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検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

の有名人となり脹した自分の生活を眺め、人間の公 的と私的な面とを対応させ、現代人の虚しさを描き尽 した日本では稀有の総合小説である。同時に「生きる ーろ ' 5 怖れ」などで立身出世を願う自己を露し、生きるた めのエゴイズムを鋭くあばいて立身出世醜談を書く。 「氾濫」で人間の絶望的な暗い面を追求するかたわら、 「花ひらく」 「誘惑」などで、青年の救いのある明る さを扱った心なごむ小説を書き、バランスを保ってい る。それだけでなく、緻密な調査と考証が必要で、か 日本文増史第 : 恒物第 っ臨場感的なリアリティのあるユニークな「日本文壇 右「日本文壇史」全八巻 ( 昭和史」をえんえんと雑誌「群像」に連載する。また : 、一月ー : ー , : ・・一一十八年ー四十一年講談社刊 ) 作家会議、ペン・クラブ代表、交換教授などとして国 上「日本文壇史」第一六一回原稿際的に活躍し、工大の教授として誠実につとめ、さら には高見順をたすけ、彼の死後は一切の責任を背負っ こ影て日本近代文学館の館長、理事長として、募金などの . ー撮 溪氏困難な雑務に積極的におもむく。不遇な文学者にたえ めんどう 。↓斗山尚 定居す目を向け、携けを与え、文壇の面倒なもめごとの調 と田 停になくてはならぬ役割をはたしている しかもその間に「犯濫」に続き、「発掘」「変容」 貞の三部作を書いている。これは人間は結局、エゴイズ ムとセックスと金と名誉のため動き、そして死を怖れ るという絶望的な主題に拗なまで迫「ているのであ四 昭るが、「変容」にいたり老年には老年のたのしみがあ 日本文境史」、物ー 日文境実物を ! 第 日本文増史 3 を・・も朝第 日本文境史 3 、お第 , の物第 日本立磧史日気戦の時代伊物 日事文増実 , , り 4 日本マ境太 : 鬘第”響ャ ちみつ 、つさい

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

芸」に発表、文芸評論を書くことをやめたいと宣言。七月「日本近原朔太郎」を「文芸」に、十月「近代日本の百年・名作に不減の命 代文学館案内記」を「文学」に、八月「戦後新潮談」を「新潮。を , を「毎日新聞」に、十一一月「文士の死」を「文学界」に発表。 に、十月「明治人の肖像ーを「小説中央公論」に、「田園の風景」 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 六十三歳 とがえりはじめ を「婦人之友」に、十一月「十返肇氏の思い出ーを「文芸」に、 一月「同行者」を「週刊新潮 . に連載 ( 四十四年一月完結 ) 。日本 「小樽商科大学」を「朝日ジャーナル」に発表。 芸術院会員となる。九月、日本ペン・クラ・フ主催の公開討論会「日 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 五十九歳本文学は海外でどのように読まれているか」がサンケイ・ホールで 一月「凡人の晩年、を「世界」に発表。三月、東京工業大学教授をひらかれ、佐伯彰一とともに司会にあたった。また同月、東京プリ 辞任。四月、日本近代文学館副理事長に就任。六月「日本文壇史」ンス・ホテルおよび国立京都国際会館に於て開催された = ネスコ主 第七巻を講談社より刊行。八月「死の前後」を「世界、に発表。十催の明治百年を記念する日本文化研究国際会議に文学部門の参加者 一月「我が文学生活」第六巻を講談社より刊行。 として出席、討議した。十月、第十七長編小説「変容」を岩波書店 昭和四十年 ( 一九六五 ) 六十歳より刊行。十一月「広津和郎氏のあり方ーを「中央公論」に、十一一 一月「荷風老人擁護論」を「新潮。に、一一月「昔の家」を「展望」月「広津和郎の生き方、を「群像、に、「川端康成の芸術」を「新 に発表。三月「詩人相次いで世を去る」を「文芸」に発表。九月潮」に、「古き日のこと、を「朝日新聞」に発表。 コ一葉亭四迷と近代文学の出発」を「中央公論 , に発表。日本近代昭和四十四年 ( 一九六九 ) 六十四歳 文学館の理事長となり、その建設に尽力。十月「谷崎潤一郎の生涯一一月「高見順日記を読む、を「新潮」に発表。四月、第十八長編小 と文学」を「中央公論」に発表。 説「同行者」を新潮社より刊行。五月、腸閉塞で同和病院に入院、 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 六十一歳手術。秋、東京都豊島区西巣鴨の癌研究会付属病院に入院。十一月 一月、。フ = ルト・リ「島で開催された「日本の近代化」研究会議に十五日午後四時五十五分、ガン性腹膜炎のため逝去。葬儀は日本近 参加。 : lmages 0 ( Life through the Consciousness 0 ( Death : 代文学館、日本ペン・クラ・フ、日本文芸家協会の合同葬で十九日、 を論じた。六月、立野信之とともに、 ニ、ーヨークでひらかれた国青山葬儀所において行なわれた。 ( 葬儀委員長は川端康成氏 ) 。戒名 際ペン・クラ・フ大会に日本代表として出席。ヨーロツ。 ( をまわっては海照院釈整願。昭和四十五年一月「発掘」を新潮社より、二月 七月帰国。十月「日本文壇史」第八巻を講談社より刊行。 「智恵の木の実」を文藝春秋より刊行。三月「変容」に対し財団法 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 六十一一歳人新潮文芸振興会より第一一回日本文学大賞を受賞。帝国ホテルにお 一月「変容」を「世界」に連載 ( 四十三年五月完結 ) 。「智恵の木の いて行なわれた授賞式には、貞子夫人と次男礼氏が臨んだ。 実」を「婦人公論」に連載 ( 十一一月完結 ) 。第四の新聞小説「花と ( この年譜は瀬沼茂樹氏のものを基として編集部で作成し、同氏の校閲 を得ました ) 匂いーを「産経新聞」に連載 ( 四十三年一月完結 ) 。四月、小説と 評論活動の全般にわたり芸術院賞を受賞。六月「近代詩の転機・萩

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

五十五歳 昭和三十五年 ( 一九六〇年 ) 集「少年」を筑摩書房より刊行。 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 五十一一歳一月「虹」を「婦人公論」に連載 ( 三十六年四月完結 ) 。四月、上林 一月、第一一の新聞小説「誘惑」を「朝日新聞」に連載 ( 百四十八回 ) 。暁、福田清人、永松定、那須辰造、十和田操、瀬沼茂樹ら旧友と季 二月、第十四評論集「芸術は何のためにあるか」を中央公論社より刊同人雑誌「春夏秋冬」をはじめる。八月「岸信介氏における人間 刊行。三月、チャタレイ裁判は最高裁判所にて上告棄却となり、第の研究ーを「中央公論」に発表。「日本文壇史」第六巻を講談社よ 二審のとおり確定。日本文芸家協会は、理事会でこの判決を不当とり、十月、ロレンスの「息子と恋人」を河出書房より刊行。コロン ビア大学の招待で、妻貞子、娘マリ子とともにニューヨークに滞 する声明書を出した。四月「我が文学生活」第三巻を講談社より、 七月、第十三長編小説「誘惑」を新潮社より刊行。九月、第一一十九在。十一月「ビビハンヌの接吻」を「小説中央公論」に発表。 五十六歳 回国際ペン・クラ・フ東京大会で : Japanese Sense of Beauty and 昭和三十六年 ( 一九六一 ) コロンビア大学で : Japanese Ways Of Recognition : を、ミシ Good : を講演。十月「虹」を「文藝春秋」に発表。 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 五十三歳ガン大学で、 : Escaped Slaves : を講じた。五月「我が文学生活」 三月、東京工業大学教授となる。四月「伊藤整作品集」全十巻を光第五巻を講談社より刊行。七月、ヨーロツ・ ( をまわって帰国。八月、 文社より刊行 ( 十一一月完結 ) 。「日本文壇史」第五巻を講談社より、母タマ死去。十月「現代詩の問題ーを「文学界」に、十一月「「純」 九月「近代日本の文学史」を光文社より刊行。この月末、パリで開催文学は存在し得るか」を「群像」に、「宇野浩一一氏の世界」を「新 された国際ペン・クラ・フ執行委員会に出席、その席上 "The privacy 潮」に発表。十二月、第十五評論集「作家論」を筑摩書房より、 Of the Author and the Aut0biographical NoveI : と題して発「ヨーロッパの旅とアメリカ生活」を新潮社より刊行。 五十七歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 表。十月、タシュケントのアジア・アフリカ会議に出席。十一月、 ・ハリからロンドンのイギリス・ペン・クラブの例会に出席。十月、一月「母の記憶」を「世界」に発表。第十六長編小説「虹」を中央 第十四長編小説「氾」を新潮社より、「我が文学生活」第四巻を公論社より刊行。一一月「日本の社会、日本の小説」を「中央公論」 に、三月「純文学像の推移ーを「文芸」に発表。「発掘」を「新潮」 講談社より刊行。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 五十四歳に連載 ( 三十九年十月完結 ) 。四月、日本べン・クラ・フ副会長とな 元旦を。ハリで迎え、 ミュンヘン、ウィーンを経て、イタリアに旅る。五月「年々の花」を「小説中央公論」に連載 ( 三十八年十一一月 し、一一月九日、マルセイユをたって、四月、帰国。三月「ヨーロッ完結 ) 。六月、財団法人日本近代文学館設立当初の常務理事に就任。 年パで性を考える」を「新潮」に、「異邦人意識と人類意識」を「群十一月、第十六評論集「求道者と認識者」を新潮社より刊行。 五十八歳 像」に発表。四月、第三の新聞小説「泉」を「朝日新聞ーに連載昭和三十八年 ( 一九六 = l) 7 ( 百八十三回 ) 。八月「失われた記憶」を「新潮」に発表。十一月、一一月「日本近代文学館の話」を「文学界ーに発表。三月「日本文壇 史」により第十一回菊池寛賞を受賞。四月「一つの感想」を「文 第十五長編小説「泉」を中央公論社より刊行。

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

せす、酒も飲ます、まるでサラリ ーマンのような謹厳 で実直な生活を持ち、勉強家であったため、文士とは 肌合いの違うウサン臭い異端者として敬遠されていた のだ。伊藤整はその蔑視にえながら日本の文壇の本 を質をじっと眺めていた。日大芸術科の講師や出版社に っとめながらも生活は苦しく、その点では上林暁など 中央線沿線の貧乏文士と生活的な親近感があった。 北海道の妻の実家に疎開し、べニヤ板工場に勤めな がら終戦を迎えた伊藤整は、北大の講師となったが、 昭和一十一年九月辞任し、上京する。そして二十二年 右ローマサン・ピエトロ寺院の前で長女桃子 ( 左 ) と整 ( 昭和二十六年 ) 左古書展にて ( 昭和三十八年 ) 南多摩郡日野町の新居に移り、長編小説「鳴海仙吉」 をさまざまの雑誌に分載しはしめる。それと同時に長 , 学物編評論「小説の方法」を書きはしめる。「鳴海仙吉」 と「小説の方法」は伊藤整にとって画期的な仕事であ るばかりではなく、日本文学史上、不滅の傑作と言っ ても過一一口ではない。 この二作によって伊藤整は、日本 の現代文学のもっとも先駆的な中核となり、 「小説の 方法」にはじまる " 伊藤理論 , は近代日本文学の原理 論となり、戦後文学の方向を主導した。どんな伊藤整 ぎらいの文壇人も「小説の方法」にはしまる伊藤理論 の画期的な意義だけは認めざるを得ぬ を かっき かんばやーあかっき きんげん

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

現代日本の文学 32 全 60 巻 伊藤 整集 昭和 45 年 6 月 1 日初版発行 昭和 57 年 10 月 1 日 27 版発行 著者伊藤整 発行者古岡滉 発行所鑾学習研究社 東京都大田区上池台 4 ー 40 ー 5 〒 145 振替東京 8 ー 142930 電話東京 ( 720 ) 1111 ( 大代表 ) 印刷大日本印刷株式会社 中央精版印刷株式会社 製本中央精版印刷株式会社 本文用紙三菱製紙株式会社 表紙クロス東洋クロス株式会社 製函永井紙器印刷株式会社 * この本に関するお問合せやミスなどがあリましたら , 文書は , 東京都大田区上池台 4 丁目 40 番 5 号 ( 〒 145 ) 学研お客さま相談センター現代日本の文学係へ , 電話は , 東京 ( 03 ) 720 ー 1111 へお願いします。 OSadako lto 1970 Printed in Japan ISBN4 ー 05 ー 050242 ー 9 C0393 本書内容の無断複写を禁す

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

伊藤 , 整 下屋島にて ( 昭和四年 ) 」」 左「火の鳥」初版 ( 昭和年 ) 日ミ噎壟丘 = 、 光女社 名セの十こ / 2 イタみ 映画「火の鳥」のポスター 法的革新をめざすモダニズム芸術派の運動も盛んで、 新感覚派から新興芸術派へとさまざまな新文学の提唱 がなされた時期である。伊藤整の「新心理主義文学」 もモダニズムのひとっと見られたが、ジョイスの意識 の流れの方法は伊藤整経由で日本の文壇に大きな衝撃 を与え、横光利一、川端康成らの作品にも影響を与え た。「感情細胞の断面」の意義をはしめて認め賞めたの が川端康成であったことも文学史的に見て興味深い しかし日本の従来の私小説や自然主義小説と余りにも 異なったバタ臭い伊藤整の小説は、何かニセ物めいた 印象を日本文壇に与え、文壇から疎外される原因にな った。特に教祖的距格を持った小林秀雄の痛烈な批判 カそ、つい、つ見方を一般ヒした。 「ある時俺が人より先に西洋流のダンスを習ったも ので、将来人間はみなこのダンスのように優美に歩 くようになるだろう。今の皆の歩きかたは下駄ばき の屁放り腰だといった。奄は別に本、いからそう田 5 っ た訳でもないのだ。ただ俺の存在を認めさせたかっ たのだ。 : 皆はぎよっとした顔つきで俺を睨みつ けた。そんなら貴様歩いて見ろということになった。 奄はダンスにはあまり自信がなかったが、ど、っせた かの知れたことだと思ったのでダンスの合好で歩い 6 て見せた」 ( 「浪の響きのなかで」 )

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

引イ 1 菊池寛賞授賞式にて左より川口松太郎整 ( 昭和 38 年 3 月 ) 体系化したはしめての、そして不滅の仕事である。こ の評論により、日本の近代文学は、はしめて原理論を 持ち、体系化され得た。ほくは「小説の方法」を読ん だときの目のうろこが落ち、日本文学が一望のもとに 島瞰し得たときの感激を忘れることができない。 から伊藤整は「小説の認識」「文学入門」「芸術は何 のためにあるか」「求道者と認識者」までの評論で、 「逃亡奴隷と仮面紳士」「芸の理論」「組識と人間」「本 質移転論」などの卓抜な発想の伊藤理論を展開する。 その理論は明治以後の日本文学のすべて、戦後文学ま でも論理化、体系化し得る殆んど万能の原理論である。 芸術は秩序の枠に抵抗する生命の働きであるという中 核の芸の理論は、無限の重みをもって、ほくの心を貫 く。伊藤整はこの時、太宰治、織田作之助、坂口安吾、 げさくは 年 石川淳らの新戯作派の作家と極めて近い場所にいた。 、心・つ 0 せんくてき 和 つまり真の現代文学の先駆的な担い手であったのだ。 昭 ただ太宰治などのように破滅を辞さないエキストリミ で ズム ( 極端性 ) に走ることなく、たえず両極の可能性 書を考え、検討し、平衡操作によ 0 て危機を回避し、 り強く生きていくところに違いがあった。この根本的 自 な平衡操作により、彼はかえって大胆な自己分析をも の 山 なし得たのだ。 我 ところが昭和一一十五年、四十五歳の時、彼の訳した 久 たくばっ にな 477

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

建」を四海書房より、十一一月、第五長編小説「得能物語」を河出書に、一一月「女人像」を「女性改造 , に、三月「仙吉とユリ子」を「新 房より刊行。 生。に、四月「出家遁世の志」を「人間」に、「鳴海仙吉の知識階 昭和十八年 ( 一九四三 ) 三十八歳級論ーを「文芸」に、「鳴海仙吉と二人の女」を「光」に、「シェイ 一一月「病歴」を「新潮」に発表。三月、世田谷区祖師ヶ谷一丁目五クス・ヒア談」を「季刊芸術」に、「芸術の運命」を「近代文学」に 八二に移る。四月「隣組の畑」を室生犀星、舟橋聖一とともに、書発表。七月、長女桃子出生。「シュリ ーマンの話」を「芸苑」に発 きおろし創作集「新作品」の一編として有光社より刊行。五月「北表。東京都南多摩郡日野町芝山五九六七の新居に移る。 国」を「知性」に発表。書きおろしで第六長編小説「童子の像」を昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 四十三歳 錦城出版社より刊行。六月「玩具の思い出」を「現代文芸」に発一月「ビストル」を「花」に発表。三月、日本文芸家協会理事とな 表。十一一月、四弟実とともに日露戦蹟踏査のため満州に旅行。 る。「青い鳥」を「フェミナ」に、六月「逃亡奴隷と仮面紳士」を 昭和十九年 ( 一九四四 ) 三十九歳「新文学」に、九月「終幕」を「文芸」に、十一月「童女の像」を 一月、満州より帰り新潮社文化部企画部長に就任。一一月「三人の少「風雪」に、十一一月「灯をめぐる虫」を「群像」に発表。第十評論集 女」を淡海堂より刊行。八月、第九評論集「戦争の文学」を全国書「小説の方法」を河出書房より刊行。 房より刊行。十月、日本大学芸術科の授業停止となり、同系の光星昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 四十四歳 中学の英語教師となる。十一一月「父の像」を「文芸」に発表。 一一月「むしばめる花」を「人間」に発表。評論選集「伊藤整文学論 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 四十歳選集」を実業之日本社より刊行。四月、早稲田大学第一文学部講 六月、新潮社を退職。七月、祖師ヶ谷の家を売って、北海道山越郡師、五月、東京工業大学専任講師となる。十月、日本ペン・クラブ のだおい 野田生村の妻の実家、小川伊一一一郎方に疎開。八月、北海道韻郡落幹事となる。十一月「たわむれに」を「群像、に発表。 部村に移り、帝国産金株式会社落部工場に勤務。 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 四十五歳 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十一歳一月「妻の像」を「評論」に、二月「美少女ーを「文芸」に、三 四月、帝国産金株式会社を辞職。北海道帝国大学予科講師となり、 月、第七長編小説「鳴海仙吉」を細川書店より刊行。早稲田大学講 おしよろ 北海道忍路郡塩谷村に帰る。七月、上京して東京都杉並区和田本町師を辞任。四月「生きる怖れーを「改造ーに、「めぐりあいーを「新 七一四に移る。八月「嘘」を「新人ーに、「風」を「評論」に発表。小説」に発表。ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳し、上 九月、北海道大学を辞任。十月「鳴海仙吉の朝ーを「文明」に、「鳴巻を、五月、下巻を小山書店より刊行。六月「チャタレイ夫人の恋 ゅううつ 年海講師の憂鬱」を「潮流 , に、「教授室にて」を「女性改造 , に、人」が猥褻文書の疑いで、検察庁に押収される。九月「チャタレイ 十一月「鳴海仙吉と学生ーを「新潮 , に発表。 夫人の恋人」の出版につき刑法第一七五条によって出版者小山久一一 四十二歳郎とともに起訴される。日本文芸家協会と日本べン・クラ・フはこの 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 一月「鳴海仙吉街を行くーを「文芸」に、「本格小説談義ーを「人間」起訴に反対し、対策委員会 ( 委員長中島健蔵 ) をつくる。十月、感 わいせつ

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

想評論集「我が文学生活」を細川書店より刊行。十一月「誘惑」を一月「感傷夫人」を「婦人公論」に連載 ( 三十年十一一月完結 ) 。一一月 「新潮、に発表。 「ある女の死」を「改造」に発表。「女性に関する十一一章」を中央公 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 四十六歳論社より刊行。三月「海の見える町」を「新潮」に発表。「日本文 編著「日本の文学」を毎日新聞社より刊行。五月、チャタレイ裁判が壇史」第一一巻を講談社より刊行。五月、杉並区久我山一丁目一一七五 東京地方裁判所でひらかれる。「伊藤整氏の生活と意見」を「新潮」の新居に移る。「雪の来るときーを「中央公論」に発表。七月、第十 に連載 ( 一一十七年十一一月完結 ) 。十月「こ・ほれたミルク」を「文芸」 一小説集「海の見える町」 ( 昭和名作選 ) を新潮社より、「文学と人 に発表。十一月、第十一評論集「性と文学」を細川書店より、十二間 」 ( 角川新書 ) を角川書店より、八月「伊藤整氏の生活と意見」 月、グレアム・グリーンの「事件の核心」を翻訳、新潮社より刊行。 ( 河出新書 ) を河出書房より、九月「我が文学生活」第一巻を講談 昭和ニ十七年 ( 一九五一 I) 四十七歳社より刊行。十月「詩人との出逢いを「別冊文藝春秋 , に発表。 一月、記録小説「裁判」を「中央公論。文芸特集号に発表。「日本書きおろしの「文学入門」を光文社より、「我が文学生活」第一一巻 文壇史」を「群像。に連載しはじめる ( 四十四年六月、病床につくを講談社より刊行。十一月「詩人伝」を「小説新潮」に発表。 まで ) 。チャタレイ裁判の判決が下り、訳者無罪、出版者罰金一一十五昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十歳 こうそ 万円となり、検事控訴となる。六月、次女マリ子出生。七月、東京一月「卒業期」を「文藝眷秋」に発表。「文芸読本」を「新潮」に 高等裁判所にて第二審の公判はじまる。第八長編記録小説「裁判」連載。三月「伊藤整全集」全十四巻を河出書房より刊行 ( 三十一年 を筑摩書房より刊行。八月「火の鳥ーを「文藝春秋ーに発表。十一一六月完結 ) 。四月、ジョイスの「ユリシーズ」—を永松定と改訳し、 月、東京高等裁判所で、訳者罰金十万円、出版者罰金一一十五万円の新潮社より刊行。五月「日本文壇史」第三巻を講談社より刊行。七 判決。ただちに上告。 月、第十一一評論集「小説の認識」を河出書房より刊行。八月、長野 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) 四十八歳県野尻湖畔に九月まで過す。九月「若い詩人の肖像 , を「中央公 一月「女性に関する十一一章」を「婦人公論」に連載 ( 十一一月完結 ) 。論ーに連載 ( 十一一月完結 ) 。「ユリシーズ」Ⅱを新潮社より刊行。 「伊藤整作品集」 ( 全五巻 ) を河出書房より刊行。一一月「子供暦」を昭和三十一年 ( 一九五六 ) 五十一歳 「改造ーに、「近代日本人の発想の諸形式」を「思想」に発表。五一月「父の死まで」を「世界」に発表。一一月 "Japanese way 望 月、最初の新聞小説「花ひらく」を「朝日新聞」に連載 ( 九十一回 ) 。 Thinking as expressed in Literature : と題して国際文化会館 九月「文と人」を「西日本新聞」に連載。十月、第九長編小説「花で講演。四月、第十一長編小説「感傷夫人」を中央公論社より、七 ひらく」を朝日新聞社より刊行。十一月、第十長編小説「火の鳥」月「日本文壇史」第四巻を講談社より、第十一一長編小説「若い詩人 を光文社より、「日本文壇史」第一巻を講談社より刊行。十一一月、 の肖像」を新潮社より、十月、第十三評論集「文芸読本」 ( 新潮叢 「組織と人間」を「改造」に発表。 書 ) を新潮社より刊行。十一月「氾濫」を「新潮」に連載 ( 三十三 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 四十九歳年七月完結 ) 。十一一月「花火」を「文藝春秋」に発表。第十一一小説

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

左昭和四十四年、整 が入院していた東京・ 豊島区の癌研付属病院 下整が、晩年創 立に心血を注い 東京・目黒区駒場 の日本近代文学館 氾監 變容伊藤整 右晩年の三部作「氾濫」 ( 昭和 年新潮社 ) 「発掘」 ( 昭和年新潮 社 ) 「変容」 ( 昭和年岩波書店 ) 伊藤整 1 物第一 0 る、齢とった女にも経歴が蓄積された美と魅力がある と、大胆に老年の新しい境地を開拓した小説であった。 伊藤整はここから、「年々の花」「三人のキリスト 者」を経て、エゴイズムや性を超えた、生命の力を、 絶対の救いをめざしていたに違いない。それを果せす して六十四歳、業半ばで急逝した伊藤整の無念を思う と、ばくはくやし涙にくれる。伊藤整こそ、老年の現 代文学をつくり出す唯一の文学者であったのだ。 伊藤整は日本における最初の現代文学者であった。 古い文士や小説家を否定、捨象し、現代社会の実務の あ。 垢にまみれながら、しかも純粋な芸術をめざしたもっ とも知的で、努力家で、しかも詩人の魂を失わなかっ せんくしゃ 新しい文学者の姿勢を、生き方を示した先駆者で あった。そして″伊藤理論と「鳴海仙吉」あるいー 晩年の三部作は現代文学の基礎を築いた作品として文 学史に永遠に遺るに違いない 付記本巻に使用した写真その他の資料収集に関し、 ご協力いただいた、生沢朗、沢田斉一郎、瀬沼 茂樹、田居尚、竹田正雄、田沼武能、長尾重武、 益田義賀の各氏、・および北海道新聞社渋谷四郎 氏、小樽商大室谷賢治郎氏、同鈴木三重子氏、 日本近代文学館字治土公三津子氏に感謝します。 なお、写真の著作権は極力調査しました。