のを持っていない。どこの支那料理がうまい、とか、靴下眼を上眼づかいにして、次々と喋りつづけるのであった。 はどういう艷のがいいとか、叔母さんは食事にけちんぼうそれで松子はお豊と一番話が合った。 すてき だとか、何とかいう俳優の今度の役は素敵だとか、客の誰「私にだっていい人があるわ」と松子が、そういう話のあ が自分を映画に誘ったとか、そういうことに彼女の喋るこいだに言うことがあった。 とは尽きているのだった。満子という存在は、客に見せる「でも内証、とても一緒にはなれそうもない人なんだも ささ あの姿態と、それを舞台装置のように後から支えている支の。」 くぎ え棒や引っかけ釘のような至極実行的なものと、そういう そこまで言って松子はロをつぐんでしまう。そういう時 二種のばらばらの要素でできているのだった。典子があれも典子は、じっと眼を見開いて松子を見るが、すぐ眼をそ はちがう、ああいう姿が女の完全な姿ではない、と思うのらす。典子は、これでもない、と思うのだ。だがそう思う は、そのことだった。というよりは、女をみんなあんな風ときでも、だまっていること、意味のない生活の出来ごと に見せたくない、ああいうものだと男性に思わせたくない にむかっては、ちらと眼をやるだけでだまってしまうこと という衝動でもあった。 を彼女はさとった。そうだ、あれは少女たちがして見せる 松子の方はまだ典子にはましと思われた。松子は勤め姿態の一つなのだ。同じことだ。裁縫所に集まっていた女 を、全然事務のように扱 0 ていた。満子や典子と同じようの子たちと同じような、何かを喋り、何かを着て、また誰 ところ なドレスも松子が着ると、裾の長い処が全く用もない余計かを盗み見ては、自分の姿をなおしている少女たちが、こ ひざ な、ただびらびらするものに見える。膝から下の揺れ動くこにもいたのだ。 部分は、この少女には必要もなく、また役にも立たない。 生きてゆくというのは、ただこれだけのものだろうか、 まえかが 吮膝を曲げ、前屈みにな 0 て、せかせかと歩くのである。そと典子は思うのであ 0 た。生きてゆくということは、なに きして客に見せるための面だとか、姿態のようなものはまるかはっきりした目標があって、そこに到達すれ・よ、 ので考えることもできないようである。松子がもっとも生きなことなのかどうかは、彼女にはよく解らなかった。だが 紆生きとなるのはお客のをするときであ 0 た。誰は毎日何自分の生きてゆく形が、満子のようであ 0 ても、松子のよ 時頃に来て、何を飲む、とか、誰は気取って茶にクリームうであっても困る、と彼女は思うのだ。私の中には、もっ を入れさせないとか、誰は頭が頭だらけだとか、誰の ( とちがったものがある、と考えた。それは、すぐ目の前に ンカチは真黒だったとか、そういうことを、黒いくぼんだ いる人間の心の中に、つかっかと入って行きたい、また入 つや すそ し ZJ く しゃべ くっした
私は一人でまた水天宮の長い石段をおりた。もう河崎登 自分の足を地に縛るのはいけない・せ。気持を大きく持と 3 う。君が悪いのではない。僕を見たまえ。僕は君よりももは私の身辺にいなかった。私はまたすっかり孤独におちい っと大きな責任を負って生きている。けれども僕は耐えてり、寒々とした顔をして、たよりなく歩いていた。私はひ いる。生きることの苦悩を外へもらしたら最後、悪鬼どもどい空腹を感じて、階段をおりきったところにある石の鳥 はそれに食いつくにきまっているのだ。忍耐だよ、君、忍胖のそばの蕎屋に入り、べとべとする朱塗りのテエ・フル 耐だけだ。それで人は生きているのだ。」 についてキツネウドンを食べた。そのウドンには少しの味 彼のやさしい大きな目がじっと私の額ご注がれているのもなく、白い虫のように私の胃袋に入ってそこに横たわる だけのような気がした。私はふちの厚いどんぶりの底に残 を感じた。私はこの友人の手をとってにぎった。 った赤黒い汁を一気にすすり、そのどんぶりで顔をおおい そうだ、僕も何とかして生きよう。だが、君はもう わりばし 東京へ行ってしまうし、僕はとても一人でここに長く住んながら、片手にはがさがさする割箸をにぎっているのであ った。私は割箸をにぎりしめたまま目の前の壁にぶらさが でおれないような気がするんだ。」 そうだなあ、僕たちの移住時期が来ているのかもしっている活動写真やビイル会社のポスタアを眺めた。する この小樽の青い海も、煤で真黒になったトタン葺と文学大講演会と大きな字のあるのが目についた。講師、 れない。 やまと * とん きの家並も見あきたような気がするね。君も僕のすぐあと芥川龍之介、村見遁と、書いてあり、改進社現代大和文学 へんしゅうぶ から来るだろう、むこうで待っている・せ。」と言って彼は全集編輯部撮影花形作家の生活実況大映画公開という字が 袴の結び目のうえに両手をあて、足下に見えるドウズ氏の赤の太ゴチック字体で大書してあった。意味がよくわから 英国代理領事館の屋根を越して、北緯四十三度十一一分東経ないような気持でそれらの字を見ていたが、私はびよんと 百四十一度一分の水天宮山上から、遠い厚田、浜益のへん立ちあがった。日付を見れば、それは今日なのである。私 にあたる沖の海岸線に目をやった。わずかに海面がまだ明はその会場である稲穂男子小学校へ行こうと心をきめ、鳥 るいだけであたりは次第に暗くなって来た。左手に、街々居の少し先から右へ折れて山田町へはいった。 の上に見える稲穂町と手宮のあいだの石山には、「サケはそこへ一歩はいったとき、私はしまったと思った。ゆだ ぐんせいら キ印」という明減電燈がついて、キ印のキという字はたぶんをしていて私はもっとも恐ろしい幽鬼どもの群棲地に飛 ん高さ十ほどもあろうと思われるその大きな姿を小樽市びこんだのである。この通りは灯がと・ほしく、店々の店頭 よいぞら には男たちや女たちゃ、子供、労働者、死人、さまざまの の上方の宵空に浮きだしているのであった。 はかま すす とり
うなものを積んだ馬車が一台進んで行き、父や母がその後東の方から崖の下を流れて来ているのだが、この屋敷につ 3 から歩いていたようである。それはしかし、五郎には、生き当って南に折れ、屋敷の東南の角で国道について西方に 活の大きな変化だなどとは思われず、どこかへ遊びに行く曲り、時々その国道の北側になったり南側になったりし て、村の家並を貫き、十町ほど西方で海に注いでいる。こ 道すがらのようで楽しかった。 それまでにも、五郎や鈴子は、父母から、いよいよ砂谷の川は徳助沢を流れる砂谷川よりずっと小さい、小樽へ出 村に家が出来て引越すのだということを言われていたにちる道に沿うた川である。 がいないのである。それで、引越しという、生活が根こそ家は東と南をカギの手に、流れの早い小川で囲まれてい ぎになるような事件も、やつばり楽しい事として幼な心にる。屋敷は南の国道から五六間奥に入った所に建ち、その 前が庭になっている。土地は西隣の金子家から買ったもの 感じていたのであろう。 砂谷村をはじめて見た印象は残っていない。六歳頃かである。この畑を入れて千坪ほどの屋敷を、三十七歳の五 ら、そこで育った年月のあいだに、印象は印象に重なり、助はほ・ほ、自分の生涯住む所と定めたのである。庭は南と どの時期にどういう事があったか、五郎の心の中では区別東に大分広くとってあり、金子家に寄った西側の百坪ほど 。は菜園になって、キャベツや菜などが播かれた。 しがたくなっている。しかし、それだけに、その家て記「 したことは、根が生えたように動かしがたく彼の心内にい 家は、南の正面に玄関があり、入ると二坪ほどの土間 じよう つまでも生きている。 で、左手には八畳ほどの板の間があって、炉が切ってあ る。その北側につづいて台所があり、そこから裏の井戸へ 出る勝手口に三坪ほどの土間があった。この辺の家は冬期 子供暦 戸外を使うことが出来ないので、土間を出来るだけ広く作 っておき、そこへ薪を積んだり、炭を置いたり、竈を置い その新しく建った家は、南が国道に面し、五六引っ込たりする。便所はその土間を横切って西北の隅にあり、下 んだところにあり、裏は三間ほど間を置いて、三丈ほどの駄を穿いて行かねばならない。 しみす 高さの赤土のになっていた。崖の下には、清水の絶えず玄関を入って右手には、東南に面した六畳の客間兼書斎 溢れる浅い井戸があった。その崖の上は、自家用の一段歩があり、その北には八畳の居間があった。その八畳と台所 ほどのゆるい傾斜の畑になっている。幅一間ほどの小川がとは、玄関のつき当りを左右に通っている廊下でつなが すみ
と同じような状態がもう十日も続いていた。父は言うこと も目や耳も割合にはっきりとしていた。だが何も特別考え ているようには見えなかった。病床の二年が父の思考力を すりへらしてしまったのか、と私は思った。家のことにつ いて心配らしい言葉は全然父の唇を漏れることがなかっ ほっさ た。そこにはしかし何の抑制も無いようであった。発作の 激しい時にはなにかと無理を言って怒ることがあっても、 その他は絶対的に母に信頼して、薬や手当てについても意 見を述べることがなかった。 私が家についた日、母は父の気持を推測して、学校の移 水が何より旨い、と言って、父はときどき水をもとめる転で今年は夏休みが早くなったのだと言えと言ったが、父 ほか殆んど何も食おうとしなかった。手や足に浮腫が出ては私を見て、驚きのようなものも、喜びのようなものも示 さなかった。休みの早くなったことを言うと、父はそれに 来たので、もう何日も持たないだろうと母が私に言った。 そう言う時の母の表情が少しも乱れていないのを私は見は答えず、学校の様子を色々と聞いた。どんな教師につい わか た。父の病気が絶望的だと解ってからの二年は母の顔からて何を研究しているか、東京にいる知人はどんな生活をし ているかなどと。私は見え透いた言訳はしない方が宜かっ 表情らしいものを取り去ってしまった。父の世話をしてい たと思いながら、外のことは何も言わずに自分の室へ引込 る母の顔を見ると、病状の変化ということは父の生きてい ることと何の関係もない自然現象で、父は病に憑かれたまんだ。 ま何時までも生きていると信じているようにも見えるほど夜中に発作の起きた様子があって眼を覚ますともう母は あと 動揺の跡がなかった。近所の人がなにか楽しい話を母のた起きていて色々と手当をしているようであった。水をとり めに持って来る。そんな時、母は笑うのだが、それは母のに台所の方へ行ったりする足音で、父の様子を聞き量りな 二重の外側にある顔で笑がおさまると次の瞬間からすぐまがら私は起きなかった。二日間の汽車旅行の疲れが頭とは からだ きとく ばうぜん た母は茫然とした無表情の状態に。 0 ているのだ。危篤と別に私の身体を眠りの方〈縛りつけていた。起きなくても いう電報で私が帰って来てから、父はまた持ち直して、前宜いと思いながら私は少年時代に使い古した自分のテエ・フ 生物祭 ふしゅ くらびる
かったり、躓いたりして私は生きて行かなければならない や、私、忠告じみたこと言わないわ。」 2 んだ。 二人は、そこまで言うと、扉を押して、キイの音が雨だ ビルディングの入口で鈴谷と別れて、歩き出したとき、れのように響いている室の中へと入った。 ごろ てる子が言った。 典子はこの頃、ひとりでいると、よく鈴谷のことを考え 「あんたも変なひとねえ。哲学者みたいなことを言い出した。私はあのひとのことを何も知らないのに、とまた反省 たって、似合いはしないよ。」 した。鈴谷がいつの間にか自分の内側に入って来て住んで からだ 「あら、哲学者 ? 私が ? 」 いるようにも思った。そうすると、身体が燃えるような抑 「まあ、あんなことを言い出すと、そう思われるのは当りえ切れないものが感じられた。それは生理的なものとも言 前さ。ねえ、あのひと、なあに ? ー えなかった。そしてまた、本当は鈴谷が対象だとも言えな 「働いているさきで知り合ったひとよ。あのひとがここをかった。自分で鈴谷を認めている程度を、自分の情熱がぐ 教えてくれたので、私、タイプライターを習いに来るようんぐん越えて大きくなって行くような気がするのだった。 あてもない身もだえをしている自分がいとおしくなるので になったの。」 「ふん、それつきり ? 」 あった。あの人は何とも思ってやしない、私のことを知っ くちびる 「それつきりで無いように見えて ? 」 てもいない、と典子は唇をかむのだ。そして私には誰かが わか 「あんたのことは解らない。規格外の人だから。私あの いるのだ。誰か、生きた人で、男性で、私の全体を注ぎか もた 人、前からこの辺でよく見かけていたわ。文学青年かしけ、凭れかかり、その人に私を全部かき乱してもらう、そ ら、あの人 ? 」 ういう人が、私には必要なのだ。私はその人と戦ったり、 「文学青年って言うのかしら、本のことよく知っている憎んだり、いとおしみ合ったりして暮さなければならな 。若し生きて行くとしたら、私、この若い女の肉体を持 った私が生きて行くというのは、それは、そういう誰かを 「ふん。あんた、前に恋愛したことあるの ? 」 典子は心の中に一番大切なものを、人々が行き来するそ目あてにし、掴まりどころにして生きる外はないのだ。典 この廊下に投け出すような痛い思いに酔うように、「ええ、子はそんな風に・ほんやりと考える。 しゃべ ところが朝起きて、お豊と喋ったり松子と店の掃除をし あるわ」と言った。 たりしていると、そういうことは霧のようにどこかへ消え 「そう」とてる子は真剣な顔で典子の眼をじっと見て「じ つまず おさ
さっとう どこかにあった。それは小さなことだ。しかし毎日一緒に った。それは典子の方に殺到して来る生きたこの世の轟き 仕事をしている満子やマダムにむかっては開かれない自分であった。速雄の世界にばかりひたっているうちに、典子 の心の窓が、あの人との、あの短い会話の間に、さっと開は、自分が少女らしい生気をなくし、身のまわりに起って うずま、 かれて涼しい風が吹き込んだような気がした。それなん いる生活の渦巻が分らなくなっているのかも知れなかっ に だ。それは、信頼できる、というだけのこととは少し違っ た。そうだ満子が客と賑やかに喋り合っていることだって ていた。あの時二人の間に生れた理解の道筋へ持って行けそれでいいのではないか。私は、そういう騒音のすべてか おそろ ば、若い女性である典子が普通には恥しいとか怖しいとから身をそむけて、過ぎた世界ばかりに溺れきっていたの しやペ 思うことも、すらすら喋れる。そして、その喋ることを、 一一人で一緒になって論じたり判断したりできる、というよ典子は眼がさめたように、そうだ、もうずっと以前か ら、こうしていられはしなかったのだ、と思った。この うな糸口が始まっている感じであった。あの短い小説が、 そんな感じを私とあの人との間に植えつけたのだわ、と典がしい、低い生活ばかりの喫茶店に、よくも私は平気で何 はつらっ カ月も過していたものだ、と剌と若々しく、典子の気持 子は思い、びつくりするのであった。 だけど私はこんな風に考えているのかも知れない。寂しが湧き立って来た。ここでこのうす汚れた生活の雰囲気に いので、こんな風にすぐ道筋がついてしまうのかも知れなひたって、それに負けてしまったら、どういうことになっ 。速雄の吹きが今でもはっきりと身のまわりに残ってたろうと、身ぶるいするばかりであった。そうだ、マダム いるのに、自分はそこを通りぬけて、外の男の世界にこんも満子もあのままでいいのだ。砂田からの話などに少しで なに楽々と入って行けるのだろう。だが、そういう反省をも心を惹かれていたのは、何という心の弱りだろう、と思 して見ても、典子の内心には暗い影はないのであった。自う。その次の日、典子は大体見当のついているそのタイ。ヒ 分には男性と言えば速雄の世界しか無いと思っていたのスト学校に出かけて見た。 に、くるりと後を向いて見ると、そこには全く別な人間の街角にガラス張りのショウウインドウのような大きな室 てごた 手応えのある世界があった。そこは生きて、脈うち、流があって、その中で十人ほどの少女達がタイプライターを 叩いていた。三つ星タイ。フライター宣伝部というので、教 れ、どよめいているようだった。向い風に吹かれて自分に ぶつかって来るようなその流れの中には、満子やマダムや習所がその付属として二階にあるのだった。身のまわりの ころ 松子や砂田や谷や、その男などが一面に浮いているのであものを少し買っただけで、その頃マダムからもらう四十円 ほか よご とどろ
312 ってしまったんだ。それは僕がいま一ばん憎んでいる型の汚れのついた人間になって見せなければならなかった。そ 人間です。それでは困るんですよ。僕がこれからなろうとういう人間にのみ世間というやつは、生きる権利、いや生 思っている人間がそんなものならば、僕には生きてゆくかきる許可を与えるのだ。そして僕は一まずそういう人間に いがないじゃないですか ? ああ、僕はこれから十五年もなって、じつはこれから自分の思っていた仕事をしようと 生きて、結局、あなたのようなけがらわしい人間になると思っているんだ。僕はこういう人になったのは、その理想 いうのは何という恐ろしいことでしよう。女をだまし、良をより完全に思うような形で実現したかったからなんだ。」 いや、そんなことはみな言いぬけだ。あなた自身よ 心の命ずる仕事のために生命をかける勇気を持てず、自分 の良心にすら体裁をかざって言いのがれようとし、何が美く知っていたじゃないか、大人の言いわけというのは、た しい芸術であるかという観念もでたらめになり、ただ、あだ経験という楯を持って来て醜さをおおうだけのことだ てこみばかりの仕事をしている。そんなのはいやだ、そんと。そして今あなたがその術を使っている。卑劣ですよ。 それが卑劣というものです。人はいっ死ぬかわからないも な人間になんかなりたくない ! 」 そう言って彼は伸びあがって私の胸をうち叩くのであつのです。理想、なるほど理想は今の僕にははっきりしてい た。私は途方に暮れ、彼をなだめるためにどう言いぎかします。しかし僕はその理想を、手段を選ばずに・せひとも実 すんごう たらいいのか、わからなくなり、ロをついて出る言葉にた現しなければならないものとは寸毫も思っていないのです よ。少年時代の自分のものの考えかたがどんなきびしいも よって言うのであった。 いや、よく僕の言うことを聞きたまえ。僕は君よりのだったか、今のにごった心のあなたはわからなくなって も十五年の多い経験を持っているのだ。理想は理想だ。僕いるのです。今だから言ってあげますが、理想というのは 絶対に実現ということを目あてにしているのではないので だってそれをなくしているわけじゃない。ただ世間という ものは、決して君の出てくるのを待ちかまえ、歓迎し、君す。そんなのは野心です。僕はただ、いつまでも理想のほ の理想の実現を助けてやろうとして存在しているものじゃうへ顔を向けて生きていたいだけなんです。でなければ死 ない。世間は、今までそこに生きていたのと全く同じようんだほうがいいんです。それに、もう、あなたがこんなざ ちゅうよう まになったのを見た以上、僕は何を考えて生きてゆけばい な、中庸な、特色も理想も圭角も持っていない人間にしか 生きる道を与えないのだ。だから僕はまず凡俗になり、角いのかわからなくなった。」 えいち いや、そう絶望することはない。今に生活の叡知 のない人間になり、普通の人間と同じようなばからしさと たた おとな
去ってしまう。皆は何を考えているのだろうと典子は思う典子は、考えがそこに来ると、自分自身にすら、あっとロ のであった。言葉に出して言えば、皆は愛する人を持ってをふさぐように、その先を考えることをやめた。私にはそ いぶ いるのか、とでも言うような訝かしさである。満子はよくの先は考えられないのだ。ここまで考えるのだって、こん この頃来る学生の誰かと歩きまわっている、と松子が笑いなこと、いけないのかも知れない。でも、そうなんだ、私 ながら言っていた。だが典子は、なぜこの人は笑うのだろが一番気にしていることはそのことなんだ。とまたしても う、と色の黒い、かたい感じの松子の顔を見ながら、思う典子は髪をさっと振るように頭を揺り動かして、そこへも う一度踏みこむのであった。 のであった。自分なら笑わない、と思う。しかし笑わない からさてどう考える、というと、少しもはっきりしないの若し将来の生活が自分の中から速雄の姿なんかを一挙に かげん であった。しかし、たとい満子がいい加減に青年たちと遊拭い去ってしまうものなら、私は一体何を目あてにして生 びまわっていてもそれは決していい加減な事でなく、何かきればいいのだろう。誰か知らない ( それは、あるいは鈴 怖しい、やり直すことのできない事実なのだ。それも典子谷かも知れない ) 人と生活を共にするその時から、今の自 には分っていた。それからまた、速雄との自分の過去のこ分には思いも及ばない自分が現われて生活しはじめる。そ とは、新しい自分の生活経験の中に消えてしまうだろうの時から自分が誕生したようになる。それほど身体のこと 、そのことを何度も繰りかえして典子は考えた。将来は怖しいことなのだろうか。今まで私が自分の全部をただ それのみのために生きた目あてが、全く失われる。それが に自分を待っている新しい生活、それは速雄のことなど、 影のように・ほんやりしたものにしてしまうほど、強烈な、事実なら、典子には、全世界が失われるような怖しいこと こんせき 深いものかしら。今これほど自分の内部に強い痕跡を残しなのだった。だから、ああして自分のまわりにいる少女た 吮ている速雄が、将来自分の身体が受ける経験のために根こちは、どこにもしつかりした自分というものを持っていな ような、誰にでもそばにいる人間に頼りもたれかかろう きそぎ失われてしまうだろうか。それが典子にとってもっとい とするような、なよやかな生き方をして見せるのかしら。 のも内密の疑いであり、恐怖であった。 からだ 子 だから自分は、本当は、自分の身体を怖れているのかもそうなのかしら。まだあの人たちは自分の生活がはじまら 典 知れない。まだ受けていない経験の強烈さを怖れているのず、自分の全部は誰かどこかから現われる男の人と逢って から後に始まるのだ、とああいう姿勢や生き方で待ってい 7 かも知れない、と典子は考える。それでは、自分はそんな るのだろうか。なよなよと、まわりの人にまつわりかかる に、そのことを激しいものだと期待しているのだろうか。 おそろ
右クレムリン宮殿にて A A 作 家会議各国代表とともに中央 フルシチョフその左二人目整 ( 昭和 33 年 ) 下野尻湖にて ( 昭和 33 年 ) ルキシズム運動の挫折を見、また人はなぜ理想のため 人を傷つけるかというながい間考え抜いて来た命題へ の一応の回答であり、この態度は晩年まで続いている。 翌十三年はしめての書き下し長編「青春」を書く。こ れは小樽高商時代のたる自己形成期を、知的に整 理し回顧した小説である。青年期の気負った青つばい 議論や考えが、さほど不自然でなく描かれているのは さすがであるが、青春がやや美化されているきらいが ある。白系ロシア人が出てくるあたり、エキゾチック で北海道らしい。戦後書かれた小樽中学の教師時代を 描いた「若い詩人の肖像」にくらべると、どちらも異性 に対するセックスの過剰と、野心にみちた自意識の過 剰との間を彷徨する青春が書かれているが、「若い詩 人の肖像」のようにすべてを分析しエゴの地平に落し てしまう暗さがない。それだけ甘く、批判精神に欠け 物足りなさはあるが、青春小説らしい明るさと希望が あってかえって救われる感じだ。 ついで昭和十六年「青春」に続く書き下し長編とし て「典子の生きかた」を書く。これは津田典子という 孤児として育った女性の青春期の生き方を、内面から 描いた、オーソドックスな手法による小説である。ば くは自分で精いつばい考え、決断し、懸命に生きて行 くこの女性に好感を持つ。伊藤整を女性にしたとも言 ざせつ
どころ ような女の生き方は、そのためなのだろうか。典子は人に態にかかわらずいつまでも続く頼り処になっているのでな は言わずに、そんなことまで考えて見るのであった。 いと困るのだ。それで典子は、まだ経験しない身のことを 若しも女とはすべてそういうものであり、自分もまた女怖れ、それと同時に身体のことを軽く見くびろう、手軽に としてそういう運命からのがれることができないのなら片づけてしまおうという衝動があった。そのことを、典子 ば、と、典子はそこまで一息に考えを走らせて来て、はた はこれでは私は危い、と自分に言って見るのであった。典 と立ちどまった。息がつまりそうでその先は考えることが子は婦人雑誌のロ絵にのっている幸福の模型のような若い できない。それでは困るのだ。そんな風なことだったら自母たちや人妻たちを思い浮かべ、それからどんな巷にも群 分はとても困るのだ。人が心の中にどんな大切なものを抱がっている台所仕事に何十年も慣れてうす汚くなった中年 からだ いていても、それが身体の変化で消えてしまうものならや老年の人妻たちのことを考えた。その女たち、世の中 ば、そんなら、典子は、そんな変化なんて、厭なのだ。その、娘以外のあらゆる女たちが身体の条件で生き方をきめ んな所に飛び込んで行くことは、水の中へ入って行くようられているように見え、それが何よりも怖しい、自分の行 に生きていられなくなることだと思われる。だけど人はみく先の手本のように思われて、絶望的な気持になるのだっ んなそこへ行っているではないか。 た。そして、それが人生だとするならば、自分はまだ半分 典子は、しかし、誰かに与えるものとしての自分の身体も三分の一も人生を生きていないことを、だから本当に物 を、特別貴重なものに考えているのではない。それは矛盾事を考えることもできないのではないか、などと思うのだ なのかも知れないが、自分の気持では、その点ははっきりった。 していた。それは「与える」ものだとは思えないのだ。典しかし自分の将来の生活のことを、そんなにまで変って 子にとっては、そういうものではなかった。それは生活の行くものと考える自分を、少し変だと思うこともあった。 付属的なもので、本当のものはとっくに速雄に与えてしまそんなにまで思いつめるなんて恥しいことだ、私は、そん った「心」とでもいうようなものだ。だから自分では大しな風に思い込んでいるのだろうか、と反省するとひとりで ほお て貴重だとも、意味あり気とも思えないそういう生理のた いても頬が赤くなるのだった。私のような女は一人でいた めに、その「心」が根底からひっくりかえされたり、かき乱方がいいのではないかしら。誰というあてもないのにこん もぬけ なに身体を燃やすような思いをしていては、そういう一人 されたり、いつの間にか蛻の殻になってしまうのが怖しい のだ。心が自由に決断し、心が中心になり、心が身体の状の生活に耐えられるだろうか。だが典子の、誰かと暮した いや おそろ むじゅん ぎたな らまた