海岸に沿うた一本街で、どこ迄行っても、同じような家並っすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私 も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置 が何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、 一里歩いたような気がした。やっと町のはずれに出て、まいた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の ふしだら た引返した。町の中心というものが無いのである。たいて二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後始末を、少しもいや な顔をせず引き受けてくれた恩人である。しばらく振りの いの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、 おもし いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨 町の重になっていて、その町を素通りする旅人にも、あ中畑さんは、 あ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出年、病気をなさって、それから、こんなに痩せたのだそう 来ているものだが、鰺ケ沢にはそれが無い。扇のかなめがである。 こわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来 るようになったもののう。」と、それでも嬉しそうに、私 の勢力あらそいなど、ごたごたあるのではなかろうかと、 れいのドガ式政談さえ胸中に往来したほど、どこか、かなの乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れて たんす めの心細い町であった。こう書きながら、私は幽かに苦笑いるな。」と言って、自分で立って簟笥から上等の靴下を これでも一つ出して私に寄こした。 しているのであるが、深浦といい鰺ケ沢といし ちょう 「これから、ハイカラ町へ行きたいと思ってるんだけど。」 私の好きな友人なんかがいて、ああよく来てくれた、と言 行っていらっしゃい。それ、けい子、 ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などし「あ、それはいい。 てくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早ゃな性 て、深浦、鰺ケ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致で格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家 もって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の 象記などあてにならないものである。深浦、鰺ケ沢の人頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれど は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがも、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。五所 してほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の 幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所 土を汚すほどの権威も何も持っていないのだから。 鰺ケ沢の町を引き上げて、また五能線に乗って五所川原川原の或る新聞に次のような随筆を発表した。 町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、ま「叔母さんが五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原
川であり、五所川原は浅草、といったようなところでもあか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく ろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生み緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだ の母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばころうと思っていたのです。久留米絣に、白っ。ほい縞の、短 の五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはい い袴をはいて、それから長い靴下、編上のビカビカ光る黒 るまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆえ、 あによめ 少年の身のまわり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。 の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それ少年は、嫂に骭に甘えて、むりやりシャツの襟を大きく は、わずか三、四時間の旅であった筈なのに、私にとってしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰に は非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色しも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思うのでした。 て小説にも書いた事があって、その描写は必ずしも事実そ『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きていまし のままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはいる た。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそ が、けれども、感じは、だいたいあんなものだったと思っれに尽きていました。マントは、わざとボタンを掛けず、 ている。すなわち、 小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織っ わざ 「誰にも知られぬ、このような侘びしいおしゃれは、年一て、そうしてそれを小粋な業だと信じていました。どこか 年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車ら、そんなことを覚えたのでしよう。おしゃれの本能とい に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学うものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも 試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足 装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネル を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝っ のシャツは、よっ・ほど気に入っていたものとみえて、やはた身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端 り、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツにの一小都会に着いたとたんに、少年の言葉っきまで一変し ちょうちょうはね 津は蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏てしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えて の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせあった東京弁を使いました。けれども宿に落ちつき、その ているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっ宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやつばり少年の生れ ばり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし くるめがすり
倍もウイスキーを飲んだのだ。だが、なぜか余り酔わ なかった。 私はその晩、もし斜陽館に部屋が空いていれば泊め てもらおうと思っていたのだが、急にその計画をかえ、 富 タクシーを呼んでもらって五所川原へ行ってくれるよ うに頁んだ。 太宰が浅草にたとえた、〈善く一言えば、活気のある町 であり、悪く言えば、さわがしい町 : : : 〉である五所川 っ原に対して、私はなぜか急に奇妙な恋しさをおばえた からである。 ひろさき その晩、私は五所川原を経て、弘前の町へ出た。そ きっす、 おもなが して、そこで出会った生粋の弘前生れだという面長の こわ ( ノ第犠女のひとから、怖い話を聞いた。 かみそり さカ 深夜、蝋燭をともし、剃刀を逆さにくわえて鏡をの 現ぞき込むと、将来自分の男になる相手の顔が見えると 屋言うのである。それを教えられた彼女は、アハ 四畳半の部屋で深夜ためしてみた。すると、鏡の中に 天実の父親の顔がばんやり映ったのだそうだ。 くたく亠ま そんな事を喋りながら、その女のひとは太 しい腕で、干した魚を裂いて私にすすめるのだった。 津軽の人には、なぜか一般に考えられている東北人
~ 津軽 津軽の雪 ざかみわっこ 東おらたずたぶな 年りめ雪雪雪雪雪 鑑 よ雪雪 り 序編 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半 島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それ は、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一 つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に 於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、 大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いて は少しも知るところが無かったのである。 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほ・ほ中央に位 し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら 都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水の ように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町とい う事になっているようである。それから三里ほど南下し、 岩木川に沿うて五所川原という町が在る。この地方の産物 の集散地で人口も一万以上あるようだ。青森、弘前の両市 を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善 く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい 町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦 慄がこれくらいの小さい町にも既に幽かに忍びいっている 模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉ロして申し上げ るのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石 おおわに
とり、粗野で、がらつばちのところがあるのは、この悲し い育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この 時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は 断じて、上品な育ちの男ではない。・ とうりで、金持の子供 らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青 森に於ける e 君であり、五所川原に於ける中畑さんであ 、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけ である。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たち も、そのむかし一度は、私の家にいた . 事がある人だ。私 は、これらの人と友である。 さて、聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦 下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひと まずべンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書き たい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰 囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私 は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さら ば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望する な。では、失敬。
昭和二十一一年、三鷹の書斎で 太宰自詠 了いⅣ。考、ん 太宰の戯画 日本海に面した小さな漁村、その村の小学校の裏手で、 戦争末期にもかかわらす、「昔と少しも変らぬ悲しい ほど美しく賑かな祭礼」をくりひろげている運動会、 それらを背景として、太宰はたけに再会するのだ か、このあたりから終りまでは、なんどよみかえして もあきない部分である。末尾において、太宰の自己確 認を描いたりんとした節もみごとである : 私は、たけの、そのように強くて不遠慮な愛情 のあらわし方に接して、あ、私は、たけに似ている のだとった。きようだい中で、私ひとり、粗野で、 がらつばちのところがあるのは、この悲しい育ての親 の影響だった事に気付いた。人は、この時はじめて、 私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断して、 上品な育ちの男ではない。どうりで、金持の子供らし くないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青 森に於ける君であり、五所川原にける中畑さんで あり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於け るたけである。アヤは現在も私の家に仕えているか、 他の人たぢも、そのむかし一度は、私の家にいた事が ある人だ。私は、これらの人と友である」 475
くわ 鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部「陽ちゃまは、きのこ取りの名人です。」と言い添えた。 落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木また、山を登りながら、 も発展して、賑やかになったものだと、しみじみ思った。 「金木へ、宮様がおいでになったそうだね。」と私が言う そろそろ、山の登り坂にさしかかっても、まだ姪の姿が見と、アヤは、改まった口調で、はい、と答えた。 えない 「ありがたい事だな。」 「はい。」と緊張している。 「どうしたのでしようね。」私は、母親ゆずりの苦労性で ある。 「よく、金木みたいなところに、おいで下さったものだ 「いやあ、どこかにいるでしよう。」新郎は、てれながらな。」 「はい。」 も余裕を見せた。 「とにかく、聞いてみましよう。」私は路傍の畑で働いて「自動車で、おいでになったか。」 自動車でおいでになりました。」 いるお百姓さんに、スフの帽子をとってお辞儀をして、 「この路を、洋服を着た若いアネサマがとおりませんでし「アヤも、拝んだか。」 「はい。拝ませていただきました。」 たか。」と尋ねた。とおった、という答えである。何だか、 走るように、ひどくいそいでとおったという。春の野路「アヤは、仕合せだな。」 を、走るようにいそいで新郎の後を追って行く姪の姿を想「はい。」と答えて、首筋に巻いているタオルで顔の汗を 像して、わるくないと思った。しばらく山を登って行くと、拭いた。 からま 並木の落葉松の蔭に姪が笑いながら立っていた。ここまで鶯が鳴いている。スミレ、タンポポ、野菊、ツッジ、白 追っかけて来てもいないから、あとから来るのだろうと思ウッギ、アケビ、野・ハラ、それから、私の知らない花が、 って、ここでワラビを取っていたという。別に疲れた様子山路の両側の芝生に明るく咲いている。背の低い柳、カシ も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコ ワも新芽を出して、そうして山を登って行くにつれて、笹 など山菜の宝庫らしい。秋には、初茸、土かぶり、なめこ ・、たいへん多くなった。二百メートルにも足りない小山で などのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷かさっているあるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅 ほど」一ばい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取まで見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。 りに来る人もあるという。 私たちは立ちどまって、平野を見下し、アヤから説明を聞 はったけ
「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいた 私は片手で欄干を撫でながらゆっくり橋を渡って行っ 、景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばんね。こんど、おむこさんをもらうんだって ? 」 4 ~ しし うなす かげろう 似ている。河原一面の緑の草から陽炎がの・ほって、何だか「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。 「いっ ? もう近いの ? 」 眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の 「あさってよ」 草を舐めながら、白く光って流れている。 「夏には、ここへみんなタ涼みにまいります。他に行くと「へえ ? 」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるで ひと事のように、けろりとしている。「帰ろう。いそがし ころもないし。」 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑いんだろう ? 」 、え、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘 わう事だろうと思った。 で、そうして養子を迎え、家系を嗣ごうとしているひと 「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、 の上流のほうを指差して「教えて、父の自慢の招魂堂。」は、十九や二十の若さでも、やつばりどこか違っている、 と私はひそかに感心した。 と笑いながら小声で言い添えた。 なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは在郷「あした小泊へ行って、」引返して、また長い橋を渡りな がら、私は他の事を言った。「たけに逢おうと思っている 軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れい の侠気を発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつんだ。」 たもと くしたので、私たちは橋の袂に立って、しばらく話をし「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」 こ 0 「うん。そう。」 「よろこぶでしようねえ。」 「林檎はもう、既ルというのか、少しずつ伐 0 て、伐った 「どうだか。逢えるといいけど。」 あとに馬鏘だか何だか植える 0 て話を聞いたけど。」 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひと 「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そ がいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三 んな話は。」 大川の土手の蔭に、林檎畑があって、白い粉つぼい花が十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔 満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたとい っていいかも知れない。以下は、自作「思い出」の中の文 ずる。 こどまり
越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここで「ああ、わかりました。その人なら居ります。」 おしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたり「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」 を中心にして、柱時計の振子のように、旧津軽領の西海岸私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。 南端の深浦港からふらりと舞いもどってこんどは一気に同間ロ三間くらいの小じんまりした金物屋である。東京の私 じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのでの草屋よりも十倍も立派だ。店先に力アテンがおろされて ある。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄った なんきんじよう が、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通ら、果して、その戸に小さい南京錠が、びちりとかかって いるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いず いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって 仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近くの十れも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を 三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われた事など、拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょ 前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村っと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっ の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。水田は、 との外出に、店に力アテンをおろし、戸じまりをするなど 村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊という事は無い。一「三日あるいはもっと永い他出か。こ 富なようで、ソイ、アプラメ、イカ、イワシなどの魚類の いつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたの 他に、コン・フ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらし だ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っ ていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野 「越野たけ、という人を知りませんか。」私は・ハスから降さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈 りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。 は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋 「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないよう 軽 かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけ げ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるのたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに 津 答えた。私は勢い込んで、 「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この 十くらいのひとなんです。」私は懸命である。 近くですか、それとも。」
は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の原の叔母の家に一泊させてもら 0 て、あす、五所川原から 、、泊へ行ってしまおうと思い立ったのであ 思いで泣いて、それから、一「三日、私はしやくり上げてまっすぐに ばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいなる。けいちゃんと一緒に ( イカラ町の叔母の家へ行 0 てみ 。それから、一年ほど経って、ひょ 0 くりたけと逢 0 たると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前 が、たけは、〈んによそよそしくしているので、私にはひの病院に入院しているので、それの付添いに行 0 ていると いうのである。 どく怨めしかった。それつきり、たけと逢っていない。 四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を「あなたが、こ 0 ち〈来ているという事を、母はもう知 0 依頼されて、その時、あの「思い出 , の中のたけの箇所をて、ぜひ逢いたいから弘前〈寄こしてくれ 0 て電話があり 朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけましたよ。」と従姉が笑いながら言った。叔母はこの従姉 は、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。 のたよりも無かった。そのまま今日に到 0 ているのである「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと が、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけに思っていますから、病院にもきっと行きます。」 ところは「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けい ひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いい 後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私ちゃんは、何かとご自分の仕度でいそがしいだろうに、家 はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。 「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事 後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川 おおわに 原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温です。たけも、なん・ほう、よろこぶか、わかりません。」 泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕 0 ていたか知っ へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持ってているようであった。 来ない私の旅費も、そろそろ心細くな 0 ていたし、それ「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であ 0 た。 に、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちもちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野 こち廻 0 て歩くのも大儀にな 0 て来て、大鰐温泉はあきらたけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのであ 、よ、よ東京へ帰る時に途中でちょっとる。 め、弘蔔市こま、 「小泊行きの・ハスは、一日に一回とか聞いていましたけ 立ち寄ろうという具合に予定を変更して、きようは五所川