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検索対象: 現代日本の文学 31 太宰治集
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1. 現代日本の文学 31 太宰治集

斎藤氏のお家へ、はじめてお伺いして、ていのいい玄関払れて、なんだ、才能なんて、あてにならない、やつばり人 いを食って帰った時にも、之に似た気持を味わった。世の格が大事だなどと、まじめに考え直してしまっている。こ 中が、ばかばかしい、というよりは、世の中に生きて努力の、気分の急変は、どこから来たか。恋を、まったく得て している自分が、ばかばかしくなるのだ。ひとりで暗闇しまった者の虚無か、きのう鵐座の試験の時に無意識で選 で、ハハンと笑いたい気持だ。世の中に、理想なんて、あんで読んだ、あの、ファウストの、「成就の扉の、開いて りやしない。みんな、ケチくさく生きているのだ。人間と いるのを見た時は、己達はかえって驚いて立ち止まる。」 せりふ いうものは、やつばり、食うためにだけ生ぎているのではという台詞のとおり、かねて、あこがれていた俳優が、あ あるまいか、という気がして来た。あじきない話である。 まりにも容易にみ取れそうなのを見て、うんざりしたの 放課後、ふらふらと蹴球部の仕度部屋へ立ち寄ってみか。 た。蹴球部へでも、はいろうかと思ったのだ。なにも考え「進は、合格しても、あまり嬉しそうでないじゃないか。」 ずにポールでも蹴って、平凡な学生として、・ほんやり暮し兄さんも、そう言っていた。 たくなったのだ。蹴球部の部屋には誰もいなかった。合宿「考えてみます。」僕は、まじめに答えた。 所のほうに行っているのかも知れない。合宿所までたずね今夜は、兄さんと、とてもつまらぬ議論をした。たべも のの中で、何が一番おいしいか、という議論である。いろ て行くほどの熱情も無く、そのまま家へ帰った。 いろ互いに応りを披瀝したが、結局、パイナップルの 家へ帰ったら、座から速達が来ていた。合格である。 かんづめしる 「今回の審査の結果、五名を研究生として合格させた。貴罐詰の汁にまさるものはないという事になった。桃の罐詰 君も、その一人である。明日、午後六時、研究所へおいでの汁もおいしいけど、やはり、パイナツ。フルの汁のような あれ。」というような通知である。少しも、うれしくなか爽快さが無い。・ ( イナップルの罐詰は、あれは、実をたべ 笑った。不思議なくらい、平静な気持であった。大合格のるものでなくて、汁だけを吸うものだ、という事になっ と通知を受けた時のほうが、まだしも、これより嬉しかって、 「パイナップルの汁なら、どんぶりに一ばいでも楽に飲め 正た。僕にはもう、役者の修業をする気が無いのだ。きの う、上杉氏から俳優としての天分を多少みとめられて、そるね。」と僕が言ったら、 「うん、」と兄さんもうなずいて、「それに氷のぶつかきを れだけは、鬼の首でも取ったように、ほくほくしていたの だが、けさ、眼が覚めた時には、その喜びも灰色に感・せらいれて飲むと、さらにおいしいだろうね。」と言った。兄

2. 現代日本の文学 31 太宰治集

食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒と、言った。お酒だ人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、 け、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理「あなたは、津島さんでしよう。」と言った。 で手間取って、客をぼつんと待たせるものだが、四十年配「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。 の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来「そうでしよう。どうも似ていると思った。私はあなたの た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書き とうも、あんまりよ になったからわかりませんでしたが、・ 君った。 く似ているので。」 「深浦の名所は何です。」 かんのん 「でも、あれは、偽名でもないのです。」 「観音さんへおまいりなさいましたか。」 「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小 「観音さん ? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。 そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。 出来るかも知れないと思った。しかるに、その座敷に、ぶどうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上 しおから ってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛れ、この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の さかな 、ものです。」 ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく肴こよ、 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその 率直たるべしと思い 一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。 「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。 、ものだった。こうして、津軽の端まで来ても、 私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方実に、しし をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女やつばり兄たちのカの余波のおかげをこうむっている。結 局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味も 中が、ふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、 二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出ひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範 の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗 はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯った。 を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。 鰺ケ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立ち 翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時

3. 現代日本の文学 31 太宰治集

なったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込ん き、ただ一言、「おそろしい。」 だ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。 大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な 形容詞も思い浮ばないのと同様に、この本州の路のきわま「竜飛だ。」と z 君が、変った調子で言った。 「ここが ? 」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、 るところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私は それらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、 いた。もう三十分くらいで竜飛に着くという頃に、私は幽さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合 って立っているのである。ここは、本州の極地である。こ かに歩入い 「こりやどうも、やつばりお酒を残して置いたほうがよかの部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかり ったね。竜飛の宿に、お酒があるとは思えないし、どうもだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路 こう寒くてはね。」と思わず愚痴をこぼした。 だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、そ 「いや、僕もいまその事を考えていたんだ。も少し行くの路をどこまでも、さかの・ほり、さかの・ほり行けば、必ず と、僕の昔の知合いの家があるんだが、ひょっとするとそこの外ケ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさ こに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まかの・ほれば、すぼりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落 ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。 ない家なんだ。」 「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、 「当って見てくれ。」 これはよその台所へはいってしまった、と思ってひやりと 「うん、やつばり酒が無くちゃいけない。」 竜飛の一つ手前の部落に、その知合いの家があった。 z したからね。」と z 君も言っていた。 けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。 君は帽子を脱いでその家へはいり、しばらくして、笑いを 私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければな 噛み殺しているような顔をして出て来て、 「悪運つよし。水筒に一ばいつめてもらって来た。五合以らぬ。露路をとおって私たちは旅館に着いた。お婆さんが 出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もま 津上はある。」 た、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決 「燠が残っていたわけだ。行こう。」 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りにして薄っぺらでない。まず、どてらに着換えて、私たちは 小さい囲炉裏を挾んであぐらをかいて坐り、やっと、どう 走るようにして竜飛に向って突進した。路がいよいよ狭く おき

4. 現代日本の文学 31 太宰治集

見えていた。話の何かいいついでがあったから、思い切っひたと変って行くのを、私は帰郷の度毎に、興深く眺めて て次兄に尋ねた。女中がひとり足りなくなったようだが、 いた。私は、長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本 と手に持っていた五六枚のトランプで顔を被うようにしつの軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であ つ、余念なさそうな口調で言った。もし次兄が突っこんでった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何 来たら、さいわい弟も居合せていることだし、はっきり言百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きか ってしまおうと心をきめていた。 けながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方 次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれとへ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こ 出し迷いながら、みよか、みよは婆様と喧嘩して里さ戻っした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へ た、あれは意地つばりだぜえ、と呟いて、ひらっと一枚捨でも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうっした写 てた。私も一枚投げた。弟も黙って一枚捨てた。 真のようであった。母がひとり低いソフアに坐って、その それから四五日して、私は鶏舎の番小屋を訪れ、そこのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立ってい 番人である小説の好きな青年から、もっとくわしい話を聞た。背景は薔薇の咲き乱れた花園であった。私たちは、お ちょっと いた。みよは、ある下男にたったいちどよごされたのを、互いに頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそい ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくな だ。私は、こころの中でとっくに弟と和解していたのだ ったのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせて のときは既に私のうちから出されていた。それにしても、 なかったし、わりにおちつきを装ってその写真を眺めるこ 青年はすこし言い過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にか とで囁いた、とその男の手柄話まで添えて。 けての輪郭がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組ん でまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。 正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟と ふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見て あそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちら ちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋 部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひた

5. 現代日本の文学 31 太宰治集

一月、『新釈諸国噺』を生活社より刊行。一一月、「惜別」を完成。三三鷹に仕事部屋を借りて「斜陽」を書きつづけ、六月末に完成。七 月末、妻子を甲府の石原家に疎開させた。その後、自身も甲府の石月、『冬の花火』を中央公論社より刊行。「朝」を「新思潮」に、 原家に疎開した。六月末、「お伽草紙」を完成した。七月七日の空「斜陽」を「新潮」 ( 十月完結 ) に発表。八月、『ヴィョンの妻』を 襲で石原家も全焼。同月一一十八日、妻子を連れて津軽に旅立ち、三筑摩書房より刊行。十月、「おさん」を「改造」に発表。十一月、 十一日、金木町の生家に着いた。九月五日、『惜別』を朝日新聞社太田静子に治子生まれる。十二月、『斜陽』を新潮社より刊行。 三十九歳 より刊行。十月十日から河北新報に「。ハンドラの匣」を連載、十一一昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一月、「犯人」を「中央公論」に発表。三月、「美男子と煙草」を 月に完結。その間、十月、『お伽草紙』を筑摩書房より刊行。 三十七歳「日本小説」に、「如是我聞」の一を「新潮」に発表。三月十日よ 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) り熱海の起雲閣に滞在して、「人間失格」を「第一一の手記」まで執 一月、「庭」を「新小説」に、「親という一一字」を「新風」に発表。 二月、「嘘」を「新潮」に、「貨幣」を「婦人朝日」に発表。三月、筆、三十一日帰京。四月、三鷹の仕事部屋で「第三の手記」の前半 「やんぬる哉」を「月刊読売」に、「苦悩の年鑑」を「新文芸」に、を書き、同月一一十九日より五月十二日まで大宮市大門町の藤縄方で 完成した。四月、「渡り鳥」を「群像」に、「女類」を「八雲」に発 「雀」を「思潮」に発表。四月、戦後最初の衆議院議員総選挙で、 長兄文治当選す。同月、「十五年間」を「文化展望」に発表。六月、表。『太宰治全集』の第一回配本『虚構の彷徨』 ( 第一一巻 ) を八雲書 最初の戯曲「冬の花火」を「展望」に発表。『パンドラの匣』を河店より刊行。五月、「桜桃」を「世界」に、「如是我聞」の二を「新 北新報社より刊行。七月四日、祖母いし死去。享年八十九歳。同潮」に発表。五月中旬頃から「朝日新聞」に連載予定の「グッド・ 月、「チャンス」を「芸術」に、九月、戯曲「春の枯葉」を「人間」・ハイ」を仕事部屋で書きはじめ、下旬に第十回分までの草稿を渡し に発表。十一月、約一年半の疎開から家族と共に三鷹の自宅に帰た。この頃、疲労が極度に達し、不眠症もひどく、しばしば喀血し る。十二月、『薄明』を新紀元社より刊行。「親友交歓」を「新潮」た。六月、「人間失格」の「第一一の手記」までを「展望」に、「如是我 聞」の三を「新潮」に発表。六月十三日深更、山崎富栄とともに近 に、「男女同権」を「改造」に発表。 三十八歳くの玉川上水に入水。十九日早朝死体を発見。一一十一日、自宅にお 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 一月、「トカトントン」を「群像」に、「メリイクリスマス」を「中いて、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二によって告別式が おろ・・・く 央公論」に発表。一一月、神奈川県下曽我に太田静子を訪問、約一週行なわれた。七月十八日、三鷹町下連雀、黄宗禅林寺に葬られ 間滞在し、そのまま田中英光の疎開先、伊豆三津浜に行き、安由屋た。死後、「人間失格」の第一一、第三回が「展望」七、八月号に、 旅館に滞在、「斜陽」の一、一一章を書く。三月、「母」を「新潮」「グッド・・ハイ」の十三回分が「朝日評論」七月号に、「如是我聞」 に、「ヴィョンの妻」を「展望」に発表。三月三十日、次女里子がの四が「新潮」七月号に、「家庭の幸福」が「中央公論」八月号に 生まれる。四月、「父」を「人間」に、五月、「女神」を「日本小発表された。七月、『人間失格』が筑摩書房より、『桜桃』が実業之 説」に発表。春ごろ、山崎富栄と知り合う。四月から六月にかけて日本社より、また、十一月、『如是我聞』が新潮社より刊行された。

6. 現代日本の文学 31 太宰治集

た。二日目の夕刻、 Z 君は私の仕事をしている部屋へやっ なんだ。はいり給え。下駄のままでいい。」と言うのだが、 て来て、 私は、下駄のままで精米所へのこのこはいるほど無神経な わらそうり 「書けたかね。一「三枚でも書けたかね。僕のほうは、も男ではない。 z 君だって、清潔な藁草履とはきかえている。 う一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやっそこらを見廻しても、上草履のようなものも無かったし、 てしま 0 た。あとでまた遊・ほうと思うと気持に張合いが出私は、江場の門口に立 0 て、ただ、にやにや、笑 0 てい て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力た。裸足になってはいろうかとも思ったが、それは z 君を をかけよう。」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も ただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似ている 経たぬうちに、また私の部屋へやって来て、 ようにも思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識 「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械的な善事を行うに当って、甚だてれる悪癖がある。 の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無い 「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで だろう。汚い工場だよ。見ないほうがいいかも知れない 操縦が出来るね。」お世辞では無かった。 z 君も、私と同 まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね。」と言様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかったので って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、ある。 気がついた。 Z 君は私に、工場で働いている彼の甲斐甲斐「いや、簡単なものなんだ。このスイッチをこうすると、」 しい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終るなどと言いながら、あちこちのスイッチをひねって、モー もみがら から、終らないうちに見に来い、という謎であったのだ。 ターをびたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出さ 私はそれに気が付いて微笑した。いそいで仕事を片付け、せて見せたり、出来上りの米を瀑布のようにざっと落下さ 私は、道路を隔て別棟になっている精米エ場に出かけた。 せて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せ Z 君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるるのである。 しく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわ ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さ し、仔細らしい顔をして立っていた。 いポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あ 「さかんだね。」と私は大声で言った。 ぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土 Z 君は振りかえり、それは嬉しそうに笑って、 蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、 「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐ「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されて

7. 現代日本の文学 31 太宰治集

いたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅史 てやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、か もめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。や ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんはりその「思い出」という小説の中に次のような一節があ かんを二、三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる。 うちわ ゑときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇「秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかか をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つって行ける海岸の温泉地へ、第をつれて出掛けた。そこに かわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗いは、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたの 海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口をだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。 つぐ 噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいに私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうして たくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらも、中学四年から高等学校へはいって見せなければならな と水平線から浮んで出た。」 かったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっ この弟は、それから一「三年後に死んだが、当時、私たそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、そ ちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘れでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へか をさして弟と二人でこの桟橋に行った。深い港の海に、雪よった。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人た がひそひそ降っているのはいし 、ものだ。最近は青森港も船ちと必ずビクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上 にくなペ ふくそう で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多く 舶輻輳して、この桟橋も船で埋って景色どころではない。 それから、隅田川に似た広い川というのは、青森市の東部のあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弗に 教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川という ものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった 軽 流するかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍筈のその岩が、いっか離れ島になっているので、私たちは たと 津い流れを眺めて放心した。きざな譬え方をすれば、私の青まだ夢から醒めないでいるような気がするのである。」 いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言ってやり 春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に せいれつ 於ける四年間は、その故に、私にと 0 て忘れがたい期間でたいところでもあろうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無 いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言えない。寒々 あったとも言えるであろう。青森に就いての隸い出は、だ

8. 現代日本の文学 31 太宰治集

合一雄という男にな 0 た。石にむ細か 0 た。所持のお金ひどか 0 た。掘り下げて行くと、際限が無いような気配さ を大事にした。どうにかなろうという無能な思念で、自分え感ぜられた。私は中途で止めてしま 0 た。 の不安を誤魔化していた。明日に就いての心構えは何も無私だとて、その方面では、人を責める資格が無い。鎌倉 かった。何も出来なかった。時たま、学校へ出て、講堂のの事件は、どうしたことだ。けれども私は、その夜は煮え 前の芝生に、何時間でも黙 0 て寝ころんでいた。或る日のくりかえ 0 た。私はその日までを、講わば掌中の玉のよ 事、同じ高等学校を出た経済学部の一学生から、いやな話うに大事にして、誇っていたのだということに気付いた。 を聞かされた。煮え湯を飲むような気がした。まさか、とこいつの為に生きていたのだ。私は女を、無垢のままで救 思った。知らせてくれた学生を、かえって憎んだ。に聞ったとばかり思っていたのである。の言うままを、勇者 いてみたら、わかる事だと思った。いそいで八丁堀、材木の如く単純に合点していたのである。友人達にも、私は、 屋の二階に帰って来たのだが、なかなか言い出しにくかっそれを誇って語っていた。は、このように気象が強いか た。初夏の午後である。西日が部屋にはいって、暑かつら、僕の所へ来る迄は、守りとおす事が出来たのだと。目 た。私は、オラガビイルを一本、に買わせた。当時、オ出度いとも、何とも、形容の言葉が無かった。馬鹿息子で ラガビイルは、二十五銭であった。その一本を飲んで、もうある。女とは、どんなものだか知らなかった。私はの欺 一本、と言ったら、に呶鳴られた。呶鳴られて私も、気瞞を憎む気は、少しも起らなかった。告白するを可愛い 持に張りが出て来て、きよう学生から聞いて来た事を、努とさえ思 0 た。背中を、さす 0 てやりたく思 0 た。私は、 めてさりげない口調で、に告げることが出来た。は半ただ、残念であったのである。私は、いやになった。自分 こんぼう 可臭い、と田舎の言葉で言って、怒ったように、ちらと眉の生活の姿を、棍棒で粉砕したく思った。要するに、やり をひそめた。それだけで、静かに縫い物をつづけていた。切れなくなってしまったのである。私は、自首して出た。 景 濁った気配は、どこにも無かった。私は、を信じた。 検事の取調べが一段落して、死にもせず私は再び東京の ざんげろく 京その夜私は悪いものを読んだ。ルソオの懺悔録であ 0 街を歩いていた。帰るところは、の部屋より他に無い。 こ。レノオが、やはり細君の以前の事で、苦汁を嘗めた箇私はのところへ、急いで行った。侘びしい再会である。 東ナ / 、 所に突き当り、たまらなくなって来た。私は、を信じら共に卑屈に笑いながら、私たちはカ弱く握手した。八丁堀 を引き上げて、芝区・白金三光町。大きい空家の、離れの 肪れなくなったのである。その夜、とうとう吐き出させた。 一室を借りて住んだ。故郷の兄たちは、呆れ果てながら 学生から聞かされた事は、すべて本当であった。もっと、 まん

9. 現代日本の文学 31 太宰治集

だ。油断してはならない、などと考えていたら、番頭さん先生のものなど色々やってみたが、どうも左団次や羽左衛 こわいろ 1 がひょいとドアから顔を出して、 門の声色みたいになっていけない。僕の個性が出ないの かた せりふ 「お書きになりました方は、その答案をお持ちになって、 だ。そうかといって、武者小路や久保田万太郎のは、台詞 どうそこちらへ。」また御案内だ。 がとぎれて、どうも朗読のテキストには向かないのだ。 書きあげたのは僕ひとりだ。僕は立って廊下へ出た。別人三役くらいで対話の朗読など、いまの僕のカでは危かし 棟の広い部屋に通された。なかなか立派な部屋だ。大きい いし、一人で長い台詞を言う場面は、一つの戯曲にせいぜ 食卓が、二つ置かれてある。床の間寄りの食卓をかこんで い二つか三つ、いや何も無い事さえあって、意外にも少い 試験官が六人、二メートルくらいはなれて受験者の食卓。ものなのだ。たまにあるかと思うと、それはもう既に名優 こわいろ かくしげい 受験者は、僕ひとり。僕たちの先に呼ばれた五人の受験者の声色、宴会の隠芸だ。何でもいいから、一つだけ選べ、 たちは、もう皆すんで退出したのか、誰もいない。僕は立と言われると実際、迷ってしまうのだ。まごまごしている って礼をして、それから食卓に向ってきちんと坐った。、 うちに試験の期日は切迫して来る。 いっそこうなれば「桜 る、いる。市川菊之助、瀬川国十郎、沢村嘉右衛門、坂東の園」のロ・ハ ーヒンでもやろうか。いや、それくらいな 市松、坂田門之助、染川文七、最高幹部が、一様に、にこら、ファウストがいい。あの台詞は、鵐座の試験の、とっ にこ笑ってこっちを見ている。僕も笑った。 さの場合に僕が直感で見つけたものだ。記念すべき台詞 「何を読みますか ? 」瀬川国十郎が、金歯をちらと光らせだ。きっと僕の宿命に、何か、つながりのあるものに相違 て言った。 よい。ファウストにきめてしまえ ! という事になったの 「ファウストー」ずいぶん意気込んで言ったつもりなのだである。このファウストのために失敗したって僕には悔い うなず が、国十郎は軽く首肯いて、 がない。誰はばかるところなく読み上げた。読みながら、 「どうそ。」 とても涼しい気持がした。大丈夫、大丈夫、誰かが背後で そう言っているような気もした。 僕はポケットから外訳の「ファウスト」を取り出し、 れいの、花咲ける野の場を、それこそ、天も響けと読み上人生は彩られた影の上にある ! と読み終って思わずに げた。この「ファウスト」を選ぶまでには、兄さんと二人っこり笑ってしまった。なんだか、嬉しかったのである。 で実に考えた。春秋座には歌舞伎の古典が歓迎されるだろ試験なんて、もう、どうだっていいというような気がして * もくあみ しようよう * きどう うという兄さんの意見で、黙阿弥や逍遙、綺堂、また斎藤来た。

10. 現代日本の文学 31 太宰治集

「鳩の家」の男の子の役をつとめ、かつぼれも踊ったけれ此の家が焼けたら、と思うと眠るどころではなかったので かわや ど少しも気乗りがせずたまらなく淋しかった。そののちもある。いっかの夜、私が寝しなに厠へ行ったら、その厠と 私はときどき「牛盗人」や「皿屋敷」や「俊徳丸」などの廊下ひとっ隔てた真暗い帳場の部屋で、書生がひとりして 芝居をやったが、祖母はその都度にがにがしげにしていた。活動写真をうっしていた。白熊の、氷の崖から海へ飛び込 ふすま 私は祖母を好いてはいなかったが、私の眠られない夜にむ有様が、部屋の襖へマッチ箱ほどの大ぎさでちらちら映 のぞ は祖母を有難く思うことがあった。私は小学三四年のころっていたのである。私はそれを覗いて見て、書生のそうい から不眠症にかかって、夜の二時になっても三時になってう心持が堪らなく悲しく思われた。床に就いてからも、そ も眠れないで、よく寝床のなかで泣いた。寝る前に砂塘をなの活動写真のことを考えると胸がどきどきしてならぬの だ。書生の身の上を思ったり、また、その映写機のフィル めれま、 をしいとか、時計のかちかちを数えろとか、水で両足 ムから発火して大事になったらどうしようとそのことが心 を冷せとか、ねむのきの葉を枕のしたに敷いて寝るといし とか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教えられた配で心配で、その夜はあけがた近くになる迄まどろむ事が ききめ が、あまり効目がなかったようである。私は苦労性であつ出来なかったのである。祖母を有難く思うのはこんな夜で あった。 て、いろんなことをほじくり返して気にするものだから、 尚のこと眠れなかったのであろう。父の鼻眼鏡をこっそり まず、晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて、私の眠 いじくって、ぼきっとその硝子を割ってしまったときにるまではその女中も私の傍に寝ながら付いていなければな は、幾夜もつづけて寝苦しい思いをした。一軒置いて隣りらなかったのだが、私は女中を気の毒に思い、床につくと の小間物屋では書物類もわずか売っていて、ある日私は、すぐ眠ったふりをするのである。女中がこっそり私の床か そこで婦人雑誌のロ絵などを見ていたが、そのうちの一ら脱け出るのを覚えつつ、私は睡眠できるようにひたすら てんてん 出枚で黄色い人魚の水彩画が欲しくてならず、盗もうと考え念じるのである。十時頃まで床のなかで輾転してから、私 おさ て静かに雑誌から切り離していたら、そこの若主人に、治はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うち こ、治こ、と見とがめられ、その雑誌を音高く店の畳に投の人は皆寝てしまっていて、祖母だけが起きているのだ。 思 げつけて家まで飛んではしって来たことがあったけれど、祖母は夜番の爺と、台所の大きい囲炉裏を挾んで話をして そういうやりそこないもまた私をひどく眠らせなかった。 いる。私はたんぜんを着たままその間にはいって、むつつ 私は又、寝床の中で火事の恐怖に理由なく苦しめられた。 りしながら彼等の話を聞いているのである。彼等はきまっ