思いになったんで しげ 李の繁みの傍に立ちどまって美耶子は眼をつぶり、息を深しよう。あなたのことだから。」 く吸い込んだ。それはアカシャの匂いに似て、もっと野生「まあ、そうです」と自分が美耶子にひどく疑われている 春的で強烈であった。 ように思い、彼女の疑いを受け入れる形になったのが感じ 「ね、神津さん、あなたあの辻さんってひとどう思って ? 」られた。そうです、とは言ったものの、何もその言葉のと 「別にどうも」と信彦はロごもった。 おりに思っているのではなかった。では自分かさよ子が悪 青 、とでもいうのか、と反問するのが恥しかったからにすぎ 「あなたああいう人好き ? 」と振りかえって信彦の顔をのし 、つもん ない。彼はさよ子のためにいま美耶子に詰問したい。しか 昭ぞき込むようにした。「さあ今度は私があなたを嫌がらせ はばか てあげる番よ」と微笑んでいた。 しその衝動をそのまま現わすのが何となく憚られ、自分だ ほほえ いや