218 って行ける、という感じであった。誰でも自分の前に現わが光っているのだ。何となく心に箍でもはめられたように れる人間は、典子には、裸の、素直な心でいるように思わしている、と思われるあかねでの生活が、はっきり表情に 、ざ れる。そして、その人が言いたがっていること、言っても刻まれているらしい。気持が、眼の前にいる客の顔や表情 はず らいたがっている言葉などが、すぐ心に浮ぶのだ。だまつの方に飛びかかるように弾むのも、身のまわりを締めつけ て人の顔を鼎むように見るときは、ロもとまで出て来るそている箍のせいだと思われる。そしてどうして速雄のこと の言葉を、じっと噛みしめるように抑えてしまうときだ。 を自分は思い出せないのか、とあやしむのである。ここの す、ま 典子から見ると、人の心の中や、身のまわりは隙間だら生活を大して苦労だと思っているわけではない。それなの けだ。この店へやって来る青年たちは、皆、言ってもらい に、速雄のことや、叔父の家のことは、急にそこへ行くわ たい言葉を誰からも言ってもらえない、というわびしげなけにゆかないほど遠いことのように思われる。自分の心は あふ 顔になっている。でなくって、内側から溢れるような顔を目のさきにある雑多な客の表情や、満子や松子やマダムと いらだ している男たちは、自分の言いたいことを、苛立たしくぶの話や、仕事の受け継ぎ、それから走るように階段をの・ほ つつける相手を捜しているような顔をしている。ちらりとったり、下りたり、夜はくたびれてしまったれあがっ 人の顔を見ると、そういう表情の意味が典子にはよくわか た、脚をいとおしむように、前後もなく眠り込んだりする る。あの顔も、あの人も、あの後向きになった連中も、みことでつぶれてしまう。自分の眼は、そういうことに疲れ 、らし、り んなそうだ、と思う。すると、そういう人たちの欲望のよて苛々している内心を、そのまま語っているように思われ うな切ない気持が、いくつもいくつも自分の中に溜って苦る。絶えず自分の身体が弓のように張り切っていると思 しくなる。そういう色んな気持の一つ一つに答えを与えてう。 やりたい。そうしたらこの息苦しさは、すっととけてしま お豊と料理場の仕事をしていると、午後の閑散な土間に こっこっと靴の音をさせて、満子が調理場に入って来た。 うような気がする。そういう、こちらが苦しくなるから、 はず 客の顔や姿に何か言葉をかけてやりたい、という弾みのあだまって典子のそばに来て立ちどまり、低い声で言った。 る、いきり立つような気持で、典子は店にいる人たちを見「ね、来たわよ、清子さんが。」 まわしたり、満子の方を横目で見たりする。この抑制の気 えつ、という顔で相手を睨むと、息を呑むように首をま 持から、自分の眼が何となく光って来るようだ、と思う。 っすぐにした。満子が首を振って、入口の方だと知らせ ごろ この頃鏡を見ると、顔が少し痩せて来ている。そして眼た。そうすると典子は、調理場の細い扉を突きとばすよう たが
を、みんな一度に駄目にしてしまうのだった。恥しがるこ年が立っていた。あ、この帽子をかぶっていた、とすぐ思 とは、典子の、てきばきした態度や、明るい顔つきに似合 い出した。しかしその顔は、毎日街で見る無数の青年たち わなかった。しかし、典子は縁談を避けるために、やつばの平凡な顔の一つで、何の特色もなく、典子にとっては、 はず り間が悪いというような顔をして、するりと座を外すので何も特別な意味のある人になることのできない顔であっ た。ここにも一人青年がいる、と思うだけである。 あった。間が悪いような顔をしてやった、と思う。しか たた し、それでいて、どこか心の隅では、本当に間が悪いので そっと畳んで、膝の右手の畳にそれを置いた。 うち あった。そういう自分に典子は腹を立てた。速雄の茶碗で 「向うは、相当の店を張っているお家なんだよ。妹が二人 湯を飲んだとき、そういう自分への腹立たしさが、拭われ いるそうだが、それは、どうせ家を出るんだしね。市の商 たように消えてせいせいしたのだった。 業学校を出て、今年一一十七になるんだって。」 そういう話を聞きながら両手の中指をのばすように膝に 今日も叔母に言われて、あら、そんなことがあったわね しか かっこう え、それで、どうしたの、という顔を叔母に向けた。するおいているのが、叱られている時の恰好だと思った。だっ て、私、まだお嫁に行くのは早い、と言いかけて、それも と叔母はちょっと目をしばたたくようにして、 「だからさ。何とか返事しなけりゃならないのよ。安田さ言ってならない言葉だと思った。誰かにむかってそれを言 あご んの話だと、穏和しくっていい人だって言うんだけどねわねばならない、と心のなかを探った。白い顎の母の顔 ぶしようひげは と、じっと上を向いて寝ている速雄の不精髭の生えた顔と え、あら、お前さん見たんだってじゃないか ? ー 「へえ」と今度は本当にあきれたという顔で声に出して見が浮び上って来た。 「考えて見ますわ。」 た。「知らないわよ。見たこともない。」 ちゃだん 典子の言葉にはさからわず、叔母は身をねじ向けて茶簟典子はそう言った。 カ ひきだし き笥の抽斗から白い厚紙に張った写真をとり出し、それをぼ その翌日典子は、ちょっと今日は用がありますからと言 ひざ ひろ かすり のんと投げるように典子の膝に置いた。知っているくせに、 って、外の少女たちが膝の前に拡げている紅絹や絣の布の たび 間を、白い足袋で飛び歩くようにして、早引けをした。そ 典まあ、それもいいさ、とでも言うような態度である。 そっと手先だけ動かすようにして開くと、白いべらべらういう時、外の少女たちは、ちっとも仕事の手をゆるめず の紙があって、それをもう一度めくらなければならなかっ に無関心で働いているが、満子だけは、左手に針を立てる とりうちばう た。鳥打帽をかぶって、胸をびちんと合せて着物を着た青ように持ち、右手で糸を通そうと狙うようにしながら、ち おとな だめ すみ わら
「勤め先 ? 君はどこかへ別に勤める気なのか ? かげおお てる子はある商事会社に知人がいて、そこに就職するこ鈴谷の顔を暗い翳が蔽った。典子がだまっていると、彼 A 」・か、 ほとんどきまっているのであった。てる子は典子のは、続けて、 顔を見て、 「僕たちはどうなるんだい ? そのことを、ちゃんと考え 「あなた今日変ね。浮かぬ顔つてのはそう言う顔よ。私、てから、それから、君の勤め先の話なんか決めようじゃな 前からそう思っていたんだけど、私の入ることにきまって いか。」 いる会社ね、仕事を拡張するんで、もっと人がいるんだっ 「ええ、でも勤めって、いつだってよせるでしよう ? あ て。ことによったら事務の方も手伝うかも知れないって言 なたのお家の方のことがはっきりきまるまで、私は、やっ うんだけど、どう、行って見る気ない ? 」 ばりひとりで働いて行く気構えでいるの。 しいでしょ 「そうね。家庭教師っても、学科を見るだけではないらしう ? 」 いから、住み込むようなことになるかも知れないの。今日「うん、それは、そうしてもらうのも仕方ないけど。だけ 面会に行って見て、自分で気に入らなかったら、お願いすど」鈴谷は、ずっと顔を近寄せて、小声で言った。「君は るわ。」 僕を好きなのか ? 」 「うん、そうね。だけど、あんた、住み込みって窮屈で大典子は茶碗をとるように前に屈んだまま、一尺ほどの距 変よ。」 離で、鈴谷の眼をしっと見つめた。 てる子は、しげしげと典子をのそき込むようにした。 「好きよ」と典子は、鈴谷から眼をはなさないままで言っ 「でもね、ちょっと話がちがうのよ。明日になればはっきた。眼を伏せたら、自分の作りあけている気持がばらばら しゅうしゅう りお話できるけど。」 になって、収拾っかない慌てかたをしてしまうような気 「そう ? 」 がした。典子が一番訊きたいことは、「それで、あなたは まりまた おそろ 昼の休みに豪端の喫茶店で待っていると、鈴谷が蒼い顔どうなの ? 」ということであった。だがそれは柿しすぎて 言えなかった。そうだ、私はこの人を嫌いではないのた をして入って来た。 わ、と典子はすぐ眼の前にある鈴谷の顔を見ながら思っ 「昨日どうしたの ? 心配していたよ。」 「何でもないのよ。マダムが勤め先を紹介してくれたのた。嫌いではない。だから私は、与える人の死んでしまっ で、面会に行ったの。」 た今、それが原因になって誰かに縛られるという恐怖から きのう あお す あわ
はどうすればいいという目くばせなのだろう。大きな灰色道着がその起きばなをとらえて相手の両手をとり、自分か ともえ の幕が小屋の屋根になって頭上にのびており、その下に金ら後に倒れ、片足で相手を宙にはねあげて巴投げをした。 のふちをとった大きな額が掲げてある。「東西武道の精神」どさりと裸体の男がグラヴをはめた両手をついて大急ぎで まゆ と太い字がやつばり金で書いてある。 身をおこした。あえぐように口をあけ、眉がよせ集まり、 そのとき急に楽隊がやみ、ドラががんがんがんがんがん真赤に充血した顔が真正面に見えた。 と鳴り、正面の幕が六尺ほど上がったので、小屋のなかが それはウラジミルだった。私はあっと声をのんだ。ウラ 見えた。白い柔道着をきた髪の黒い小男が裸体の背の高い ジミルは四つんばいになるぐらいに上体をさげて用心しな かみこ 男と戦っていた。裸体の男はむこう向きになっていたのでがら、こちらを向いて、紙子を着た人形のような柔道着に 顔は見えなかった。裸の背中の左右から腕がたがいちがい しだいに近づいて来た。それは私の顔をまっすぐに見てい に突き出されるのであった。こちらを向いている小男は真た。その黒いグラヴは私のほうにまっすぐに狙われてい ねら 青な顔になって、その腕をつかまえようとして狙ってい た。ふだんの顔には一度も見たことのない、歯をくいしば こぶし た。拳は一一度三度と、彼の鼻や目のあたりにうち当てらってひん曲げた彼の顔は、私のほうをおそおうとしている れ、その目のあたりがそのたびに黒ずんでゆくようだつのだ。ウラジミルは、その柔道家を飛びこえて、まっすぐ にら に私の顔を睨みつけ、私を打とうとしているようだ。 た。だがその小男の顔はじっと耐えていた。拳の下をかい くぐって相手のからだに近づこうとしていた。黒い髪は額一瞬ウラジミルの右腕が動き、柔道家のいるこちらへ彼 に、目に垂れさがった。とうとう相手の片腕がっかまえらのからだが飛びかかって来た。はっと思ったとき、今まで れた。それを肩にかけて、白い柔道着の背中がまがった。 引きあげられていた幕はさがり、舞台は見えなくなった。 かつぎ上げられながら、赤い靴の長い足が空中でさかさま中にいる見物の声だけが、わあっとはやし立てた。冷たい 街に動いた。 湿気がじとじとと私の背中に感じられた。今のうちに逃げ の私は目をつぶった。そのとき、どしんという大きな音が だそうとった。あれがすめば、私を見つけたウラジミル した。裸体の男が板の間に叩きつけられたのだ。わあっとはここへやって来るにちがいない。その前にこのあたりか 幽 小屋の向こうの壁に満ちている見物人の顔がわめいたのをら姿を隠してしまおう、と心をきめた。私は広い見とおし 私は目をひらいて見た。拍手がおこ 0 たが、それは不自然のきく埋立の道路をでなく、小屋がけのテントの陰や倉庫 に中絶した。裸体の男が立ちあがったのである。今度は柔の軒下や裏手をまわって、久枝の気配をうかがった。だが たた
いたように一一階へ呼び上げた。 胴のまわりをすこしつめることにしてそれはどうにか片づ 「これ着て見なさいよ」と自分の六畳間の障子にそうて置いたが こうかけ かれてあった衣桁掛から、濃いモーヴのサチンの服をとっ 「このままの髪じゃねえ」とマダムが、典子の後ろにまわ て、典子の胸にあてて見た。典子は、自分の顔が木像のよって見、少女のお河童を少し長くしたとしか見えない髪に うに感動のない、平べったいものになっているのがわかっさわってみた。 ぶしようひげは まゆ た。眼の前にまだ不精髭の生えた速雄の顔が見えるような典子の眉のあたりがびくりと動いた。よして ! と叫び おさ 気がするのだ。 出すところであった。やっとその衝動を抑えると、心臓が えり 「いいようねえ」と左手で襟のところをおさえ、一足退いどきどき鳴り出し、今にも自分がどうかなりそうであっ て身体を開きながら、首を後の方に曲げて、「似合うわよ」 た。怒ったような顔になるか、と思ったが、いつもものを ほこり たた と、とんとん典子の胸を、埃をはらうように叩いて、焦れ思いつめるときのじっと一点を見つめる眼つきをしてい ったそうに言った。 た。それがいやなもの思いに一番よく耐えることのできる 「笑いなさいよ、すこし。」 顔であることを、典子は知っていた。 すると、その言いかたにある、津田の叔母のような押し「そうねえ、あんた、ウ = ーヴをかけるつもりで伸ばして つけがましさのために、典子の顔には、すぐ微笑が浮んるんでしよう ? 」 だ。そのとき、彼女は、自分の顔についた面のようなもの ぶるっと、また典子は頭を横に振った。そうだったの がこわれたような気がした。まだ、ふだんの顔に戻れもし だ。ウェーヴをかけて見よう、というつもりだったのだ。 さわ ないでいるのに、と典子は、いまさっき速雄と別れてから だが、今は、ただ頭を横にふりたかった。触っちゃいや、 たの時間を、まだ一時間にもなってはしない、と考えるので いや、という衝動をおさえることができないのだ。そし カ あった。 て、そのことをまともに言わず、髪のことだけ否定した自 すそ 生「どれ、私にも見せて」と、そこへ満子が、 ドレスの裾を分が、卑屈に思われて悲しかった。 冫いつもこうして自分をいし 子つまみあげて、どたどたと階段の音を立てながら上って来本当に切ない気持のときこ、 こ 0 加減になだめ、他人をごまかして来たような気がした。そ して、これから、きっと、こういうことを、何度もしなが 「いいわ、似合うわ。着てごらんなさい。」 典子は着物を脱いで、そのびかびか光る服を着て見た。 ら生きてゆかねばならないのだと思った。きっと、こうい かつば
うことなのだ。生きるというのは、こういうことなのだ、 くちびるか 四 2 と典子は唇を噛んだ。そういう気持とは別に、そのとき、 明るい明るい声が彼女の唇から出た。まるで歌のようだ、 下着類や手まわりのものを多少持ち出したきりで、典子 たんす とちらと思ったほど、んだ声だった。 は、ほとんど着のみ着のままであった。簟笥の中にあるも 「でも、私、して見ようかしら。」 のは、何一つ持ち出すことができなかった。見あきた表 「え、そうなさいよ」と、今まで典子がむつつりしていた情、なれすぎた家、足音を聞いただけでそれと解る叔父の のを気にしていたらしいマダムが、その声に機がなおっ家の人たちから離れては、どうして自分で生きてゆける たように言った。子供なんだからまるで、とでもいうよう 、刀 はっきりしなかった。でも、そうしなければならない つか のであった。 に、典子の弾んだ調子をちゃんとそこで掴んだ。 典子は、自分の眼がうるんでいるように思い、できるだ そうだ、こうならなければならないのであった、と典子 あふ つまさ け大きく眼を見開いていた。そうしなければ涙が臉から溢は自分に言いきかせながら、爪先までかかるモーヴの長い 、、、れんが れでもするように。そうして眼を見開いていると、顔も笑ドレスを着て、あかねの煉瓦を敷いた土間を茶を配って歩 顔にし、声もはずませねばならなくなるのだ。 いていた。本当にそうしなければならなかったか、と何も 「私、でもウェーヴして似合わないと困る。ああ、そう、 のかが彼女に言うのであった。するとはっと、立ちどまっ だめ まだ駄目よ。今日そんなことしたら叔母さんにすぐ見つかて、あたりを見まわすような気持になる。自分が茶を配り ってしまう。」 ながら、かたい顔をしているのがよくわかる。でも、そう 「あら、いっから来るの ? 」 いう顔をしていると典子は典子流に安心なのであった。自 と、典子が包みを解いて、下着類をとり出して手早く、 分の眼がすこし強いため、頭をぶるっと振ったり、ロを引 前に持って来てある包みへ入れるのを見ながら、マダムはきしめたりしているとき、きつい顔になってしまうのがわ 訊いた。 かっている。その顔つきで典子は、私に近よるな、私に近 「明日参ります」と典子が、マダムに宣言するように、そよるな、と言って歩いているように、我ながら思われるの っちを向いて言った。 であった。その顔ならば、たいていのものを、押しのけら れるという自信が、いつの間にか出来ている。 そうして、きっとなって歩いているときは、満子も、マ ず デん まぶた
その音がびびぎわたると、たちまち遠い地平線のあたり く、彼らの芸術の優劣の順序のままに、背の順にならぶ小 引に津波のような大きなざわめきが起った。無数の人が寄せ学生のように行儀よく並んで、こちらへ歩いて来るのであ ゆかたげた て来た。しだいに近づいて来るのを見ると、浴衣に下駄がった。 け、白麻の洋服、モオニング、フロックに山高、角帯に鳥その先頭に立っているのは目のしょん・ほりした小柄な老 こんがすりしろた * あかし 打帽、明石の着流し、ステテコに網シャツ、紺絣に白足人で、たしかにどこかの写真で見たことのある顔であっ * ろ はかまひょり 袋、絹セルに絽の袴、日和下駄に洋傘、などのあらゆる服 た。見るとその老人は手に黒い小旗を持っていた。それに さるすべり 装をした文学者、作家、詩人の群れが八方からこの石紅は白抜きで、 L'académie Quappaise と書いてあった。そ 、ぜん の木をめがけて押しよせて来たのだ。彼らは見るみる = 床然のンぐ後にいるのはまた顔の長い大男で、これも何かの大 として審判の秩序にしたがって一列縦隊に並んだ。それは家として一度写真で見たことのある顔であった。それから ちょうど野球場で切符を買う人間のように、一人ずつ順序ずっと丸い顔や長い顔や、金ぶち鉄ぶち、鼻眼鏡などが並 よく、その末が見えないほど長い一本の列になっていた。 んでいた。気をつけて見れば、その黒い小旗を持っている 最後のあたりは電光形に左右に折れながら地平線の向こうのは。ほっり。ほっりと後のほうまでとびとびに十人ほどいる まで達していた。 のであった。中にはそれが投げすてられて泥に踏まれてい 見たまえ、これが、いかに美しく書くかという論理るのもあった。顔に顔がかさなりあって続いており、それ にもとづく文芸の審判だ ! この厳たる芸術の順位のきびらの目が異様に光っているので、私はどうしても彼らの順 しさを、そして何びとが前におり、何びとが末尾におり、序を冷静に見さだめることができなかった。 だれがどのへんにいるか、目のあるものは今こそ見たま今までしんと黙ってこの列を見ていた芥川龍之介は、手 にしていたラッパを百日紅の枝に引っかけると、別な枝か え。この順列をとくと十分に見とどけたまえ ! 」 私は目がくらみ、芸術にくだされたこの恐るべき審判をら黒い長い筒になっている望遠鏡をとって、列の諸方を探 見るにたえない気持であった。こういうことがありうるだ索しはじめた。彼の河童ふうの顏はしだいにいらだち、気 ぶんごうあお ムせいしゆっ ろうか。そこには一世の文豪と仰がれ、不世出の詩人と呼狂いじみたものになって来た。彼は観客のほうを向き、声 ばれ、無双の天才と言われ、一代の鬼才と称されている人をかけた。 間たち、私がふだん雑誌のロ絵で見たことのある顔や、先 どなたか、ここへ来て望遠鏡をのぞいて見たい人は ほど映画に出ていた人間たちが、何の不平も言うことなありませんか、だれでもいいです。現代の日本文学の相を ト - 要ノがき、
来た女中が二人を廊下のつき当りの洋間にとおした。片側もし 、と、う風に、カーテンのかげから現われて、当惑したよ がヴェランダ風に縁側に続いていた。 うな笑を浮かべると、びよこんと頭を下げ、それからこち しばら 暫くして、さっきの女中がヴェランダの方から茶を持つらを向いたまま、そろそろと横歩きにまたカ 1 テンに近づ て来るその後から、忍び足で、 き、素早くそのかげに隠れると、 「あっ ! 来たよ、来たよ」と言う子供の声がした。小さ「やい、待てーっ ! 」と呼びながら、ばたばた駆け出して な男の子の頭だけが、茶色のカーテンのかげからのそい 行った。そして大分離れたあたりで、わあっと騒ぎ、どど こ 0 どどと板を踏みならす音がした。 「よせったら。ほんとかい ? ねえ、ちょっとねえ」と別典子は、さっき睨んでやったことに満足していた。男の な声が言った。そして前の頭の上から、もう一つ男の子の子だったのか。よかった。男の子でよかった、と思った。 顔がのそいて、くつくっと笑った。 「これ、これ、静かにしなさい」と、その騒いでいるあた 典子は、そのカーテンの襞の横に二つ重なっている顔をりで砂田の声がし、やがて彼が音もなく、ヴェランダの方 見ると、ふき出しそうになった。二つとも砂田の顔をそのから現われた。 まま幼くしたような、言葉づかいのぞんざいさとは、すっ 「ああいう男の子二人ですからなあ、骨が折れるのです よろ かり別な、気品のある顔をしていた。その同じような顔のよ。一つ宜しくお願いします。」 こつけい 重なったのは、愛らしく、滑稽であった。思わずこらつ、 砂田は、典子が全然その仕事への不安などを持っていな ようす というような睨みかたをした。 いと信じている様子であった。 「睨んだ、睨んだ ! 」と小さな子が、反応のあったのに大「ところで、砂田さん。例の委員会の件ですが、あれは、 喜びで、ばっとカ 1 テンのかげに隠れた。それからまた少私の方からも手をうっておきましたが、一つ別な方向から しずつ耳、炊っぺた、片目という風に顔を表わし出した。 指導して頂かないと、今の委員たちでは仕方がないと思い 「やあ、坊っちゃん、いらっしゃい 。この方が先生ですますがなあ。」 ええ、ええ、という風に砂田はうなずいていたが、格別 谷がふり向いて声をかけた。 返事をするでもなかった。そして、ちょっと考えるように 「やだーい」と小さな子であろうか、 ばたばたと捕まってして、 は大変という風に駆け出した。大きい方の子は、仕方がな 「では、ちょっと典子さん」と、さしまねいて先に立っ ひだ
あげて満子の家へまわって見た。満子の家まで行かないう「そうね」とその典子の真剣さが、やっとうつったように えばおり ちに、春の絵羽織を着て、すこし季節には早くて寒そうな満子も真顔になり、「じゃ、ええと、行って見ましようよ、 すぐ。私、夜になってから行くつもりだったけど、 顔をした満子が歩いて来るのに逢った。 「あら、どうしたの ? 」 わ、今からでも、ちょっとここで待っててね。」 ところ 「あなたの処へ来たのよ。」 満子は路地を曲って、小走りに自分たちの間借りしてい 満子の眼は宙でくるりとまわり、考える表情になったる家へ戻って行ったが、間もなく戻って来て、典子と一緒 に電車に乗った。 、刀 「私、今日から伯母さんの店へ出ているのよ」と、他人じ神田橋の近くから、斜に路地裏を駿河台下の方に抜けて みた離れた表情になった。楽しく、うきうきした顔であゆくと、こんな処に、と思う裏通りに四五軒、喫茶店が並 る。 んでいる。あかねというゴチック風の文字が、黒っぽい城 「ね、私」と言いかけて典子は言いしぶった。だが、後へ門風につくった扉に打ちつけてあった。それをぎいっと押 ムところ はだ して入ると、中は客が一人もいないがらんどうである。と 戻ろうにも自分には戻る懐がないのだと思い、肌の白い たた んとんと二段低くなり、薄暗い叩きの土間に、程よく椅子 髪の赤い、この心の薄っぺらな友達にとりすがるのだと、 とテープルを置いてあり、壁にはマントルビイスがある。 眼をつぶる思いで言いつづけた。 ただ 「もう家を出ようと思うの。あんたの伯母さんのところへ但し火は焚いていない。炉の形だけである。そのマントル ・ヒイスに続いて、奥との仕切りがあった。その下の抜け穴 置いてくれないかしら ? 」 いたずら 「あら ! 」と、満子は、ひどい悪戯をしている友達を見つを器用にくぐり抜けると、 けた腕白小僧のような、驚きと満足とを一緒にした顔にな「伯母さん、ただいま」と満子が大きな声を出した。 り、それから一歩近づいて、声を低くした。 「だあれ」と奥で太い女の声がしたが、そこへ満子と同じ ふと けんか ような白い肌の、むっちりと肥った四十あまりの女が顔を 「本当 ? どうしたの ? 清子さんと喧嘩したの ? 」 「ううん」というふうに頭をふって、典子はそれに答える出した。 よりも相手の顔を熱心に見つめていた。ただ面白がってば典子は、土間の真中に棒立ちになって、自分の運命が現 かりいる満子の顔つきの、どこかに自分のすがれる処があわれるのを待ちうけるような、つきつめた顔で、くるりと ねむ るかを、捜そうとする真剣さである。 眼をむいて見ていた。いかにも睡たいというようなだらけ はだ
262 ら、父母がうるさく結婚をすすめて来るのだが、いっ応召分に与えてくれた心の頼りは見出せなかった。 なか するかも知れないという理由で断っていること、舎には典子は自分は顔だけでも、何かそういう表情をさっきお 弟が二人、妹が一人いて、やがては彼が家を継ぎ父母を見豊に見せたかしら、と思いながら鏡をのそいて見た。蒼く なければならないこと、だから、父母は彼の結婚の相手に疲れた、生気のない顔であった。肌がざらざらしてきめが 荒く見えた。典子は、誰にも見られないうちに隠してしま ついては、割にうるさく言うかも知れないことなど。 と思い、紅を濃目に刷いてその上か 結局、自分で考え疲れて、何をどういう風にときめられわなければならない、 おしろい ないのであった。また明日でも逢ったら、と、先ず鈴谷にら白粉を塗った。すると、。ほっと上気した、変に不自然な 逢うことを考えの前提にしてしまうのであった。あかねへどぎつい顔になった。それを見ると、むしやくしやして、 自分の顔をひっかいてしまいたいような気がするのであっ 来るとお豊が店の中を掃除していた。お豊の姿を見ると、 た。典子は、自分の室に息をころして、ひっそりと静まり 典子は、 「あら、早いわね、マダム起きた ? 。と明るいふだんの自かえ 0 ていた。誰も来なければいい、誰にも顔を見られた くないのだ。 分に戻って声をかけ、さっとその傍を通り抜けた。そのと いぶか きお豊は、おやと訝るような眼を典子に向け、しかし顔「典子さん、御飯すんで ? 」 「ええ、叔父さんとこで食べて来たわ。」 は、ねむたげな不興さから抜け切れないままで、 そう言ってから典子は、なぜ自分はこんなことを言った 「ええ ? まだよ」と言ったきり口をつぐんでしまった。 わかっているわよ、というようなお豊の顔つきを後にしのだろう、叔父さん、と言わずに、な・せただ食べて来たわ と言わなかったのだろう、と逃げて行ったその一言を追い て、典子は一一階へ上って行った。こんなことは何でもない いらだ んだ、私のことを外の人たちがどう思おうと、それに第かけて捕まえ、押しつぶしてしまいたいような焦立たしさ 一、私にとって、これは何でもない経験なのだと、典子に襲われた。 いつもの朝の順序で物事が運んで行った。マダムは十時 は、ふだんの自分の明るい調子を心の中で捜しもとめるの 、つ。よ、つまっていた場頃起きると、室の外から、ふだんとちっとも変らない声 であった。だが、今まで、何かがしをし 第、第ノはは′、 てごた 所はみな空漠としていて、何も手応えがなかった。荒涼とで、 荒れはてていて、誰もそこには住んでいないような気がす「典子ちゃん、叔父さんのとこへ泊ったのね。」 るのだ。速雄はどこへ行ったのだろう。どこにも速雄が自「ええ、お知らせしようと思ったのですけど、遅くなって ほか ごろ あお