しわが せき かすめ、さらに西南方に向かって鳥のようにゆっくりと迂配がした。えへん、と咳ばらいして、嗄れた女の声がし 回し、しだいに小さくなり、はるか西方にそびえて小樽市た。 を俯瞰する天狗山のほうをさして、かるがると飛び去って ここですよ、鵜藤さん、私があれを始末したのは、 ゆくのであった。見あげれば雲はただ一色の天色でゆうう この便所ですよ。小樽新聞に出ていたでしよう。色内駅下 がんばう つに市街の上にかぶさり、さっきのユダヤ人の顔貌もどこの共同便所に : : : 遺棄さる、って。あなた見なかった ? にあるかわからなくなっていた。その雲のなかに小林多喜私はその暗い秘密を持ったまま死んだのよ。あなたのせい 二は吸いこまれるように見えなくなった。 ですよ。あなたはそうして、お若く、楽しそうに生きてい 私は彼をもう一度呼びかえそうと思ったのだ。私は自分る。小説家だって、まあねえ。私のことをまだ、あなたは のほうから何も彼に言ってやらなかったのに気がついたの 心の中で始末できないでいるじゃありませんか ? 私は死 だ。彼が死んでしまってからの後、私はどんなに彼に会っんだのよ。死んでくるときにむこ ~ 冫いだいてきた思い出とい て話したいと思うことを胸のうちにためていたことだったえば、その子のことなの。その暗い恐ろしい記憶だけな むげんじ tJ く ろう。そして今日千載一遇の機会に私はついになにも言い の。私その子にここで会うのよ。ここで、この無間地獄 だすことなく彼を放してやってしまった。私をこういう目で。目にも鼻にも口にも : : : 子が、私のほうへ来るのよ。 けんか にあわせたのは、簡単に言えば、喧嘩すぎての棒ちぎりとお母ちゃん、って。あなたも来るがいいわ、この地獄へ。 とうかいへ、 か、ごまめの歯ぎしりという種類の内攻的な韜晦癖によるね、あなた、早くいらっしゃいよ。」 もののようであった。 暗緑色にぬった、がたびしと破れた大便所の扉から、何 ぼおおおん、という砲声がもう万事終ったのだと告げる者とも知れない骨ばった手が出て私の着物の裾をつかん ように市街の上に響きわたった。見ると藍色にかすんでい だ。私は恐ろしさのあまり、がたがたふるえだし、その裾 街る天狗山の中腹あたりに白い煙が立ちの・ほった。市場のエに手をかけてばくんと引っぱなすや否や外へ飛びだした。 きてき ひょうし の 場の汽笛がそれを合図に一せいに。ほおおと鳴った。真昼でその拍子に、何者かが便所の扉にうちあたって外へ転がり 鬼 ある。私は便意をもよおしたので色内停車場のすぐ下にあ出、通路の羽目板にどしんとっきあたった音を私は聞い 幽 る汚れた共同便所に入った。小便がいちめんに白くはねか た。私はそのほうに目をやることもできず、足も地につか えり、通路のコンクリイトの割れ目には水がたまってい ない思いで、日本銀行のにそって無我夢中で駆けだし、 とうま た。用をたしていると、隣りの大便所のなかに人の動く気当間写真館の前をすぎて、妙見河畔に出た。私は息せきき よご ムかん かはん すそ
あ、ら そより つかまるのを承知で、なかば待ちながら罠のまわりをぐる武光はぎごちない素振をした。明かに後からついてくる ぐるまわっているとしか思われないんだ。僕は初めはそうさよ子のために、男同志で使える言葉が憚かられるのを不 は思わなかった。あのひとがあの店をひどく嫌がっている自由がっているのだった。 しよう 「どうにだってやろうと思ったら仕様があるさ。沖がいけ のが先ず気にかかっていたものだから、絵に描いてしまう とあとはどうでも構わないというような沖の態度が気に入ないんだよ。芸術というような名目でそんなにまで相手を らなかったのだが、今はそうは思わない。」 近づけておいて、しかもその芸術をまもるために逃げまわ くっ っているというのが先ずいけない。その上にだね、その女 後からこっこっと靴の音を立ててついて来るさよ子と、 もっと後を藤山や教授と一緒に歩いている美耶子が気にか性や友人に悪く思われまい、善人であろうとする心掛けは しゃべ かって、信彦はその言葉を途中で断ち切ってしまった。喋またいけない。僕はあの男にはとり柄がないと思ってい っているうちに沖のことでありながら、いまゆれ騒いでいる。」 る自分の心情がそのまま乗りうつりそうになる。その動揺沖に対する武光の非難はそのまま針のように信彦につき 刺さった。 する心をさよ子の前で包んで居れそうもない。 ミニストなんだ。理論以上のフェミニストなん「だが、君ならばどうするかねーと、この友人に変な圧迫 「彼はフェ ささ だ。自分の情感が自分で支えられない人間だ。だから君の的なものを感じながら信彦は、それを包んでまた繰り返し こわ 話のように彼は怖がるのさ。自信がないんだよ。だから絵こ。 しようしんよくよく 描きとしての生活を小心翼々として守っている。だが僕な「僕か。僕は彼のように一種の気持からある女を欲してい はんばっ て、実生活からそれを反撥するというようなことはしな らそうはしないな」と武光が言った。 。僕ならば欲しいものはとってしまう。その後はまた後 「君ならどうする ? 」 「僕ならと言っても、僕は沖でないからそうはゆかん。しのことだ。恋愛については責任ということはないだろうと わがまま かし、僕なら逆に自分の我儘で相手をおどかしてしまう思うな。片方ばかりがとり、相手は奪われるだけというこ とはない。」 な。」 「だって君、そういう脅かしの利くような女ではないらし「それは乱暴だ。それでは二人が別れるときの傷手もまた おそ い。沖はそのことを知っているから、あの女を怖れている双方的だと言うのかね ? 」 「うん、そうなんだよ。」 んだよ。」 わな
260 ているのだろうか。何て馬鹿だろう、この人は、と典子は「私、あかねに教習所を終えるまでいます。そして私、講 ところ 鈴谷の背中を見ながら考えていた。 習がすんだら、また別な処で働くつもりですの。」 す そこから鈴谷のア。 ( ートまでは、・ハスに乗るとすぐ着く ああ、私は拗ねている、私は拗ねている、と典子は思う のであった。そこでまた誰かに顔を合せるのかと思い、典のであった。今が大切な時なのに。この人は、私がこんな 子は気が重かったが、うまく誰にも逢わずに室までとおつに拗ねることを知らないのだわ。私にこんなものの言い方 た。室へ入って扉を閉めるとすぐ典子は、 をしてはいけないのだ。私は、自分に一番親しい人にはみ 「ちゃんと答えてね」と言った。そして自分のそばに立つんなこんな拗ねかたをするのじゃないかしら。母、叔父、 ている鈴谷を感じながら、 速雄、そしていまこの人。な・せこの人は、今日僕があかね 「あなた、私を好きなの ? ーと言った。これが自分の言うの荷物を運ばせるから、と言わないのだろう。そうすれ ことのできる最後の言葉だ。これを言ってしまえば、もうば、私は、ええ、とただ素直に答えただろう。私は、もう 私には、何も力がなくなる、と自分を消えかかっている蝋こんな返事をしてしまった。私はここを出て行かなければ 燭のように感じた。 ならない。 「うん」と暗がりで鈴谷が言った。そして、ちょっと間を鈴谷は、疑わしそうに、躇うように典子の顔を見た。す おいてから「君はどうなんだ ? 」 ると典子は、わざと力を入れて自分は、ちゃんとした、当 「私、私はわからない」と典子は言った。しかしそれは、 り前のことを言っているのだ、という顔をした。きっと、 もう私は何も言う力がなくなった、と言う意味であった。 これはよくない結果になる、と何かしら暗示のようなもの そのカの尽きた私のことが、この人にまだわからないのが、自分と鈴谷との間に漂っているのを典子は感じた。 か、と典子は思うのであった。 「じゃ、そうしよう。その間に僕は国の方の了解工作をし まどぎわ 次の朝、朝日のいつばいに入っている窓際で鈴谷は典子たり、色んな準備をしたりする。そして両方で、ちゃんと ほか に一言った。 形がととのうのを待っことにしよう。外の人にはだまって 「君はどうする ? ここにいるかい ? それとも、もう暫いて、ここへ来る時間はうまく繰り合せるんだね。」 くあかねに行っているかい ? 」 そう言っているときの鈴谷のまわりには、今まで典子が からだすく 典子はちょっと眩しく考えるような顔をしていたが、鈴見たこともない、身体を辣めたような冷たいものがまつわ 谷の顔をまっすぐに見て、 っていた。いい え、そんなものに眼をやらないで、私はち っ まぶ しばら ろう ためら
がもう言えるのだ、と寝たままで首をぶるんと振り、もう だ。暫らくして 「で、家の方は、どうだった ? 」 大丈夫だと思って、上半身を起した。 「従妹が来たから、家の方はだまっていてくれと言ったんそうだ、こういう時、身体は休みたいのだ、休んでいた ですの。」 いのに、どこかに幸福な娘がいて、こういうときは三日で あおじろ 「じゃ面倒になりそうなことないのね」そう言うと、マダも四日でも蒼白く眼を閉じて、そばにいる人に構いつけも ムの坐っている気配が何となく楽になった。 せずに、心が本当に起きあがれと言うまで寝込んでいるん 「ええ」とちょっと眼を開いて、その白い二重になった顎だろうに、と、ちらと彼女は思うのであった。そういう娘 こうしじま えり と、細い金色の格子縞のお召とのよく似合っている襟のあの、傷ついて倒れた寝姿から、精神だけが起きあがって、 たりを見ていて、典子は言いようなくわびしくなった。こ幽鬼になって歩きまわるように、典子は身を起したのだっ の人に、この白くくびれた一一重顎の胸のあたりにとりすがた。そのときの、もう大丈夫だ、私は起きれるという意志 いなずま って泣くわけにはゆかない、という考えが稲妻のように彼だけで立ちあがる気持は、彼女の慣れつこになっている古 いものだった。叔母の家で、朝ねむいのに一人、寝床から 女の頭をかすめた。それは、母親に逢ったとき、あの耳の うしろの白い皮膚を見ていながら、この人にとりすがるこ身を剥がすようにして起きねばならなかった。食事を済ま とはできないと思った、そのままの、もっとわびしい感じして、身体がもの憂く、ぐったりとなったとき、ひとり立 であった。母のときは、取りすがる権利のようなものが自ちあがって、台所で後片づけをしなければならなかった。 分にありながらそれを実行できないという感じであり、今そういう経験のどれにも普通な、かなしい抵抗力が、そら は、そういう仮定を、この人と自分とのあいだでして見る今だ、というような刻薄な掛け声で彼女の身体の筋肉を引 むら たた こともできないのだ、という、怖しい無縁の実感であっき緊め、びしりと鞭をあてるように叩き起すのであった。 きた。 「あら、もっと寝てなさいよ。 いいのよ」と髪をなおす典 の「典子さんも割合に気が弱い方かしら」そう言って笑う子をそこへ残してマダムは出て行った。典子は立ちあがっ 子 と、マダムの二重顎は、くびれたままくくと上の方へ釣りて身じまいをしたが、眩暈がするので、やつばりそのまま 典 すわ 坐ってしまった。 あがった。 「でも、育てられた叔父叔母だから辛いんですのよ。」 そう言うと、典子は、ああ、こういうそらそらしいこと しば おそろ からだ
夢見る少女の青白い顔をうめ、さめざめと泣きくずれてし がり、すべてのものにつながっていて、考えればみな締め ほお 2 まった。川波はしだいに彼女の髪をおおい、耳や頬をおおくくりがっかなくなるのですよ。これはどういうことでし ゆり子の姿はやがて暗いせせらぎのなかに消えてしまよう。こういうことが、これから後も無限にふえ、積みか さねられてゆくのでしようか。どの一つの出来事も、それ とうかね、・こ、・ ナしふ動揺しているというところだがを忠実に考え、誠実に結末づけようとすれば、命を賭さな ね。」と川のせせらぎが、またしゃべりだした。 ければならないようなものばかりです。それらのものをみ 「ところで、君はまだまだいろんな感懐をいだいているよな、僕は中途半端に生活し、中途半端にしか考えてきませ うだね。つぎにはどの女に会いたいかね。ほら、すぐこのんでした。それが今僕を責めさいなみます。だが、そうし しののめ 坂の上の東雲町にいたあのひとかね ? 今だって思いだすて生きてくるよりほかにどういう方法があったでしよう ? しゃなしか。君はその後、あの人がどうなったかは、ちつもし生活の一片ごとに誠実であろうとしたならば、僕は命 とも知っていないんだろう ? それとも君がこの川にそっを百持っていてもたりなかったでしよう。こういう考えは て、緑町の水車のあたりまで後をつけたあの目の黒い女におかしいでしようか ? 言ってください。僕はどうすべき なのでしよう。悪鬼どもがあらゆる街角で僕を待ちふせて しようか。いやはや、君は一体どんな人間かね ? きりが な、じゃないか ? 」 います。僕はもう前へ進みえないような気がするのです。」 川のせせらぎは大口をあいて笑いだした。 いや長いあいだのことです。僕だってそうだらしな あはははは。でたらめに生きてきた人間が、昔でた いほうじゃありません。決してそんなでたらめじゃなかっ たのです。そうですよ、ただ、何の交渉もなかった人へのらめに生活した街へ戻ってきて、今になってまじめに考え 関心が、いま十年の後にかえって強く残っていることがあようとしたって、どうにもならんじゃないか。あははは は、亠めはははは。」 ってみずから驚いているんですよ。こういうものでしよう か。僕はまだこの後も長く生きなければなりません。それ彼は私の言うことを相手にせず、いたずらに笑い声をあ なか なのにすでに過ぎた人生の半ばの生活だけからでも、僕のたり一ばいにひびかせるばかりであった。そのとき白い絽 おうのう 懊悩は数えられぬほど生まれています。それらの責苦に私の夏衣をきた肥った中年の女が川の波に浮かびでた。 だから私がよく言ってあげたじゃありませんか。 は耐えることができそうもないのです。そのなかのたった 一つをも、僕は片づけられそうもない。意味は八方へひろ Take life easy. って。そうしたならばあなたは、そして せめく ムと
私は埋立地から色内町の第一火防線下へ出る月見橋に達まえに新宿駅の・フラットホームで会ったが、大阪で半年ほ した。つぎの埋立地と南浜町とのあいだにある運河にかけど入っていた直後だと自分で言っていたそのときと同じよ かわ られた木製の釣橋には、真中の車道に乾いた馬糞が板のさうな、ひどいやつれた顔であった。まるで死人のような顔 さくれたった上に散らばっていた。これからどちらへ行こをしていますね、と私はあぶなく言いかけるところであっ たもと ゆかた ひょりげ うかと、私は橋の袂で思いまどった。古く知っている小樽た。彼は洗いざらしの白い浴衣をだらしなく着て、日和下 へおりると早々久枝やウラジミルに会い、こういう騒ぎを駄をはいていた。 引きおこしたことで私は心が騒ぎたち、こんなことではや 小林さんですか。久しぶりですね。おや銀行はもう がてどうなるかと不安でたまらなくなったのである。この 引けたんですか ? 」と私は言った。高商の生徒のときに私 道をゆけば、右は色内町へ出る角で北海道拓殖銀行、左はの上級生だった小林は拓殖銀行に勤めていて、銀行員とし 境町の角で三菱銀行支店があり、その五階には小樽商工会てもひじように有能なので、睨まれていながら、なかなか うわさ かくしゅ 議所がある。向こう角の右には小樽郵便局の低い二階建の馘首されないという噂があった。その時代にもどった気持 はくあ こしよくそうぜん 古色蒼然たる玄関があり、左角には白堊の現代ふうな第一で私は彼に話しかけた。 銀行小樽支店がそびえている。その並びに沿って坂をのぼ いや君、銀行なんかはすんだことだよ、そんな話は すみ れば、貯金支局があり、日本銀行小樽支店が四隅に塔よそうじゃないか。僕は今日この銀行の物置を見にちょっ のある大きな姿態でうずくまっている。ここは商業都市小とやって来たところなんだ。古いね、ノートがあるんだ 樽の中心地なのだ。これらの銀行につとめている古い知人よ。僕のオ・フロモフ研究のノート がね。それを見る必要が のうちのだれかを訪問しようかと、私は思い、道の右がわあったんで、やって来たところなんだ。偶然会えてよかっ を拓殖銀行のへんにさしかかった。 たよ。君にはかねがね大いに話さなければならないことが オ力。どうしたい。、 ゃあ、鵜藤君じゃよ、 しやに元気あるんだ。君を教育してやるのは僕の仕事だと思っていた ののない顔をしてるな。」と声をかけた者がいた。そこは拓んだ。あはあは。」と彼は笑った。その息はたまらないほ くさ にお 殖銀行の裏手の通用門で、その男は、小林多喜二であつど臭くって、死屍の匂いがした。彼が口を開くと、内部は 幽 けん た。幅一間ほどの通用門は奥のほうが薄暗い地下への階段うつろのようで真黒であった。声に力がなく、彼があはあ 9 になっているせいか、小林多喜二の顔は青白く、小柄な細はと笑うのは、ただ、ああああとひびくばかりであった。 いからだも極度にやせてよわよわしく見えた。彼には数年私はぎよっとして、 みなみはま ばムん
私、あなたを好きだったかどうかはわからないのよ。でだろう。ただ僕は、どうして君がいつまでも僕の訴える目 も、世界でいちばん私をほしがっている人を見つけたこと にこたえてくれないのか、なぜいつも君がすまなそうに遠 で、私はもうとってもこの上もなく幸福だったわ。私ひと慮がちに目を伏せるのか、その理由がわからなかったん りで歩いているときも、夜眠るときも幸福で幸福で、どう ・こ。・こから、・こから、僕はっ しようかと思うぐらいだった。あなたは縁なしの眼鏡をか ゆり子はまた手をふところに引っこめた。そして涙の一 けてらしたわ。あなたは高商の生徒で、いつも英語の本をばいたまった目でじっと私のほうを見つめた。 読んでいたわ。私の兄さんの写真にあなたが写っているの もう遅すぎるわ。一度生きたあとで、もう一度生き を毎日幾度でも見ていたのよ。そして私は待ってたの、待直すことができないというのは、何て恐ろしいことでしょ っていたのよ。いつになったらあなたがそのことを言ってう。もうその機会は私たちから失われてしまったのよ。私 くれるかと思って。私がどんなにそれを待っていたか、今はあなたとはほんとうの生活をするために生まれて来たの こそ私はあなたに言ってやりたいの。な・せあなたは私を愛だった。だけど機会はむだにすぎてしまった。あなたは好 だらく していると言わないで、突然現われて来た栄子さんとあんきでもない女たちとつぎつぎに恋愛をして堕落してしまっ なことになって、その上あてつけがましく私の家へ二人で た。もうそれから十年の余もたっている。もうみんなだ 遊びに来たりなんかしたの ? あなたはあんなに私を好きめ、みんな終ってしまった。私はあなたが東京へ行ってか だったくせに、一言も、たった一言も私に言葉をかけてくらやはり世のならわしのとおりに結婚しなければならなか れなかった。私それも、そのわけもほんとうは知っていたった。そして私は見たこともない人と結婚し、その人の毎 したく のよ。ほら私の指がこうだったからでしよう ? だから、 日の食事の支度をし、その人にぶたれ、その人と一しょに あなたは私を好きだったくせに : ・ : 」と言って、ゆり子は暮したの。その人は私をかたわだと言って、なんどもぶつ 街その右手をあげてみせた。どの指もまっすぐに伸びているたの。長い苦労のすえに私は胸を悪くしてしまいました。 ののに、薬指だけがびんと腰を折ったように曲っているのでもう私は長いことないのよ。」 鬼 あった。 ゆり子は軽い刻をして、 ( ンカチでロをおおい、それを あっ。」と私は思わず声をあげた。「そうだったの開いて見せた。霧のように血がハンカチにしみついてい か。ああ、それならば僕は何でもなかったんだ。それならた。彼女は思いあまった顔つきでわっと泣きだし、汽車の たもと ば僕はもっとはっきり言うのだった。それだけのことが何窓によって景色を見ていたときの姿で、元祿の袂のなかに
268 三人は表へ出ると、マダムは、 満子は、典子のまともな言い方を聞くと、それもそう、 まじめ 「私はちょっと谷さんと買物にまわるから、店へ行ったというような真面目な顔になった。私の困っていること ら、満子にそう言って下さい。夕方には帰るって」と、すは、と典子はまた心の中を見まわすようにした。自分はさ からだ ぐ毎日の調子に戻ってすらすらと言い、谷と並んで行ってつきは、ただ自分の身体の中にある獣のようなものに餌を しまった。 与えるつもりで、あの仕事を受けれたのだった。だけど きのう 典子は昨日から、何十日も経ったような気がするのであ仕事って、あの私だけの動機とは、きっと、少しも関係の った。街を歩きながら、ふと鈴谷、と考えて、ぎよっと立ないものにちがいない。きっと仕事は、その仕事に絶対に ちすくんだ。私はひとりでこんなことを承知していいのだ必要な準備とか、実践とか、方法とか、形式なんかがある のだ。私はもう動機が何であろうと、動機とは関係なし 店へ戻ると、満子がにこにこして近づいて、 に、その仕事の実質をこなして行かなければならないの 「どうお話きまって ? 」と言った。松子は典子の方を、な だ。衝動などという生やさしいものでは、とてもそれを片 かば興味深そうに、なかばそんな大胆なことをこの人できづけることはできないのだ。仕事は仕事として考えなけれ るのかという目つきで、ちらと見たまま寄って来なかつばいけない、と典子は思った。 こ 0 典子は、はじめマダムから砂田の話を聞いたとき、厭な 「お話 ? 」と改めて典子は、さっきの話が、満子や松子た感じがこの話につきまとっていると思った。マダム自身が ちに大変な話題になっているらしいことを見てとり、もうそう思っていたため、話しかたが、ひとりでにそうなった 引きかえすことができなくなっているのがわかった。満子のであろう。そして砂田と逢い、そのことを頼まれている ところ や松子の眼にうつった処では、ちょっと変な蔭がその話に最中にも、以前のその感じが、・ほんやりと尾を引いてい はついていると思っているらしい。典子はそれを見てとっ た。だ力、いま満子に自分で、仕事のことを話して見る た。しかし、そんなことではないのだ、私の困っていること、初めて典子はその仕事の実際が眼の前につき突けられ とは、と思った。 たようにあわてた。子供って、いったい幾つの子供なのだ たす 「ええ、まあどうにかきまりそうなの。でも私、家庭教師ろう。男の子か女の子か、それも私は訊ねなかったし、あ なんて、うまく勤まりそうもないから、その子供を見て私の人も何も言わなかった。母親のない子供、母親のない子 と合わなかったら、やめるつもりなの。」 供、と典子はロの中で言って見た。おや、私もそうだわ、 なま えさ
泊ることにしたものですから。」 の必要に追い立てられたりすれば、私はこうしても言え 「あら、そう ? 」と言い棄て、そのまま階下へ下りて行っるし、きっと何だって出来るんだ。そう思うと、典子は身 た。階下の奥の小室で食事をしているらしく、やがて松子内から、ふだんの癖である、きっと首をあげてあたりを見 が来た気配であった。いつも松子が口ずさんでいるロ 1 レまわすような強さが湧いて来た。典子は頭をあげて、マダ まっすぐ ライの歌が聞えた。典子は、ふと思いついて、編物をとりムの眼を真直に見た。 したく 出した。夏の手袋をレース糸で編みはじめたのだが、昼間 「ねえ、典子さん、支度してよ。今日は私につき合って、 がてん の講習に肩が疲れるので、途中で放っておいたのだった。 私、ひとり合点ばかりして、義理が悪くなっているのよ。」 もう季節には間に合いそうもないその編みかけを押入れのああ砂田のことだ、と思った。編み物を置いて立ちあが うつむ からだ 小物籠から引き出した。そうしていれば、俯向いていられると、典子は身体がしゃんとした。初めの印象がそうだっ る。それに、そっとしていても目立たない、 と思い、ほっ たせいか、典子は砂田の話というと、すぐ警戒するよう とした。 な、訳のわからない事情の中に飛び込むような気持が湧く しれん 食事をすましたらしいマダムが、まだ化粧をしない、黒のであった。自分の経験ではカの及ばない試煉のようなも おしろい ずんで見える白粉焼けのした顔で典子の室へ入って来て、 のが、そこに待っている、と思うのだ。子供の話などをマ すわ そこへ、べたりと坐った。 ダムから聞いてからは、厭わしいような蔭は感じなくなっ 「ねえ、典子さん。叔父さんのところでは、どんな意見た たが、それでも、何か背伸びをしなければ届かない仕事の った。何か仕事の話が出て ? 」 ように思われ、その背伸びをする気力が出ないのであっ 典子は編物の上にうつむいていた。 た。 、え、別に。ただ和しただけです。何も立ち入った だが、マダムの前でいま立ちあがって見ると、典子は、 き話にならなかったわ。」 荒々しい気力が自分をそちらへ押してくるように感じた。 のそうだ、私には、何でも平気でやってのけられるところ今は、何か力いつばいのこと、自分の全力を打ち込めるよ がある。あの茶碗で湯を飲んだことだ 0 てそうたった。今うな仕事をしたいのであった。自分の内側に。ほ 0 かりと出 すさ だって同じことだ、私は平気で言ってのけられる。そうだ来た、荒んだ、侘しい空しさを埋めるような、本気になら なければ出来ない仕事に、自分を立ちむかわせたいのであ わ、これは悪いことではない。仕方がないからなんだわ。 仕方がなくなれば、私が内側の声に言いつけられたり外側った。そして、また、ひそかに、典子は感じていた、もう わまく わび うそ
312 ってしまったんだ。それは僕がいま一ばん憎んでいる型の汚れのついた人間になって見せなければならなかった。そ 人間です。それでは困るんですよ。僕がこれからなろうとういう人間にのみ世間というやつは、生きる権利、いや生 思っている人間がそんなものならば、僕には生きてゆくかきる許可を与えるのだ。そして僕は一まずそういう人間に いがないじゃないですか ? ああ、僕はこれから十五年もなって、じつはこれから自分の思っていた仕事をしようと 生きて、結局、あなたのようなけがらわしい人間になると思っているんだ。僕はこういう人になったのは、その理想 いうのは何という恐ろしいことでしよう。女をだまし、良をより完全に思うような形で実現したかったからなんだ。」 いや、そんなことはみな言いぬけだ。あなた自身よ 心の命ずる仕事のために生命をかける勇気を持てず、自分 の良心にすら体裁をかざって言いのがれようとし、何が美く知っていたじゃないか、大人の言いわけというのは、た しい芸術であるかという観念もでたらめになり、ただ、あだ経験という楯を持って来て醜さをおおうだけのことだ てこみばかりの仕事をしている。そんなのはいやだ、そんと。そして今あなたがその術を使っている。卑劣ですよ。 それが卑劣というものです。人はいっ死ぬかわからないも な人間になんかなりたくない ! 」 そう言って彼は伸びあがって私の胸をうち叩くのであつのです。理想、なるほど理想は今の僕にははっきりしてい た。私は途方に暮れ、彼をなだめるためにどう言いぎかします。しかし僕はその理想を、手段を選ばずに・せひとも実 すんごう たらいいのか、わからなくなり、ロをついて出る言葉にた現しなければならないものとは寸毫も思っていないのです よ。少年時代の自分のものの考えかたがどんなきびしいも よって言うのであった。 いや、よく僕の言うことを聞きたまえ。僕は君よりのだったか、今のにごった心のあなたはわからなくなって も十五年の多い経験を持っているのだ。理想は理想だ。僕いるのです。今だから言ってあげますが、理想というのは 絶対に実現ということを目あてにしているのではないので だってそれをなくしているわけじゃない。ただ世間という ものは、決して君の出てくるのを待ちかまえ、歓迎し、君す。そんなのは野心です。僕はただ、いつまでも理想のほ の理想の実現を助けてやろうとして存在しているものじゃうへ顔を向けて生きていたいだけなんです。でなければ死 ない。世間は、今までそこに生きていたのと全く同じようんだほうがいいんです。それに、もう、あなたがこんなざ ちゅうよう まになったのを見た以上、僕は何を考えて生きてゆけばい な、中庸な、特色も理想も圭角も持っていない人間にしか 生きる道を与えないのだ。だから僕はまず凡俗になり、角いのかわからなくなった。」 えいち いや、そう絶望することはない。今に生活の叡知 のない人間になり、普通の人間と同じようなばからしさと たた おとな