た一つの安心が崩れてしまった。死んだのさ。僕は仮りに 「ねえ吉良君、これは美那子。親戚なんだ」 とっさ あお 気紛れな僕の観念を信奉する。突嗟に観念の指令を発した「ああ」と吉良は目礼した。美那の顔は蒼かったが、吉良 はれんち ら、必ずそれを断行する。どんな破廉恥でもいいよ。僕はは不思議な感動で美那の前へ立ちすくんだ。鵜飼はテルを 僕の意志だけを信じている。熱狂的に信奉する。それだけ抱いて助手台にのり、美那は吉良と榊山の間、千歳とあき ねは前に坐った。車はゆるやかに走りはじめた。鵜飼は絶 く - りもと はなうた けいれん 吉良は急に口を閉じてひりひりとそのロ許を痙攣させえず鼻唄を歌っていたが吉良は , ハック・ミラーのなかの美 うわぎ 那の横顔を見すえたまま動かない。それからつつとうつぶ た。それからおもむろに上衣のボタンをはずしていたが、 せになって顔をかかえた。美那はそれを感じている。が誰 「御覧 ! 」 あた 突然吉良は胸をはだけた。痩せこけた乳の辺りに見ればも知らなかった。車がとまったときに顔を上げた吉良のロ やけど 十数ヶの火傷がある。それは気味悪くふくれ上ってところ許はおびただしい鼻血だった。蔽っていた手にもべっとり すばや どころ紫のかさぶたが匐っていた。榊山はおそろしくて顔血が染んでいる。美那は素速くボケットからハンケチを取 をそむけた。やがて何もなかったように吉良は立上ると、 出してそのロ許を拭ってやった。顔を突出したまま吉良は 「楙山君、散歩に出よう」 無感覚な表情でその看護を受けていたが、 二人は黙って海岸に出た。海が鳴った。松の根元に腰を「有難う」 下ろすと榊山はためらいながら、 両手を拭ってそのハンケチを自分のポケットに押込ん 「ねえ吉良君、今日よかったら僕のおばのところに行かな だ。降りていた榊山が、 のぞ いか。約束したんだ、鵜飼君と。みんなで行こうって」 「どうしたの ? 」と覗きこむと、 「ああ」と吉良はぶつきら棒に答えた。 「なんでもないんだ」 筐「じゃ、行こう。もう時間なんだ」 美那をおろして吉良も出た。美那は吉良の後ろから用心 吉良は榊山の後からゆっくり歩いていった。 深く歩いていった。もうポーチの辺りで榊山とおばの華や かな会話がきこえていた。 花 すいりよく 吉良と楙山の自動車が公園に乗入るともう四人は待って紹介が終ると翠緑の照りかえしにくらむ部屋いつばい だんらん ーミントや・ヘルモット いた。飛びかかってくるテルと鵜飼とその後ろの美那を見に、美事な団欒がはじまった。べ。、 が透明なグラスに盛られ、少女達は声を立てては盃を合わ て榊山は子供のように安堵する。 あんど おお
うに僕は僕の情熱に何の不自然も感じなかった。少くも僕った。 は僕の世界の存在を信じていた。信じていたんだ。が、存「おばさーん。おばさーん」 在というものは信じるものかね。在ることだろう。だから 鵜飼は狂気のように潮のなかをかけめぐった。自分の体 僕は暗黙のうちに、誰かが見届けてくれることを必要としが物すごく夜光虫に照るばかりで、辺は墨を落したように ありカと たんだ。それだけに壮烈だと思ったのさ。有難う、それで暗かった。ひょっとしたら上ったのでは、と鵜飼は庭をの やしき 最後だ。ではさよなら」 ぼって邸へ入った。 「あっ ! 」と榊山が寄ったときに、もう吉良の姿は崖の底「おばさーん」 ばくば・、 やみこうばう に見えず、闇の広袤ばかりただ漠々と迫っていた。 部屋部屋を歩きまわったが、誰もいない。 「吉良クーン。楙山クーン。千歳」 返事はなかった。鵜飼はおばの居間にかけこんだが、そ 鵜飼はおばと泳いでいた。手足は夜光虫にさらされて、 動くたび透きとおるように光ってくる。潮は不思議なくらこにもおばの姿は見えなかった。ただ机の上に、鵜飼様へ いぬるかった。おばはその美しさに、絶えず。ヒチャ。ヒチャと一通の封書が見えていた。 手足をゆすって鵜飼の名を呼びつづけた。鵜飼はおばのま みごとしし せんかい わりを旋廻する。その大理石のように美事な四肢の明減が 毎日を楽しく過させていただきましてほんとうにあり 四阿の千歳にもよく見えた。 がとう。おなっかしきあなた様とももうお別れになりま 鵜飼は時々おばの両足をさらったり、また軽々とおばの した。せめて美那さんとあなた様の思い出の数々を語り くちびる 体を抱き上げた。それからはげしくおばの唇に接吻した。 合うことに致しましよう。同封の美那さんのお手紙は、 ふる 手足は水の中にキラキラと顫えたが、その唇は冷たかっ 死の床の聖書のなかにありました。お健やかに御成長の さよなら た。不思議な孤独が、風のように鵜飼の心を過ぎ去った。 ことを祈ります。 さび 可笑しい。愛する女を胸に抱いて、何という淋しさだ。も う一度おばの体を抱しめた。涙が出た。鵜飼はそれをかく同封の美那の手紙は、 して潮のなかにもぐりこむ。一人でどんどんと沖に出た。 ご、げん 涙はとまらなかった。何という不吉 ! いけない、と鵜飼 御機嫌いかがですか。寝ております窓の外に毎日良い せんかい は鋭く旋廻しておばの方に戻ったが、おばの姿は見えなか陽です。もう余り悲しくはございません。今日は風が鳴 あずまや あ あたり
せ、りよう 舎に忍びこんで千歳と美那に接吻するんだ。それも自分のうと又新しい寂寥がこみあげて、美那の頬をとめどなく涙 あらし ちんにゆう 恋人を変えるんだぜ。 しし力い、君は千歳に、僕は美那が走った。しかし来る、きっと嵐のようにすさまじい闖入 さら に」 者がやってくる。妾を掠う。きっと鵜飼だ。それは、と美 「はいれるのかい ? 」 那は顔を上げた。その眼の前に幻のように真の鵜飼が立っ 「ああ、あきねが開けて待ってるんだ。十一時に」 ていた。鵜飼は美那を抱きしめると、 そのまま二人は外に出た。浜辺に抜けると月が出てい 「わかるかい、僕が ? 」 る。二人はレームの上をどんどん驤けた。もう寄宿舎は見そのままはげしく美那の唇に接吻した。 えていた。鵜飼は立止ると月を見上げ、 「明るすぎるな。まあいいさ。見付 0 たら窓から海に飛ぶ美那はその翌日から高く発熱しておばの邸にひきとられ んだ。いい ? た。それにしてもあの夜の鵜飼は夢かしら、と美那は熱の へいぎわ 「ああ」と榊山が答えると鵜飼は靴を脱いで塀際の松の根なかでそればかりを思いつづけた。鵜飼は時折見舞にき しか にそろえ、するする幹を上りはじめた。 た。而し美那は誰にも会わなかった。あれがもし夢だった こ 榊山も後ろから松にの・ほる。雪夜のように白い月光だ。 ら、とそればかりが怖わかった。 鵜飼は塀を越えた松の枝を注意深くって、ぼんと校庭に 体が楽になると美那はときどき鉛筆を握って誰にあてる 飛び下りた。すぐ榊山も後を追った。 ともない手紙を書いた。可笑しかった。が、或日その手紙 を鵜飼宛に訂正した。ところどころに、鵜飼様とほんの二 美那は眠れなかった。消燈の部屋いつばいに真白な月光三字名を書きこんだばかりだった。それでも疲れた。案外 が流れている。美那は起き上 0 てぼんやりと机の前に坐っ楽に死ねるかも知れないわ、とぐ 0 すり眠った。夢を見 筐てみた。苦しかった。不思議な孤独がこみ上げた。月の明た。 くちもと るいおばの庭で榊山の熱い息がもうロ許まで匐いよった。 しりぞ 花あの折何故榊山を斥けたのかしら、病気 ! それが何だろ青葉のはげしい山のようだ 0 た。その山を美那は一生懸 う。すると又おばと舞 0 ている逞しい鵜飼の面影が眼に見命に登 0 ていた。息が苦しか 0 た。それに暑い。美那は一 四える。打明けようかしら、鵜飼に。・、 力あの人はおばを恋し枚一枚と着物を脱いで登っていった。坂は何処までもつづ わたし ている。そうだ、妾をさらうものは偶然ばかりだ。そう思 いていた。息が切れる。美那は絶えず横になろうと焦った せつん あて ほお あ
116 あすまや まるまるのぼ 「でも、どうしてそれが俊彦さんにわかったの ? 」と美那る。二人は崖沿いの四阿に抜けた。月は円々と昇上って四 のぞ 、れい わ、 は軽くせき入りながら榊山に云った。 阿のなかに窺きこんだ。「綺麗だな」と榊山は美那の脇に 「ううん。頭の大きさなんだよ。だけど、頭もいいさ。見腰を下ろした。それからそっと美那の手を探ゑつめたか みまも たってわかるよ」 った。美那の顔は蒼褪めたが月を見衛っている榊山は知ら かす 、い ) め それで三人は笑いだした。榊山は先程の幻影を追いなが なかった。波の音が微かに鳴る。折々靄が切れ、その裂目 かつけっ ら、 からギラリギラリと海が光った。先日、美那は喀血した。 みどり 「翠の服着てるんだ。煙草を喫うんだぜ。それからもう一それはおばにも語らなかったが、それ以来の不吉な孤独が 人の友達ね、獅子のようだよ。勇ましいんだ」 今日突然榊山の両腕に救われそうな不思議な眩暈 くらもと おばと美那は終始笑いながら榊山の声にききとれてい 那のロ許はふるえてきた。 る。それにしてもいっこんなにはげしく伸び上ったのかし「美那ちゃん、ね ほお かんだか ら、と榊山の紅潮した頬を美那はそっとぬすみ見た。話は 榊山はまっすぐに海を見つめたまま口をきる。疳高く入 つきず、そのまま夜に入った。美那は少しく疲れてきた。 り混った愛情が美那の血管をしびらすようにゆすったが、 いぶ、 が、今夜の榊山は何という美しさだろう。その魅力をいっ 榊山の熱い息吹を頬いつばいに感じると美那は石のように までも手離しかねる気持で、じっと安楽椅子に凭れてい 立上った。 る。 「いけません、俊彦さん」 榊山はカーテンを繰った。すると海の上にぼっかりと大両頬に光った涙を榊山はにつこりかくすと、 もやは きい月がの・ほっている。波の上には、低く靄が匐って、海「御免ね」 ちょうど は光らなかった。・、、 カその靄は月光を吸い丁度荒絹のよう そのまま月明の庭を海の方に走っていった。 にぼんやりと照っていた。 「美那ちゃん、下に出ようか。おばさんは ? 」 「寒そうだわ、わたしはお紅茶でも入れときますから二人すべて物事の発端というものは道化者がロ火を切るなら ひょうきん でいっていらっしゃい」 わしになっている。従って阿蘇と呼ぶ剽軽な少年が、学校 榊山が先にたって広い庭を降りていった。もう両側の薔に於ける私達主人公の先ず最初の融合をかたちづくった。 ようしゃ 薇や花々に露が光り、両足をくすぐるようにしめしてく 彼は軸の太い西洋燐寸を隠していて、ふいに誰彼の容赦な ら たばこす す げつめい あおざ ま
榊山はそっと一本の煙草を抜き取るとまるで赤子のようめた。 に珍らしそうに燐寸を擦る。煙は光の斑点を縫ってゆらゆ「毎日用事が出来るんでしよう。でももう学校は終った ら立迷ったかと思ううち、虹のように美しく消えていつの ? 」 「ね、後で話すけどね」 みな 静かな回想が流れてゆく。一昨年、アムステルダムの公「美那ちゃんも来てるのよ」 ひぎもとすわ 園で、母の膝許に坐っていた臆病な自分、花々の間に発散「そう。とても面白いや、学校は」 おとな そのまま二人は応接室に入っていった。窓を開くと真下 する異国の会話、大人の世界、何故とはなく無性におそろ しかった カそれではお母さんが僕の不幸を分担したに海が見下ろせる。テラスの椅子に美那が毛布をかけて、 しばしば か ? いや、屡々榊山の眼の前には思いがけぬ父母が立上・ほんやりと海を見ていた。 「美那ちゃん ! 僕だ。おいでよ」 って、小さい榊山を愚弄した。 返事は聞えなかったが、ちょっとこちらをふりかえって 「そうだ、お母さん、今僕は公園のなかで煙草を喫ってい さび 淋しく笑うと、美那はゆっくりと立上った。 ます。煙草を ! 」 ひと 「どうして来たの」と榊山は美那に云った。 榊山はそう独りごっと思わず微笑した。 「少し学校を休みたくなったの」と美那はおばと顔を見合 「これが僕だ、お母さん」 ほほえ 楙山はそのまま一散に公園を駆け抜けた。おばのところわせて徴笑んだ。美那は十八、榊山より一つ年上、ミッシ ョンスクールの寄宿舎にいるが病気がちの細い顔立は義理 に行こうかしら、行こう。山はロ笛を吹く。それから一 台の自動車にとびのった。蒼い海沿いの道を車は滑らかにの姉である榊山のおばと不思議によく似通っていた。おば かもめ は二十五、美那の兄である夫が死んでこのかた、ずっとこ 疾走する。折々鵰が舞いの・ほり、その鳥影にからむように みどり 筐翠の波がもつれ上った。車はするする丘の頂きにのぼりつの邸に独身でいる。 あか やしき 「ねえ、おばさん。とても偉い友達が二人出来たんだ。そ め、榊山は朱い屋根の見えるおばの邸に走りこんだ。 ごちそう としひこ 花「まあ、ま、俊彦さん。だからうちからお通いなさいと云れでね近いうちに連れてくるよ。うんと御馳走してね。い ったじゃありませんか」 「いらっしゃいよ」 若いおばが笑いはじめると、楙山は、 「ううん、ちがうんですよ。用事があるんだ」と顔を赧ら「とても凄い頭なんだ」 マッチす ぐろう あお はんてん なめ す あか すご
130 が、体はいうことをきかなかった。絶えず前のめりに足が咲いている。その上をテルが驤け、鵜飼は波のなかに石を おらぎわ 進む。息がつまる。助けてくれ、と呼びたかった。・ : カ勿飛ばす。落際の陽が辺りを染め、おばは鵜飼の姿にいつも 論声は出なかった。坂の上から誰か来る。白い着物だ。い 優しく笑みかけた。が、言葉は忘れたように口をつぐん や月光が当って白く光るのだ。可笑しい。今は昼なのに、 あるよ らようど 何故あの着物ばかり月の光が当るんだろう。おや、鵜飼さ或夜邸に吉良が来た。丁度榊山は留守だったし、おばは ひきこ・ 6 んじゃないかしら。 早く引籠った儘出なかった。吉良と鵜飼は言葉少なに応接 「鵜飼さん」 室で対坐した。 するとその鵜飼はよってきて、 「ねえ鵜飼君」と吉良は煙草を捨てて口を切った。 「どうしたの ? 」 「君、美那の写真を見せようか ? ー 「とても苦しいの。助けてよ」 「ああーと鵜飼は眼を輝かせて、寄ってくる。吉良はしば こくう 鵜飼は大きくうなずいた。それから丁度坂を匐っていたらく虚空のなかを見つめていたが、ポケットから一枚の写 へびしつば 蛇の尻尾をヒョイと掴んでひきよせた。その鱗を逆しごき真を取出すと、 にずるりとしごく。鵜飼の掌に白い鱗がきらきら光った。 「これだ」 「さあお嚥み」 鵜飼の顔は蒼ざめた。写真は寄宿舎らしくガランとくら ゅどの 鵜飼は美那を抱きよせると、その鱗を美那の喉に抛りこい湯殿の中で、あちらを向いた全裸の美那の立姿だった。 んだ。鱗は喉のなかに針のように逆立った。息がつまる「誰に撮らせたんだ ! 」 「千歳だよ」 「あーっ、あーっ」 「美那は知ってたのか ? 」 美那はいちめん血を吐いたまま、もう息が絶えていた。 「もちろん、知らないさ」 ビンと鵜飼は吉良の頬をなぐりつけた。 「出ろ ! 海に出ろ。海に」 しようすい 美那の死後、おばはいたましいほど憔悴した。それで鵜吉良は鵜飼の後ろからゆっくりとついて出た。頬は蒼ざ やしき あしもと なぎさ 飼と榊山はおばの邸に寝泊りした。鵜飼はおばを連れ、タめていたが、足許は狂わなかった。渚に出た。鵜飼は吉良 みぎわ べにはよく海に出た。汀には飛抜けるほど美しい浜昼顔がに組付くと、どうと砂の中に横倒れた。鵜飼は馬乗りにな ろん うろこ のど もち あお あた ほお
126 せあった。 山も酔うのである。吉良の堅い腕にもたれ、あきねは榊山 こと その日のおばは殊の外美しかった。鵜飼はテルを応接室の優しさを見守って、夢のように舞っていた。 絶えず波よするような夢のワルツ、その波にのって鵜飼 までひきずりこんで、いつもおばの横を離れなかった。 ひたし せんかい 夜に入るとみんな踊った。レコード の旋廻につれ恋の組は時々おばの額にロづけする。美那は榊山がもの足りなか 合せはみるみる変った。鵜飼は絶えずおばと組んだ。吉良った。それで今度は吉良の手をとると、前よりはげしく舞 はあきねを腕に抱き美那は楙山にもたれている。酔った千いはじめた。あきねは榊山の手にもたれた。鈍い・フルース が美那の耳に遠鳴りした。それから美那は吉良の手のなか 歳は大を抱いてはね上るギターの波に熱い息を洩らしてい にもうゆらゆらとくずおれた。 少年達の恋愛というものは不思議なものだ。自分を信じ てくれる恋人をすぐに拘東だとはきちがえる。その信頼を或日、鵜飼は榊山を誘って築港の方へ散歩した。風が強 受けて自分が百倍も美しくなっていることを忘れるのだ。 、雲足は地をすれすれにはらっている。岩壁を廻ると、 そこで新しい恋人に献身する。先の恋人への報恩が次の恋二人は別世界に入ったような大胆な情熱を感じはじめた。 人のなかに集中され従って新しい恋の美しさは倍加される錆びた巨大なポイラーや鉄器のかけらが散乱した、おびた わけだ。 だしく虫の匐ったレームを越えて、黒い波がめらめらとも 鵜飼は千歳を忘れたようにおばとばかり踊りつづけた。 つれのぼる。鵜飼は堆高く積まれた鉄管の上に駆け上った ほうた たび 何という優雅なおばだ ! この婦人のためには命を賭す、 り、レームの上を一散に走ったりした。その度に白い繃帯 と鵜飼はおばのさわやかな胸によりそった。その献身のさのなかの毛髪がパサバサと鳴った。 まは美しく、美那は榊山の腕に舞いながら、逞しい鵜飼の怪しい家が海に沿って、軒並につづいていた。いきもの 姿を見つづけた。 の荒々しい気配が何かしら二人の心を苛立たせた。榊山の てんとう てつくずつまず 美那の体は疲れてきた。ともすると手足は折れるように前を走っていた鵜飼が、突然鉄屑に躓いて顛倒した。起上 くず 崩れかかる。而し光のなかに踊りだしてくる鵜飼を見るった鵜飼の手首はなまなましい血を噴いている。すると鵜 と、もう蘇ったように自分の足をはずませた。楙山は美飼は、 那を支え、いたわりながら優しく舞った。それにしても今「ねえ榊山君。明日のよる、僕らここに宿まらないか ? 」 ほおあた 夜の美那の美しさ ! その不思議な頬の辺りの紅潮に、楙 楙山は鵜飼の顔をじっと見る。それから風のなかに声を よみがえ しか うず にぶ
のである。少年達にとって私の愚劣な時間がたまらなかっぬ ) どうしても手に入らなかった。千歳は記憶にないとい 加たというのはうなずける。だが、たれよりもあの三人を愛っている。おそらく少年達の秘密な宝物であったにちがい していたのは私だったということも事実なのだ。もっともない。美那の手記の絶筆、「そうだ、わたしはわたしの裸 ところ こんな処で三人に私の枷をきせてしまうのは又もっていけの姿を見たことがない。見たのかしら。でも記憶にはな ないことなのだが。 。昨日一晩それを思うて狂いそうだった。獵されるの これらの事件のなかに登場して、またさまざまな事件のは嫌だが、急に湯灌もよいと思うた。ひょいと見えるかも 契機になった女達、たとえば美那、千歳、あきね、おば、 しれぬ。ひょいと私の全裸が見えるかもしれぬ。」とある ほとん に関して私は殆ど知るところがない。千歳の話に従ってものを思いあわせ、人間の不幸が身に迫る。 わ・・んか・、 大略の輪廓が知れるぐらいのことでその活き活きとした風 おばというのは楙山のおばのことで美那の義理の姉にあ 貌はほとんど眼にとまらないのである。美那が残した手記たっている。少年達の憧の中心であるだけに写真を見て とその最後の一頁に書きこんだおばの手記がいい得るならも優雅な物腰がうかがわれる。記憶が大変薄れているが、 ただ一つの手がかりであろう。 私も一度会ったような気がする。たしか虹の浜辺であっ 美那の手記は少女にしては全く珍らしい達筆で主としてた。浜ひるがおが咲いているタ暮で、鵜飼が大を連れ不思 、、ツション・スクールの寄宿舎生活のひまびまに書きしる議なほど美しい婦人にともなわれていた。私を知ってか知 されたものらしい。夢の多い部分は病後おばにひきとられらずか大変声高に何かを談笑しながら通りすぎていった。 た後の手すさびであろうか。文体はひきしまっているうえふりかえったときは鵜飼は波の中に石をとばせていて、そ いちもくさん に病身にしては感傷もなく鉛筆の跡は冴えている。観察はれから又大と一緒に一目散に走っていった。婦人は取残さ 正確でむしろ私はこの手記から多く少年達の真価を学んだれたままぼんやりとその後姿を追うてたたずんでいた。顔 できし ような気がする。一度千歳に美那の写真を見せてもらつの記憶はないが姿の印象は鮮かに残っている。溺死したの た。一人でうつっているのはこれ一枚ぐらいだという写真が二十八歳の夏だからあれからちょっと後の出来事にちが で、それも現像の折光をかぶったものらしく、ガランとし いないのだ。 そうめい しばしば た廊下からひょいとふりかえった姿である。いかにも聡明 さて奇怪なのは暖々記録のなかに散見する運河登四郎と さび な淋しい姿である。楙山の日記のなかに吉良があきねに撮いう男である。少年達の話題の中に驚くほど重要な位置を はず もらろん らせたという裸の写真がある筈であるが ( 勿論本人は知ら占めているところから私は八方手をつくして調査した、が かせ
110 ところ し、どうして又私の処へやってきたのかと面くらってたずうのだ。この話をきいてもあきねがいかに数々の事件の主 ねてみた。「千歳さんから伺って参りました。」と答え、私動力となって、明暗の糸をあやつっていたかということが とうとう まで そうめい も鵜飼達のことで胸がつまって到頭二時近く迄話しこんで判然する。おそらく聡明あきねに過ぐるものはなかった位 しまった。私の記録に関して重大な転機が来たのであるかで、少年達の世界の見えざる原動力はつねにこのあきねで しようじゅっ ら以下あきねとのいきさつを詳述して記録の首尾を全うあったと極言してもよいくらいだ。 したいと思う。 さて記録の顛末にうつるとして、ここに檀一雄なる人物 が残存していたということの登場に一言を費さねばなるまい。榊山の日記のなかに矢 先ず喜ぶべきは吉良のノート ごと けいすけ である。ノートと云い条、レム・フラントの画集の裏毎に乱内原あきねの弟として矢内原圭介という少年のことが二三 暴な走書で、標題は「或る抽象的な一章ー傍白「お互がお行見えている。この圭介をあきねが二度目の訪問の折に連 きせき 互の奇蹟的な夢のなかで会合したと仮定せよ」とある。日れてきた。年齢のひらきがあったためか記録の党員として の活躍はないがそのきびしい影響のなかに生れた純粋な卵 記でもない。感想でもない。鵜飼、榊山、美那、あきね、 とうげ だと思えば間違いはない。卵は卵でも後に文学青年になっ 並びに吉良自身を一つの全く純粋な観念体の峠に抽象し、 大胆、奔放な会話でアレンジしている。思索の精鋭見るべたというのであってみれば、不肖の卵でもあろうか。 きものがあるとともに、私は吉良達を教壇から見おろして「美那さんからは特別に可愛がられ、美那さんの光栄をも つばら騎士的精神で護っていたんですのよ。」とあきねは いた頃を思いあわせ恥かしさをこらえることが出来なかっ あえ た。この一文のためにも私は敢て記録を発表して人類千古圭介を紹介したときにこう言った。 「・ほくは美那が死んだ折一晩ぶつ通しで泣いちゃった。嘘 の祭壇の前にこの少年達の裸像をささげたく思う。 こうふん あきねとの話はっきなかったが、今更記録の党員等の豊だと思いますか ? 」と圭介のロ吻にはいささか露骨な調子 麗な世界に眼をった。談たまたま運河登四郎のことに及が気にかかる。それでも、吉良の少年だったという申立て んだがあきねは可笑しさをこらえかねてふきだすばかりではあきねが保証した。 ある。問し 、つめると、運河登四郎なる実在の人物はなかっ 話がもつれてきたからかいつまむとして、あきねが圭介 たので、平河与一郎という不良少年の逸話をあきねが着色 ( つまり懍一雄は圭介の筆名 ) と共力、全体の記録を取捨 一し 40 ーこ して話しはじめ、それがいつのまにか鵜飼達の幻想のうえするとともに一篇の物語に仕組もうというのである。手許 の記録を手離しかねる限りない愛着を感じるが、その編者 に巨大にはびこって、到頭消すわけにゆかなかったとい ま あ いつわ まっと てんまっ かわい ふしよう うそ
一人の少女が声をかけると、はじめて気付いたのか鵜飼「廻わすのさ」鵜飼が答える。 は寝ころんだままこちらをむいて、 「いやーよ」と千歳が云った。 しものがある」 「やあ、来てたのか」 それから立上った。声をかけた少女は連れの少女と眼を榊山はにこにこ笑いがならポケットのなかから卵を七つ 交わしてもう一度くすりと笑った。 とりだした。 「これが榊山君だ」 「どうしたんだい」 あいさっ 「もう挨拶済んだのよ」 「うーん、今日ね、阿蘇君からもらったんだ。これを割っ さかず、 その少女が快活に答えた。 たら盃になるよ」 「榊山君、これはあきねという僕の友達」 それで一同は美しく笑いくずれた。藤と噴水が余りに美 れいり 「ああ」と楙山は握手をする。あきねは怜悧な顔で、楙山事なので、みんな甘い葡萄酒をほめちぎった。楙山は一人 ではしゃいだ。淋しくなったからだ。それから酔った。 の手をしつかり握り、 「わたしは鵜飼さんと吉良さんの弟子ですの、でもこちら「もう帰らないといけないわ」と千歳が云った。 かげ らとせ 「そうね」とあきねは翳りはじめた陽を眺めて立上った。 は鵜飼さんの恋人、千歳さん。吉良さんのお従妹よ」 そろ あか 千歳は赧くなりながら榊山の手を握りかえした。二人と「ねえ鵜飼君。あす、ここで揃って僕のおばさんところに ごちそう しか も美しかった。併し榊山は沈んだ千歳よりも、たえず浮きゅかないか。御馳走をたべるのさ。美那ちゃんも連れてき てね。僕は吉良君を呼んでくるからー 上ってくるあきねの方を好きだと思った。 ひたい 「よしそれでは別れよう。あきね君、榊山君の額に例の奴 「ねえ、榊山さん」とあきねは狡るそうに眼を見開いて、 ごしんせき を捲いてやれよ」 「あなたは美那さんの御親戚でしよう ? 」 「ええ、どうしてわかったんです」 あきねはポケットから白い繃帯を取出して、それを榊山 「美那さんのアル・ハムのなかにいらっしやるわ、あなたの額にぐるぐると捲付けた。 が。同じ寄宿舎なのよ」 「何するの ? 」 かんばい 「そうだ、乾盃しよう」鵜飼は下に置いていたコートのポ「こうして街を歩くと可笑しいんだよ。勇気が出るぜ」 ぶどうしゅ 鵜飼もひざまずいて、千歳の手から、同じように捲いて ケットから葡萄酒を抜きだした。 しんく もらった。あきねは捲き終るとその繃帯の上に深紅のルー 「コップは」とあきねが云う。 あくしゅ ほうた