3 右早大の漕艇部機関誌 と同誌九号に掲載された 英光の文章 ( 昭和十一年 ) を : 晉 早稲田第二高等学院時代 ( 昭和 5 年ころ ) ある。この意味において田中英光の文学は、青春その ものの文学であるということかできよう 青春の一一側面 「オリンポスの果実」と「青春の河」 田中英光は大正二年、凍京に生まれた。父は高知県 出身の文部省緲新甦編咸、編纂嘱記 ( 従五位高等 、わさきひてしげ 官五等 ) 岩崎英重であった。田中姓を名乗ったのは、 ろ ひとり娘であった母方の家を継ぐ約束があったためで ある。兄姉のなかには十歳年長の兄英恭がいたが、こ の兄には文学や思想の上で多大の影響を受けるように 0 なる 文学少年で、十三歳の頃書いた詩が「赤い鳥」に掲 英載されたり、中学時代は兄姉と文集「わたくし達」 りゅうせいどっ こはるびより 人友人も加えて「小春日和」他に「龍精洞」「素描」な せんりゅう どを作り、主として作句、川柳、短歌、自由詩、感想 よ文などを発表していた。 早稲田第二高等学院に入学後間もなく、人一倍大き な体驅がポート選手にむいているとの周囲の意見や、 そうていぶ 員軟弱な身体を鍛えなおしたい希望などから、漕艇部に たん に乗った。 ( この頃の生活は「端 入り、はじめてポー くわ ていそうしゅ 漕艇漕手」に詳しい ) これが昭和六年、早大クルーの全 早日本選手権取得から、翌七年ロサンゼルスで開催され 0 442
れつ しての烈な体験を、今のばくに味わえといっても無 理なのだ。そのことについては田中英光全集第一巻の しまらしんころう 解説に述べた。つまり田中英光は原慎郎より、は るかにほんもののスポーツ選手の体験を知っているこ とを 選手になるまでの英光の幼少年期の生活は、ほくの 生活体験とそう違わぬ。むしろ親近感さえおばえる。 大正二年、高知県の維新史研究家の次男として東京の 区 関赤坂に生まれ、渋谷の加計塚小学校に学び、一家が鎌 しさつなん 倉に移ってから、鎌倉小学校、県立湘南中学校に学ぶ。 ころ 石原慎太郎も学んだ関東の名門校である。その頃から 少家族たちで同人雑誌をつくる文学少年であったが、早 稲田高等学院に入学するやもやしのごとく背だけ伸び 区 関 た六尺豊かな体を鑑しようと志し、ポート部に入り、 津死ぬようなしごきの猛練習に耐え、ついに第十回ロサ ンゼルス・オリンピック大会のエイト・クルーの選手 る あ に選ばれる。その往復の、多感な彼は女子陸上選 手と恋愛する。ほかの選手たちに中傷されながらの懸 構 の恋愛を描いた「オリンポスの果実」は、日本文学 駅 津 の権れな青春文学のル保として、いまなお世評に高 線 鉄 彼はその後華やかなオリンピック選手のあり方に疑 国 いを持ち、兄の影響で共産党に近づくが、その末期的 4
右昭和 9 年、築地座の京都公演評「『 26 番と 0 おふくろ ~ を掲載した。劇作第当当 = 第 ' 「 1 月号下三高時代右より山本修一 教授 2 人おいて川口一郎 ( 「 26 番館」の 作者 ) そのとなり作之助 ( 昭和 8 年 ) に夢中になり、やがては自ら劇作家たらんと決意する によって、大きく花開いたことは想像に難く までに至るのである。ある亠思味。において、彼はこのと 旧制中学の英語の教師にでもなろうかという地道オ ほんぼう きはじめて、文学、芸術の魔力にとりつかれたといっ考えを持っていた織田作が、あのような奔放な無頼派 てよいだろう。事実、山本修二教授は語の完全な意味の作家になってしまった転換点は、それ故、この三高 でのディレッタントであり、芸術至上主義者であり 時代の山本教授との出会いをきっかけにして、その後 織田作の芸術家的資質が、この先生の魂に接すること に展開された文学好きの友人たちとの交友のなかにこ らんる そあったと思われる。すなわち織田作の青春襤褸の序 幕である。 さて、ひとたび文学、芸術の魔力に捉えられてしまっ た作之助は、学業がつまらなくなり、欠席勝ちとなり、 学校の近所の喫茶店で文学放談に熱中して日を送るよ しつかん うになるかてて加えて以前からの胸部疾患が進行し、 卒業試験最中に喀血、原級留置、転地療養などを経、 再び学校に戻ったが、相変らすの放埓な生活で、学校 どうせ、 近くの酒場に勤める女性と知り合い同棲生活に入った りし、結局三高を退学する しかし放埓な生活といっても、作之助のそれはいわ しょ・つ・て・フ ば暗い青春である。内心の焦躁を誤魔化すための放樅 といってもよかった。病気に対する不安もあったろう。 それに何よりも経済的な問題がそれにからんだ。作之 助は三高の二年のとき父を失い、母もそれ以前に死ん でいたので、姉の、というよりも結局姉婿、義兄から たびかさ 学資の支給を受けねばならなかったのであるが、度重 t 1 かつけっ ほ・つ・らっ むこ
412 スキーへの関心が高まる。九月、父鶴吉死去。三高文芸部に入る。 ここで青山光一一と知り合う。十一一月、評論「シング劇に関する雑 稿」を「嶽水会雑誌」に発表。白崎と同宿、昼夜文学を談じ、文学 が主、学校が従となる生活が著しくなる。 昭和八年 ( 一九 llllll) 一一十歳 三月、戯曲「落ちる」を「嶽水会雑誌」に発表。一年休学し九月に 復学した青山光一一とともに「嶽水会雑誌」の編集に従事。この前 大正ニ年 ( 一九一 lll) 十月一一十六日、大阪市天王寺区上汐町に、父織田鶴吉、母たかゑの後、同誌に作品を発表した者には、西口克己、北条元一、森本薫、 田宮虎彦、野間宏らがいる。野間は富士正晴、竹之内静雄と別の同 長男として出生。父は魚鶴という仕出し屋を営業。 大正九年 ( 一九一一〇 ) 七歳人雑誌「三人」を発刊し、織田、青山、白崎の三人と寺町鎰屋での 四月、大阪市立東平野第一尋常高等小学校 ( 現、市立生国魂小学校 ) 「嶽水会雑誌」合評会を中心に相対峙し、しばしば激論をたたかわ す。十一一月「純粋戯曲論ーを同誌に発表。ようやくこのころより劇 に入学。 十三歳作家たらんとする志高まり、教室は欠席が多くなる。 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 昭和九年 ( 一九三四 ) 二十一歳 四月、大阪府立高津中学校 ( 現、府立高等学校 ) に入学。 昭和五年 ( 一九三〇 ) 十七歳一月、築地座京都公演評を「劇作」に発表。一一月、卒業試験中に、 下宿で喀血。三月、東大英文学科に入学願書を出すが、三高卒業を 十一一月、母たかゑ死去。 昭和六年 ( 一九三一 ) 十八歳認められず、原級にとどまる。大阪に帰り療養。同じく、肺疾で休 第三高等学校 ( 現、京大教養部 ) 文科甲類に入学。英語の成績が最も学していた白崎とともに紀州白浜温泉に転地保養。九月、小康を得 良く、アイルランド劇研究家の山本修一一教授に親近したりする。こて帰京するが、一層教室には背を向けた学校生活が始まる。三高近 くの映画監督徳永フランクの経営する酒場「ハイデルベルク」に勤 のころ近代劇に興味を持つ。作家になろうという気持はまだなく、 める宮田一枝と知り合い、同棲生活に入る。 漠然と中等学校の英語教員としての将来を思い描く。 昭和七年 ( 一九三一 l) 昭和十年 ( 一九三五 ) 十九歳 一一十一一歳 ひんばん 同級の白崎礼三、瀬川健一郎と頻繁に寺町京極界隈を彷徨する。白卒業試験を受けず、白崎、瀬川とともに再び原級にとどまる。愛人 崎の影響を多く受ける。ランポー、ヴァレリー等を読み「椎の木」宮田一枝との生活により独自の女性観・恋愛観を確立する。 同人として詩作を発表し、純粋詩を語る白崎に対抗して、純粋戯曲昭和十一年 ( 一九三六 ) 一一十三歳 くこお を考え、ポルトリッシ = 等のフランス戯曲、チェホフ劇、岸田士一月、青山、白崎、瀬川らと同人雑誌「海風」を創刊。同人には他 に傾倒、また小林秀雄に私淑し、ポー、ポードレエル、ドストエフに、柴野方彦、深谷宏、太田道夫、池田進、のちに小川正巳、杉山 織田作之助年譜 ししゆく くたま かつけっ かぎや
村 ケ て 後 左 人 目 ことが出来るだろうか。それが出来るものは、もはや、 むえん 文学とは無縁の徒である〉と述べ、この何かにつなが ろうとする苦しいあがきは〈美しからざる現実〉のな かで〈美しさを追い求める〉こころだとし、このいわ ば〈魂の故郷〉とでもいうべきものを現実生活のなか ひん はめつ で追い求めようとする悲願の故に英光は破滅したのだ という。〈だが、魂の故郷ははたして死以外の場所に はあり得ぬのであろうか〉というのが田宮の歎きであ る この二人の作家が田中英光の死に対して示した姿勢 は、取りも直さすわれわれが英光の文学に接した際に むしゅん たんてき いだく、ある矛盾した気持を端的に表現してはいない だろうか。われわれは田中英光が、現実にむかう態度 の弱さ、甘えに焦ら隹 ~ らし、しかしそれにもかかわら す、このような弱さ、甘えが求めるところの純粋さに 心を奪われる。 人間のもっ夢や純粋さが、現実のわい雑さにはじめ て触れて傷つく時期、それが青春である。社会の機構 げつこう や家庭の束縛は、青年を激昻させ、彼を反社会的な行 い一い、」 ~ 洋に一 ~ ( 」一に」一為に追〔こむ。しかし問題はそれから後である。そう 中学時代、兄や姉たちと家族して青年は現実に傷ついた自らの魂を、さまざまな挫 詩・短歌・ 文集をつくり、 折の形態によって、自らの内部に封しこめる、ないし 4 せん 0 ゅう 句・ 川柳などを載せた。その は処置する。田中英光はその処置ができなかった人で りっせいどう 一つ「龍精洞」と英光の作品 第を■ををー 湘南中学校 5 年生のころ
408 四月、栃木県足利中学校に入学。 昭和三年 ( 一九二八 ) 十六歳 四月、福岡高等学校に入学。生母とみが福岡市の平尾浄水場前の高 岩家に再婚していることを知り、ひそかに女学生らと連れ立って、 その浄水場の公園から、母の姿を俯瞰することを愛好する。が、名 乗って再会することは避ける。この年 ( 社研メン・ハ ことから一週間の停学処分を受ける。 明治四十五年・大正元年 ( 一九一一 l) 十八歳 一一月三日、山梨県南都郡谷村町三五九 ( 現都留市 ) に父三郎、母昭和五年 ( 一九三〇 ) りん とみの長男として出生。「自伝的回顧」によれば〈父方の古賀氏は吝「或家の断層」ならびに「詩」が文芸部の懸賞一等に当選。 十九歳 飜封建的気風の濃厚な立花藩の士族、母方の本戸氏は天草の叛徒昭和六年 ( 一九三一 ) まっえい たまわ 本渡守の末裔、のち有馬藩に出仕して本戸の姓を賜った〉とある。同盟休校のストライキに参加、一カ年の停学処分を受ける。「自伝的 父三郎は技師として谷村の工業試験所におり、本籍は福岡県山門郡回顧ーによる〈最も永い学生生活を強要された〉とはこのことであ 沖ノ端村大字沖端 ( 現柳川市 ) 。爾後、父の転任と共に、東京 ( 谷り、宇土半島の山寺で過したり、天草の五所の浦に渡ったりした。 ーベンハウエル、小林秀雄、横光利一などを耽読。 中 ) 、福岡、久留米、足利等を転々とした。 大正六年 ( 一九一七 ) 五歳 昭和七年 ( 一九三一 l) 一一十歳 ひろさ、 父の弘前工業学校赴任と同時に、母方の実家福岡県一一一井郡国分村字四月、東京大学経済学部経済学科に入学。在学中ほとんど出席せす 野中に預けられる。翌年四月、国分小学校に入学。 坪井与、内田辰次、水田三郎らと新宿区上落合に借家、、ポヘミャン 大正九年 ( 一九一一〇 ) 八歳的な共同生活を営む。 二十一歳 父が栃木県足利工業学校に転任のため、足利市の両親の膝下に呼ば昭和八年 ( 一九三 = I) れる。足利市柳原小学校に転校。 八月、庄野義信から誘われ、同人雑誌「新人 . の同人となる。十月 九歳「此家の生格ーを「新人ー創刊号に発表。同作は瀧井孝作、林房雄 大正十年 ( 一九二一 ) らに称賛される。古谷綱武、尾崎一雄らと知り、太宰治との交遊が 九月、母が一雄と三人の妹たちを残し、若い医科大学生と出奔。 大正十ニ年 ( 一九二 = l) 十一歳はじまる。十一一月、佐藤春夫を訪ね、以後門弟となる。 一一十一一歳 六月、有島武郎、波多野秋子の心中事件に衝撃を受ける。九月、東昭和九年 ( 一九三四 ) まん 京の災害地を遍歴、それとなく母の足跡を尋ねるが不明。春夏冬の四月、古谷綱武と季刊文芸誌「」を創刊、同誌に「永井龍男氏の 近業に就いて」「退屈な危惧」を、七月「エスキス・スタンダールに 休暇には毎年沖ノ端の祖父母の家に行く。「白秋全集」を耽読。 大正十三年 ( 一九二四 ) 十一一歳ついて」「美しき魂の告白」を発表。「鷭」は、この第一一輯で廃刊。 檀一雄年譜 たけお くーめ ムにん ゃながわ じご ムかん
昭和 21 年 10 月「世界文学」に掲載 された「ジュリアン・ソレル」 ( 右 ) と、昭和 22 年 1 月「可能性の文学」 が掲載された「世界文学」 作粤 2 、サアンすツレル れいⅡぃ Book 丁度ま 4 ・、ムとすーうルミ 1 , つみ 亠局 ふさ 1 ゞ穴 ! ミイ尹スフのし ノ 7 ・穹キ第 : なをす第晉 ) ~ 、 ) ーよ、。十まい 上喫茶店にて執筆中 ( 昭和 21 年 ) 右逝去の前年街頭で左作之助十七回忌に際し、法善寺 しようべんたご 横丁正弁丹吾の前で行われた文学碑除幕式 ( 昭和三十八年 ) 日義 R 第 4 ・第
414 て自ら脚色、松竹で映画化。八月、妻一枝死去、悲嘆にくれる。九十月、評論コ一流文楽論」を「改造」に、評論「ジュリアン・ソレ 月「螢」を「文藝春秋」に、十月「日記」を「新潮」に、十一月ル」を「世界文学」に発表。十一月「中毒」を「新生日本」に発表。 「高野線」を「新文学」に発表。 同月、「土曜夫人」の舞台が東京に移行するのに先立ち上京、銀座 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 三十一一歳裏佐々木旅館に宿泊、執筆と訪問客の応対に忙殺される。はじめて 一月「ニコ狆先生」を「サンデー毎日」に発表。同月三十日より一一一林芙美子、坂口安吾、太宰治と柤識る。評論「可能性の文学」を書 日間連続放送劇「猿飛佐助」を脚色、放送。一一月「猿飛佐助」 ( 火遁き終えると同時に喀血、絶対安静を命じられる。十一一月「可能性の の巻 ) を「新潮」に、三月「猿飛佐助」 ( 水遁の巻 ) を「新文学」に文学ーを「改造」に発表。「世相」を八雲書店より刊行。歳末、東 うのこうじ 発表。同月、宇野浩二、鍋井克之、藤沢桓夫との座談会「大阪と文京芝田村町の東京病院に入院、病勢は次第に悪化する。 三十四歳 学」に参加 ( 「歴」四号、昭和四十一年五月に発表 ) 。十一月「髪」を昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 「オール読物」に、十一一月「表彰」を「文藝春秋ーに、「見世物」を一月、吉村正一郎との対談「可能性の文学」を「世界文学ーに、「大 「新世界、に発表。この年「十五夜物語」を「大阪新聞」に連載。阪の可能性、を「斷生」に発表。一月十日、東京病院で死去、大阪 西鶴現代語訳「世間胸算用」を完成。 市天王寺区の楞厳寺に埋葬される。一一月「船場の娘」がコ・ハルト社 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 三十三歳より、「妖婦」が風雪社より、三月「怖るべき女」が実業之日本社 一月「土足のままの文学」を「文学雑誌」に発表。「猿飛佐助」をより、「天衣無縫」が新生活社より、「夫婦善哉」が大地書房より、 四月「夜光虫」が世界文学社より、「夜の構図」が万里閣より、「土 三島書房より刊行。一一月、笹田和子 ( 声楽家 ) と結婚、宝塚に住むが、 十日ばかりで大阪の義兄竹中方に帰り、京都へ行く。ちきりや別曜夫人」が鎌倉文庫より刊行。八月、評論集「可能性の文学」がカ ホリ書房より刊行。 館、涯荘等の旅館を転々とする。三月「六白金星」を「新生」に、 「アド・ ・ハルーン」を「新文学」に、四月「神経」を「文明ーに、「世昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 相」を「人間」に、「競馬」を「改造」に、「夫婦善哉後日」を「世七月「合駒富士」を大仏舎より、十一一月「それでも私は行く」を大 界文学」 ( 四月、五・六月合併号 ) に発表。たちまち流行作家とな阪文庫より刊行。この年「織田作之助選集」 ( 全五巻 ) が中央公論 る。五月「鬼」を「新風」に、「四月馬鹿」を「光」 ( 四月、五・六社より刊行される。昭和三十一年「織田作之助選集」 ( 全十五巻 ) が 月合併号 ) に発表。「夜の構図」を「婦人画報」に連載。「素顔」を現代社より ( 十四冊で中艷 ) 、昭和四十五年「織田作之助全集」 ( 全 瑤林社より刊行。六月、コ一十歳」「青春の逆説」を集大成した「青八巻 ) が講談社より刊行される。 春の逆説」を三島書房より刊行。このころ「夜光虫」を「大阪日日本年譜は、青山光二編のものを基として、編集部で作成し、同氏の校閲を得 ました。 新聞」に、「それでも私は行く」を「京都日日新聞」に連載。八月 「大阪の憂欝」を「文藝春秋ーに発表。「土曜夫人」を「読売新聞ー に連載 ( 十一一月で中絶 ) 。九月「六白金星」を三島書房より刊行。 なぺいかっゅ、
織田作之助集目次 織田作之助文学紀行 大阪ミナミ食べて夢見る 十 夫婦善哉・ : ジュリアン・ソレル 注解 織田作之助文学アルバム 評伝的解説 紅野敏郎 / 風間益人岩四 四六 森川達也四六 奥野健男三三 一一七 0 田中英光集目次 田中英光文学紀行 戦後の希望と挫折のあと オリンポスの果実 少 女 : 桑名古庵 : ・ 注解 田中英光文学アル・ハム 評伝的解説 奥野健男四四 六三 ・・三尖 紅野敏郎 / 風間益人四 0 六 四一五 四三九 森川達也四三九 装幀 大川泰央 写真撮影谷津富夫 / 生井公男 桜田満 編集責任 番野左都子 製作担当
装こそ違っているか、柳吉と蝶子のような客が、何組 も入って来て、安くてうまい料理を心からたのしんで いる。織田作之助の書いた大阪は、今も庶民の中に生 きているのだという思いカわいてくる。ちなみに瀬川 さんとばくと思い切り飲み、喰った正弁丹吾亭のおか んじようは二千三百五十円であった。 三高に入ってからは京都の京極や木屋町で遊び、戦 前は「一一十歳」「青春の逆説」の、戦後は「それでも私は 行く」などの作品の舞台にし、ついで東京本郷の落第 横丁を作家志望の青年として放浪し、戦争期はなっか しい大阪で息をひそめるように作品を書き続けた。戦 後流行作家となり、再び大阪だけではなく京都、東京 右大阪・水掛不動 レ」、かけ : め・み、り , 、 活躍するうち、上京中結核が悪化し息 絶えた織田作之助は、東京でたくさんの人々の手厚い この法善寺横丁に昔は夫婦善哉があった。今は代も替 り場所も違「たところに移「ている。横丁の一角、正看護があ「たとしても、本心は故郷である大阪に帰り べんこんごてい たいと願ったに違いない。そこが織田作之助のなっか 弁埋吾亭の店先に「行きくれてここが思案の善哉かな」 きざ という句が刻まれている可愛いな織田作之助の文学しい点であると共に、本格文学の芽を持ちながらつい 碑がある。ばくま、、 ーし力にも大阪の庶民の町を愛した織 に本格的文学を書き得なかった弱さであるかも知れな い、たのしい文学碑だと思う。その正弁 田作之助らし この大阪に執した文学者は、けれど当時いやその 丹吾亭、たしか小便たごが置いてあったといういわれ後も東京の文学者が考え得なかった現代文学、アンチ 奮けたいかにも大阪らしい店で、関東煮はないが ・ロマンの可能性の道をいちはやく予感し探っていた のである。 すすきやたいの洗い、どしよう鍋で今も高下駄をはい ている板前さんを相手に酒を飲む。そうしていると服 イ。