松子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

のを持っていない。どこの支那料理がうまい、とか、靴下眼を上眼づかいにして、次々と喋りつづけるのであった。 はどういう艷のがいいとか、叔母さんは食事にけちんぼうそれで松子はお豊と一番話が合った。 すてき だとか、何とかいう俳優の今度の役は素敵だとか、客の誰「私にだっていい人があるわ」と松子が、そういう話のあ が自分を映画に誘ったとか、そういうことに彼女の喋るこいだに言うことがあった。 とは尽きているのだった。満子という存在は、客に見せる「でも内証、とても一緒にはなれそうもない人なんだも ささ あの姿態と、それを舞台装置のように後から支えている支の。」 くぎ え棒や引っかけ釘のような至極実行的なものと、そういう そこまで言って松子はロをつぐんでしまう。そういう時 二種のばらばらの要素でできているのだった。典子があれも典子は、じっと眼を見開いて松子を見るが、すぐ眼をそ はちがう、ああいう姿が女の完全な姿ではない、と思うのらす。典子は、これでもない、と思うのだ。だがそう思う は、そのことだった。というよりは、女をみんなあんな風ときでも、だまっていること、意味のない生活の出来ごと に見せたくない、ああいうものだと男性に思わせたくない にむかっては、ちらと眼をやるだけでだまってしまうこと という衝動でもあった。 を彼女はさとった。そうだ、あれは少女たちがして見せる 松子の方はまだ典子にはましと思われた。松子は勤め姿態の一つなのだ。同じことだ。裁縫所に集まっていた女 を、全然事務のように扱 0 ていた。満子や典子と同じようの子たちと同じような、何かを喋り、何かを着て、また誰 ところ なドレスも松子が着ると、裾の長い処が全く用もない余計かを盗み見ては、自分の姿をなおしている少女たちが、こ ひざ な、ただびらびらするものに見える。膝から下の揺れ動くこにもいたのだ。 部分は、この少女には必要もなく、また役にも立たない。 生きてゆくというのは、ただこれだけのものだろうか、 まえかが 吮膝を曲げ、前屈みにな 0 て、せかせかと歩くのである。そと典子は思うのであ 0 た。生きてゆくということは、なに きして客に見せるための面だとか、姿態のようなものはまるかはっきりした目標があって、そこに到達すれ・よ、 ので考えることもできないようである。松子がもっとも生きなことなのかどうかは、彼女にはよく解らなかった。だが 紆生きとなるのはお客のをするときであ 0 た。誰は毎日何自分の生きてゆく形が、満子のようであ 0 ても、松子のよ 時頃に来て、何を飲む、とか、誰は気取って茶にクリームうであっても困る、と彼女は思うのだ。私の中には、もっ を入れさせないとか、誰は頭が頭だらけだとか、誰の ( とちがったものがある、と考えた。それは、すぐ目の前に ンカチは真黒だったとか、そういうことを、黒いくぼんだ いる人間の心の中に、つかっかと入って行きたい、また入 つや すそ し ZJ く しゃべ くっした

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

叔父の顔がちらりと残るのであった。叔父の顔は、ここま いる松子にむかって、 「お掛けなさい」と谷の傍の椅子を眼で指した。松子は痛でだよ、ここまでだよ、と言っているように思われた。母 に逢いに行ったときの帰りに、叔父がだまって自分と並ん い所でもあるように浅く腰を下した。 で歩いていてくれたことを思い出していた。そのとき、自 「このほかに私の姪が一人いますの」とマダムが言った。 分を叔父は愛していてくれたのだ、と強く思った。それか 谷が、 「どうぞ砂田さん、時々お立寄り下さい。私も何ですなら叔父の家で、叔母の言うことを聞かないとき、叔父が何 あ、時々ここへ寄るのですが、青年たちの巣みたいなとこも自分の意見を述べずにだまってしまうようなときのこと を、ああ、あすこが叔父の愛情の限界だったのだ。叔父は ろだから、どうも気がひけていけませんなあ。」 そのとき、ドアをぎいっと押して山田の白い顔がのそいあすこを越えて自分の方に手を伸べられないことを、ちゃ た。皆の坐っている方を、ちらと眺め、一瞬入ろうかどうんと伝えていたのだ、と思った。そうすると、その二つの ためら 叔父の姿の間が、叔父の愛情の世界であった。そこで、そ しようかと躇ったが、マダムがそっちを見て、 「あら、いらっしゃい」と声をかけた。山田はばつが悪その幅のせばめられた叔父の愛情の世界で、自分は育って来 うにだまって隅に坐った。マダムが松子の方に眼くばせしたのだ。それは狭いものではあったが、自分を生かしてく ふところ たが、松子は窮屈そうに谷のそばに腰かけて伏目にな 0 てれた叔父の懐なのだ。そういう風に典子は先ず叔父を、 生きた人としてはっきり眼に浮かべた。なぜ砂田が叔父の いて、それが通じなかった。典子はすぐ立って山田のコー ことを思わせたのか、とも考えなかった。 ヒーを取りついでやった。山田は谷や砂田のそばから急に それに続いて速雄の顔が現われた。だが速雄は、どうと 立って来た典子を、びつくりしたように見ていたが、何も も、自分には判断がっかなかった。速雄は叔父のように自 言わなかった。典子はまた砂田のそばへ戻った。すると、 自分のそばにいる人が、山田とは大変ちがうということ分から離れて向うの方にいる人間ではなか 0 た。速雄のこ が、そのとき何故かは 0 きりと納得できた。典子は、このとは、まとめてどういう人間だ、とか、自分に対して何を 人には、何でもわかっているのだ、と思った。世の中にしたというように考えられず、ただ空気のように自分のま は、何でもわかる人がある。その人間の区別ということにわりに漂い流れる気体のようであった。自分が魚のように 眼が開いて、今まで自分が触れて来た色んな人の顔を思い泳いでいて、そのまわりの水のように、速雄は自分を浸し ていたのだった。その感じは外のこととすっかり違ってい 浮かべた。叔母や清子の顔は、ただ影のように過ぎ去り、

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ダムも、自分の方に顔を向けて来ないのであった。この人く、 女学生の靴のように見えた。それは、奥への窓口にあ ひま は、いま興奮しているから、しばらく触ってはいけない、 るスタンドに、二人が集まったちょっとした暇を見てのこと とその一一人が暗黙のうちに牒し合わしているように見えだった。満子、はそばにいなかった。それで典子は、客の眼 た。だが松子だけは、くるくると丸まっちい顔で、典子のの前でも内証話をする方法があるのだなとさとった。 緊張しているさまにはまるで気づかないように、平気で近レコードをかける番になった日はとても疲れた。しよっ づいて言うのである。 ちゅう大きな電気蓄音器のそばに行っては盤をとりかえね すわ 「ねえ、あんたの靴新しいの ? 」 ばならなかった。はじめは、客がなにを考えて坐っている すそけ 典子は裾を蹴るようにして靴の先を出して見た。典子はのか典子には見当がっかないのであった。音楽を聞いてい むぞうさ 無造作に、初めの日の夕方着物をドレスに着替えたとき、 るような客もあり、雑談をしている客もある。ただ・ほんや 階段の下で、「靴はこれよ」とマダムが置いたのを穿いてり休息しているだけのような客もいる。毎日きまって来る いたのだ。そのときは、ただ恥しいとばかり思った。服を客の顔を次第に彼女は覚えて行った。この店に近い大学 作ってもらったばかりでなく、靴までも仕着せである。その学生が多かった。色の黒い会社員らしい青年は、いつも ういう習慣なのかどうかわからないが、靴も出してもらう山の話をしていた。昼間、学校の時間があるらしいのに学 外ない自分の境遇を、そのときちらと恥しく思い、電燈の生は、いつも二人か三人はいた。 「君何ていうの ? 」 光の届かない階段の下で穿いたのが、どうにか足に合うの うつむ あおじろ で、その靴を俯向いて見る気持の余裕もなく、 一日二日と よく来る蒼白い小柄の学生が小声でにこにこ笑いなが ひぎ ところ 過して来たのだ。長いドレスの膝の処をつまむようにしら、初めて典子に名を訊いた。 吮て、自分よりも松子の眼の前にそれを伸ばして見せた。足「私 ? 」と典子は、ぎくりと立ちどまって「のり子って言 きの甲がずっと出ている赤い皮の靴で、決して新しいものとうのよ」と、すぐ心の動きをやわらげ、昔から知っていた は思えなかった。 の 友達に内証話をするように言った。それでもまだ訊きだそ うとしていたが、 子「でも、あんたのはいいわ。踵がちゃんとしているらしい から。私のは踵が別なのよ。」 「字は教えない」と言ってそこを離れた。 そう言って松子は自分の靴をちょっと上げて見せた。外松子や満子が典子を本名で呼んでいるのを今さら隠して きやしゃ だめ の部分が華奢に出来ているのに、踵が不細工で、妙に太も駄目だと思ったからであった。松子は本名でないらしか ほか しめ さわ

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

268 三人は表へ出ると、マダムは、 満子は、典子のまともな言い方を聞くと、それもそう、 まじめ 「私はちょっと谷さんと買物にまわるから、店へ行ったというような真面目な顔になった。私の困っていること ら、満子にそう言って下さい。夕方には帰るって」と、すは、と典子はまた心の中を見まわすようにした。自分はさ からだ ぐ毎日の調子に戻ってすらすらと言い、谷と並んで行ってつきは、ただ自分の身体の中にある獣のようなものに餌を しまった。 与えるつもりで、あの仕事を受けれたのだった。だけど きのう 典子は昨日から、何十日も経ったような気がするのであ仕事って、あの私だけの動機とは、きっと、少しも関係の った。街を歩きながら、ふと鈴谷、と考えて、ぎよっと立ないものにちがいない。きっと仕事は、その仕事に絶対に ちすくんだ。私はひとりでこんなことを承知していいのだ必要な準備とか、実践とか、方法とか、形式なんかがある のだ。私はもう動機が何であろうと、動機とは関係なし 店へ戻ると、満子がにこにこして近づいて、 に、その仕事の実質をこなして行かなければならないの 「どうお話きまって ? 」と言った。松子は典子の方を、な だ。衝動などという生やさしいものでは、とてもそれを片 かば興味深そうに、なかばそんな大胆なことをこの人できづけることはできないのだ。仕事は仕事として考えなけれ るのかという目つきで、ちらと見たまま寄って来なかつばいけない、と典子は思った。 こ 0 典子は、はじめマダムから砂田の話を聞いたとき、厭な 「お話 ? 」と改めて典子は、さっきの話が、満子や松子た感じがこの話につきまとっていると思った。マダム自身が ちに大変な話題になっているらしいことを見てとり、もうそう思っていたため、話しかたが、ひとりでにそうなった 引きかえすことができなくなっているのがわかった。満子のであろう。そして砂田と逢い、そのことを頼まれている ところ や松子の眼にうつった処では、ちょっと変な蔭がその話に最中にも、以前のその感じが、・ほんやりと尾を引いてい はついていると思っているらしい。典子はそれを見てとっ た。だ力、いま満子に自分で、仕事のことを話して見る た。しかし、そんなことではないのだ、私の困っていること、初めて典子はその仕事の実際が眼の前につき突けられ とは、と思った。 たようにあわてた。子供って、いったい幾つの子供なのだ たす 「ええ、まあどうにかきまりそうなの。でも私、家庭教師ろう。男の子か女の子か、それも私は訊ねなかったし、あ なんて、うまく勤まりそうもないから、その子供を見て私の人も何も言わなかった。母親のない子供、母親のない子 と合わなかったら、やめるつもりなの。」 供、と典子はロの中で言って見た。おや、私もそうだわ、 なま えさ

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

て、 いたように、今まで谷が喋っていた問題に、自分の方から 「この娘さんは、なんだか悲しいことでもあったような顔意見をのべはじめた。色々な人の名前も出て来て、誰々の をしていますね」とマダムに話しかけた。それで、谷の喋意見とか、誰々の立場とか党のこととか言っているだけ っている政治談よりも、さっきから典子の表情がこの客ので、内容は少しもわからなかった。砂田の話しかたが小声 心を占めていたように思われた。 で静かなのに引きかえ、谷の話は次第に熱して来た。する うらわ 谷は自分の話を中絶して、突然、あははは、と高い声でと砂田は、ある場所で、右手を団扇のように谷の眼の前で 笑った。 ゆっくりと振り、 「マダム、砂田さんは、これでなかなか下情に通じている「いや、その話は、今日のところ、そこまでにしておきま じん というので、評判の仁だからなあ。」 しよう。私としては、あすこで決定したこと以上のことは 申しかねますから。」 言ってしまうと、また改めて谷は、あははは、とひとり 笑って、じろじろと典子の顔を眺めた。典子は自分の眼の そして、その話をうち切るきっかけとでもするように、 中に、砂田というその客や、谷や、マダムの視線が、ちか「マダム、あの娘さんたちを呼んで腰かけさせてもいいで ちかと重なって、かっとなった。だが砂田の、なんだか悲しよう」と言い、さっき、谷の顔の前で団扇のように振っ かわ しいことでもあったような顔をしているという言葉は、乾て見せたその右手を、ゆらゆらと招くように典子と松子の いていた砂に水が滲みるように、あっという間に、典子の方に振って見せるのであった。マダムはうなずいただけ 身体中に滲みこんでしまった。そのあとの谷の高い笑声で、典子たちの方をふり向いては見なかった。松子があん も、マダムのちかちかする眼つきも、それは、木の葉をか たのせいよ、というような表情をして典子の方を盗み見し き乱してとおる風のようなものに過ぎなかった。砂田とい た。典子は、松子のその目つきには笑えず、小学生が先生 カ しび きう半白髪の客の言葉が、手足のすみずみまで、痺れるようのところへ近よるように身体を真直にして砂田の隣の椅子 とど に腰かけた。そういうとき、典子は、自分でもはっと思う のに届いてゆくのを、典子はじっと耐えていた。 子そうして、その駁がしい笑声の向う側にとり残された砂ほど、何か境界のようなものをやすやすと乗り越えるので くちびる 田から、こちら側に身を伏せるように残っている典子に、 あった。その典子の唇をむすんだ顔にマダムは、よくした しいんとした、呼声のようなものが届いて来る。 という風に徴笑んで見せて、典子について少し歩いて来た かっころ・ 砂田はにこりともしなかった。そして、はじめて気が向ものの、まごまごしてどうしていいか恰好つかずに立って ほほえ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

こ 0 畳の間に落ちつくと、重たい道具か何かのように自分の 「清子さん、ここへやって来るかも知れないわ。私、まる身体をそこへ投げ出すのであった。足がれて曲げるのも でそっけなく突っぱなしたんだけど、でも、私がここへ通苦しくなっていた。満子も松子もみなそうであった。 「ああ苦しい」と言って、満子は勝手に一一階へ駆け上って って来ていることは知っているのだから。」 いっそ清子が来てくれれば、と、もう清子に取りすがっ仰向けにひっくり返っていることもあったが、典子や松子 はば て泣き出したいような心細さになって思うのだった。そしはそうすることも憚かられた。 て、じや私はな・せ家を出て来たのだ、ともう一度反問し「足が痛くなるだろうね」とマダムも三人を見まわして言 よ , し、・ら・なしり た。すると、縁談をすすめた時の叔母の顔と、不精髭の生うことがあった。「椅子をおこうと思うんだけど、そうす いぎたな ると店全体が居汚くなって、しゃんとしたところが無くな えた速雄の寝ている顔とが浮んで来た。 あかねへ来てからの、はげしい生活の変りかたが煙幕のるからねえ」と考えるように首を曲げ、そのままどっちと ように、家のことと病院の速雄のことを、その四五日のあも決めずに放ってしまうのであった。喫茶店では女の子た すわ いだ・ほかしていたのだった。煙の立ちこめた喫茶室、そこちを坐らせないようにするのが習慣であった。女の子たち を舞台を歩くようにモーヴや緑などの長い服を着て無言のを立たせておくことは、その女たちの身体を見せるように まま歩いている自分や満子や松子、絶間のない音楽、奥で作られる服装の目的をよく果すことでもあり、また酒を売 通いの女中が茶碗を洗い、次々と絶間なく茶やコーヒーをる処のように客の椅子に坐らせないための規則でもあっ 淹れている目まぐるしさ、青白い山田の顔や、その外の男た。 たたみ たちの顔。そういうものが、壁のように典子のまわりにぎ だが、それまで畳に坐ってばかり暮らしていた典子は、 吮っしり立ち並んで、その向う側にあったものを、一つも見脚がれて、一度坐るともう何をする気力もなくなるの きせなくさせていたのたった。 だ。そのことと、生活の動きに見当のつかない頼りなさと が、典子をすっかり無気力にしてしまった。店の中で自分 のそうだ、私には考えなければならないことがある、こう 子 いうものでなく、もっとまるでちがったものが、と思いなのために与えられた仕事だけをきちんとして、かたい表情 典 がら、典子は追い立てられるように過していたのだった。 で身を守っているのがやっとだった。心を、その店の雰囲 そろばん しかし夜、店を閉めてから、小さい算盤を前において計算気のことを越えたあたりまでのばすことは、到底出来そう しているマダムに別れて、自分の天井の斜になっている三にも思われなかった。 たえま あしま からだ

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

はんばくひげ いる。太い半白の髭の先を左右によじってはね上らせてい 五 る。顔は心持ち赤らんでつやつやしている。背は低いのだ が、歩くときも坐っているときも、後へ反っているよう 二日たって、昼すぎに清子が店へやって来た。 からだ 「いいから入って坐りなさいよ」と、客がいないのを幸に、大きく身体を動かす。この喫茶店に、その男の入って 、典子は清子を店へ坐らせて、受けとった風呂敷包みを来ることすら似合わないのだが、青年たちが弾力のあるし なやかな身体を前に屈めるようにして坐る小型の派手なデ 二階へおいて来た。清子はなにも言わなかったが、叔母が 着物は渡してやる、というところまで来ていて、そこからザインの椅子へも、谷は、身体をうしろへ反らせて、板の かんしよう 先は干渉もせず責任も負わず、という態度に出ていることように胸を張ったまま坐った。腰が浅く、ちょっとしか椅 子にかかっていないように見える。この谷が来ると、すぐ がわかった。 「何ほしい ? ほら何でもあってよ」と厚い紙を二つに折マダムに知らせることになっていた。松子が奥のせまい扉 を開けて、とんとんと二階へ上ってゆく音がした。 って、飲みものの名を書いたのを清子に押しつけた。 「あら」と清子は赤い顔をして、典子が自分でも気にして「グレ 1 プジュースをもらおう」と谷は言った。この人 ぶどうえき あお いつも葡萄液なんだわ、と典子は思いながら、立って いるやつれた蒼い顔に、ちらと眼をやった。 「何もほしくない」と言って、清子は、つき当りの壁ぎわお豊にそう言った。 ぶあいそう 「どうだ、忙がしいか、うん ? 」と谷は、誰もいない土間 に無愛想に坐っている松子を眺め、それから典子の着てい るドレスに眼をうっした。何もほしくないけど、こういうを見まわし、それからおどおどして顔を伏せている清子を ものを若し私が着たらどうだろう、きっと似合うかもしれ珍しそうに眺めて言った。 ない、と清子の眼が言っていた。典子は、アイスクリー 「マダムが、いま参りますって。」 ム・ソーダを自分で立って行ってつくって来た。 松子がグレープジュースを運んで、谷のそばに身を屈め 「おいしい ? 」 て言った。 「ええ」とストローをくわえたまま上目づかいをしてうな 「ああ、そうか」と谷は白い、身体に似合わない大きな手 ずいた。 で、髭と口を撫で、もう一度意志的に身体をそらせるよう そこへ、扉をぎいっと開けて、谷さんと言っている五十にした。 もんつ、 年輩の男が入って来た。いつも着物を着て紋付を羽織って たいていマダムは、知らせを受けてから一一十分ぐらい化 すわ かが

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

からだ た。その彼が死んだと考えると、その度に自分の身体から 血液が少しずつ減って、自分が蒼くなってゆくように思っ ごろ た。それで典子は速雄の死んだことを、この頃なるべく考「君、昨日来ていたあの背の高い男はなんだい ? 」とその えないようにしていた。しかし何となく・ほんやりしている翌日、昼間のうちにやって来た山田は、低い声で典子に訊 ことがあって気がつくと、速雄の隣のペッドに寝ていたあ の中年の男は何という人であったろうとか、あの人はうま「あの人 ? 」と典子は、眼のなかで楽しいことを考えるよ なお く治ったのだろうか、などと考えている。それから初めてうにちらっと笑って「政治家らしいのよ ? 」 見舞った日に、包みを持っていた人があったが、あの中に「何て言うんだい ? 」 は何を入れていたのだろう、などと考えている。 「砂田さん。」 「ねえ、典子さん、この頃、どうかして ? 何だか痩せた「砂田 ? 」と山田は考えていたが、「ああ、あれだな。」 わねえ」と、一番ぼんやりだと思っていた松子が、ある日「あれだって、なあに ? 」と典子が訊きたそうにした。 そう言 0 た。その頃から典子は気をつけて少しに化粧「いや教えてやらない。」 するようにした。 「ねえ、教えて ! 」と典子は急に砂田のことを訊かなけれ 速雄は典子の身体から自在に流れ出たり、また気づかなばならない、と焦った。今まで自分は砂田のことを誰にも い間に流れ込んだりしていた。だから、典子は速雄のこと言いたくないように思っていたが、一体砂田のことで何を ずる は、一部分、きれぎれにしか考えられなかった。自分でも知っているのだろう。山田は相かわらず狡そうに笑ってい 忘れている内側の層から、細胞のように速雄は湧いて出るた。 吮のであった。 「あの砂田なら、いま新党運動の真先に立っているあの男 きそうして、典子がまとめて考えられるのは、マダムや満だろう ? 」 の 子や松子などのことであった。そういう女性たちの姿を越「あら、そうなの ? 」 子えて、いま砂田の顔が目の前に現われたような気がした。 典子は何も知っていなかった。この頃読んだ新聞の記事 その日、夜になって、自分の室に引きあげてから、典子から、政党改造とか新政党とかいう言葉を思い出したが、 四 は、自分の身の上になにか重大なことが始まったようにじその中にどういうことが書かれてあったか、 はっきり記憶 っと天井を見て寝ていた。 に残っていない。しかし、典子は自分の身の切羽つまった あお たび せつば

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

泊ることにしたものですから。」 の必要に追い立てられたりすれば、私はこうしても言え 「あら、そう ? 」と言い棄て、そのまま階下へ下りて行っるし、きっと何だって出来るんだ。そう思うと、典子は身 た。階下の奥の小室で食事をしているらしく、やがて松子内から、ふだんの癖である、きっと首をあげてあたりを見 が来た気配であった。いつも松子が口ずさんでいるロ 1 レまわすような強さが湧いて来た。典子は頭をあげて、マダ まっすぐ ライの歌が聞えた。典子は、ふと思いついて、編物をとりムの眼を真直に見た。 したく 出した。夏の手袋をレース糸で編みはじめたのだが、昼間 「ねえ、典子さん、支度してよ。今日は私につき合って、 がてん の講習に肩が疲れるので、途中で放っておいたのだった。 私、ひとり合点ばかりして、義理が悪くなっているのよ。」 もう季節には間に合いそうもないその編みかけを押入れのああ砂田のことだ、と思った。編み物を置いて立ちあが うつむ からだ 小物籠から引き出した。そうしていれば、俯向いていられると、典子は身体がしゃんとした。初めの印象がそうだっ る。それに、そっとしていても目立たない、 と思い、ほっ たせいか、典子は砂田の話というと、すぐ警戒するよう とした。 な、訳のわからない事情の中に飛び込むような気持が湧く しれん 食事をすましたらしいマダムが、まだ化粧をしない、黒のであった。自分の経験ではカの及ばない試煉のようなも おしろい ずんで見える白粉焼けのした顔で典子の室へ入って来て、 のが、そこに待っている、と思うのだ。子供の話などをマ すわ そこへ、べたりと坐った。 ダムから聞いてからは、厭わしいような蔭は感じなくなっ 「ねえ、典子さん。叔父さんのところでは、どんな意見た たが、それでも、何か背伸びをしなければ届かない仕事の った。何か仕事の話が出て ? 」 ように思われ、その背伸びをする気力が出ないのであっ 典子は編物の上にうつむいていた。 た。 、え、別に。ただ和しただけです。何も立ち入った だが、マダムの前でいま立ちあがって見ると、典子は、 き話にならなかったわ。」 荒々しい気力が自分をそちらへ押してくるように感じた。 のそうだ、私には、何でも平気でやってのけられるところ今は、何か力いつばいのこと、自分の全力を打ち込めるよ がある。あの茶碗で湯を飲んだことだ 0 てそうたった。今うな仕事をしたいのであった。自分の内側に。ほ 0 かりと出 すさ だって同じことだ、私は平気で言ってのけられる。そうだ来た、荒んだ、侘しい空しさを埋めるような、本気になら なければ出来ない仕事に、自分を立ちむかわせたいのであ わ、これは悪いことではない。仕方がないからなんだわ。 仕方がなくなれば、私が内側の声に言いつけられたり外側った。そして、また、ひそかに、典子は感じていた、もう わまく わび うそ

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

去ってしまう。皆は何を考えているのだろうと典子は思う典子は、考えがそこに来ると、自分自身にすら、あっとロ のであった。言葉に出して言えば、皆は愛する人を持ってをふさぐように、その先を考えることをやめた。私にはそ いぶ いるのか、とでも言うような訝かしさである。満子はよくの先は考えられないのだ。ここまで考えるのだって、こん この頃来る学生の誰かと歩きまわっている、と松子が笑いなこと、いけないのかも知れない。でも、そうなんだ、私 ながら言っていた。だが典子は、なぜこの人は笑うのだろが一番気にしていることはそのことなんだ。とまたしても う、と色の黒い、かたい感じの松子の顔を見ながら、思う典子は髪をさっと振るように頭を揺り動かして、そこへも う一度踏みこむのであった。 のであった。自分なら笑わない、と思う。しかし笑わない からさてどう考える、というと、少しもはっきりしないの若し将来の生活が自分の中から速雄の姿なんかを一挙に かげん であった。しかし、たとい満子がいい加減に青年たちと遊拭い去ってしまうものなら、私は一体何を目あてにして生 びまわっていてもそれは決していい加減な事でなく、何かきればいいのだろう。誰か知らない ( それは、あるいは鈴 怖しい、やり直すことのできない事実なのだ。それも典子谷かも知れない ) 人と生活を共にするその時から、今の自 には分っていた。それからまた、速雄との自分の過去のこ分には思いも及ばない自分が現われて生活しはじめる。そ とは、新しい自分の生活経験の中に消えてしまうだろうの時から自分が誕生したようになる。それほど身体のこと 、そのことを何度も繰りかえして典子は考えた。将来は怖しいことなのだろうか。今まで私が自分の全部をただ それのみのために生きた目あてが、全く失われる。それが に自分を待っている新しい生活、それは速雄のことなど、 影のように・ほんやりしたものにしてしまうほど、強烈な、事実なら、典子には、全世界が失われるような怖しいこと こんせき 深いものかしら。今これほど自分の内部に強い痕跡を残しなのだった。だから、ああして自分のまわりにいる少女た 吮ている速雄が、将来自分の身体が受ける経験のために根こちは、どこにもしつかりした自分というものを持っていな ような、誰にでもそばにいる人間に頼りもたれかかろう きそぎ失われてしまうだろうか。それが典子にとってもっとい とするような、なよやかな生き方をして見せるのかしら。 のも内密の疑いであり、恐怖であった。 からだ 子 だから自分は、本当は、自分の身体を怖れているのかもそうなのかしら。まだあの人たちは自分の生活がはじまら 典 知れない。まだ受けていない経験の強烈さを怖れているのず、自分の全部は誰かどこかから現われる男の人と逢って から後に始まるのだ、とああいう姿勢や生き方で待ってい 7 かも知れない、と典子は考える。それでは、自分はそんな るのだろうか。なよなよと、まわりの人にまつわりかかる に、そのことを激しいものだと期待しているのだろうか。 おそろ