214 ども私は、やつばり誰かを待っているのです。いったい私 は、毎日ここに坐って、誰を待っているのでしよう。どん いえ、私の待っているものは、人間でないか な人を ? ししえ、こわいの も知れない。私は、人間をきらいです。、、 です。人と顔を合せて、お変りありませんか、寒くなりま した、などと言いたくもない挨拶を、 しい加減に言ってい ると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にいないよう な苦しい気持になって、死にたくなります。そうしてま た、相手の人も、むやみに私を警戒して、当らずさわらず のお世辞やら、もったいぶった嘘の感想などを述べて、私 はそれを聞いて、相手の人のけちな用心深さが悲しく、い 省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいり ます。誰とも、わからぬ人を迎えに。 よいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります。世の中 かならず駅に立ちの人というものは、お互い、こわばった挨拶をして、用心 市場で買い物をして、その帰りには、 寄って駅の冷いペンチに腰をおろし、買い物籠を膝に乗して、そうしてお互いに疲れて、一生を送るものなのでし ようか。私は、人に逢うのが、いやなのです。だから私 せ、・ほんやり改札口を見ているのです。上り下りの電車が ホームに到着する毎に、たくさんの人が電車の戸口から吐は、よほどの事でもない限り、私のほうからお友達の所へ き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒ってい遊びに行く事などは致しませんでした。家にいて、母と二 人きりで黙って縫物をしていると、一ばん楽な気持でし るような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、 た。けれども、 いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひど それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐ってい く緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんや るべンチの前を通り駅前の広場に出て、そうして思い思い の方向に散って行く。私は、・ほんやり坐っています。誰りしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だ か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。あか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。身を粉にし あ、困る。胸が、どきどきする。考えただけでも、背中にて働いて、直接に、お役に立ちたい気持なのです。私は、 冷水をかけられたように、そっとして、息がつまる。けれ私の今までの生活に、自信を失ってしまったのです。 こな
持っ選ばれた種族と、彼らの根の国に惹かれるものを フライング・ダ . 覚えるのだ。さまよえるオランダ人である私自身に対 して、津軽人は、そして太宰の文学は、いわば強い掲 ごう 。津軽人は、津軽 仰と嫉妬の対象だったと言っていし という土地の、永遠の囚人であるか、または永遠の愛 人なのである。そしてその二つのもののアンビバレン ツの陰翳を鮮かに照らし出した一瞬の光芒が、太宰の 文学だと私は思う。津軽人の郷土に対する愛憎と、太 宰の愛読者の太宰に対する愛憎とは、見事な対位法的 コード進行を描いている。数ある近代日本の作家群の 中で、太宰がまさに選ばれたるもの、と見えるのは、 実はそのためではないだろうか。好むと好まざるとに かかわらず、太宰文学は津軽と津軽人のシンポルであ り、その故にこそ、デラシネの時代の渇仰の対象とな り、その引き裂かれた心情の深さ激しさによってすべ ての読者のものたり得ているのだろう。 津軽人の郷土に対する激烈な愛は、ほとんど宗教的 とも一言えるはどに一途であり、そのひたむきさによっ て私たちを打つ。〈文学のある風景〉の中で、小野氏 ンロサギ が紹介している一戸謙三の方言詩、〈弘前〉の一篇は、 その余りの熱狂りが私たちに或る滑檮さを感じさせ るほどに至純であり、美しく、また崇高でさえある 私はこの詩を、工藤勉のイントネイションを真似た偽 いちのヘ かっ
「御苦労さまです。」国十郎氏は、ちょっと頭をさげて、前はわからなかったが角帯をしめた四十歳前後の相当の幹 とうい十・ 部らしいひとが二人、部屋の隅の籐椅子に腰かけていた。 「もう一つ、こちらからのお願い。」 若い、事務員みたいな人が白ズボンにワイシャッという姿 「はあ。」 「ただいま向うでお書ぎになった答案を、ここで読みあげで、僕たちに号令をかけるのである。和服の人は着物をみ な脱がなければならないが、洋服の人は単に上衣を脱ぐだ て下さい。」 けでよろしいという事であって、僕たちの組の人は全部洋 「答案 ? これですか ? 」儺はどぎまぎした。 服だったので、身仕度にも手間がかからず、すぐに体操が 「ええ。」笑っている。 これには、ちょっと閉ロだった。で春秋座の人たち始まった。五人一緒に、右向け、左向け、廻れ右、すす も、なかなか頭がいいと思った。これなら、あとで答案をめ、駈足、とまれ、それからラジオ体操みたいなものをや いちいち調べる手数もはぶけるし、時間の経済にもなるって、最後に自分の姓名を順々に大声で報告して、終り。 し、くだらない事を書いてあった場合には朗読も、しどろ簡単なる体操、と手紙には書いてあったが、そんなに簡単 もどろになって、その文章の欠点も、いよいよ ( ッキリしでもなかった。ちょっと疲れたくらいだった。控室へ帰っ て来るであろうし、これには一本、やられた形だった。けてみると、控室には一列に食卓が並べられていて、受験生 てんどん れども気を取り直して、ゆっくり、悪びれずに読んだ。声たちは・ほっ・ほっ食事をはじめていた。天丼である。おそば やの小僧さんのようなひとが二人、れいの番頭さんに指図 には少しも抑揚をつけず、自然の調子で読んだ。 どんぶり 「よろしゅうございます。その答案は置いて行って、どうされて、あちこち歩きまわってお茶をいれたり、丼を持ち 運んだりしている。ずいぶん暑い。僕は汗をだらだら流し そ控室でお待ちになっていて下さい。」 僕はびよこんとお辞儀をして廊下に出た。背中に汗をびて天丼をたべた。どうしても全部たべ切れなかった。 っしよりかいているのを、その時はじめて気がついた。控最後は口頭試問であった。番頭さんに一人ずつ呼ばれ と室に帰って、部屋の壁によりかかってあぐらを掻き、三十て、連れられて行く。口頭試問の部屋は、さっきの朗読の 正分くらい待っているうちに、僕と同じ組の四人の受験生も部屋であ 0 た。けれども部屋の中の雰囲気は、す 0 かり違 っていた。ごたごた、ひどくちらかっていた。大きい一一つ 順々に帰って来た。みんなそろった時に、また番頭さんが の食卓は、びったりくつつけられて、文芸部とか企画部と 迎えに来て、こんどは体操だ。風呂場の脱衣場みたいな、 がらんと広い板敷の部屋に通された。なんという俳優か名か、いずれそんなところの人たちであろう、髪を長くのば
大きいお屋敷である。玄関で靴を脱いでいたら、角帯をき立ち上り、廊下に出て、庭を眺めた。料理屋か、旅館の感 ちんとしめた番頭さんのような若い人が出て来て、どうそじである。庭もなかなか広い。かすかに電車の音が聞え と小声で言ってスリツ・ハを直してくれた。おだやかな感じる。じりじり暑い。三十分くらい待たされて、こんど呼ば である。まるで、お客様あっかいである。控室は二十畳敷れた名前の中には、僕の名もはいっていた。れいの番頭さ くらいの広く明るい日本間で、もう七、八人、受験生が来んに引率されて僕たち五人は薄暗い廊下を二曲りもして、 ていた。みな、ひどく若い。まるで子供である。十六歳か風通しのよい洋室に案内された。 ら二十歳という制限だった筈だが、その七、八人のひと達「やあ、いらっしゃい。」背広を着たとても美しい顔の青 は、ちょっと見たところ、まるで十三、四の坊やだ。髪を年が、あいそよくたちを迎えた。「筆記試験をさせてい おかつばにしている者もあり、赤いポヘミアンネクタイをただきます。」 している者もあり、派手な模様の和服を着流している者も僕たちは中央の大きいテエプルのまわりに坐って、その あり、どうも芸者の子か何かのような感じの少年ばかりだ。美しい青年から原稿用紙を三枚ずつ貰い、筆記にとりかか 僕は、てれくさかった。さっきの番頭さんみたいな人が、 というのである。感想でも、日 った。何を書いてもいし おせん・ヘいとお茶を持って来て僕にすすめて、「しばらく記でも、詩でも、なんでもいい、但し、多少でも春秋座と い、ハイネの恋愛詩などを、 お待ち下さいまし。」と言う。恐縮するばかりである。ぼ関係のある事を書いて下さ まふっと思い出してそのまんまお書きになっては困りま っ・ほっ受験生が集まって来る。二十歳くらいのひとも三、 四人来た。けれども、みんな背広か和服だ。学生服は、つす、時間は三十分、原稿用紙一枚以上二枚以内でまとめて いに僕ひとりであった。あんまり利巧そうでない顔ばかり下さい、という事であった。 だったが、でも、鷦座のように陰鬱な感じはなかった。人僕は自己紹介から書きはじめて、春秋座の「雁」を見て 生の廃残者なんて感じはない。ただ、無心にき = ろきよろ感じた事を率直に書いた。き 0 ちり二枚にな 0 た。他の人 としている。二十人くらいになった頃、れいの番頭さんが出は、書いたり消したり、だ、ぶ苦心の態である。これで 正て来て、「どうもお待ちどおさまでした。お名前をお呼びも、履歴書や写真に依って、多くの志願者の中から選び出 致しますから。」と静かな口調で言って、五人の名前を呼された少数者なのだ。ずいぶん心細い選手たちである。け んで、「どうそこちらへ。」と別室へ案内して行った。僕のれども、こんな白痴みたいな人たちこそ、案外、演技のほ 名は呼ばれなかった。あとは、また、しんとなって、僕はうで天才的な才能を発揮するのかも知れない。あり得る事
ので、こちらも気楽に答える事が出来て、不愉快ではなか いないかも知れません。でも、僕はその人を、僕の生涯の った。最後に、 先生だと、きめてしまっているんです。僕はまだその人 「春秋座の、どこが気にいりましたか ? 」 と、たった一回しか話をした事がないんです。追いかけて 「べつに。」 行って自動車に一緒に乗せてもらったんです。」 「え ? 」試験官たちは、一斉にさっと緊張したようであっ いったい、どなたですか。どうやら劇団のおかたらしい みけん ですね。」 た。主任のひとも眉間にありありと不快の表情を示して、 「じゃ、なぜ春秋座へはいろうと思ったのですか ? 」 「それは、言いたくないんです。たったいちど、自動車に 「儺は、なんにも知らないんです。立派な劇団だとは、・ほ乗せてもらって話をしたきりなのに、もう、その人の名前 んやり思っていたのですけど。」 を利用するような事になると、さもしいみたいだから、 「ただ、まあ、ふらりと ? 」 ゃなんです。」 ) なず しいえ、僕は、役者にならなけりゃあ、他に、行くとこ 「わかりました。」主任は、まじめに首肯いて、「それで ? ろが無かったんです。それで、困って、或る人に相談したその人が、春秋座、と書いて下さったので、まっすぐにこ ら、その人は、紙に、春秋座と書いてくれたんです。」 っちへ飛び込んで来たというわけですね ? 」 「紙に、ですか ? 」 「そうです。ただ春秋座へはいれって言ったって無理で こ行った時は風す、と僕はその時に女中さんに不平を言ったんです。する 「その人はなんだか変なのです。僕が相談冫 ふすま 邪気味だとかいって逢ってくれなかったのです。だから僕と、襖の蔭から、ひとりでやれつ ! と怒鳴ったんです。 は玄関で、 いい劇団を教えて下さいって用箋に書いて、女先生が襖の蔭に立って聞いていたんです。だから、僕は、 中さんだか秘書だか、とてもよく笑う女のひとにそれを手びつくりして、 笑渡して取りついでもらったんです。すると、その女のひと若い二人の試験官たちは声をたてて笑った。けれども、 とが奥から返事の紙を持って来たんです。けれども、その紙主任のひとはそんなに笑わず、 「痛快な先生ですね。斎藤先生でしよう ? 」と事もなげに 正には、春秋座、と三字書かれていただけなんです。」 言った。 「どなたですか、それは ? 」主任は眼を丸くして尋ねた。 「僕の先生です。でも、それは、僕がひとりで勝手にそう「それは言われないんです。」僕も笑いながら、「僕がもっ 思い込んでいるので、向うでは僕なんかを全然問題にしてと偉くなってから、教えます。」
一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来 たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人 格がつくられると、ルソオだか誰だか言っていたそうだ が、或いは、そんなものかも知れない。僕も、すでに十六 歳である。十六になったら、僕という人間は、カタリとい う音をたてて変ってしまった。他の人には、気が付くま 。謂わば、形而上の変化なのだから。じっさい、十六に なったら、山も、海も、花も、街の人も、青空も、まるつ きり違って見えて来たのだ。悪の存在も、ちょっとわかっ た。この世には、困難な問題が、実に、おびただしく在る のだという事も、・ほんやり予感出来るようになったのだ。 だから僕は、このごろ毎日、不機嫌なんだ。ひどく怒りつ ぼくなった。智慧の実を食・ヘると、人間は、笑いを失うも のらしい。以前は、お茶目で、わざと間抜けた失敗なんか して見せて家中の人たちを笑わせて得意だったのだが、こ のごろ、そんな、と・ほけたお道化が、ひどく馬鹿らしくな って来た。お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お 四月十六日。金曜日。 道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらな 。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬ 笑すごい風だ。東京の春は、からっ風が強くて不愉快だ。 こり 微埃が部屋の中にまで襲来し、机の上はざらざら、頬べたもものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりして は、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力 義埃だらけ、いやな気持だ。これを書き終えたら、風呂へは いろう。背中にまで埃が忍び込んでいるような気持で、やすべきものである。このごろ、僕の表情は、異様に深刻ら り切れない。 しい。深刻すぎて、とうとう昨夜、兄さんから忠告を受け 僕は、きようから日記をつける。このごろの自分の一日た。 正義と微笑 わがあしかよわく のぼりがたくとも たのしきしらべに ききていさみたっ けわしき山路 ふもとにありて たえずうたわば ひとこそあらめ さんびか第百五十九 やまじ
168 して顔色のよくないひとばかり三人、上衣を脱いでくつろた。 いだ姿勢で食卓に肘をつき、食卓の上には、たくさんの書「それは大丈夫です。兄さんは、とても頑張りますから。」 類が雑然とちらかっている。飲みかけのアイスコーヒーの「頑張りますか。」ほがらかそうに笑った。他の二人のひ グラスもある。 とたちも、顔を見合せてにこにこ笑った。 「お坐りなさい。あぐら、あぐら。」と一ばんの年長者ら「ファウストをお読みになったのですね ? あなたがひと りで選んだのですか ? 」 しい人が僕に座蒲団をすすめる。 しいえ、兄さんにも相談しました。」 「芹川さんでしたね。」と言って、卓上の書類の中から、 「それじゃ、兄さんが選んで下さったのですね ? 」 僕の履歴書や写真などを選び出して、 しいえ、兄さんと相談しても、なかなかきまらないの 「大学は、つづけておやりになるつもりですか ? 」まさ「、 かくしん で、僕がひとりで、きめてしまったのです。」 に、核心をついた質問だった。僕の悩みも、それなんだ。 手きびしいと思った。 「失礼ですけど、ファウストが、よくわかりますか ? 」 「考え中です。」ありのままを答える。 「ちっともわかりません。でも、あれには大事な思い出が あるんです。」 「両方は無理ですよ。」追撃急である。 「それは、」僕は小さい溜息をついた。「採用されてから、」「そうですか。」また笑い出した。「思い出があるんです 言葉がとぎれた。 か。」柔和な眼で僕の顔を見つめて、「スポーツは何をおや 「そりやまあ、そうですが。」相手は敏感に察して笑い出りです ? 」 した。「まだ採用と、きまっているわけでもないのですも「中学時代に蹴球を少しやりました。いまは、よしていま のね。愚問だったかな ? 失礼ですが、兄さんは、まだおすけど。」 「選手でしたか ? 」 若いようですね。」どうも痛い。からめ手から来られては、 かなわない。 それからそれと、とてもこまかい所まで尋ねる。お母さ 「はあ、二十六です。」 んが病気だと言ったら、その病状まで熱心に尋ねる。ちか 「兄さんおひとりの承諾で大丈夫でしようか。」本当に心い親戚には、どんな人がいるのか、とか、兄さんの後見人 とでもいうような人がいるのか、とか、家庭の状態に就い 配そうな口調である。この口頭試問の主任みたいな人は、 よっぽど世の中の苦労をして来た人に違いないと僕は思っての質問が一ばん多かった。でも自然にすらすらと尋ねる ひじ
昭和二十一一年、三鷹の書斎で 太宰自詠 了いⅣ。考、ん 太宰の戯画 日本海に面した小さな漁村、その村の小学校の裏手で、 戦争末期にもかかわらす、「昔と少しも変らぬ悲しい ほど美しく賑かな祭礼」をくりひろげている運動会、 それらを背景として、太宰はたけに再会するのだ か、このあたりから終りまでは、なんどよみかえして もあきない部分である。末尾において、太宰の自己確 認を描いたりんとした節もみごとである : 私は、たけの、そのように強くて不遠慮な愛情 のあらわし方に接して、あ、私は、たけに似ている のだとった。きようだい中で、私ひとり、粗野で、 がらつばちのところがあるのは、この悲しい育ての親 の影響だった事に気付いた。人は、この時はじめて、 私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断して、 上品な育ちの男ではない。どうりで、金持の子供らし くないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青 森に於ける君であり、五所川原にける中畑さんで あり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於け るたけである。アヤは現在も私の家に仕えているか、 他の人たぢも、そのむかし一度は、私の家にいた事が ある人だ。私は、これらの人と友である」 475
くよかなものが何も無くなっていた。おどろいた。あれは身が、あんな顔では、ずいぶん苦しい事だってあるだろう お嫁に行ってから十日と経たない頃の事であったが、手のと思う。実際、顔を合せると、こちらまで人生がいやにな 甲がひどく汚くなっていた。それから、いやに抜け目がなるくらいなのだ。本当に、ひどいのだ。あの人は、これか く、利己的にさえなっていた。姉さんは隠そうと努めていらの永い人生に於いても、その先天的なもののために、幾 たが、僕には、ちゃんとわかったのだ。いまではもう全度か人に指さされ、かげ口を言われ、敬遠せられる事だろ く、鈴岡の人だ。顔まで鈴岡さんに似て来たようだ。顔とう。僕はそれを考えると、現代の社会機構に対して懐疑的 いえば、僕は俊雄君の顔を考えるたびに、しどろもどろにになり、この世が恨めしくなって来るのだ。世の中の人々 なるのである。俊雄君は、鈴岡さんの実弟だ。去年、田舎の冷酷な気持が、いやになる。おのずから義憤も感ずる。 の中学を出て、いまは姉さんたちと同居して慶応の文科に俊雄君が、将来それ相当の職業について、食うに困らぬく かよっているのだ。こんな事を言っちゃ悪いけれど、このらいの生活が出来たら、それは実に好もしく祝福すべき事 ぶおとこ 俊雄君は、僕が今までに見た事もない醜男なのだ。実に、 だ。けれども結婚の場合は、どうだろう。これはと思う婦 ひどいんだ。僕だって、ちっとも美しくないし、また、ひ人があっても、自分の醜い顔のために結婚できなかった時 には、どんなに悲惨な思いをするだろう。大声で、うめく との顔の事は本当に言いたくないのだが、俊雄君の顔は、 あまりにもひどいので、僕は、しどろもどろになってしまだろう。ああ、俊雄君の事を考えると憂鬱だ。心の底から 同情はしているけれど、どうも、いやだ。ひどいんだ。何 うのだ。鼻がどうの、ロがどうのというのではないのだ。 全体が、どうも、ばらばらなのだ。ュウモラスなところもも形容が出来ないのである。なるべく見たくないのだ。僕 無い。僕はあの人と顔を合せると、いつでも奇妙に考え込にもやつばり、世の中の人と同じ様な、冷酷で、いい気な んでしまう。一万人に一人というところなのだ。こんな言ものがあるのかも知れない。考えれば考えるほど、しどろ 笑いかたは、僕自身も不愉快だし、言ってはいけない事なんもどろになってしまう。僕は、去年からまだ下谷の家に だが、どうも事実だから致しかたが無い。あんな顔は、僕は、二度しか行っていないのだ。姉さんには逢いたいけれ 義は生れてはじめて見た。男は顔なんて問題じゃない、精神ど、旦那さまの鈴岡氏は、また、えらく兄さん振って、僕 さえきよらかなら大丈夫、立派に社会生活ができるというの事を坊や、坊やと呼ぶんだから、かなわない。豪傑肌と 的事は、僕も堅く信じているが、俊雄君のように若くて、そでも言うんだろうが、「坊や」は言い過ぎであると思う。 うして慶応の文科のような華やかなところで勉強している十七にもなって、「坊や」と呼ばれて、「はい」なんて返事
261 津軽 ある。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方 の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目 があるのだ、世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人 の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこの たびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。ど の部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿 を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽 風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っ ているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。