速雄 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 32 伊藤整集
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1. 現代日本の文学 32 伊藤整集

するだろう。そうすると、きっと、どんな風にして育ったを撫でた。典子は、ひどく悲しい話を聞いていたような気 か、子供の時はどんな顔をしていたかも知らないよその年がした。じとじとと涙が流れて来た。 「いいんだよ 、いいんだよ」と速雄が言い、髪を撫でつけ 下の娘と結婚するんだね。変なことだよ。そして、よその 娘に見つけるのは、そういう幼友達の娘と似ている、と いるように上から繰り返してさすった。 「君はげんちゃんに似てるなあ。」 うようなことなんだ。」 かわ そう言われると、不意に典子の涙は乾いた。自分が速雄 うんうん、と典子はうなずいた。その話をみんな聞いて やれば、病気もひとりでに済んでしまう、という気持がしの心の中で占めていた位置の小ささが、はっきりと考えら ま自分が泣いていたのかわからなく た。それを今まで速雄さん、言わずにいたから病気がこんれた。何のために、い なり、ひどく腹立たしくなって来た。この人にとって私 な風に悪くなったのよ、という顔を典子はした。 しらじら 「ねえ、君にだってあるだろう。同じ町内で育って、小学は、何なのだろうという呆けたような白々しい気持になっ こ 0 校のときからずっと知って、特別親しくもならないけど、 その人が自分にとっての男というものになっているような だが速雄は相かわらず左の手で典子の頭を撫で続けてい 幼友達が」と速雄は、相かわらず天井を見たままだった。 た。そうされると、またいつの間にか彼女の心は静まり、 いや、いやっ、という風に典子は頭を振った。髪が散もといた隅っこのような所に落ちつくのである。そこは、 り、また首のまわりにちくちくと集まって来るのが感じら速雄の心のなか、大きな男というものの性格の暖い片隅の れた。それと一緒に一一三人の男の顔がまわりの空間へ投げようだ。そこに、すがりつくように坐って、速雄に頭を撫 飛ばされたような気がしたが、それが誰と誰なのか考えるでてもらっていると、もう私は何も考えなくってもいいの たひまもなかった。そして、もう速雄がいっから自分のなか だ、と子供のようになる。身体が融けて、自分は形もない わか すわ に坐り込んでいるのかも解らなくなっているのだった。 ただ一つの生命のように思われて来る。 生「ないわ、ないわ、そんな人」とロのなかで叫ぶと、握っ 自分は速雄に愛されているのだという気持が、しっとり ていた手に力をこめて典子は、太い縞の入った毛布の上にと落ちついて心にしみ渡って来るのであった。 おとろ 顔を埋めた。逃げまわる鳥が羽根をふるように髪が、ばさ速雄は、この頃、目に見えて自分の体力の衰えて行くの かんまんげ勢 ばさと乱れた。 を感じていた。緩慢な下痢の止まらないのが、一番直接の 速雄はしばらく黙っていたが、左の手を出して典子の髪原因であった。療養所へ入るときは、世間と自分とを切り すみ

2. 現代日本の文学 32 伊藤整集

がりに白く母の顔が浮き出していた。典子も敷石の上にた 別にはっきりしたことを言わず、いつもと同じ無愛想な顔 にら って、じっと見ていた。しばらく睨み合うようにして、表で、立ちあがると、すうっと自分の室へ去って行った。で 情のわからない白い顔を見つめていると、それが・ほうっともその話が、どんなに速雄に痛いまでの感動を与えたか 涙の中にふくらんで、かすんで来た。そのとぎ、戸がそろが、典子にわかるのだ。典子の方はむしろ自分の不幸をぶ そろと閉められて、隙間が細い線になり、やがてすっかりちまけることに慣れていた。しかし速雄には、そういうあ 見えなくなった。 けすけな処がまるでなかった。 おお 叔父は門の竹垣の処に立っていたが、眼を両手で蔽うよ彼は自分だけは特別な人間だという意識を、はっきり持 うにして来た典子を見ると、先に立って歩き出した。叔父っているようだった。自分には、自分にだけやって来る不 のずんぐり肥った肩が、その高いけんにんじの垣根沿いに幸がある。自分にだけわかっている運命の掌がある。それ 歩いていった。それを見ながら後を追っていると、段々悲と戦うのだ。それが自分の仕事だ。そういう気持がいつも しくなって、わっと泣き出しそうになった。だがとりすが速雄の顔に現われていた。それは尊大という様子ではなか るものが無かった。叔父の肩は、これ以上面倒なことは御った。また深刻がりでもなかった。机にむかって熱心に図 免だと言っている。どこに自分がとりすがって泣く人がい をひいている後姿に、また廊下で典子と行きちがいになる もた るのだろう。典子は死んだ祖母のことをふと思った。凭れときの身のかわしかたに、それから朝学校へ出かけてゆく かかるにエ合のいいあの薄い膝を思い出した。だが、祖母ときの素振りに、それがふっと現われるのだった。 がいなくなってからは、どこにも自分のとりすがるところ速雄のそういう素振りとも言えないものが眼にうつる がなくなったのだ。それがいつも典子の快活に振舞ってい と、ああ私よりこの人は不幸だ。と典子は思う。誰にもわ 亡る理由でもあ 0 た。すがりどころのないことを思い知らさからない、誰にも、という意識が、速雄の後姿に、黒い穴 いんえい きせる方へ落ちてゆくまいとする努力が、いつも彼女を緊張のような陰翳になってこびりついているのだ。清子は、そ のさせ、前の方へむしろ踏み出させていた。 ういうものを速雄に見ていないらしい。 それが清子を平気 孖速雄が越して行った室でひとり寝ているのを見たとき、 で速雄に近づかせるのだ。 典子は自分はいまこの人に必要なのだ、と思いきめたのだ「私、一度速雄さんの処へ見舞いに行ってあげようかし た。たが、どういうわけか、典子は速雄にむかうときはら ? 」 、 1 おくびよう 臆病になるのだ。母に逢った話を聞かせたときも、速雄は晩飯のとき清子が、父にとも母にともなく言った。 ところ ひざ

3. 現代日本の文学 32 伊藤整集

うなったか気がかりであったが、叔父は何も言わなかっ つばねるような言いかたの外側にばかり立ちすくんでいた 自分とは、すっかり変ったような気がした。この人は行っ たず 四日目に典子はまた速雄を訪ねて見た。様子はちっともてしまうんだ。自分の手の届かない病院の壁のなかに閉じ こめられ、白い服を着た看護婦たちの手にゆだねられるの 変らなかった。速雄はちょっと典子の方を見て言った。 「僕は明日療養所へ入ることになりました。そうなると遠だ。そう思うと、自分がもどかしくなり、ふいと、気軽に いから君にも来てもらえないな。とにかく、君は僕を訪ね自分を押しやって見たら、速雄の突っぱっている世界の内 側へ入ってしまったのだ。 たりしない方がいいんだよ。」 せき 速雄の言うことは、前の半分が典子の心にそっと触れる 別れるという気持から、極く自然に破れた堰の向うで、 ところ ようでいて、途中でそれがくるりと変り、冷淡なつつばな典子は、こんな広い処があったのかと、ゆうゆう鰭を振っ したものになる。その心のゆらぎで段々典子にわかって来て泳ぎまわっているように、心がしゃんと坐った。この人 みなー た。この人はちっとも、きまった心を持てないのだ。そうは私のものだ、という安らかさが水のようにあたりに漲っ すると、今までの速雄の身ぶりにあるあの孤独なわびしさ こた が、まざまざと典子に応えるのであった。そんな気持でい 後で考えると、その時に、典子は少女でなくって、男の るのなら、踏み込んで行って、思うようにしてやりたい、 世界を持った女になったのだった。自分が男の世界に踏み とも思う。 込んだようでもあり、また今まで前方に見上げるように立 「だって、行きたい時は行ってもいいでしよう ? 」 っていた速雄が、自分の内部に入って、小さく、しかし絶 こんな強い言葉を速雄にむかって使ったことは今までなえず光を浴びている舞台の役者のようにありありと動くの かった。 がわかる存在になってしまったとも言えた。 まくら ムた 「そりやそうだけど、叔母さんたちがうるさいからな。」 典子は速雄の枕もとから、赤く塗った蓋のついた湯呑み 命令するような様子が速雄の言葉になくなり、自信のなをとり、それに薬罐の湯を注いで、ふうっと吹きながら飲 い弁解の調子である。 んだ。この湯呑みが何だろう。これはこの人の湯呑みだ。 * いとぞこ ばら そのとき、典子は自分が火鉢のそばに坐っているのに気それで私がいま湯を飲むのだ。そうして糸底に指をかけて がついた。白い薬罐がかけられて、湯がたぎっていた。典いると、その室がはじめて自分たちの室のように親しいも 子は何でもなく垣根を越えてしまったのだった。速雄のつのに見渡された。叔母の持って来た花は、乱暴に壷に投げ こ 0 やかん すわ ひれ

4. 現代日本の文学 32 伊藤整集

すみくば の両隅が窪んで、黒ずんでいる。寝台に張りついたように に隠さねばならないことがあって、その内側からの圧迫に からだ なって、身体がべたりと薄く見えた。私が来ないうちに、耐えられないというような気持なのだ。願っていたこと しん 私が来なかったものだから、というような言葉が胸の芯のは、その重っ苦しいものを速雄が半分受け持ってくれる、 あたりからこみ上げて来て、自分の眼が涙できらきら光るということだった。だが弱々しくべッドに張りついたよう のがわかった。 に寝ている速雄には、いささかの重たさもかけられそうも またた 「どう ? , その眼の光るのを、楽しげな眼の表情に、瞬いなかった。 て変えようとっとめながら、典子は言った。隣の寝台はき さっきの徴笑のかけらのような表情が、まだ速雄の唇の れいに片づけられて誰もいなかった。それを彼女は当り前まわりに残っていた。それが見も知らぬ人の顔のような無 しわ のことのように、その裸の金網に腰かけた。その人がいな意味な表情に見えた。もう笑いの皺をもどす力も失せたの いということは、ちらと典子の心をかすめたきり、気こよ 冫オではないか、そのまま笑いの皺がもどらずに死んでゆくの らなかった。その人が退院したのか、死んだのか、と、彼ではないか、という恐怖が典子に湧いた。一瞬間速雄が腐 女の心をちらとかすめる疑問はあったが、「あ、どうでもれかかって臭気を発している肉体のように思われた。その おそ いいことだわ」と、自分の心の散るのを怖れるように、ひ印象よりも、この人からそういう印象を受けている自分の はだあわだ きしめて速雄の変った容貌を見つめていた。 冷酷さで、彼女はぞっと肌が粟立つような気がした。しつ そうだ、今はもう、一生懸命にならなければならないのかりしなければいけない、と思い、頭をぶるっと横に振っ だ、と典子は、見つめていることが速雄の快復に役立つ、 た。そして、その厭な印象をはらいのけるために、相手を かすい しゃべ たった一つの事だという風に速雄にむかっているのであっ死への仮睡から呼び醒ますように喋り出した。口に出て来 たのは、たった今まで、言ってはならないと思ったことな そのとき、速雄は典子を見て笑った。歯が、色のあせたのだが、もうそれに構っていられない気持であった。「私 くちびる あおじろ ぶしようひげ 唇から突き出るように現われた。それは、ちょっとの間 ね」そう言いかけると、不精髭の伸びた蒼白い速雄の顔 にこんなに悪くなって済まない、 と一一一一口っているように見えカ ・、、はっと引きしまった。彼女の声になにか変ったものを こ。 見つけた彼は、以前よくしたあの落ちつぎと深さのある注 典子はここへ入って来てから不安で仕方がないのだ。今意ぶかい目つきになっていた。残った生気を渾身のカでか にも吐きそうに、胸がむかむかして鼓動が早いのだ。速雄き集めたような、生き生きとした顔になった。身体は弱っ こ 0 こんしん

5. 現代日本の文学 32 伊藤整集

だ。しかし、水の底から、彼の家系の病いの顔が、彼の足だ。彼の肉体は耐えられる自分のカの限界を知っている。 しず をとって引っ込むのだ。そうすると、水の上のことは本当鎮まれ、そっとしていてくれ、でないと俺は危いんだ、と の自分には縁のないものとなる。今日彼は典子の髪を撫でそれはまわりのものに声をかけ、願う。 てやりながら、それが自分が水面でする呼吸のように思わ典子はそういう不安を、病んでいる速雄に与えた。春の れて来るのであった。光のように、この娘の愛情は自分の植物の呼吸のように速雄は典子と一緒にいると自分の身体 まわりを、きらきらと通りすぎる。これが生活というものがしなやかになり、熱つぼく、興奮して来るのがわかる。 どころ だろうか。扉の板の木目、カアテンの汚れ、やり処のない典子と二人、じっとしている間、自分の生命は弱い肉体を わか 自分の男性の肉体、検温器や、飲みにくい水薬、放擲され油として、燃えているのが彼にはよく解るのだ。 た学校、生活するあてのなくなった自分の生涯。そういう「また来るわ。」 し力い と典子は、。 ふいと立ちあがって言った。速雄は、はっと ものが速雄の心の中に死骸のようにちらばっている。まる で自分が、生きているものではなくって、住み手のなくな突きはなされたと思う。そうだ、こういうのがこの娘の癖 はいおく った廃屋の物置部屋とでもいったようだ。そういう自分のなのだ。ぶつつかるように断ち切るように、不意に何か言 すきま ったり、行動したりする。まるで今まで、自分のひたって 内側に愛情だけは、光のように、生きもののように、隙間 いた雰囲気を間違いであった、とでも言うようだ。それが から射し込み、流れて、満ちあふれるのだ。それは典子の こた のど 眼なざしであり、彼女の喉のあたりの白い皮膚であり、彼速雄にはびしりと応えた。 女の姿が室に現われたときの、ばっと室の空気が変ったよ典子のそういう切りあげかたは、速雄の湯呑みで湯をぐ うな感じがそれであった。 っと飲むのと同じようなことで、そういう性質だというこ くすりびん そうすると、速雄の腕、顔、寝具、薬壜などが、どれもとに過ぎない。しかし、速雄は、典子のそういう生き方に かえり 生きかえったように意味を持ち、表情を持って来る。生命自分がついては行けないという思いで身体を省みるのだ。 むしろ典子は切なさを、そういう態度に表わしているのだ の光のように、典子の存在が彼の全身に照りつけるのだ。 ことごと それはまぶしかった。自分のまわりにあるものが悉く生った。ああ、ここでも思い切って目をつぶるのだ。と自分 に言いきかせているのであった。たが、それは速雄には、 きかえって、ざわめき立てるのだ。今まで死んだ用のない 道具だと思っていたものが、魔法で突然生命を与えられた不安に思われることであった。きっと典子は、ああしてい ように立ちあがる。すると速雄の肉体はうろたえぐのて、今に何か大きな障害にぶつかる。そのとき、ああいう おれ

6. 現代日本の文学 32 伊藤整集

174 は祖父の代に別れた長県の本家で、や 0 ばり津田と言っ熱は徐々に下り、血は止まったが、彼はますます真剣にな っていた。い た。速雄の家では皆夭折して、祖母と彼と一一人きりになっ よいよ病気は油断のできない内部へ潜り込ん た。高齢の祖母を、がらんとした大きな家に残し、津田家だ、というような表情であった。 から私立大学の工科に通っていたが、父、母、兄弟たちを典子は、いっから速雄に兄に対するような気持になった 奪った病気が、また彼の内部に食い入ったのだ。清子の母かわからない。しかし津田家のなかでは、ともすれば速雄 だんらん かたすみ の妙子は、それを極端に厭がり、速雄もまた室があったらと典子の二人が団欒から取り残されて、片隅に顔を向き合 動きたいと言い出した。妙子が同じ町内に空いている室をわせるようになることが多いのであった。多分典子の父が 見つけて来ると、速雄は、叔母 ( 彼はこの家の当主の顕造若くて死んだというのも、速雄の家のものと同じような、 またいとこ ( ぎ とは又従兄弟になるのだが、年齢が違うため、典子の呼び結核に対する弱い体質のせいなのであろう。典子は割に賑 方で、叔父、叔母と言っていた ) に礼を言って、寝台車でやかな性分で、茶の間で家の者の話に加わっていることが 引越して行った。速雄は一一十四歳であるが、十四五から祖多い。そこへお茶菓子が出されたりすると、平気でそれを 母と二人きりで暮して来たために、老成した気持と風貌に食べている清子や叔母のあいだで、典子は何か言い出され なっていて、三十歳近くに見えるのである。家のものをするのを待つような顔をする。 たお べて斃した結核がいよいよ自分にもとりついたと知ると、 「あら、食べないの ? 」と叔母が言う。 「だって、速雄さんもいるわよ。」 彼は深い覚悟でそれに向った。 一週間ほど肩が凝っていたが、外に異状はないのに、突「おや、そうだ。あの人出て来ないから当りが悪いのよ。」 きづか 然喀血した。すぐ彼は安静を守り、学校や祖母への気遣い 典子は勝手に、小皿に菓子を分けて茶と一緒に速雄の室 という、外側へ自分を縛りつけていたあらゆるものを、放へ運んでゆく。 ところ り出してしまった。もう一学期で卒業であったが、そんな「ああ、置いて行って」と、戸口の処に立っている典子を ことであくせくはしなかった。祖母には療養に必要なだけふりかえって速雄が言う。その顔には、何か心配事に気を ぼうせん の金を送れとすぐ言ってやった。彼は、もう前から、そのとられている茫然とした表情が浮いている。彼の机には、 病気のやって来るのを待ちかまえていたという落ちついた本や雑誌が、あまり使わない製図用具などがあるきりなの 顔で寝ていた。そして自分の肉体の強さを、ひそかに計画だ。彼女は廊下から手を伸ばしてそれを敷居のすぐ内側に し、病気の進行の程度を推しはかっているように見えた。置き、勢いよく戸を閉めて戻る。 かつけっ いや

7. 現代日本の文学 32 伊藤整集

みかん 戸口まで出て、裁縫包みのなかから蜜柑を五つほどくる「速雄さんの処へ行った ? 」と訊いた。 んだのを包装紙のまま、ぶらんぶらんさせながら、速雄の釣り出されたような気持で、 まくら 枕もとまで歩いて持って来た。速雄はまた見上げたが、熱 「うん」とうなずいた。 まぶた でも出はじめているのか、臉の上が。ほっと赤らんで、典子「そう」と清子は、自分が悪いように眼を伏せ、右足の白 0 とまゆ じわ たびさき たたみ かっこう の歩くのが頭に響く毎に眉のあいだに細い立て皺をよせい足袋の尖で、畳のささくれを押さえた。そのままの恰好 つまさきだ る。それに気がついて典子は、爪先立ちになり、そっと包で言いつづけた。「元気 ? 」 みを枕もとに置くと、 速雄さんはあんたの受持ちだけど、というようなその調 えしやく 「さよなら」と言い、速雄が会釈するのは見まいとでもす子に、典子はなんとなく受け身になって、 るように、くるりと向き直って室を出た。 「わからないわ。」 すわ 以前とちがって、典子は茶の間に申しわけばかり坐っ来るなと言われた、と相手に投げつけてやりたい言葉が ひばち て、叔母が火鉢の向うに落ちつきそうになると、中一一階へ口さきまでの・ほって来たが、言ってしまったら、自分が悲 引き上げることもできるのだった。そして、自分の領地かしくなりそうであった。 ら出て来るように改めて茶の間に顔を出す。 「私も行って見ようかしら ? 」 一一度目に出て来たとき、清子と茶の間で出逢った。 「行ってあげるといいわ。」 「どう ? 今度のお室。寒くない ? 」 思わず典子の声が強くなった。その声には、自分の善意 みなぎ 「うん、すこし寒いけど。でもいいわ。」 を示せる機会をんだ明るさが漲っていた。そういうと 「中一一階の方がよさそうね。行って見ようかな ? 」 き、典子は自分で必要以上に気持が素直になるのである。 「ええ。」 清子が行って見たいと思い、速雄も見舞に行ったら喜ぶだ き清子は、室に入って、板壁の上に速雄の忘れて行った白ろう。それはいい事なのだ。そう思う衝動のまま、自分の の樺の額を見つけると、 ささやかな不快さなど、ぐいと傍へおしやって、叔母さん ぼ「これ速雄さんのね ? 」 には黙っていてあげる、という、幼時から二人きりの内証 「忘れて行ったのよ。私もらっちゃうの。」 事のときにして見せた顔になる。それでもう一一人のあいだ そのとき、清子は、隠していた内証ごとを言う眼つきにでは、げんまんのような確かさになってしまうのだ。 なり、小声で、 叔母に言わない世界が二人のあいだにあった。速雄の家 ところ

8. 現代日本の文学 32 伊藤整集

「典子も一緒に行って見るかい ? 」と言った・ けると、典子をふり向いて、「あれね」と言うように微笑 あいまい 「ええ」と曖昧に答えたものの、自分の顏の赤くなるのがした。その微笑のなかで、変に腹立たしげな眼が、きらり あ tJ わかって困った。 と典子を刺した。それに対して典子は、つんと顎を上げる むろざ、 翌日三人で速雄を見舞いに行った。叔母は白い室咲のダようにして応えた。それは、私、この人とのことでどう思 リアを途中の花屋で買った。速雄は昨日と同じように、じわれたって構やしない、という風であった。 つばさか っと寝ていた。 叔母は、空つぼの壺が倒さに伏せておいてある、何も掛 「どうですか、速雄さん ? 」と叔母が言った。 けてない床の間に眼をやると、花を持って立ちあがった。 まっすぐ さわ かが 速雄は叔母にちらと眼をやったきり、清子や典子の方は真直立っと何かに障るように、腰を屈めてそこに近づき、 見ようともしなかった。 壺を手にとって見た。しかし、それを使おうとはせず、ま 「相変らずです。僕のはただ忍耐修業のようなもので、じたそっと伏せてそこへ戻し、花はこちらを向けて床の間へ っとしていればいいのですから、大したことはありませおいた。 ん。」 「お内儀さんにそう言っておくから、あとで活けさせて下 そう言って速雄は、ふつふっと、笑いでもこみ上げたとさい。」 せき それは、病人を見舞うというよりは、その花を活けるこ きのように軽い咳をした。すると、ああいけない、といっ かっこう からだ た恰好で、身体をじっと動かさず、もう人の相手になどなとに儀式的な意味があるとでも言うようだった。 しゃべ 速雄は眼に見えないぐらいうなずいた。娘たち一一人は、 って喋ったりするまい、という風に口をつぐんだ。 すわ 叔母は室の中をぐるりと眺めまわしたが、小さな彼の荷その間じゅう小鳥のように並んで坐っていた。そこへ主婦 ぼう・ほうに乱した髪を気にして、片手で押さえるよう 物は押入れにはいってしまったらしく、机だけが壁ぎわに カ きぼつんと寄せてあり、枕もとの盆には、昨日典子の置いてにしながら、茶を運んで来た。叔父の家の製品を運んだり の行った蜜柑の包みが破かれて中から転げ出しており、食べする仕事をもらっているので、速雄の病気をいやだと思い 子た皮が小さな屑籠のなかに見えている。それを典子はちらながら引き受けた様子だ 0 た。 と見ると、速雄と自分との間に、ひそかな感情のつながり茶が出されると、叔母はあわてて挨拶をし、その切り花 があって脈うっているような気がした。昨日来たことを典を活けるようにと頼んで、娘たちを連れ出した。 子にうちあけられている清子は、その蜜柑の包みに眼をつ 三日ほど典子は速雄を見舞えなかった。入院のことがど みかん まくら あいさっ

9. 現代日本の文学 32 伊藤整集

「いっ ? 」と彼は言った。肉体ある人間としての自分は棄本当の事が言えないほど別れが近くなっているのだ、とそ て、ただ静かなやさしい心で典子にふれてくる言葉だつの手が言っていた。 こ 0 突然典子は、突きあげるように声をあげて泣き出した。 そうよ、そうよ、とその手の意味にうなずきながら、典子 コ一三日うちだと思うの。」 まよた 「そうか」と言って、速雄の瞼は、大きな黒い眼の玉を撫は自分たちの哀れな生命の触れ合いかたがわかって、我慢 こた できなくなった。それは、わかりました、と速雄に応える でるように、ゆっくりとさがり、そのままじっとして 意味でもあり、こんなことになると知っていながらこの人 しりご 典子には、今日、速雄のその尻込みの仕方がありありとのいる方角に飛びついたような自分が哀れだという、自分 わか 解るのだ。もう速雄は自分と一緒に歩いてゆくことはできをいとおしむ心持でもあった。 そのとき、扉の握りがかちっと鳴って、看護婦らしい顔 ないと思っている。残っている生命を全部まとめて、その すきま 眼に美しい輝きを漲らせることはできるが、それとてもうが隙間からのそいたが、そのまま引っ込んでしまった。典 典子の生きている騒然とした世界には届かないものだっ子は、はっと我にかえり、この病人に、死んでゆく人とし た。自分は、もうこれから一人で生きなければならないのての別れをはっきり言ってしまった形になったいまの自分 そらおそ だという思いと、もうこの人は、自分の世界から遠く離れの挙動が、空怖ろしく思われて来るのであった。情に溺れ おそ ているという感じとが、典子を怖ろしい孤独感でうちのめたいという気持ほど彼女をはっとさせるものはなかった。 自分でもわかるぐらい、しゃんとした顔になり、手早く涙 した。 そうだったのだ。自分はもうひとりぼっちなのだ、と田 5 を拭くと立ち上って、 、典子はじっと速雄の手にすがっていた。何ももう言う「すっかりきまったら、また参ります」と言った。速雄の 方はそんな典子の変化に関係なく、まだ典子の泣いた声の ことがなかった。 かっこう 「私ね」と小声で言うと、速雄はやっと頭を彼女の方にねあたりに心を寄せたままの恰好でいた。そして、彼女の言 じ向けた。「あなたが早くよくならなかったらひとりで寂葉によそごとのように軽くうなずいて見せた。 典子はその日の帰りに、またあかねに寄って見た。 よう 速雄はその一層大きく見える様になった骨ばった手をあ「ちょっと、ちょっと、マダムの室へいらっしゃい」と満 げて典子の頭を撫でてくれた。そうだよ、もう僕たちは、子の伯母は自分のことをマダムと言い、典子を待ちかねて こ 0 みなー

10. 現代日本の文学 32 伊藤整集

浮んだのだろう。大丈夫ということもなげな顔を、ちょっ紙をとって、それを口にあてがってやった。それから、使 くずかごす った紙をとって屑籠に棄てると、その速雄の片手を、暖め と速雄はして見せた。そうすると、典子は、付添の看護婦 ほか もいないこの病室のことが、どこか外の病院と変っているるように自分の両手で包んで蒲団の中へ入れてやった。そ ように思われた。でも、そんなこと、どうでもよく、速雄のまま蒲団の中に両手を入れていた。速雄の身体のぬくも と二人きりになったのを、痛いように感じた。 りが、暖く、暖く自分の腕を伝って脈うって来た。 からだ 「ああ、 いいんだよ」と速雄は、自分の身体のことを返事「ね、その娘はげんちゃんって言うんだ。一軒おりて隣 したようであった。それは、典子には、隣の病人のことなの、大きな桃の木のある家の娘なんだ。僕が隣の町の中学 んか気にかけなくっても、とも聞えた。 へ通っていたとき、やつばり女学校へ、同じ汽車で通って あご まくら いたが。色の白いひとでねえ、顎が一一重になっていた。」 でも、と言う気持で典子は寝台の枕もとを見た。赤い万 年筆に似た体温計のサックが・ヘッドの頭にぶら下げてあ 典子は、数年逢わずにいる母親の顔をふっと思い出し とだな り、その側に小さな物入れの戸棚があった。花キャベツが た。それじゃ、私のお母さんにそっくりだわ、と言うよう 一鉢あり、紙を使いやすく二つに折ったのが重ねて置かれな気持で、速雄のロもとを一心に見つめていた。握り合っ てのひら てあった。室の壁は灰色で冷たそうだ、これでいいのかしている三つの掌がじっとりと汗ばんで来た。速雄の皮膚 はつかん ら、と思う。 は絶えず病的に発汗しているようであった。 「僕の祖母さんはねーと速雄が喋り出した。その調子が珍「げんちゃんも嫁に行ったんだってさ。娘たちはみんな嫁 らしかった。彼は今まで自分の方からそんな風にして話に に行くねえ。同じ年位の娘たちは、僕たちを待っててくれ 乗り出す習慣が無かった。「どうしても僕に帰って来いとやしない。僕たちは、まだまだ世間に出ないでいるけど、 言うんだよ。仮名ばかりの手紙をくれる。山に雪が降った娘たちは、そうだろう、すぐに娘の限界ってようなものが とか、大根を漬けているとか、小作料の集りが悪いとか。来てしまう。そこまで来ると、どんどん嫁に行ってしま それから、どこの娘が嫁に行ったとか。そういうことを言う。だから、きっと、僕たちが一緒に同じ村で育って、同 って来る。娘って、色々いるんだよ。僕の好きだった娘もじような感情を持ち合っていた、つまり僕たち男の子にと いる。」 ってはとりかえようのない女は、僕たちとは一緒にならな くらびる いようになっている。それも中学を出てすぐ自分の家に落 そう言って、速雄はロの中がねばっくように、唇を動か して、片手を枕のそばの紙の方へ伸ばした。典子は素早くちつくようになれば別だが、僕みたいに東京に出て来たり しゃべ す ふとん