豊川 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ったから、自分の考えどころか、定説を簡潔に紹介するだ「どうだ、面白いだろう」と雑誌を返したとき和田が言っ のう けがやっとだった。書き上げて研究室へ持って行くと、教た。「ところが、昨日から、どうしたのか御本人の早瀬が 授が少し字句を直しただけでそれは採用された。秋になる来ていないのでね。何かあったのかな」 したく 「こんなもの、要するに、豊川自身の排撃していた私小説 と、もう卒業論文の支度が始まっていた。私は去年からノ オトを取っておいてオウエンとシェレイとの思想的交渉をじゃないか 書こうとして卒業論文には骨を折らないことにきめ、その私はそう言ってから、ゆっくり考えた。豊川は自分を書 ころ くつもりで書いたのだろうか、それとも早瀬の邪魔をする 頃はマルクスを参照しながらウェップを読んでいた。 はつぎりした意図をもって書いたのか。それ以上、その作 ある日教室へ入って行くと、以前の雑誌仲間の和田が、 「おい、読んだかい」と私に声をかけた。 品の文学的価値について私は考えなかった。その翌日早瀬 が学校へ出て来たので、そのことを言うと、彼は、 「何をさ ? 」 「豊川の小説だよ」 「あははは、あんなもの、あなた、あんな下手な小説。私 しまうま そう言って彼は、鞄の中から青い縞馬の表紙のついた貧ならああは書きませんよ。あの男は才能のカケラもありま 弱な同人雑誌を取り出して私に渡した。その中に「教授行せんよ」と言って、いつものように急がしそうに廊下の角 はやと 伝、豊川隼人」という小説が載っていた。昼休みに、私はを曲って消えて行った。講義をする教授の表情には、何の うしろぐら テー・フルかたすみ 食堂の水のびたびたした卓の片隅でそれを読んだ、それ変化も認められなかった。私は自分も何となく後暗いよう は小橋の死んだとき、あの暗い酒場の隅で、早瀬が興奮しな気がして研究室に顔を出さなかった。しかしやつばりそ て私と豊川に語ったことの、ほとんどそのままの再生であの豊川の小説の結果だったのだろう。早瀬は卒業を前にし った。ただ山口教授の家庭のことが、作り直されて財閥関て年末のせまった頃、山口教授の家から出て、下宿するよ たらまうわさ 係の四軒の学者の家庭でそれぞれ起るように描かれ、閥のうになった。忽ち噂が飛んで、豊川の小説の内容は早瀬が ほうとうぶらい 構造を、婿になる努力家の秀才と放蕩無頼で放校になる教喋ったのだ、山口教授は、早瀬を忘恩の徒と言ったとか、 授の息子の対比を中心に描いたものであった。その婿には早瀬が教授になる機会は永久に失われたとかいうが飛ん しゃべ 早瀬からのお喋りの奇癖をとったような人物が描かれ、息だ。助手になって残るのは鵜藤だろうという噂がある、と 子には豊川自身をあててあった。そしてよく描かれている和田が私に知らせた。早瀬は学校に姿を見せず、私も彼を ムみもら し、よく 訪ねて行く勇気が出なかった。 のは、その息子の浪費と不身持との委曲であった。 むこ かばん , いばっ じゃま

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

「何でえ、こんなもの。何がエス・フリ・ヌウヴォだ。お前 だ。小説の名人だなんて、落語か講談の複製じゃねえか」 豊川はそんなことを言ったあと、私たちを連れてビャホ等は論より証拠、落語屋と講談屋の噂話にマンマと釣り込 ールへ出かけた。彼はそこで私たちを相手にして文壇人のまれてるじゃねえか。ちゃんと顔にそう書いてある・せ。お そろ うわさばなし 噂話を次々とした。文学者たちの服装や貧弱な無計算な気に召しましたかね。何が批評精神でえ。お前等は揃って むげんかい しよせん 生活や悪口や敵意などを、目に見えるように話して、私た遠山平一の無絃会に弟子入りして、所詮我が身の果てはと * おおもときよう ちの興味をすっかり引きつけてしまった。その頃彼は学校か、文学の悲願はなんてことを大本教みたいに言い出す に姿を見せず私たちと交際していなかった。豊川はよく酒か、でなきや卒業論文にゴールズワアジイでも書いて高等 を飲んでいると仲間の和田が言っていたが、豊川は文壇の学校の先生にでもなるか、どっちかだよ」 ぜいたく 私小説家のグルー。フに近づいていることが、その晩の話で彼は、しんとなった私たちに構わず贅沢なオーヴァーの 分った。私は、ずっと遠い所にある物語りの大人国か小人胸を張るようにしてビールを飲み続けた。豊川から四人目 けん 国のように思っていた文学者たちの生活圏が、自分のすぐの私の隣り、戸口のすぐそばに坐って、ビールにも手を出 隣に突然やって来たような感じがした。その私小説家の中さず、時々ビーナツを、鳥がついばむように片手を出して たばこせん あぶらあしげた の誰が脂足で下駄が真黒だとか、煙草銭を豊川に借りたとはつまんでいた早瀬がそっと立って、私の耳に囁いた。 か、誰それの先妻の娘と後妻が担み合いをしたとかいう話「鵜藤さん、私、お先に帰りますから」 しゃべ は、私たちをほとんど陶酔させた。喋っている豊川も興奮私はうなずいた。するとドアに手をかけた早瀬の後姿へ して、その細い目でぎらぎらと私たちを眺めまわした。隣投げつけるように豊川が言った。 りにいた和田のポケットから、私たちの雑誌がタタキに落「遠山平一が、早瀬さん、君の『朝の霜』をほめていまし ちると、豊川は突然とそれを取り上げて、表現派風の真赤た・せ。老練だ、三十過ぎの人かと思った、だってさ。今度 れな大きな象を表紙に印刷した五六十頁のその雑誌を引き裂は書生日記を一つ願いますよ」 怖 その言葉に送られながら出て行く早瀬の姿はちっとも乱 こうとした。それが破れないと分ると、彼はそれをタタキ る かかと きの上に靴の踵でふみつけておいて、片手をかけ、引き剥がれなかった。振りかえりも、立ちどまりも、躇いもせず、 いつもの彼のせかせかとした調子で首を前に突き出し、ド すように雑誌をタテに裂いて、手に残った方をそこに叩き つけた。細長く小口から裂かれた雑誌の頁が一面にそこにアを開け、。 ( チンと閉めて出て行った。 私は爆風と鉄の扉の間で胸を圧しつけられているような 散った。 つか ころ ためら さきや

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

、ゆうそ る。事実でなければ困る。ただあいつは猫に噛みつく窮鼠る。私はあの革命家小橋も怖ろしかった。早瀬も、そして 芻だと言うことだけだ。その話は下層社会の素朴な実利主義豊川も怖ろしかった。そして、蹶てをそういう風に考える を語っているにすぎないんだ」 自分が卑劣に感ぜられた。しかし、その性格のせいか、私 はいつも仲間の中心になるのだった。豊川と小橋はほとん 豊川はテー・フル越しに私を睨みつけた。たった今彼が早 らようしようてき じようだん ど憎み合っていた。早瀬と豊川も逢うと嘲笑的にトゲト 瀬を小説家的だと言ったのは戯談だったのだ。その戯談が 彼のゲしく対立した。小橋と早瀬が逢ってもたがいに厭な存在 事実になりそうな気配に気づくと、突然彼は変った。 , たず しっと 白い顔は嫉妬のためにむくんだように見え、地方新聞によを我慢するような顔になる。それでいて彼等はみな私を訪 ごうぜん く写真の出ていた彼の父親の傲然とした実業の支配者の顔ねて来、私がいると一緒に集っても、自分を無視されたと思 を思わせた。私はすぐと理解した。さっきの早瀬の一日四わず、めいめいが価値を与えられた満足を感ずるらしい 豊川は会のために金を作ると言った。大学の教室の眠っ 十五銭生活に対して彼が覚えた卑下意識が、早瀬の才能に 対する嫉妬を機会に逆転したらしいこと。そして平静な時たような十九世紀のヨーロッパ文学でなく、ベルリンやパ は抑圧したり、卑下したりしている経済的な優越者の意識リの街で沸騰している今のナマナマしい文学を知ることを が、いま前後を失った彼の中でむき出しになり、貧民の子目的として、私たちは新刊本や雑誌を洋書店で買いあさっ たり、注文したりした。そしてそれの批評や紹介やそれを 早瀬を否定したい執念となって彼の顔に醜く出ている。 まね 「そりやどっちだっていいがね。まあ、会の話を進めよう真似た作品をのせる雑誌を作ることにした。早瀬は同人費 じゃないか」 を出せないひけ目からか、その後私たちのグルー・フにあま ていちょう なぜおれは、いつもこうだろう。豊川のあのむごたらしり近づかなかったが、彼は教室だけで使う特有のあの鄭重 なものの言い方と語学力が主任の山口教授の気に入られた い表情をやめさせるためには、どんな論理も撤回していい と、な・せすぐに思うのだろう。おれが幼い時から、父なしらしく、間もなく書生として教授の家に住み込んだ。そう いう事を簡単にやってのける彼の生活力に私は驚嘆した。 で、木工場経営者のあの叔父の顔色をうかがいながら育っ て来たせいだろうか。私には早くから、すべての生命の執あいつはジ、リアン・ソレルだ、私はひそかに思ったもの てづる おそ 着のむき出しの相を怖れる性質があった。他の人の意見のだ。書物、室、食事、出世の手蔓、そんなものを彼は一挙 中に他人の行動や表情に、見せかけと違い、時には本人もに手に入れたのだ。学力でも生活力でも、それにあの神秘 気づかない別な、真の動機と執念があるように私には見えにすら見える性格の激しい変化でも、私は彼に敵わないと てつかい ふっとう いっきょ

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

へんしゅう ほおばね 思っていた。私は雑誌と豊川との交際に心を傾け、編輯の っていた彼の顔は、一層ひどくこけ、頬骨に赤い斑点があ 実務を引き受けた。 って、熱が出ているとしか思われなかった。 すみずみ 冬の風が落ちて、寒さが隅々から忍び寄るような夜更「風邪でも引いたのか ? 」 しろうと け、私は離れとも物置ともっかない素人下宿の自分の室の 「うん、まあ。こないだ捕まってなあ、あちこちの署をタ たたみ まわ 畳の上にその雑誌の原稿を一杯ひろげ、割りつけの計算をライ廻しになって、寒い目に逢ったから」 したり、埋め草になる小さな翻訳文を辞書を引きながら作「そうか、気をつけないとー私はこうして小橋を泊めたり っていた。 彼の荷物を預ったりしていることが怖ろしくなった。その 「おい、おい」と雨戸の外で声をかけるものがあった。小 気持を知られたくないので、私は先頃の早瀬の、卵で肺病 橋だな、と思って、室の電気を消してから私は雨戸を半分をした話をしてや 0 た。そして早瀬についての豊川の批 ぬれえん ほどあけ、そこの路地に立っていた彼を濡縁から入れた。評や、早瀬が山口教授の家に書生として入ったことなどを からだ 電燈をつけると、彼は小さな身体で帽子をかぶったまま片語り、 手に靴を下げて立ち、 「君なんかも少し気をつけて、早瀬のような卵と安静とを 「何・こ、、 オしこれは ? 」と原稿を見まわした。 やった方がいいんじゃないかなあ」と言った。 「雑誌だよ」 彼はそれには答えず、左手に持っていた豊川の原稿を投 「雑誌 ? まあ何か食わせてくれ , と彼は一一三カ月前に見げ出し、 あんか た薄い汚れた合着の背広のまま、私の机の横の行火に胸ま「豊川か、あいつは、病菌みたいな人間の一人だ」と噛み で深く入った。深夜のことだし、下宿の人を起すのを彼はつくような調子で言った。 、ら りんご 嫌うので、私は本棚の中から古い食パンや林檎などを捜し そして小橋はロをつぐんだが、ひとり言のように続けて れて出し、茶を沸かした。彼は片手でそれを食べながら時々言った。 せき をひどく深く咳をした。彼は左の手でそばにあった原稿を取「封建性は無いと言ってもいいさ。しかし絶対君主制とい きりあげ、めくって読んで行った。二三枚読んではまた別のうのは、ヨーロッパじゃ十七世紀のことじゃないか。絶対 を取り上げた。そして何度目かに豊川の「政治と芸術」と君主制は革命によらなければ倒れはしないんだ。日本の二 いう芸術至上主義的な評論を手にすると、それを熱心に読十世紀はまだ十七世紀なんだぜ。何が近代芸術の特質だ ほお み出した。その時の小橋の顔を見ると、以前から頬のとが い ? 近代なんてものは合理主義の後で出来るものじゃな よご よふ はんてん

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

気がした。何だって誰も彼もこんな風なんだ。自分だけがに召さなくって気の毒だなあ。自分にごねる駄々をひとに はだ 生きる権利を持っているのか。自分だけが悲痛なのか。そごねる。実証主義は肌に合わないと来てる。日記がいやで むず しておれはどうなんだ。おれは何もわめく言葉も、歯ぎし歌わせてちょうだいという勇気もなければ、難かしいね りする種も持ち合さない、空つばの袋なのではないか。酔え、豊川先生。英雄の小橋卓二は君が嫌いだとさ。君は早 瀬が気に入らない。この日本に君たちの気に入るものがあ いと一緒に私の中に不安が揺れいだ。卒業論文にゴール ズワアジイを書いて : : : なぜゴールズワアジイがいけないるのかい」 しよせん んだ : : : 所詮我が身の果て : : : それのどこがいけないと言 皆は初めて逢った人を見るような顔で私を見つめた。和 うのだ : ・ : 引き裂いて撒き散らす : : : 書生日記を一つ願い田や橋本など交際の新しい仲間は、私を酔っぱらいとして ますか : : : 病菌みたいな奴 : ・ 笑っていいのか、それとも自分たちが批評されたと思うべ 酔っているので、頭の中が液体になって、ゆらゆらと揺きなのか、惑う顔をした。 れているようだった。どれ一つとして外のものに調和して「さあ、豊川、金を払えよ。金を。帰ろう」 結びつくものがないじゃないか。まる所も、立っている私がそう言うと、彼は支払いを済まし、相かわらず不機 なっとく 場所も、自分がこれだと納得する実証もないものとして自嫌な顔ながら少し酔いがさめたらしいちゃんとした足どり むな 己を意識する事の空しさが、急にそのとき私を耐えがたくで戻って来た。仲間に少し遅れて彼と私は春の近い乾いた させた。この間じゅうから私を揺すぶっていたさまざまの夜の街を歩いて行った。彼はポソボソと低い声で言い出し 衝撃が、何日も何日もかかってのろのろと私の中を揺れ動た。 いた果て、不意にいま私の精神の核に届いたかのように、 「お前はどうするんだい ? 参らずに歩いて行けそうな確 得体の知れない強い反応が心の底の方から揺れ出した。そ信があるかい ? 」 れは忽ち全身に怒りのようにひろがり、私の顔がふくれ上 その言葉にはいつも彼が興奮を過ぎた後で示す幼児のよ るような気がした。 うな頼りない調子があった。そういう時だけ、私は豊川を 「あはははは」と私は笑い出した。「あっはつはつはは」自分の友人のような気がするのだった。 「あるものか。何もありやしないよ。おれはもう少し強か 「なんでえ、鵜藤、とんでもねえ時に笑い出しやがって」 ふげん ったら小橋について行ったかも知れない。とても早瀬には と豊川はその不気味な眼で不機嫌に私を見た。 「あれも目、これも駄目。一皮剥けば落語と講談、お気なれないが」 たちま やっ だだ かわ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

ったのだそうだ。その話し合いの結果、あいつは、一週間 束、彼一人の身体の置き場所があって、その時が来ると、 ほどその後家さんの家に泊って、完全に不眠症を直した。 正確にその連行をし続ける孤独な天体のような感じがあっ こ 0 そうはっきり言いやがるんだ。そんな奴なんだよ、あれ 「あいつは、あの早瀬は小説家の才能を持ってるぞ。どう だい、あの『いりませんよ、 いりませんよ』は」と豊川が外の仲間がわあと笑ったが、その笑いには傷ついた獣の まね その新型の外套の中から身を起し、早瀬の真似をして右手寒えるような青年の響きがあ 0 た。私はそんなことを言っ を振って見せた。 ま笑う私たちが惨めなのか分らな た早瀬が惨めなのか、い 「いや、おれはねえ、 いつも考えるんだよ。あいっと小橋かったが、自分と自分の仲間が、こんな風に笑ったままで いるのに耐えがたくなった。そうだ、私にはいつもそうい とのことさ。小橋は戦ってるだろう。それに早瀬のは、あ れは何だ。あれには脅かされるよ、ねえ。右は早瀬、左はう性質があった。妥協性なのか、生命の噛み合う実相を見 やつら つもそうなるのだった。 小橋さ。強い奴等だ。我々は、言うことは早瀬に先まわりることの怖れなのか分らない。い 私は笑いの静まるのを待ちかねて言った。 され、行動は小橋に敵わない」 「全くだ。うわあ、どこにも抜け道がねえや。どうすれば「いや今の豊川の話はね、それはあいつの創作だとおれは 思ってるよ。貧乏こそしているがあいつの母親は上品な立 いいんだい。あっ息苦しい。目茶苦茶をやる道はねえか、 あっ」と色白の丸顔で目の鋭い豊川が立派なオーヴァーの派な人でねえ、そんな、そんなことはないよ。早瀬は、あ 腕をふりまわした。そして教室で知り合いになった仲間にんな風にきよときよとしてるけれどもねえ、あいつは舞台 度胸のある男で、人中では、何かどきんとさせることを言 向って、早瀬のことを説明して言った。 「ねえ、あいつはねえ、高等学校三年の時、ひどい不眠症わないと生きてる甲斐がないと思う奴なんで、そのために れになったんだ。しばらくすると、けろりとして学校へ来たは、どんなことでも言うのだよ」 をので、おいどうした、治ったか、って聞いたら、あのキン すると豊川が身をのり出して言った。 キン声でこう言うんだよ。あいつのおふくろがひどく心配「待て、待て、鵜藤、おれは断然それを拒否するよ。あい 生 して、不眠症の原因をこれこれだと、知り合いの後家さんつがそんな天才なものか。それがあいつの創作だとする ゆいいっ と、あいつは我々の中での唯一の天才だぞ、そんなことは 四の家へ行って話したそうだ。後くされは決して起させない ゆる から、いま大学へ入る大事な時なので、よろしく頼むと言赦せない。あの話が単なる事実であることをおれは確信す おそ

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

くずや は婿の候補で、卒業すればすぐ助手になり、それからどこ払い、屑屋へ売る新聞の揃え方まで、こと細かに喋りはじ ころ か舎の高等学校の講師か助教授かに出て行き、やがて頃めた。そして結局は私も豊川も彼に喋りまけて、ただ耳を を見はからって大学の助教授か教授に呼び戻される。富傾けているだけだった。 と名誉がもう約束されたようなものだ。彼は言わなければ 小橋の死の印象も日が経つに従って薄れて来た。私たら いいのだ。じっと目立たないように待っていればしし 、のの雑誌は一一冊出したきりでつぶれてしまった。それは豊川 だ。だが不幸な騒がしい性質が彼の中に生れつきあって、 が私たち仲間を見限ったせいらしかった。彼は学校へ現わ 鳥のように羽ばたき、彼をじっとさせて置かないのだ。彼れて来なくなり、文壇人とばかりつき合っているようであ どうせい は自分が傷つき、自分が不利になることほど、それを、言 った。毎日酒を飲み歩いているとか、酒場の女と同棲した わずにいられない。、 しま彼は裸で、武装した敵の前に踊っとか、それと別れてダンスに凝り、ダンサーと結婚したと うわさ ているようなものだ。その彼をかばい、豊川のくすぶって いうような噂があった。そして彼の名を冠した詩や小説が しっと ぞうお いる早瀬の才能への嫉妬と憎悪から護ってやるのが今のおあちこちの同人雑誌や半商業雑誌に現われるようになっ れの役目ではないのか、今までそうだったように。 だが、何かが私の内部で私を抑制した。それは私自身で それから一年あまり、私は落ちつきを取りもどして勉強 どうすることもできない嫉姑のようであった。そうか、そした。早瀬と交際するのはなるべく避けたけれども、学校 んな醜い閇閥でこの大学が構成されているのなら、君だつでは時々彼に逢わざるを得なかった。私たちは両方とも小 て喜んでそのフアカルティ 1 の一員になることはないだろ説や詩を書くことはなくなり、そんな話もしなかった。私 う、と私の中で冷淡な、そっぽを向いた人間が言った。 は経済史や思想史をやりながら文学史を研究するという、 「あはは、君は、君もきっとその閨閥の一員を近く構成す自分の立てた計画で少しずつ勉強して行った。教授は、君 はず れるわけだよ」と豊川が言った。 のやり方は面白いものだが、危険な思想の方へ踏み外さな 「そんなことはないです。そんなことはないです」と早瀬 る いかね、と言った。その頃、外国文学系統の各教室の協力 きは右の手をせわしなく自分の顔の前で振りまわした。そしで、ある大出版社から世界文学辞典というのを出すことに て早瀬は一層止め処がなくなったように、今度は山口教授なった。作家研究、古典の解題、思潮の解説などの短い原 の家庭生活のことを、その細君の性癖や、教授の弱い立場稿が、教授たちの指導によって主に卒業生の若い学者の手 や、出入りする弟子たちゃ、女中の食物から、牛乳屋の支で書かれていた。早瀬は古典作品を読んで教授の名義で解 こ 0 そろ

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

力によって、一人だけもぎ取られて不具にされた残りのよとごとくどこかの官立大学の教師の妻か、大学院長の妻 かんり うな気がした。私と豊川がぼんやりしていると、酒は飲まか、外務省か内務省の官吏の妻になっていた。 ないと言ってサイダーを入れたコツ。フを手にしていた早瀬「彼等は娘を嫁にやる男を養うために国庫の金で大学を作 ってるようなもんですよ」 が、早口に言い出した。 「構うもんですか、あいつは、小橋は始めからああなるに「大分大学の内情に詳しくなったじゃないか」と段々酒が まわって来た豊川が細い目で早瀬を睨みながら言った。 ハ力ですよ。 決っていたもんですよ。あれは・ハ力ですよ。 小橋は死んだ。私たちは生きていますよ。こうして生きて「そうですよ」と早瀬は書いたその紙を私の方に指先でツ ツッと押してよこしながら、豊川へでなく自分の言葉に合 いるじゃありませんか。生きてるもの・ハンザイですよ」 ばっ そして、自分で自分に火をつけたように早瀬は大学の閥槌を打っ調子で言った。「だから、そういう連中の集った の話をし始めた。大学なんて全部で出来ているような教授会議が新しく教授や助教授を決定する時はですよ、ど ものだと、彼は喋り出した。昌平黌以来の大学のポスの系この誰とも知れぬ風来坊は後まわしで、おれの妹婿だと 図があって、それが二つに分れ、その両方が二つずつの財か、君の細君の姪の婿だとかいう風にタライ廻しにきめて 閥と結びついて、学生の中の秀才を捜しては娘と結婚させ行くんですよ。万年講師なんてのは、たいていその閨閥を はず るという方法によって、教授団の中に代々続いた抜きがた外れた実力組だと思えばいいんですよ」 かっこう ねら い地盤を作っている。その証拠に、と彼は言った。有力な早瀬は喋りながら、鳥が空中から何かを狙うような恰好 せつかち 教授の妻はたいていその四つの門閥の娘だ。そう言って彼で、右手を性急にふりまわしながら、長い指で、紙に書い は今彼が書生に入っている山口教授を始め福田教授、門馬た図を説明しようとした。 「おい早瀬ーと豊川が意地悪い声で言った。「お前は、あ 教授、木田助教授と指を折って数えて行った。彼の言うの を聞いていると文学部、経済学部、法学部など、半分以上れだろう。山口夫人の姪か従姉妹かを押しつけられそうに なってるのだろう。え、違うか、違わんだろう。お前狙わ の教授助教授がその閨閥をなしていた。早瀬はおしまいに はポケットから紙を出し、一番上に四つの閨閥の名を書れてるんだろう」 突然早瀬は興奮から脱落したように黙り込んだ。すると き、系図で示しながら、どの教授の細君はどの家の娘で、 あれはどの教授の細君の叔母だとか従姉妹だとかと説明し私には分った。早瀬にあるあの奇妙な露出癖は、主人公で 出した。その説明図を見て行くと、その四家の娘たちはこある彼を犠牲にして、抑える術もなく荒れ狂うのだ。早瀬 づち くわ おき

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

絡すると早瀬がやって来た。三人で以前の小橋の下宿に行にも話さなかった。警察に対する激しい恐怖に私は取りつ くと、そこにはまだ少し荷物があるが、去年の暮以来彼はかれていた。少しでも彼とかかり合いになりそうなことは 立ち寄っていないとのことだった。彼の住所はどこなの洩らすまいと心をきめていた。だがあの女は何だったのだ ふすま か。葬式はどこで営まれるのか分らなかった。夕刊が出るろう。あの家の、もう一間あるらしい襖のかげに坐ってい こういん と、彼の慨は、私の下宿のすぐ近くにある彼の現住所へたのだろうか。それとも拘引されて行っているのだろう 運ばれたことが分った。生け垣のある小さな家であった。 か。清潔な感じの浅黒い皮膚に目鼻立ちのはっきりしたそ 行くと大勢の党員とも刑事とも分らない男たちが庭に立つの顔を、私は歩きながら思い出した。 あお たり縁側に腰かけたりしていた。学生服の私たちは小さく「鵜藤、顔色が蒼いぞ。気分が悪いかい ? 」 なって遺骸の前で焼香した。 遅れがちな私を振りかえって、豊川がいたわるような言 「あなた方は ? 」と身体の大きな、若々しい顔の和服の男い方をした。 が一一 = ロった。 「小橋は君の所へよく来てたかい ? 「高等学校の同級生ですよ」と早瀬が怒ってでもいるよう 私は頭を横に振った。豊川と早瀬はこの間のビャホール かんだか な甲高い声で言った。 のことは忘れたように、警察の拷問や左翼連動の方法のこ しゃべ 「そうですか」と言って、その男は庭さきにいる男たちにとを喋り合っていた。豊川が私たちを学校の近くの小さな ふた 気を配りながら、私たちを手招きして棺の蓋を取った。顔酒場へ連れて行った。 ひたい が、あの小橋のものと思えないほど小さくなって、額とコ豊川は出て来た日本髪の下ぶくれの女にそう言って、隅 さ、 だほくしよう くらびる メカミに青黒い打撲傷のあとがあり、薄い唇が開いて、尖っこの、四人向い合って腰かける暗い所に席を取った。四 の腐った彼の出歯が出ていた。その男はすぐ蓋をしめた。人分の席の一つ欠けているのが私にまざまざと小橋のこと を思い出させた。彼の死顔の虫食った出歯や、子供のよう れ殺気だった暗い感じがその家にいる人々の間に漂ってい はんてん あ をた。私は小橋のむごたらしい死顔よりも、その家の雰囲気な細い顎や、 = メカミの斑点が目に浮んだ。それでいて彼 きに脅かされて、叱き気のような生理的な不安を覚えた。大の死の不自然なことが感傷的になることを私にゆるさなか 分その家から遠のいてから、おやあの女はどうしたろうとった。大学へ来てから小橋はほとんど私たちの間に現われ なかった。しかし高等学校で文学好きなグル 1 プを作って 私は思った。見えなかったが、居ないのだろうか。私は小 橋の死を知ってから、彼について知っていることを、友達いたこの四人の組合わせが、逆らうことのできない不吉な ごうもん すみ

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

いか。豊川に逢ったら言ってやれよ。環境を無視した文化「ごちそうさまーと言って彼は笑った・ ワ 1 芻の移植なんて無意味だって」 「行くのかい ? 」 私は恥じた。私も豊川と同じだった。ヨーロッパの新し「うん」 い文学がそのまま自分たち日本の若い世代のものになり得久しぶりに逢ったこの友人がなっかしいのか痛々しいの はず る筈だったのだ。私は何か言おうとして口ごもった。 か分らなかったが、私は胸をしめつけられるような気がし 「感動の型があるんだ。社会構造が感動の型を決定するんた。高等学校ではじめて一緒になった早瀬や豊川と違っ うそ こうじっ だ。心理小説なんてのは、嘘にしろ口実にしろ論理の通るて、私と小橋とは、十三四歳の中学の一年からの同級生だ からだ 社会では喜ばれるさ。論理の通らない社会では奴隷意識か った。誰かの古帽子、誰かの古制服を着て、身体も貧弱 がますすほお 革命意識しか人間を感動させないんだ。技術面からだけ言で、パン竈の煤を頬につけたまま顔も洗わないで朝登校す ってもだ・せ、大体技術から先に考えるなんて」 る小さな中学生、そして昼飯には何もつけない食。 ( ンをか こう とくめい 後になって見ると、それがその頃、彼が匿名で党の機関じっていた彼の姿が私の目に浮んだ。しかし今その彼が加 こっし おか 紙に載せていた文学論の骨子だった。 わっているのは、日本の社会の層と層との間に、それを犯 「絶対君主制の社会における文学革命」というその立論す菌糸のように根を張っているあの組織だ。それは早瀬の は、数回にわたって掲載され、ほとんど秘密出版の形で出身のまわりに感ぜられるあの神秘な非現世的なものでな 版されて、その後貴重な文献となったものだった。彼のそ 。人間の理想と理論との結びつきで最大限に緊張し、党 の短い話は、私の中に抵抗感と新しい動揺とを作った。そ員の肉体の病や感傷を顧慮することを許さずに、目標へ おそ うらしい、そうかも知れない。しかしその場所へは私は入じりじりと這い寄ってゆかせる怖ろしい冷酷な生きもの って行けない。私はじりじりと自分の考えにしがみつ た。それにこだわって、その傾斜を滑り落ちまいとした。 その頬に赤い斑占 . の浮んだ顔で、小橋が落ちついた笑い こわ 彼は立ち上って私の小さな本箱の本を取り出し、空の本箱を私に見せた時、この男は壊れて行く、と私は感じた。彼 を机の上に重ねて踏み台にし、そこだけ動く天井板のかげの意志と理論は明確で鋭い。しかし身体は熱と疲労と無理 からあの紙包みを取り出すと、もとどおり本箱を直し、皿とでもう恢復できそうもない破滅に落ちこんでいる。病人 の中に残った林檎を一つポケットに入れて鳥打帽子をかぶと闘士と二人の人間が仮りにいま彼の中に住んでいるの ようじよう っこ。 だ。無理をしないで養生しろなどと言っても、今のこの男 りんご あ すべ ・ 4 」 0 は ん て