桂子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集
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1. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

ゅうろう 雑誌社から、小説註文の編集者がみえた。私は旧臘からの生命、第三が恋人よ ) という。 ゴタゴタで、満足な仕事もせず、世の中から忘れられたと私はまた彼女がそのように、し っさいをハッキリいう時 ひが うれ てんば 僻んでいたときだけに、その客たちが嬉しく、桂子が一一時の、お転婆の童女のような顔が好きなのだ。いつの間にか まぎ いらだ 間経っても、まだ来ない気持の苛立ちも紛らすことができ戸外には、いまの時代を思わせるような激しい風が、ビュ ウビュウ吹きはじめ、私は幾らかでも酔っている彼女を、 たそがれ 黄昏、例によってアドルムと人が恋しくなる頃、私は台そんな夜、ひとりで新宿まで帰すことが不安になった。 所の姉に薬を貰いにゆき、その時、新宿の桂子を見舞にゆどちらかといえば、妻子のある私と関係しただけでも、 きたいと言いだした。姉はそれを止めはしなかった。しか桂子に好意の持てぬような姉までが、その夜は、彼女に同 し、私がああいう手紙を書いて、桂子がやってこないのに情し、彼女の災難をともに心配し、風が強いから、泊って は他に理由もあろう。更に、翌日、私の老母が見舞にゆく いったらどうか、これからも昼間、時々、遊びに来るよう だだ ことになっているから、お見舞はそれからでも、 しいだろうに勧めていた。そう勧められると駄々っ子の桂子は、どう と言った。私も気づけば、すでに桂子は勤めに出た後の時しても帰ると言い張る。私はそんな風に酔った桂子が、深 間である。それで翌日、老母の行ってくれた後のことにし夜おそく、新宿のマーケット街を放浪する光景を想像する りつぜん よた ようと思 . い、いつものようにアドルム五錠を貰ってから、 と慄然となる。酔うと・ハ力に気が強くなり、警官でも与太 もの ・、 0 よ 3 し 子供たちと、離れの十畳にゆき、将棋をやっていた。 者でも見境なく食ってかかる彼女。その揚句、交番に留置 夜の九時頃になり、そのうち玄関を激しくノックするされるならまだしも、与太者に撲られた上、身体を自由に もてあそ 音。「誰」ときけば、「あたし」という独特のしわがれた声弄ばれたりしたら大変だ。 が桂子である。私は一面、嬉しく、一面、気まりが悪く、 また彼女の過去に、そのような事件があるのを私は度 大急ぎで子供たちを退散させてから、優しく桂子を部屋に度、目撃しているし、仄聞したこともある。それ故、私は 迎え入れた。先日まで。ヒチ。ヒチ肥って、とても元気そうに姉よりも強固に、彼女をひきとめ、その夜、一緒に寝た。 みえた桂子が、いまはアドルムの酔いもあるらしく、ひどけれども、私は姉にいわれ、医者に見て貰い、その日まで くやつれてみえる。女性にとって、衣類はそれほど顔をやペニシリンの注射を続けていたので、その夜は、彼女の身 しようぜん つれさすほど貴重なものらしい。ほどよく酔っている桂子体に触る元気はなかった。翌朝、妙に悄然とみえる彼女を いしよう はしきりに、 ( 女にとり第一に大切なものは衣裳、第一一が送って、近くの駅までゆく。 たび そくぶん なぐ あげく たび

2. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

あいさっ く勤め、みんなにも挨拶したいというので、私は銀座界 私がついていたので、なんでもなく済んだ。 彼女の家に帰る途中に、支那ソ・ハ屋がある。桂子は勤め隈、顔見知りの編集者に厚かましくタカって、十時半頃に に出ていた頃、時々お腹がヘるとここに寄ったという。あなってから「うらゝ」に出かけてゆく。 る時は、送ってくれた酒場のポーイを連れて。それはお客青い照明の、他の厚化粧した女たちと、酔った男たちの じやすい いる店でみる桂子は別人のようだ。他の女たちに比べ、わ かもしれぬと一瞬、邪推したが、その時、私はまだ過去の 恥ずかしいことでも、隠さず語ってくれると思う桂子を信ざとらしく肩を張っているのも、田舎ツ。ほいのも、小柄な かれん じていた。そして桂子は玉子を入れたラーメンを二杯も食のも、私には可憐にみえた。彼女は私が四、五百円の現金 べる。昨夜のリリーに見た時のような恐るべき食欲。 しか持ってゆかなかったのが不快らしく、一分と落着い やきもら 帰って私たちは死んだように抱き合って寝る。朝、眼がて、私の席に坐っていない。私のことを、ひどい焼餅やき とたん さめると、途端に私のほうからしかけてゆく抱擁。酒場にと桂子の宣伝が利いているので、他の女給たちが心配し、 勤めていた時、まるで浮気をしなかったかどうかを私は知何度も、「桂子さアん」と呼んでくれるのだが、桂子は故 りたい。それで色々に白状させようとするが、彼女はその意に、小さい身体をチョコマカと動かし、客たちの間をぬ はりねすみ さかだ ことに関すると、穿山甲が全身の毛を逆立てたような表情って、ダンスしている。私はその彼女の利かぬ気を微笑で になるので、私は彼女を信じるよりほかない。私はこのよ眺め、他の女給とダンスを始める。 うにして妻が段々、嫌いになっていったのを桂子は忘れて 曲がタンゴでもプルースでもかまわず、トロットのポッ いるのだ。 クスを踏んでいればよい怪しいダンス。戦前、やかましい それは男だけに浮気の権利があって、女にはないというダンスを覚えた私には、それがまるで気ぬけしたみたい。 のではない。一度、私が桂子を棄てた以上、その間に、彼しかし、結局、音痴でダンス嫌いの私には、このほうが気 女が売春をしたことがあっても仕方がない。ただ、そうし楽でよい たお互いの恥ずかしいところを全部、見せ合うところに、 一曲、踊って席に戻ると、桂子の組長だという、しつか お互の愛情と信頼が生れると思う。それがなかったためりした美貌の女給が私の前に坐る。一眼みて、江戸っ子と しばら に、私は妻が厭になったのだ。けれども、桂子は、それを分る、垢ぬけした化粧に歯ぎれのよい口調。暫く話合って 私のカマかワナのように思っているらしい いるうち、私は彼女が、私の学生時代、合宿していた艇庫 翌日は、彼女に動めをやめさせる日。最後の気持よの近くの、ある料理屋の娘と分る。それは昔、とにかく、 ほうトう あか

3. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

時頃、千二百円で ( イヤーを雇い、海岸まで帰ったが、終、妻のふくれた顔が私のまぢかにある。また私と別れて かん そこでわが家を指呼の間に望みながらも帰る気になれなャケになっているという桂子が、社交喫茶に勤めだしたと いんばいやど 。家の下に、淫売宿をかねた飲み屋のあったのを幸い いうのも気にかかる。といって、もう一度、桂子に顔を合 かまら そこの框に腰かけたままで、酒を飲みはじめ、夜中の三時せるのも苦しい。私は集金できる出版社をあてにして、黙 って仕事部屋をとびだした。 ごろになって、やっと、わが家に帰った。 てんらく さんたん 催眠剤と酒の数日間が続く。眠ったのは、浅草のいまは 帰る途中、畑に顯落して、つき指をしたり、苦心惨澹、 じんじよう やっとの思いで妻子のもとに帰ったのだが、妻は尋常の夫廃業しているお好み焼屋とか、親しい編集者や作家の家。 礪」鳳′ト」う の放蕩とのんきに思いこんでいるらしく、チクチク皮肉を実に多くの人たちに言いようのない迷惑をかけた。淫猥で はくら めちゃくちやかんじよう いうばかりか、子供たちにも私を悪者と教えこんでいた。滅茶苦茶に勘定が高く、白痴のヤミ屋がゆくものと決めて す いた社交喫茶というものにも、桂子が勤めているときき、 そこで私の気持は急転直下、妻子を棄てて、桂子と一緒に なろうと思い、そのことを妻子に宣言して、再び、東京の一「三度、場所をかえ、顔を出してみた。 浅草のある社交喫茶に桂子に似ている女給がいたので、 桂子のもとに帰った。 すると妻は子供たちを連れ、すぐ東京の実家に泣きこみ彼女を連れ、一度だけホテルにいった。けれども、私は、 ちょうど しんせき にいった。そこで親戚会議のようなものが始まる。その席桂子の肉体と違う女と交合する欲望はない。丁度、桂子と 上に、桂子は催眠剤をのんでいった。彼女は私よりも少量の同棲中、よくしていたように、彼女のスベスべした両足 あお でもっとペロ・ヘロになる。だから私の姉たちが、子供たちを、私の両足の上にのせて貰っただけで催眠剤を多量に呷 こつけい の将来を思い、私のすぐ上の姉の離れの十畳間に、私の妻って、死んだように眠った。滑稽なことに、私は桂子に対 ていそう 子を引取ろうというのも承知しないし、五十万円の離縁金してまだ貞操を守っていたのである。 きようころ・ 冫しいはる。そこに、私は そして桂子も私に対して同様な気持でいると信じてい 狐で、すぐに妻を離籍しろと強硬こ、 自分の子供たちの無心にオドオドしている姿をみた。それた。二十貫もあった私の肉体はやせおとろえて、二貫目も しまっ 野で私の決心は再び変 0 たのである。私は子供たちの犠牲にやせ、ア・ ( ラ骨さえ出る始末。そうした夜昼なしの放浪の 、私は浅草でも、新橋でも、横須賀でも、鎌倉でも処か なろうと思い、再度、桂子と別れた。 そして妻子はすぐ上の姉の離れに住わせ、私自身は近くまわず、酒と催眠剤を飲み歩いていたが、絶えず夢うつつ に仕事部屋を借りて貰った。けれども、そうしていても始のように桂子の幻が浮んでいた。きっと桂子も私と同じよ やと どうせい いんわい

4. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

ものになった。さすがの桂子も痛がって、それを厭がるほ指名で一一階に通される。これが桂子のいう上品な酒場か。 どだった。いつになく、局部を痛がる桂子にお人好しの私青い照明の下で、鳴りひびく・ハンド。踊っている客と女 はなんの疑念も持たなかった。ただ依然として、彼女は無給たち。ここに上ったら最後、最低三千円は取られるのを 歩れん 覚悟しなければならない。 知で純情で、可憐そのもののように、私には感じられた。 ところが桂子の話だと、どんな かばん はじめの約東では、私は、月に時々そうして桂子に逢うお客でも鞄の中に五万から十万の金を持っており、少なく たび 積りだった。その度に、金を持ってこようと思っていた。 ても一万円の金は使ってゆくという。お客の種類は土建か すると桂子は、「そんなに来るたんびにお金なんかいらな貿易関係の連中の接待が多いという。酔っ払って女給の腰 しり いわよう」といった。彼女も、勤めを継続しながら、私にに抱きっきながら、尻ふりダンスをしている老人客、ジッ 時々、逢う積りでいたのだ。 と抱き合ったまま動かない、怪しげなシミダンス。私はそ 翌日、私は集金の予定のある出版社に出かけていった。 れで「上品な酒場」の正体が分った気がする。 つごう だんな そこで都合が悪く、先づけ小切手を渡されると、私はそれ私がいわゆる、桂子の旦那だと分ると、私は店の奥の、 を近くの、 いつも迷惑ばかりかけている、ある出版社の社外人客が通されるという、特別な囲いに案内され、四、五 長に現金にかえて貰いにいった。そして酒を御馳走になつ人の女給たちが私をとり囲んだ。桂子にはとにかく、まじ てしまうと、桂子と約束の時間に帰れなくなった。そのめになりたいという気持が感じられるが、その四、五人の しようふ おそ 夜、彼女は勤めを休むとはいっていたが、私の帰りが遅い女たちは、全く典型的な娼婦のように私には思われた。た だ金と男と、うまいものと、酒が欲しいという顔であり、 のに腹を立て、きっと勤め先に出かけたに違いない。 それで私は、ひとり多分、社長から貰ったに違いない一話である。私は桂子がこんな女たちのひとりと、客の取り しようびんかか 升瓶を抱え、本郷から自動車をとばし銀座に出た。彼女の合いをして泣いたという話を思いだし、たちまち、彼女に 狐勤め先は、西銀座の「うらゝ」という店である。 こうした勤めをさせたくなくなった。 しか 運転手に探して貰うとすぐ分った。これもやはり第三国全てか、然らずんば無か、私のこうした極端な気持が、一 けんか いんばいふ 野人の経営だという、ビルの二階の大きな酒場だった。下に度、共産党と喧嘩すると、今度は淫売婦のふところに飛び あや ポーイが一「三人、白い制服で頑彊「ていて、怪しげな客こませた。私は再び、そのような極端な気持になったので 3 は通さないようにしている。私は、本名で出ているというある。私はもう一度、妻子を棄て、桂子を自分の妻にしよう もちろん 桂子の名前をいうと「ケイコさん」と呼ぶ、けたたましいと思った。それは勿論、彼女に勤めを止めさせてである。 つも ごちそう

5. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

途中の喫茶店にチョコレートを飲みに入ったが、そこでなる。散々、飲んだり食べたりした後、その店に払う勘定 彼女にせがみ、アドルムを三錠、十錠のみはじめると、私がないと、店の子供を使いにやり、姉を呼ばせる。姉はい は丁度、麻薬中毒患者が薬にありついたような、ただ本能ちばん下の五つの女の子を連れ、やってきたが、私の醜態 の奴隷となる。私は再び、もはや、彼女と別れたくない気をみると泣いてしまったようだ。そして意見がましいこと ころう 持。彼女が前に三度、外泊したというのは一度の誤り、そをいうのに、虎狼のような心になっている私は、床の間の れも銀座から帰る途中、 リリーとふたりで輪タクの運転手置物をんで、姉に投げつけようとした。 けんか けんそく と喧嘩し、町の交番に保護検束を受けただけ、分厚い札 どうして姉の離れの十畳に帰ったかよく分らぬ。ただ煙 と たばというのも、十日毎位の店の収入を、纏めてみただけ草を買いにゆくと出た桂子のなかなか帰ってこないのが気 ひか という、彼女の話をなんでもかんでも信じたい気持にな になる。大学の試験を明日に控えている姉の長男を何度 る。 も、表に走らせ、桂子をみにやったが、・ とこにもいないと おおあば ゆいいっ たんす また泥棒に入られる前夜、外泊したのは事実だが、それいう。それで私は大暴れ、妻の唯一の財産の簟笥をひっく れつ、 したく は国際文化社という歴とした雑誌社の編集者で、男がふたり返し、背広を着、オー ーを纏い、外出する仕度までし りで、女は桂子ひとり。新橋の近くの待合で一夜を飲み明たが、まだ桂子が帰ってこないので、その場に大の字にな あんばい かし、指一本も触れさせなかった、という桂子の話まであり寝てしまう。そして寝小便までしてしまった塩梅。 っさり信じてしまう。その泥棒にしても、桂子がフラフラ ふと気がつけば、私は離れの十畳に寝ており、姉がかい あ と出て、連れてきたのではなく、マーケットで一度、逢っまきをかけてくれている。桂子の ( イヒールも ( ンド・ ( ッ ただけの男が、彼女の家を探りあて、麻雀で夜明しした後グも残っているが、すでに彼女が出て三時間にもなる。私 あきら でつかれているから休ませてくれ、とノコノコ上りこんでは諦めて寝てしまう積り。姉の手からアドルム十錠、奪い 狐きたのだという、桂子の話も信じる。そして、桂子に頼んとるようにして取り、それを飲んで、うつらうつら眠くな ・ 6 要ノ - つう で、アドルムを更に十錠。そのために心気ますます朦朧とった頃。 ぎようそう してきて、桂子が酒を飲みましようか、というのに、締切間 突然、酔っ払った桂子が夜叉のような形相で帰ってき 野 近の仕事も忘れ、ふたりで近くの中華料理店に上りこむ。 た。私の顔をみるのもイヤだと言い、髪の毛をひきむし そして熱い酒を飲みだすと、私はなにがなんだか分らな り、顔を打つ。そして新宿に帰るというが、もう終電車も くなる。いっさいの恥も外聞も忘れ、まるで自制心がなく なく、そんな桂子を表に出す気持になれない。それで姉の やしゃ

6. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

384 むこ 困りきった顔をみながらも、桂子をもう一晩、その離れに聟に対して面目が立たぬから、すぐに、ここから出て行っ こくはくむぎん 泊めようとする。しかし酔うと、酷薄無惨な気持になる桂て欲しい、という。アドルムの酔いの切れている私は、虹 子は、そんな私の心づかいなど鼻で笑う。そして、近くに意志の人形のようなもの。老母に叱られるまま、桂子と身 じたく 昔、知合いの立派な家があるから、そこに行きたいと言い仕度をして立ち上る。そこに姉の優しい泣き声、「道ちゃ 張ってきかない。 ん、いつでも帰っていらっしゃい。意志をハッキリさせて 私はそんなに言うのなら、そこにやるのもよかろうと思ね . った。だが、ひとりでは不安なので、また姉の長男に警官姉は、私の桂子に対する本当の気持を薄々、知っている を呼んで来て貰い、桂子を警官に送らせようとする。しかのだ。愛と憎しみの間。醜い哀れなものに対する、どうに れんびん し警官の顔をみる頃から、桂子は温和しくなった。一通り、 もならぬ憐憫。私は桂子とともに、ズルズル泥沼の底に落 私の悪口を警官に喋ってから、その部屋に寝ることを承知ちてゆく光景を知りながら、彼女とともに新宿の家に帰 する。 る。 朝、酔って乱暴したいつもの朝のように、桂子は、私の盗まれた品物を桂子は私に説明しながら、ふっと出てき くす 胸に泣き崩れてきた。肉体をかすかに揺り動かす、彼女のた貯金帳を、そっと右手にかくす。私はそれを無言で奪い たま テクニック。私は醜い哀れさに堪らなくなり、彼女に肉体とって調べ、ギョッとする。私が飛び出した日の日付で、 の欲望があるかどうかを訊く。「たまらないのよう」と彼彼女は二万五千円の貯金をしている。それから、三回にわ ふとも。ら すっ 女はなお身をくねらせ、その太股を私の上にのせる。またり、五千円宛の貯金。その貯金の前後が恐らく、彼女の た、病気になる。ペニシリン代一本二千三百円と頭にひら家に帰らぬ日であろう。私は何にも言わない。急いで貯金 めく。その親切な医者の診察室でみせて貰った、い くつか帳を取ろうとする桂子にそれを返し、ヒョイと苦笑に似た つば、 の猛烈なジフリーズの写真。鼻が落ち、椿の花片のようなものが浮ぶ。一張羅を質屋に入れた妻。桂子と別れた後の こと くちびる どぶ 痕が残る。両唇に無数の吹出物、殊に女の局部の一面に苦しい放浪の日々、短靴を酔って溝に落し、ひとから貰っ さんじよう まぶた たポロ軍靴に、一枚の破れシャッしか残っていない私。 ビランした惨状。しかし私はその写真を臉に描きながら、 まか それに昨年の税金さえまだ払わず、姉に一「三千円の借金 女に身を任せる。済んだ後の、またかという悔い そこに七十三になる私の老母が泣き崩れ、半狂乱になさえしている。 ひ、か それに引替え、三万円の貯金と、・ハラックながら二軒の り、呶鳴りこんでくる。とんでもないことをしてくれた。 しゃべ おとな しか

7. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

どうせい 桂子と同棲中、私は彼女から逃げようと思い、彼女のたのものらしい高級車で、運転手のサイドワークらしい。 め、池袋にマーケットを買ってやったことがある。そのマ「早く、乗って下さい」とせかし立てる。車の内でリリー す ーケットを月三千円で、桂子は友達の リリーに貸してやつも酔ったらしく眼を据え、私のチップの払い方が少ないな もんく ていた。リリー は芸者上りの、桂子よりはいわゆる、美貌だぞ文句を言いだす。そして新宿の家についても、桂子に対 が同じようにヒステリックらしい女である。今の世には、 して、 異常な男女が刻々とふえつつあるのだ。そのリリーが、桂「あなたの旦那を送ってきてやった」と恩を着せ、またチ 子のいないため、最後まで私につきそっていてくれた。 ップのことをゴタゴタ言い出し、おまけに池袋のマーケッ 私は持ってきた一升瓶を飲み、女給たちは店のビールを トの家賃が高いなそと言い始める。酔っている時の桂子 しら 飲む。そ 1 て結局、看板まで私は居残ることになった。酔は、決してリリーなそに負けるような弱気ではないが、素 めんどう おそ おとな いと遅くなって面倒なのとで、私は リリーとハイヤーで新面なので温和しく、言われる通りに、リリーにチッ・フを出 宿まで帰ることにした。 してやったようだ。 店を出ると、その角に中華料理屋がある。リリーが何か私は遠慮して、女たちふたりを炬燵のある大きな布団に すみ さび 食べたいというので、入って、私のためにはチキンカレ寝せ、ひとりで隅の小さいポロ布団にねたが、淋しくて寒 リ 1 リ′ ーのためには、焼そばと卵のスー。フを取った。私くて仕方がない。大声で桂子を呼びたて、彼女のビチピチ は充分に酔っているので、もはや、食欲がない。・ほんやした身体をしつかと抱いたまま眠る。桂子の話だと、世の またた の食べかっ飲むのを眺めていると、彼女は瞬く中には、そうして他人が横に寝ていることに刺激を感じ、 間に、自分の分を平らげてしまい 交合を好む男女がいるそうだが、私はふたりだけの時は、 ぜっ、よう 思い切って開放的で恥知らずの交合を好む癖、誰かに見ら 「私は面倒なのはキライよと絶叫しながら冖私のカレー まで飲みほすように食べてしまった。まるで餓鬼である。れていると思うと、それだけで、まるで勇気を失ってしま 地獄の女たちのひとりだ。私は桂子が、逢いはじめにやはう男なのだ。 とうじ りこのように怖るべき食欲を発揮したのを思いだす。彼女私は帰ってきた蕩児として、前以上に桂子が好きだっ たちは愛情にも、金銭にも、食欲にも、あらゆるものに飢た。彼女のためなら、自分の文学も、自分の一生も、不憫 いっさい、失ってもよいとまで思いつめて えているのだ。 な子供たちも、 、こ。しかし、前回と違い、桂子の物欲の強くなっている 銀座から新宿までの車代が一千円。車は外国団体の所有しナ おそ こたっ ムとん ムびん

8. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

5 野狐 家持ちの桂子、私は子供の頃、ひとから ( おまんこ倉 ) と 綽名される、美貌の未亡人の白塗りの倉を持った家が近く にあったのを思いだす。私はそれでも黙って、桂子に次の きんべいばい 日の朝、「金瓶梅」を書き引替えで稿料を持ってきてくれ た雑誌社の金を全部、渡す。私にも数々の桂子のデタラメ あき がはっきり分る。そして呆れたことに、分れば分るほど不 びん 憫なのである。私は桂子とともに情死することさえ不自然 でない気がする。 不落府曜、雨彩一賽、不昧不落、千錯万錯。 もんもん 野狐風流五百生、私は転々悶々として、永遠に野狐であ るらしい。 あだな いっさい

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370 しまうま た。私は昔のポート選手で六尺一一十貫。それでも一升飲桂子は前に同棲していた異国人から、縞馬と呼ばれてい しようちゅう めばいい気持になったのだが、そのうち、焼謝一升飲んたという。色の浅黒い、手足の小さい、小柄の女で、顔は でもケロリとしているので、酒と一緒に催眠剤を飲むよう平べったく、低い鼻の穴が大きく天井を向いている。化粧 やすあが になる。また、そのほうが安上りというサモシイ気持もあすれば、そうみつともない女でもなかったが、素顔の時は 片 : っノ、、 0 あ、 ったのだ。そのおかげで私は、桂子の肉体と催眠剤の中毒呆れるほど平凡な泥臭い百姓の娘さんだった。けれども、 きんだんしよう ふともも 患者になった。そのどちらもが一日でもないと、禁断症その疲労を知らぬ、太股に薄い縞模様のある肉体が、私を 状がおこり、私はロを利く気力さえない半死半生の病人の圧倒した。私は彼女によって初めて、肉体の恋を知らされ ようになる。 たといってよい。 そのままでは、私の健康も才能も、また疎開先の妻子も ところで私は、俗物たちが妾をもって平然としているよ おさ ダメになると思って、私はやり切れない気持たった。そこうに、一夫多妻主義で納まっていることはできない。道徳 けんか で私は酔うと酒乱になる桂子と喧嘩する度に、それをよい的には妻子のもとに帰るのが正しいと思われたし、新しい 機会と思い、妻子の田舎に逃げ帰るのだが、そこで、妻の私の道徳からいえば、たとえ前身がなんであろうと、前の こら・第っ けいべっ 表情のかたい、甲羅をかぶった無言の軽蔑に出あうと、死妻と別れ、より愛している女、桂子と一緒になることが正 ぬほど桂子が恋しくなり、また彼女のもとに逃げ帰ってししいように感じられた。しかし、そこに四人の子供の問題 まう。 がある。十八の六倍が容易にできないような桂子に、子供 また桂子が酔って見境がなくなり、遊びに来ていた他のたちの育てられないのは、私にも分っていた。 しっと 男たちと夜の町にとびたしてゆくと、私も嫉妬を起して、 そこで最後に昨年の暮、・ハ力な私にも、桂子が異国製の しよう 他の男たちと夜の町にとびだし、よからぬ場所に泊り、娼菓子と煙草をかくし持っていたり、おまけに当時、ジフリ 婦と共に寝たこともあるが、そんな場合、私は桂子の肉体ーズで、べニシリンの注射をさせてやっていた頃、彼女の うすうす を思って、どうしても、その他の女に触れる気になれな浮気というより、その淫奔さに薄々、気づいていたので、 ていそう 。皮肉なことに少なくとも、結婚後は私のために貞操をまた催眠剤を飲んで彼女と喧嘩の末、伊豆の妻子のもとに もちろん 守ってきたらしい妻に対し、私は少しも貞操を守りたくな逃げ帰った。だが、催眠剤は勿論、沼津からも酒を飲みは かったのだが、私と一緒になる前、夜の天使同様だった桂じめ、夜中の十一一時になっても、わが家に帰る気がしない。 ふく 子に、私は期せずして貞操を守るようになった。 妻のぶッと膨れた冷たい顔をみるのが辛いのである。十二 み、 0 もルい たび いん ~ ん めかけ つら

10. 現代日本の文学 33 檀一雄 織田作之助 田中英光集

372 じゅうぶん うに不幸なのであろう。 甘い言葉の数々が、充分、私のそうした疑念を打ち消した それで、ある日、思いあまって、私は新宿のいわゆる愛のたった。 の古巣に戻っていった。午後三時頃、台所から、こっそり桂子はハリキッた肉体を身もだえさせ、こんなに言っ 声をかけ、上ってもいいか、桂坊がいままだ不幸な気持か と尋ねた。クスクスいう含み笑いと、 「さびしかったわ。時々、夜中に靴の音が聞えると、ひょ 「わたし、うれしいわ」という甘ったるい桂子の色っぽい っとあなたが帰ってきて下さったかと思って目が覚めるの もらろん うれ 声。「わたし、勿論、不幸よ。帰ってきて下さって嬉しいわ」よ」 うちょうてん こんな言葉に私は有頂天になって、懐しい六畳間に台所「勿論、誰も好きなひとなんかできるはずがないじゃない ふとん から入っていった。彼女はしきなれた布団の上に、なまめの」 ねまきすがた りゅうびさかだ じようだん かしい寝巻姿で寝ており、その枕元に、私たちのいた頃か「浮気」彼女は柳眉を逆立てていう。「笑談じゃないわ。 ろうば まじめ ら使っていた、近所の人のいい老婆が、優しく笑ってい あんなところに、お勤めしていても、わたしだけは真面目 た。私はどこよりも、桂子の家で、家庭的なあたたかさをで通したのよ。だから、日に四百円ぐらいしか、平均の収 もって迎えられたのだ。私はとっさに情欲よりも、もっと入なかったのよ」 高い愛情にうちのめされた気になった。私の帰るべきとこ その前、彼女が私に逢いたく、姉の許に来た時には、日 ろは結局、ここより他にないともう一度、信ぜられた。 に二百円の収入しかないとこぼしていたと私は聞いて ひざ 私はオバさんを帰してから、桂子を膝の上に抱いて、雨た。けれど、それも彼女のみえつばりの罪のない嘘だろう アラレと色々なことをきいた。 と、私はなにもいわなかった。金がなくなって前に関係し さび 「・ほくがいないんで、本当に淋しかった」 ていた異国人から貰った時計のエルジンを千五百円で売っ 「誰も好きなひとができなかった」 たとも、いま、七、八百円の金しかないともいった。私 「一度ぐらい浮気をしてみた」 は、彼女と別れる時、置いていった金から推量して、まだ ふと 私には桂子が別れた時より、ずッとポッチャリ肥ってし一月ほどしか経たぬのに、それも嘘に違いないと思った。 まったのが、ちょっと、気になった。私がこんなに痩せる けれど私はなにもいわずに、その夜は自分の本を売って にくなべ ほど、桂子を思っていたのに、桂子は、その半分も私を思金を作り、ふたりで酒をのみ、肉鍋をつついて、楽しく遊 ってくれなかったのであろうか。しかし桂子の次のようなんだ。一月もむなしかった私の欲情も、その夜から執拗な たず なっか やさ しつよう