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検索対象: 現代日本の文学 31 太宰治集
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1. 現代日本の文学 31 太宰治集

立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到 天保六年 大凶 れども積雪消えず農家にて雪舟用いたり。五月に到り苗の 大凶 天保七年 成長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に 凶 天保八年 竟に其儘植付けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹 天保九年 大凶 ぎ募り、六月土用に入りても密雲幕々として天候朦々晴天 凶 天保十年 白日を見る事殆ど稀なり、 ( 中略 ) 毎日朝夕の冷気強く六 慶応一一年 ねふた 月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月佞武多 凶 明治一一年 明治六年 ( 祚者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形など の極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざ 明治一一十二年凶 ま扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一 明治一一十四年凶 つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂 明治三十年 明治三十五年大凶 上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このような大燈籠を見せびら 明治三十八年大凶 かして山中の蝦夷をおびき寄せ之をせし遺風なりとの 大正一一年 説あれども、なお信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地に 凶 昭和六年 これと似たる風俗あり。東京の夏祭りの山車と思わば大過 凶 昭和九年 なからん歟。 ) の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、 いささ 凶 昭和十年 家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを 昭和十五年半凶 要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざ盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂あり 軽 るを得ないだろう。大阪夏の陣、豊臣氏減亡の元和元年よし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五 あたか 日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十 津り現在まで約三百 = 一十年の間に、約六十回の凶作があった のである。まず五年に一度ずつ凶作に見舞われているとい 七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に う勘定になるのである。さらにまた、 z 君は・べつな本をひ及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往 ていきゅう らいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、来老若之を見る者涕泣充満たり。」という、あわれと言う

2. 現代日本の文学 31 太宰治集

斜陽 太 ~ 幸治 4 初版本 如是我聞 刊 の 昭 徨一 昭和 18 年刊 社版 昭和 22 年刊 太宰治 昭和二十三年刊 太宰、著 昭和十一一年刊 新潮社版 の転機でそうなったろう、私は生きなければならぬと 思い」始めたのは、昭和十三年のころからである。ふ つう太宰文学の中期とよばれる安定した時期である この時期にいたるまでの太宰の錯乱にみちた東京生 活を描いたものが「東京八景」 ( 昭和十六年一月 ) で あり、この時期の太宰を知るための重要な作品とされ る。文章はかってのぎらぎらするような異様さを・失 むしろ沈痛な抑制があらわれている。「おまえは、 もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男で けつべっ ある。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞とし て、誰にも媚びずに書きたかった」 「こんどは、遺書 として書くのではなかった。生きて行く為に書いたの そんな言葉にも示されるように、太宰は「営々 と、小市民生活の修養し、けちな世渡り」 ( 「八十八夜」 ) に入ろうとする。そうした心境に到達するまでの事実 的経過が、この作品に淡々と記録されている このいわゆる第二期の代表的短篇と見られるのが、 「富嶽百景」 ( 昭和十四年二、三月 ) である。 これは富士を背景とする心象風景の軽妙なスケッチ とい、フべき作品であるが、その中にはそしらぬかおで ューモラスなうそが含まれていたりして ( たとえば、 「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり はうひ 煙草を吸いながら、放屁なされた」云々の部分は井伏

3. 現代日本の文学 31 太宰治集

「パンドラの匣」の映画化に際し、女優関千恵子と みサえ生 太宰の戯画 昭和 22 年秋、銀座ルバ ンで ( 林忠彦撮影 ) 昭和 22 年冬、上野の浮浪児と 473

4. 現代日本の文学 31 太宰治集

下山、甲府市西竪町寿館に下宿す。 表。七月、最初の書下ろし長篇『新ハムレット』が文藝春秋社より 昭和十四年 ( 一九三九 ) 三十歳刊行された。八月、十年ぶりに郷里金木町に帰る。同月、『千代女』 一月八日、井伏夫妻の媒酌で結婚式をあげ、甲府市御崎町に新居をを筑摩書房より刊行。十一月、文士徴用を受けたが、胸部疾患のた 構えた。二月、「 I can speak 」を「若草」に、「富嶽百景」を「文め免除された。十二月、限定版『駈込み訴え』を月曜荘より刊行。 かるた 三十三歳 体」に発表。四月、「女生徒」を「文学界」に、「懶惰の歌留多」を昭和十七年 ( 一九四一 l) 「文芸」に発表。五月、書下ろし創作集『愛と美について』を竹村一月、「恥」を「婦人画報」に、「新郎」を「新潮」に発表。一一月中 書房より刊行。七月、『女生徒』を砂子屋書房より刊行。八月、「八旬から甲府市外湯村温泉に滞在して「正義と徴笑」を執筆。三月十 十八夜」を「新潮」に、「畜犬談」を「文学者」に発表。九月一日、 日より二十日まで武州御嶽に滞在して、残りを完成した。四月、 東京府下三鷹下連雀に移る。十一月、「おしゃれ童子」を「婦人画『風の便り』を利根書房より刊行。五月、『老ハイデルベルヒ』を 報」に、「デカダン抗議」を「文芸世紀」に、「皮膚と心」を「文学竹村書房より刊行。六月、書下ろし長篇『正義と微笑』を錦城出版 界」に発表。秋、『女生徒』で第四回北村透谷賞を受けた。 社より、『女性』を博文館より刊行。このころからしばしば軍事教 昭和十五年 ( 一九四 0 ) 三十一歳練にかり出される。七月、「小さいアル・ハム」を「新潮」に発表。 あはうどり 一月、「朗」を「知性」に、「俗天使」を「新潮」に、「兄たち」を十一月、文藻集『信天翁』を昭南書房より刊行、「帰去来」を「八 「婦人画報」に、「春の盗賊」を「文芸日本」に発表。また、「月刊雲」に発表。十二月十日、生母たね死去。享年六十九歳。 文章」に「女の決闘」の連載を始める ( 六月完結 ) 。一一月、「駈込み昭和十八年 ( 一九四三 ) 三十四歳 訴え」を「中央公論」に、三月、「老ハイデル・ヘルヒ」を「婦人画一月、「故郷」を「新潮」に発表。『富嶽百景』 ( 昭和名作選集 ) を 報」に発表。四月、『皮膚と心』を竹村書房より刊行。五月、「走れ新潮社より刊行。三月、甲府に赴き、石原家 ( 夫人の実家 ) および メロス」を「新潮」に発表。『女の決闘』を河出書房より、「思い 湯村温泉に滞在して、長篇「右大臣実朝」を完成。四月、「鉄面皮」 出』を人文書院より刊行。七月、伊豆湯ケ野に滞在して「東京百を「文学界 , に発表。九月、『右大臣実朝』を錦城出版社より刊行。 景」を執筆。同月、「乞食学生」を「若草」に連載 ( 十一一月完結 ) 。 三十五歳 昭和十九年 ( 一九四四 ) 十一月、「きりぎりす」を「新潮」に、十二月、「ろまん燈籠」を一月、「佳日」を「改造」に発表。三月、「散華」を「新若人」に発 譜「婦人画報」に連載 ( 翌年六月完結 ) 。 表。五月から六月にかけて「津軽」執筆のため郷里津軽地方一帯を 昭和十六年 ( 一九四一 ) 三十一一歳旅行する。七月、「津軽」完成。八月十日、長男正樹生まれる。同 年一月、「清貧譚」を「新潮」に、「みみずく通信」を「知性」に、 月、『佳日』を肇書房より刊行。十一月、『津軽』 ( 新風土記叢書 ) 「佐渡」を「公論」に、「東京八景」を「文学界」に発表。五月、を小山書店より刊行。一月から十一月にかけて、「新釈諸国噺」を 『東京八景』を実業之日本社より刊行。六月七日、長女園子生まれ執筆、各誌に分載発表した。 る。同月、「千代女」を「改造」に、「令嬢アユ」を「新女苑」に発昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 三十六歳 にしたっ アルト らんだ アルト

5. 現代日本の文学 31 太宰治集

昭和 15 年、三鷹の自宅付近で 昭和 15 年、伊豆熱川温泉で井 伏鱒二 ( 左 ) 、小山祐士と , イ 家から除籍されたのち十日目に、彼が江の島で最初の 心中をこころみたことについて、その前後のことを素 材とした作品東京八景」には「私には、すべての肉 親を離れてしまった事が一ばん、つらかった。との あき 事で、母にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまった という自覚が、私の投身の最も直接な一因であった」 と書かれている。こうした処置の指示者は津島家の格 式と伝統を身をもって象徴した長兄にほかならなかっ た。この長兄について、太宰は生涯一言も非難めいた ことはいっていない。むしろその人がらへの一定の愛 着、畏敬の心持をあらわした小品も少なくない。長兄 自身の苦悩や孤独をも理解していたと思われる。しか し、ともあれその末弟に対する措置は潔癖、厳格な旧 家の遺風を示していささかのゆるみもないものであっ た。約束された送金は、その後十数年、昭和二十年七 月、太宰が甲府で戦災にあい、津軽に還るまで一度の くるいもなくつづけられたばかりか、「二十一年十一 月、東京へ転入するとき、長兄から一箇月分の金を渡 されて、太宰君はきまり悪げにそれを返したそうであ る」という井伏鱒二の回想からもわかるように、太宰 に対するほとんど不気味というべき家父長制的監督の 原理はみしんもゆらがなかった。太宰は、そうした伝 統の支配に対する憎しみと、反面ではそれへの郷愁と

6. 現代日本の文学 31 太宰治集

二十三歳よって、その後中毒症に悩む。七月、千葉県船橋町に移る。その間、 昭和七年 ( 一九三一 l) 春、淀橋柏木、日本橋八丁堀にと住居を転々した。七月、青森警察五月、「道化の華」を「日本浪曼派」に、七月、「玩具」「雀こ」を 署に自首し、非合法運動から離脱した。八月、初代と共に沼津市に「作品」に発表。八月、「逆行」と「道化の華」が第一回の芥川賞 そうぼう 約一か月滞在、この頃から「思い出」を書き始める。九月、芝白金候補に推されたが、石川達三の「蒼氓」が当選し、次席にとどまっ 三光町のもと大鳥圭介邸に移る。やがて同郷の先輩飛島定城が同居た。同月、佐藤春夫を訪問、以後師事する。九月、「猿ヶ島」を「文 した。このころ、黒虫俊平の筆名で「ねこ」という小品を書いた。学界」に、十月、「ダス・ゲマイネ」を「文藝春秋」に、十一月、 一一十四歳「盗賊」 ( 「逆行」の一部 ) を「帝大新聞」に、十一一月、「地球図」 昭和八年 ( 一九三 = l) 一一月、飛島家と共に杉並区天沼三丁目に移転。同月、「東奥日報」を「新潮」に発表。秋から田中英光と文通を始める。 一一十七歳 の日曜付録「サンデー東奥」に、初めて太宰治の筆名で「列車」を昭和十一年 ( 一九三六 ) 発表。木山捷平、新圧嘉章、今官一、古谷綱武などの同人雑誌「海一月、「めくら草紙」を「新潮」に発表。四月、「陰火」を「文芸雑 豹」に加わり、三月、創刊号に「魚服記」を、四、六、七月号に誌」に、五月、「雌について」を「若草」に発表。六月、処女創作 「思い出」を発表。古谷綱武の紹介で檀一雄と知り、井伏鱒二の家集『晩年』を砂子屋書房より刊行。七月、「虚構の春」を「文学界」 で中村地平、伊馬鵜平 ( 春部 ) などと知り合う。五月、飛農家と共に、十月、「創生記」を「新潮」に、「喝采」を「若草」に発表。十 ビナール中毒症を根治のため、板橋江古田の武蔵野病 月十三日、パ に天沼一丁目に移る。 二十五歳院に入院、一か月で退院した。「 Z »-ä 0 e 」を書き始 昭和九年 ( 一九三四 ) 四月、古谷綱武、檀一雄編集の季刊同人雑誌「鷭」の第一輯に「葉」める。十一月、杉並区天沼の碧雲荘に移る。単身熱海温泉に行き、 を、七月、第一一輯に「猿面冠者」を発表。十月、同人雑誌「世紀」約一か月滞在して「二十世紀手」を脱稿。 二十八歳 に「彼は昔の彼ならず」を発表。十二月、今官一、伊馬鵜平、檀一昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 雄、木山捷平などと同人雑誌「青い花」を創刊、「ロマネスク」を一月、「二十世紀旗手」を「改造」に発表。三月、小山初代と水上 発表。翌十年三月、佐藤春夫、萩原朔太郎、亀井勝一郎、保田与重温泉に行き、カルモチンによる自殺を図ったが果さなかった。帰京 後離別。四月、「 Z •-ä 0 」を「新潮」に発表。六月、 郎、などの「日本浪曼派」と合流した。 一一十六歳『虚構の彷徨』を新潮社より刊行。同月、天沼一丁目鎌滝方に移 昭和十年 ( 一九三五 ) 二月、「蝶蝶」「決闘」「くろん・ほ」 ( 「逆行」の一部 ) を「文芸」にる。七月、『二十世紀旗手』を版画荘より刊行。 一一十九歳 発表。三月、都新聞社に入社試験を受けて落第。同月十六日、鎌倉昭和十三年 ( 一九三八 ) うばすて 八幡宮近くの山中で縊死を企てて失敗、十七日深夜帰宅した。四九月、「姥捨」を「新潮」に、「満願」を「文筆ーに発表。同月、鎌 月、盲腸炎から腹膜炎を併発し、阿佐ヶ谷の篠原病院、後に世田谷滝方を引ぎ払い、井伏鱒一一が滞在していた山梨県河口村御坂峠の天 の経堂病院に入院。この期間中に鎮痛薬として用いた・ ( ビナールに下茶屋に行く。十一月六日、甲府市の石原美知子と婚約し、十六日 : ん

7. 現代日本の文学 31 太宰治集

、冫 太宰治とほば同し頃に文壇にあらわれた作家高見順 について、「高見順の時代という時代があったといっ ても、けっして不当ではない」と述べた中島健蔵の言 葉はかなり有名である。それは、いわゆる「昭和十年 代」の書き手たちの思想や心理の混沌を高見がみごと に表現し、よく時代の声となりえたことを言ったもの であるが、この形容はまた、太宰の場合にもそのまま 「太宰治とい あてはまるものであったかもしれない。 っ時代」が同し昭和十年代のどこかにあったことはた しかであり、或は今もなおそれは続いているかもしれ ないのである 宰太宰の作品が初めて世にあらわれたころの読者の受 のけとめ方について、武田泰淳が次のように語っている 年「あの当時の文学青年というのは、太宰が出て来たら 〈あ ! 〉といって注目をして、一冊出るごとにこれに 評伝的解説 橋川文

8. 現代日本の文学 31 太宰治集

179 正義と徴笑 「正義と微笑」あとがき 「正義と徴笑」は、青年歌舞伎俳優君の、少年時代の日記帳を 読ませていただき、それに依って得た作者の幻想を、自由に書き 綴った小説である。大と言い、朗座と言い、春秋座と言うも、 1 ~ いこら・ すべて作者の机上空想の産物に過ぎない。これは乃公たちの事を 書いたのだ、けしからぬ等と作者に苦情を申し込んでは、かえっ て恥をおかぎになるかも知れない。 なお e 君の日記は、昭和十年頃のものらしく、従ってこの「正 義と微笑」の背景も、その頃の日本だという事も、お断りして置 きたい。 e 君は、、 しま、ますます元気に諸方の舞台に活躍してい る様子である。 昨年の秋、作者は軍の徴用を受けたが、左胸部のわずかな故障 のため帰宅を命ぜられ、軍医からも静養をすすめられたけれど、 作者は少しも静養しなかった。職域奉公。かえって大いに仕事を した。 作者のからだは、仕事をすればする程、丈夫になるらしい。 昭和十七年陽春

9. 現代日本の文学 31 太宰治集

和 五 東 商 大 で 講 演 中 の 宰 昭和 15 年 4 月、四万温泉で 四万温泉で井伏鱒二と そうした宿命的な感受性をもった太宰が、「もう、 これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたか ら、題も「晩年』として置いたのです」と書いている ように、その第一創作集「晩年」は、それまでに書き ためられたさまざまな短篇を遺著のつもりで集成した ものであった。それは、昭和十一年六月、彼の第一創 作集として刊行されたが、そこに収められた十四篇の 小説は「生涯の情熱を、すべてこの一篇に収め得たぞ、 ためいき と、ほっと溜息」 ( 「二十世紀旗手」 ) という形容でも知 られるように、これまでに述べた太宰の感受性のすべ てをくりひろげて見せたものでもあった。そこにはそ の才能と技法の多彩さが万華鏡のようなきらめきを見 せており、 「太宰文学のさまざまな可能性の見本市の 感がある」とされたものであった。 この作品集の中心をなすものが「思い出」である。 これは、表題どおりに素直な幼少年期の回想をつづっ た作品であるが、これは「晩年」の中において見ても、 の間にたえす引きさかれていた。「帰去来」故郷」 などは後者の契機がほのかに生かされた和解の作品と 、もい、えよ、フ

10. 現代日本の文学 31 太宰治集

昭和ニ年 ( 一九二七 ) 十八歳 四月、青森中学四年 ( 当時五年制 ) を終え、弘前高等学校文科甲類 ( 英語 ) に入学。九月、森市の芸妓小山初代を知る。 十九歳 昭和三年 ( 一九二八 ) 五月、同人雑誌「細胞文芸」を主宰し、「無間奈落」を辻島衆一一の 筆名で発表 ( この小説は未完に終わった ) 。七月、文科乙類 ( ドイ ツ語 ) にいた石上玄一郎が同人に参加した。 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 小なぎ 二十歳 六月十九日、青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山四一四番地に昭和四年 ( 一九一一九 ) 生まれた。本名、津島修治。父は源右衛門、母はたね。文治、英治、一月五日、弟礼治死去。享年十七歳。二月、「弘高新聞」第五号に りんうち 「鈴打」を、四月、青森の文芸雑誌「猟騎兵」に「虎徹宵話」を、 圭治の三兄 ( 長男総一郎、次男謹三郎は夭折 ) 、たま、とし、あい あわれが きゃうの四姉があり、修治は六男であった ( 後に三歳下の弟礼治が五月、「弘高新聞」第六号に「哀蚊」を、九月、「弘高新聞」第八号 やまげん 生まれたが十七歳で死去 ) 。津島家は通称〈源といい、県下有数の大に「花火」を共に小菅銀吉の筆名で発表。十二月十日夜半、思想的 地主であり、父は衆議院議只貴族院議員を歴任して、地方の名士な苦悶からカルモチン自殺を図った。 二十一歳 として活躍した。三歳から八歳まで越野たけに育てられ、また同居昭和五年 ( 一九三〇 ) していた叔母きゑに可愛がられた。小学校に入るころ、きゑは同郡青森地方の主な同人雑誌を集めて創刊された文芸雑誌「座標」に 「地主一代」、「学生群」を共に連載、大藤熊太の筆名で発表した 五所川原町に分家した。 七歳が、いずれも未完に終わった。三月、弘前高等学校を卒業。四月、 大正五年 ( 一九一六 ) 東京帝国大学文学部仏文科に入学、戸塚町諏訪町に下宿した。井伏 金木尋常小学校に入学。六年間首席で通した。 十三歳鱒二に初めて会い、以後長く師事した。このころ共産党の非合法運 大正十一年 ( 一九二一 l) 小学校を卒業。学力補充のため、金木町 ( 大正九年町制施行 ) の明動に従事する。六月一一十一日、三兄圭治死去。享年一一十七歳。秋、 弘高時代からの愛人小山初代が家出、上京した。長兄文治が上京 治高等小学校に一年間通学した。首席。 十四歳し、将来の結婚を約して一時初代を帰郷させた。十一月二十九日、 大正十ニ年 ( 一九二 = l) こるぎ 三月四日、父源右衛門 ( 貴族院議員 ) 、東京市において死去。享年銀座のカフェの女給田部シメ子と鎌倉七ケ浜小動崎に入水。女は 死に、ひとり鎌倉恵風園に収容された。 年五十一一歳。四月、県立青森中学校に入学。 二十一一歳 昭和六年 ( 一九三一 ) 十六歳 大正十四年 ( 一九二五 ) このころから、ひそかに作家を志望し、夏、同人雑誌「星座」を発二月、小山初代と同棲し、品川五反田に住む。のち、神田同朋町、 しんきろう 行。十一月、同人雑誌「蜃気楼」を創刊、小説、エッセイを発表。神田和泉町に移る。非合法運動をつづける。 日